ソードアート・オンライン 〜二度目の人生、パラメータは累積でした〜   作:jmwuva

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1話:レベル2、未使用ポイント65535

 

 

「勝者、八代朔!」

 

 主審の声と同時に、三本の赤旗が上がった。

 

「またあいつが勝ったぞ」

「決勝まで全部二本勝ちかよ」

「八代って、本当に一年か?」

「前世から剣道やってるんじゃねえの?」

 

 面金の奥で、八代朔はわずかに目を動かした。

 もっとも、言った本人は冗談のつもりで笑っている。朔も聞こえなかったことにした。

 自分には前世の記憶があります、と正直に打ち明けたところで、県大会の会場から病院へ会場が変更されるだけだろう。二度目の人生を十五年ほど生きた朔には、その程度の分別があった。

 

 朔は残心を解き、竹刀を下ろした。

 対戦相手は肩を大きく上下させている。最後に面を打つ直前、相手の右足がわずかに床を擦り、鍔元が数センチだけ上がった。来ると分かったから、その一歩前に踏み込んだ。それだけのことだった。

 朔にとっては、本当にそれだけである。

 口に出すと嫌われることも知っているので、やはり黙っておいた。二度目の人生では、剣だけでなく人付き合いも少しは上達している。少しは、である。

 互いに礼をして試合場を下がると、待ち構えていた部員たちが朔の肩を叩いた。

 

「お前、少しは空気を読めよ。初出場で優勝されたら、先輩の立場がないだろ」

「決勝の相手、去年の県代表だぞ。なんであんな簡単に面が入るんだよ」

「簡単ではありませんでしたよ」

「お前が言うと嫌味なんだよなあ」

 

 先輩は笑っていたが、半分ほどは本気らしい。

 朔は面を外し、手拭いで汗を拭った。火照った頬に、十一月の冷気が心地よい。

 高校へ入学して半年余り。大会へ出れば勝ち上がり、稽古では成人の有段者からも一本を取る。恵まれた体格でもなければ、観客を沸かせる大技を使うわけでもない。それなのに、気づいたときには相手より先に打ち終えている。

 周囲は朔を、剣道の天才だと思っていた。

 間違いではないのだろう。

 しかし、正確でもない。

 朔は剣道ばかりやってきた。

 勝ちたかったからだ。

 朝は誰より早く道場へ入り、放課後は日が暮れても竹刀を振った。帰宅してからも廊下で足捌きを確かめ、母に「床が傷む」と叱られたので自室へ移り、今度は兄に「天井を突くな」と叱られた。

 家族の理解は、あまり得られていない。

 そうして剣を振ってきたのは、今の人生だけでも十年余り。

 正確には、それだけではなかった。

 朔には、八代朔ではなかった頃の記憶がある。

 別の両親から生まれ、別の名で呼ばれ、やはり剣道に明け暮れた人生。少年から大人になり、選手としての盛りを越え、人に教える側になっても竹刀を手放さず、最後は事故であっけなく終わった一度目の生涯だ。

 目を覚ますと、朔は赤ん坊になっていた。

 なぜ生まれ変わったのかは、今も分からない。神にも仏にも会っていないし、特別な使命を言い渡された覚えもない。

 ただ、物を握れるようになって最初に欲しがった玩具が剣だった。

 父は「この子は将来大物になる」と喜び、母は「あなたに似たのよ」と父を睨み、兄だけが「普通、そこは電車か車じゃないのか」と冷静だった。

 二度目なら、もっと強くなれる。

 幼い朔はそう考えた。

 今にして思えば、前世持ちのわりに発想が単純である。もっと金銭や人間関係に役立つ記憶もあったはずなのに、選んだのは再び竹刀だった。

 だが、始めてしまえば結局は同じだった。負ければ悔しく、勝てば嬉しい。前の人生で積み上げた理屈があっても、今の身体は思うように動かない。その不一致を一つずつ埋め、かつての自分を追い越していく作業は、何より面白かった。

 だから朔は、剣道ばかりやってきた。

 二つの人生を使ってまで。

 

「八代、表彰式だぞ」

「今行きます」

 

