立ったのは、いちばん動かない席だった。
円の中で、アズサの椅子だけは、一度も鳴ったことがなかった。
ミカは床に膝をついたまま、そちらを見上げた。
ハルカの頭の下の布が、少しずれていた。
直そうとした手が、途中で止まった。
アズサ「聞こえなかったなら、もう一度言う」
アズサ「私を指名しろ」
ヒナ「白洲アズサ。座って」
アズサ「断る」
ヒナ「発言は認めるわ。立っている必要はない」
アズサ「ある」
アズサ「座ると、聞かなくてよくなる」
ヒナが、口を閉じた。
閉じたあとで、腕を組み直した。
組み直す動きが、いつもより遅かった。
アズサ「条件を並べる。四つある」
アズサ「一つ。私は昔、錠前サオリと同じ場所にいた」
アズサ「さっき出た四つ目の理由は、私にもそのまま成り立つ」
アズサ「二つ。私は魔法を申告している。消える、と言った」
アズサ「内容を、誰も確かめていない」
アズサ「三つ。所在の証言で、私の名前は必ず他人の口から出ている」
アズサ「私が自分で言った時刻は、一つもない」
アズサ「四つ。私は、二度の死亡のどちらでも、質問されていない」
アズサ「一度も疑われていない者が、この部屋に一人だけいるのは、形として不自然だ」
言い終わって、アズサは息を吸い直さなかった。
最初から、それだけの息で足りる長さに切ってある。
ユウカ「……数を、訂正します」
ユウカが立った。
紙を持っていなかった。
ユウカ「三つ目は、成り立ちません」
ユウカ「昨日の十六時三十八分から十七時二十二分まで、あなたは食堂にいます」
ユウカ「証言したのは、生塩ノアです。私も、その場にいました」
アズサ「六人いた」
ユウカ「はい。六人です」
アズサ「六人が、同じ方向を向いていた時間は、どれだけある」
ユウカが、答えなかった。
答えられないのではなく、答えが分かっていて、言いたくない顔だった。
アズサ「私は、席にいた。それは本当だ」
アズサ「だが、いた、と言えるのは、見ていた人間の記憶だけだ」
アズサ「記憶は、昨日、一度嘘をついた」
ユウカ「あれは、記憶ではありません。システムです」
アズサ「同じだ。ここでは、どちらも証言として扱われている」
ユウカ「……扱いは、同じです」
ユウカ「ですが、白洲さん。あなたの並べ方には、順番の誤りがあります」
ユウカ「あなたは、疑われる条件を数えています」
ユウカ「鬼方さんがどうやって死んだかを、一つも数えていません」
ユウカ「それは、さっき聖園さんが指摘した誤りと、まったく同じ形です」
アズサ「知っている」
アズサ「私は、聖園ミカの話を聞いていた」
アズサ「聞いた上で、こうしている」
ミカは、床から立ち上がった。
立ち上がる途中で、膝が鳴った。
九時間、同じ姿勢でいた膝だった。
ミカ「アズサちゃん」
アズサ「何だ」
ミカ「じゃあ、なんで」
アズサ「終わらないからだ」
アズサ「四回、数えた。四、五、三、三」
アズサ「動いていない。動く材料が、この部屋にない」
アズサ「材料が出るまで待つ、というのが聖園ミカの案だ」
アズサ「正しい。だが、待つ場所に、水も食事もない」
アズサ「伊草ハルカは、床にいる」
アズサ「次に倒れる人間の順番も、たぶん決まっている」
アズサ「誰かが死なないと終わらないなら、選べる形で死ぬ方がいい」
アズサ「私が最も条件を満たす。それだけの話だ」
誰も、すぐには何も言わなかった。
言えなかったのだと、ミカには分かった。
この子の並べ方には、隙がない。
隙がないのは、正しいからではない。
自分の値段を、何度も数え直した人の並べ方だからだ。
ヒナ「議長として言うわ」
ヒナ「この提案を、議題から外す」
ゴクチョー「収容者は、自身を指名の対象として推挙することができます」
ゴクチョー「妨げる規定はありません」
ヒナ「私が妨げると言っている」
ゴクチョー「議事の進行に関する権限は、収容者に付与されていません」
ゴクチョー「順序の調整のみが認められています」
ヒナ「……順序を調整するわ。この提案は、最後に回す」
