五日目の朝は、皿の数から始まった。
コハル「十枚」
コハルは食堂の入口に立って、まだ卓の手前で言った。
コハル「順番の一番上、これでいい?」
ミカ「いいよ」
コハル「じゃあ言った。十枚」
言ってから、コハルは卓へ近づいて、指で一枚ずつ触って数え直した。
十枚だった。
配膳口から出てきた台車は、昨日より軽い音を立てた。
卓に並んだ椀も十。匙も十。
椅子だけが、十三脚のままだった。
誰も減らさなかった。
減らすことを、誰も言い出さなかった。
全員が食堂にいるのは、三日ぶりだった。
ヒナが卓の端。その隣にコハル。コハルの向こうにハルカ。
ホシノが窓側で、シロコがその隣。
ナギサは配膳口の近くで、匙の向きを揃えていた。
サオリは扉に近い席に、右手を膝に置いて座っていた。
ユウカとノアは、卓の中央に並んでいた。
ノアの前には、昨日清書したルールの紙が伏せて置かれていた。
ヒナ「食べられる人は食べて。無理な人は水だけでいいわ」
ヒナ「今日の班分けは、食べ終わってから決める」
ハルカ「……はい」
ハルカは椀を両手で持った。
持って、口をつけるまでに長くかかった。
ミカは、その様子を見ないようにして、自分の椀を持った。
ユウカ「九」
小さい声だった。
ミカの隣でしたので、ミカにだけ届いた。
ミカ「ユウカちゃん?」
ユウカ「いえ」
ユウカ「失礼しました。何でもありません」
ユウカは椀を持ち上げた。
持ち上げて、そのまま卓に戻した。
ユウカ「聖園さん。一つ確認させてください」
ミカ「うん」
ユウカ「今、この部屋に何人いますか」
ミカ「……十人」
ユウカ「はい。十人です」
ユウカは頷いた。
頷いた首の角度が、いつもより浅かった。
ユウカ「では、皿は」
ミカ「十枚。コハルちゃんが言った」
ユウカ「椀は十。匙は十。椅子は十三」
ユウカ「窓は四つ。桟の格子は一つの窓に六本、合計二十四本」
ユウカ「配膳口の内側に、台車の車輪が四つ」
ユウカ「全部、合っています」
ユウカは、自分の左手を卓の上に置いた。
置いた手を、もう片方の手で押さえた。
ユウカ「人だけが、九なんです」
ミカは、匙を置いた。
置く音が、思ったより大きかった。
ヒナが顔を上げた。コハルも。
ノアは、卓の上の紙をまっすぐに直していた。
ヒナ「早瀬ユウカ。もう一度言って」
ユウカ「私の魔法は、その場にある数を、数えずに把握します」
ユウカ「把握するというのは、目で確かめるより先に分かる、ということです」
ユウカ「間違えたことは、一度もありません」
ユウカ「私はその魔法で、この部屋の人の数を、九と受け取りました」
誰も、すぐには何も言わなかった。
海の音が、窓の向こうで一度大きくなった。
コハル「……えっと」
コハル「一、二、三」
コハルは指で数え始めた。
数え終わるまで、誰も止めなかった。
コハル「十人だよ」
コハル「私、二回数えた。十人」
ユウカ「はい。十人です」
ユウカ「目で見れば十人です。私も見えています」
ユウカ「見えているのに、数が九なんです」
ホシノ「うへ〜」
ホシノ「それ、どっちが壊れてるの」
ユウカ「魔法だと思います」
即答だった。
あまりに早くて、ミカは口を挟めなかった。
ユウカ「ですから、検算をします」
ユウカ「今すぐに」
ユウカは立ち上がった。
立ち上がって、卓の皿を全部一度に伏せた。
伏せてから、目を閉じた。
ユウカ「十」
目を開ける。
十枚だった。
ユウカ「匙を混ぜてください。数は言わないで」
シロコが動いた。
匙を握って、椀の中に無作為に落としていく。
いくつかは卓に転がった。
シロコ「終わった」
ユウカ「十」
シロコが数えた。
シロコ「うん。十」
ユウカ「では、人を」
ユウカは目を閉じ直した。
閉じている時間が、匙のときより長かった。
