二十時まで、あと四十分あった。
ハルカの居室の扉は、開いたままにしてあった。
閉めれば閉じ込めることになると、誰かが言ったからだ。
中で、ハルカは寝台の縁に座っていた。
膝の上に両手を置いて、床の一点を見ている。
ハルカ「すみません」
コハル「な、なんで謝るの。私、まだ何も言ってないよ」
ハルカ「……すみません」
コハルは廊下へ出てきて、扉の横の壁に背をつけた。
コハル「だめだ。私の声、届いてない」
ヒナ「届いてはいるわ。返す形が、それしか残っていないだけ」
ヒナは腕を組んだまま、扉の中を見ていなかった。
見ないようにしている、という見え方だった。
コハル「ヒナ先輩。ハルカ先輩、置いていってあげようよ」
コハル「あの部屋にいてもらって、私たちだけで行けばいい」
コハル「行っても、何も言えないよ。言えない人を座らせて、何になるの」
ヒナ「私も、そうしたい」
コハル「じゃあ」
ヒナ「できるかどうかを、まだ確かめていない」
ユウカが廊下の角から戻ってきた。
その後ろに、細い脚の音がついてきていた。
ユウカ「確かめました。二回、言い方を変えて聞いています」
ユウカ「ゴクチョー。もう一度、全員の前で答えてください」
ゴクチョー「収容者は、開廷時刻に法廷の自席へ着席していなければなりません」
ユウカ「欠席者が出た場合は」
ゴクチョー「開廷しません。開廷しない限り、審理は終わりません」
ユウカ「審理が終わらない場合は」
ゴクチョー「居住区への帰還は許可されません」
ホシノ「うへ~……」
ホシノ「置いてったら、全員そこで止まる、ってことだねえ」
ゴクチョー「そのとおりです」
ユウカ「では、退廷について。審理の途中で、体調を崩した者が出たら」
ゴクチョー「審理中の退廷は認められません」
ユウカ「医務室へ運ぶこともですか」
ゴクチョー「認められません」
ユウカ「……回答は用意されていない、とは言わないんですね」
ゴクチョー「規定にあるものは、お答えします」
脚の音が、廊下を叩いて遠ざかった。
誰も、すぐには動かなかった。
ナギサ「連れて行くしか、ありません」
ナギサの声は、いつもより短かった。
ナギサ「それ以外の選び方が、私たちの側にありません」
コハル「でも、連れて行ったら、途中で出られないんでしょ」
ナギサ「はい」
コハル「じゃあ、どっちも同じじゃない」
ナギサ「同じではありません。連れて行けば、審理は始まります」
ナギサ「始まったものは、終わる可能性があります」
コハル「……ナギサ先輩は、それでいいの」
ナギサ「よくありません」
ナギサ「よくないことを、よくないまま選ぶ場面が、ここには多すぎます」
ナギサは、それ以上、言葉を足さなかった。
足せば重くなると、この人は知っている。
知っているから、いちばん重い場面で、いちばん短く喋る。
ミカは、扉の枠に手をかけた。
白い床に、ハルカの上履きの先が見えている。
置いていけば、全員が動けない。
連れて行けば、この子が動けない。
どちらを選んでも、この子は同じ場所へ行く。
選ばせる形が、最初からそうなっていた。
ミカ「……よくできてるね」
ホシノ「うん。おじさん、今ちょっと感心しちゃった」
ホシノ「感心したくないのに、感心の形になるんだよねえ」
コハルが、壁から背中を離した。
コハル「ハルカ先輩が、行く理由が」
そこで、コハルの口が止まった。
続きの形を、コハルは知っていた。
知っていたのに、出てこなかった。
その言い方をしていた人は、今日の夕方まで、この廊下を歩いていた。
誰も、あとを引き取らなかった。
ミカ「ハルカちゃん」
ハルカ「……すみません」
ミカ「行こっか」
