ブルアカ少女ノ魔女裁判   作:すーぱーりっかちゃん

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ユウカ『私、計算を間違えたことがないんです』

五日目の朝は、皿の数から始まった。

 

コハル「十枚」

 

コハルは食堂の入口に立って、まだ卓の手前で言った。

 

コハル「順番の一番上、これでいい?」

 

ミカ「いいよ」

 

コハル「じゃあ言った。十枚」

 

言ってから、コハルは卓へ近づいて、指で一枚ずつ触って数え直した。

 

十枚だった。

 

配膳口から出てきた台車は、昨日より軽い音を立てた。

 

卓に並んだ椀も十。匙も十。

 

椅子だけが、十三脚のままだった。

 

誰も減らさなかった。

 

減らすことを、誰も言い出さなかった。

 

全員が食堂にいるのは、三日ぶりだった。

 

ヒナが卓の端。その隣にコハル。コハルの向こうにハルカ。

 

ホシノが窓側で、シロコがその隣。

 

ナギサは配膳口の近くで、匙の向きを揃えていた。

 

サオリは扉に近い席に、右手を膝に置いて座っていた。

 

ユウカとノアは、卓の中央に並んでいた。

 

ノアの前には、昨日清書したルールの紙が伏せて置かれていた。

 

ヒナ「食べられる人は食べて。無理な人は水だけでいいわ」

 

ヒナ「今日の班分けは、食べ終わってから決める」

 

ハルカ「……はい」

 

ハルカは椀を両手で持った。

 

持って、口をつけるまでに長くかかった。

 

ミカは、その様子を見ないようにして、自分の椀を持った。

 

ユウカ「九」

 

小さい声だった。

 

ミカの隣でしたので、ミカにだけ届いた。

 

ミカ「ユウカちゃん?」

 

ユウカ「いえ」

 

ユウカ「失礼しました。何でもありません」

 

ユウカは椀を持ち上げた。

 

持ち上げて、そのまま卓に戻した。

 

ユウカ「聖園さん。一つ確認させてください」

 

ミカ「うん」

 

ユウカ「今、この部屋に何人いますか」

 

ミカ「……十人」

 

ユウカ「はい。十人です」

 

ユウカは頷いた。

 

頷いた首の角度が、いつもより浅かった。

 

ユウカ「では、皿は」

 

ミカ「十枚。コハルちゃんが言った」

 

ユウカ「椀は十。匙は十。椅子は十三」

 

ユウカ「窓は四つ。桟の格子は一つの窓に六本、合計二十四本」

 

ユウカ「配膳口の内側に、台車の車輪が四つ」

 

ユウカ「全部、合っています」

 

ユウカは、自分の左手を卓の上に置いた。

 

置いた手を、もう片方の手で押さえた。

 

ユウカ「人だけが、九なんです」

 

ミカは、匙を置いた。

 

置く音が、思ったより大きかった。

 

ヒナが顔を上げた。コハルも。

 

ノアは、卓の上の紙をまっすぐに直していた。

 

ヒナ「早瀬ユウカ。もう一度言って」

 

ユウカ「私の魔法は、その場にある数を、数えずに把握します」

 

ユウカ「把握するというのは、目で確かめるより先に分かる、ということです」

 

ユウカ「間違えたことは、一度もありません」

 

ユウカ「私はその魔法で、この部屋の人の数を、九と受け取りました」

 

誰も、すぐには何も言わなかった。

 

海の音が、窓の向こうで一度大きくなった。

 

コハル「……えっと」

 

コハル「一、二、三」

 

コハルは指で数え始めた。

 

数え終わるまで、誰も止めなかった。

 

コハル「十人だよ」

 

コハル「私、二回数えた。十人」

 

ユウカ「はい。十人です」

 

ユウカ「目で見れば十人です。私も見えています」

 

ユウカ「見えているのに、数が九なんです」

 

ホシノ「うへ〜」

 

ホシノ「それ、どっちが壊れてるの」

 

