三日目の朝は、光の入り方だけが昨日と同じだった。
灰色の海の上に、灰色より少し明るいものが浮かんで、それが朝ということになっていた。
ミカは、卓の端で水差しを持ったまま立っていた。
どこへ置くつもりだったのかを、途中で忘れていた。
ホシノ「うへ~。それ、重くない?」
ミカ「重い」
ホシノ「じゃあ、置こっか」
ホシノが手を伸ばして、水差しの底を卓へ導く。
誰も、昨夜のことを口にしなかった。
告知が出て、撤回された。
それだけの出来事に、名前をつける言い方を、誰も持っていなかった。
眠った者は、たぶん一人もいない。
コハルの目の下が青く、ユウカの手元には昨日の紙束がそのまま積んである。
シロコは卓の木目を、さっきから同じところばかり指でなぞっていた。
ヒナ「食べましょう。味の感想は言わなくていいわ。飲み込めばいい」
ナギサ「配膳は、私と鬼方さんで」
カヨコ「うん」
カヨコが配膳口から椀を運んできた。
十二人分。
卓の上の空きが、二つになっていた。
置く順番は、席の順だった。
四つ目を置いたところで、その手が止まった。
カヨコ「……ん」
ミカ「どうかした?」
カヨコ「いや」
カヨコは椀を置き直した。
置き直して、また止まった。
指の腹を、椀の縁に当てたままでいる。
カヨコ「これ、下江のだ」
コハル「え?」
カヨコ「昨日の夜、下江が使ったやつ。洗ってあるけど」
コハル「な、なんで分かるの」
カヨコ「分かんない」
ユウカの手が、音がしそうなくらいはっきりと止まった。
ユウカ「鬼方さん。その椀を置いて、手を離してください」
カヨコは言われた通りにした。
ユウカが椀を三つ持ち上げて、位置を入れ替える。
誰の椀がどこへ行ったのか、ミカには追えなかった。
ユウカ「もう一度、触ってください」
カヨコが指を伸ばす。
カヨコ「これは小鳥遊。こっちは……静山」
カヨコ「真ん中のは、誰も触ってない。新しいやつ」
ユウカ「……合っています」
ユウカは椀を戻さず、自分の鉛筆をノアへ渡した。
ノアが卓の下で持ち替える。
戻ってきた鉛筆を、カヨコが摘まんだ。
カヨコ「生塩」
ノア「はい。私が最後に持ちました」
カヨコ「早瀬のじゃないの、これ」
ユウカ「私のです。ですが、最後に持ったのはノアです」
カヨコ「……そういうことか」
カヨコは鉛筆を卓へ戻した。
戻す動きが、少し乱暴だった。
ヒナ「鬼方カヨコ。今の力を、言葉にできる?」
カヨコ「触ると、その前に誰が持ってたかが分かる」
カヨコ「持ち主じゃない。直前に触った人」
アズサ「どこまで遡れる」
カヨコ「一人だけ。その前は出てこない」
アズサは頷いて、それ以上は聞かなかった。
ミカは、カヨコの顔を見ていた。
その人が、いま、自分の指先を見ている。
嬉しそうな顔ではなかった。
コハル「す、すごいじゃないですか。それって、すごく役に立つんじゃ」
カヨコ「役に立つね。立つけど」
カヨコは指を一度、掌へ折り込んだ。
カヨコ「これ、人の持ち物を勝手に嗅ぎ回る犬みたいなもんでしょ」
誰も、すぐには否定しなかった。
否定できるほど、この場所は上等ではなかった。
ノア「取り決めの四つ目がありますね。誰かの私物や体を、本人の了解なく調べない」
ユウカ「……確かに、触れます」
ヒナ「なら、使う場面を先に決めましょう」
ヒナ「全員の前で、全員が見ているときだけ。それ以外では使わない」
ヒナ「触れてしまった分は、本人が言わない限り、記録に残さない」
ナギサ「その扱いで、記録します」
ナギサの顔は、上がらないままだった。
昨日の法廷から、この人は自分の言葉をひとつも足していない。