ユウカ「九」
目を開けた。
開けた目が、卓の上を左から右へ動いた。
自分の目で、十人を見ていた。
ユウカ「九です」
ヒナ「順番を変えてみて」
ヒナ「人以外を先に数えないで、人から数えるの」
ユウカ「……はい」
ユウカは、卓に背を向けた。
背を向けたまま、しばらく動かなかった。
ユウカ「九」
ヒナ「部屋を出て、廊下から数えられる?」
ユウカ「距離は関係ありません。壁も関係ありません」
ユウカ「その場にある、という条件だけです」
ユウカ「試します」
ユウカは食堂を出た。
扉が閉まって、五つ数えるほどの間があった。
扉が開いた。
ユウカ「九でした」
ユウカは席に戻らなかった。
戻らずに、卓の縁に手を置いた。
ユウカ「三日目の朝に、私はこの魔法を申告しました」
ユウカ「あのとき、この部屋に十二人いました」
ユウカ「私は、十一と受け取りました」
ミカは、そのときのことを思い出した。
思い出せたのは、ユウカが黙ったことだけだった。
言いかけて、やめた。あのときも、そうだった。
ユウカ「四日目に、保管庫の名前を数えました」
ユウカ「刻みは十三でした。刻みは、合っていました」
ユウカ「そのあとで、空崎さんに人数を聞かれました」
ユウカ「私は、私が数えるより、目で見た方が確実です、と答えました」
ユウカ「あれは、謙遜ではありません」
ユウカ「合わないことに、気づいていたからです」
ヒナ「……なぜ、そのとき言わなかったの」
ユウカ「言えば、私の魔法が信用されなくなります」
ユウカ「私の魔法が信用されなくなると、私が書いた数字も信用されなくなります」
ユウカ「あの日は、数字だけが、誰かを守っていました」
ヒナは、それに何も返さなかった。
返さないことが、ヒナの返事だった。
ミカは、卓の下で拳を握っていた。
握ってから、指の先まで開いた。
開いた手を、椀の縁に置いた。
置いた指先が、少し冷たかった。
ノア「ユウカちゃん」
ノアの声だった。
ずっと黙っていたので、全員がそちらを向いた。
ノア「一つ、記録として確かめさせてください」
ノア「その九という数は、どの人が入っていないんですか」
卓の空気が、そこで一度止まった。
ユウカ「……分かりません」
ユウカ「数は、名前を持ちません」
ユウカ「九という数が来るだけです」
ユウカ「誰が九に入っていないのかは、数からは出せません」
ノア「そうですか」
ノア「では、そのように書いておきます」
ノアは紙を裏返して、鉛筆を持った。
書いた。
速さは、いつもと同じだった。
ノア「見たこと。早瀬さんの魔法が、人の数を九と返した」
ノア「思ったこと。魔法の不調か、人の側の異常か、まだ分からない」
ノア「これで、三つ目の項目に沿っていますか」
ミカ「……沿ってる」
ノア「はい」
朝食が終わっても、卓の皿は半分以上残っていた。
ヒナが班分けを言い、班が動き出したのは九時過ぎだった。
ミカは、廊下でコハルに袖を引かれた。
引き方が、遠慮のある強さだった。
コハル「ミカ先輩。ちょっと」
ミカ「うん」
コハル「あっちで」
コハルが指したのは、洗濯場の裏だった。
物干しの綱が二本張ってあって、白い布が一枚だけ乾いていた。
三日前にミカが干した布だった。
まだ、返す相手がいなかった。
コハル「あの」
コハル「先に言っとくけど、これ、私が悪いやつだから」
ミカ「聞くよ」
コハル「二日目に、灯台で、私、みんなの怖いものを見たでしょ」
ミカ「見たね」
コハル「あのあと、保管庫の班が戻ってきて、みんな食堂にいて」
コハル「私、そこでも見たの」
コハル「言われてないのに、見た」
コハルは、綱に触れた。
触れた手が、綱を揺らさないように動いた。
コハル「ヒナ先輩は見えた。静山先輩も見えた」
コハル「早瀬先輩も見えた。数字みたいな形だった」
