「明日の8時半、その名刺の裏に書いてある場所に来いよ。学校の授業より100倍面白いものを見せてやる」
「(…あった)」
好きな映画を撮った映画監督から名刺を渡された次の日。人生で初めて体調不良以外の理由で学校を欠席した私は、地図アプリを頼りに約束の10分前に名刺の裏に書かれていた住所の場所に来ていた。
「……」
最寄り駅から歩いて約10分。商店街から外れた住宅街に突如現れる、それなりに年季が経っていそうなモダンなデザインの5階建てのコンクリートで造られた建物。
1階にあるのは、コンクリートの外観にはミスマッチな暖簾が掛けられた“黒の湯”という名前の銭湯。
その隣にある階段を上がれば、黒山さんが言っていたスタジオ大黒天があるという。
「(ほんとにここだよね…?)」
ちゃんと入り口に“スタジオ大黒天”の看板があるし調べた住所もちゃんとここを示しているのだけど、2階の入り口へ繋がる階段の薄暗さが心霊系とは違った恐怖を運んできて、“ほんとにここで合ってるよね?”という不安に変換される。
「(やば、オーディションより全然緊張する…)」
直後に押し寄せる、ここからあと一歩でも足を踏み出したらもう引き返せないというオーディションの比じゃない緊張感。
学校を休んでこんなところに立っている自分が自分でも信じられなさすぎて、まだ何も始まっていないのに軽く後悔が募り始める始末。
「このまま続けるかは分かんないけど、オーディションのときに感じた“楽しい”って気持ちをもっと知りたいって思ってさ」
唯菜たちとの勉強会を終えて家に帰ったあと、お母さんと仕事先からのリモートで繋いだお父さんに明日学校を休むことと黒山さんからスカウトされたことをリビングで打ち明けた。
既に事情を聞いていた両親は、“千世子が決めたことだから”とまたしても反対することなく私が女優になることを受け入れてくれた。
「ただ、千世子には2つだけ約束して欲しいことがあるの」
その代わり、私は黒山さんの事務所でお世話になるにあたり両親とは
「…うん。分かった」
ひとつは“高校をちゃんと卒業する”こと。
もうひとつは、“楽しくなくなったらすぐやめる”こと
「…ふっ」
もうここまで来たらと腹を決めて、息を大きく吐き出して右足に力を込める。
今度こそグッバイ。普通の_
「おはよう百城」
「っ…!?」
大好きだった普通の日々に別れを告げる一歩目を踏み出そうとしたところで、背後からやや低めの声が私を呼んだ。
「なるほど。お前は驚くと声が出なくなるタイプか」
「驚きすぎて死ぬところでしたよ」
声に驚き振り返ると、不意を突かれた私のリアクションに興味津々な黒山さん。
気配もなく急に話しかけられたものだから、冗談抜きで心臓が止まりかけた。
というか、本当に0.5秒くらい心臓が止まってたと思う。
「早速だがこのまま撮影所に行くぞ。一刻も早く芝居を教えたい」
そもそもなんで外にいるんだろうという疑問を返す暇も与えず、黒山さんはそう言ってすぐ傍に路駐したワンボックスへ視線を送り“来い”とジェスチャー。
やっぱりこの人、明らかに
「…これで行き先が撮影所じゃなかったら通報しますよ?」
「心配すんな。こう見えて俺は私利私欲のために女に手を出す奴がこの世で一番嫌いなんだ」
「いや知らないです」
こうしてほぼ不審者にしか思えない黒山さんへ警戒心を抱きつつ、全くと言っていいほど説明がないまま私はワンボックスに乗り込んで撮影所という場所へ向かった。
30分後_
「百城千世子です。演技をするのは生まれて初めてなので迷惑をかけるかもしれませんが、本日はよろしくお願いします」
黒山さんの運転するワンボックスに乗って約30分。倉庫みたいな建物の中に案内され、スタッフと思われる人たちがざわざわと準備をしている中で監督の黒山さんとアシスタントと思われるウインドブレーカーを着た若い女の人に、最低限の自己紹介。
「スタジオ大黒天の黒山と柊です。このヒゲのせいで説得力ないかもだけど、小さいけど一応ちゃんとした会社なの」
「黒山さんが映画監督なのは知ってたので、それについては大丈夫です」
「念のため聞くけど、
「んなこと俺がするわけねえだろ不審者じゃあるまいし」
「アンタには聞いてない」
「いきなり背後から声掛けられてそのまま車に乗せられました」
