食堂の卓に、皿が並んでいた。
配膳口から出てきた台車を、誰も動かさなかった。
動かさないまま、七時が過ぎていた。
ミカは入口の柱に肩を預けて、その皿を見ていた。
コハル「十枚」
声の方を見ると、コハルが卓の端に立っていた。
指は使っていなかった。
目だけで、左から右へ一度なぞった。
コハル「昨日、十一枚って言ったのに」
ミカは何も言わなかった。
言うことがなかったのではない。
言えば、それが訂正になる。
訂正は、あの子が最後に置いていったものと同じ形をしていた。
コハル「私、数えるって言ったから」
コハル「言ったことは、やるから」
コハルは皿を一枚ずつ卓の中央へ寄せて、隙間を詰めた。
詰めても、卓は広かった。
窓の外では、風が吹いていた。
海へ向いた風見鶏の尾羽は、今日も動いていなかった。
誰も同じ場所にいなかった。
ヒナは廊下の突き当たりで、壁の見取り図を見ていた。三十分前も同じ場所にいた。
シロコは階段の三段目に座って、床を見ていた。何も見ていないのではなく、床の上の何かを見ていた。
ナギサは礼拝堂へ行った。
サオリは、法廷から上がってきた階段の踊り場から、まだ動いていなかった。
ハルカは医務室で眠っている。
ミカは、そのどこへも行かないまま、廊下を一周した。
二周目の途中で、紙の音がした。
厨房の裏の、水を捨てる流しのところだった。
ユウカ「……」
ユウカが立っていた。
両手で紙束を抱えている。
三日ぶんの記録だった。時刻、所在、証言、票数。ユウカが自分で罫を引いて作った表も混じっていた。
流しの栓は閉まっていた。
まだ、水は出していなかった。
ミカ「ユウカちゃん」
ユウカ「聖園さん」
ユウカ「見ないでください」
ミカ「見た」
ユウカ「……そうですね」
ユウカは紙束を抱え直した。
抱え直したのは、落としそうになったからではなかった。
ユウカ「これを、処分します」
ミカ「理由」
ユウカ「理由は一つです」
ユウカ「これが、人を殺しました」
水滴が、流しの底で一つ鳴った。
ユウカ「白洲さんが並べた四つの条件は、全部この中にあります」
ユウカ「所在の証言に本人の口がないことも、二度とも質問されていないことも、私が書きました」
ユウカ「あの人は、それを読んで並べたんです」
ユウカ「私が書いていなければ、並べられなかった」
ミカ「三つ目は否定したじゃん」
ユウカ「否定しました。数字で」
ユウカ「そのあと、あの人は六人の視線の向きを数えました」
ユウカ「私の否定の仕方を、そのまま使って」
紙束の角が、ユウカの腕の中で少し折れた。
ユウカ「私は、計算を間違えていません」
ユウカ「一度も間違えていないのに、こうなりました」
ユウカ「なら、間違っていたのは、計算じゃなくて、計算を残すことです」
ノア「ユウカちゃん」
厨房の入口に、ノアが立っていた。
急いで来た様子はなかった。
紙と鉛筆も持っていなかった。
持っていないことに、ミカは少し遅れて気づいた。
ノア「その紙を、流しに入れると、排水が詰まります」
ユウカ「そういう話ではありません」
ノア「はい。そういう話ではありませんね」
ノアは流しの縁に手をかけて、栓を確かめた。
閉まっていることを確かめてから、手を離した。
ノア「では、捨てる前に一つだけ、確かめさせてください」
ノア「その中に、鬼方さんが最後に何を言ったかは、書いてありますか」
ユウカの腕が止まった。
ユウカ「……あります」
ノア「私は、覚えています。一度読んだ文字は忘れませんから」
ノア「でも、私が覚えていることは、証言になりません」
