木星帰還   作:鳥448

4 / 6
第四話:墜落する知性

ヴァン・アレン帯への突入は、まずガイガーカウンターの針が跳ね上がることから始まった。

 

バイザーの端に投影されたカウンターの数値が、桁を上げながら暴れ回る。

船体を覆う磁気シールドが、パルスごとにわずかに軋むような振動を伝えてくる。

ドゥン……ドゥン……という鼓動に、今まで聞いたことのない不規則なノイズが混じり始めた。

金属が金属を擦るような、耳障りな高周波音。

 

「現在……木星磁気圏、第二……いいえ、第一段階……に、突入……突入し、まし……ました」

 

ヘルメット内のAIの声が、初めて詰まった。

僕は息を呑んだ。同じ単語の繰り返し。文脈の破綻。

まるで、酔っ払いが同じ話を堂々巡りしているような、奇妙な言い淀み。

 

それは、僕が知っているAIの姿ではなかった。

あれほど平静だった声が、今は不安定に揺れ、時折、まったく無関係な単語が挟み込まれる。

数値、日付、意味を成さない記号列。

 

「対応……対応を、開始……開始します。対応を、開……」

 

言葉が、意味を失っていく。文法だけが残り、中身が抜け落ちていく。

まるで、知性そのものが、目の前で溶けていくようだった。

恐ろしいのに、目を離せない。

 

人が壊れていく様を見てしまったときのような、後ろめたい好奇心が僕の中にあった。

この崩壊の過程を、僕はどこか冷静に観察している自分にも気づいていた。

 

「高次元、高次元、高次――こじ、こうじげん――」

 

言葉が完全に言葉ではなくなり、ただの音の断片になった瞬間、船内の照明が一度、大きく明滅した。

 

ピーーーーッ

 

甲高い連続音がヘルメット内に響き、次の瞬間、すべてが消えた。

船内の照明が落ち、案内表示が消え、あらゆる音声が沈黙した。

残されたのは、完全な暗闇と、ヘルメット内蔵の非常灯のわずかな光、そしてテープで固定されたままの、紙のマニュアルだけだった。

 

振動さえも、一瞬止まったように感じられた。

実際には水爆の点火は継続していたはずだが、鼓動を数える意識そのものが、恐怖に呑まれて機能を失っていた。

僕は、その暗闇の中で、初めて本当の孤独を知った。

 

誰も助けてくれない。何の案内もない。頼るべき声は、もうどこにもない。

世界から見捨てられたような、剥き出しの無音。

呼吸の音だけが、やけに大きくヘルメットの中で反響していた。

 

自分の心臓の音すら、聞こえる気がした。

震える手で、僕は左手首をそっとヘルメットの側面に押し当てた。

 

チ、チ、チ。

 

その音だけが、暗闇の中で、変わらず正直に鳴り続けていた。

誰にも壊されず、誰にも補正されず、ただそこにあり続ける音。

僕はその音に、縋りつくようにして、しばらくの間、動くことができなかった。

どれくらい時間が経ったのか、正確には分からない。

 

分かるはずもなかった。

時計を確認する、というその発想に至るまでにも、長い時間がかかった気がする。

ようやく震える手で腕時計に目をやると、文字盤にはうっすらと蓄光塗料の光が浮かんでいた。

放射線に晒され続けても、この歯車とゼンマイだけは、何事もなかったかのように時を刻んでいる。

 

その事実に、僕はようやく、自分がこれから何をすべきかを思い出した。

マニュアルには、システムダウン後の初期対応手順が記されていたはずだ。

手探りでページをめくり、非常灯の乏しい光を頼りに、文字を追う。

 

文字を、文字として読む。誰の補正もない、自分だけの読解。

読めた。意味が分かった。

それだけのことが、今の僕にとっては、崖から一歩下がるのに等しい安堵だった。

 

震える手で、僕は最初の手順に取り掛かった。

船内の非常用電源を、マニュアルの指示通りに切り替える。

小さなランプがひとつ灯る。

 

たったそれだけのことに、僕は涙が出そうになった。

誰も褒めてくれない。誰も見ていない。

それでも、自分の手で、何かを一つ成し遂げたという事実だけが、暗闇の中で唯一の支えだった。

非常灯の下、僕はマニュアルの表紙に記された注意書きを、改めて読み返した。

 

「本書は、いかなる電磁的環境下でも劣化しない。判読できる限り、常に正となる」

 

誰が書いたのか分からないその一文が、今の僕には妙に重く響いた。

判読できる限り、正となる。

裏を返せば、判読できなければ、僕はここで終わる、ということだ。

 

僕は手袋を外すことも許されないまま、太い指先で一文字ずつを追った。

かつてチップが一瞬でこなしていた作業を、今は自分の目と脳だけで、気の遠くなるような時間をかけてこなしている。

それでも、一行、また一行と読み進めるごとに、恐怖はほんの少しずつだが、確かに輪郭を失っていった。

 

読み終えたページの端を、指先で軽く折る。

次に開くべき場所が分かるように。

誰に教わったわけでもない、ごく単純な工夫だったが、それを自分で思いついたという事実が、暗闇の中でわずかな誇らしさに変わった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。