医務室を出ると、廊下の窓はまだ明るかった。
夕方と呼ぶには、少し早い明るさだった。
コハル「ミカ先輩、遅い」
ミカ「待ってなくてよかったのに」
コハル「六つ目の項目、決めたの私だから」
コハルは扉の横の壁から背中を離した。
ずっとそこに立っていたらしい。
肩のあたりに、壁の冷たさが移っていた。
渡り廊下の途中で、ヒナに呼び止められた。
ヒナ「明るいうちに、北を見ておきたいの」
ミカ「灯台?」
ヒナ「昨日は扉を開けただけで終わってる。中を見た人がいない」
ヒナ「それと、保管庫。扉の名前を、ちゃんと写しておきたいのよ」
ミカ「写して、どうするの」
ヒナ「分からない。分からないものは、形だけでも取っておく」
ミカ「それ、ナギちゃんの仕事じゃないの」
ヒナ「ええ。だから連れていくのよ」
組は食堂で決まった。
灯台へ、ミカとシロコとホシノとコハル。
保管庫へ、ヒナとユウカとナギサ。
収容棟の残りと食堂に、カヨコとハルカとアズサ、それにサオリとノア。
ユウカ「集合は十七時。早く戻った組は、食堂で待機してください」
ノア「行き先と、出発の時刻を書いておきますね」
ノア「戻ったときも、声をかけてください。時刻だけで結構ですから」
ミカは、出口の手前でサオリを見た。
この人は、椅子を動かさずに座っている。
ミカ「あなたは、残るんだ」
サオリ「見える場所にいた方がいい」
ミカ「誰にとって」
サオリ「全員にとってだ」
言い方は、いつも通り短かった。
言い訳をしない人間の短さは、聞く側にとって、たいてい不親切だった。
北の石畳は、途中から坂になっていた。
風が強い。
髪が横へ流れて、口の中に入った。
ホシノ「うへ~。……寒いねえ」
コハル「な、なんで灯台なんですか。暗いし、高いし、絶対なんかいるし」
ミカ「なんかって何」
コハル「なんか!」
シロコ「いない」
コハル「そういう断言が、いちばん怖いんだけど!」
シロコは少し前を歩いていた。
時々足を止めて、足元を見る。
朝、床を見ないようにすると言ったばかりの子が、また床を見ている。
必要だから見ている、という見方だった。
ミカは、それを止めなかった。
灯台の外壁を仰いだとき、上のほうの手すりに白いものが止まっていた。
鳥だった。首だけをこちらへ倒して、動かない。
コハル「い、いま、なにかいませんでした」
ミカ「……鳥だと思う」
もう一度見上げたときには、いなかった。
灯台の扉は、押すと重い音を立てて開いた。
中は、思ったより狭かった。
円い石の床。壁に沿って、螺旋の階段が上がっている。
窓は高い位置に一つだけで、光が斜めに落ちていた。
空気は乾いていて、埃の匂いがした。
階段の四段目に、銀色の線が走っている。
手首の輪と、同じ色だった。
ホシノ「触ると鳴るやつだねえ」
コハル「な、鳴るだけですか」
シロコ「船着き場のは、鳴っただけ」
コハル「試したの?」
シロコ「二段下りたら鳴った。三段目で戻った」
ホシノが階段へ足をかけた。
三段目までは、何も起きなかった。
四段目に爪先が届く手前で、ホシノの左手首が短く鳴った。
高くも低くもない音だった。
病院の機械が出すような音だ、とミカは思った。
ミカ「壊してみようか」
ホシノ「だめ」
ミカ「冗談だってば」
ホシノ「冗談でも、だめだよ」
返事が、思ったより速かった。
昨日ミカが壁に触れた結果を、この人は見ている。
シロコ「ん」
シロコが、床に膝をついていた。
シロコ「線がある」
コハル「わ、私たちの?」
シロコ「四本は、私たち」
シロコの指が、階段の下から扉の方へゆっくり動いた。
シロコ「……あと、一本」
シロコ「上から、降りてきてる」
誰も、すぐには返事をしなかった。
風が扉の隙間を鳴らした。
