ブルアカ少女ノ魔女裁判   作:すーぱーりっかちゃん

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カヨコ『理由がないって、言ったよ』

三日目の朝は、光の入り方だけが昨日と同じだった。

 

灰色の海の上に、灰色より少し明るいものが浮かんで、それが朝ということになっていた。

 

ミカは、卓の端で水差しを持ったまま立っていた。

 

どこへ置くつもりだったのかを、途中で忘れていた。

 

ホシノ「うへ~。それ、重くない?」

 

ミカ「重い」

 

ホシノ「じゃあ、置こっか」

 

ホシノが手を伸ばして、水差しの底を卓へ導く。

 

誰も、昨夜のことを口にしなかった。

 

告知が出て、撤回された。

 

それだけの出来事に、名前をつける言い方を、誰も持っていなかった。

 

眠った者は、たぶん一人もいない。

 

コハルの目の下が青く、ユウカの手元には昨日の紙束がそのまま積んである。

 

シロコは卓の木目を、さっきから同じところばかり指でなぞっていた。

 

ヒナ「食べましょう。味の感想は言わなくていいわ。飲み込めばいい」

 

ナギサ「配膳は、私と鬼方さんで」

 

カヨコ「うん」

 

カヨコが配膳口から椀を運んできた。

 

十二人分。

 

卓の上の空きが、二つになっていた。

 

置く順番は、席の順だった。

 

四つ目を置いたところで、その手が止まった。

 

カヨコ「……ん」

 

ミカ「どうかした?」

 

カヨコ「いや」

 

カヨコは椀を置き直した。

 

置き直して、また止まった。

 

指の腹を、椀の縁に当てたままでいる。

 

カヨコ「これ、下江のだ」

 

コハル「え?」

 

カヨコ「昨日の夜、下江が使ったやつ。洗ってあるけど」

 

コハル「な、なんで分かるの」

 

カヨコ「分かんない」

 

ユウカの手が、音がしそうなくらいはっきりと止まった。

 

ユウカ「鬼方さん。その椀を置いて、手を離してください」

 

カヨコは言われた通りにした。

 

ユウカが椀を三つ持ち上げて、位置を入れ替える。

 

誰の椀がどこへ行ったのか、ミカには追えなかった。

 

ユウカ「もう一度、触ってください」

 

カヨコが指を伸ばす。

 

カヨコ「これは小鳥遊。こっちは……静山」

 

カヨコ「真ん中のは、誰も触ってない。新しいやつ」

 

ユウカ「……合っています」

 

ユウカは椀を戻さず、自分の鉛筆をノアへ渡した。

 

ノアが卓の下で持ち替える。

 

戻ってきた鉛筆を、カヨコが摘まんだ。

 

カヨコ「生塩」

 

ノア「はい。私が最後に持ちました」

 

カヨコ「早瀬のじゃないの、これ」

 

ユウカ「私のです。ですが、最後に持ったのはノアです」

 

カヨコ「……そういうことか」

 

カヨコは鉛筆を卓へ戻した。

 

戻す動きが、少し乱暴だった。

 

ヒナ「鬼方カヨコ。今の力を、言葉にできる?」

 

カヨコ「触ると、その前に誰が持ってたかが分かる」

 

カヨコ「持ち主じゃない。直前に触った人」

 

アズサ「どこまで遡れる」

 

カヨコ「一人だけ。その前は出てこない」

 

アズサは頷いて、それ以上は聞かなかった。

 

ミカは、カヨコの顔を見ていた。

 

その人が、いま、自分の指先を見ている。

 

嬉しそうな顔ではなかった。

 

コハル「す、すごいじゃないですか。それって、すごく役に立つんじゃ」

 

カヨコ「役に立つね。立つけど」

 

カヨコは指を一度、掌へ折り込んだ。

 

カヨコ「これ、人の持ち物を勝手に嗅ぎ回る犬みたいなもんでしょ」

 

誰も、すぐには否定しなかった。

 

否定できるほど、この場所は上等ではなかった。

 

ノア「取り決めの四つ目がありますね。誰かの私物や体を、本人の了解なく調べない」

 

ユウカ「……確かに、触れます」

 

ヒナ「なら、使う場面を先に決めましょう」

 

ヒナ「全員の前で、全員が見ているときだけ。それ以外では使わない」

 

ヒナ「触れてしまった分は、本人が言わない限り、記録に残さない」

 