ノア「私が思い出した、という形にしかならないんです」
ノア「それは、記録より弱いです」
ユウカ「弱くていいんです」
ユウカ「強いものが、人を選ばせたんですから」
ノア「そうですね」
ノアは、否定しなかった。
否定しないまま、一歩だけ前に出た。
ノア「では、聞き方を変えます」
ノア「明日、誰かが誰かを名指ししたとき、反対の材料はどこから出しますか」
ユウカは答えなかった。
ノア「白洲さんの三つ目を崩したのは、記憶ではありません」
ノア「十六時三十八分と十七時二十二分という、二つの数字です」
ノア「あれが残っていなかったら、あの人の四つは、四つとも通っていました」
ノア「通ったら、もっと早く終わっていました」
ユウカ「……早く終わっても、結果は同じでした」
ノア「同じでしたね」
ノア「でも、ユウカちゃんは一つ、崩したんです」
ノア「四つのうち一つを崩して、そのぶんだけ、遅らせた」
ノア「遅らせた時間に、下江さんが話せました」
コハルの声が、遠くから聞こえていた。
食堂で、皿を数え直しているらしかった。
ユウカが、そちらへ顔を向けた。
ユウカ「私は」
ユウカ「私は、あの数字を、遅らせるために書いたんじゃありません」
ノア「はい」
ノア「使い道は、書いた人が決められませんから」
ユウカの腕から、紙束の重さが抜けた。
抜けたというより、抱える形が変わった。
ユウカ「ノア。これを、あなたに預けます」
ユウカ「私が持っていると、また同じ使い方をされます」
ノア「分かりました」
ノア「では、私が預かります」
ノア「読みたい人には、いつでも見せます。そこは変えません」
ユウカ「……ええ。それでいいです」
紙束が、ユウカの腕からノアの腕へ移った。
移るとき、上の何枚かがずれた。
ノアはそれを卓の縁で軽く叩いて、揃えた。
三日ぶんの罫線が、一枚に見えるほど綺麗に揃った。
ユウカが、その手を掴んだ。
紙の上ではなく、手の甲を。
ユウカ「ノア」
ノア「はい」
ユウカ「私、」
そこで、言葉が切れた。
切れたあと、ユウカは俯いた。
声は出ていなかった。
肩も動いていなかった。
ただ、ノアの手の甲に置いた指の関節が、白くなっていた。
ノアは、掴まれた手を引き抜かなかった。
もう片方の手で紙束を抱えたまま、動かずにいた。
ノア「大丈夫ですよ」
ノア「数えたことは、悪いことじゃありません」
ミカは、厨房を出た。
出ることを、二人には言わなかった。
言えば、ユウカが顔を上げなければならなくなる。
廊下を歩きながら、ミカは今のやり取りを頭の中で並べ直した。
どこにも、おかしいところはなかった。
全部、正しかった。
正しかったのに、歩く速さが少しだけ上がっていた。
礼拝堂の扉は、開いていた。
祭壇には、今日も何の聖印もない。
ナギサは長椅子の列の間にいて、座面の位置を直していた。
三日前から誰も座っていない椅子を、一つずつ、同じ幅に。
ミカ「ナギちゃん」
ナギサ「ミカさん」
振り向いたナギサの髪は、乱れていなかった。
制服の襟も、袖の折り返しも、いつも通りだった。
二十時間、同じ部屋にいた人間の格好には見えなかった。
ミカ「それ、意味あるの」
ナギサ「ありません」
ミカ「即答だ」
ナギサ「意味のあることを探すと、手が止まりますので」
ナギサは次の椅子へ手をかけた。
かけて、そのまま動かさなかった。
ナギサ「ミカさん。休んでください」
声が、耳から入らなかった。
入る前に、決まっていた。
休むのが正しい、と、体の側が先に頷いていた。
膝が、椅子の方へ向いていた。
ミカは、自分の足を止めた。
ミカ「今の、やった?」