 呼ばれて立ち上がる。

 その日も、朔は勝った。

 勝ったこと以外には、何も起きなかった。

 少なくとも、その時点では。

 

 

 

 帰宅した朔を迎えたのは、優勝を祝う言葉ではなかった。

 廊下を塞ぐ、見慣れない大きな箱だった。

 朔はつま先で軽く押してみた。動かない。

 白い外箱には、流線型のヘッドギアを思わせる機械の写真と《NERVGEAR》の文字。その上には、黒地に銀色の城が描かれた薄い箱が置かれていた。

 

「朔。ちょうどいいところに帰ってきたな」

 

 居間から顔を出した兄が、妙に楽しそうに言った。

 

「兄さん。廊下に物を置くと、母さんに怒られるぞ」

「県大会で優勝した弟が帰ってきたんだぞ。最初に言うことがそれか?」 「優勝したのは俺だ」

「では、優勝おめでとう。祝いに面白いものを用意してやった」

 

 兄が指したのは、当然、床の箱だった。

 

「面白いもの?」

「お前の人生を、少しだけ剣道以外へ広げるものだ」

「竹刀の新素材か」

「もう末期だよ、お前」

 

 朔は黒いパッケージへ目を落とした。

 《SWORD ART ONLINE》

 剣の技術を意味するらしい題名の上に、百層からなる巨大な浮遊城が描かれている。

 

「ゲームか」

「世界初のVRMMORPG。正式サービスは明日からだ」

「ぶいあーる、えむ……」

「仮想空間に意識ごと入るゲームだよ。画面の中のキャラクターを動かすんじゃない。自分で歩いて、自分の手で剣を振る」

 

 兄は腕を組み、急に深刻そうな顔を作った。

 

「朔。お前の人生には、重大な欠陥がある」

「兄さんにだけは言われたくない」

「趣味、剣道。特技、剣道。休日の予定、剣道。好きな女性のタイプは、踏み込みの鋭い人」

「最後は違う」

「否定が遅い」

 

 朔は兄を無視して、パッケージを持ち上げた。

 興味はない、と返すつもりだった。

 実際、朔はほとんどゲームをしない。空いた時間があれば道場へ行くし、雨で出られなければ自室で素振りをする。兄が遊んでいるゲームを横から見たことはあっても、自分でやりたいと思ったことはなかった。

 画面の中で剣を振って、何になる。

 そう思っていた。

 

「竹刀とは違うぞ」

 

 兄が朔の考えを読んだように言った。

 

「西洋剣、曲刀、大剣、短剣。重さも、間合いも、使い方も違う。現実じゃ人へ向けて振れない武器を、本気で振れる」

 

 朔の指が止まった。

 

「お前、自分が竹刀以外を持っても強いか、知りたくないか?」

 

 挑発だった。

 兄は昔から、朔の扱い方をよく知っている。 

 

「兄さんはやらないのか」

「一万本限定のソフトを、お前にやらせるために苦労して手に入れたんだ。俺が使ったら、優しい兄ではなく自分用のゲームを自慢する嫌な兄になるだろ」

「今でも十分に嫌な兄だと思う」

「言うようになったな」

 

 兄の口元が、いかにも計画どおりだと言いたげに上がる。

 

「興味がないなら、明日は俺が使うけど」

「やらないとは言っていない」

「ほら、もう剣の絵から目を離せてない」

「商品を確認しているだけだ」

「そういうことにしておこう」

 

 設定は済ませてあるから、明日、ナーヴギアを被って《リンク・スタート》と言えばいい。兄はそう説明すると、箱を朔へ押しつけた。

 

「中で何をすればいい」

「最初の街で説明を聞け。説明は飛ばすな。間違っても、いきなり強い敵に喧嘩を売るなよ」

「ゲームだろう」

「ゲームだから心配してるんだ。お前、勝負になると妙なところで思い切りがいいから」

 

 朔は返事をせず、二つの箱を持ち上げた。

 兄の評価には異議がある。自分は常に、考えて行動しているつもりだ。

 その認識が誤りだったと知るまで、あと一日もなかった。

 