ゴクチョー「そのように記録します」
ヒナは座らなかった。
立ったまま、円の反対側を見た。
ヒナ「錠前サオリ。あなたが言うべきよ」
サオリ「分かっている」
サオリの声は、低かった。
低いのに、震えていなかった。
震えていないことが、いちばん嫌な感じだった。
サオリ「アズサ」
アズサ「何だ」
サオリ「お前は、そこにいろ」
アズサ「理由を言え」
サオリ「……」
アズサ「言えないなら、私は続ける」
サオリの手が、膝の上から離れた。
離れた手が、行き先を見つけられずに、椅子の縁を掴んだ。
ミカは、その人が息を吸うところを見た。
この人が、話す前に息を吸うのを、ミカは初めて見た。
サオリ「私たちのいた場所には、名前を呼ぶ習慣がなかった」
サオリ「番号で足りた。足りるように作られていた」
サオリ「呼ばれないと、自分がどこにいるか分からなくなる」
サオリ「分からなくなった方が、都合がよかったからだ」
サオリ「お前は、そこから出た」
サオリ「出た先で、名前で呼ばれている」
サオリ「呼んでいる人間の顔を、私は知らない」
サオリ「だが、呼ばれていることは知っている」
サオリ「お前が、名前で返事をするようになったからだ」
アズサは、動かなかった。
瞬きの間隔だけが、少し変わった。
サオリ「ここで死ぬと、その名前を呼ぶ場所が、呼ぶ相手をなくす」
サオリ「呼ぶ相手をなくした場所は、そのあと、番号に戻る」
サオリ「戻るのを、私は一度見た」
サオリ「二度は、見ない」
円の中が、静かだった。
ミカは、数えた。
この人が、これだけ続けて喋ったことは、一度もない。
理由を後から言う癖のある人が、今、理由だけを喋っている。
喋っているあいだ、この人は誰の顔も見ていない。
それが、この人にとっての異常事態の形だった。
アズサ「サオリ」
サオリ「何だ」
アズサ「それは、私が死んだ後の話だ」
アズサ「私の話をしていない」
サオリ「……」
アズサ「私は、私の使い道の話をしている」
サオリの手が、椅子の縁を握り直した。
手袋の裂け目が、開いた。
サオリ「使い道と言うな」
アズサ「他に言い方がない」
サオリ「私にも、ない」
サオリ「ないから、こういう言い方になる」
サオリ「……お前を、そういうふうに使うな」
サオリ「他の誰にも使わせない。お前にも、使わせない」
言い方が、まるで下手だった。
命令形で、理由がなかった。
いつものこの人の喋り方に、そこだけ戻っていた。
戻ったところが、いちばん本気だった。
アズサ「……そうか」
アズサ「だが、断る」
サオリは、それ以上言わなかった。
言葉を持っていなかったのだと思う。
持っていないものは、出せない。
ミカは、自分の掌を見た。
それから、円の中央を見た。
ミカ「アズサちゃん」
アズサ「何だ」
ミカ「それ、私が一番嫌いなやり方」
アズサ「理由を」
ミカ「聞かれると思った」
ミカ「あのね。もう痛くない人を選ぶのって、いちばん楽なんだよ」
ミカ「痛くない人は、文句を言わないから」
ミカ「あんたは、今から痛くなくなる予定の人でしょ」
ミカ「予定で選ぶのも、同じだから」
言い終わって、ミカは口の中で舌を止めた。
止めたのに、遅かった。
もう痛くない人を選ぶ。
その言い方を、この部屋で最初に使ったのは誰だったか。
一昨日の夜だ。
この床の、同じ場所だ。
私たちは犯人じゃなくて魔女を選べって言われてる。だったら、もう傷つかない人を選ぶ。
あれは、自分の声だった。
自分の声で、自分の言葉で、この部屋にその形を置いた。
置いたものは、消えない。
消えないから、こうして誰かが同じ形を持ってくる。
ミカ「……あ」
コハル「ミカ先輩?」
ミカ「これ、私だ」
声が、思ったより小さく出た。
ミカ「私が最初にやったやつだ」
ミカ「一昨日、私が同じこと言った」
ミカ「イロハちゃんは、もう傷つかないから、って」
ミカ「あんたのは、順番が一つ前なだけで、中身、おんなじじゃんね」
誰も、否定しなかった。
否定できるだけの記憶が、全員にあった。
アズサ「聖園ミカ」
ミカ「何」