ミカ「上って、この階段の上?」
シロコ「うん。銀の線を、またいでる」
ホシノ「……またげるんだ」
シロコ「またいだ跡がある。私に言えるのは、そこまで」
シロコは指を床へ滑らせ、途中で止めた。
止めた場所を、二度なぞった。
シロコ「切れてる」
ミカ「切れてる?」
シロコ「ここまで来て、なくなってる」
シロコが示したのは、床の真ん中だった。
扉までは、まだ三歩ある。
何もない床の、何もない場所だった。
コハル「と、途中で消えたってこと。人が」
シロコ「跡が消えた。人のことは、分からない」
ミカ「その跡、いつのか分かる?」
シロコ「正確には無理」
シロコ「でも、古い線は薄い。厨房と、廊下で見た」
シロコ「これは、薄くない」
ホシノ「じゃあ、おじさんたちが来てからだねえ」
ミカは、埃の積もった床を見た。
足跡はなかった。
跡だけがあって、足跡がない。
温室の床と、同じ形の欠け方だった。
ミカ「ホシノちゃん。跡が途中で消えるのって、どういうとき?」
ホシノ「うーん。おじさんが知ってるのだと、拾われたときかなあ」
ホシノ「歩いてきた人が、途中から歩かなくなる。担がれるとか、乗せられるとか」
シロコ「担いだ人の跡も残る」
ホシノ「そうだねえ。残ってないなら、それも違う」
ホシノ「じゃあ、あとは……そこで、いなくなった場合」
コハル「い、言い方っ」
ホシノ「ごめんごめん」
ミカは、何もない床を見下ろした。
いなくなった、という言い方は、ずいぶん優しい方だった。
コハル「……上に、誰かいるの」
その質問に答えられる者は、四人のうちに一人もいなかった。
コハルが、両手で口を押さえた。
小さな音が、指の隙間から漏れた。
ミカが振り向くと、コハルはホシノを見ていた。
正確には、ホシノの少し後ろを。
ホシノ「うへ~。……出ちゃった?」
コハル「ご、ごめんなさい、見るつもりじゃ」
ホシノ「いいよ。何が見えるの」
コハル「言っていいんですか」
ホシノ「聞いてみたい気も、するしねえ」
コハルは、何度か口を開いて、閉じた。
コハル「……部屋、です」
コハル「机と椅子があって、窓もあって、明るいんですけど」
コハル「音が、ないんです」
コハル「誰もいなくて、これから誰も来ない感じの、静かさで」
風の音だけが続いた。
ホシノは帽子のつばを一度上げて、それから下ろした。
ホシノ「……当たってるかもね」
ミカ「ホシノちゃん」
ホシノ「怒ってないよ。ほんとに」
ホシノ「おじさん、静かなのが苦手なんだ。それだけ」
それだけで終わる話ではなかった。
誰も、その先を聞かなかった。
シロコ「私のは」
コハル「え」
シロコ「見えてる?」
コハル「……見えて、ます」
シロコ「言って」
コハル「で、でも」
シロコ「聞きたい」
コハルがミカを見た。
ミカは、首を振らなかった。
ミカ「シロコちゃんが、聞きたいって言ってるでしょ」
コハル「……背中、です」
コハル「人の背中が、遠くなっていくの」
コハル「シロコ先輩が走っても、追いつかない速さで」
シロコは、少しの間、何も言わなかった。
それから、隣のホシノの袖を掴んだ。
昨日の法廷と、同じ握り方だった。
シロコ「ん」
シロコ「……合ってる」
ホシノ「シロコちゃん」
シロコ「離さないでね」
ホシノ「うへ~。急に重い話だねえ」
シロコ「重くていい」
コハルの目が、次にミカへ向いた。
向く前に、ミカは口を開いていた。
ミカ「見ないで」
思っていたより、はっきり出た。
コハル「あ、」
ミカ「……ごめん。そういう意味じゃなくて」
ミカ「見せたくないから、見ないで」
コハル「……はい」
コハルは、すぐに目を伏せた。
伏せる速さが、慣れているように見えた。
その慣れ方が、ミカには引っかかった。