カヨコ「……助かる」
カヨコが言ったのは、それだけだった。
自分の椀を最後に置いて、席についた。
置くとき、縁に触れないように、底だけを持っていた。
器用な持ち方ではなかった。
朝食のあと、班分けが決まった。
温室と医務室の再調査に、カヨコとハルカとミカ。
礼拝堂に、ヒナとナギサとアズサ。
灯台の周りに、ホシノとシロコとコハル。
食堂と厨房に、ユウカとノアとサオリ。
ノア「行き先と出発の時刻は、こちらで」
ノア「戻られたら、時刻だけで結構ですから、声をかけてください」
ミカは、出がけにサオリを見た。
昨日と、同じ椅子に座っていた。
ミカ「また残るんだ」
サオリ「残らない方がいいと言われれば、動く」
ミカ「誰に言われたら動くの」
サオリ「お前でいい」
ミカは、言葉を探して、見つける前に扉を出た。
東の渡り廊下は、風が抜けていた。
途中で、ハルカが足を止めた。
ハルカ「あの、風見鶏が」
鉄の鳥は、海を向いたままだった。
風はミカの髪を横へ流していく。
尾羽だけが、切り取ったように静かだった。
ハルカ「……壊れてるんでしょうか」
カヨコ「壊れてる方が、まだ分かりやすいね」
昨日、ユウカが零と答えたことを、ミカは二人に話していない。
話したところで、増える答えがなかった。
温室の扉を開けると、土の匂いが押し出されてきた。
初日と、同じ匂いだ。
硝子の天井には細い水滴がつき、中央の浅い水盤が、朝の光を天井へ返していた。
人が死んだ場所とは思えない、というのが、いちばん腹の立つところだった。
カヨコは入口の横へ寄った。
台の上に、温室の管理日誌が置かれている。
初日、イロハがめくって、頁が一枚切り取られていると言ったものだ。
カヨコ「これ、いい?」
ミカ「うん。二人で見てる」
カヨコが表紙へ指を置いた。
置いてから、少しの間、動かなかった。
カヨコ「……生塩」
ハルカ「え」
カヨコ「最後に触ったのは、生塩ノア」
ミカの中で、何かが持ち上がりかけた。
持ち上がる前に、ハルカが言った。
ハルカ「ノアさん、記録係ですから」
ハルカ「昨日も一昨日も、ずっと書き写してましたし」
カヨコ「うん。そうだね」
カヨコは日誌をめくった。
どの日付にも、水やり済み、とだけある。
書き手の名前は、やはりどこにもなかった。
カヨコ「じゃあ、この字も生塩のってこと?」
ミカ「違うと思う。前からある日誌だし」
カヨコ「そっか。触ったのと、書いたのは別か」
当たり前のことを口に出してくれる人がいると、頭の中の順番が整った。
切り取られた一枚は、まだどこにも見つかっていない。
ハルカ「これ、誰が持っていったんでしょうか」
ミカ「持っていったとは限らないよ。切って、そのへんに捨てたのかも」
カヨコ「捨てるなら、水がいちばん楽だね」
三人で、水盤へ寄った。
膝より下の深さで、底の石が透けて見える。
その底に、白いものが沈んでいた。
ハルカ「あ」
ミカ「……紙?」
四つ折りにされた紙が、底の石の上に、平らに乗っている。
沈んでいるのに、浮き上がる気配がない。
ミカ「濡れてない」
ハルカ「え、でも、水の中に」
ミカ「濡れてないの。見て」
紙の端が、水の中でわずかに反っていた。
乾いた紙が反る形だった。
水を吸った紙は、あんなふうに角を保たない。
カヨコ「取るよ」
ミカ「待って。私が」
カヨコ「あんたが取ったら、あたしの分が消えるでしょ」
言い返せなかった。
カヨコが袖をまくり、水へ腕を入れた。
ちゃんと、水の音がした。
カヨコの指が、紙の端へ届く。
届いて、そのまま通り抜けた。
