幼女転生〜異世界でも神なぞ信じない〜 作:Isshinfuran
転生から、およそ二年が経過した。
ようやく足腰が安定し、家の中ならば他人の手を借りずに移動できるようになった。発声も改善され、簡単な会話であれば不自然に思われない程度にはこなせる。
実に長かった。
精神だけが成熟していても、肉体の成長を早めることはできない。歩行すら満足にできない期間など、今後の人生では二度と経験したくないものである。
もっとも、開始条件そのものに不満はなかった。
ここはアスラ王国、フィットア領のブエナ村。
父のパウロは村の騎士を務め、母のゼニスは治癒魔術を扱える。住み込みの使用人を雇いながら、双子を育てられる程度には生活も安定していた。
孤児院で将来の食事さえ保証されなかった前世とは比較にならない。
周囲で大規模な戦争が起きている様子もなく、村の治安は良好。食事は毎日与えられ、冬を越せる家もある。両親は私とルーデウスを心から大切にしているらしい。
存在Xの言葉を信用するつもりはない。
だが、この環境が恵まれているという事実まで否定する必要もなかった。
問題があるとすれば、情報が少ないことだ。
自分が暮らす村の名前を知っただけでは、安全な人生設計など立てられない。国家の制度、周辺諸国との関係、職業、通貨、教育、治安。この世界で生きるには、この世界の常識を理解する必要がある。
そのため、私は言語の習得を最優先とした。
幸い、パウロは私たちへ本を読み聞かせることがあった。
本人は単に子供との時間を楽しんでいるのだろう。だが、私にとっては文字と発音を照合できる貴重な授業である。
ある晩、パウロは椅子の両側に私たちを座らせ、『三剣士と迷宮』を開いた。
剣士が登場するたびに声を変えるのはよい。だが、三人目まで進むと、最初の声を忘れてしまうらしい。
「あなた、その人、さっきはもっと低い声だったわよ」
「……迷宮の奥だからな。声も響くんだ」
ゼニスが笑い、隣のルーデウスも小さく笑った。
私は笑う代わりに、閉じられかけた頁を押さえた。まだ読み上げられた言葉と文字の対応を確認し終えていない。
「もういっかい」
「お、気に入ったか。いいぞ」
パウロは快く読み直した。今度は三人とも同じ声だったが、その方が聞き取りやすいので異存はない。
ふと見ると、ルーデウスも本へ身を寄せていた。
先ほど挿絵のある頁では指を伸ばしていたのに、今は大人しく紙面を見つめている。パウロが指で行をなぞると、その指先を目で追った。
弟も文字に興味があるのだろうか。
そう考えているうちに、パウロの手が私の頭へ乗った。
「そんなに好きなら、明日も読んでやるからな」
髪を乱されるのは閉口するが、授業の継続は歓迎すべきだ。
私はうなずき、次の頁が見えるよう、少しだけ父の方へ寄った。
最初は一文字ずつ。
次に短い単語。
既に日常会話を理解していたため、規則さえつかめば後は早かった。
しかし、読めるようになったことは家族へ知らせていない。
二歳児が大人向けの本を読み始めれば、異常に思われる。神童として扱われる可能性もあるが、周囲の期待と注目を集めることは、必ずしも利益にならない。
能力は必要になった時点で、必要な分だけ示せばよい。
そう判断していたのだが、どうやら同じ家に、私よりも隠し事の苦手な者がいるらしい。
双子の弟、ルーデウスである。
ある日の午後、私は二階の書斎で、床に座っているルーデウスを見つけた。
書斎といっても、本が何冊か置かれているだけの簡素な部屋だ。彼の膝には『世界を歩く』が開かれている。挿絵を眺めているだけなら、何の問題もない。
だが、ルーデウスの視線は紙面を規則的に動き、行末へ到達するたびに次の行へ移っていた。
文字を追っている、
そう思った直後、ルーデウスが顔を上げて目が合った
「ねえさん」
「なにを見てるの?」
私は何も気づかなかったように尋ねた。
「ちず」
ルーデウスは頁の中央に描かれた地図を指した。
「これが、ぼくたちの国だって」
「そうなの?」
「父さんが言ってた」
説明としては不自然ではない。
私は彼の隣へ腰を下ろし、地図を覗き込んだ。
「いっしょに見ていい?」
「うん」
ルーデウスは少し横へずれ、私のために場所を空けた。
彼は地図を指しながら、パウロから聞いたという国名を一つずつ口にする。発音は正確で、説明の順序も本の記述と一致していた。
記憶力がよいだけかもしれない。
父の読み聞かせを通じて、文字へ早く興味を持った可能性もある。
少なくとも、危険人物と判断する材料はなかった。
何より、ここで弟の能力を問い詰めれば、私がそれを不自然だと理解できる理由まで説明しなければならなくなる。
当面は観察で十分だ。
それから、私たちはたびたび同じ本を読むようになった。