ナギサ「その扱いで、記録します」

 

ナギサの顔は、上がらないままだった。

 

昨日の法廷から、この人は自分の言葉をひとつも足していない。

 

カヨコ「……助かる」

 

カヨコが言ったのは、それだけだった。

 

自分の椀を最後に置いて、席についた。

 

置くとき、縁に触れないように、底だけを持っていた。

 

器用な持ち方ではなかった。

 

朝食のあと、班分けが決まった。

 

温室と医務室の再調査に、カヨコとハルカとミカ。

 

礼拝堂に、ヒナとナギサとアズサ。

 

灯台の周りに、ホシノとシロコとコハル。

 

食堂と厨房に、ユウカとノアとサオリ。

 

ノア「行き先と出発の時刻は、こちらで」

 

ノア「戻られたら、時刻だけで結構ですから、声をかけてください」

 

ミカは、出がけにサオリを見た。

 

昨日と、同じ椅子に座っていた。

 

ミカ「また残るんだ」

 

サオリ「残らない方がいいと言われれば、動く」

 

ミカ「誰に言われたら動くの」

 

サオリ「お前でいい」

 

ミカは、言葉を探して、見つける前に扉を出た。

 

東の渡り廊下は、風が抜けていた。

 

途中で、ハルカが足を止めた。

 

ハルカ「あの、風見鶏が」

 

鉄の鳥は、海を向いたままだった。

 

風はミカの髪を横へ流していく。

 

尾羽だけが、切り取ったように静かだった。

 

ハルカ「……壊れてるんでしょうか」

 

カヨコ「壊れてる方が、まだ分かりやすいね」

 

昨日、ユウカが零と答えたことを、ミカは二人に話していない。

 

話したところで、増える答えがなかった。

 

温室の扉を開けると、土の匂いが押し出されてきた。

 

初日と、同じ匂いだ。

 

硝子の天井には細い水滴がつき、中央の浅い水盤が、朝の光を天井へ返していた。

 

人が死んだ場所とは思えない、というのが、いちばん腹の立つところだった。

 

カヨコは入口の横へ寄った。

 

台の上に、温室の管理日誌が置かれている。

 

初日、イロハがめくって、頁が一枚切り取られていると言ったものだ。

 

カヨコ「これ、いい?」

 

ミカ「うん。二人で見てる」

 

カヨコが表紙へ指を置いた。

 

置いてから、少しの間、動かなかった。

 

カヨコ「……生塩」

 

ハルカ「え」

 

カヨコ「最後に触ったのは、生塩ノア」

 

ミカの中で、何かが持ち上がりかけた。

 

持ち上がる前に、ハルカが言った。

 

ハルカ「ノアさん、記録係ですから」

 

ハルカ「昨日も一昨日も、ずっと書き写してましたし」

 

カヨコ「うん。そうだね」

 

カヨコは日誌をめくった。

 

どの日付にも、水やり済み、とだけある。

 

書き手の名前は、やはりどこにもなかった。

 

カヨコ「じゃあ、この字も生塩のってこと?」

 

ミカ「違うと思う。前からある日誌だし」

 

カヨコ「そっか。触ったのと、書いたのは別か」

 

当たり前のことを口に出してくれる人がいると、頭の中の順番が整った。

 

切り取られた一枚は、まだどこにも見つかっていない。

 

ハルカ「これ、誰が持っていったんでしょうか」

 

ミカ「持っていったとは限らないよ。切って、そのへんに捨てたのかも」

 

カヨコ「捨てるなら、水がいちばん楽だね」

 

三人で、水盤へ寄った。

 

膝より下の深さで、底の石が透けて見える。

 

その底に、白いものが沈んでいた。

 

ハルカ「あ」

 

ミカ「……紙?」

 

四つ折りにされた紙が、底の石の上に、平らに乗っている。

 

沈んでいるのに、浮き上がる気配がない。

 

ミカ「濡れてない」

 

ハルカ「え、でも、水の中に」

 

ミカ「濡れてないの。見て」

 

紙の端が、水の中でわずかに反っていた。

 

乾いた紙が反る形だった。

 

水を吸った紙は、あんなふうに角を保たない。

 

カヨコ「取るよ」

 

ミカ「待って。私が」

 

カヨコ「あんたが取ったら、あたしの分が消えるでしょ」

 

言い返せなかった。

 