ハルカ「はい」
ミカ「歩ける?」
ハルカ「歩けます」
ハルカは立ち上がって、二歩目で壁に手をついた。
ミカは、その腕を取った。
軽かった。
朝から、この子は何も食べていない。
ハルカ「すみません」
ミカ「うん」
謝る理由がないでしょ、とは言わなかった。
その言葉が効かないことを、今日の夕方、この口で確かめている。
礼拝堂の地下は、一昨日より冷えていた。
円形の法廷に、十三の椅子が等間隔に並んでいる。
背もたれの銀の帯に、名前が浮かんでいた。
棗イロハ。
鬼方カヨコ。
空いた椅子が、二つになっていた。
二つは、隣り合っていなかった。
離れているぶん、円のどこを見ても、どちらかが目に入った。
ハルカの席は、その片方の隣だった。
座らせるまでに、ミカは一度、息を止めた。
ゴクチョー「開廷します」
ゴクチョー「議題は、収容者・鬼方カヨコの死亡を引き起こした魔女の特定です」
ナギサ「手順は、前回と同じにします」
ナギサ「事実の確認。所在の確認。質問。推測は、推測だと断ってから」
ナギサ「発言中に、遮らないこと」
それだけ言って、ナギサは座った。
一昨日は、そのあとに一言あった。
今日は、なかった。
ユウカ「事実を読みます」
ユウカ「鬼方さんの発見は、十七時三十一分。温室裏の搬入路、角を折れた先です」
ユウカ「外傷なし。争った跡なし。ヘイローなし」
ユウカ「最後に姿を見たのは、聖園さんです。十六時三十八分、収容棟の廊下」
ユウカ「それ以降、誰も見ていません。空白は五十三分」
ノア「所在を読み上げます。十六時三十八分から、十七時二十二分まで」
ノア「食堂に、私、早瀬さん、静山さん、空崎さん、白洲さん、伊草さん」
ノア「厨房に、小鳥遊さんと砂狼さんと下江さん。三人で、明日の分を数えていました」
ノア「聖園さんは、十六時四十分に食堂へ入っています」
ノア「錠前さんは、十六時五十分に食堂を出ました。戻られたのは、十七時五分です」
ユウカ「行き先を、確認します」
サオリ「北の廊下だ」
ユウカ「一人で、ですか」
サオリ「そうだ」
ユウカ「北の廊下は、搬入路の出口に繋がっています」
サオリ「繋がっている」
ユウカ「取り決めの一つ目に、違反しています」
サオリ「している」
弁解が来ると思って、ミカは待った。
来なかった。
ヒナ「質問に移る前に、一つ確かめさせて」
ヒナが、円をひと巡り見た。
ヒナ「今この部屋で、錠前サオリの名前を思い浮かべていない人はいる?」
誰も、手を挙げなかった。
ヒナ「なら、抱えているより、出した方がいい」
ヒナ「出せば、反論の機会がある。黙っていれば、機会のないまま票になる」
ユウカ「……私から言います。数の話だけをします」
ユウカ「一度目。棗さんの傍にいたのは錠前さんです。三人が見ています」
ユウカ「二度目。現場の出口へ繋がる廊下に、一人でいた時間が十五分あります」
ユウカ「二度とも、というのは、偶然として起こりにくい形です」
ユウカ「起こりにくい、というだけです。起こらない、とは言っていません」
ユウカは、紙を見ていなかった。
見なくても、数は全部そこにあるのだと思った。
ユウカ「私は、これを言いたくありませんでした」
ユウカ「ですが、言わずに数え続ける方が、もっとよくないので」
コハル「……私も、いい?」
コハルは膝の上で両手を握っていた。
コハル「私、サオリさんのこと、嫌いじゃないよ。ほんとに」
コハル「でも、どこにいるか、いつも分かんないの」
コハル「みんなで動いてても、気づいたら端っこにいて、気づいたらいなくて」
コハル「怖いのはサオリさんじゃなくて、分かんないところなんだけど」