ハルカ「カヨコさん?」
カヨコ「掴めない」
カヨコはもう一度、指を閉じた。
紙は動かなかった。
石を掴もうとすれば掴めるのに、紙のところだけ、手が水になる。
カヨコ「触れないものは、分からないよ」
カヨコは腕を引き上げた。
紙は、同じ場所に、同じ角度で沈んだままだった。
石も、水も、光も動いている。
あの紙だけが、動かない。
ミカ「ハルカちゃん。これ、覚えて帰ろう」
ハルカ「お、覚える、というのは」
ミカ「場所と、形と、濡れてないこと。今は、それだけでいい」
ハルカ「……はい」
ハルカは水盤の縁に手をついて、じっと底を見た。
この子は、頼まれたことを必ず引き受けて、必ず自分の責任にしてしまう。
ミカは、そこまで考えて、言い方を間違えたかもしれないと思った。
カヨコ「棚も見る」
カヨコは水盤の向こうへ回った。
高い植木棚が、壁際に立っている。
初日、サオリが鉢の裏を覗き、脚に指を当てていた場所だ。
不安定だから触れない方がいい、と言った場所だ。
カヨコが屈んで、脚の下の方へ手を伸ばした。
カヨコ「……棗」
ミカの喉の奥で、音が止まった。
ハルカ「イロハ先輩、ですか」
カヨコ「うん。最後に触ったのは、棗イロハ」
ミカ「そこ、サオリが触ってた」
言ってから、声が硬すぎたことに気づいた。
カヨコは顔を上げなかった。
カヨコ「錠前の跡もあるよ」
ミカ「……あるの」
カヨコ「ある。でも、下。重なってる」
カヨコ「新しい方が上に来る」
カヨコは指を離し、もう一度、同じ場所へ当て直した。
カヨコ「間違いない。錠前の方が、先」
ミカは、自分の指が手袋の中で丸まるのを感じた。
初日の朝。
サオリが温室へ来て、棚の脚に触れた。
あのとき、イロハは通路の側にいて、鉛筆を耳に挟んで図を描いていた。
サオリが触れた。
そのあとで、イロハが触れた。
ハルカ「それって、サオリさんが棚に何かした、っていう話じゃなくなる、ってことですか」
カヨコ「そこまでは言えない」
カヨコは立ち上がって、掌を制服の脇で拭った。
カヨコ「分かるのは順番だけだよ。中身は分からない」
ミカは、頷いたつもりだった。
頷いた自覚が、あとから来なかった。
サオリが棚に細工をした。
その筋を、ミカは三日間、頭の隅に置いていた。
置いたまま、一度も口に出していない。
出さなかったのは、確かでなかったからだ。
いま、その筋の足が一本折れた。
折れたのに、軽くならない。
ミカは、水盤の水面を見た。
自分のヘイローが映っていた。
この人が違ってくれた方が、いいはずだった。
なのに今、少しだけ、惜しいと思った自分がいる。
疑っていられる方が、楽だった。
疑っている間は、考えなくていいことが山ほどあった。
ミカ「……最悪」
ハルカ「え」
ミカ「私のこと」
ハルカ「あ、あの、すみません」
ミカ「ハルカちゃんは謝らないでよ」
ハルカは口を閉じて、小さく頭を下げた。
温室の裏口を開けると、細い道が続いていた。
地図に描かれていなかった搬入路だ。
両側は高い壁で、上には硝子も庇もない。
石畳は湿っていて、真ん中だけがすり減っている。
二十歩ほど先で、道が右へ折れていた。
その先が、収容棟の北側になる。
ハルカ「ここ、通っていいんでしょうか」
カヨコ「三人でいるうちは、いいでしょ」
カヨコが五歩だけ入って、しゃがみ、石畳へ指を触れた。
カヨコ「……分かんないね。人の手じゃないと、出ないみたい」
カヨコは立ち上がって、道の先を見た。
折れた角の向こうは、ここからでは見えない。
カヨコ「あとで、もう一回来る」
ミカ「一人で?」
カヨコ「そうは言ってない」