コハル「ノアさんだけ、何も見えなかったの」
布が、風で一度膨らんだ。
風見鶏は、動かなかった。
コハル「輪郭がないんじゃなくて、輪郭を探す場所がないみたいな感じ」
コハル「机の上に何も置いてないのを、見てるみたいな」
ミカ「それ、報告した?」
コハル「してない」
コハル「……してないの」
コハルは、そこで初めてミカの顔を見た。
目が赤かった。
昨日から赤かったので、今日の理由は分からなかった。
コハル「ノアさんは強い人なんだと思ったの」
コハル「怖いものがない人って、いるじゃん。ヒナ先輩みたいな」
コハル「ヒナ先輩は、見えたけど」
コハル「でも、そういう人なんだって思って」
コハル「それに、あの日、ノアさんが記録係やってくれて」
コハル「私、助かってたから」
コハル「助かってる人のこと、変だって言うの、嫌だったの」
ミカは、何も言わなかった。
言わないと、コハルが続けた。
コハル「今日も見た」
コハル「食堂で、早瀬先輩が九って言ったとき」
コハル「みんな、怖いものの形が濃くなった」
コハル「私も濃くなったと思う。自分のは見えないけど」
コハル「ノアさんだけ、何もなかった」
コハル「三日前と、同じ。何も、なかった」
物干しの綱が、また一度鳴った。
コハル「ごめんなさい」
コハル「私、二日前に言えてたら」
ミカ「コハルちゃん」
コハル「言えてたら、白洲先輩は」
ミカ「それ、やめよ」
言い方が、思ったより強かった。
強かったことに、言い終わってから気づいた。
ミカ「ごめん」
ミカ「今のは、私が自分に言ったやつ」
コハル「……」
ミカ「あなたが二日前に言ってても、票は動かなかったと思う」
ミカ「怖いものが見えないって、それだけじゃ何にもならないから」
ミカ「私が票を数える側にいたから、分かるの」
コハル「じゃあ、今も何にもならない?」
ミカ「ならない」
ミカ「一個だけなら、ならない」
ミカは、乾いた布を綱から外した。
外して、四つに畳んだ。
ミカ「でも、教えてくれてよかった」
ミカ「六つ目、守ったじゃんね」
コハル「六つ目?」
ミカ「守れなかったときに、報告する」
コハルは、少し口を開けた。
それから、袖で顔を拭いた。
コハル「ヒナ先輩が書いたやつだ」
ミカ「そう」
コハル「じゃあ、守った」
ミカ「守った」
北の搬入路に着いたのは、昼を過ぎてからだった。
ヒナが決めた班は三人。ミカ、シロコ、ホシノ。
温室の裏から収容棟の北側へ回る細い道は、地図に載っていない。
両側を石の壁に挟まれて、幅は人が二人並べるかどうかだった。
四日目までは、ここに立つ者がいなかった。
カヨコが倒れていた場所には、何も置かれていない。
誰かが置こうとして、置けなかったからだ。
置くものが、島には何もなかった。
シロコ「ここでいい?」
ミカ「うん。お願い」
シロコが、地面に片膝をついた。
手のひらを、石の床に触れさせた。
目を細める。細めた目が、道の奥から手前へ動いた。
それから、手前から奥へ、もう一度。
シロコ「……ない」
ミカ「ない?」
シロコ「線がない」
シロコ「四日目より前の線は、少し残ってる。棗の線。あと私たちの」
シロコ「昨日から今日の線も見える。私と、聖園と、ホシノ先輩」
シロコ「三日目の夕方だけ、何もない」
ミカは、道の奥を見た。
温室の硝子天井の端が、壁の上に少し覗いていた。
ミカ「カヨコちゃんは、どうやってここに来たの」
シロコ「カヨコの線は、途中まである」
シロコ「温室の裏から、この道の入口まで」
シロコ「入口から先が、ない」
ホシノ「……入って来てないってこと?」
シロコ「入ってる。倒れてたのは奥だから」
シロコ「でも線がない」
シロコ「入口の線と、奥の体の位置が、繋がってない」
