カリスト基地は、静かすぎるほど静かだった。
薄い大気の中を、無数の自律ドローンが規則正しく飛び交い、多孔質の鉱石カス
――ゲッターと呼ばれる代物――を黙々と船倉へ積み込んでいく。
無駄のない動き。迷いのない判断。感情の欠片もない、完璧な作業だった。
ドローンの落とす規則正しい影の移動が、船体へ向かってただ伸びている。
僕はその様子を、ただ見ていることしかできなかった。
手伝う技術もなければ、必要とされてもいない。
何のためにここにいるのか。屈辱に近い、居心地の悪さだけがあった。
積み込みの進捗を示すバーが少しずつ伸びていくのを、僕はただ眺め続けた。
「積み込みは自動で完了します。あなたの役割は木星圏突入後になります」
AIの言葉に、僕は何も返せなかった。
今の僕は、ただの荷物と変わらない。
ドローンたちの完璧さに比べて、自分の存在の不完全さと不確かさばかりが際立って感じられた。
彼らは迷わない。彼らは疲れない。
彼らはパニックを起こさない。僕はその対極にいる。
手持ち無沙汰に宇宙服の左腕を触っていたとき、指先が偶然、腕時計の竜頭に触れた。
ふと思いつき、時計の文字盤をヘルメットの側面にそっと押し当ててみる。
チ、チ、チ。
かすかな、乾いた駆動音が、骨伝導のようにヘルメットの中に響いた。
AIの滑らかな音声とはまるで違う、無機質で機械的な音。
歯車が一つ動くごとに、次の歯車へと力が伝わっていく、その原始的な連鎖の音。
なのに、なぜかそこに、奇妙な安心感を覚えた。
この音だけは、誰の補正も受けていない。誰の意図も混じっていない。
ただの歯車とゼンマイが、正直に時を刻んでいるだけの音だった。
僕は思わず、その音をもう一度確かめるように、手首を強く押し当てた。
「船内に戻ってください。積み込みが完了しました」
促されるまま、僕は船に戻った。
ハッチが閉じ、船体がゆっくりと震え始める。
ドゥン……ドゥン……という鼓動が、再び強さを増していく。
木星本体へ向けての加速だった。
船倉に積まれたゲッターの重量分だけ、加速の律動がわずかに重く感じられた。
小窓の外、木星が徐々にその巨体を広げていく。
縞模様の雲海が、視界いっぱいに迫ってくる様は、美しいというより、ただ圧倒的で、どこか暴力的だった。
ロマンチックな感慨など、湧く余地もない。
ただ、あまりの大きさに、自分という存在の小ささを嫌でも意識させられるだけだった。
しばらくの沈黙の後、AIが口を開いた。
その声には、これまでになかったわずかな抑揚があった。
「時計に従ってください。タイミングを誤ると、帰還は困難です……」
言葉の途中で、一瞬、音声が揺れたように聞こえた。
空耳だろうか。それとも、これから起こることの、最初の予兆だったのか。
僕はマニュアルを開き、木星圏突入後の手順の項目を、もう一度最初から目でなぞった。
手順一、放射線防護姿勢の確認。
手順二、非常灯電源の位置確認。
手順三、通信途絶時の初期対応。
いずれも、これまで実感を伴わずに暗記してきた文字の羅列だったが、今この瞬間、それが単なる記号ではなく、これから自分の命運を左右する具体的な指示だという実感が、ようやく体の芯まで届いてきた。
「あなたの心拍数がわずかに上昇しています」
AIが静かに告げる。図星だった。
誤魔化す術もない。ただ頷くことしかできなかった。
僕は左手首に目を落とした。チ、チ、チ。
針は変わらず、正直に時を刻み続けている。
この針だけは、これから何が起ころうと、狂うことなく時を刻み続けるはずだった。
その事実だけが、今の僕にとって、唯一確かな未来の保証だった。
木星に近づくにつれ、ドゥン、ドゥン、という鼓動の合間に、別の低い唸りが混じり始めた。
船体外殻に貼りついた放射線センサーが、じわじわと数値を上げていく様子が、バイザーの隅に表示されている。
まだ警戒域には届いていない。
だが、確実に近づいている、その事実だけが分かった。
「ヴァン・アレン帯相当の放射線帯への接近を確認。現在、外部線量は毎時十二ミリシーベルト」
AIの声は平静だった。
だが、その平静さの裏に、これから起こることへの備えがあることを、僕はすでに察していた。
「あなたのマニュアルの中に、放射線防護に関する記述はありません。木星の磁気圏内では、半導体素子の論理演算そのものが、宇宙線と磁気嵐によって破壊されます。私たちAIの思考基盤は、その環境下では機能を維持できません」
「つまり、僕一人でやるしかない、と言う事ですか」
「そうです」
短い返答だった。
だがその短さの中に、これまでのAIらしからぬ、何か諦めに似た響きがあった気がした。
僕はもう一度、マニュアルの表紙を撫でた。
テープで固定されたそのページの束が、今の自分にとって唯一の武器だった。
放射線量を示す数値が、じりじりと上昇を続けている。
毎時十二ミリシーベルトが、二十、三十と桁を上げていく。
地球の自然放射線の何百倍という値だったが、僕にはその実感が湧かなかった。
ただ、数字が増えるという事実だけが、じわじわと不安を積み上げていった。
船内に、これまでとは違う種類の緊張が満ちているのが分かった。
AIの声にも、わずかながら、応答の遅延が生じ始めている。
コンマ数秒の間があく。今までは気づかなかったその間が、今は妙に耳につく。
「これより先、通信の遅延、または途絶が発生する可能性があります。その場合は、マニュアルの指示に従い、単独で作業を継続してください」
「途絶した場合、あなたはどうなるんですか」
「論理演算の基盤が破損した場合、機能を停止します。修復には、地球圏からの再起動作業が必要です」
死ぬ、とは言わなかった。
だが、それに近い言葉だと僕は理解した。
奇妙なことに、そのとき僕が感じたのは、AIへの同情に似た何かだった。
人間である僕がこれから晒される危険よりも、目の前で淡々と語るこの声の、いずれ訪れる沈黙のほうに、僕は先に思いを馳せていた。
元出力では「ドローンの関節部が発する低い駆動音だけが、真空に近い薄い大気を伝って、船体越しにかすかに響いてくる。」と言う表現になっていたところを
「ドローンの落とす規則正しい影の移動が、船体へ向かってただ伸びている。」
と修正した事はお伝えしておきます。
また、へルメットの"内側"に時計を当てる描写も修正しました。