ナギサの手が、椅子から離れた。
ナギサ「……はい」
ナギサ「申し訳ありません」
ミカ「謝るのはあとでいい。もう一回言ってみて」
ナギサ「言いません」
ナギサ「言えば、また同じことになります」
ナギサは、長椅子の背に両手を置いた。
置いた手を、そこから動かさなかった。
ナギサ「昨日から、抑えが効かなくなっています」
ナギサ「使うつもりのないときに、漏れます」
ナギサ「昨日の法廷では、四回、口を開きかけて、やめました」
ミカ「四回とも、止められたじゃん」
ナギサ「止めました。ですが」
ナギサ「止めたことも、私の判断です」
ナギサ「三回目で口を開いていれば、白洲さんは終われなかったかもしれません」
ナギサ「私は、それを計算して、黙りました」
ミカ「使わないって決めたからでしょ」
ナギサ「決めたからです」
ナギサ「決めたことに従うのは、楽なんですよ、ミカさん」
風が、硝子を鳴らした。
雨は降っていなかった。
海の音だけが、遠くにあった。
ナギサ「私は、あなたに何度も間違った重みを与えました」
ミカは、祭壇の方を見ていた。
見ていたまま、答えた。
ミカ「知ってる」
ナギサ「……いつからですか」
ミカ「ずっと」
ミカ「島に来る前から」
ナギサの指が、長椅子の背を一度撫でた。
撫でて、また止まった。
ナギサ「私は、あの頃、正しい手順を踏んでいたつもりでした」
ナギサ「あなたに説明して、あなたに選ばせて、あなたの署名をもらいました」
ナギサ「手順は、全部揃っていました」
ミカ「うん」
ナギサ「揃った書類に、私の声が乗っていたことを、私は数えていませんでした」
ミカ「ナギちゃん」
ナギサ「はい」
ミカ「それさ。今わかっても、あんまり役に立たないの」
言ってから、ミカは自分の声の低さに気づいた。
もっと軽く言うつもりだった。
ミカ「私、あのとき、自分で決めたと思ってたよ」
ミカ「決めたつもりで、学校を壊した」
ミカ「壊れたのは私が壊したからで、それは今も変わらないから」
ナギサ「変わりません」
ミカ「変わらないんだけどさ」
ミカは長椅子の列を横切って、祭壇の段に腰を下ろした。
座ってから、続けた。
ミカ「あのとき、声が聞こえてたんだよね」
ナギサ「……声」
ミカ「うん」
ミカ「誰の声かは分かんないの。今も」
ミカ「顔も覚えてない。名前も」
ナギサが、長椅子の間から一歩出た。
それ以上は近づかなかった。
ミカ「でもね、一個だけ、はっきり覚えてる」
ミカ「あの声はさ、私の言葉で話したんだよ」
ミカ「私が言いそうなことを、私より先に言った」
礼拝堂の高い天井が、その声を一度返した。
返ってきたものは、自分の声には聞こえなかった。
ナギサ「……どういう意味ですか」
ミカ「ナギちゃん、椅子の幅、そこだけずれてる」
ナギサ「ミカさん」
ミカ「直しといて」
ナギサは、椅子を見なかった。
ミカも、それ以上は言わなかった。
言えるだけの形に、まだできていなかった。
できていないことを口に出すと、それが誰かの根拠になる。
誰から教わった考え方なのかは、思い出さないことにした。
ナギサ「ミカさん」
ナギサ「ごめんなさい」
ミカは、顔を上げた。
ナギサは、頭を下げていなかった。
まっすぐ立って、こちらを見ていた。
その方が、こちらには痛かった。
ナギサ「言い方を選びました。三日かけて選びました」
ナギサ「選んだ結果、いちばん短いものにしました」
ナギサ「長く言うと、また重みが乗りますので」
ミカ「……」
ナギサ「返事は、要りません」
ミカ「要るよ」
ミカは立ち上がった。
立ち上がる勢いで、拳を握っていた。
