ブルアカ少女ノ魔女裁判   作:すーぱーりっかちゃん

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サオリ『戻せると、思ったんだ』

食堂の卓に、皿が並んでいた。

 

配膳口から出てきた台車を、誰も動かさなかった。

 

動かさないまま、七時が過ぎていた。

 

ミカは入口の柱に肩を預けて、その皿を見ていた。

 

コハル「十枚」

 

声の方を見ると、コハルが卓の端に立っていた。

 

指は使っていなかった。

 

目だけで、左から右へ一度なぞった。

 

コハル「昨日、十一枚って言ったのに」

 

ミカは何も言わなかった。

 

言うことがなかったのではない。

 

言えば、それが訂正になる。

 

訂正は、あの子が最後に置いていったものと同じ形をしていた。

 

コハル「私、数えるって言ったから」

 

コハル「言ったことは、やるから」

 

コハルは皿を一枚ずつ卓の中央へ寄せて、隙間を詰めた。

 

詰めても、卓は広かった。

 

窓の外では、風が吹いていた。

 

海へ向いた風見鶏の尾羽は、今日も動いていなかった。

 

誰も同じ場所にいなかった。

 

ヒナは廊下の突き当たりで、壁の見取り図を見ていた。三十分前も同じ場所にいた。

 

シロコは階段の三段目に座って、床を見ていた。何も見ていないのではなく、床の上の何かを見ていた。

 

ナギサは礼拝堂へ行った。

 

サオリは、法廷から上がってきた階段の踊り場から、まだ動いていなかった。

 

ハルカは医務室で眠っている。

 

ミカは、そのどこへも行かないまま、廊下を一周した。

 

二周目の途中で、紙の音がした。

 

厨房の裏の、水を捨てる流しのところだった。

 

ユウカ「……」

 

ユウカが立っていた。

 

両手で紙束を抱えている。

 

三日ぶんの記録だった。時刻、所在、証言、票数。ユウカが自分で罫を引いて作った表も混じっていた。

 

流しの栓は閉まっていた。

 

まだ、水は出していなかった。

 

ミカ「ユウカちゃん」

 

ユウカ「聖園さん」

 

ユウカ「見ないでください」

 

ミカ「見た」

 

ユウカ「……そうですね」

 

ユウカは紙束を抱え直した。

 

抱え直したのは、落としそうになったからではなかった。

 

ユウカ「これを、処分します」

 

ミカ「理由」

 

ユウカ「理由は一つです」

 

ユウカ「これが、人を殺しました」

 

水滴が、流しの底で一つ鳴った。

 

ユウカ「白洲さんが並べた四つの条件は、全部この中にあります」

 

ユウカ「所在の証言に本人の口がないことも、二度とも質問されていないことも、私が書きました」

 

ユウカ「あの人は、それを読んで並べたんです」

 

ユウカ「私が書いていなければ、並べられなかった」

 

ミカ「三つ目は否定したじゃん」

 

ユウカ「否定しました。数字で」

 

ユウカ「そのあと、あの人は六人の視線の向きを数えました」

 

ユウカ「私の否定の仕方を、そのまま使って」

 

紙束の角が、ユウカの腕の中で少し折れた。

 

ユウカ「私は、計算を間違えていません」

 

ユウカ「一度も間違えていないのに、こうなりました」

 

ユウカ「なら、間違っていたのは、計算じゃなくて、計算を残すことです」

 

ノア「ユウカちゃん」

 

厨房の入口に、ノアが立っていた。

 

急いで来た様子はなかった。

 

紙と鉛筆も持っていなかった。

 

持っていないことに、ミカは少し遅れて気づいた。

 

ノア「その紙を、流しに入れると、排水が詰まります」

 

ユウカ「そういう話ではありません」

 

ノア「はい。そういう話ではありませんね」

 

ノアは流しの縁に手をかけて、栓を確かめた。

 

閉まっていることを確かめてから、手を離した。

 

ノア「では、捨てる前に一つだけ、確かめさせてください」

 

ノア「その中に、鬼方さんが最後に何を言ったかは、書いてありますか」

 

ユウカの腕が止まった。

 

ユウカ「……あります」

 

ノア「私は、覚えています。一度読んだ文字は忘れませんから」

 

ノア「でも、私が覚えていることは、証言になりません」

 

ノア「私が思い出した、という形にしかならないんです」

 