コハル「でも、それ、私の中だと、同じ棚に入っちゃう」
コハル「……ごめんなさい。今の、推測です」
ノア「推測として、記録します」
ヒナ「三つ目は、私が言うわ」
ヒナ「錠前サオリは、自分の魔法を申告していない。この部屋で、ただ一人」
ヒナ「取り決めの三つ目は、詳細の申告を義務にしていない。そう決めたのは私よ」
ヒナ「だから、これはあの人の違反じゃない。私が空けた穴」
ヒナ「穴だと分かった以上、塞ぐ話を、私がしないわけにいかない」
ミカ「……ヒナちゃん」
ヒナ「聖園ミカ。庇うつもりなら、あとにして」
ヒナ「今は、理由を全部外に出す時間よ」
ミカは口を閉じた。
この人は、仕切ることが暴力になると知っていて、それでも仕切る。
知らずにやる人より、たぶん、ずっと痛い。
そこで、円が静かになった。
四つ目があることを、全員が知っていた。
知っていて、誰も触らなかった。
ホシノ「……じゃ、おじさんが言うね」
ホシノ「言いたくないよ。ほんとに」
ホシノ「でも、誰も言わないと、それって、みんなの頭の中にだけ残るでしょ」
ホシノ「頭の中に残ったやつって、紙の上にしか出てこないからねえ」
ホシノ「一昨日、サオリちゃんは自分で言った。前に、人を殺すための場所にいたって」
ホシノ「それが四つ目。これで、全部外に出た」
ホシノ「あ、先に言っとくけどね」
ホシノ「おじさんは、これが四つの中でいちばん弱い理由だと思ってる」
ホシノ「昔どこにいたかで人を選ぶなら、この島は、最初から全員そうだから」
アズサ「その場所には、私もいた」
声が短すぎて、一拍遅れて意味が届いた。
アズサ「同じ理由が成り立つなら、私も条件を満たす。数に入れてくれ」
サオリ「アズサ」
アズサ「何だ」
サオリ「やめろ」
アズサ「断る」
サオリが今夜、初めて名前で呼んだ相手だった。
呼ばれた方は、視線を落とさなかった。
ヒナ「四つ、出たわ。錠前サオリ。反論の機会は、四回ある」
サオリ「一つ目は、事実だ」
サオリ「二つ目も、事実だ」
サオリ「三つ目も、事実だ」
サオリ「四つ目も、事実だ」
ユウカ「否定する部分は、ないんですか」
サオリ「ない」
ミカ「じゃあ、説明は」
サオリ「……確かでないことは、言えない」
ミカ「それ、一昨日も聞いた」
サオリ「同じ質問だからだ」
ナギサ「錠前さん。一つだけ、形を変えて聞きます」
ナギサ「あなたが黙っているのは、あなた自身のためですか」
ナギサ「それとも、誰かのためですか」
サオリは、少しだけ間を置いた。
サオリ「……確かでないことは、言えない」
ナギサは頷いて、それ以上は聞かなかった。
ミカには、分かっていた。
この人は、嘘をつかないために黙っている。
黙っているあいだ、差し出せるものが何もなくなる。
誰も、この人を陥れようとしていない。
受け取れるものが、ないだけだ。
受け取れなかったものは、疑いの形のまま、そこに残る。
ゴクチョー「投票を行います。棄権は可能です」
小さな四角い紙と、短い鉛筆が回ってきた。
ミカは、自分の紙を折らずに置いた。
ゴクチョー「有効票、四。錠前サオリ、四」
ゴクチョー「過半数に達していません。審理を継続します」
ユウカ「棄権は、七です」
ノア「票の流れを、整理しておきますね」
ノア「一回目。錠前さんに四。棄権が七」
ノア「どなたが入れたかは、記録していません。数だけです」
ノア「次に動いたところが分かるように、並べておきます」
ユウカ「助かります」
ノア「はい」
ノアの鉛筆が、迷わずに動いた。
読みやすい字が、四という数字の形を作った。
そこから、同じ話が二巡した。
廊下。棚。九分。過去。
