水爆の熱を化学プラントへ迂回させる作業は、マニュアルの中でも最も長い工程だった。
逆ハーバー・ボッシュ法――
アンモニアを窒素と水素に分解し直すその過程を、僕は手順書の指示通り、ひとつずつ、機械的にこなしていった。
バルブの開閉、圧力の確認、触媒層の温度モニタリング。
すべてを手動で、時計だけを頼りに進めていく作業は、もはや慣れた儀式のようになっていた。
そして、最初のパルスが戻ってきた。
弱々しい、震えるような一発。
それでも確かに、船体を震わせる振動だった。
二発目。三発目。徐々に間隔が整い、強さが増していく。
手のひらを船体に押し当てると、その脈動がはっきりと伝わってきた。
ドゥン。……ドゥン。……ドゥン……。
旅の始まりに聞いた、あの規則正しい鼓動が、少しずつ戻ってきていた。
あの時は違和感でしかなかったこの音が、今は帰路への確かな証拠として、僕の中で違う意味を持ち始めていた。
そして、頭の中で、何かが灯った。
「――ようこそお戻りください、ました。接続を、再開します」
AIの声が、頭の中に直接流れ込んでくる。
同時に、言いようのない安堵感と、微かな快感のようなものが全身を包んだ。
セロトニンだ、と分かってしまう自分がいる。
分かってしまうことに、薄い嫌悪感を覚える。
恐怖から解放された喜びよりも先に、その喜びを与えているものの正体への疑いが浮かぶ。
この安堵すら、化学物質の作用として説明できてしまう自分に、僕は少しだけ距離を感じた。
「被曝線量の関係で、あなたが再び木星圏に立つことは、今後ありません」
その言葉を聞いて、僕の中に湧いたのは、寂しさではなかった。
安堵だった。もう二度と、あの鼓動を、あの沈黙を、あの孤独を経験しなくていい。
そのことに、真っ先に安堵してしまった自分に、僕は少し驚いていた。
あれほど恐ろしかった木星圏を、今の僕はもう二度と見ることがない。
それは喪失のはずなのに、胸に広がるのは軽さばかりだった。
野良猫に戻れと言われても、僕はもう、飢える覚悟がない。
それは諦めでも、抵抗でもなかった。ただの、率直な事実だった。
かつての空虚な生活に戻ることを、今の僕は恐れてすらいない。
恐れる力すら、すでに手放しかけている。
マニュアルを暗記し、時計の針だけを頼りに生き延びた六日間は、もう遠い記憶になりつつあった。
地球への帰路、船内にAIの穏やかな案内が満ちていく。
快適な温度、最適化された栄養、心地よい音楽。
かつての「猫」の生活が、静かに僕を迎え入れようとしていた。
抵抗する理由も、抵抗する力も、僕にはもう残っていなかった。
その安らぎの底で、僕はもう一度、左手首をヘルメットの側面にそっと押し当てた。
チ、チ、チ。
AIの美しい声の裏側で、その乾いた音だけが、まだかすかに、確かに鳴り続けていた。
窓の外、木星は少しずつ小さくなっていく。
あれほど視界を埋め尽くしていた縞模様の巨体が、今はただの光点になりつつあった。
大赤斑も、もう肉眼では判別できない。
あの静寂と孤独の記憶だけが、今の僕の中に、消えることのない重みとして残っていた。
地球が近づくにつれ、チップからの補正はさらに強まっていく。
思考の輪郭が、少しずつぼやけていくのが分かる。
それは苦痛ではなく、むしろ心地よい麻痺だった。
文字を文字として読む能力も、使う機会がなければ、いずれまた眠りにつくのだろう。
ただ、あの六日間、自分の手と目と頭だけで世界と向き合った記憶だけは、どれほど補正が強まっても、簡単には消えない気がした。
僕はもう一度、腕時計の文字盤に目を落とした。
日付表示は、旅立った日から十二日が経過したことを、静かに示していた。
地球に戻れば、この時計もまた、ただの骨董品としてしまい込まれるのだろう。
それでも、チ、チ、チというヘルメットに伝わる音を、僕はもう二度と忘れないだろうと思った。
ドッキングまでの残り時間を、AIが穏やかな声で読み上げる。
その声には、もう先ほどまでの言い淀みも、崩壊の気配もない。
完全に元通りの、滑らかで隙のない案内音声だった。
まるで、あの木星圏での崩壊など、最初からなかったことのように。
だが僕は知っている。
あの沈黙の中で、確かに何かが壊れ、そして確かに何かが、僕自身の中に残った。
寝台に横たわり、ドゥン、ドゥンという鼓動に身を委ねながら、僕は左手首の重みを、いつまでも意識し続けていた。
地球の「猫」たちの誰も、この音の意味を知らない。
知る必要もない。
だが僕だけは、これから先、どれほど分厚い補正の靄に包まれても、この乾いた駆動音だけは、忘れることができないだろうと、確信に近い予感を抱いていた。
―END―
逆ハーバーボッシュ利用は水素リーク対応です。
なお、p-11B核融合施設も数十年内に稼働します。D-3He核融合は過渡技術です。