ユウカ「魔法だと思います」

 

即答だった。

 

あまりに早くて、ミカは口を挟めなかった。

 

ユウカ「ですから、検算をします」

 

ユウカ「今すぐに」

 

ユウカは立ち上がった。

 

立ち上がって、卓の皿を全部一度に伏せた。

 

伏せてから、目を閉じた。

 

ユウカ「十」

 

目を開ける。

 

十枚だった。

 

ユウカ「匙を混ぜてください。数は言わないで」

 

シロコが動いた。

 

匙を握って、椀の中に無作為に落としていく。

 

いくつかは卓に転がった。

 

シロコ「終わった」

 

ユウカ「十」

 

シロコが数えた。

 

シロコ「うん。十」

 

ユウカ「では、人を」

 

ユウカは目を閉じ直した。

 

閉じている時間が、匙のときより長かった。

 

ユウカ「九」

 

目を開けた。

 

開けた目が、卓の上を左から右へ動いた。

 

自分の目で、十人を見ていた。

 

ユウカ「九です」

 

ヒナ「順番を変えてみて」

 

ヒナ「人以外を先に数えないで、人から数えるの」

 

ユウカ「……はい」

 

ユウカは、卓に背を向けた。

 

背を向けたまま、しばらく動かなかった。

 

ユウカ「九」

 

ヒナ「部屋を出て、廊下から数えられる?」

 

ユウカ「距離は関係ありません。壁も関係ありません」

 

ユウカ「その場にある、という条件だけです」

 

ユウカ「試します」

 

ユウカは食堂を出た。

 

扉が閉まって、五つ数えるほどの間があった。

 

扉が開いた。

 

ユウカ「九でした」

 

ユウカは席に戻らなかった。

 

戻らずに、卓の縁に手を置いた。

 

ユウカ「三日目の朝に、私はこの魔法を申告しました」

 

ユウカ「あのとき、この部屋に十二人いました」

 

ユウカ「私は、十一と受け取りました」

 

ミカは、そのときのことを思い出した。

 

思い出せたのは、ユウカが黙ったことだけだった。

 

言いかけて、やめた。あのときも、そうだった。

 

ユウカ「四日目に、保管庫の名前を数えました」

 

ユウカ「刻みは十三でした。刻みは、合っていました」

 

ユウカ「そのあとで、空崎さんに人数を聞かれました」

 

ユウカ「私は、私が数えるより、目で見た方が確実です、と答えました」

 

ユウカ「あれは、謙遜ではありません」

 

ユウカ「合わないことに、気づいていたからです」

 

ヒナ「……なぜ、そのとき言わなかったの」

 

ユウカ「言えば、私の魔法が信用されなくなります」

 

ユウカ「私の魔法が信用されなくなると、私が書いた数字も信用されなくなります」

 

ユウカ「あの日は、数字だけが、誰かを守っていました」

 

ヒナは、それに何も返さなかった。

 

返さないことが、ヒナの返事だった。

 

ミカは、卓の下で拳を握っていた。

 

握ってから、指の先まで開いた。

 

開いた手を、椀の縁に置いた。

 

置いた指先が、少し冷たかった。

 

ノア「ユウカちゃん」

 

ノアの声だった。

 

ずっと黙っていたので、全員がそちらを向いた。

 

ノア「一つ、記録として確かめさせてください」

 

ノア「その九という数は、どの人が入っていないんですか」

 

卓の空気が、そこで一度止まった。

 

ユウカ「……分かりません」

 

ユウカ「数は、名前を持ちません」

 

ユウカ「九という数が来るだけです」

 

ユウカ「誰が九に入っていないのかは、数からは出せません」

 

ノア「そうですか」

 

ノア「では、そのように書いておきます」

 

ノアは紙を裏返して、鉛筆を持った。

 

書いた。

 

速さは、いつもと同じだった。

 

ノア「見たこと。早瀬さんの魔法が、人の数を九と返した」

 

ノア「思ったこと。魔法の不調か、人の側の異常か、まだ分からない」

 