カヨコが袖をまくり、水へ腕を入れた。

 

ちゃんと、水の音がした。

 

カヨコの指が、紙の端へ届く。

 

届いて、そのまま通り抜けた。

 

ハルカ「カヨコさん?」

 

カヨコ「掴めない」

 

カヨコはもう一度、指を閉じた。

 

紙は動かなかった。

 

石を掴もうとすれば掴めるのに、紙のところだけ、手が水になる。

 

カヨコ「触れないものは、分からないよ」

 

カヨコは腕を引き上げた。

 

紙は、同じ場所に、同じ角度で沈んだままだった。

 

石も、水も、光も動いている。

 

あの紙だけが、動かない。

 

ミカ「ハルカちゃん。これ、覚えて帰ろう」

 

ハルカ「お、覚える、というのは」

 

ミカ「場所と、形と、濡れてないこと。今は、それだけでいい」

 

ハルカ「……はい」

 

ハルカは水盤の縁に手をついて、じっと底を見た。

 

この子は、頼まれたことを必ず引き受けて、必ず自分の責任にしてしまう。

 

ミカは、そこまで考えて、言い方を間違えたかもしれないと思った。

 

カヨコ「棚も見る」

 

カヨコは水盤の向こうへ回った。

 

高い植木棚が、壁際に立っている。

 

初日、サオリが鉢の裏を覗き、脚に指を当てていた場所だ。

 

不安定だから触れない方がいい、と言った場所だ。

 

カヨコが屈んで、脚の下の方へ手を伸ばした。

 

カヨコ「……棗」

 

ミカの喉の奥で、音が止まった。

 

ハルカ「イロハ先輩、ですか」

 

カヨコ「うん。最後に触ったのは、棗イロハ」

 

ミカ「そこ、サオリが触ってた」

 

言ってから、声が硬すぎたことに気づいた。

 

カヨコは顔を上げなかった。

 

カヨコ「錠前の跡もあるよ」

 

ミカ「……あるの」

 

カヨコ「ある。でも、下。重なってる」

 

カヨコ「新しい方が上に来る」

 

カヨコは指を離し、もう一度、同じ場所へ当て直した。

 

カヨコ「間違いない。錠前の方が、先」

 

ミカは、自分の指が手袋の中で丸まるのを感じた。

 

初日の朝。

 

サオリが温室へ来て、棚の脚に触れた。

 

あのとき、イロハは通路の側にいて、鉛筆を耳に挟んで図を描いていた。

 

サオリが触れた。

 

そのあとで、イロハが触れた。

 

ハルカ「それって、サオリさんが棚に何かした、っていう話じゃなくなる、ってことですか」

 

カヨコ「そこまでは言えない」

 

カヨコは立ち上がって、掌を制服の脇で拭った。

 

カヨコ「分かるのは順番だけだよ。中身は分からない」

 

ミカは、頷いたつもりだった。

 

頷いた自覚が、あとから来なかった。

 

サオリが棚に細工をした。

 

その筋を、ミカは三日間、頭の隅に置いていた。

 

置いたまま、一度も口に出していない。

 

出さなかったのは、確かでなかったからだ。

 

いま、その筋の足が一本折れた。

 

折れたのに、軽くならない。

 

ミカは、水盤の水面を見た。

 

自分のヘイローが映っていた。

 

この人が違ってくれた方が、いいはずだった。

 

なのに今、少しだけ、惜しいと思った自分がいる。

 

疑っていられる方が、楽だった。

 

疑っている間は、考えなくていいことが山ほどあった。

 

ミカ「……最悪」

 

ハルカ「え」

 

ミカ「私のこと」

 

ハルカ「あ、あの、すみません」

 

ミカ「ハルカちゃんは謝らないでよ」

 

ハルカは口を閉じて、小さく頭を下げた。

 

温室の裏口を開けると、細い道が続いていた。

 

地図に描かれていなかった搬入路だ。

 

両側は高い壁で、上には硝子も庇もない。

 

石畳は湿っていて、真ん中だけがすり減っている。

 

二十歩ほど先で、道が右へ折れていた。

 

その先が、収容棟の北側になる。

 

ハルカ「ここ、通っていいんでしょうか」

 

カヨコ「三人でいるうちは、いいでしょ」

 

カヨコが五歩だけ入って、しゃがみ、石畳へ指を触れた。

 

カヨコ「……分かんないね。人の手じゃないと、出ないみたい」

 