アズサ「お前の案の方が正しかった」
ミカ「……は」
アズサ「棗イロハは、選ばれても何も失わない」
アズサ「私は、まだ生きている。だから、私の方が高い」
アズサ「高い方を出すのが、順番として正しい」
ミカは、二歩、前に出た。
出たところで、拳を握った。
握って、指の先まで開いた。
開いた掌の中には、何もなかった。
殴る相手が、この部屋には一人もいない。
ミカ「あんた、それ」
ミカ「自分のこと、値段で言ってるって、気づいてる?」
アズサ「気づいている」
アズサ「他の数え方を、教わったことがない」
ホシノ「うへ~……」
ホシノが、帽子のつばを上げた。
上げた下の顔は、笑っていなかった。
ホシノ「アズサちゃん。おじさんの話、ちょっとだけ聞いてくれる?」
アズサ「聞く」
ホシノ「うん、いい子だねえ」
ホシノ「おじさんね、たぶんこの部屋でいちばん、そういう考え方に近いところにいた人間なんだ」
ホシノ「だから、言い方が分かる」
ホシノ「アズサちゃんの言ってることは、間違ってない。おじさんもそう数える」
ホシノ「でもね、いちばんきついのは、そこじゃないんだよ」
ホシノ「残った方が、明日からそれを使うことになるの」
アズサ「意味が分からない」
ホシノ「アズサちゃんの決め方が、明日の物差しになるってこと」
ホシノ「次に誰かが倒れたときにね、絶対、誰かが思うんだよ」
ホシノ「――あのときは、選べる形で終わらせたよねって」
ホシノ「思ったやつは、口に出さないよ。出さないまま、紙に書く」
ホシノ「そういうの、おじさん、もう見たくないんだよねえ」
アズサ「構わない」
ホシノ「構ってよ」
ホシノ「そこだけは、構ってほしいなあ」
アズサ「……小鳥遊ホシノ」
ホシノ「うん」
アズサ「お前の言い方は、他の全員より正確だ」
ホシノ「褒められてる感じがしないねえ」
アズサ「褒めていない」
アズサ「正確なだけで、私の順番は変わらない」
ホシノ「うん。変わらないって顔してる」
ホシノ「……おじさん、こういうとき、あと一枚だけ持ってるんだけどね」
ホシノ「使うと、たぶん、アズサちゃんを騙すことになるから、置いとくよ」
ホシノは、膝の上で両手を組んだ。
組んだ手を、それきり動かさなかった。
この人は、いちばん早い判断をする人だ。
その人が、使える手を置いたままにしている。
置いたままにする方が難しいことを、ミカは今夜、初めて知った。
アズサは、答えなかった。
答えないのは、返す言葉がないときのこの子の癖だった。
癖だと分かったのは、この四日で三度目だからだ。
ヒナ「……一つ、私の話をさせて」
ヒナ「昨日の夜、私は、理由を全部外に出そうと言ったわ」
ヒナ「抱えているより、出した方がいいと」
ヒナ「あれは、錠前サオリのためだと思って言った」
ヒナ「違ったのね」
ヒナ「四つ並べた棚を、私が作った」
ヒナ「白洲アズサは、その棚に自分を載せただけよ」
ユウカ「空崎さん。それは、飛躍です」
ヒナ「飛躍じゃないわ。順番の話よ」
ヒナ「並べ方を決める人間がいると、並べられる側は、その形に合わせる」
ヒナ「合わせられる子が、この部屋には多すぎた」
ミカ「ヒナちゃん」
ヒナ「聖園ミカ。庇うつもりなら、あとにして」
ミカ「庇ってないよ」
ミカ「それ、昨日の夜、あんたが私に言ったやつ」
ヒナ「……そうだったわね」
ヒナは、そこで初めて声を落とした。
この人の怒りは、声が低くなる形で出る。
今の低さは、たぶん、自分に向いていた。
ヒナ「静山ナギサ」
ナギサ「はい」
ヒナ「今、あなたが話せば、止まる」
ナギサ「はい」
ナギサ「止まります」
ナギサ「ですから、使いません」
ヒナ「……そう」
ヒナ「聞いておきたかっただけよ」
ナギサは、膝の上で手を組んだ。
組んだ手の指が、白かった。
ナギサ「空崎さん。一つ、申し上げます」
ナギサ「今、私は無力です」
ナギサ「言葉を積むことしかできません。積んだ分は、たぶん足りません」
ナギサ「足りないと分かっていて積むのは、初めてです」
ヒナ「それでも積むのね」