ノア「それは、記録より弱いです」

 

ユウカ「弱くていいんです」

 

ユウカ「強いものが、人を選ばせたんですから」

 

ノア「そうですね」

 

ノアは、否定しなかった。

 

否定しないまま、一歩だけ前に出た。

 

ノア「では、聞き方を変えます」

 

ノア「明日、誰かが誰かを名指ししたとき、反対の材料はどこから出しますか」

 

ユウカは答えなかった。

 

ノア「白洲さんの三つ目を崩したのは、記憶ではありません」

 

ノア「十六時三十八分と十七時二十二分という、二つの数字です」

 

ノア「あれが残っていなかったら、あの人の四つは、四つとも通っていました」

 

ノア「通ったら、もっと早く終わっていました」

 

ユウカ「……早く終わっても、結果は同じでした」

 

ノア「同じでしたね」

 

ノア「でも、ユウカちゃんは一つ、崩したんです」

 

ノア「四つのうち一つを崩して、そのぶんだけ、遅らせた」

 

ノア「遅らせた時間に、下江さんが話せました」

 

コハルの声が、遠くから聞こえていた。

 

食堂で、皿を数え直しているらしかった。

 

ユウカが、そちらへ顔を向けた。

 

ユウカ「私は」

 

ユウカ「私は、あの数字を、遅らせるために書いたんじゃありません」

 

ノア「はい」

 

ノア「使い道は、書いた人が決められませんから」

 

ユウカの腕から、紙束の重さが抜けた。

 

抜けたというより、抱える形が変わった。

 

ユウカ「ノア。これを、あなたに預けます」

 

ユウカ「私が持っていると、また同じ使い方をされます」

 

ノア「分かりました」

 

ノア「では、私が預かります」

 

ノア「読みたい人には、いつでも見せます。そこは変えません」

 

ユウカ「……ええ。それでいいです」

 

紙束が、ユウカの腕からノアの腕へ移った。

 

移るとき、上の何枚かがずれた。

 

ノアはそれを卓の縁で軽く叩いて、揃えた。

 

三日ぶんの罫線が、一枚に見えるほど綺麗に揃った。

 

ユウカが、その手を掴んだ。

 

紙の上ではなく、手の甲を。

 

ユウカ「ノア」

 

ノア「はい」

 

ユウカ「私、」

 

そこで、言葉が切れた。

 

切れたあと、ユウカは俯いた。

 

声は出ていなかった。

 

肩も動いていなかった。

 

ただ、ノアの手の甲に置いた指の関節が、白くなっていた。

 

ノアは、掴まれた手を引き抜かなかった。

 

もう片方の手で紙束を抱えたまま、動かずにいた。

 

ノア「大丈夫ですよ」

 

ノア「数えたことは、悪いことじゃありません」

 

ミカは、厨房を出た。

 

出ることを、二人には言わなかった。

 

言えば、ユウカが顔を上げなければならなくなる。

 

廊下を歩きながら、ミカは今のやり取りを頭の中で並べ直した。

 

どこにも、おかしいところはなかった。

 

全部、正しかった。

 

正しかったのに、歩く速さが少しだけ上がっていた。

 

礼拝堂の扉は、開いていた。

 

祭壇には、今日も何の聖印もない。

 

ナギサは長椅子の列の間にいて、座面の位置を直していた。

 

三日前から誰も座っていない椅子を、一つずつ、同じ幅に。

 

ミカ「ナギちゃん」

 

ナギサ「ミカさん」

 

振り向いたナギサの髪は、乱れていなかった。

 

制服の襟も、袖の折り返しも、いつも通りだった。

 

二十時間、同じ部屋にいた人間の格好には見えなかった。

 

ミカ「それ、意味あるの」

 

ナギサ「ありません」

 

ミカ「即答だ」

 

ナギサ「意味のあることを探すと、手が止まりますので」

 

ナギサは次の椅子へ手をかけた。

 

かけて、そのまま動かさなかった。

 

ナギサ「ミカさん。休んでください」

 

声が、耳から入らなかった。

 

入る前に、決まっていた。

 

休むのが正しい、と、体の側が先に頷いていた。

 

膝が、椅子の方へ向いていた。

 

ミカは、自分の足を止めた。

 

ミカ「今の、やった?」

 

ナギサの手が、椅子から離れた。

 

ナギサ「……はい」

 

ナギサ「申し訳ありません」

 