カヨコは立ち上がって、道の先を見た。

 

折れた角の向こうは、ここからでは見えない。

 

カヨコ「あとで、もう一回来る」

 

ミカ「一人で?」

 

カヨコ「そうは言ってない」

 

言い方が、少し速かった。

 

ミカはそれを、覚えておくことにした。

 

昼前、三人は温室の入口の段に腰を下ろした。

 

カヨコが自分のパンを割って、半分をハルカへ渡した。

 

ハルカ「い、いえ、私は」

 

カヨコ「食べな」

 

ハルカ「……はい」

 

ハルカは受け取ったパンを、両手で持ったままでいた。

 

ハルカ「カヨコさん。私、何かできることはありますか」

 

カヨコ「歩いてる」

 

ハルカ「それは、その、誰でもできることで」

 

カヨコ「誰でもできることを誰かがやってるから、回ってるんでしょ」

 

ハルカは首を振りかけて、自分で止めた。

 

ハルカ「昨日、私、みんなの怖いのを、少しだけ持てたんです」

 

ハルカ「あれ、たぶん、私にしかできないことで」

 

ハルカ「なのに、あれから一度も、できてなくて」

 

ミカ「言ってないの?」

 

ハルカの指が、パンの表面を潰していた。

 

ハルカ「カヨコさんに、役に立ったとは言わない、って言われたので」

 

ハルカ「だから、言っちゃいけないんだと思って」

 

ハルカ「そしたら、口が動かなくなりました」

 

風が搬入路の方から抜けてきた。

 

カヨコは、しばらく黙って、自分のパンを一口食べた。

 

カヨコ「あたしの言い方が悪かったね」

 

ハルカ「そんな、カヨコさんは何も」

 

カヨコ「悪かった。それはこっちの話」

 

カヨコはパンを飲み込んでから、ハルカの方を向いた。

 

カヨコ「怖いときに怖いって言うのは、やめなくていい」

 

カヨコ「ただ、順番が逆になってる」

 

カヨコ「あんたは今、役に立つために怖がろうとしてる」

 

ハルカ「あ」

 

カヨコ「怖いは、出てくるものであって、出すものじゃない」

 

カヨコ「出そうとして出したやつは、たぶん効かないよ」

 

ハルカは、口を半分開けたままでいた。

 

カヨコ「あんたの仕事は、怖がることじゃない」

 

カヨコ「怖いときに、逃げないで立ってること」

 

カヨコ「それは、昨日からずっとできてる」

 

ハルカ「……できて、ますか」

 

カヨコ「できてなかったら、今ここにいないでしょ」

 

ハルカは、パンをやっと一口かじった。

 

ミカは、二人から少し離れたところで、自分のパンを見ていた。

 

この人は、甘やかさない。

 

甘やかさないのに、置いていかない。

 

自分は、いつも、間に合わせに笑ってしまう。

 

収容棟へ戻ったのは十六時前だった。

 

食堂には、ユウカとノアとサオリがいた。

 

ノア「お戻りですね。時刻を」

 

ミカ「十五時五十二分。廊下の時計」

 

ノアの鉛筆が動く。

 

途中で止まらない、読みやすい字だ。

 

ハルカ「温室のことを、報告します」

 

ハルカ「水盤の底に、紙があります。四つ折りで、濡れていません」

 

ハルカ「取ろうとすると、指が通ります」

 

ユウカ「……指が、通る」

 

ハルカ「はい。カヨコさんが二回、試しました」

 

ユウカ「四つ折りなら、広げれば日誌の頁と同じ大きさになる可能性があります」

 

ユウカは紙にそれを書いて、線を引き、その下に、可能性、と書き足した。

 

ノア「記録します。『水盤の底に紙片。乾いている。接触できない。日誌の頁との関連は不明』」

 

ミカ「不明まで入れて」

 

ノア「入れてあります」

 

昨日も聞いた返事だった。

 

安心する種類の返事のはずだった。

 

ヒナ「棚の話を、もう一度」

 

礼拝堂組が、扉のところに戻ってきていた。

 

カヨコ「植木棚の脚。最後に触ったのは棗イロハ。その下に錠前サオリ」

 

カヨコ「重なりの順で、錠前の方が先」

 

サオリが、窓際から振り返った。

 

サオリ「私が触れたのは、初日の午前だ」

 