ミカ「私、許さないから」
ナギサの目が、動かなかった。
ミカ「今も許してないし、たぶん帰っても許さない」
ミカ「ナギちゃんが謝ったから許すってことにしたら、それ、また重みじゃんね」
ナギサ「……はい」
ミカ「だから、許さない」
ミカは、握った拳を指の先まで開いた。
開いた手を、そのまま下ろした。
ミカ「でも、そばにはいる」
ナギサ「え」
ミカ「聞こえた?」
ナギサ「聞こえました」
ナギサ「聞こえましたが、それは」
ミカ「両方だよ」
ミカ「許さないのと、そばにいるのは、別に喧嘩しないから」
ナギサが、口を開いた。
開いて、何も言わずに閉じた。
それから、両手で顔を覆わずに、目を伏せた。
伏せた顔のまま、一度だけ頷いた。
ミカは、自分の左手首が熱いことに気づいた。
袖をずらす。
黒い線が、九本あった。
昨日の朝は、八本だった。
この部屋で、魔法は使っていない。
ナギサが、その輪を見た。
見て、何も言わなかった。
言わないことを選んだのだと、ミカには分かった。
礼拝堂を出て、東へ向かった。
医務室に水を持っていくつもりだった。
渡り廊下の途中で、足が止まった。
法廷から上がってくる階段の踊り場に、サオリがいた。
壁に背を預けて、床に座っていた。
膝を立てて、右手を膝の上に置いている。
置いた手の甲を、左手の親指で押さえていた。
昨日の朝、輪が落ちた音がしたあとと、同じ位置だった。
ミカ「そこ、寒いよ」
返事はなかった。
ミカ「あなた」
サオリ「……ああ」
返事が、遅かった。
遅いことが、この人には珍しかった。
ミカ「立てる?」
サオリ「立てる」
ミカ「じゃあ立って」
サオリは立った。
立つときに、壁へ手をつかなかった。
つかなかったせいで、一度、肩が壁を擦った。
ミカは、その腕を掴まなかった。
掴む代わりに、先に歩いた。
医務室では、ハルカが眠っていた。
衝立の向こうで、呼吸の音がしている。
浅いが、規則的だった。
ミカは水差しを置き、コップを伏せて重ねた。
それから、洗い場の方を指した。
ミカ「こっち」
サオリ「用がある」
ミカ「あるでしょ。あなたの手に」
サオリが、右手を後ろへ回した。
回した動きが、あまりに素早かった。
ミカ「今の、いちばん分かりやすかったよ」
ミカは椅子を引いた。
引いて、洗い場の前に置いた。
ミカ「座って」
サオリ「ミカ」
ミカ「座って。理由は、あなたが言って」
サオリは、座らなかった。
座らないまま、しばらく椅子の背を見ていた。
それから、椅子を回して、腰を下ろした。
サオリ「触れた相手の損傷を、自分へ移せる」
水の落ちる音が、蛇口の先で一つした。
サオリ「それが、私の魔法だ」
ミカ「……」
サオリ「衝撃も移る。痛みも移る」
サオリ「死んで間もない相手にも、短い間なら届く」
サオリ「命は戻らない」
ミカは、蛇口を開けた。
開けてから、開けたことに意味がないと気づいて、閉めた。
ミカ「一日目の温室で、あなた」
サオリ「呼吸を確かめた」
サオリ「戻せると思った」
ミカ「それ、聞いた」
サオリ「聞かせた。あれが、答えだ」
ミカは、そこで初めてサオリの顔を見た。
見ても、いつもと同じ顔だった。
同じ顔をしているのが、いちばん腹が立った。
ミカ「間に合わなかったの」
サオリ「ああ」
サオリ「棗イロハには、間に合わなかった」
サオリ「触れた時点で、移すものが、もう体の中になかった」
サオリ「それでも移した」
サオリ「移らないものを移そうとすると、こちらだけが減る」
ミカは、椅子の脇に膝をついた。
膝をつくと、サオリの手が近くなった。