コハル「私、目を閉じても見えるんです」
コハル「今朝、ヒナ先輩に言われて閉じたけど、見えました」
コハル「顔を見なくても、そこにいるだけで、勝手に輪郭が出てくるの」
コハル「みんなの、いちばん柔らかいところが」
コハルは、自分の袖口を握っていた。
コハル「……見たくないのに、見えちゃう」
コハル「これって、覗いてるのと同じだよね」
コハル「みんなが隠してるものを、私、頼まれてもいないのに」
ミカ「コハルちゃん」
コハル「怖いのも嫌だけど、これが、いちばん嫌」
ミカは、何か言おうとして、詰まった。
役に立つと言ったのは、今朝の自分だ。
あの一言が、この子の背中に荷物をひとつ足したのかもしれなかった。
ミカ「あのさ。見えたものをさ」
ミカ「言うか言わないかは、コハルちゃんが決めていいよ」
コハル「……決めて、いいの」
ミカ「見えるのは止められないけど、言うのは止められるでしょ」
ミカ「私、それだけは、けっこう自信ある」
コハルは少しだけ笑って、それから泣きそうな顔をした。
どちらも途中でやめて、鼻を啜った。
ホシノ「そろそろ戻ろっか」
ホシノ「暗くなる前にね」
帰り道は、風が背中から吹いた。
収容棟の裏へ回ると、三人が扉の前に立っていた。
保管庫の扉は、外壁と同じ灰色をしている。
継ぎ目がどこにあるのか、近づいても分からなかった。
その面に、名前が縦に彫られていた。
十三。
順番は、法廷の椅子と同じだった。
棗イロハの名前も、そのままそこにある。
削られても、塗り潰されてもいなかった。
ミカ「ナギちゃん」
ナギサ「はい」
ミカ「イロハちゃんの名前、消さないんだね」
ナギサ「ええ」
ミカ「昨日、審査完了になったって言われたのに」
ナギサ「完了したから、残しているのかもしれません」
ナギサ「終わった帳簿を、わざわざ捨てる人はいませんから」
その言い方は、正確すぎた。
正確な言葉は、こういうとき、いちばん冷たく響く。
ナギサも、それが分かっている顔をしていた。
ナギサ「……すみません」
ミカ「ううん。合ってるし」
ミカは、彫られた四つの文字に触れなかった。
触ったら、指の形が溝に残る気がした。
ナギサ「写し終えました。位置と順番も、同じにしてあります」
ヒナ「戻ってきたのね。灯台は」
ミカ「あとで全部話す。ちょっと、多い」
ヒナ「分かった。じゃあ食堂で」
ユウカは、さっきから扉に指を当てていた。
同じ動きを、何度も繰り返している。
ユウカ「……空崎さん」
ヒナ「どうしたの」
ユウカ「この彫りの溝に、粉が溜まっています」
ユウカ「塩と、砂と、たぶん錆です。海が近いので、溜まるのは当然です」
ユウカ「十二の名前は、溜まっている量がほぼ同じでした。差はありますが、誤差の範囲です」
ユウカの指が、下から二つ目の名前へ滑った。
ユウカ「ここだけ、ほとんどありません」
ユウカ「生塩ノアの刻みだけ、彫りが新しいんです」
ミカは、身を寄せて覗き込んだ。
溝の底が、ほかより黒くない。
角が立っている。
新しい、という言葉が、そのまま形になっていた。
コハル「彫り直した、とか?」
ユウカ「あり得ます。間違えて彫れば、直します」
ナギサ「あるいは、最後に彫られたのかもしれません」
ナギサ「名簿の順に彫っていけば、最後の一人の溝が、いちばん新しくなります」
ユウカ「ですが、この順番は名簿順ではありません。法廷の席順です」
ユウカ「生塩ノアは、下から二番目です」
誰も、その先を言わなかった。
言えるだけの材料が、誰の手にもなかった。
ヒナ「早瀬ユウカ」
ユウカ「はい」
ヒナ「今の話に、意味をつけられる人はいる?」
風の音が、返事の代わりになった。
ヒナ「じゃあ、つけない」