二巡目には、質問の形だけが少しずつ変わっていった。
ユウカ「錠前さん。北の廊下で、何をしていたんですか」
サオリ「歩いていた」
ユウカ「目的は」
サオリ「……確かでないことは、言えない」
ユウカ「目的は、あなたの中にあるものです。確かも不確かもないでしょう」
サオリ「ある」
ユウカ「では、言ってください」
サオリ「言えば、それが誰かの根拠になる」
ユウカ「なりません。私は、根拠の扱いを間違えません」
サオリ「お前は間違えない。ここにいるのは、お前だけではない」
ユウカが、言葉を止めた。
止めたまま、しばらく座り直さなかった。
コハル「……あのさ」
コハル「私、さっき入れたよ」
誰も、それを咎めなかった。
コハル「無記名なのは知ってる。知ってるけど、黙ってるのが怖くなった」
コハル「ごめんなさい、サオリさん」
サオリ「謝るな」
コハル「え」
サオリ「入れた人間が謝ると、入れなかった人間が言えなくなる」
コハルは、口を開けたまま、二度まばたきをした。
この人は、いつもそうだ。
言い方が硬いのに、向いている先だけが、いつも人の側にある。
新しい材料は、それでも一つも出なかった。
ゴクチョー「投票を行います」
ゴクチョー「有効票、五。錠前サオリ、五」
ユウカ「棄権、六」
ユウカ「あと一票で、過半数です」
言ってから、ユウカは口を閉じた。
言わなくてもいい数字だった。
言ってしまったことに、この人はもう気づいている。
誰も、次の言葉を出さなかった。
出せば、それが六つ目になるかもしれなかった。
円の端で、椅子が鳴った。
ハルカが、両手で自分の膝を掴んでいた。
手の甲が、白かった。
ハルカ「……サオリさんだったら、いいのに」
小さい声だった。
小さいのに、円のどこにいても届いた。
ハルカの口が、まだ開いたままだった。
自分の声を、あとから聞いたような顔をしていた。
ハルカ「あ」
ハルカ「今の」
ハルカ「わ、私、今」
ハルカは両手で口を覆った。
覆っても、間に合っていない。
ハルカ「ごめんなさい」
ハルカ「ごめんなさい、サオリさん、ごめんなさい」
誰も動かなかった。
動けば、その言葉に形を与えてしまう。
コハル「……今のは、聞かなかったことにしよ」
コハル「ね。誰も聞いてない。私も聞いてない」
コハル「そういうことにしよ」
コハルは必死だった。
必死な人の言うことは、たいてい優しい。
ハルカ「いやです」
ハルカの声が、初めてはっきりした形をした。
ハルカ「聞いてください」
ハルカ「私が、言いました」
コハル「で、でも」
ハルカ「なかったことにしたら」
ハルカ「私、また、同じことを考えます」
ハルカ「考えて、今度は、紙に書きます」
その先を、ハルカは言わなかった。
言わなくても、全員に届いていた。
ノア「記録しますか」
ハルカ「……してください」
ハルカ「全部、そのまま」
ノア「はい」
ノアの鉛筆が動いた。
途中で止まらない字だった。
ミカは、その紙を見ていた。
紙の上で、この子の言葉が、いちばん確かなものになっていく。
この子は、悪くない。
悪くない人の言葉が、いちばん重く残る。
この部屋は、そういうふうにできている。
サオリ「伊草ハルカ」
ハルカ「……はい」
サオリ「今のは、正しい」
ハルカ「え」
サオリ「私がお前の席にいたら、同じことを思う」
サオリ「思ったものが、そのまま口から出た。それだけだ」
慰めの形をしていなかった。
していないから、ハルカの肩から、少しだけ力が抜けた。
ヒナ「錠前サオリ。今のは、あなたに不利よ」
サオリ「知っている」
ミカ「待って」
ミカは、立たなかった。
立てば、声が大きくなると分かっていた。