ミカは、その言葉を頭の中で二回繰り返した。
二回目で、背中が冷たくなった。
ミカ「他の人の線は」
シロコ「ない」
シロコ「三日目の夕方に、この道を通った人は、いない」
シロコ「誰も通ってない」
シロコ「でもカヨコはここで死んだ」
風が、道の中に入ってこなかった。
両側が石なので、風が抜ける場所がなかった。
ホシノ「温室も見よっか」
ホシノ「一日目のとこも、同じかもしれない」
温室に回った。
水盤の水は、四日前と同じ高さだった。
底の紙片は、まだそこにあった。
濡れていないまま、沈んでいた。
ミカは、それに触らなかった。
触っても指がすり抜けることを、もう知っていた。
シロコが、植木棚の前の床に手を置いた。
シロコ「一日目の線は、たくさんある」
シロコ「棗の線。錠前の線。聖園と、下江の線」
シロコ「生塩の線もある」
ミカ「……ノアちゃんの」
シロコ「十五時より前。食堂に行く前の線」
シロコ「そのあと、この場所に入った線は」
シロコの手が、床の上を横に動いた。
動いて、止まった。
シロコ「ない」
シロコ「棗が倒れてた場所に、誰も近づいてない」
シロコ「一日目の十五時十分から、錠前が来るまで」
シロコ「誰も」
ミカは、硝子天井を見上げた。
灰色の空が、格子で切られていた。
ミカ「シロコちゃん。それ、記録に出せる?」
シロコ「出せる」
シロコ「でも、私しか見えない」
ミカ「うん」
シロコ「私が嘘をついてる可能性は、消せない」
ミカ「……そうだね」
シロコ「だから、四つ目をやる」
シロコ「反対の可能性を、一つ」
シロコが、ミカを見た。
言葉を選んでいる顔だった。
選ぶのに時間がかかる人が、選んでいた。
シロコ「私の魔法が、届かない場所がある」
シロコ「そういう場所だと、線は見えない」
シロコ「一日目も三日目も、そういう場所だったのかもしれない」
ミカ「それ、自分の魔法を疑うやつじゃん」
シロコ「うん」
シロコ「早瀬もやってた」
温室を出るとき、ホシノがミカの横に並んだ。
並んで、しばらく黙って歩いた。
シロコが少し先を歩いていた。
ホシノ「ミカちゃん」
ミカ「なに」
ホシノ「あの子、線が見えるって言うでしょ」
ミカ「言うね」
ホシノ「あれね、便利なんだけどさ」
ホシノ「見えるってことは、誰がどこへ行ったか、ぜんぶ分かるってことなんだよねえ」
ホシノ「置いていかれたかどうかも、分かっちゃうの」
ミカは、ホシノの横顔を見た。
目は、シロコの背中を追っていた。
追い方が、まっすぐだった。
ホシノがこういう目をするのを、ミカは初めて見た。
ホシノ「二日目にね、あの子の怖いものの形、聞いたでしょ」
ミカ「置いていかれること」
ホシノ「うん」
ホシノ「それ、おじさんのせいなんだよね」
ミカ「ホシノちゃん」
ホシノ「うへ〜、暗い話しちゃった」
ホシノ「いいの。ちゃんと順番だけ決めとくから」
ホシノは、それ以上言わなかった。
シロコが振り返って、二人が遅れていることに気づいた。
気づいて、立ち止まって、待った。
ホシノは笑って、歩く速さを上げた。
収容棟に戻ったのは、三時前だった。
記録を置く部屋は、食堂の隣の小さな控室だった。
ノアが二日前からそこを使っていた。
扉は、少しだけ開いていた。
閉め切らないことも、ルールの一つに入っていた。
一人にならない、の運用として、そう決めた。
ミカは、その隙間の前で足を止めた。
止めたのは、声が聞こえたからだった。
ユウカ「ノア」
ノア「はい」
ユウカ「今朝のことです」
ノア「はい」
ユウカ「あなたに聞くのが、いちばん正しいと思って来ました」
ユウカ「あなたは、一度読んだ文字を忘れません」
ユウカ「だから、私が三日ぶんに書いた数字を、全部覚えているはずです」
ノア「覚えています」
