ドゥン……ドゥン……ドゥン……。
目を開ける前から、それは僕の骨を伝って響いていた。
一秒に一度、正確に、まるで巨大な心臓が僕の背骨に直結しているかのような重い脈動。
瞼を開けると、狭い金属の天井が視界に入る。
宇宙服のバイザー越しに見る世界は、いつもわずかに青白く滲む。
ヘルメットは外れない。
首の付け根で何かがロックされている感触がある。
体は寝台に押しつけられている。重力だ。1G、正確に1G。
だが、ここは船のはずだった。
地球圏の巡回軌道ステーションでも、月面基地でもない。
船が、動いている。それも一定の重力を保ったまま。
加速度航行、という単語が頭のどこかから滑り出てきたが、それがどういう意味を持つのか、体感としてはまだ理解が追いつかない。
おかしい、と思う。
加速している船の中で、なぜ横揺れも縦揺れも一切ないのに、この振動だけが規則正しく続くのか。
まるで誰かが一秒ごとに、船底を鈍器で殴りつけているような、そういう暴力的な律動。
慣性で押しつけられているにしては、律動が正確すぎる。
連続的な加速というよりも、離散的な衝撃の連続だ。
ドゥン、ドゥン、ドゥン――その合間に、ほんの一瞬、体が軽くなる感覚さえある。
まるでパルスとパルスの間に、自由落下の瞬間が挟まっているかのように。
脳の奥、いつもなら思考より先に「答え」が滑り込んでくる場所――脳内チップの領域――が、今日はやけに静かだ。
いや、静かというより、時折ノイズが混じる。
ザッ、という砂嵐のような雑音。軽い眩暈。
見たことのない景色に既視感を覚える、あの気持ちの悪い二重写しの感覚が、断続的に襲ってくる。
バグだ、と直感が告げる。今まで感じたことのない種類のバグだった。
「おはようございます」
声は頭の中ではなく、ヘルメットのスピーカーから聞こえた。
それ自体が異常だった。
いつもは思考に直接溶け込むように届くはずのAIの声が、今は物理的な振動として、鼓膜という器官を経由して届いている。
声には抑揚があり、それがかえって不気味だった。
まるで、遠くにいる誰かが電話越しに話しているような、隔たりのある丁寧さ。
「今、あなたへの補正は減らしています」
丁寧だが、有無を言わせない声色。
補正を減らす、という言葉の意味を、僕はまだ正確に理解できない。
ただ、頭の中がいつもより「自分のもの」であるという、落ち着かない実感だけがある。
考えようとすると、答えが向こうからやってくるのではなく、自分の中を手探りしなければならない。
その感触に、僕は薄気味悪さを覚えた。
「ここは……どこですか」
自分の声が、ヘルメットの中でくぐもって反響する。
「木星圏往還船、船内です。あなたは選ばれました」
選ばれた。その言葉に、僕はすぐには反応することができなかった。
地球で僕がしていたことといえば、配給される栄養ペーストを口に運び、脳内チップが選んでくれる娯楽映像を眺め、決められた時間に眠る。
ただそれだけの生活だった。
猫のような、と誰かが言っていた気がする。
誰が言ったのかは思い出せない。思い出す必要もなかった生活だ。
何もかもがチップの最適化の内側にあり、疑問を持つ余地さえなかった。
ドゥン……ドゥン……。振動は止まらない。規則正しく、容赦なく。
「これから、あなたにこれを渡します」
AIがそう言うと、寝台脇の小さなハッチが開き、何か白っぽい塊がせり出してきた。
手に取ってみると、ずしりとした重みと、奇妙な感触があった。
薄い層が幾重にも重なっている。植物繊維を圧縮したものらしい。
表面には黒い染み――いや、規則的な模様が、行を成して整然と並んでいる。
手袋越しにも、その手触りの異質さが伝わってきた。
「これは、文字だ」
僕は思わずそう呟いていた。
誰に教えられたわけでもないのに、その塊が「文字の連なり」であることを、頭のどこかがすでに知っていた。
頭の中で、何かが軋むような音を立てた気がした。
この感覚には、名前がついているはずだった。
ただ、その名前を思い出すための回路が、今の僕には見当たらなかった。
AIは何も答えなかった。
ただ、ドゥン、ドゥン、という振動だけが、変わらず船内に響き続けていた。
寝台から身を起こそうとして、僕は初めて自分の体の重さを意識した。
宇宙服の関節は硬く、動かすたびに小さな抵抗がある。
エアタンクの残量表示がバイザーの隅に浮かんでいるが、その数字の意味を理解するのに、いつもより一拍長くかかった。
船内には空気がほとんど満たされていないらしい。
人間ひとりのために空気を循環させるコストを、この船は最初から切り捨てている。
生存に必要な酸素は、宇宙服の中でだけ完結している。
ムダを許さない設計思想が、そのことひとつからも透けて見えた。
「純粋水爆による推進です」
僕の疑問を先取りするように、AIが説明を始めた。
「後方の磁気シールドで、TNT換算およそ百キロトン相当の核融合反応を、一秒に一回の周期で発生させています。広島型原爆のおよそ六倍の出力です。その衝撃波を磁場と機械式ダンパーで受け止め、推進力に変換しています」
一秒に一回、水爆が爆発している。
その事実を、僕はしばらく飲み込めずにいた。
ドゥン、という音の正体が、爆発そのものだったという単純な事実。
恐怖よりも先に、その途方もない出力の中で自分がただ寝台に横たわっているという状況の異様さに、乾いた笑いが漏れそうになった。
「なぜ、僕にはまだ何も分からないんですか」
「補正が減っているためです。通常、あなたの認知は思考の九割以上をこちらで処理し、結果だけを補完していました。今は、その補完を意図的に抑制しています」
意味は分かるようで分からなかった。
ただ、頭の中に空白ができている、という感覚だけは確かにあった。
埋めるべき空白を、自分の手で埋めなければならない。
その作業のやり方すら、僕はまだ知らなかった。
このシリーズはClaude Sonnet 5 中を利用しました。