手袋の指の付け根の裂け目が、一日目より広がっていた。
サオリ「鬼方カヨコのときも、間に合わなかった」
サオリ「北の搬入路に着いたとき、私は最初の三名に入っていなかった」
サオリ「触れれば、告知の条件が変わったかもしれない」
サオリ「変わるかどうかは、確かではなかった」
ミカ「だから触らなかったの」
サオリ「触った」
サオリ「……三名が確認したあとで、一度だけ」
サオリ「意味はなかった」
ミカは、何も言わなかった。
言わないでいると、サオリが続けた。
この人が、続けて三度も喋るのを、ミカは初めて見た。
サオリ「アズサのときは」
そこで、言葉が止まった。
止まってから、サオリは自分の右手を見た。
サオリ「触れることすら、許されなかった」
サオリ「四歩だった」
サオリ「動けなかったのではない。あれは、間に合う距離ではなかった」
サオリ「……いや」
サオリ「動けなかった」
ミカは、その手袋の縁に指をかけた。
かけて、止めた。
ミカ「外していい?」
サオリが、こちらを見た。
見た目が、少し開いていた。
サオリ「なぜ、そう聞く」
ミカ「一日目にね、コハルちゃんが、私にそう聞いたの」
ミカ「同じ順番でやる。だから、返事して」
サオリ「……ああ」
手袋を、指先からゆっくり引いた。
引きながら、ミカは息を止めた。
止めたことに、途中で気づいた。
手の甲から手首にかけて、皮膚の色が変わっていた。
新しいものと、古いものが、重なっていた。
三日ぶんではなかった。
もっと前からのものが、下にあった。
ミカ「……ばか」
サオリ「そうか」
ミカ「そうかじゃないよ」
ミカ「なんで黙ってたの」
サオリ「言えば、止められる」
ミカ「止めるよ」
サオリ「だから言わなかった」
ミカ「それ、理由になってないから」
サオリ「もう一つある」
サオリは、開いた手を膝の上に置いたままにした。
隠さなかった。
サオリ「確かでないことを口にすると、それが誰かの根拠になる」
サオリ「私が、移せると言えば、次に誰かが死んだとき」
サオリ「あの場に錠前サオリがいた、という一行が、意味を変える」
サオリ「移せる人間が傍にいて、移さなかった。そう読める」
サオリ「読めるだけで、票は動く」
ミカ「……」
サオリ「実際に動いた。私は二度、現場にいた」
サオリ「あのとき魔法を申告していたら、六票は、もっと早く六になっていた」
ミカ「アズサちゃんの代わりに、あなたが」
サオリ「そうだ」
ミカは、動かせる範囲を確かめた。
指を一本ずつ、そっと曲げてもらう。
薬指だけが、途中で止まった。
止まったところで、ミカも手を止めた。
ミカ「ここ、痛い?」
サオリ「痛くない」
ミカ「嘘だ」
サオリ「……曲げると痛い」
ミカ「最初からそう言って」
ミカは立ち上がり、棚から布を出した。
一段目ではなく、二段目から。
一段目のことは、まだ考えたくなかった。
水で濡らして、絞る。
絞る手が、少し震えた。
一日目、同じことをしていたコハルの手も震えていた。
あのとき、それに気づいていなかった。
ミカ「冷やすやつ、作った」
サオリ「必要ない」
ミカ「あなたの必要ないは、当てにならないの」
布を、手の甲へ置いた。
置いた瞬間、サオリの肩が一度だけ動いた。
動いてから、止まった。
サオリ「……」
ミカ「痛いって言っていいから」
サオリ「言うと、お前が」
ミカ「私が何」
サオリ「……いや」
ミカは、布の端を指で押さえた。
押さえた指を、しばらくそこに置いた。
衝立の向こうで、ハルカが寝返りを打った。
打って、また規則的な息に戻った。
サオリ「ミカ」
ミカ「何」