ミカ「謝るのはあとでいい。もう一回言ってみて」

 

ナギサ「言いません」

 

ナギサ「言えば、また同じことになります」

 

ナギサは、長椅子の背に両手を置いた。

 

置いた手を、そこから動かさなかった。

 

ナギサ「昨日から、抑えが効かなくなっています」

 

ナギサ「使うつもりのないときに、漏れます」

 

ナギサ「昨日の法廷では、四回、口を開きかけて、やめました」

 

ミカ「四回とも、止められたじゃん」

 

ナギサ「止めました。ですが」

 

ナギサ「止めたことも、私の判断です」

 

ナギサ「三回目で口を開いていれば、白洲さんは終われなかったかもしれません」

 

ナギサ「私は、それを計算して、黙りました」

 

ミカ「使わないって決めたからでしょ」

 

ナギサ「決めたからです」

 

ナギサ「決めたことに従うのは、楽なんですよ、ミカさん」

 

風が、硝子を鳴らした。

 

雨は降っていなかった。

 

海の音だけが、遠くにあった。

 

ナギサ「私は、あなたに何度も間違った重みを与えました」

 

ミカは、祭壇の方を見ていた。

 

見ていたまま、答えた。

 

ミカ「知ってる」

 

ナギサ「……いつからですか」

 

ミカ「ずっと」

 

ミカ「島に来る前から」

 

ナギサの指が、長椅子の背を一度撫でた。

 

撫でて、また止まった。

 

ナギサ「私は、あの頃、正しい手順を踏んでいたつもりでした」

 

ナギサ「あなたに説明して、あなたに選ばせて、あなたの署名をもらいました」

 

ナギサ「手順は、全部揃っていました」

 

ミカ「うん」

 

ナギサ「揃った書類に、私の声が乗っていたことを、私は数えていませんでした」

 

ミカ「ナギちゃん」

 

ナギサ「はい」

 

ミカ「それさ。今わかっても、あんまり役に立たないの」

 

言ってから、ミカは自分の声の低さに気づいた。

 

もっと軽く言うつもりだった。

 

ミカ「私、あのとき、自分で決めたと思ってたよ」

 

ミカ「決めたつもりで、学校を壊した」

 

ミカ「壊れたのは私が壊したからで、それは今も変わらないから」

 

ナギサ「変わりません」

 

ミカ「変わらないんだけどさ」

 

ミカは長椅子の列を横切って、祭壇の段に腰を下ろした。

 

座ってから、続けた。

 

ミカ「あのとき、声が聞こえてたんだよね」

 

ナギサ「……声」

 

ミカ「うん」

 

ミカ「誰の声かは分かんないの。今も」

 

ミカ「顔も覚えてない。名前も」

 

ナギサが、長椅子の間から一歩出た。

 

それ以上は近づかなかった。

 

ミカ「でもね、一個だけ、はっきり覚えてる」

 

ミカ「あの声はさ、私の言葉で話したんだよ」

 

ミカ「私が言いそうなことを、私より先に言った」

 

礼拝堂の高い天井が、その声を一度返した。

 

返ってきたものは、自分の声には聞こえなかった。

 

ナギサ「……どういう意味ですか」

 

ミカ「ナギちゃん、椅子の幅、そこだけずれてる」

 

ナギサ「ミカさん」

 

ミカ「直しといて」

 

ナギサは、椅子を見なかった。

 

ミカも、それ以上は言わなかった。

 

言えるだけの形に、まだできていなかった。

 

できていないことを口に出すと、それが誰かの根拠になる。

 

誰から教わった考え方なのかは、思い出さないことにした。

 

ナギサ「ミカさん」

 

ナギサ「ごめんなさい」

 

ミカは、顔を上げた。

 

ナギサは、頭を下げていなかった。

 

まっすぐ立って、こちらを見ていた。

 

その方が、こちらには痛かった。

 

ナギサ「言い方を選びました。三日かけて選びました」

 

ナギサ「選んだ結果、いちばん短いものにしました」

 

ナギサ「長く言うと、また重みが乗りますので」

 

ミカ「……」

 

ナギサ「返事は、要りません」

 

ミカ「要るよ」

 

ミカは立ち上がった。

 

立ち上がる勢いで、拳を握っていた。

 

ミカ「私、許さないから」

 

ナギサの目が、動かなかった。

 

ミカ「今も許してないし、たぶん帰っても許さない」

 