ノア「これで、三つ目の項目に沿っていますか」

 

ミカ「……沿ってる」

 

ノア「はい」

 

朝食が終わっても、卓の皿は半分以上残っていた。

 

ヒナが班分けを言い、班が動き出したのは九時過ぎだった。

 

ミカは、廊下でコハルに袖を引かれた。

 

引き方が、遠慮のある強さだった。

 

コハル「ミカ先輩。ちょっと」

 

ミカ「うん」

 

コハル「あっちで」

 

コハルが指したのは、洗濯場の裏だった。

 

物干しの綱が二本張ってあって、白い布が一枚だけ乾いていた。

 

三日前にミカが干した布だった。

 

まだ、返す相手がいなかった。

 

コハル「あの」

 

コハル「先に言っとくけど、これ、私が悪いやつだから」

 

ミカ「聞くよ」

 

コハル「二日目に、灯台で、私、みんなの怖いものを見たでしょ」

 

ミカ「見たね」

 

コハル「あのあと、保管庫の班が戻ってきて、みんな食堂にいて」

 

コハル「私、そこでも見たの」

 

コハル「言われてないのに、見た」

 

コハルは、綱に触れた。

 

触れた手が、綱を揺らさないように動いた。

 

コハル「ヒナ先輩は見えた。静山先輩も見えた」

 

コハル「早瀬先輩も見えた。数字みたいな形だった」

 

コハル「ノアさんだけ、何も見えなかったの」

 

布が、風で一度膨らんだ。

 

風見鶏は、動かなかった。

 

コハル「輪郭がないんじゃなくて、輪郭を探す場所がないみたいな感じ」

 

コハル「机の上に何も置いてないのを、見てるみたいな」

 

ミカ「それ、報告した?」

 

コハル「してない」

 

コハル「……してないの」

 

コハルは、そこで初めてミカの顔を見た。

 

目が赤かった。

 

昨日から赤かったので、今日の理由は分からなかった。

 

コハル「ノアさんは強い人なんだと思ったの」

 

コハル「怖いものがない人って、いるじゃん。ヒナ先輩みたいな」

 

コハル「ヒナ先輩は、見えたけど」

 

コハル「でも、そういう人なんだって思って」

 

コハル「それに、あの日、ノアさんが記録係やってくれて」

 

コハル「私、助かってたから」

 

コハル「助かってる人のこと、変だって言うの、嫌だったの」

 

ミカは、何も言わなかった。

 

言わないと、コハルが続けた。

 

コハル「今日も見た」

 

コハル「食堂で、早瀬先輩が九って言ったとき」

 

コハル「みんな、怖いものの形が濃くなった」

 

コハル「私も濃くなったと思う。自分のは見えないけど」

 

コハル「ノアさんだけ、何もなかった」

 

コハル「三日前と、同じ。何も、なかった」

 

物干しの綱が、また一度鳴った。

 

コハル「ごめんなさい」

 

コハル「私、二日前に言えてたら」

 

ミカ「コハルちゃん」

 

コハル「言えてたら、白洲先輩は」

 

ミカ「それ、やめよ」

 

言い方が、思ったより強かった。

 

強かったことに、言い終わってから気づいた。

 

ミカ「ごめん」

 

ミカ「今のは、私が自分に言ったやつ」

 

コハル「……」

 

ミカ「あなたが二日前に言ってても、票は動かなかったと思う」

 

ミカ「怖いものが見えないって、それだけじゃ何にもならないから」

 

ミカ「私が票を数える側にいたから、分かるの」

 

コハル「じゃあ、今も何にもならない?」

 

ミカ「ならない」

 

ミカ「一個だけなら、ならない」

 

ミカは、乾いた布を綱から外した。

 

外して、四つに畳んだ。

 

ミカ「でも、教えてくれてよかった」

 

ミカ「六つ目、守ったじゃんね」

 

コハル「六つ目?」

 

ミカ「守れなかったときに、報告する」

 