「はい墨字さん謝ってください」
「やだ」
「この子にうちの事務所入って欲しいんでしょ!?」
「うん、でも嫌だから謝らない」
「ヒゲガキオララァ!」
「(ほんとに大丈夫かなこの事務所…?)」
自己紹介を終えると、名刺が置かれた長机越しで対面に座る
とりあえず今のでこの事務所は
「まあ、ここがちゃんと撮影所っていうところなのは分かるので信用はしてます」
「ほんと!?」
「それに黒山さんの映画は私も好きなので」
「じゃあうちに」
「ただ普通に生きてきた私には黒山さんの“常識外な感じ”はちょっと合わなそうだなとも思いました」
「あー」
「“あー”じゃねえだろフォローしろよ助監」
「ほぼ誘拐みたいなことした挙句その本人から言葉選ばれてる人をどうフォローしろと?」
黒山さんが良くも悪くも非常識そうな人なのはともかく、ここが間違いなく撮影所だというのは初めて足を踏み入れた私も分かる。
「もちろん今日の撮影はちゃんとやります。ここで帰ったら準備してるみなさんに迷惑かけるので」
「ホントにありがとうね!ほら墨字さんも!(めちゃくちゃ可愛いし
「…あざーす」
「いい加減大人になれやヒゲが」
倉庫のようなだだっ広いスペースの一角に家のキッチンを再現したセット。
その周りを取り囲むカメラと照明。
この後にあるであろう撮影に向けて、それらを調整するスタッフ。
「…なんだか、お父さんが働いてる場所にお邪魔した気分ですね」
まるでお父さんがいつも働いている場所を眺めているみたいに思えて、自然と心の声が出た。
「どうだ。演者として初めて
準備が進むセットのほうへ無意識に視線を向けて呟いた私に、黒山さんが心なしか嬉しそうな声色で聞いてきた。
「自分でもよく分からないので、“凄い”としか言えないです」
映画やドラマの裏側がどうなっているのかはいつかのお父さんから聞いたことがあるから薄っすらとは知っていたけれど、実際にこの目で確かめると驚きの感情で脳内が埋め尽くされる。
「スクリーンの中にいる人たちにとっては……この景色が
もし今日からこの人の事務所に女優として入るとしたら、いま見ているこの景色が当たり前になっていくのかもしれない。
「…楽しそうですね」
憧れていたスクリーンの内側に自分が立つなんて想像すらできないけど……無性にワクワクしている
「興味が湧いてきたところで本題に入るが、お前の初仕事は
再び心の声を溢した私を見て、黒山さんは今日の撮影についての説明を始める。
「テーマは“父の日にシチューを”。新発売のシチューのウェブCMになる_」
役者としての初めての仕事は、“父の日にシチューを”というウェブCMの撮影。
私に与えられた初めての役柄は、初めて1人でキッチンに立った少女。
仕事から帰ってくる父親のために、慣れない手つきで
最後に喜ぶ父親の笑顔を思い浮かべながら、味見をして終わり。
「この前のオーディションで最終審査まで残れたお前なら簡単だろ?」
設定を一通り説明し終えた黒山さんが、“簡単だろ?”とほくそ笑む。
「お父さんのことを考えながらシチューを作ればいいってことですね?」
「その通りだ。わかればさっさと衣装に着替えてリハ始めるぞ」
黒山さんの一声で、私は撮影所の控室へ戻り衣装の制服とエプロンに着替えほぼすっぴんと見分けがつかない程度のヘアメイクをしてもらい、照明とカメラに囲まれたスタジオセットへ戻る。
「よろしくお願いします」
スタッフの人たちに挨拶を返しながら、シチューで使う食材や調理器具が置かれたキッチンの前に立つ。
手料理は普段からお母さんがご飯を作るのをよく手伝ったりしているから難しいのは無理でもシチューくらいなら作れるとして、何だか友達の家のキッチンに立っているような気分。
「先ずは人参の皮を剥くシーンのテストから行きます!」
ただ友達の家と決定的に違うのは、見渡した先にいるのが友達でもその親御さんでもなく、カメラだということ。
恐らく普通に生活していて、こんなにまじまじと複数の人から見つめられる
「テスト!よーい!」
いま私に向けられているカメラ。そのカメラで私を捉えている人。
私はいま、どういうふうに見えているんだろうか。
「スタート!」
「あたしのことそんなふうに見てたの?」
「カット!」
柊さんの大きな声が聞こえて、うたた寝から醒めたようにハッと我に返る。