言い方が、少し速かった。
ミカはそれを、覚えておくことにした。
昼前、三人は温室の入口の段に腰を下ろした。
カヨコが自分のパンを割って、半分をハルカへ渡した。
ハルカ「い、いえ、私は」
カヨコ「食べな」
ハルカ「……はい」
ハルカは受け取ったパンを、両手で持ったままでいた。
ハルカ「カヨコさん。私、何かできることはありますか」
カヨコ「歩いてる」
ハルカ「それは、その、誰でもできることで」
カヨコ「誰でもできることを誰かがやってるから、回ってるんでしょ」
ハルカは首を振りかけて、自分で止めた。
ハルカ「昨日、私、みんなの怖いのを、少しだけ持てたんです」
ハルカ「あれ、たぶん、私にしかできないことで」
ハルカ「なのに、あれから一度も、できてなくて」
ミカ「言ってないの?」
ハルカの指が、パンの表面を潰していた。
ハルカ「カヨコさんに、役に立ったとは言わない、って言われたので」
ハルカ「だから、言っちゃいけないんだと思って」
ハルカ「そしたら、口が動かなくなりました」
風が搬入路の方から抜けてきた。
カヨコは、しばらく黙って、自分のパンを一口食べた。
カヨコ「あたしの言い方が悪かったね」
ハルカ「そんな、カヨコさんは何も」
カヨコ「悪かった。それはこっちの話」
カヨコはパンを飲み込んでから、ハルカの方を向いた。
カヨコ「怖いときに怖いって言うのは、やめなくていい」
カヨコ「ただ、順番が逆になってる」
カヨコ「あんたは今、役に立つために怖がろうとしてる」
ハルカ「あ」
カヨコ「怖いは、出てくるものであって、出すものじゃない」
カヨコ「出そうとして出したやつは、たぶん効かないよ」
ハルカは、口を半分開けたままでいた。
カヨコ「あんたの仕事は、怖がることじゃない」
カヨコ「怖いときに、逃げないで立ってること」
カヨコ「それは、昨日からずっとできてる」
ハルカ「……できて、ますか」
カヨコ「できてなかったら、今ここにいないでしょ」
ハルカは、パンをやっと一口かじった。
ミカは、二人から少し離れたところで、自分のパンを見ていた。
この人は、甘やかさない。
甘やかさないのに、置いていかない。
自分は、いつも、間に合わせに笑ってしまう。
収容棟へ戻ったのは十六時前だった。
食堂には、ユウカとノアとサオリがいた。
ノア「お戻りですね。時刻を」
ミカ「十五時五十二分。廊下の時計」
ノアの鉛筆が動く。
途中で止まらない、読みやすい字だ。
ハルカ「温室のことを、報告します」
ハルカ「水盤の底に、紙があります。四つ折りで、濡れていません」
ハルカ「取ろうとすると、指が通ります」
ユウカ「……指が、通る」
ハルカ「はい。カヨコさんが二回、試しました」
ユウカ「四つ折りなら、広げれば日誌の頁と同じ大きさになる可能性があります」
ユウカは紙にそれを書いて、線を引き、その下に、可能性、と書き足した。
ノア「記録します。『水盤の底に紙片。乾いている。接触できない。日誌の頁との関連は不明』」
ミカ「不明まで入れて」
ノア「入れてあります」
昨日も聞いた返事だった。
安心する種類の返事のはずだった。
ヒナ「棚の話を、もう一度」
礼拝堂組が、扉のところに戻ってきていた。
カヨコ「植木棚の脚。最後に触ったのは棗イロハ。その下に錠前サオリ」
カヨコ「重なりの順で、錠前の方が先」
サオリが、窓際から振り返った。
サオリ「私が触れたのは、初日の午前だ」
サオリ「棗イロハは、そのとき通路にいた」
ヒナ「あなたが出たあと、彼女が棚に触れたことになる。何のために」
サオリ「分からない」