ヒナ「意味の分からないものに意味をつけるのが、いちばん人を殺すのよ」
ナギサ「事実として記録します。『生塩さんの刻みだけ、彫りが新しい。理由は不明』」
ユウカ「それで結構です」
ユウカは指先の粉を払い、もう一度扉を見上げた。
ユウカ「この扉は、私たちが来る前からあります」
ユウカ「確かなのは、それだけです」
ミカは、覚えておくことにした。
理由はなかった。
昨日、サオリが植木棚に触れたときと、同じ覚え方だった。
食堂へ戻る道の途中に、風見鶏が立っている。
海を向いた、鉄の鳥。
風は、ミカの髪を横へ流し続けていた。
ミカ「ユウカちゃん」
ユウカ「はい」
ミカ「あれ、今日、何回動いた?」
ユウカは足を止めて、風見鶏を見上げた。
数える顔ではなかった。
答えがもうそこにある、という顔だった。
ユウカ「零です」
ユウカ「昨日から、一度も」
ミカ「……そっか」
ミカは、それ以上聞かなかった。
聞いたら、この島の何を疑えばいいのか、分からなくなる気がした。
食堂に全員が揃ったのは、十七時を少し過ぎた頃だった。
ノアが帰着の時刻を書き取り、ヒナが順に報告を求めた。
灯台の話をしたのは、シロコだった。
上から降りてきた跡があること。
途中で切れていること。
言い終えるまで、二分もかからなかった。
カヨコ「……外に誰かいる、ってことになるね」
アズサ「断定はできない。だが、可能性は上がった」
ハルカ「そ、それは、いい話ですか。悪い話ですか」
ホシノ「うへ~。難しいねえ」
ホシノ「でも、おじさんは少しだけ、ほっとしたかな」
ミカも、同じことを思っていた。
この中の誰かではない、という可能性が、卓の上に置かれた。
どれだけ軽いものでも、置かれれば、少し息がしやすくなる。
ノア「では、報告を記録に残しますね」
ノア「灯台の一階に、上階から降りてきた跡。途中で消失。時刻は不明」
ノア「保管庫の扉に、十三名の名前。彫りの新しさに差異あり。理由は不明」
ユウカ「理由は不明、まで入れてください」
ノア「入れてあります」
ノアの鉛筆は、途中で一度も止まらなかった。
聞いた順に、聞いた言葉のまま、紙の上へ移していく。
誰かの推測が混ざる余地が、その字の並びにはなかった。
カヨコ「……助かるよ。そういうの、うまく書けないから」
ノア「得意な方が珍しいですよ」
その息を、天井の拡声器が止めた。
ゴクチョー「死亡の告知です」
ゴクチョー「砂狼シロコさんが、亡くなりました」
誰も動かなかった。
シロコは、ミカの正面に座っていた。
水の椀を持ち上げたところだった。
椀が卓に戻る音だけが、やけにはっきり鳴った。
コハル「……え」
ゴクチョー「えー……三名以上の方が、現場でご確認になりましたので」
ホシノ「待って」
椅子が倒れた。
ミカは、この人がこんな速さで動くのを初めて見た。
ホシノの手が、シロコの手首を掴んでいた。
ホシノ「シロコちゃん」
シロコ「……いる」
シロコ「ここにいる」
ユウカ「誰が確認したんですか」
ゴクチョー「あのー……成立した、ということになっております」
ユウカ「はぐらかさないでください。誰が、どこで、いつです」
ゴクチョー「まあ……私が確認したとは、申し上げておりませんので」
ユウカの口が、一度だけ開いて、閉じた。
ゴクチョー「調査の時間は、設けません」
ゴクチョー「これより、魔女裁判を執り行います」
ユウカ「設けない」
ゴクチョー「囚人のみなさんは、礼拝堂の地下へ。足元に、お気をつけて」
ヒナ「……行くわよ」
ヒナ「ここで押し問答しても、こいつは減らない」
廊下の曲がり角に、人の形が二つ立っていた。
囚人服の残骸を肩に引っかけ、顔は見えない。
道を塞いではいない。ただ、階段の方へ行く側だけを空けていた。