サオリ「棗イロハは、そのとき通路にいた」

 

ヒナ「あなたが出たあと、彼女が棚に触れたことになる。何のために」

 

サオリ「分からない」

 

ミカは、この人が「分からない」と言うのを、初めて聞いた気がした。

 

言えることがないときは黙る人だと思っていた。

 

それが何を意味するのか、ミカには測れなかった。

 

ユウカ「棗さんは、備品の場所を気にする人でした」

 

ユウカ「棚の下に何かを置いた、あるいは取った。両方あり得ます」

 

アズサ「棚の下を、もう一度見るべきだ」

 

ヒナ「明日にしましょう。もう暗くなる」

 

明るいうちに終わらせる、という言い方に、全員が慣れ始めていた。

 

カヨコが立ったのは、その少しあとだった。

 

厨房の入口で、ミカと目が合った。

 

合ったというより、待たれていた。

 

ミカ「行くの。一人で?」

 

カヨコ「うん」

 

ミカは廊下へ出て、扉を閉めた。

 

食堂の音が、板一枚分だけ遠くなった。

 

ミカ「駄目でしょ、それ」

 

カヨコ「駄目だね」

 

ミカ「取り決め、自分でも署名してるじゃん」

 

カヨコ「してる」

 

ミカ「じゃあ何で」

 

カヨコ「ハルカが来るから」

 

用意していた答えだった。

 

カヨコ「あの子、行くって言えば必ず来る。来て、前を歩こうとする」

 

カヨコ「今日、あの道を見たでしょ。壁が高くて、逃げ場がない」

 

ミカ「……だから、黙って行くんだ」

 

カヨコ「そう」

 

ミカ「私が行くよ」

 

カヨコ「駄目。聖園は、まだ順番を決めてる途中でしょ」

 

ミカの喉が詰まった。

 

カヨコ「決めてる途中の人が現場を踏むと、決まっちゃうんだよ」

 

カヨコ「見たものが、そのまま順番になる」

 

ミカは、言い返す言葉を組み立てようとした。

 

組み立てるほど、正しいことを言われている気がした。

 

ミカ「ヒナちゃんに言う」

 

カヨコ「言えばいい。言われたら、たぶん止められる。止められたら、行かない」

 

ミカ「……ずるいでしょ、その言い方」

 

カヨコ「ずるいね」

 

カヨコは笑わずに、廊下の先を見た。

 

カヨコ「二十分で戻る。角の向こうを見るだけ」

 

カヨコ「何もなかったら、明日、全員で行けばいい」

 

ミカ「何かあったら」

 

カヨコ「戻ってきて、言う」

 

ミカは、袖の中で拳を握って、開いた。

 

止める言葉なら、いくつも思いついた。

 

どれも、二日前の法廷で自分が使った種類の言葉だった。

 

早く決めて、早く終わらせるための言葉。

 

それを使うのが、今は怖かった。

 

ミカ「……二十分」

 

カヨコ「うん」

 

ミカ「一分でも過ぎたら、全員呼ぶから」

 

カヨコ「それでいい」

 

カヨコは歩き出して、三歩目で足を止めた。

 

振り返らずに、言った。

 

カヨコ「ハルカに、飯を食えって言っといて」

 

ミカ「自分で言いなよ」

 

カヨコ「戻ったら言う」

 

石畳を踏む音が、遠ざかっていった。

 

ミカは、廊下の時計を見た。

 

十六時三十八分だった。

 

十七時になった。

 

ヒナが名前を読み上げていった。

 

鬼方カヨコ、のところで、返事がなかった。

 

ヒナ「誰か、見た人は」

 

ミカ「私」

 

全員がミカを見た。

 

ミカ「十六時三十八分。北へ行った。一人で。止めなかった」

 

言い終わるまでに、部屋の温度が変わった気がした。

 

ハルカ「あの、カヨコさんが、一人で」

 

ミカ「ごめん」

 

ヒナ「謝るのは後。行き先は」

 

ミカ「温室裏の搬入路。角の向こうを見るって」

 

ノア「記録には、鬼方さんの外出はありません。私は、書いていません」

 

ユウカ「今は誰の落ち度かを決める時間ではありません」

 

ユウカ「経過時間は二十二分です」

 

ユウカは時計を見ずに、そう言った。

 

ヒナ「二手。北の外側から、私とアズサと砂狼シロコ」

 

