真空は、何よりも雄弁に沈黙する。
工具を握る手の動き、パイプを回すレンチの感触、すべてに振動は伝わってくるのに、音はまったく聞こえない。
耳という器官がここでは何の役にも立たないという事実が、じわじわと僕の神経を削っていく。
ヘルメットの中の自分の呼吸音だけが、唯一の音の存在だった。
僕は左手首を何度も目の前にかざした。
文字盤の針だけが、今の僕にとって唯一の絶対的な基準だった。
マニュアルの該当ページを開き、手袋越しに指でなぞりながら、暗記した手順と実際のバルブの配置を照合する。
ページの端は、何度も繰り返しめくったせいで、すでに毛羽立っていた。
アンモニア吸気パイプの操作。手順七番、圧力弁を三十度開放。
マニュアルにはそう書かれている。
だが目の前のバルブは、記憶していた位置と微妙に違う角度でついている。
冷や汗が背中を伝う。焦って手順を間違えれば、それだけで終わりだ。
もう一度ページを確認する。落ち着け。角度ではなく、刻印の番号を見ろ。
番号は合っている。手順通りだ。
自分にそう言い聞かせながら、僕はゆっくりとレンチを回した。
ゲッターへのヘリウム吸着作業も同様だった。
物理吸着という現象そのものは、実感の湧かない静かな化学だ。
目に見える変化はほとんどない。
多孔質の鉱石表面に、木星大気から採取したヘリウムがゆっくりと染み込んでいく、その過程を肉眼で確認する術はない。
ただ、時計の針が指定の位置に来るのを待ち、その瞬間にバルブを操作する。
それだけの、単調で緊張感だけが張り詰めた反復。
数字を間違えれば、リークという形で、すべてが無駄になる。
指定時刻ちょうど。針が刻む位置を確認し、吸気パイプを
パーンという振動が手のひらに伝わったが、それだけだった。
達成感というほどのものはない。
ただ、「時計が示した時刻通りに、作業が終わった」という、それだけの即物的な事実が残るだけだった。
歓声もなければ、拍手もない。
ただ手順書の次の行に、鉛筆でチェックを入れる。
それが、この作業のすべてだった。
パージ完了後の静寂の中、小窓の外に目をやる。
大赤斑が、視界の隅にただ映っている。
何百年も渦を巻き続けてきたという、あの有名な嵐が、今の僕にとっては単なる背景でしかなかった。
感動も、畏怖も、そこにはなかった。
ただ、マニュアルの次のページをめくる指の冷たさだけがあった。
作業はまだ、半分も終わっていない。
視線を戻すと、船体の外殻に取り付けられた放射線量計の数値が、依然として高い水準を示していた。
AIの支援なしにこの数値を読み取り、次の判断につなげるという作業自体が、僕にとってはまだ新しい感覚だった。
数字は嘘をつかない。
だが、その数字をどう解釈するかは、今の僕自身の頭にかかっている。
その責任の重さに、掌がじっとりと汗ばむのが分かった。
次の工程は、化学プラントの触媒層の点検だった。
放射線量はまだ高いままで、AIの支援は望めない。
マニュアルの図と、目の前の配管を何度も照らし合わせる。
図面通りのバルブが、実物では微妙に色褪せ、刻印も擦れて読みにくい。
何度も手袋の指先で表面をなぞり、辛うじて番号を判別する。
作業の途中、ふと自分の呼吸の音だけが規則正しく響いていることに気づいた。
吸って、止めて、吐く。
その一定のリズムが、いつの間にか、失われたドゥン、ドゥンという鼓動の代わりを務めているような気さえした。
時計の針と、自分の呼吸と、手順書の文字。
それだけが、今の僕を支える三本の柱だった。
触媒層の温度を示す機械式の温度計
――これもまた放射線の影響を受けない、古い水銀式のものだった――
目盛りを読み取り、マニュアルに記された許容範囲内であることを確認する。
合っている。それだけで、詰めていた息を長く吐き出した。
一つ一つの工程を、感情を排して、ただの手続きとしてこなしていく。
そうすることでしか、この静寂と孤独に押しつぶされずに済まなかった。
作業の合間、僕はふと、地球にいた頃の自分を思い出そうとした。
だが、驚くほど何も浮かんでこなかった。
栄養ペーストの味も、眺めていた映像の内容も、輪郭のないまま溶けて消えている。
今、確かに存在しているのは、目の前のバルブと、腕時計の針と、手の中のマニュアルだけだった。
それ以外のすべてが、急速に色褪せていくように感じられた。
最後の工程、船体外部のセンサー類の手動点検を終えたとき、時計の針は、マニュアルに記された帰還準備開始時刻をちょうど指していた。
誤差は、体感でおよそ数十秒。
悪くない、と自分に言い聞かせる。
褒めてくれる者はいなくても、自分で自分の仕事を認めることくらいは、できるようになっていた。
ヘリウム同位体はこの段階で選別していません。