ゴクチョー「看守さん。そのままで結構です」
人の形は、頷きもしなかった。
肩だけが、ゆっくり上下していた。
廊下へ出るとき、ミカの袖がずれた。
左手首の内側に、黒い線が五本あった。
朝は四本だった。
魔法は、一度も使っていない。
使わなくても増えるものらしい、とミカは思った。
思っただけで、直した袖から手を離した。
階段は、昨日と同じ長さのはずだった。
同じには感じなかった。
シロコは、自分の足で下りた。
誰にも支えられていなかった。
ホシノが、その袖を掴んでいた。
いつもと、逆だった。
円形の法廷に、十三の椅子が並んでいる。
背もたれの銀の帯に、名前が浮かんでいる。
棗イロハ。
そして、その二つ隣。
砂狼シロコの椅子の帯には、何も浮かんでいなかった。
コハル「ひっ……」
ハルカ「な、名前が、ない」
シロコは、その椅子の前で立ち止まった。
しばらく見て、それから座った。
座った瞬間、銀の帯に文字が戻った。
砂狼シロコ。
消えたときの音も、戻ったときの音も、しなかった。
ゴクチョー「あー……たいへん申し上げにくいのですが」
ゴクチョー「先ほどの告知は、その……こちらの手違い、ということにしておいてください」
ユウカ「手違い」
ゴクチョー「はい。砂狼シロコさんは、ご覧の通り座っておられますので……もう、直っております」
ユウカ「直っている、ですか」
ユウカ「直るまでの十四分間、私たちは何を見せられていたんですか」
ゴクチョー「さあ……お見せした、というほどのことでは」
ゴクチョー「まあ……なかったことに、していただけると助かるのですが」
白い仮面が、少しだけ横へ傾いた。
誰も、なかったことにはしなかった。
ユウカは、紙を広げなかった。
広げる必要が、なかったのだと思う。
ユウカ「告知の条件を、確認します」
ユウカ「収容者の死亡を、生存者三名以上が現場で確認すること。そう説明されました」
ゴクチョー「はい」
ユウカ「今日の午後、単独になった人はいません。四つの組は、全員がお互いの顔を見ています」
ユウカ「誰も、誰の死体も見ていません。現場そのものが存在しません」
ユウカ「条件は、一つも満たされていません」
ユウカ「それでも、告知は出ました」
法廷が静かになった。
照明の音だけが、天井で低く鳴っていた。
ヒナ「……つまり」
ヒナの声が、低くなった。
ヒナ「システムは、嘘をつく」
ユウカ「……あるいは」
ユウカの指が、膝の上で止まっていた。
ユウカ「あるいは、システムを騙せる人間がいます」
その一言で、円の空気が変わった。
変わり方を、ミカはうまく言葉にできなかった。
誰も動いていない。
誰も声を出していない。
ただ、十二人の視線が、初めて円の内側を向いた。
それまで、全員が同じ方向を見ていた。
外を。
島の外や、灯台の上や、天井の拡声器を。
その方向が、たった今、消えた。
ミカは、自分の目がどこを向いたのかを、あとから知った。
円の、三つ隣。
マスクの下の口元は、動いていなかった。
こちらを見返してもこなかった。
見返してこないことの方が、余計に目についた。
ミカは膝の上で拳を握って、それから指の先まで開いた。
昨日この部屋で自分が言ったことを、まだ一日も守れていない。
ハルカ「ご、ごめんなさい」
最初に声を出したのは、ハルカだった。
ハルカ「私じゃないです。私、ずっとカヨコさんと一緒で」
ハルカ「あの、その、ごめんなさい」
誰も、ハルカを責めていなかった。
責められる前に謝る癖は、この場所では、いちばん危ない癖だった。
カヨコは、何も言わなかった。
いつもなら、謝るところじゃない、と言う。
言わなかった。
ハルカが隣を見て、それから口を閉じた。
カヨコの沈黙は、この部屋のどの言葉よりも大きかった。