コハルは、少し口を開けた。

 

それから、袖で顔を拭いた。

 

コハル「ヒナ先輩が書いたやつだ」

 

ミカ「そう」

 

コハル「じゃあ、守った」

 

ミカ「守った」

 

北の搬入路に着いたのは、昼を過ぎてからだった。

 

ヒナが決めた班は三人。ミカ、シロコ、ホシノ。

 

温室の裏から収容棟の北側へ回る細い道は、地図に載っていない。

 

両側を石の壁に挟まれて、幅は人が二人並べるかどうかだった。

 

四日目までは、ここに立つ者がいなかった。

 

カヨコが倒れていた場所には、何も置かれていない。

 

誰かが置こうとして、置けなかったからだ。

 

置くものが、島には何もなかった。

 

シロコ「ここでいい?」

 

ミカ「うん。お願い」

 

シロコが、地面に片膝をついた。

 

手のひらを、石の床に触れさせた。

 

目を細める。細めた目が、道の奥から手前へ動いた。

 

それから、手前から奥へ、もう一度。

 

シロコ「……ない」

 

ミカ「ない?」

 

シロコ「線がない」

 

シロコ「四日目より前の線は、少し残ってる。棗の線。あと私たちの」

 

シロコ「昨日から今日の線も見える。私と、聖園と、ホシノ先輩」

 

シロコ「三日目の夕方だけ、何もない」

 

ミカは、道の奥を見た。

 

温室の硝子天井の端が、壁の上に少し覗いていた。

 

ミカ「カヨコちゃんは、どうやってここに来たの」

 

シロコ「カヨコの線は、途中まである」

 

シロコ「温室の裏から、この道の入口まで」

 

シロコ「入口から先が、ない」

 

ホシノ「……入って来てないってこと?」

 

シロコ「入ってる。倒れてたのは奥だから」

 

シロコ「でも線がない」

 

シロコ「入口の線と、奥の体の位置が、繋がってない」

 

ミカは、その言葉を頭の中で二回繰り返した。

 

二回目で、背中が冷たくなった。

 

ミカ「他の人の線は」

 

シロコ「ない」

 

シロコ「三日目の夕方に、この道を通った人は、いない」

 

シロコ「誰も通ってない」

 

シロコ「でもカヨコはここで死んだ」

 

風が、道の中に入ってこなかった。

 

両側が石なので、風が抜ける場所がなかった。

 

ホシノ「温室も見よっか」

 

ホシノ「一日目のとこも、同じかもしれない」

 

温室に回った。

 

水盤の水は、四日前と同じ高さだった。

 

底の紙片は、まだそこにあった。

 

濡れていないまま、沈んでいた。

 

ミカは、それに触らなかった。

 

触っても指がすり抜けることを、もう知っていた。

 

シロコが、植木棚の前の床に手を置いた。

 

シロコ「一日目の線は、たくさんある」

 

シロコ「棗の線。錠前の線。聖園と、下江の線」

 

シロコ「生塩の線もある」

 

ミカ「……ノアちゃんの」

 

シロコ「十五時より前。食堂に行く前の線」

 

シロコ「そのあと、この場所に入った線は」

 

シロコの手が、床の上を横に動いた。

 

動いて、止まった。

 

シロコ「ない」

 

シロコ「棗が倒れてた場所に、誰も近づいてない」

 

シロコ「一日目の十五時十分から、錠前が来るまで」

 

シロコ「誰も」

 

ミカは、硝子天井を見上げた。

 

灰色の空が、格子で切られていた。

 

ミカ「シロコちゃん。それ、記録に出せる?」

 

シロコ「出せる」

 

シロコ「でも、私しか見えない」

 

ミカ「うん」

 

シロコ「私が嘘をついてる可能性は、消せない」

 

ミカ「……そうだね」

 

シロコ「だから、四つ目をやる」

 

シロコ「反対の可能性を、一つ」

 

シロコが、ミカを見た。

 

言葉を選んでいる顔だった。

 