ヒナ「温室側から、聖園ミカと伊草ハルカと生塩ノア。残りは食堂に」

 

サオリ「私は――」

 

ヒナ「あなたが行くと、話がややこしくなる。今日は、それを避けたい」

 

サオリは何か言いかけて、口を閉じた。

 

閉じた口の形を、ミカは見ていた。

 

走った。

 

渡り廊下を抜けて、土の匂いの中を突っ切って、裏口を開けた。

 

搬入路は、来たときより暗かった。

 

壁が高いから、日が落ちるのが早い。

 

二十歩。

 

角。

 

その先の道の真ん中に、人が倒れていた。

 

ハルカ「カヨコさん」

 

ハルカが先に走った。

 

ミカは、その袖を掴もうとして、掴めなかった。

 

掴む理由が、なかった。

 

ハルカが膝をつく。

 

ミカも、その隣に立った。

 

カヨコは、横向きに倒れていた。

 

服にも、石畳にも、乱れたところがない。

 

両手は、体の前で軽く曲がっていた。

 

誰かを押しのけようとした形でも、掴みかかった形でもない。

 

ただ、置かれたように見えた。

 

ミカは、上を見た。

 

見なくても分かっていた。

 

カヨコの頭の上に、光はなかった。

 

ハルカ「カヨコさん、あの」

 

ハルカ「起きてください」

 

ハルカの手が、カヨコの肩に触れて、離れた。

 

触れて、離れて、また触れた。

 

どこを持てばいいのか、分からない手つきだった。

 

ノア「触れる前に、位置を残します。伊草さん。手を、そのままで」

 

ノアの声は、静かで、乱れていなかった。

 

誰かがやれる状態でなければ、できない仕事だ。

 

角の向こうから、足音が三つ来た。

 

ヒナ「――伊草ハルカ、離れて」

 

ヒナは膝をつき、首元へ手を当てた。

 

当てて、動かなかった。

 

動かない時間が、長かった。

 

ヒナ「……確認した」

 

アズサ「外傷は」

 

ヒナ「ない」

 

アズサ「争った跡も、ない」

 

アズサは道の左右を見た。

 

壁と、石畳と、その上の空だけがあった。

 

シロコが、少し離れたところにしゃがんでいた。

 

石畳へ指を這わせて、そのまま止まっている。

 

ミカ「シロコちゃん。何か、見える?」

 

シロコは答えないで、指をもう一度、同じところへ滑らせた。

 

二度なぞって、三度なぞった。

 

シロコ「……あとで言う」

 

ミカ「今は?」

 

シロコ「今は、言わない方がいい」

 

シロコの声は、震えていなかった。

 

その意味を、ミカはその場で考えないことにした。

 

考え始めたら、動けなくなる気がした。

 

ハルカ「ごめんなさい」

 

ハルカの声が、道の壁に当たった。

 

ハルカ「ごめんなさい。ごめんなさい」

 

ハルカ「私が、ついて行けばよかった」

 

ハルカ「一人にしたのは、私です」

 

ハルカ「私が、ちゃんと、聞いてれば」

 

誰も、その繰り返しを止められなかった。

 

ヒナが口を開いて、閉じた。

 

アズサが一歩近づいて、そこで止まった。

 

ミカは、自分の口が動くのを、遅れて知った。

 

ミカ「ハルカちゃん」

 

ハルカ「ごめんなさい」

 

ミカ「謝る理由がないでしょ」

 

言った瞬間に、それが自分の言葉ではないと分かった。

 

同じことを、この三日で、あの人は何度も言った。

 

毒見のときに言った。

 

昨日の朝、食堂で言った。

 

昼に、パンを渡したときにも、言い方を変えて言っていた。

 

同じ言葉のはずだった。

 

ハルカ「ごめんなさい」

 

効かなかった。

 

言葉は同じで、口が違った。

 

それだけのことで、こんなに届かなくなる。

 

あの人が言うと止まったのは、あの人が言っていたからだった。

 

ミカは膝をつき、隣にいるだけになった。

 

ミカ「……ハルカちゃん。飯を食えって」

 

ハルカ「え」

 

ミカ「言っといてって、頼まれた。行く前に」

 

ハルカの肩が、初めて大きく動いた。

 

泣き声は出なかった。

 

声の代わりに、息を吸う音が何度も続いた。

 

吸うばかりで、吐けていなかった。

 