アズサ「一度、確かめる」
立ち上がったのは、アズサだった。
アズサ「全員、顔を上げてくれ」
十二人が顔を上げた。
アズサは円を一周見て、頷いた。
アズサ「十二人。全員いる」
ヒナ「早瀬ユウカ。あなたも数えて」
ユウカ「……」
ユウカ「私が数えるより、目で見た方が確実です」
ヒナ「そう」
ヒナは、それ以上追わなかった。
ミカも追わなかった。
追う理由が、そのときは思いつかなかった。
アズサ「一つ、申告しておく」
アズサ「私の魔法は、気配を薄くすることだ」
円が、また静かになった。
アズサ「今のように数えても、私がその気になっていれば、数から抜ける可能性がある」
アズサ「つまり、十二という数字は、私の申告がなければ意味を持たない」
ユウカ「……それを、自分から言うんですか」
アズサ「言わなければ、数が使えない」
アズサ「必要なら、私を最初に疑え。条件は揃っている」
ミカ「やめてよ」
声が、勝手に出た。
ミカ「そういうの、自分から並べるの、やめてってば」
言ってから、昨日も同じことを別の人に言った、と気づいた。
アズサはミカを見た。
アズサ「……そうか」
それだけだった。
今朝と、同じ返事だった。
ホシノ「うへ~。……じゃあ、あれだねえ」
ホシノ「告知が出ても、慌てなくていいってことだ。おじさん、ちょっと得した気分」
誰も笑わなかった。
笑わないどころか、顔を上げすらしない者がいた。
コハル「……ホシノ先輩」
ホシノ「うん」
コハル「今の、やめてください」
コハルの声は、震えていなかった。
震えていないことの方が、ミカには応えた。
ホシノ「……そうだね」
ホシノ「ごめん。今のは、なし」
ホシノは帽子のつばを下げた。
下げたまま、しばらく上げなかった。
ユウカ「静山さん。あなたの考えを聞かせてください」
ナギサは、書きかけの紙から顔を上げなかった。
ナギサ「事実を三つ、確認します」
ナギサ「一つ。告知は十七時三十二分。撤回は十七時四十六分」
ナギサ「二つ。告知の条件は、一つも満たされていません」
ナギサ「三つ。砂狼さんの名前は、椅子の帯から一度消え、座った時点で戻りました」
ユウカ「そうではなく、あなたがどう考えるかを聞いています」
ナギサ「述べません」
ユウカ「なぜです」
ナギサ「今朝、そう決めたからです」
ユウカが息を吸った。
吐くまでに、少し時間がかかった。
ユウカ「……不便です」
ナギサ「はい。不便です」
ナギサは、そこで初めて顔を上げた。
誰の方も向かなかった。
ナギサ「不便なままにしておきます」
ノア「一つだけ、お伝えしておきますね」
ノアが紙を持ち上げた。
ノア「今日の告知は、『死亡の告知です。砂狼シロコさんが、亡くなりました』でした」
ノア「昨日の、棗さんのときと、言い方がほとんど同じです」
ノア「言葉を切る場所まで含めて」
ヒナ「……つまり、区別がつかない」
ノア「はい。文言からは、本当かどうかを判断できません」
ノア「これから告知が出ても、それだけでは何も決まらない、ということです」
ユウカ「……助かります」
ノア「いえ。読んだものを、そのまま出しているだけですから」
ミカの隣で、コハルが顔を動かしていた。
左から右へ、ゆっくりと。
円の一人ずつを、順に見ている。
ミカ「……見えてる?」
コハル「うん」
コハルの声は、小さかった。
コハル「みんな、すごいことになってる」
コハル「今までで、いちばん大きい」
ミカは、その視線を追った。
コハルの目がヒナで止まり、ハルカで止まり、カヨコで止まった。
止まるたびに、コハルの肩が上がった。
そして、ノアのところでは止まらなかった。
通り過ぎてから、コハルはもう一度そこへ戻った。