表向きはルーデウスが覚えている内容を私へ教え、私は知らない言葉を弟へ尋ねる。私が父の読み聞かせで覚えた言葉を口にすると、ルーデウスが該当する箇所を見直すこともあった。
もっとも、二人で一冊の本を読むには、多少の調整が必要だった。あるとき、読み終えた私が頁の端へ指をかけると、ルーデウスがその手を押さえた。
「まだ」
弟の声に私は指を止めた。
弟が声に出して説明しているのは、まだ頁の半ばである。黙読する私の方が先へ進むのは当然だった。
「……絵、見たかったの」
「つぎ、絵があるの?」
もっともな質問だ。私は前に父が読んでくれたときのことを思い出し、うなずいた。
「おとうさんと、見た」
「ちょっと待ってね」
ルーデウスは本へ目を戻した。
幼児を装うにも、不注意は禁物らしい。
それ以降、私は読み終えても手を膝に置いて待った。弟も頁をめくる前に、こちらを見るようになった。
私がうなずくと、次へ進む。
読み聞かせの内容を覚えているだけだというなら、随分と慎重な確認である。だが、私もその確認を便利に利用していたので、何も言わなかった。
家にある本は五冊。
私は最初に『世界を歩く』を読み、国名と地理を頭へ入れた。続いて『フィットアの魔物の生態・弱点』から、村の周辺に存在する危険を確認した。
こちらは、楽しい読書とは言い難かった。
魔物というものが存在することは、日常の会話から知っていた。しかし、生息する場所や遭遇した場合の対処法を読むと、漠然とした知識では済まなくなる。
窓の向こうには、いつもと同じ畑が広がっている。
本の記述が正しければ、その先を何の備えもなく歩くのは避けた方がよい。
「どうしたの?」
ルーデウスに尋ねられ、私は本の挿絵を指した。
「これ、いるのかな」
「……外に?」
「うん」
弟は窓へ目を向けたが、すぐに本へ視線を落とした。
「わかんない」
確かに、この本だけでは村のすぐ近くにまで出るのか判断できない。
私は再び外を見た。
庭の端では、パウロが剣の手入れをしていた。普段は私たちを抱き上げては騒ぐ男が、刃を確かめるときだけは黙っている。
パウロの職業は村の騎士である。
これまでは、家計を支える安定した職業として捉えていた。だが、魔物がいる土地でその職を務めるなら、相応の危険も引き受けているはずだ。
我が家が安全だからといって、世界そのものが安全だとは限らない。誰かが危険を遠ざけているからこそ、私は床に座って本を読めているのかもしれなかった。
こちらに気づいたパウロが手を振ると私は小さく振り返した、父の仕事については、もう少し知っておくべきだろう。
もっとも、今すぐ生活方針を変える必要はない。危険な場所へ近づかず、知らないことは確かめる。それだけでも、避けられる災難は多いはずだ。
私は本へ向き直り、弟が指している箇所へ目を落とした。
伝説や迷宮を題材にした物語も読んだ。
『ペルギウスの伝説』と『三剣士と迷宮』。
記録としての信頼性は期待できないが、人々が何を英雄と考え、何を恐れているのかを知る資料にはなる。ルーデウスは特に迷宮の物語を気に入ったらしく、以前よりも楽しそうに頁をめくっていた。
私も、今度は父が省略した箇所まで確かめることができた。
父の語りでは長々と続いていた戦いが、本では数行で終わっている。あの迫真の掛け声の大半は、本人の付け足しだったらしい。
私は弟の隣で、文字が読めない姉を演じ続けた。
ルーデウスもまた、読み聞かせの内容を覚えているだけの弟を演じているように見えた。
なにか隠しているかもと勘繰る、ただ、正体を暴くことより、一緒に本を読める利益の方が大きい。今の関係を崩す必要はないだろう。
やがて、まだ開いていない本が一冊だけ残った。表紙には、複雑な図形が描かれている。
『魔術教本』。
ルーデウスがその本へ手を伸ばす。ほぼ同時に伸ばした私の指が、その手に触れ、ルーデウスは驚いたように私を見た。
「ねえさんも、これがよみたいの?」
私は一瞬だけ迷い、何も知らない子供の顔で表紙を指した。
「これは、なに?」
「魔術の本みたい」
「ルディは読める?」
「少しだけなら」
「じゃあ、読んで」
ルーデウスは本を持って床へ座った。
私はその隣に腰を下ろす。
魔術は、この世界における重要な技術である。利用できるかどうかにかかわらず、仕組みを理解しておく価値はある。それに、弟が魔術へどのような反応を示すのかも確認しておきたい。
あくまで調査だ。
かつて自由に空を飛んだ感覚を取り戻せるのではないかと、期待したわけではない。
ルーデウスが最初の頁を開く。私は何も知らない姉を装いながら、彼の声に耳を傾けた。
このときの私は、同じ教本に記された同じ魔術が、双子へまったく異なる結果をもたらすことを知らなかった。