サオリ「痛みは、残っているか」
ミカは、顔を上げた。
同じ言葉を、一日目にも聞いた。
あのときは、話を変えないでと言った。
変えていないことに、今なら気づける。
ミカ「残ってる」
サオリ「そうか」
ミカ「手じゃなくて」
ミカ「あなたが最初に壁を試したとき、私も同じことやったでしょ」
ミカ「そのときの腕の痺れは、もうないの」
ミカ「ないんだけど、残ってるものは別にあって」
ミカ「そっちは、たぶん、ずっと残る」
サオリ「ああ」
ミカ「あなたも同じ?」
サオリ「同じだ」
ミカ「じゃあ、それだけ確認できた」
ミカは、布を一度取って、もう一度濡らした。
二回目は、絞る手が震えなかった。
ミカ「私、まだあなたを信じてないよ」
サオリ「ああ」
ミカ「三回言ったからね、これ」
サオリ「覚えている」
ミカ「でも、もう、知らない人じゃなくなった」
サオリは、返事をしなかった。
しない代わりに、置かれた布から手を引かなかった。
医務室を出たのは、日が高くなってからだった。
渡り廊下の窓際に、二人いた。
ホシノが窓枠に肘をついて、外を見ている。
シロコが、その斜め後ろに立っていた。
立ち位置が、一日目より近かった。
ホシノ「シロコちゃん」
シロコ「ん」
ホシノ「先に帰る準備をしておきなさい」
風見鶏が、動かないまま海を向いていた。
シロコ「……」
ホシノ「荷物なんてないけどねえ。順番だけ考えとくの」
ホシノ「船着き場までの道と、走る速さと、誰の手を引くか」
ホシノ「それを決めとくと、いざってときに迷わないから」
シロコは、頷かなかった。
頷く代わりに、ホシノの隣へ並んだ。
並んで、同じ方を向いた。
シロコ「先輩は」
ホシノ「うん?」
シロコ「先輩の準備は」
ホシノ「おじさんはねえ。のんびり屋だから」
シロコ「答えてない」
ホシノ「うへ~。厳しいなあ」
ホシノは笑った。
笑って、それ以上は言わなかった。
シロコも、それ以上は聞かなかった。
聞かないことにしたのだと、ミカには見えた。
その日の午後、ミカは全員を食堂へ呼んだ。
呼ぶのに、時間がかかった。
ヒナは見取り図の前から動かなかったので、三回行った。
ハルカは、コハルとシロコが両側から支えて連れてきた。
サオリは、来た。理由は言わなかった。
卓に、十人。
空いた席は詰めなかった。
ヒナ「聖園ミカ。何の集まり?」
ミカ「昨日、私、この裁判を壊すって言ったでしょ」
コハル「言ってた」
ミカ「取り消さない」
ミカ「でも、殴って壊すやつじゃないなって、今日わかったの」
ユウカ「……具体的には」
ミカ「疑う順番を決めよう」
誰も、すぐには返さなかった。
返さない時間が、少し長かった。
ミカ「あの機械は、私たちに魔女を選ばせる」
ミカ「犯人じゃなくて魔女。正誤も判定しない」
ミカ「つまり、あれが欲しいのは、票なの」
ミカ「票は、疑う順番で決まる」
ミカ「順番を先に決めておけば、あの部屋で決めなくてよくなる」
ヒナ「……なるほどね」
ヒナ「二十時間かけて決めさせられたのは、順番だったわ」
ミカ「うん。だから、今のうちに書く」
ナギサ「私が書くのは、やめておきます」
ナギサ「案は出します。文にはしません」
ヒナ「その線引きは、私が引く。異論があれば言って」
誰も、異論を言わなかった。
ノアが、紙と鉛筆を卓の中央へ置いた。
三日ぶんの記録は、その横に伏せて重ねられていた。
ミカ「一つ。一人にならない」
ミカ「これは前と同じ。守れてないから、もう一回書く」
コハル「守れてないよね」
ミカ「守れてないよ。私も」
ミカ「二つ。告知を信じない」
ユウカ「一度、嘘をつきました」