選ぶのに時間がかかる人が、選んでいた。

 

シロコ「私の魔法が、届かない場所がある」

 

シロコ「そういう場所だと、線は見えない」

 

シロコ「一日目も三日目も、そういう場所だったのかもしれない」

 

ミカ「それ、自分の魔法を疑うやつじゃん」

 

シロコ「うん」

 

シロコ「早瀬もやってた」

 

温室を出るとき、ホシノがミカの横に並んだ。

 

並んで、しばらく黙って歩いた。

 

シロコが少し先を歩いていた。

 

ホシノ「ミカちゃん」

 

ミカ「なに」

 

ホシノ「あの子、線が見えるって言うでしょ」

 

ミカ「言うね」

 

ホシノ「あれね、便利なんだけどさ」

 

ホシノ「見えるってことは、誰がどこへ行ったか、ぜんぶ分かるってことなんだよねえ」

 

ホシノ「置いていかれたかどうかも、分かっちゃうの」

 

ミカは、ホシノの横顔を見た。

 

目は、シロコの背中を追っていた。

 

追い方が、まっすぐだった。

 

ホシノがこういう目をするのを、ミカは初めて見た。

 

ホシノ「二日目にね、あの子の怖いものの形、聞いたでしょ」

 

ミカ「置いていかれること」

 

ホシノ「うん」

 

ホシノ「それ、おじさんのせいなんだよね」

 

ミカ「ホシノちゃん」

 

ホシノ「うへ〜、暗い話しちゃった」

 

ホシノ「いいの。ちゃんと順番だけ決めとくから」

 

ホシノは、それ以上言わなかった。

 

シロコが振り返って、二人が遅れていることに気づいた。

 

気づいて、立ち止まって、待った。

 

ホシノは笑って、歩く速さを上げた。

 

収容棟に戻ったのは、三時前だった。

 

記録を置く部屋は、食堂の隣の小さな控室だった。

 

ノアが二日前からそこを使っていた。

 

扉は、少しだけ開いていた。

 

閉め切らないことも、ルールの一つに入っていた。

 

一人にならない、の運用として、そう決めた。

 

ミカは、その隙間の前で足を止めた。

 

止めたのは、声が聞こえたからだった。

 

ユウカ「ノア」

 

ノア「はい」

 

ユウカ「今朝のことです」

 

ノア「はい」

 

ユウカ「あなたに聞くのが、いちばん正しいと思って来ました」

 

ユウカ「あなたは、一度読んだ文字を忘れません」

 

ユウカ「だから、私が三日ぶんに書いた数字を、全部覚えているはずです」

 

ノア「覚えています」

 

ユウカ「では、私の数字に、一度でも齟齬がありましたか」

 

ノア「ありません」

 

ノア「一度もありません」

 

ミカは、扉の枠に手をかけた。

 

かけた手を、そこから動かさなかった。

 

入るべきだと思った。

 

思ったのに、入らなかった。

 

入れば、ユウカが顔を上げなければならなくなる。

 

三日前、厨房でも、同じことを考えた。

 

同じことを考えて、同じことをしていた。

 

ユウカ「おかしいでしょう」

 

ユウカ「三日ぶん、一度も間違えていない私の魔法が、今朝だけ間違えている」

 

ノア「間違えていない、という可能性もありますよ」

 

ユウカ「それが、いちばん困るんです」

 

紙の音がした。

 

束を持ち上げて、置き直す音だった。

 

ユウカ「私の魔法が壊れているなら、話は簡単です」

 

ユウカ「私が使えなくなるだけで、誰も傷つきません」

 

ユウカ「伊草さんと同じです。使えなくなった人が、一人増えるだけです」

 

ユウカ「でも、壊れていないなら」

 

ユウカ「あの部屋の十人のうち、一人が、人として数えられていないことになります」

 

ノア「そうなりますね」

 

ユウカ「ええ」

 

ユウカ「そして私は、それが誰なのかを、出せません」

 