ユウカ「では、私の数字に、一度でも齟齬がありましたか」
ノア「ありません」
ノア「一度もありません」
ミカは、扉の枠に手をかけた。
かけた手を、そこから動かさなかった。
入るべきだと思った。
思ったのに、入らなかった。
入れば、ユウカが顔を上げなければならなくなる。
三日前、厨房でも、同じことを考えた。
同じことを考えて、同じことをしていた。
ユウカ「おかしいでしょう」
ユウカ「三日ぶん、一度も間違えていない私の魔法が、今朝だけ間違えている」
ノア「間違えていない、という可能性もありますよ」
ユウカ「それが、いちばん困るんです」
紙の音がした。
束を持ち上げて、置き直す音だった。
ユウカ「私の魔法が壊れているなら、話は簡単です」
ユウカ「私が使えなくなるだけで、誰も傷つきません」
ユウカ「伊草さんと同じです。使えなくなった人が、一人増えるだけです」
ユウカ「でも、壊れていないなら」
ユウカ「あの部屋の十人のうち、一人が、人として数えられていないことになります」
ノア「そうなりますね」
ユウカ「ええ」
ユウカ「そして私は、それが誰なのかを、出せません」
ユウカ「数は、名前を持たないので」
しばらく、何も聞こえなかった。
誰も動かない音がしていた。
ノア「ユウカちゃんは、いつも数えていましたね」
ユウカ「……何の話ですか」
ノア「セミナーの話です」
ノア「机の上の書類を、いつも先に数えていました」
ノア「今日は十七枚だから、この時間までに八枚終わればいい、と」
ノア「そう言って、そのとおりに八枚終わらせていました」
ユウカ「当然です。予定を立てなければ、締切に間に合いません」
ノア「はい」
ノア「間に合っていました。いつも」
ノア「ただ、締切の前の日は、眉間に皺が寄っていました」
ユウカ「寄りません」
ノア「寄っていましたよ」
ノア「私は、それを見て、お茶を淹れる時間を決めていました」
ユウカが、何か言おうとした音がした。
言葉にはならなかった。
ノア「ユウカちゃんの数は、正確でした」
ノア「私が数えていたのは、ユウカちゃんの方です」
ミカは、扉の枠から手を離した。
離した手を、下ろした。
下ろしたところで、動けなくなった。
ユウカ「ノア。話を戻します」
ノア「はい」
ユウカ「私が今朝言ったことは、危険です」
ユウカ「あの部屋の誰かが人ではない、という話は、名指しの材料になります」
ユウカ「四つ目の項目を、私が作らせておいて、私が最初に破ることになります」
ノア「破っていませんよ」
ノア「ユウカちゃんは、まだ誰の名前も言っていません」
ユウカ「言っていません」
ユウカ「言わないために、条件を並べようとしました」
ユウカ「所在。証言。単独行動。魔法の性質」
ユウカ「並べたら、順番ができてしまいます」
ユウカ「並べたものを見せると、見た人が名前を埋めます」
ユウカ「私は、それを二日前に見ました」
椅子が動いた音がした。
軋みが小さかった。
誰かが座り直しただけの音だった。
ノア「ユウカちゃん」
ノア「私を疑っていいんですよ」
ミカの指が、扉の枠に戻った。
戻ったのは、自分の意志ではなかった。
ユウカ「……何を」
ノア「並べた条件に、私が入るでしょう」
ノア「一日目の十五時十分に、私は食堂でユウカちゃんと別れました」
ノア「別れたと言っているのは、私です」
ノア「あの九分間、私を見ていた人は、いません」
ノア「三日目の夕方、私は記録を書いていました。一人で」
ノア「保管庫の名前の刻みで、新しいと言われたのは、私の名前です」
ノア「今朝、下江さんが誰かを見たとき、目が動いた方向も、私は覚えています」
ユウカ「ノア」
ノア「条件は、揃っています」
ノア「揃っているものを、揃っていないことにするのは、良くないです」