ミカは、この人が「分からない」と言うのを、初めて聞いた気がした。
言えることがないときは黙る人だと思っていた。
それが何を意味するのか、ミカには測れなかった。
ユウカ「棗さんは、備品の場所を気にする人でした」
ユウカ「棚の下に何かを置いた、あるいは取った。両方あり得ます」
アズサ「棚の下を、もう一度見るべきだ」
ヒナ「明日にしましょう。もう暗くなる」
明るいうちに終わらせる、という言い方に、全員が慣れ始めていた。
カヨコが立ったのは、その少しあとだった。
厨房の入口で、ミカと目が合った。
合ったというより、待たれていた。
ミカ「行くの。一人で?」
カヨコ「うん」
ミカは廊下へ出て、扉を閉めた。
食堂の音が、板一枚分だけ遠くなった。
ミカ「駄目でしょ、それ」
カヨコ「駄目だね」
ミカ「取り決め、自分でも署名してるじゃん」
カヨコ「してる」
ミカ「じゃあ何で」
カヨコ「ハルカが来るから」
用意していた答えだった。
カヨコ「あの子、行くって言えば必ず来る。来て、前を歩こうとする」
カヨコ「今日、あの道を見たでしょ。壁が高くて、逃げ場がない」
ミカ「……だから、黙って行くんだ」
カヨコ「そう」
ミカ「私が行くよ」
カヨコ「駄目。聖園は、まだ順番を決めてる途中でしょ」
ミカの喉が詰まった。
カヨコ「決めてる途中の人が現場を踏むと、決まっちゃうんだよ」
カヨコ「見たものが、そのまま順番になる」
ミカは、言い返す言葉を組み立てようとした。
組み立てるほど、正しいことを言われている気がした。
ミカ「ヒナちゃんに言う」
カヨコ「言えばいい。言われたら、たぶん止められる。止められたら、行かない」
ミカ「……ずるいでしょ、その言い方」
カヨコ「ずるいね」
カヨコは笑わずに、廊下の先を見た。
カヨコ「二十分で戻る。角の向こうを見るだけ」
カヨコ「何もなかったら、明日、全員で行けばいい」
ミカ「何かあったら」
カヨコ「戻ってきて、言う」
ミカは、袖の中で拳を握って、開いた。
止める言葉なら、いくつも思いついた。
どれも、二日前の法廷で自分が使った種類の言葉だった。
早く決めて、早く終わらせるための言葉。
それを使うのが、今は怖かった。
ミカ「……二十分」
カヨコ「うん」
ミカ「一分でも過ぎたら、全員呼ぶから」
カヨコ「それでいい」
カヨコは歩き出して、三歩目で足を止めた。
振り返らずに、言った。
カヨコ「ハルカに、飯を食えって言っといて」
ミカ「自分で言いなよ」
カヨコ「戻ったら言う」
石畳を踏む音が、遠ざかっていった。
ミカは、廊下の時計を見た。
十六時三十八分だった。
十七時になった。
ヒナが名前を読み上げていった。
鬼方カヨコ、のところで、返事がなかった。
ヒナ「誰か、見た人は」
ミカ「私」
全員がミカを見た。
ミカ「十六時三十八分。北へ行った。一人で。止めなかった」
言い終わるまでに、部屋の温度が変わった気がした。
ハルカ「あの、カヨコさんが、一人で」
ミカ「ごめん」
ヒナ「謝るのは後。行き先は」
ミカ「温室裏の搬入路。角の向こうを見るって」
ノア「記録には、鬼方さんの外出はありません。私は、書いていません」
ユウカ「今は誰の落ち度かを決める時間ではありません」
ユウカ「経過時間は二十二分です」
ユウカは時計を見ずに、そう言った。
ヒナ「二手。北の外側から、私とアズサと砂狼シロコ」
ヒナ「温室側から、聖園ミカと伊草ハルカと生塩ノア。残りは食堂に」
サオリ「私は――」
ヒナ「あなたが行くと、話がややこしくなる。今日は、それを避けたい」
サオリは何か言いかけて、口を閉じた。