ミカ「そう。だから、告知が出ても、自分の目で見るまでは死んだことにしない」
ミカ「逆もね。出てなくても、無事だってことにしない」
ミカ「三つ。見たことと、思ったことを、分けて書く」
言ってから、ミカはノアの手を見た。
鉛筆が、迷わずに動いていた。
読みやすい、整った字だった。
一日目にも、同じことを思った。
同じことを思ったのだと、今日は気づいた。
気づいたところで、それは何にもならなかった。
ミカ「四つ」
ミカ「誰かを名指しする前に、必ず反対の可能性を一つ挙げる」
ユウカ「……一つ、ですか」
ミカ「一つでいい。三つにすると、誰もやらなくなるから」
ユウカ「合理的です」
ユウカ「私が、挙げる係をします」
ミカ「ユウカちゃん」
ユウカ「係にしてください」
ユウカ「そうでないと、私は、また片方だけを書きます」
ミカは頷いた。
頷いてから、ユウカの手元を見た。
紙を持っていなかった。
持っていない手を、卓の上で組んでいた。
ミカ「五つ。魔法を、人に試さない」
ミカ「持ってる魔法を言うかどうかは、本人が決めていい」
ミカ「でも、人に向けて試すのはなし。同意があってもなし」
ハルカ「……あの」
小さい声だった。
全員が、そちらを見た。
ハルカは、支えられていた腕を、自分で下ろした。
ハルカ「私、言えなくなったので」
ハルカ「それでも、いいですか」
ミカ「いいよ」
ハルカ「私、役に立たないです」
ミカ「ハルカちゃん」
ミカ「今の五つ目は、あなたのために書いたやつだから」
ハルカが、口を開いた。
言葉は出なかった。
出ないまま、頷いた。
その隣で、コハルがハルカの背へ手を回した。
ヒナ「六つ目を足したいわ」
ミカ「どうぞ」
ヒナ「守れなかったときに、報告する」
ヒナ「破ったことを隠すと、次から誰も書かなくなる」
ミカ「……それ、いちばん厳しいやつだ」
ヒナ「私が最初に破ると思うから、私が言ったの」
ノアが、紙をこちらへ向けた。
六つの項目が、同じ幅で並んでいた。
行の間隔も、揃っていた。
ノア「これでよろしいですか」
ミカ「うん」
ノア「では、清書します」
ノア「署名は、書ける方だけで構いません」
鉛筆が、また動き始めた。
ミカは、その手つきを目で追った。
速さが、一定だった。
迷いも、直しもなかった。
三日前も、一日前も、同じ速さだった。
この島で、速さの変わらなかったものが、他に何かあったかを、ミカは考えた。
考えて、思い当たらなかった。
思い当たらなかったことを、記録には残さなかった。
まだ、言える形になっていない。
全員が署名を終えるまで、日が傾いた。
サオリは、右手が使えなかったので、左手で書いた。
崩れた字だった。
誰も、それについて何も言わなかった。
ミカは、最後に自分の名前を書いた。
一日目にも、同じ紙に名前を書いた。
あのときは、手に痺れがあった。
今日は、なかった。
なかったのに、書き終わるまでの時間は長かった。
コハル「ミカ先輩」
ミカ「ん?」
コハル「これ、明日も使う?」
ミカ「使うよ」
コハル「じゃあ、明日の朝、皿の数を先に言う」
コハル「順番の一番上に置いていい?」
ミカは、少し笑った。
今日で、初めてだった。
ミカ「置いて」
卓の上の紙が、風で一度めくれた。
ノアがそれを押さえた。
窓の外は、灰色のままだった。
海も、崖も、動かない風見鶏も、四日前と同じ形をしていた。
同じ形の中で、席だけが三つ減っていた。
ミカは、拳を握った。
握って、指の先まで開いた。
開いた手を、紙の端へ置いた。
ミカ「決めよう、って言うのが、私の壊し方だから」