ユウカ「あなたは、自分で自分を並べているんですか」
ノア「並べています」
ノア「ユウカちゃんが並べると、ユウカちゃんが破ることになりますから」
ノア「私が並べれば、誰の項目にも触れません」
ミカは、扉の隙間から中を見なかった。
見れば、見たことになる。
見たことは、書かなければならない。
書けば、それが誰かの根拠になる。
だから、聞くだけにした。
聞くだけにしたことを、あとで自分に許せるかは、分からなかった。
ノア「ユウカちゃん。私は、疑われても困りません」
ノア「困るのは、疑えないことです」
ノア「みなさんが、私を疑えない場所に置いたままだと」
ノア「もし本当に私だったとき、誰も気づけません」
ノア「それは、ユウカちゃんが一番嫌なことでしょう」
ユウカ「……嫌です」
ノア「はい」
ノア「ですから、疑ってください」
ノア「私は、逃げません。記録も、いつでも見せます」
ノア「見せる相手を、私が選ばないようにします」
ノア「そこだけは、決めておきましょうか」
紙を揃える音がした。
卓の縁で軽く叩いて、角を合わせる音だった。
その音が二度した。
二度目のあと、別の音がした。
息を吸う音だった。
吸って、途中で止まった。
ユウカ「無理です」
ノア「はい」
ユウカ「ノア。無理です」
ユウカ「私は、条件で人を並べられます」
ユウカ「二日前に、それをやりました。やった結果、白洲さんが座りました」
ユウカ「私は、あの並べ方を覚えています」
ユウカ「覚えているので、あなたを並べることもできます」
ユウカ「できるのに」
声が、そこで崩れた。
崩れ方が、はっきり聞こえた。
ユウカ「あなたを疑いたくないんです」
ミカは、目を閉じた。
閉じても、何も遮れなかった。
ノア「知っています」
それだけだった。
そのあと、しばらく声はしなかった。
紙の音も、椅子の音もしなかった。
ユウカの呼吸だけが、少しずつ長くなっていった。
長くなって、いつもの間隔に戻るまで、ミカはそこに立っていた。
ノア「ユウカちゃん。水を持ってきますね」
ノア「戻るまで、扉は開けたままにしておきます」
足音がした。
ミカは、廊下の角へ移った。
移ったのは、隠れるためではなかった。
ノアと廊下ですれ違えば、挨拶をしなければならない。
挨拶ができる顔をしている自信が、なかった。
ノアは、控室から出て、厨房の方へ歩いていった。
歩く速さが、一定だった。
ミカは、それを見送った。
見送ってから、廊下の壁に背を預けた。
頭の中で、材料を並べた。
並べるつもりはなかったのに、勝手に並んだ。
九分の空白。誰も見ていない九分。
告知の嘘。システムが一度、生きている人間を死んだと言った。
保管庫の扉の、一つだけ新しい刻み。
誰の跡もない殺害。移動せずに死なせる形。
怖いものの輪郭が、一度も見えない人。
そして、九という数。
六つあった。
六つとも、同じ方を向いていた。
ミカは、拳を握った。
握った拳が、開かなかった。
開かないので、そのまま壁に一度押しつけた。
左手首が熱かった。
袖をずらす。
黒い線が、十本あった。
昨日の夜は、九本だった。
この廊下で、魔法は使っていない。
使っていないのに、増えていた。
増えた分は、たぶん、扉の外で聞いていた時間だった。
ミカは、四つ目の項目を思い出した。
誰かを名指しする前に、必ず反対の可能性を一つ挙げる。
一つでいい、と自分で言った。
三つにすると誰もやらなくなるから、と。
だから、一つ挙げようとした。
挙げようとして、挙がってしまった。
九という数は、ユウカの魔法が壊れているだけかもしれない。
ユウカ本人が、それをいちばん先に言った。
怖いものが見えないのは、恐怖の形を持たないほど強い人がいるからかもしれない。
コハルが、二日間そう思っていた。