今度は、しばらく見ていた。
見ているうちに、肩から力が抜けていった。
ミカ「どうしたの」
コハル「……ううん」
コハル「なんでもない」
コハルは膝の上で手を組み直した。
コハル「ノアさん、強いんだね」
ミカは、意味を聞き返そうとした。
その前に、ゴクチョーの脚が床を叩いた。
ゴクチョー「本日の議題は、取り下げられました。審理は行いません」
ユウカ「では、何のために開廷したんですか」
ゴクチョー「えー……お集まりいただいた、ということには、なりますので」
ユウカ「……そうですか」
ユウカは座らなかった。
座れなかったのだと思う。
ミカ「ひとつだけ。灯台の上って、封鎖されてるの」
仮面の縦長の穴が、ゆっくりミカへ向いた。
ゴクチョー「あのー……上らないでいただけますと、助かります」
ミカ「封鎖されてるかって聞いてるんだけど」
ゴクチョー「さあ……鍵の話でしたら、私は十三本しか持っておりませんので」
ミカ「答えになってない」
ゴクチョー「それ以上の答えが、今のキミに必要でしょうか」
ゴクチョー「では、監房へお戻りください。足元に、お気をつけて」
照明が一段だけ落ちた。
誰も、立たなかった。
ヒナ「砂狼シロコ」
ヒナが、円の向こうから声をかけた。
ヒナ「大丈夫?」
シロコは、答えるまでに時間をかけた。
膝の上の手を、一度開いて、閉じた。
シロコ「……私、まだ数に入ってる?」
誰も、すぐには答えられなかった。
答えたのは、立ったままのユウカだった。
ユウカ「入っています」
ユウカ「十二です」
シロコ「ん」
シロコ「……よかった」
シロコは、それから小さく息を吐いた。
シロコ「名前、消えるんだね」
シロコ「痛くなかった」
誰も、その言葉に返せなかった。
痛くない方が怖い、とこの部屋の全員が思っていた。
ホシノの手は、シロコの袖から離れなかった。
離れないまま、ホシノは何も言わなかった。
一人ずつ、階段を上がっていった。
ミカは、椅子に座ったままでいた。
二つ隣の空席と、その二つ先の、名前の戻った椅子を見ていた。
消えて、戻るものがある。
戻らないものもある。
その違いを決めているのが人間なら、と考えて、そこで止めた。
最後まで残ったのは、サオリだった。
三つ隣の椅子に、座ったままでいる。
ミカ「上がらないの」
サオリ「お前が先でいい」
ミカ「……何それ」
サオリは、円の中心を見ていた。
ゴクチョーは、もういない。
サオリ「今日、私は何も言わなかった」
ミカ「知ってる。ずっと見てたし」
サオリ「言えることがなかった」
ミカ「あるでしょ。ひとつくらい」
サオリ「ある」
サオリ「だが、確かではない」
ミカは、椅子の背に手をかけた。
サオリ「私が今、誰かの名前を口にすれば、それは根拠になる」
サオリ「根拠になったものは、消えない」
サオリ「昨日、この部屋で見た通りだ」
昨日、この部屋で。
棗イロハの名前が、十票を集めた。
名前は、消えなかった。
椅子の帯の上に、今も残っている。
ミカは、言い返す言葉を探して、見つけられなかった。
サオリ「ミカ」
ミカ「何」
サオリ「私が疑われるのは構わない」
サオリ「だが、疑いを誰か一人に固定させるな」
ミカは、サオリを見た。
この人は、いつも命令を先に言う。
理由は、あとから来るか、来ないかのどちらかだ。
ミカ「……それ、自分のために言ってる?」
サオリ「お前のために言っている」
ミカは、返事をしなかった。
できなかった、の方が近い。
椅子から立ち上がる音が、円形の部屋によく響いた。
階段は、下りてきたときより長かった。
途中で一度だけ、足が止まった。
振り返らなかった。
背中の下の方で、法廷の照明が最後の一段まで落ちた。
その音は、扉の閉まる音に、よく似ていた。