木星帰還   作:鳥448

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第五話:音のない作業

真空は、何よりも雄弁に沈黙する。

工具を握る手の動き、パイプを回すレンチの感触、すべてに振動は伝わってくるのに、音はまったく聞こえない。

耳という器官がここでは何の役にも立たないという事実が、じわじわと僕の神経を削っていく。

ヘルメットの中の自分の呼吸音だけが、唯一の音の存在だった。

 

僕は左手首を何度も目の前にかざした。

文字盤の針だけが、今の僕にとって唯一の絶対的な基準だった。

マニュアルの該当ページを開き、手袋越しに指でなぞりながら、暗記した手順と実際のバルブの配置を照合する。

ページの端は、何度も繰り返しめくったせいで、すでに毛羽立っていた。

 

アンモニア吸気パイプの操作。手順七番、圧力弁を三十度開放。

マニュアルにはそう書かれている。

だが目の前のバルブは、記憶していた位置と微妙に違う角度でついている。

 

冷や汗が背中を伝う。焦って手順を間違えれば、それだけで終わりだ。

もう一度ページを確認する。落ち着け。角度ではなく、刻印の番号を見ろ。

番号は合っている。手順通りだ。

自分にそう言い聞かせながら、僕はゆっくりとレンチを回した。

 

ゲッターへのヘリウム吸着作業も同様だった。

物理吸着という現象そのものは、実感の湧かない静かな化学だ。

目に見える変化はほとんどない。

多孔質の鉱石表面に、木星大気から採取したヘリウムがゆっくりと染み込んでいく、その過程を肉眼で確認する術はない。

 

ただ、時計の針が指定の位置に来るのを待ち、その瞬間にバルブを操作する。

それだけの、単調で緊張感だけが張り詰めた反復。

数字を間違えれば、リークという形で、すべてが無駄になる。

 

指定時刻ちょうど。針が刻む位置を確認し、吸気パイプをパージする(切り離す)

パーンという振動が手のひらに伝わったが、それだけだった。

達成感というほどのものはない。

 

ただ、「時計が示した時刻通りに、作業が終わった」という、それだけの即物的な事実が残るだけだった。

歓声もなければ、拍手もない。

ただ手順書の次の行に、鉛筆でチェックを入れる。

それが、この作業のすべてだった。

 

パージ完了後の静寂の中、小窓の外に目をやる。

大赤斑が、視界の隅にただ映っている。

何百年も渦を巻き続けてきたという、あの有名な嵐が、今の僕にとっては単なる背景でしかなかった。

 

感動も、畏怖も、そこにはなかった。

ただ、マニュアルの次のページをめくる指の冷たさだけがあった。

作業はまだ、半分も終わっていない。

視線を戻すと、船体の外殻に取り付けられた放射線量計の数値が、依然として高い水準を示していた。

 

AIの支援なしにこの数値を読み取り、次の判断につなげるという作業自体が、僕にとってはまだ新しい感覚だった。

数字は嘘をつかない。

だが、その数字をどう解釈するかは、今の僕自身の頭にかかっている。

その責任の重さに、掌がじっとりと汗ばむのが分かった。

 

次の工程は、化学プラントの触媒層の点検だった。

放射線量はまだ高いままで、AIの支援は望めない。

マニュアルの図と、目の前の配管を何度も照らし合わせる。

 

図面通りのバルブが、実物では微妙に色褪せ、刻印も擦れて読みにくい。

何度も手袋の指先で表面をなぞり、辛うじて番号を判別する。

作業の途中、ふと自分の呼吸の音だけが規則正しく響いていることに気づいた。

 

吸って、止めて、吐く。

その一定のリズムが、いつの間にか、失われたドゥン、ドゥンという鼓動の代わりを務めているような気さえした。

時計の針と、自分の呼吸と、手順書の文字。

それだけが、今の僕を支える三本の柱だった。

 

触媒層の温度を示す機械式の温度計

――これもまた放射線の影響を受けない、古い水銀式のものだった――

目盛りを読み取り、マニュアルに記された許容範囲内であることを確認する。

合っている。それだけで、詰めていた息を長く吐き出した。

 

一つ一つの工程を、感情を排して、ただの手続きとしてこなしていく。

そうすることでしか、この静寂と孤独に押しつぶされずに済まなかった。

作業の合間、僕はふと、地球にいた頃の自分を思い出そうとした。

 

だが、驚くほど何も浮かんでこなかった。

栄養ペーストの味も、眺めていた映像の内容も、輪郭のないまま溶けて消えている。

今、確かに存在しているのは、目の前のバルブと、腕時計の針と、手の中のマニュアルだけだった。

それ以外のすべてが、急速に色褪せていくように感じられた。

 

最後の工程、船体外部のセンサー類の手動点検を終えたとき、時計の針は、マニュアルに記された帰還準備開始時刻をちょうど指していた。

誤差は、体感でおよそ数十秒。

悪くない、と自分に言い聞かせる。

褒めてくれる者はいなくても、自分で自分の仕事を認めることくらいは、できるようになっていた。




ヘリウム同位体はこの段階で選別していません。
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