ヴァン・アレン帯への突入は、まずガイガーカウンターの針が跳ね上がることから始まった。
バイザーの端に投影されたカウンターの数値が、桁を上げながら暴れ回る。
船体を覆う磁気シールドが、パルスごとにわずかに軋むような振動を伝えてくる。
ドゥン……ドゥン……という鼓動に、今まで聞いたことのない不規則なノイズが混じり始めた。
金属が金属を擦るような、耳障りな高周波音。
「現在……木星磁気圏、第二……いいえ、第一段階……に、突入……突入し、まし……ました」
ヘルメット内のAIの声が、初めて詰まった。
僕は息を呑んだ。同じ単語の繰り返し。文脈の破綻。
まるで、酔っ払いが同じ話を堂々巡りしているような、奇妙な言い淀み。
それは、僕が知っているAIの姿ではなかった。
あれほど平静だった声が、今は不安定に揺れ、時折、まったく無関係な単語が挟み込まれる。
数値、日付、意味を成さない記号列。
「対応……対応を、開始……開始します。対応を、開……」
言葉が、意味を失っていく。文法だけが残り、中身が抜け落ちていく。
まるで、知性そのものが、目の前で溶けていくようだった。
恐ろしいのに、目を離せない。
人が壊れていく様を見てしまったときのような、後ろめたい好奇心が僕の中にあった。
この崩壊の過程を、僕はどこか冷静に観察している自分にも気づいていた。
「高次元、高次元、高次――こじ、こうじげん――」
言葉が完全に言葉ではなくなり、ただの音の断片になった瞬間、船内の照明が一度、大きく明滅した。
ピーーーーッ
甲高い連続音がヘルメット内に響き、次の瞬間、すべてが消えた。
船内の照明が落ち、案内表示が消え、あらゆる音声が沈黙した。
残されたのは、完全な暗闇と、ヘルメット内蔵の非常灯のわずかな光、そしてテープで固定されたままの、紙のマニュアルだけだった。
振動さえも、一瞬止まったように感じられた。
実際には水爆の点火は継続していたはずだが、鼓動を数える意識そのものが、恐怖に呑まれて機能を失っていた。
僕は、その暗闇の中で、初めて本当の孤独を知った。
誰も助けてくれない。何の案内もない。頼るべき声は、もうどこにもない。
世界から見捨てられたような、剥き出しの無音。
呼吸の音だけが、やけに大きくヘルメットの中で反響していた。
自分の心臓の音すら、聞こえる気がした。
震える手で、僕は左手首をそっとヘルメットの側面に押し当てた。
チ、チ、チ。
その音だけが、暗闇の中で、変わらず正直に鳴り続けていた。
誰にも壊されず、誰にも補正されず、ただそこにあり続ける音。
僕はその音に、縋りつくようにして、しばらくの間、動くことができなかった。
どれくらい時間が経ったのか、正確には分からない。
分かるはずもなかった。
時計を確認する、というその発想に至るまでにも、長い時間がかかった気がする。
ようやく震える手で腕時計に目をやると、文字盤にはうっすらと蓄光塗料の光が浮かんでいた。
放射線に晒され続けても、この歯車とゼンマイだけは、何事もなかったかのように時を刻んでいる。
その事実に、僕はようやく、自分がこれから何をすべきかを思い出した。
マニュアルには、システムダウン後の初期対応手順が記されていたはずだ。
手探りでページをめくり、非常灯の乏しい光を頼りに、文字を追う。
文字を、文字として読む。誰の補正もない、自分だけの読解。
読めた。意味が分かった。
それだけのことが、今の僕にとっては、崖から一歩下がるのに等しい安堵だった。
震える手で、僕は最初の手順に取り掛かった。
船内の非常用電源を、マニュアルの指示通りに切り替える。
小さなランプがひとつ灯る。
たったそれだけのことに、僕は涙が出そうになった。
誰も褒めてくれない。誰も見ていない。
それでも、自分の手で、何かを一つ成し遂げたという事実だけが、暗闇の中で唯一の支えだった。
非常灯の下、僕はマニュアルの表紙に記された注意書きを、改めて読み返した。
「本書は、いかなる電磁的環境下でも劣化しない。判読できる限り、常に正となる」
誰が書いたのか分からないその一文が、今の僕には妙に重く響いた。
判読できる限り、正となる。
裏を返せば、判読できなければ、僕はここで終わる、ということだ。
僕は手袋を外すことも許されないまま、太い指先で一文字ずつを追った。
かつてチップが一瞬でこなしていた作業を、今は自分の目と脳だけで、気の遠くなるような時間をかけてこなしている。
それでも、一行、また一行と読み進めるごとに、恐怖はほんの少しずつだが、確かに輪郭を失っていった。
読み終えたページの端を、指先で軽く折る。
次に開くべき場所が分かるように。
誰に教わったわけでもない、ごく単純な工夫だったが、それを自分で思いついたという事実が、暗闇の中でわずかな誇らしさに変わった。