人参とピーラーを持つ両手は、全く動いていない。
「どうしたの?」
「すみません。こんなにカメラ向けられるのは初めてでちょっと緊張しちゃったみたいで」
緊張、と言われたら緊張も入っているけど、多分違う。
“みんなが見てる”と意識し出したら、指先一つすら動かなくなった。
トラウマのきっかけになった友達の一言が頭の中をぐわんぐわんと駆け巡って、何も出来なくなった。
「大丈夫大丈夫!初めてだから緊張しちゃうよね!こういうときは一旦深呼吸して肩の力抜いてリラックスしながらやろう!」
カチンコを持って黒山さんに代わって指示を出す柊さんが、気を遣って元気づけながらリラックスするよう促す。
周りの撮影スタッフ、奥のほうで見守るスーツ姿の見るからに
「もう大丈夫です。お願いします」
迷惑はもう掛けられないと、柊さんのアドバイス通りに深呼吸をしてどうにか乱れていた心を切り替えて、もう一度キッチンに立つ。
所詮私は、昨日まで普通の日常を送ってきたごく普通の女の子で大した期待なんかされてないから、普通の人は普通の人らしくただ自然体で演技というものをすればいい。
ごちゃごちゃ考えているせいで身体が強張るなら、全部置いて
「テスト、よーい!」
なるべく自分の頭の中から“見られている”という意識を消して、私はリハーサルをそつなくこなした。
人参の皮を剥き、包丁を握って沁みる目に耐えながら玉ねぎを切って、具材を煮込んで、最後に味見。
全く動けなかった一回目とは違い、深呼吸して肩の力を抜いたらそれなりに上手く出来た。
「カット!」
「百城。リハだから何も言わなかったが、今のままじゃ本番でOKは出せないぞ」
リハが終わるや、カメラの外からリハを無言でずっと見ていた黒山さんが私の名前を呼んで、近づきながら言い放つ。
柊さんも、スタジオの奥にいるスーツの人たちを気にしつつも黒山さんに一切口出しせずただ黙って見守る。
「演技する技量もねえくせに演じてどうすんだよ?」
目の前まで歩いてきたところで問いかける。
一番痛いところを突かれて、返せる言葉がない。
「カメラを意識したら自分がどんなふうに見られているか気になって、それがノイズになって鬱陶しかったから自分の感情を押し殺してただ演じることだけ考えてました…」
黒山さんの言う通り、私は
幾つもの視線が一極に向けられる感覚がフラッシュバックしたせいで人参を握る手が動かなくなったから、感情の中から原因を全部取っ払った。
“演技”なんて、出来もしないのに。
「まあ演技に正しいやり方なんざ存在しないし“そういう芝居”を極めてスターになることを一概に否定する気は無いが、少なくともリハ終わって心底つまんなそうな顔してるお前はそうじゃねえだろ?」
あまりいい思い出とは言えない記憶を思い出さないようにしたおかげで、ちゃんと身体は動いてくれた。
リハを仕切る柊さんの表情を見ても、自惚れが入っている部分もあるけど初めてにしては上手くいったほうだと思う。
「はい。多分」
でも、即席の見よう見まねでやってみた演技は、あのオーディションの高揚が嘘のように退屈だった。
カメラの先にいたのはお父さんのためにシチューを作る少女じゃなくて、ただの
「椅子に座る俺の前に立って涙流したとき、お前は
私の目を睨むように見つめる黒山さんが、“察しろ”と言いたげな
「……
「ったく、分かってるなら早く演れよ」
分かりやすい安堵がこもった溜息と、仏頂面な口元に反して笑っているように見える鋭い眼つき。
「いいか百城。初めて親父に手料理を作った日を思い出せ。いや、もし親父のために作ったことがなけりゃ相手は誰でもいい、初めて誰かのために手料理を作った日を思い出せ……視線が気になるなら、カメラや俺たちの存在は一切気にせず自分の思うがままにシチューを作れ。カチンコの合図だけ守ってくれれば、それでいい」
オーディションのときは大して深く考えていなかったけれど、私はそうやって喜びや悲しみを
人から言われて、初めて自分がどうやって演じていたのかが見えてくる。
「俺が撮りたいのはお前の
リハの私を見てからずっと仏頂面だった黒山さんの表情と声が、だんだんと優しくなっていく。
いまここで私がやるべきことは監督の操り人形になって誰にも迷惑かけずに撮影を終わらせることじゃなくて、カメラなんか気にしないで