閉じた口の形を、ミカは見ていた。
走った。
渡り廊下を抜けて、土の匂いの中を突っ切って、裏口を開けた。
搬入路は、来たときより暗かった。
壁が高いから、日が落ちるのが早い。
二十歩。
角。
その先の道の真ん中に、人が倒れていた。
ハルカ「カヨコさん」
ハルカが先に走った。
ミカは、その袖を掴もうとして、掴めなかった。
掴む理由が、なかった。
ハルカが膝をつく。
ミカも、その隣に立った。
カヨコは、横向きに倒れていた。
服にも、石畳にも、乱れたところがない。
両手は、体の前で軽く曲がっていた。
誰かを押しのけようとした形でも、掴みかかった形でもない。
ただ、置かれたように見えた。
ミカは、上を見た。
見なくても分かっていた。
カヨコの頭の上に、光はなかった。
ハルカ「カヨコさん、あの」
ハルカ「起きてください」
ハルカの手が、カヨコの肩に触れて、離れた。
触れて、離れて、また触れた。
どこを持てばいいのか、分からない手つきだった。
ノア「触れる前に、位置を残します。伊草さん。手を、そのままで」
ノアの声は、静かで、乱れていなかった。
誰かがやれる状態でなければ、できない仕事だ。
角の向こうから、足音が三つ来た。
ヒナ「――伊草ハルカ、離れて」
ヒナは膝をつき、首元へ手を当てた。
当てて、動かなかった。
動かない時間が、長かった。
ヒナ「……確認した」
アズサ「外傷は」
ヒナ「ない」
アズサ「争った跡も、ない」
アズサは道の左右を見た。
壁と、石畳と、その上の空だけがあった。
シロコが、少し離れたところにしゃがんでいた。
石畳へ指を這わせて、そのまま止まっている。
ミカ「シロコちゃん。何か、見える?」
シロコは答えないで、指をもう一度、同じところへ滑らせた。
二度なぞって、三度なぞった。
シロコ「……あとで言う」
ミカ「今は?」
シロコ「今は、言わない方がいい」
シロコの声は、震えていなかった。
その意味を、ミカはその場で考えないことにした。
考え始めたら、動けなくなる気がした。
ハルカ「ごめんなさい」
ハルカの声が、道の壁に当たった。
ハルカ「ごめんなさい。ごめんなさい」
ハルカ「私が、ついて行けばよかった」
ハルカ「一人にしたのは、私です」
ハルカ「私が、ちゃんと、聞いてれば」
誰も、その繰り返しを止められなかった。
ヒナが口を開いて、閉じた。
アズサが一歩近づいて、そこで止まった。
ミカは、自分の口が動くのを、遅れて知った。
ミカ「ハルカちゃん」
ハルカ「ごめんなさい」
ミカ「謝る理由がないでしょ」
言った瞬間に、それが自分の言葉ではないと分かった。
同じことを、この三日で、あの人は何度も言った。
毒見のときに言った。
昨日の朝、食堂で言った。
昼に、パンを渡したときにも、言い方を変えて言っていた。
同じ言葉のはずだった。
ハルカ「ごめんなさい」
効かなかった。
言葉は同じで、口が違った。
それだけのことで、こんなに届かなくなる。
あの人が言うと止まったのは、あの人が言っていたからだった。
ミカは膝をつき、隣にいるだけになった。
ミカ「……ハルカちゃん。飯を食えって」
ハルカ「え」
ミカ「言っといてって、頼まれた。行く前に」
ハルカの肩が、初めて大きく動いた。
泣き声は出なかった。
声の代わりに、息を吸う音が何度も続いた。
吸うばかりで、吐けていなかった。
ヒナが、ハルカの前へ回った。
ヒナ「伊草ハルカ。息を吐いて。吸うのは、そのあと」
ハルカは言われた通りにしようとして、失敗した。
二度目で、少しだけできた。
天井のない道の上で、拡声器の音が鳴った。
