幼女転生〜異世界でも神なぞ信じない〜 作:Isshinfuran
人の一生を評価するにあたって感傷ほど当てにならないものはない。
重要なのは結果だ。
何を望みそのために何を支払い最後に何を得たのか。それらを一つずつ帳簿へ記し損益を確定させる、人生についても企業経営と同じように考えればよい。
その基準に従うならば、ターニャ・デグレチャフの第二の人生は疑いようのない黒字だった。
帝国は大戦に敗れた。
参謀本部が積み上げた勝利は政治によって切り崩され、祖国は戦勝国の都合に沿って作り替えられた。軍人ターニャ・フォン・デグレチャフの名もまた敗戦とともに歴史の表側から消えている。
だが、それはターニャ自身の敗北を意味しない。
彼女は生き残った。
身分を変え海を渡り合州国で新たな経歴を手に入れた。空軍勤務を経た後には民間会社を興し、かつての部下たちへ仕事を用意した。会社は数え切れないほどの危機を乗り越え、やがて彼女一人がいなくなった程度では揺らがない組織へ成長した。
退職後の資産も、医療も、住居も申し分ない。
百七歳。
病室の窓から差し込む午後の光を眺めながら、ターニャは静かに人生の決算を終えた。
貧困に屈しなかった。
戦争にも屈しなかった。
何より、神を名乗る不可解な存在に屈しなかった。
あれほどの苦難を押しつけられながら、存在Xへの信仰は最後まで生じなかった。必要に迫られて祈りの言葉を口にしたことはある。だが、それは欠陥品の演算宝珠を作動させるための手続きにすぎない。
信仰ではなく取引である。
存在Xが期待した魂の救済とやらは、ついに実現しなかった。
「…私の勝ちだ」
誰に聞かせるでもなく、ターニャはそう結論した。
視界がゆっくりと白くなっていく。
恐怖はなかった。必要な引き継ぎはすべて済ませてある。遺言にも不備はなく、会社の後継者も十分に育てた。百七年も働いたのだ。これ以上の残業を要求される筋合いはない。
意識が静かに遠のいた。
…
次に目を開いたとき、ターニャは何もない白い空間に立っていた。
若い身体に戻っているわけでも、軍服を着ているわけでもない。そもそも肉体が存在するのかさえ判然としなかった。ただ、自分という意識だけが、際限なく広がる白の中に置かれている。
この場所には覚えがあった。
そして、ここで待つ者にも。
『百七年とは、よくも長らえたものだ』
声が響いた。
男とも女とも、老人とも子供ともつかない声だった。一つの口から発せられたというより、空間そのものが言葉を形作ったかのように聞こえる。
ターニャは嫌悪を隠さなかった。
「存在X」
『その呼び方も変わらぬか。生涯を終えてなお、貴様には信仰の欠片すら見当たらぬ』
「当然だ。私は自力で生存し、社会的地位と財産を築き、天寿を全うした。貴様が主張した、困窮によって信仰が生まれるという仮説は棄却された。それだけの話だ」
『恩寵を受けながら、自力と称するか』
「九五式のことなら、祈りを強制する重大な設計上の欠陥があった。加えて、あれを与えられた結果、私は危険な任務へ投入され続けた。便益より損害の方が大きい」
『貴様は最後まで、奇跡を数値に置き換えずにはいられなかったようだな』
「再現性も検証可能性もない現象を、無条件でありがたがる趣味はない。それより、私を輪廻へ戻したまえ。既に結果は出たはずだ」
返答はすぐにはなかった。
論理的な反論を探しているのだろうか。それとも、ようやく敗北を受け入れたのか。
ターニャは後者であることを期待した。
『ゆゆしき事態だ』
期待は外れた。
『貴様は過酷な生を切り抜けた。それゆえ己の正しさが証明されたと思い上がっている』
「思い上がりではない。実績に基づく評価だ」
『ならば、条件を改めよう』
その一言で、ターニャは状況を理解した。
これは結果確認の場ではない。
初めから再試験を言い渡すための場なのだ。
「拒否する。契約当事者の同意なく条件を変更することは認められない」
『貴様の次なる生に、大戦はない』
存在Xは抗議を無視した。
『貧困も、孤独も与えぬ。慈しみ深い両親と、衣食に困らぬ家を与えよう』
ターニャは言葉を止めた。