「はい」
オーディションのときと同じ要領で、初めて誰かのためにキッチンに立って手料理を作った日を思い浮かべる。
「本番、よーい_」
「今日の夕ご飯。千世子も一緒に作ってみる?」
「うん。調理実習までに包丁使えるようになりたいから」
私が初めてキッチンに立ったのは、小5になってすぐのこと。
家庭科の授業で調理実習があるからそれまでに包丁を使えるようになりたいと、お母さんの夕ご飯を手伝った。
初めて作った手料理はシチューではなくて、
とん…とん…_
「そう、慣れないうちはゆっくりね。ちゃんと左手を丸めて」
「お母さん目が染みてきた」
「無理そうだったら切るの止めて休憩しても大丈夫だからね」
万が一のときにすぐ手が届く位置で見守られながら、初めて包丁を持った不器用な手でゆっくりと玉ねぎを切った。
ぎこちなく危なっかしい手つきで、沁みる目と格闘しながらゆっくりと切った。
ズッ_
「千世子っ!」
「………セーフ」
「はぁ…切らなくて本当に良かったわ」
少し切り方が分かってきたからと舐めてかかり、人参で危うく人差し指を切りかけた。
ゾッとする恐怖でまた切るのが慎重になって、お母さんの倍以上の時間をかけて具材を切った。
自分の中では完璧に切り揃えたつもりだったけど、ボウルの中に入れた3つの野菜の大きさはバラバラで形も半分くらい歪だった。
「上手く切れたんじゃない?」
「お母さんのやつと比べたら全然綺麗じゃないよ」
「しょうがないよ。こういうのは経験なんだから」
不揃いな野菜を見て、お母さんは微笑ましく笑った。
調理実習で恥をかきたくないってだけでキッチンに立ったつもりが、お母さんの嬉しそうな顔を見たら一気に楽しくなった。
「お母さん。やっぱり私全部やってみたい」
珍しく映画以外でテンションが上がった私は、残りも全部やりたいとお母さんに言った。
「あんまり近づけると火傷するから気を付けてね」
「はーい」
放任主義のお母さんがすぐ手の届くところで見守る中、私は木へらを持って何となくの見真似でぎこちなく肉と野菜と白滝を教わった順番で炒めて、お母さんの助言を頼りに煮込んでアクなんかも取ったりして、味付けも必要な調味料は用意してもらったけど自分の手だけでやってみた。
「味はどう?」
最後にお母さんを真似るようにお玉で出汁を掬って小皿に移して、それを口にした。
「……しょっぱい」
お母さんに見守られながら初めて作った肉じゃがは醤油の分量を見誤ったせいで思ったよりしょっぱくて、具材も上手く混ざってなかったのか少し焦げていた。
お母さんの作る肉じゃがと比べたら見た目なんて全然美味しそうじゃなかったし、お父さんは“ご飯によく合う”って喜んで食べてくれたけど、私の口にはちょっとしょっぱすぎた。
「ごちそうさまでした」
初めて作った手料理は、決して美味しいものではなかった。だけどその日の夕ご飯はずっと笑顔が絶えなくて、しょっぱさなんてどうでも良くなるくらい幸せな気持ちになった。
「カット!!」
カットの声とカチンコの音で、私は
戻った瞬間にグッと押し寄せるカメラと人の視線と、口の中に残る微かな苦みを伴う甘じょっぱくて暖かい後味。
「凄いなこの子は……本当にこれが初仕事の新人か?」
ざわめきを連れてこっちに向けられている視線は誰もが驚いていて、監督は小さく頷いた。
「……」
選ばれなかった最後のオーディションが終わった瞬間みたいな、あらゆる緊張から解放されていく達成感と心地良さ。
「(……できた)」
そして、“上手く演じることが出来た”という、手応えと確信。
「いい
カメラの後ろから本番を仕切っていた黒山さんが、キッチンに立つ私へクールに笑う。
昨日と今日の中で一番の、ぶっきらぼうで何を考えているか分からない監督の活気に満ちた優しい笑み。
「ありがとうございます」
演技や芝居というものが何なのかなんて、ちっとも分からない。
「知ってるか?一度“芝居の喜び”を垣間見た人間はもう止まらないらしい」
でも黒山さんが言っていた
「演者のシーンはOKだ!シチューはマジで焦げてるから別撮りな!」
こうしてスタジオ大黒天の
カメラを全く意識しないで作ったシチューは、
相手が千世子だろうと、不審者ムーブで撮影現場に連れていく黒山監督でした。