ユウカ「数は、名前を持たないので」

 

しばらく、何も聞こえなかった。

 

誰も動かない音がしていた。

 

ノア「ユウカちゃんは、いつも数えていましたね」

 

ユウカ「……何の話ですか」

 

ノア「セミナーの話です」

 

ノア「机の上の書類を、いつも先に数えていました」

 

ノア「今日は十七枚だから、この時間までに八枚終わればいい、と」

 

ノア「そう言って、そのとおりに八枚終わらせていました」

 

ユウカ「当然です。予定を立てなければ、締切に間に合いません」

 

ノア「はい」

 

ノア「間に合っていました。いつも」

 

ノア「ただ、締切の前の日は、眉間に皺が寄っていました」

 

ユウカ「寄りません」

 

ノア「寄っていましたよ」

 

ノア「私は、それを見て、お茶を淹れる時間を決めていました」

 

ユウカが、何か言おうとした音がした。

 

言葉にはならなかった。

 

ノア「ユウカちゃんの数は、正確でした」

 

ノア「私が数えていたのは、ユウカちゃんの方です」

 

ミカは、扉の枠から手を離した。

 

離した手を、下ろした。

 

下ろしたところで、動けなくなった。

 

ユウカ「ノア。話を戻します」

 

ノア「はい」

 

ユウカ「私が今朝言ったことは、危険です」

 

ユウカ「あの部屋の誰かが人ではない、という話は、名指しの材料になります」

 

ユウカ「四つ目の項目を、私が作らせておいて、私が最初に破ることになります」

 

ノア「破っていませんよ」

 

ノア「ユウカちゃんは、まだ誰の名前も言っていません」

 

ユウカ「言っていません」

 

ユウカ「言わないために、条件を並べようとしました」

 

ユウカ「所在。証言。単独行動。魔法の性質」

 

ユウカ「並べたら、順番ができてしまいます」

 

ユウカ「並べたものを見せると、見た人が名前を埋めます」

 

ユウカ「私は、それを二日前に見ました」

 

椅子が動いた音がした。

 

軋みが小さかった。

 

誰かが座り直しただけの音だった。

 

ノア「ユウカちゃん」

 

ノア「私を疑っていいんですよ」

 

ミカの指が、扉の枠に戻った。

 

戻ったのは、自分の意志ではなかった。

 

ユウカ「……何を」

 

ノア「並べた条件に、私が入るでしょう」

 

ノア「一日目の十五時十分に、私は食堂でユウカちゃんと別れました」

 

ノア「別れたと言っているのは、私です」

 

ノア「あの九分間、私を見ていた人は、いません」

 

ノア「三日目の夕方、私は記録を書いていました。一人で」

 

ノア「保管庫の名前の刻みで、新しいと言われたのは、私の名前です」

 

ノア「今朝、下江さんが誰かを見たとき、目が動いた方向も、私は覚えています」

 

ユウカ「ノア」

 

ノア「条件は、揃っています」

 

ノア「揃っているものを、揃っていないことにするのは、良くないです」

 

ユウカ「あなたは、自分で自分を並べているんですか」

 

ノア「並べています」

 

ノア「ユウカちゃんが並べると、ユウカちゃんが破ることになりますから」

 

ノア「私が並べれば、誰の項目にも触れません」

 

ミカは、扉の隙間から中を見なかった。

 

見れば、見たことになる。

 

見たことは、書かなければならない。

 

書けば、それが誰かの根拠になる。

 

だから、聞くだけにした。

 

聞くだけにしたことを、あとで自分に許せるかは、分からなかった。

 

ノア「ユウカちゃん。私は、疑われても困りません」

 

ノア「困るのは、疑えないことです」

 

ノア「みなさんが、私を疑えない場所に置いたままだと」

 

ノア「もし本当に私だったとき、誰も気づけません」

 

ノア「それは、ユウカちゃんが一番嫌なことでしょう」

 

ユウカ「……嫌です」

 

ノア「はい」

 

ノア「ですから、疑ってください」

 