ゴクチョー「えー、死亡の告知です」
ゴクチョー「鬼方カヨコさんが、亡くなりました」
誰も、動かなかった。
昨日と同じ声で、昨日より少しだけ短かった。
ゴクチョー「本日の夕食の時間が、後ろへずれます。あのー……お含みおきください」
ユウカ「――撤回は」
いつの間にか、角のところにユウカが立っていた。
食堂で待っていたはずの者たちが、後ろに続いていた。
ユウカ「撤回は、来ますか」
ゴクチョー「あのー……今回は、三名以上の方が現場でご確認になっておりますので」
ユウカ「そうではありません。撤回が来るかを聞いています」
ゴクチョー「まあ……来るのでしたら、もう来ておりますので」
ユウカは、そこで動きを止めて、待った。
全員が、待った。
昨日は、十四分だった。
十四分が過ぎた。
二十分が過ぎた。
撤回は、来なかった。
コハル「……いやだ」
コハルが両手で口を押さえていた。
コハル「いやだ、いやだ、そんなの」
コハルは目を閉じていた。
閉じても見えると、昨日そう言っていた。
閉じた目で何を見ているのか、ミカには分からなかった。
ホシノ「コハルちゃん。こっち向いて」
ホシノがコハルの前へ立ち、視界を塞いだ。
自分が壁になる立ち方だった。
帽子のつばは、下がったままだった。
この人は、今日は一度も冗談を言っていない。
ユウカ「十七時二十二分に捜索開始。発見は、十七時三十一分」
ユウカ「私は、十六時三十八分に鬼方さんを見ていません」
ユウカ「見ていないので、そこから先は、聖園さんの証言によります」
ユウカは紙を持たないまま、数字だけを並べていた。
並べる以外の動き方を、この人は知らないのだと思った。
ナギサ「早瀬さん」
ユウカ「まだ続けます」
ナギサ「はい。どうぞ」
ナギサはそれ以上、言葉を足さなかった。
足せば重くなる。
できないことを、自分で選んでいる。
選んだ結果が、こういう顔になるのだと、ミカは初めて見た。
サオリが、道の入口から入ってきた。
誰も止めなかった。
止める人が、もう順番を作れていなかった。
サオリはカヨコの傍らへ膝をつき、手袋の指を、その手首に当てた。
当てて、目を閉じた。
しばらくそうしていた。
サオリの肩が、一度だけ下がった。
サオリ「……遅い」
小さい声だった。
聞き返せば、この人は答える気がした。
そう思ったのに、口が動かなかった。
サオリは立ち上がり、手を下ろした。
右の手袋の、指の付け根が裂けていた。
初日に見たのと同じ場所が、少し広がっていた。
ゴクチョー「調査の時間を設けます。魔女裁判の開廷は、明日の二十時です」
ユウカ「明日」
ゴクチョー「はい」
ユウカ「初日は、二時間二十分でした。なぜ、今回は二十六時間半なんですか」
ゴクチョー「さあ……こちらにも、支度というものがありますので」
ユウカ「それ以外を聞かせてください」
白い仮面が、横に傾いた。
ゴクチョー「えー、それから。鬼方カヨコさんは、のちほど私どもで身柄をお預かりします」
ヒナ「……運ぶのは、こっちでやるわ」
ゴクチョー「はい。そうしていただいて構いません。急ぐ話では、ありませんので」
ゴクチョー「囚人のみなさんは、監房へお戻りください。足元に、お気をつけて」
ゴクチョーの脚が、石畳を叩いて遠ざかった。
長い時間が与えられた。
与えられたことの意味を、この場の全員が、同時に考えていた。
考えないようにしようとして、失敗していた。
温室の裏口のところに、人の形が一つ立っていた。
囚人服の残骸を肩に引っかけ、顔は垂れた髪と布に隠れている。
手を出しもせず、退きもせず、ただ肩だけがゆっくり上下していた。