跡が残らないのは、シロコの魔法が届かない場所があるからかもしれない。
シロコ本人が、それを反対の可能性として挙げた。
刻みが新しいのは、施設が刻む順番を決めていただけかもしれない。
九分は、証言する相手がいなかっただけかもしれない。
告知の嘘は、機械の側の不具合かもしれない。
一つでよかったのに、六つ挙がった。
ミカは、壁から背を離した。
六つ挙げられるものを、名指しにはできない。
できないことは、知っていた。
知っていて、それでも一度、名前が口の形になった。
なりかけて、止まった。
止めたのは、理屈ではなかった。
あのとき、声が聞こえた。
誰の声かは分からない。顔も名前も覚えていない。
覚えているのは、それが自分の言葉で話したことだけだ。
私が言いそうなことを、私より先に言った。
その声に乗って、ミカは疑う順番を決めた。
決めた順番は、正しく見えた。
材料も、六つあった。
六つあって、全部が同じ方を向いていた。
だから壁を壊した。
ミカは、そこで思考を止めた。
止めた場所に、何かが引っかかっていた。
引っかかっているのに、形にならなかった。
形にならないものは、まだ言えない。
言えないものを言うと、それが誰かの根拠になる。
サオリを見つけたのは、渡り廊下の窓際だった。
右手の手袋を外して、膝の上に置いていた。
昨日ミカが巻いた布が、そのままだった。
巻き方が、少し緩んでいた。
ミカ「緩んでる」
サオリ「巻き直した」
ミカ「下手じゃん」
サオリ「左手でやった」
ミカは、隣に座った。
座ってから、しばらく何も言わなかった。
サオリも、何も聞かなかった。
海の音が、二回大きくなって、二回小さくなった。
サオリ「顔が悪い」
ミカ「そ」
サオリ「何か持っているな」
ミカ「持ってる」
サオリ「言うのか」
ミカ「言わない」
サオリは、それで頷いた。
頷いただけで、理由を聞かなかった。
ミカ「聞かないの」
サオリ「聞けば、お前が言う」
サオリ「言えば、私が持つことになる」
サオリ「私が持ったものは、票になる」
ミカ「……よく分かってるじゃんね」
サオリ「二度、見た」
ミカは、窓の外を見た。
風見鶏が、灰色の空の下で海を向いていた。
風は吹いていた。
尾羽は、動かなかった。
ミカ「私ね、六つ数えたの」
ミカ「六つ揃った」
サオリ「そうか」
ミカ「揃ったんだけどさ」
ミカ「反対のやつも、六つ出たの」
サオリ「同じ数か」
ミカ「同じ数」
サオリ「なら、まだだ」
ミカ「うん」
サオリは、膝の上の手袋を持ち上げて、また置いた。
置き方に意味はなかった。
置く場所を探しているだけだった。
サオリ「ミカ」
ミカ「なに」
サオリ「言えるようになったら、言え」
ミカは、それを聞いて、少し息を吐いた。
吐いた息が、思ったより長かった。
ミカ「命令形」
サオリ「そうだ」
ミカ「理由は」
サオリ「あとで言う」
ミカ「またそれ」
言ってから、ミカは自分が笑っていることに気づいた。
サオリは、笑わなかった。
笑わないまま、窓の外を見ていた。
どちらも、この会話が四日前の裏返しだとは言わなかった。
言わなくても、成立していた。
ミカは立ち上がり、廊下を歩いた。
控室の前を通ったが、中には入らなかった。
ユウカは、そこにいなかった。
ノアが置いていった水のコップだけが、卓の上にあった。
中身が減っていなかった。
ユウカを見つけたのは、食堂だった。
夕方の光が、窓から低く入っていた。
卓には、朝と同じ十枚の皿が伏せて重ねられていた。
ユウカは、椅子に座っていなかった。
卓の前に立って、十三脚の椅子を見ていた。
ミカが入っても、振り向かなかった。
振り向かないまま、口を開いた。
ユウカ「聖園さん。私、計算を間違えたことが、一度もないんです」