ノア「私は、逃げません。記録も、いつでも見せます」

 

ノア「見せる相手を、私が選ばないようにします」

 

ノア「そこだけは、決めておきましょうか」

 

紙を揃える音がした。

 

卓の縁で軽く叩いて、角を合わせる音だった。

 

その音が二度した。

 

二度目のあと、別の音がした。

 

息を吸う音だった。

 

吸って、途中で止まった。

 

ユウカ「無理です」

 

ノア「はい」

 

ユウカ「ノア。無理です」

 

ユウカ「私は、条件で人を並べられます」

 

ユウカ「二日前に、それをやりました。やった結果、白洲さんが座りました」

 

ユウカ「私は、あの並べ方を覚えています」

 

ユウカ「覚えているので、あなたを並べることもできます」

 

ユウカ「できるのに」

 

声が、そこで崩れた。

 

崩れ方が、はっきり聞こえた。

 

ユウカ「あなたを疑いたくないんです」

 

ミカは、目を閉じた。

 

閉じても、何も遮れなかった。

 

ノア「知っています」

 

それだけだった。

 

そのあと、しばらく声はしなかった。

 

紙の音も、椅子の音もしなかった。

 

ユウカの呼吸だけが、少しずつ長くなっていった。

 

長くなって、いつもの間隔に戻るまで、ミカはそこに立っていた。

 

ノア「ユウカちゃん。水を持ってきますね」

 

ノア「戻るまで、扉は開けたままにしておきます」

 

足音がした。

 

ミカは、廊下の角へ移った。

 

移ったのは、隠れるためではなかった。

 

ノアと廊下ですれ違えば、挨拶をしなければならない。

 

挨拶ができる顔をしている自信が、なかった。

 

ノアは、控室から出て、厨房の方へ歩いていった。

 

歩く速さが、一定だった。

 

ミカは、それを見送った。

 

見送ってから、廊下の壁に背を預けた。

 

頭の中で、材料を並べた。

 

並べるつもりはなかったのに、勝手に並んだ。

 

九分の空白。誰も見ていない九分。

 

告知の嘘。システムが一度、生きている人間を死んだと言った。

 

保管庫の扉の、一つだけ新しい刻み。

 

誰の跡もない殺害。移動せずに死なせる形。

 

怖いものの輪郭が、一度も見えない人。

 

そして、九という数。

 

六つあった。

 

六つとも、同じ方を向いていた。

 

ミカは、拳を握った。

 

握った拳が、開かなかった。

 

開かないので、そのまま壁に一度押しつけた。

 

左手首が熱かった。

 

袖をずらす。

 

黒い線が、十本あった。

 

昨日の夜は、九本だった。

 

この廊下で、魔法は使っていない。

 

使っていないのに、増えていた。

 

増えた分は、たぶん、扉の外で聞いていた時間だった。

 

ミカは、四つ目の項目を思い出した。

 

誰かを名指しする前に、必ず反対の可能性を一つ挙げる。

 

一つでいい、と自分で言った。

 

三つにすると誰もやらなくなるから、と。

 

だから、一つ挙げようとした。

 

挙げようとして、挙がってしまった。

 

九という数は、ユウカの魔法が壊れているだけかもしれない。

 

ユウカ本人が、それをいちばん先に言った。

 

怖いものが見えないのは、恐怖の形を持たないほど強い人がいるからかもしれない。

 

コハルが、二日間そう思っていた。

 

跡が残らないのは、シロコの魔法が届かない場所があるからかもしれない。

 

シロコ本人が、それを反対の可能性として挙げた。

 

刻みが新しいのは、施設が刻む順番を決めていただけかもしれない。

 

九分は、証言する相手がいなかっただけかもしれない。

 

告知の嘘は、機械の側の不具合かもしれない。

 

一つでよかったのに、六つ挙がった。

 

ミカは、壁から背を離した。

 

六つ挙げられるものを、名指しにはできない。

 

できないことは、知っていた。

 