ミカ「先に言っとくね」
ミカ「私は、この人を信じてない。でも、足りない」
サオリが、こちらを見た。
ミカは、見返さなかった。
ミカ「一昨日から、ずっと疑ってる。今も疑ってる」
ミカ「その上で言うけど、足りない」
ユウカ「何が、足りないんですか」
ミカ「材料」
ミカ「今、理由が四つ出た。私、全部ちゃんと聞いてたよ」
ミカ「四つとも、あの人がどういう人かって話だった」
ミカ「カヨコちゃんがどうやって死んだか、って話は、一個もなかった」
誰も、すぐには言い返さなかった。
ヒナ「……続けて」
ミカ「ユウカちゃん」
ユウカ「はい」
ミカ「並べ直して」
ユウカ「何を、どの順番で」
ミカ「今まで出た証言、全部。時刻順じゃなくて、確かさの順で」
ミカ「確かなものから並べて、どこで途切れるかを見たい」
ユウカは一度だけ目を閉じて、それから話し始めた。
ユウカ「一つ目。九分」
ユウカ「一度目の死亡のとき、生塩ノアが棗さんと別れたのが十五時十分」
ユウカ「錠前さんが温室へ着いたのが、十五時十九分」
ユウカ「この九分は、いまも空いたままです」
ユウカ「ただし、十五時十分は生塩ノアの申告だけが根拠です」
ユウカ「十五時十九分も、錠前さんの申告だけが根拠です」
ユウカ「確かさは、同じです」
ノア「はい。そう記録してあります」
ノアは、表情を変えなかった。
自分の名前が並べられることを、この子はいつも受け入れる。
一昨日、ミカはそれを、できることではないと思った。
今夜も同じことを思った。
思ったのに、思い方が、少しだけ違っていた。
ユウカ「二つ目。告知の嘘」
ユウカ「昨日、死亡発見告知が出て、撤回されました」
ユウカ「あれ以降、この島の記録は、無条件には信用できません」
ユウカ「システムが嘘をつくのか、システムを騙せる者がいるのか。どちらかです」
ユウカ「どちらであっても、現場で確認したという事実の重さが、一段下がります」
ユウカ「三つ目。保管庫の扉の刻み」
ユウカ「十三人の名前のうち、生塩ノアの刻みだけが新しい。理由は不明のままです」
ヒナ「意味の分からないものに意味をつけない。そう決めたはずよ」
ミカ「つけないよ。並べるだけ」
ユウカ「未解決として、並べます」
ユウカ「四つ目。温室の植木棚」
ユウカ「鬼方さんの力で、脚に残った跡の順序が分かりました」
ユウカ「最後に触れたのは棗さん。その下に、錠前さん」
ユウカ「錠前さんの方が、古い」
ユウカ「錠前さんが棚に細工をして、棗さんがそれに触れた、という筋は成り立ちません」
ミカは、そこで片手を挙げた。
ミカ「その筋、私が持ってた」
ミカ「三日間、口に出さずに持ってた」
ミカ「今、自分で捨てる」
誰も、それを褒めなかった。
褒めるようなことではなかった。
ミカ「四つ並んだ。確かさの高い順に、九分、告知、刻み、棚」
ミカ「上の三つは、誰のことも指してない」
ミカ「いちばん下の一つは、あの人を外す方に効いてる」
ミカ「この状態で名前を書くのは、順番が違う」
ミカ「私たちは今、確かなものから選んでない。言いやすいものから選んでる」
アズサ「聖園ミカ」
ミカ「何」
アズサ「その並べ方だと、いつまでも誰も選べない」
ミカ「そうだよ」
アズサ「分かって言っているのか」
ミカ「分かってる」
ミカ「選べないうちは、誰も減らない」
アズサ「……そうか」
アズサは、それ以上聞かなかった。
いつもの返事だった。
いつもの返事のはずだった。
言い終えて、ミカは、口の中に一つ残っているのを感じた。
今度は、疑う順番を間違えない。
一昨日の夕方、温室の入口で、自分でそう言った。
ここで言えば、この部屋は静かになる。