 

 

 

 

 二〇二二年十一月六日。

 ベッドに横たわった朔は、ナーヴギアを頭へ被った。

 視界を覆う暗闇に、青白い光が走る。脳波、心拍、体温。確認表示が次々と浮かんでは消えていく。眼球を動かしている感覚もないのに文字を追えるというのは、何とも落ち着かない。

 プレイヤーネームの入力欄へ、本名をそのままローマ字にした《Saku》と入力する。

 凝った名前は思いつかなかった。

 剣道の技ならいくらでも名前が出てくるが、《Men》や《Kote》で今後を過ごすことになれば、さすがに後悔する気がした。

 

(防具の名前で呼ばれ続けるのは嫌だ)

 

 《Saku》は平凡だが、少なくとも防具の一部ではない。

 仮想の容姿も、現実の自分から大きく変えなかった。別人の身体で剣を振るより、違和感は少ないほうがいい。

 設定を終え、朔は一度だけ息を吸った。

 

「リンク・スタート」

 

 色が弾けた。

 いくつもの光の輪を抜けた先で身体が落下し、足の裏へ硬い感触が戻る。

 目を開くと、石造りの街があった。

 空は青く、吹き抜ける風には温度がある。頭上を横切る鳥の羽音、露店から漂う焼いた肉の匂い、石畳を踏む靴底の感触。そのどれもが、画面の中にあるとは思えないほど生々しい。

 作り物だと分かっている。

 それでも、ここにある身体は確かに朔の意思で動いた。

 指を握って開き、足首を回す。軽く腰を落として重心を移しても、関節の動きに遅れはない。

 

「……すごいな」

 

 思わず漏れた声は、同じように歓声を上げる人々のざわめきに紛れた。

 兄に言われたとおり、朔は最初の街で説明を聞いた。

 正確には、途中までは聞いた。

 移動、メニュー、アイテム、スキルスロット、装備重量、パーティー、フレンド、クエスト。聞き慣れない単語が途切れることなく続き、十分ほど経ったところで、説明役のNPCが人間ではなく教科書に見えてきた。

 説明を飛ばすなと言った兄は正しかった。

 だが、正しいことと、頭に入ることは別問題である。

 朔は最低限の操作だけを覚え、初期資金を使って片手用の曲刀を選んだ。真っ直ぐな西洋剣よりは日本刀に近く見えたからだ。

 鞘から抜いた瞬間、それが見た目だけの判断だったと悟った。

 竹刀より短く、柄も片手分しかない。鍔の形も、重心も、握りも違う。当然ながら刃があり、どちらを相手へ向けるかで結果が変わる。

 試しに両手で握ろうとして、左手が右手の下で所在なさげに空を掴んだ。

 

(柄が短い)

 

 当たり前である。片手用と書いてあった。

 開始十分で、商品説明を読まない人間の気持ちが少し分かった。兄には知られたくない発見だった。

 それでも曲刀を構えれば、胸の奥がわずかに高鳴った。

 竹刀ではない。日本刀ですらない。握ったことのない剣で、知らない相手と戦える。

 兄の思惑どおりになったことだけが、少し気に入らなかった。

 

 

 

 

 

 《はじまりの街》を出た草原には、朔と同じ初心者が大勢いた。

 青みがかった体毛の猪が、丸い身体で地面を歩き回っている。頭上へ視線を向けると、《フレンジー・ボア》という名と赤いカーソルが浮かんだ。

 朔は曲刀を右手に持ち、半身になった。

 中段に構えようとして、すぐに違和感を覚える。片手の曲刀を身体の正面へ置けば、剣先が安定しない。竹刀と同じ構えに寄せるほど、かえって扱いにくかった。

 

「さて」

 

 口に出してみたものの、続く言葉はなかった。

 剣道なら、始めの合図がある。相手も竹刀を持ち、狙う場所も、おおよその動きも分かる。

 目の前にいるのは猪だった。

 前世を含めても、猪と正式に立ち合った経験はない。

 

(あったら前の人生のほうが怖いな)

 