ヒナが、ハルカの前へ回った。

 

ヒナ「伊草ハルカ。息を吐いて。吸うのは、そのあと」

 

ハルカは言われた通りにしようとして、失敗した。

 

二度目で、少しだけできた。

 

天井のない道の上で、拡声器の音が鳴った。

 

ゴクチョー「えー、死亡の告知です」

 

ゴクチョー「鬼方カヨコさんが、亡くなりました」

 

誰も、動かなかった。

 

昨日と同じ声で、昨日より少しだけ短かった。

 

ゴクチョー「本日の夕食の時間が、後ろへずれます。あのー……お含みおきください」

 

ユウカ「――撤回は」

 

いつの間にか、角のところにユウカが立っていた。

 

食堂で待っていたはずの者たちが、後ろに続いていた。

 

ユウカ「撤回は、来ますか」

 

ゴクチョー「あのー……今回は、三名以上の方が現場でご確認になっておりますので」

 

ユウカ「そうではありません。撤回が来るかを聞いています」

 

ゴクチョー「まあ……来るのでしたら、もう来ておりますので」

 

ユウカは、そこで動きを止めて、待った。

 

全員が、待った。

 

昨日は、十四分だった。

 

十四分が過ぎた。

 

二十分が過ぎた。

 

撤回は、来なかった。

 

コハル「……いやだ」

 

コハルが両手で口を押さえていた。

 

コハル「いやだ、いやだ、そんなの」

 

コハルは目を閉じていた。

 

閉じても見えると、昨日そう言っていた。

 

閉じた目で何を見ているのか、ミカには分からなかった。

 

ホシノ「コハルちゃん。こっち向いて」

 

ホシノがコハルの前へ立ち、視界を塞いだ。

 

自分が壁になる立ち方だった。

 

帽子のつばは、下がったままだった。

 

この人は、今日は一度も冗談を言っていない。

 

ユウカ「十七時二十二分に捜索開始。発見は、十七時三十一分」

 

ユウカ「私は、十六時三十八分に鬼方さんを見ていません」

 

ユウカ「見ていないので、そこから先は、聖園さんの証言によります」

 

ユウカは紙を持たないまま、数字だけを並べていた。

 

並べる以外の動き方を、この人は知らないのだと思った。

 

ナギサ「早瀬さん」

 

ユウカ「まだ続けます」

 

ナギサ「はい。どうぞ」

 

ナギサはそれ以上、言葉を足さなかった。

 

足せば重くなる。

 

できないことを、自分で選んでいる。

 

選んだ結果が、こういう顔になるのだと、ミカは初めて見た。

 

サオリが、道の入口から入ってきた。

 

誰も止めなかった。

 

止める人が、もう順番を作れていなかった。

 

サオリはカヨコの傍らへ膝をつき、手袋の指を、その手首に当てた。

 

当てて、目を閉じた。

 

しばらくそうしていた。

 

サオリの肩が、一度だけ下がった。

 

サオリ「……遅い」

 

小さい声だった。

 

聞き返せば、この人は答える気がした。

 

そう思ったのに、口が動かなかった。

 

サオリは立ち上がり、手を下ろした。

 

右の手袋の、指の付け根が裂けていた。

 

初日に見たのと同じ場所が、少し広がっていた。

 

ゴクチョー「調査の時間を設けます。魔女裁判の開廷は、明日の二十時です」

 

ユウカ「明日」

 

ゴクチョー「はい」

 

ユウカ「初日は、二時間二十分でした。なぜ、今回は二十六時間半なんですか」

 

ゴクチョー「さあ……こちらにも、支度というものがありますので」

 

ユウカ「それ以外を聞かせてください」

 

白い仮面が、横に傾いた。

 

ゴクチョー「えー、それから。鬼方カヨコさんは、のちほど私どもで身柄をお預かりします」

 

ヒナ「……運ぶのは、こっちでやるわ」

 

ゴクチョー「はい。そうしていただいて構いません。急ぐ話では、ありませんので」

 

ゴクチョー「囚人のみなさんは、監房へお戻りください。足元に、お気をつけて」

 

ゴクチョーの脚が、石畳を叩いて遠ざかった。

 

長い時間が与えられた。

 

与えられたことの意味を、この場の全員が、同時に考えていた。

 

考えないようにしようとして、失敗していた。

 

温室の裏口のところに、人の形が一つ立っていた。

 