黙らせるための言葉ではなかった。
言えば、それは正しさの形をして、ここに残る。
残ったものは、消えない。
一昨日、この部屋で、それを見た。
ミカは、袖の中で拳を握って、指の先まで開いた。
開いた掌の上に、その言葉を置いたままにした。
サオリ「ミカ」
ミカ「庇ってないから」
サオリ「分かっている」
ミカ「分かってるなら、黙ってて」
サオリ「……ああ」
サオリの手が、膝の上で位置を変えた。
右の手袋の裂け目が、ちょうど隠れる置き方だった。
隠したことに、たぶん、ミカだけが気づいた。
ゴクチョー「投票を行います」
鉛筆の音が、十一人分。
そのうち八つは、動かなかった。
ゴクチョー「有効票、三。錠前サオリ、三」
ゴクチョー「過半数に達していません。審理を継続します」
ユウカ「棄権、八」
ノア「三回目です。四、五、三と動きました」
ノア「増えたのが二つ、減ったのが四つ」
ノア「減ったのは、聖園さんが話したあとです」
ミカ「……そういうの、いちいち言うんだ」
ノア「言った方がいいと思いました」
ノア「同じ話をもう一度されると、また同じだけ動きますから」
ノア「動いた理由までは、私には分かりません。数だけです」
ミカは、それ以上聞かなかった。
聞く理由が、思いつかなかった。
そこから先は、時間の方が長くなった。
同じ話が、三度繰り返された。
三度目には、言葉の角が取れていた。
四度目には、誰も新しい言い方をしなくなった。
法廷の照明は、一度も落ちなかった。
高さの変わらない白い光が、十三の椅子を等しく照らしている。
影が伸びないから、時間が動いている感じがしない。
ホシノが帽子のつばを下げた。
シロコが、その袖を掴んだ。
コハルが咳をした。
乾いた咳が、二度続いた。
二度目のあと、コハルは自分の口を手で押さえた。
押さえても、しばらく肩が動いていた。
ホシノ「ゴクチョーさん。水は」
ゴクチョー「審理中の給水は行いません」
ホシノ「うへ~。……知ってた」
ミカの腹が、痛みではない形で鳴った。
朝から食べたのは、パンの半分だけだった。
ミカは、円の向こうのシロコを見た。
昨日の夕方から、この子は一言も喋っていない。
ミカ「シロコちゃん」
シロコ「ん」
ミカ「あの道のこと。もう、言える?」
シロコは、しばらく黙っていた。
シロコ「まだ」
ミカ「まだなんだ」
シロコ「確かめてから言う」
シロコ「今言うと、たぶん、みんなが動く」
ミカは、頷いた。
同じことを言う人が、この部屋に二人いる。
二人とも、口を閉じることで、誰かを守っているつもりでいる。
守られている側は、そのぶん、誰かを疑い続ける。
それが親切なのか、そうでないのか、ミカにはまだ決められなかった。
ユウカ「四時十二分です」
コハル「え」
ユウカ「今、四時十二分。開廷から八時間十二分です」
コハル「な、なんで分かるの。時計、ないのに」
ユウカ「分かるんです」
ユウカ「数えていません。ただ、そこにあります」
地下には、窓がなかった。
夜が明けたことを、誰も見ていない。
見ていないから、誰も、そうだとは言わなかった。
言わないまま、全員が知っていた。
ハルカの隣の椅子は、まだ空いたままだった。
誰も、そこへ荷物を置かなかった。
ミカは、椅子の背にもたれて、腕を組み替えた。
袖がずれて、左手首が見えた。
銀の輪の内側に、黒い線が七本あった。
昨日の夜は、六本だった。
この部屋に入ってから、魔法は一度も使っていない。
使わなくても、増える。
増える理由の方には、心当たりが多すぎた。
ミカは、袖を戻した。
ナギサは、円の反対側に座っていた。