ミカ「ナギちゃんが謝ったから許すってことにしたら、それ、また重みじゃんね」

 

ナギサ「……はい」

 

ミカ「だから、許さない」

 

ミカは、握った拳を指の先まで開いた。

 

開いた手を、そのまま下ろした。

 

ミカ「でも、そばにはいる」

 

ナギサ「え」

 

ミカ「聞こえた?」

 

ナギサ「聞こえました」

 

ナギサ「聞こえましたが、それは」

 

ミカ「両方だよ」

 

ミカ「許さないのと、そばにいるのは、別に喧嘩しないから」

 

ナギサが、口を開いた。

 

開いて、何も言わずに閉じた。

 

それから、両手で顔を覆わずに、目を伏せた。

 

伏せた顔のまま、一度だけ頷いた。

 

ミカは、自分の左手首が熱いことに気づいた。

 

袖をずらす。

 

黒い線が、九本あった。

 

昨日の朝は、八本だった。

 

この部屋で、魔法は使っていない。

 

ナギサが、その輪を見た。

 

見て、何も言わなかった。

 

言わないことを選んだのだと、ミカには分かった。

 

礼拝堂を出て、東へ向かった。

 

医務室に水を持っていくつもりだった。

 

渡り廊下の途中で、足が止まった。

 

法廷から上がってくる階段の踊り場に、サオリがいた。

 

壁に背を預けて、床に座っていた。

 

膝を立てて、右手を膝の上に置いている。

 

置いた手の甲を、左手の親指で押さえていた。

 

昨日の朝、輪が落ちた音がしたあとと、同じ位置だった。

 

ミカ「そこ、寒いよ」

 

返事はなかった。

 

ミカ「あなた」

 

サオリ「……ああ」

 

返事が、遅かった。

 

遅いことが、この人には珍しかった。

 

ミカ「立てる?」

 

サオリ「立てる」

 

ミカ「じゃあ立って」

 

サオリは立った。

 

立つときに、壁へ手をつかなかった。

 

つかなかったせいで、一度、肩が壁を擦った。

 

ミカは、その腕を掴まなかった。

 

掴む代わりに、先に歩いた。

 

医務室では、ハルカが眠っていた。

 

衝立の向こうで、呼吸の音がしている。

 

浅いが、規則的だった。

 

ミカは水差しを置き、コップを伏せて重ねた。

 

それから、洗い場の方を指した。

 

ミカ「こっち」

 

サオリ「用がある」

 

ミカ「あるでしょ。あなたの手に」

 

サオリが、右手を後ろへ回した。

 

回した動きが、あまりに素早かった。

 

ミカ「今の、いちばん分かりやすかったよ」

 

ミカは椅子を引いた。

 

引いて、洗い場の前に置いた。

 

ミカ「座って」

 

サオリ「ミカ」

 

ミカ「座って。理由は、あなたが言って」

 

サオリは、座らなかった。

 

座らないまま、しばらく椅子の背を見ていた。

 

それから、椅子を回して、腰を下ろした。

 

サオリ「触れた相手の損傷を、自分へ移せる」

 

水の落ちる音が、蛇口の先で一つした。

 

サオリ「それが、私の魔法だ」

 

ミカ「……」

 

サオリ「衝撃も移る。痛みも移る」

 

サオリ「死んで間もない相手にも、短い間なら届く」

 

サオリ「命は戻らない」

 

ミカは、蛇口を開けた。

 

開けてから、開けたことに意味がないと気づいて、閉めた。

 

ミカ「一日目の温室で、あなた」

 

サオリ「呼吸を確かめた」

 

サオリ「戻せると思った」

 

ミカ「それ、聞いた」

 

サオリ「聞かせた。あれが、答えだ」

 

ミカは、そこで初めてサオリの顔を見た。

 

見ても、いつもと同じ顔だった。

 

同じ顔をしているのが、いちばん腹が立った。

 

ミカ「間に合わなかったの」

 

サオリ「ああ」

 

サオリ「棗イロハには、間に合わなかった」

 

サオリ「触れた時点で、移すものが、もう体の中になかった」

 

サオリ「それでも移した」

 

サオリ「移らないものを移そうとすると、こちらだけが減る」

 

ミカは、椅子の脇に膝をついた。

 

膝をつくと、サオリの手が近くなった。

 

手袋の指の付け根の裂け目が、一日目より広がっていた。

 

