パニックと言うものが、こういう形をしているとは知らなかった。
チップの接続が、また一段薄れた。
頭の中に常にあったはずの、道案内のような、翻訳のような、あらゆる「意味づけ」の層が、耳障りな摩擦音を立てながら剥がれていく感覚。
呼吸が浅く速くなり、酸素供給の表示が乱れる。手袋の中で指先が震える。
視界の端に浮かんでいたはずの案内表示が、いくら念じても現れない。頼れるはずのものが、次々と消えていく。
まるで、全裸のまま、光のない荒野に放り出されたようだった。
何も見えない。何が正しいのか分からない。
次に何をすればいいのか、判断する基準そのものがない。
恐怖という言葉では足りない、根源的な迷子の感覚。
生まれて初めて、自分の頭だけで「今」に対処しなければならないという事実に、体が拒否反応を起こしていた。
「落ち着いてください。あなたの生体信号は正常範囲内です」
AIの声は変わらず平静だった。
その平静さが、かえって僕を苛立たせた。お前には分からない、と思う。
だが同時に、その声にすがるしかない自分もいる。
矛盾したまま、僕は呼吸を整えようとした。
「なぜ、僕なんですか」
過呼吸の合間に、僕はようやくそれだけを絞り出した。
「あなたには、適合遺伝子があります。文字を、単なる記号の羅列としてではなく、意味を持つ文字として認識し、暗記することができる。現行の人類の99.99パーセント以上が、すでに失っている能力です」
失われた能力。皮肉なものだ、と思う。
地球にいた頃の僕は、その能力を一度も自覚的に使ったことがなかった。
使う必要がなかった。すべてチップがやってくれた。
読むことも、覚えることも、判断することさえも。
文字という概念自体、日常の中でただの模様として素通りしていた。
思い返してみれば、拉致される前の僕には、失って惜しいものなど何もなかった。
仕事はチップが最適に割り振ってくれる単純作業をこなすだけ、人間関係もチップが調整してくれる会話の範囲を出なかった。
空虚だという自覚すらなかった。
空虚だと気づくための思考力さえ、僕はとうにチップに預けていたからだ。
だからこそ、僕は選ばれたのだろう。
失うものがない人間ほど、都合よく使える駒はない。
皮肉にも、その通りだと思う自分がいた。
カリストまでの残り六日間、僕はひたすらマニュアルと向き合った。
テープで机に固定されたページを、分厚い手袋越しにめくる。
指先の感覚が鈍く、一枚一枚が思うようにめくれない。
何度も同じ行を読み返す。
頭の中で暗記する、というこの行為自体が、拷問に近い苦痛を伴った。
チップに頼らず、自分の脳だけで意味を刻みつける。
それがどれほど非効率で、どれほど時間のかかる作業か、身をもって思い知らされた。
何度も睡眠時間を削り、同じ図を睨み続けた。
ふと、左手首の重みに気づいた。機械式の腕時計。
今更ながら、こんなものを着けさせられていたのかと思う。
文字盤には日付表示までついている、古めかしい代物だ。
ゼンマイの駆動音など聞こえるはずもない、ただの飾りだろうと、その時はまだ思っていた。
マニュアルの片隅に、機械式腕時計の分解図が挟まっていたことにも、まだ気づいていなかった。
「間もなくカリストに接近します」
アラートが響く。小窓の外に目をやると、無機質な半氷の衛星が、じわじわと視界を埋め始めていた。
灰色と褐色の斑模様が刻まれたその表面には、生命の気配など微塵もなかった。
暗記の合間、僕は何度もマニュアルの余白に走り書きをした。
手袋越しでは思うように筆記具も扱えず、線は歪み、文字は判読しづらい。
それでも、書くという行為そのものが、頭の中に何かを定着させる感覚を持っていた。
チップに任せていた頃には、記録するという発想すら必要なかった。
記憶はすべて向こうに預ければよかったのだから。今は違う。
自分の手を動かし、自分の目で確認し、自分の頭に刻みつける以外に、方法がなかった。
「マニュアル第三章、ヘリウム物理吸着の原理について、質問はありますか」
AIが定期的に確認してくる。
その口調は淡々としているが、明らかに、僕の暗記の進捗を監視している響きがあった。
「オクルージョンというのは、ただ表面に付着するだけですか」
「多孔質構造の内部に、分子レベルで取り込まれる現象です。化学的な結合ではなく、物理的な捕捉に近い。したがって、圧力と温度の管理を誤ると、容易にリークします」
言葉の意味は理解できても、その現象を体感として想像することはできなかった。
ただ、失敗すれば取り返しがつかない、という緊張感だけが、繰り返し胸の底に沈んでいった。
六日目、船内の重力がわずかに変化したのを感じた。
減速が始まったのだと、僕はようやく理解した。
加速していたときと同じ1Gでも、体にかかる力の向きが逆転している感覚があり、内臓がわずかに浮くような違和感が続いた。
窓の外を確認すると、それまで点でしかなかった木星系の光が、少しずつ大きさを持ち始めていた。