手順を決めたあと、この人は一度も発言していない。
ミカは、その姿勢が二度、崩れかけたのを見ていた。
一度目は、コハルが理由を言ったとき。
二度目は、ハルカが謝ったとき。
どちらも腰が浮きかけて、そのまま座り直した。
隣のヒナが、そちらを見た。
ヒナ「静山ナギサ」
ナギサ「はい」
ヒナ「使わないのね」
ナギサの指が、膝の上で一度だけ動いた。
ナギサ「……気づいていましたか」
ヒナ「二回、立ちかけたでしょう」
ヒナ「あなたが今ここで話せば、この部屋は五分で決まる」
ヒナ「決まるように、聞こえてしまうから」
ナギサ「はい」
ナギサ「使えば、勝てます」
ナギサ「だから、使いません」
ヒナは、しばらく黙っていた。
ヒナ「そう」
ヒナ「……その分だけ、ここが長くなるわね」
慰めでも、褒め言葉でもなかった。
ナギサは、それを受け取って、頷いた。
ナギサ「はい。長くします」
ミカは、そのやり取りを半分だけ聞いていた。
全部聞いたら、自分が何かを言ってしまいそうだった。
五時を過ぎたころ、ゴクチョーがもう一度、投票を告げた。
四回目の数字は、三回目と同じだった。
同じ数字を聞いても、誰も反応しなかった。
反応する体力が、円の中に残っていなかった。
ユウカ「九時間半です」
ユウカ「前回の審理は、四時間で終わりました」
ユウカ「今回は、その二倍を超えました」
ヒナ「終わらせ方が、一つしか用意されていないからよ」
ヒナは、そこで言葉を切った。
切った先を、全員が持っていた。
椅子が鳴った。
これまでとは、鳴り方が違った。
滑るような音がして、円の端で、ハルカの体が傾いた。
コハル「ハルカ先輩」
コハルが先に動いた。
ミカも動いた。
二人で受け止めて、床へ下ろした。
軽かった。
支えたときより、下ろすときの方が軽く感じた。
ヒナ「伊草ハルカ。聞こえる?」
返事はなかった。
息はしていた。
浅くて、速かった。
ホシノ「脈は」
ヒナ「ある。速いわ」
ホシノ「顔、白いねえ。……水も飯もなしで、九時間だもん」
ホシノがハルカの額に手を当てた。
当てて、少しのあいだ、そのままでいた。
ホシノ「起こさない方がいいね。少しだけ、眠らせとくよ」
ホシノ「痛いのは、止まるから」
ヒナ「使ったと、あとで言いなさい」
ホシノ「うん。ちゃんと言う」
ハルカの呼吸が、少しだけ深くなった。
深くなっただけで、顔の色は戻らなかった。
ミカ「医務室」
ミカ「運ぶよ。誰か、足持って」
ゴクチョー「審理中の退廷は認められません」
ミカは、ゴクチョーを見た。
ミカ「この子、死ぬよ」
ゴクチョー「回答は用意されていません」
ミカ「規定を聞いてない。人が倒れてるって言ってる」
ゴクチョー「審理中の退廷は認められません」
同じ文が、同じ高さで返ってきた。
壊しても命令した者は痛くない、という言い方を、ミカは思い出した。
思い出したところで、殴る先がない。
ミカは、上着の内側から白い布を出した。
一昨日から、ずっと持っていたものだ。
畳んで、ハルカの頭の下へ入れた。
床が、少しだけ遠くなった。
今できることは、それで全部だった。
ナギサ「ゴクチョー。規定の確認を、もう一つ」
ナギサ「この状態で伊草さんが死亡した場合、それは、審査完了として処理されますか」
ゴクチョー「そのとおりです」
ナギサ「……分かりました」
ナギサは、そこで初めて、両手を握った。
握った手を、膝の上へ置き直した。
置き直す動きが、丁寧すぎた。
照明は、落ちなかった。
落ちる気配もなかった。
誰も、帰れなかった。
円の向こうで、椅子が一つ鳴った。
立ったのは、誰も見ていなかった席だった。
アズサ「私を指名しろ」