サオリ「鬼方カヨコのときも、間に合わなかった」

 

サオリ「北の搬入路に着いたとき、私は最初の三名に入っていなかった」

 

サオリ「触れれば、告知の条件が変わったかもしれない」

 

サオリ「変わるかどうかは、確かではなかった」

 

ミカ「だから触らなかったの」

 

サオリ「触った」

 

サオリ「……三名が確認したあとで、一度だけ」

 

サオリ「意味はなかった」

 

ミカは、何も言わなかった。

 

言わないでいると、サオリが続けた。

 

この人が、続けて三度も喋るのを、ミカは初めて見た。

 

サオリ「アズサのときは」

 

そこで、言葉が止まった。

 

止まってから、サオリは自分の右手を見た。

 

サオリ「触れることすら、許されなかった」

 

サオリ「四歩だった」

 

サオリ「動けなかったのではない。あれは、間に合う距離ではなかった」

 

サオリ「……いや」

 

サオリ「動けなかった」

 

ミカは、その手袋の縁に指をかけた。

 

かけて、止めた。

 

ミカ「外していい?」

 

サオリが、こちらを見た。

 

見た目が、少し開いていた。

 

サオリ「なぜ、そう聞く」

 

ミカ「一日目にね、コハルちゃんが、私にそう聞いたの」

 

ミカ「同じ順番でやる。だから、返事して」

 

サオリ「……ああ」

 

手袋を、指先からゆっくり引いた。

 

引きながら、ミカは息を止めた。

 

止めたことに、途中で気づいた。

 

手の甲から手首にかけて、皮膚の色が変わっていた。

 

新しいものと、古いものが、重なっていた。

 

三日ぶんではなかった。

 

もっと前からのものが、下にあった。

 

ミカ「……ばか」

 

サオリ「そうか」

 

ミカ「そうかじゃないよ」

 

ミカ「なんで黙ってたの」

 

サオリ「言えば、止められる」

 

ミカ「止めるよ」

 

サオリ「だから言わなかった」

 

ミカ「それ、理由になってないから」

 

サオリ「もう一つある」

 

サオリは、開いた手を膝の上に置いたままにした。

 

隠さなかった。

 

サオリ「確かでないことを口にすると、それが誰かの根拠になる」

 

サオリ「私が、移せると言えば、次に誰かが死んだとき」

 

サオリ「あの場に錠前サオリがいた、という一行が、意味を変える」

 

サオリ「移せる人間が傍にいて、移さなかった。そう読める」

 

サオリ「読めるだけで、票は動く」

 

ミカ「……」

 

サオリ「実際に動いた。私は二度、現場にいた」

 

サオリ「あのとき魔法を申告していたら、六票は、もっと早く六になっていた」

 

ミカ「アズサちゃんの代わりに、あなたが」

 

サオリ「そうだ」

 

ミカは、動かせる範囲を確かめた。

 

指を一本ずつ、そっと曲げてもらう。

 

薬指だけが、途中で止まった。

 

止まったところで、ミカも手を止めた。

 

ミカ「ここ、痛い?」

 

サオリ「痛くない」

 

ミカ「嘘だ」

 

サオリ「……曲げると痛い」

 

ミカ「最初からそう言って」

 

ミカは立ち上がり、棚から布を出した。

 

一段目ではなく、二段目から。

 

一段目のことは、まだ考えたくなかった。

 

水で濡らして、絞る。

 

絞る手が、少し震えた。

 

一日目、同じことをしていたコハルの手も震えていた。

 

あのとき、それに気づいていなかった。

 

ミカ「冷やすやつ、作った」

 

サオリ「必要ない」

 

ミカ「あなたの必要ないは、当てにならないの」

 

布を、手の甲へ置いた。

 

置いた瞬間、サオリの肩が一度だけ動いた。

 

動いてから、止まった。

 

サオリ「……」

 

ミカ「痛いって言っていいから」

 

サオリ「言うと、お前が」

 

ミカ「私が何」

 

サオリ「……いや」

 

ミカは、布の端を指で押さえた。

 

押さえた指を、しばらくそこに置いた。

 

衝立の向こうで、ハルカが寝返りを打った。

 

打って、また規則的な息に戻った。

 

サオリ「ミカ」

 

ミカ「何」

 

サオリ「痛みは、残っているか」

 

ミカは、顔を上げた。

 