知っていて、それでも一度、名前が口の形になった。

 

なりかけて、止まった。

 

止めたのは、理屈ではなかった。

 

あのとき、声が聞こえた。

 

誰の声かは分からない。顔も名前も覚えていない。

 

覚えているのは、それが自分の言葉で話したことだけだ。

 

私が言いそうなことを、私より先に言った。

 

その声に乗って、ミカは疑う順番を決めた。

 

決めた順番は、正しく見えた。

 

材料も、六つあった。

 

六つあって、全部が同じ方を向いていた。

 

だから壁を壊した。

 

ミカは、そこで思考を止めた。

 

止めた場所に、何かが引っかかっていた。

 

引っかかっているのに、形にならなかった。

 

形にならないものは、まだ言えない。

 

言えないものを言うと、それが誰かの根拠になる。

 

サオリを見つけたのは、渡り廊下の窓際だった。

 

右手の手袋を外して、膝の上に置いていた。

 

昨日ミカが巻いた布が、そのままだった。

 

巻き方が、少し緩んでいた。

 

ミカ「緩んでる」

 

サオリ「巻き直した」

 

ミカ「下手じゃん」

 

サオリ「左手でやった」

 

ミカは、隣に座った。

 

座ってから、しばらく何も言わなかった。

 

サオリも、何も聞かなかった。

 

海の音が、二回大きくなって、二回小さくなった。

 

サオリ「顔が悪い」

 

ミカ「そ」

 

サオリ「何か持っているな」

 

ミカ「持ってる」

 

サオリ「言うのか」

 

ミカ「言わない」

 

サオリは、それで頷いた。

 

頷いただけで、理由を聞かなかった。

 

ミカ「聞かないの」

 

サオリ「聞けば、お前が言う」

 

サオリ「言えば、私が持つことになる」

 

サオリ「私が持ったものは、票になる」

 

ミカ「……よく分かってるじゃんね」

 

サオリ「二度、見た」

 

ミカは、窓の外を見た。

 

風見鶏が、灰色の空の下で海を向いていた。

 

風は吹いていた。

 

尾羽は、動かなかった。

 

ミカ「私ね、六つ数えたの」

 

ミカ「六つ揃った」

 

サオリ「そうか」

 

ミカ「揃ったんだけどさ」

 

ミカ「反対のやつも、六つ出たの」

 

サオリ「同じ数か」

 

ミカ「同じ数」

 

サオリ「なら、まだだ」

 

ミカ「うん」

 

サオリは、膝の上の手袋を持ち上げて、また置いた。

 

置き方に意味はなかった。

 

置く場所を探しているだけだった。

 

サオリ「ミカ」

 

ミカ「なに」

 

サオリ「言えるようになったら、言え」

 

ミカは、それを聞いて、少し息を吐いた。

 

吐いた息が、思ったより長かった。

 

ミカ「命令形」

 

サオリ「そうだ」

 

ミカ「理由は」

 

サオリ「あとで言う」

 

ミカ「またそれ」

 

言ってから、ミカは自分が笑っていることに気づいた。

 

サオリは、笑わなかった。

 

笑わないまま、窓の外を見ていた。

 

どちらも、この会話が四日前の裏返しだとは言わなかった。

 

言わなくても、成立していた。

 

ミカは立ち上がり、廊下を歩いた。

 

控室の前を通ったが、中には入らなかった。

 

ユウカは、そこにいなかった。

 

ノアが置いていった水のコップだけが、卓の上にあった。

 

中身が減っていなかった。

 

ユウカを見つけたのは、食堂だった。

 

夕方の光が、窓から低く入っていた。

 

卓には、朝と同じ十枚の皿が伏せて重ねられていた。

 

ユウカは、椅子に座っていなかった。

 

卓の前に立って、十三脚の椅子を見ていた。

 

ミカが入っても、振り向かなかった。

 

振り向かないまま、口を開いた。

 

ユウカ「聖園さん。私、計算を間違えたことが、一度もないんです」

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