囚人服の残骸を肩に引っかけ、顔は垂れた髪と布に隠れている。

 

手を出しもせず、退きもせず、ただ肩だけがゆっくり上下していた。

 

アズサ「……手伝う気は、なさそうだな」

 

カヨコを運ぶことになった。

 

ヒナが指示を出し、ホシノとアズサが両側についた。

 

ハルカが、足を持たせてほしいと言った。

 

ヒナは、少し迷ってから頷いた。

 

温室を抜けるとき、水盤の水が、天井の暗さを映していた。

 

底の紙は、朝と同じ場所にあった。

 

同じ角度で、同じ形で、乾いたまま沈んでいた。

 

医務室の白い衝立の向こうへ、ヒナが先に入った。

 

ミカは、扉のところで足を止めた。

 

袖がずれて、左手首が見えた。

 

銀の輪の内側に、黒い線が六本あった。

 

朝は五本だった。

 

魔法は、今日も一度も使っていない。

 

袖を戻す手が、思ったより落ち着いていた。

 

落ち着いていることの方が、嫌だった。

 

夜になって、全員が食堂へ集まった。

 

誰も、食べなかった。

 

ノアが記録を読み上げ、ユウカが時刻を確かめ、ナギサが手続きを整えた。

 

三人とも、声が普通だった。

 

普通の声でしか、この作業はできない。

 

ハルカは卓の端で、目の前に置かれた椀を、底だけ持っていた。

 

朝、カヨコがそうしていた持ち方だった。

 

持ち方だけが、そこに残っていた。

 

シロコは、ホシノの袖を掴んで、一度も口を開かなかった。

 

言わない方がいいと自分で決めたことを、この子はたぶん、朝まで守る。

 

ミカは、誰にも言わずに食堂を出た。

 

渡り廊下を歩いて、温室を抜けて、裏口の扉を開けた。

 

搬入路には、もう誰もいなかった。

 

夜の空が、細く上に見えている。

 

両側の壁が高いせいで、道が井戸の底のように見えた。

 

その壁の上の縁に、白いものが一つ止まっていた。

 

鳥だった。顔だけを、こちらへ横に倒している。

 

ミカが見上げているあいだ、それは一度も瞬きをしなかった。

 

ミカは、角の向こうまで歩いて、石畳のあの場所に立った。

 

風が、道の奥から来た。

 

髪が横へ流れて、口の中に入った。

 

初日も、同じことがあった。

 

その日、この道の向こう側で、人が死んだ。

 

今日は、この道で死んだ。

 

二回とも、同じ建物の裏だった。

 

二回とも、外傷がなかった。

 

二回とも、その日のうちに、そこへ近づいた人がいた。

 

近づいた人が、死んでいる。

 

ミカは、そこまでを、はっきり並べた。

 

並べた先に、続きがあった。

 

続きは、名前の形をしていた。

 

朝、カヨコが日誌に触れた。

 

最後に触ったのは、と言った。

 

あのとき、全員がすぐに納得した。

 

納得させたのは、記録係だから、という一言だった。

 

その一言を最初に言ったのは、ハルカだった。

 

ハルカに言わせたのは、誰でもない。

 

誰でもないから、余計に悪い。

 

ミカの口の中が、乾いていた。

 

舌の上に、名前が乗っている。

 

乗っているのが分かるくらい、重かった。

 

喉が動いた。

 

動いたけれど、声にならなかった。

 

声にすれば、それは根拠になる。

 

根拠になったものは、消えない。

 

昨日、この耳が、そう聞いた。

 

ミカは、目を閉じた。

 

閉じた裏側に、壊れた壁があった。

 

瓦礫があった。

 

こちらへ向けられた銃口があった。

 

あのとき、耳のすぐ後ろで、誰かが囁いた。

 

囁きは、優しかった。

 

優しくて、こちらの言いたいことを、こちらより先に言った。

 

だから、乗った。

 

乗って、指を差した。

 

差した先にいた人のことを、ミカは今でも覚えている。

 

覚えているから、動けない。

 

あのときの自分と、今の自分の違いを、証明できるものが何もない。

 

ミカは目を開けた。

 

握った拳が、手袋の中で汗をかいていた。

 

ミカは、その拳を、指の先まで開いた。

 

開いた掌に、名前は残らなかった。

 

残らないだけで、消えてもいなかった。

 

壁の上の細い空に、星はなかった。

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