同じ言葉を、一日目にも聞いた。

 

あのときは、話を変えないでと言った。

 

変えていないことに、今なら気づける。

 

ミカ「残ってる」

 

サオリ「そうか」

 

ミカ「手じゃなくて」

 

ミカ「あなたが最初に壁を試したとき、私も同じことやったでしょ」

 

ミカ「そのときの腕の痺れは、もうないの」

 

ミカ「ないんだけど、残ってるものは別にあって」

 

ミカ「そっちは、たぶん、ずっと残る」

 

サオリ「ああ」

 

ミカ「あなたも同じ?」

 

サオリ「同じだ」

 

ミカ「じゃあ、それだけ確認できた」

 

ミカは、布を一度取って、もう一度濡らした。

 

二回目は、絞る手が震えなかった。

 

ミカ「私、まだあなたを信じてないよ」

 

サオリ「ああ」

 

ミカ「三回言ったからね、これ」

 

サオリ「覚えている」

 

ミカ「でも、もう、知らない人じゃなくなった」

 

サオリは、返事をしなかった。

 

しない代わりに、置かれた布から手を引かなかった。

 

医務室を出たのは、日が高くなってからだった。

 

渡り廊下の窓際に、二人いた。

 

ホシノが窓枠に肘をついて、外を見ている。

 

シロコが、その斜め後ろに立っていた。

 

立ち位置が、一日目より近かった。

 

ホシノ「シロコちゃん」

 

シロコ「ん」

 

ホシノ「先に帰る準備をしておきなさい」

 

風見鶏が、動かないまま海を向いていた。

 

シロコ「……」

 

ホシノ「荷物なんてないけどねえ。順番だけ考えとくの」

 

ホシノ「船着き場までの道と、走る速さと、誰の手を引くか」

 

ホシノ「それを決めとくと、いざってときに迷わないから」

 

シロコは、頷かなかった。

 

頷く代わりに、ホシノの隣へ並んだ。

 

並んで、同じ方を向いた。

 

シロコ「先輩は」

 

ホシノ「うん?」

 

シロコ「先輩の準備は」

 

ホシノ「おじさんはねえ。のんびり屋だから」

 

シロコ「答えてない」

 

ホシノ「うへ~。厳しいなあ」

 

ホシノは笑った。

 

笑って、それ以上は言わなかった。

 

シロコも、それ以上は聞かなかった。

 

聞かないことにしたのだと、ミカには見えた。

 

その日の午後、ミカは全員を食堂へ呼んだ。

 

呼ぶのに、時間がかかった。

 

ヒナは見取り図の前から動かなかったので、三回行った。

 

ハルカは、コハルとシロコが両側から支えて連れてきた。

 

サオリは、来た。理由は言わなかった。

 

卓に、十人。

 

空いた席は詰めなかった。

 

ヒナ「聖園ミカ。何の集まり?」

 

ミカ「昨日、私、この裁判を壊すって言ったでしょ」

 

コハル「言ってた」

 

ミカ「取り消さない」

 

ミカ「でも、殴って壊すやつじゃないなって、今日わかったの」

 

ユウカ「……具体的には」

 

ミカ「疑う順番を決めよう」

 

誰も、すぐには返さなかった。

 

返さない時間が、少し長かった。

 

ミカ「あの機械は、私たちに魔女を選ばせる」

 

ミカ「犯人じゃなくて魔女。正誤も判定しない」

 

ミカ「つまり、あれが欲しいのは、票なの」

 

ミカ「票は、疑う順番で決まる」

 

ミカ「順番を先に決めておけば、あの部屋で決めなくてよくなる」

 

ヒナ「……なるほどね」

 

ヒナ「二十時間かけて決めさせられたのは、順番だったわ」

 

ミカ「うん。だから、今のうちに書く」

 

ナギサ「私が書くのは、やめておきます」

 

ナギサ「案は出します。文にはしません」

 

ヒナ「その線引きは、私が引く。異論があれば言って」

 

誰も、異論を言わなかった。

 

ノアが、紙と鉛筆を卓の中央へ置いた。

 

三日ぶんの記録は、その横に伏せて重ねられていた。

 

ミカ「一つ。一人にならない」

 

ミカ「これは前と同じ。守れてないから、もう一回書く」

 

コハル「守れてないよね」

 

ミカ「守れてないよ。私も」

 

ミカ「二つ。告知を信じない」

 