ナギサ「はい」
ナギサ「白洲さん。あなたの四つの条件には、共通点があります」
ナギサ「すべて、他人があなたをどう見るかの話です」
ナギサ「あなたが何をしたかの話が、一つもありません」
ナギサ「疑われる形をしていることと、やったことは、別です」
アズサ「別だ」
ナギサ「では、あなたはやっていないのですね」
アズサ「やっていない」
ナギサ「記録しました」
ナギサ「……ノアさん。今の一行を、消さないでください」
ノア「消しません。そのまま残します」
ノアの鉛筆が動いた。
いつもと同じ速さだった。
コハル「……あの」
コハルが立った。
立ってから、両手を胸の前で握った。
コハル「私、やっていい? 嫌だったら、やらない」
アズサ「何をだ」
コハル「見るの」
コハル「怖いものの、形」
円の中が、少し動いた。
誰かが、椅子の上で座り直した。
アズサ「好きにしろ」
アズサ「何も出ない」
コハル「……分かった」
コハルは、二度深呼吸をした。
二度目のあとで、目を細めた。
細めたまま、しばらく動かなかった。
それから、口が半分開いた。
コハル「見えた」
コハル「見えたけど」
コハル「……変なの」
ヒナ「コハル。落ち着いて言いなさい」
コハル「うん」
コハル「小さいの」
コハル「今まで見たやつの中で、いちばん小さい」
コハル「ホシノ先輩のときは、部屋いっぱいだった」
コハル「アズサさんの、手のひらくらいしかない」
コハル「小さいのに、輪郭がすごくはっきりしてる」
ユウカ「小さい、というのは。……薄いということですか」
コハル「ちがう」
コハル「濃いよ。ずっと同じ形でそこにあった、みたいな濃さ」
コハルの目が、少しだけ上を向いた。
見ているものを、探しているような動きだった。
コハル「……食堂だ」
コハル「朝の、食堂」
コハル「みんないる。ヒナ先輩も、ユウカ先輩も、ミカ先輩も」
コハル「配膳口が開いて、お皿が出てくるの」
コハル「数えたら、十枚あるの」
コハル「アズサさんの分が、ないの」
コハル「ないのに、誰も、変な顔しないの」
コハルの声が、そこで一度切れた。
コハル「誰も、困ってないの」
コハル「アズサさんがいなくても、そのまま朝ごはんが始まるの」
コハル「……それが、いちばん怖いやつだった」
アズサの返事が、一拍遅れた。
この四日で、この子の返事が遅れたのは、初めてだった。
アズサ「……見るな」
声の高さが、変わっていた。
変わったのは、ほんの少しだった。
ほんの少しで、全員が気づいた。
コハル「アズサさん」
アズサ「見るな」
コハル「アズサさん、怖いんじゃん」
コハルの目から、水が落ちた。
落ちてから、コハルは自分の頬を手の甲で押さえた。
コハル「ごめん、私、泣くつもりなかった」
コハル「でも、これ」
コハル「これ、ひどいよ」
コハル「アズサさん、死ぬのが怖くないって言ったんじゃないじゃん」
コハル「自分がいなくても何も変わらないのが、怖いんじゃん」
コハル「怖いから、変わる方を選ぼうとしてるんじゃん」
コハル「そんなの」
コハル「そんなの、選び方じゃないよ」
コハル「いなくても平気だって思われるのが怖いなら」
コハル「いなくならない方で、確かめたらいいじゃん」
コハル「明日の朝、お皿、十一枚あるよ」
コハル「私、数えるから」
アズサは、コハルを見なかった。
円の中央の床を見ていた。
その視線が、いちばん長く止まったのは、床にいるハルカの上だった。
サオリ「アズサ」
アズサ「もういい」
サオリ「よくない」
アズサ「サオリ。手続きに入る」
アズサが、目を閉じた。
それだけだった。
音も、光もなかった。
なかったのに、円の中の空気が、一段軽くなった。
軽くなるという言い方は正しくない。
そこに人が座っている感じが、抜けた。
ユウカ「……待って」
ユウカ「待ってください。数が」
ユウカ「今、この部屋に、十一人います」
ユウカ「私が把握できているのは、十人です」
ユウカ「一人分、足りません」
ユウカ「見えているのに、数に入りません」