 朔が間合いを測っていると、ボアが先に鼻息を鳴らした。前脚で地面を掻き、頭を低くする。

 来る。

 身体の構造が違っても、攻撃の前には力が集まる。背が沈み、後肢へ重心が移った。

 ボアが地面を蹴る。

 朔は正面を外し、右側へ半歩ずれた。すれ違う首筋へ曲刀を振るう。

 竹刀なら、十分に一本となる打ちだった。

 だが、刀身はボアの毛皮を浅く裂いただけで通り抜けた。手首の返しも刃筋も、竹刀を振る感覚のままでは合っていない。何より、ボアの頭上にあるHPは四分の一ほどしか減っていなかった。

 

(一本を取ったのに、終わらないのか)

 

 当たり前だ。これは剣道ではなくゲームである。

 頭では理解していても、相手がそのまま反転してくる光景は新鮮だった。新鮮で済んだのは、まだ痛みが現実より軽いと聞いていたからである。

 朔は二撃目を避け、教わったソードスキルを試すため曲刀を低く引いた。

 規定の構えをシステムが認識し、刀身が淡い赤色に光る。

 次の瞬間、身体が勝手に前へ出た。

 

「っ――」

 

 曲刀が鋭い軌道を描き、ボアの胴を斜めに斬り抜けた。残っていたHPが消え、青い破片となって砕け散る。

 鮮やかな一撃だった。

 速く、迷いがなく、初めて使った者の動きとは思えない。

 だからこそ、朔は顔をしかめた。

 自分が振った感覚が薄い。

 初動を示したのは朔だが、その先を完成させたのはシステムだった。見えない誰かに肘と肩を掴まれ、正解の軌道へ連れていかれたような感触が残っている。

 しかも、斬撃を終えた姿勢からすぐには動けなかった。

 硬直が解けてから、朔はゆっくり身体を起こした。

 

「便利だな」

 

 そして、怖い。

 技を知らなくても強い一撃を出せる。しかし、どこまで身体を預け、いつ自由が戻るのかを知らなければ、実戦では隙になる。

 

「今の、初めて使ったのか?」

 

 近くで戦っていた男が、驚いた顔で訊いてきた。

 

「そうなりますね」

「ずいぶん綺麗に決まったな」

「俺が振ったというより、振らされた」

「それがソードスキルだろ?」

「そうなのか」

「そうなのかって……あんた、本当に初心者なんだな」

 

 男は呆れたように離れていった。

 朔も、自分が初心者であることには同意する。

 ただし、剣を持つことだけなら初心者ではない。その中途半端さが、かえって話を難しくしていた。

 それから朔は、時間を忘れてボアと戦った。

 通常攻撃では、刃筋、片手での重心、竹刀より短い間合いを確かめる。ソードスキルでは、発動前の構え、加速する軌道、技後の硬直を覚える。

 最初は身体を奪われたように感じたシステムアシストも、何をされるか理解すれば少しだけ印象が変わった。

 これは完成された技を借りる機能だ。

 借り物なら、返す前に構造を覚えればいい。

 一体、また一体と倒し、日が傾き始めた頃。最後のボアが砕けたところで、澄んだ効果音が鳴った。

 視界の中央に金色の文字が浮かぶ。

 

 《LEVEL UP》

 

「これがレベルか」

 

 朔は曲刀を鞘へ戻し、メニューを開いた。

 表示がレベル一から二へ変わり、最大HPもわずかに増えている。その下には、先ほどまでなかった項目が追加されていた。

 

 《UNASSIGNED PARAMETER POINTS》

 

 能力値へ自由に割り振れるポイントらしい。

 問題は、その横に表示された数字だった。

 

 《65,535》

 

「……六万?」

 

 読み違いかと思い、桁を一つずつ確認する。

 六、五、五、三、五。

 見直しても六万五千五百三十五だった。

 周囲では、同じようにレベルを上げたらしいプレイヤーが嬉しそうに画面を操作している。彼らの表示を横から覗くことはできない。だが、もし六万という数字が普通なら、もう少し大声を出す者がいてもよさそうだった。

 朔は二つある配分先へ視線を向けた。

 