アズサ「……手伝う気は、なさそうだな」
カヨコを運ぶことになった。
ヒナが指示を出し、ホシノとアズサが両側についた。
ハルカが、足を持たせてほしいと言った。
ヒナは、少し迷ってから頷いた。
温室を抜けるとき、水盤の水が、天井の暗さを映していた。
底の紙は、朝と同じ場所にあった。
同じ角度で、同じ形で、乾いたまま沈んでいた。
医務室の白い衝立の向こうへ、ヒナが先に入った。
ミカは、扉のところで足を止めた。
袖がずれて、左手首が見えた。
銀の輪の内側に、黒い線が六本あった。
朝は五本だった。
魔法は、今日も一度も使っていない。
袖を戻す手が、思ったより落ち着いていた。
落ち着いていることの方が、嫌だった。
夜になって、全員が食堂へ集まった。
誰も、食べなかった。
ノアが記録を読み上げ、ユウカが時刻を確かめ、ナギサが手続きを整えた。
三人とも、声が普通だった。
普通の声でしか、この作業はできない。
ハルカは卓の端で、目の前に置かれた椀を、底だけ持っていた。
朝、カヨコがそうしていた持ち方だった。
持ち方だけが、そこに残っていた。
シロコは、ホシノの袖を掴んで、一度も口を開かなかった。
言わない方がいいと自分で決めたことを、この子はたぶん、朝まで守る。
ミカは、誰にも言わずに食堂を出た。
渡り廊下を歩いて、温室を抜けて、裏口の扉を開けた。
搬入路には、もう誰もいなかった。
夜の空が、細く上に見えている。
両側の壁が高いせいで、道が井戸の底のように見えた。
その壁の上の縁に、白いものが一つ止まっていた。
鳥だった。顔だけを、こちらへ横に倒している。
ミカが見上げているあいだ、それは一度も瞬きをしなかった。
ミカは、角の向こうまで歩いて、石畳のあの場所に立った。
風が、道の奥から来た。
髪が横へ流れて、口の中に入った。
初日も、同じことがあった。
その日、この道の向こう側で、人が死んだ。
今日は、この道で死んだ。
二回とも、同じ建物の裏だった。
二回とも、外傷がなかった。
二回とも、その日のうちに、そこへ近づいた人がいた。
近づいた人が、死んでいる。
ミカは、そこまでを、はっきり並べた。
並べた先に、続きがあった。
続きは、名前の形をしていた。
朝、カヨコが日誌に触れた。
最後に触ったのは、と言った。
あのとき、全員がすぐに納得した。
納得させたのは、記録係だから、という一言だった。
その一言を最初に言ったのは、ハルカだった。
ハルカに言わせたのは、誰でもない。
誰でもないから、余計に悪い。
ミカの口の中が、乾いていた。
舌の上に、名前が乗っている。
乗っているのが分かるくらい、重かった。
喉が動いた。
動いたけれど、声にならなかった。
声にすれば、それは根拠になる。
根拠になったものは、消えない。
昨日、この耳が、そう聞いた。
ミカは、目を閉じた。
閉じた裏側に、壊れた壁があった。
瓦礫があった。
こちらへ向けられた銃口があった。
あのとき、耳のすぐ後ろで、誰かが囁いた。
囁きは、優しかった。
優しくて、こちらの言いたいことを、こちらより先に言った。
だから、乗った。
乗って、指を差した。
差した先にいた人のことを、ミカは今でも覚えている。
覚えているから、動けない。
あのときの自分と、今の自分の違いを、証明できるものが何もない。
ミカは目を開けた。
握った拳が、手袋の中で汗をかいていた。
ミカは、その拳を、指の先まで開いた。
開いた掌に、名前は残らなかった。
残らないだけで、消えてもいなかった。
壁の上の細い空に、星はなかった。