ゴクチョー「照会します」
細い脚が、床を二度叩いた。
ゴクチョー「収容者・白洲アズサの所在登録に、欠落が生じました」
ゴクチョー「本審理の対象時刻について、当該収容者の所在は確認できません」
ゴクチョー「照合の結果、本件において所在の裏づけを最も欠く収容者は、白洲アズサです」
ゴクチョー「記録を更新しました」
ヒナ「取り消させて」
ゴクチョー「更新の取り消しに関する規定はありません」
ヒナ「本人がやったことよ。本人が戻せるでしょう」
ゴクチョー「そのように解釈することも可能です」
ゴクチョー「ただし、当該収容者からの申し出はありません」
アズサが、目を開けた。
アズサ「これで、条件は満たされた」
アズサ「一番上にいる。並べても、確かさの順で一番上だ」
アズサ「聖園ミカ。お前の順番で選んでいい」
ミカは、動けなかった。
動けなかったのは、体ではなかった。
この子は、四日かけて聞いていた。
誰が何を大事にしているかを、全部聞いていた。
聞いた上で、こちらの理屈の中でいちばん通る形に、自分を置いた。
こちらが正しさとして立てたものを、そのまま踏み台にした。
ミカ「……ずるい」
アズサ「そうだ」
ミカ「じゃあ、私を」
言いかけて、ミカは口を閉じた。
閉じたのは、怖かったからではなかった。
同じ形だと、途中で気づいたからだった。
私を指名しろ。
言った瞬間に、この部屋には二枚目の見本ができる。
二枚目ができたら、三枚目が出るまでの間隔は短くなる。」
この子がやったことの、ちょうど半分を、自分が引き受けることになる。
ミカ「……やめた」
アズサ「賢明だ」
ミカ「褒めないで」
ミカ「今のは、賢いんじゃない。怖くて言えなかっただけの可能性もあるから」
ミカ「どっちなのか、私、まだ分かってないの」
アズサ「分からないものは、置いておけ」
アズサ「置いたものは、あとで取れる」
ミカ「それ、あんたが言うんだ」
アズサ「私は、置き場所がなくなっただけだ」
ゴクチョー「投票を行います。棄権は可能です」
ユウカ「一つ確認します。伊草さんは、意思を示せません」
ゴクチョー「意思表示のない投票は、棄権として処理します」
ユウカ「……分かりました」
紙が回ってきた。
ミカは、自分の紙を折らずに置いた。
置いた指が、しばらく紙の上に残った。
残しても、書く言葉は増えなかった。
鉛筆の音が、六つ聞こえた。
六つ目の音が止まるまで、誰も顔を上げなかった。
ノア「読み上げます」
ノア「有効票、六」
ノア「白洲さん、六」
ノア「棄権、五」
ノア「収容者数は十一。過半数は、六です」
ノア「どなたが入れたかは、記録していません」
ノア「これまでと、同じ扱いにしてあります」
数字を読む声だけが、平らだった。
平らなのは、たぶん、そう読むのが正しいからだった。
誰も、そこを指摘しなかった。
ゴクチョー「過半数に達しました」
ゴクチョー「白洲アズサを、処刑対象として認定します」
ゴクチョー「正誤の判定は行いません」
コハル「やめて」
コハル「やめてよ、まだ」
サオリ「待て」
サオリが立った。
立った勢いで、椅子が後ろへ滑った。
サオリ「認定を、私に移せ」
ゴクチョー「対象の変更に関する規定はありません」
サオリ「私が票を集める。もう一度やれ」
ゴクチョー「審理は終了しています」
アズサ「サオリ」
サオリが、止まった。
止まったのは、名前を呼ばれたからだった。
アズサ「私は、番号じゃなかった」
アズサ「お前が、そう呼んだからだ」
アズサ「だから、いい」
サオリ「よくない」
アズサ「そうか」
アズサ「……ちゃんと、帰れ」
光は、上から来た。
落ちてくる形ではなく、部屋の白さが一段濃くなるだけの光だった。
音が、一つした。
留め具のない金具が、留め具から外れるような、乾いた音だった。
銀の輪が、床に落ちる音だった。
跳ねて、二度、床を鳴らした。
二度目の音が、いちばん高かった。
それから、静かになった。
円の中に、椅子が一つ増えていた。
増えたのではない。