あまりに好条件だったからではない。存在Xがそのような条件を提示する意図を測りかねたからだ。
「何が目的だ」
『貴様は、己が信仰を持たぬ理由を環境に求め続けた。ならば今度は、平穏の中で生きるがよい』
「話が逆ではないか。平穏な社会ほど信仰は薄れる。それは貴様自身が主張していたことだろう」
『案ずるな。貴様にも、神を求める日は訪れる』
白い空間に、巨大な何かがこちらを見下ろす気配が生じた。
『ただし、今度の貴様に力は与えぬことにした』
「……何?」
『かつての貴様は、与えられた力を己の才覚であるかのように振る舞った。ゆえに今度は、奇跡を持たぬ者として生きるがよい』
飛行も、術式も、魔力による防御もない。
前の世界で生存を支えた最大の資産を、今度は最初から取り上げるということらしい。
だが、ターニャは動揺を即座に押し殺した。
「それだけか」
『強がるか』
「魔力がないなら、魔力を必要としない技能を習得すればよい。戦争も貧困もないのなら、前世よりはるかに生存しやすい。貴様は私へ罰を与えるつもりで、理想的な環境を提示しているぞ」
姿なき存在Xが、笑ったように感じられた。
『その傲慢が、いつまで続くか見届けてやろう』
「何度繰り返そうと同じだ。私は貴様を神とは認めない」
『救いが必要となったならば、祈るがよい』
「断る」
『心より祈るなら、貴様が失った力を一時だけ貸し与えよう』
「苦境を用意し、救済と引き換えに服従を要求するのか。相変わらず悪質な取引だな」
『選ぶのは貴様だ』
白い空間に亀裂が走った。
足元の感覚が消え、ターニャの意識が暗い穴へ引き込まれていく。
「待て。私は転生に同意していない!」
『己のためならば、貴様は祈るまい』
存在Xの声だけが、鮮明に響いた。
『だが、守るべき者のためならばどうか。次なる生で確かめるとしよう』
「貴様――!」
抗議は光の奔流に飲み込まれた。
…
ひどく窮屈だった。
手足は思うように動かず、視界もぼやけている。呼吸をするだけで肺が驚き、口から勝手に声があふれた。
また赤子から始めさせられたらしい。
「生まれた! ゼニス、女の子だ!」
若い男の声が響いた。
身体を柔らかな布で包まれ、慎重に抱き上げられる。視界の向こうに、喜びを隠そうともしない父親らしき男の顔があった。
少なくとも、誕生を歓迎されてはいるようだ。
孤児院の中から始まった前回と比べれば、この一点だけでも大幅な待遇改善である。
「あなた、まだよ」
疲れた女性の声がした。
「まだ?」
「もう一人いるみたい」
室内が再び慌ただしくなった。
やがて、もう一つの産声が響く。
「男の子です」
「双子か! 姉と弟だ!」
父親の声は一段と大きくなった。
ターニャの隣へ、同じように布で包まれた赤子が寝かされる。
守るべき者。
存在Xが残した言葉が脳裏をよぎった。
なるほど。
どうやら、この弟が今回の実験材料ということらしい。
だが、家族が一人増えた程度で信仰に目覚めると考えているなら、存在Xも随分と見通しが甘い。良好な関係を構築し、相互に利益を得られる体制を整えればよいだけだ。
「名前はどうする?」
「女の子はターニャ。男の子はルーデウス、というのはどう?」
「ターニャとルーデウスか。いい名前だ」
愛情深い両親。
清潔で安全な家。
戦争のない世界。
魔力を失った点を差し引いても、開始条件は悪くない。
剣を学ぶのもいい。学問を修め、文官を目指す道もある。前世二回分の知識を活用すれば、安定した職と十分な老後資産を得ることは難しくないだろう。
今度こそ、戦場とは無縁の人生を送る。
神に祈ることなく、平穏のうちに天寿を全うする。
存在Xがどれほど待とうと、奇跡を求める日は永遠に来ない。
そう確信したターニャの隣で、双子の弟が目を開いた。
ルーデウスと名づけられた赤子は、ぼやけた視界の中で周囲を見回し、驚愕したように動きを止めた。
その反応が、生まれたばかりの子供として不自然であることに、ターニャはまだ気づかなかった。
彼女は知らない。
この世界に大戦がないことは事実だった。
だが、平穏な人生が保証されているとは、存在Xは一言も告げていなかった。