ユウカ「一度、嘘をつきました」

 

ミカ「そう。だから、告知が出ても、自分の目で見るまでは死んだことにしない」

 

ミカ「逆もね。出てなくても、無事だってことにしない」

 

ミカ「三つ。見たことと、思ったことを、分けて書く」

 

言ってから、ミカはノアの手を見た。

 

鉛筆が、迷わずに動いていた。

 

読みやすい、整った字だった。

 

一日目にも、同じことを思った。

 

同じことを思ったのだと、今日は気づいた。

 

気づいたところで、それは何にもならなかった。

 

ミカ「四つ」

 

ミカ「誰かを名指しする前に、必ず反対の可能性を一つ挙げる」

 

ユウカ「……一つ、ですか」

 

ミカ「一つでいい。三つにすると、誰もやらなくなるから」

 

ユウカ「合理的です」

 

ユウカ「私が、挙げる係をします」

 

ミカ「ユウカちゃん」

 

ユウカ「係にしてください」

 

ユウカ「そうでないと、私は、また片方だけを書きます」

 

ミカは頷いた。

 

頷いてから、ユウカの手元を見た。

 

紙を持っていなかった。

 

持っていない手を、卓の上で組んでいた。

 

ミカ「五つ。魔法を、人に試さない」

 

ミカ「持ってる魔法を言うかどうかは、本人が決めていい」

 

ミカ「でも、人に向けて試すのはなし。同意があってもなし」

 

ハルカ「……あの」

 

小さい声だった。

 

全員が、そちらを見た。

 

ハルカは、支えられていた腕を、自分で下ろした。

 

ハルカ「私、言えなくなったので」

 

ハルカ「それでも、いいですか」

 

ミカ「いいよ」

 

ハルカ「私、役に立たないです」

 

ミカ「ハルカちゃん」

 

ミカ「今の五つ目は、あなたのために書いたやつだから」

 

ハルカが、口を開いた。

 

言葉は出なかった。

 

出ないまま、頷いた。

 

その隣で、コハルがハルカの背へ手を回した。

 

ヒナ「六つ目を足したいわ」

 

ミカ「どうぞ」

 

ヒナ「守れなかったときに、報告する」

 

ヒナ「破ったことを隠すと、次から誰も書かなくなる」

 

ミカ「……それ、いちばん厳しいやつだ」

 

ヒナ「私が最初に破ると思うから、私が言ったの」

 

ノアが、紙をこちらへ向けた。

 

六つの項目が、同じ幅で並んでいた。

 

行の間隔も、揃っていた。

 

ノア「これでよろしいですか」

 

ミカ「うん」

 

ノア「では、清書します」

 

ノア「署名は、書ける方だけで構いません」

 

鉛筆が、また動き始めた。

 

ミカは、その手つきを目で追った。

 

速さが、一定だった。

 

迷いも、直しもなかった。

 

三日前も、一日前も、同じ速さだった。

 

この島で、速さの変わらなかったものが、他に何かあったかを、ミカは考えた。

 

考えて、思い当たらなかった。

 

思い当たらなかったことを、記録には残さなかった。

 

まだ、言える形になっていない。

 

全員が署名を終えるまで、日が傾いた。

 

サオリは、右手が使えなかったので、左手で書いた。

 

崩れた字だった。

 

誰も、それについて何も言わなかった。

 

ミカは、最後に自分の名前を書いた。

 

一日目にも、同じ紙に名前を書いた。

 

あのときは、手に痺れがあった。

 

今日は、なかった。

 

なかったのに、書き終わるまでの時間は長かった。

 

コハル「ミカ先輩」

 

ミカ「ん?」

 

コハル「これ、明日も使う?」

 

ミカ「使うよ」

 

コハル「じゃあ、明日の朝、皿の数を先に言う」

 

コハル「順番の一番上に置いていい?」

 

ミカは、少し笑った。

 

今日で、初めてだった。

 

ミカ「置いて」

 

卓の上の紙が、風で一度めくれた。

 

ノアがそれを押さえた。

 

窓の外は、灰色のままだった。

 

海も、崖も、動かない風見鶏も、四日前と同じ形をしていた。

 

同じ形の中で、席だけが三つ減っていた。

 

ミカは、拳を握った。

 

握って、指の先まで開いた。

 

開いた手を、紙の端へ置いた。

 

ミカ「決めよう、って言うのが、私の壊し方だから」

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