背もたれの銀の帯から、名前が消えていた。
空いた椅子は、三つになった。
三つは、どれも隣り合っていなかった。
床の上に、輪だけが残っていた。
内側の黒い線が、上を向いていた。
何本あるのか、ミカは数えなかった。
数えたら、それを覚えてしまうと思った。
サオリは、立ったままだった。
二歩、前に出た。
三歩目が出なかった。
足の位置が、そこで固まっていた。
輪までは、あと四歩くらいだった。
四歩の距離で、この人は動けなくなっていた。
声は、出していなかった。
膝も、折れていなかった。
手が、前に出たまま、行き先を探していた。
触れれば移せる、という顔だった。
移せるものが、もう何も残っていない、という顔でもあった。
ミカは、それを見ていた。
見ていることしかできなかった。
肩に手を置くこともできた。
置けば、この人は動けるようになるかもしれなかった。
動けるようになった人が、そのあとどこへ行くのかを、ミカは知らなかった。
知らないことをしてはいけない、と、初めて思った。
だから、ミカは何もしなかった。
何もしないことが、こんなに長い時間だとは思っていなかった。
ミカ「サオリ」
返事はなかった。
名前で呼んだのに、返事がなかった。
この人は、名前で呼ばれると必ず何か返す人だった。
昨日の夜も、一昨日の夜も、返していた。
ミカは、もう一度呼ぶかどうかを考えて、やめた。
呼べば、返さなければならなくなる。
返せない人に、返す仕事を渡すことになる。
サオリの手が、ようやく下りた。
下りた先は、自分の膝でも、輪でもなかった。
右の手袋の、裂け目のところだった。
そこを親指で押さえて、それきり動かなかった。
ゴクチョー「審理は終了しました」
ゴクチョー「居住区への帰還を許可します」
ゴクチョー「次回の食事配給は、七時からです」
細い脚が、硬い音を立てて、階段の方へ去った。
扉が開いた。
開いた先の廊下が、明るくなっていた。
外は、朝だった。
誰も、立たなかった。
ホシノは、帽子を膝に置いていた。
シロコが、その袖を掴んだままだった。
ユウカは、紙を持たない手で、机の縁を押さえていた。
押さえた指が、数を数えるように四回動いて、止まった。
ユウカは、その数を口に出さなかった。
口に出せば記録になると、この人はもう知っている。
ヒナは、座ったまま、円をひと巡り見た。
見終わって、もう一巡した。
二巡目の途中で、目を閉じた。
ナギサは、まだ手を組んでいた。
組んだ手を、一度もほどかなかった。
コハルは、床にいるハルカの傍に座り込んでいた。
ハルカの息は、まだ浅かった。
運べるようになったのに、誰も、まだ運んでいなかった。
コハル「……誰か」
コハル「誰か、足、持って」
コハルの声は、掠れていた。
掠れた声で、それでも順番を作ろうとしていた。
ミカは、頷いた。
頷いてから、床の輪の方を見た。
誰かが拾わなければ、あれはずっとそこにある。
拾えば、持っている人になる。
持っている人は、誰かに渡す先を探すことになる。
渡す先が、この島には一つもない。
ミカは、伸ばしかけた手を戻した。
戻した手で、ハルカの膝の下を支えた。
シロコ「私が、頭」
シロコが、先に位置を決めた。
決めてから、ホシノの袖を離した。
離すとき、一度だけ握り直した。
最後まで反対した人間が、この部屋に四人いた。
四人とも、票を書かなかった。
書かなかったことで、何も止まらなかった。
立派なことは、何も起きていない。
誰かが自分を選び、それを六人が受け取った。
受け取り方は、たぶん全員違った。
違ったまま、数字は六になった。
ミカは、袖をずらした。
左手首の、銀の輪の内側を見た。
黒い線が、八本あった。
昨日の夜は、七本だった。
この部屋で、魔法は一度も使っていない。
増える理由の方は、もう数えるのをやめていた。
やめても、線は増える。
ミカは、輪から目を上げて、床の輪を見た。
それから、名前の消えた椅子を見た。
拳を握った。
指の先まで、開いた。
ミカ「……私、この裁判を壊す」