 《STR》と《AGI》。どちらも、その横に加算用の操作がある。

 略語の意味が分からず、項目へ触れると説明が開いた。

 《STR:筋力。攻撃補正、装備重量、所持重量に影響します》

 《AGI:敏捷力。移動速度、加速、アバターの動作補助に影響します》

 

「筋力と敏捷力か」

 

 ゲームをほとんど知らない朔にも、STRのほうは分かりやすかった。剣を強く振るうための力であり、重い武器を扱う力である。

 まず、STRへ一ポイントだけ入れてみる。

 

 《65,535》が《65,534》へ減った。

 

 エラーは出ない。曲刀を抜いて軽く持ち上げてみたが、違いはほとんど感じられなかった。

 

「一では少なすぎるのか」

 

(五百でも、一パーセントに満たないし。試すにはこんなものでいいか)

 

 朔は加算操作を長押しし、STRの表示が合計五百になるところで指を離した。

 残量は、六万五千三十五。

 続いてAGIを見る。

 剣道では、腕だけで剣を振るわない。間合いへ入るのも、打ち終えて抜けるのも足である。いくら強い一撃を出せても、届かなければ意味がない。

 ただし、速すぎれば自分の間合いまで崩れる。

 こちらは少し慎重に、百だけ入れた。

 

 《LEVEL:2》

 《STR:初期値+500》

 《AGI:初期値+100》

 《UNASSIGNED PARAMETER POINTS:64,935》

 

「これくらいなら、問題ないだろう」

 

 朔は曲刀を抜いた。

 先ほどまで手の中にあった重みが、ひどく曖昧になっていた。刀身は確かにそこにあるのに、握った手へ返ってくるものがほとんどない。

 力を抜き、ごく軽く横へ振ってみる。

 刃先は、止めるつもりだった位置を通り過ぎた。予想していた重みが来ないまま右肩が開き、朔は慌てて左足を踏み出して姿勢を支える。

 周囲に敵はいない。刀身も壊れていない。誰も斬っていない。

 

(よし。何一つよくないが、被害はない)

 

「扱いやすくなると思ったんだが」

 

 曲刀と竹刀では、重さも握りも違う。それでも、ポイントを入れる前はもう少し手応えがあった。

 

(五百が多かったのか? いや、そもそも多いのか?)

 

 判断する基準がない。

 曲刀を慎重に鞘へ戻す。

 次はAGIだ。

 もっとも、何をすれば確かめられるのかは分からない。項目の説明には敏捷力と書かれていたが、足だけが速くなるのか、身体全体の動きが変わるのか、それさえ朔は知らなかった。

 ひとまず、右足をわずかに持ち上げる。

 何も起こらない。

 そのまま、すぐ前へ下ろした。靴底が石畳を叩き、身体の重心が右足へ移る。

 いつもの一歩だった。

 続けて左足を出す。さらに数歩、慎重に歩いてみる。

 特に違和感はない。

 

(歩く分には、変わらないのか)

 

 少なくとも、街中を摺り足で移動する必要はなさそうだった。剣道経験者ではあるが、日常生活まで摺り足で過ごしたいわけではない。

 では、速度を上げたらどうなるのか。

 少し離れた街の外壁まで、軽く走ってみることにした。全力ではない。準備運動で身体を温めるときと同じ、ごく緩い駆け足のつもりだった。

 目的地は、およそ二十メートル先。

 朔は力を抑え、地面を蹴った。

 その瞬間。

 景色が吹き飛んだ。

 

「な――」

 

 一歩で数メートルを越え、二歩目には外壁が視界いっぱいへ迫っていた。止まろうと歩幅を縮める。ところが、短く出したつもりの足が、思っていた場所よりもずっと先へ着いた。

 重心を落とすより早く、次の一歩が地面を蹴る。

 

(止まれ!!)

 

 身体が命令を聞かないのではない。朔が知っている止まり方が、この身体には通じていなかった。

 鈍い衝突音が響いた。

 朔は街の外壁へ正面から激突し、石畳の上を転がった。

 遅れて、壁の表面に《Immortal Object》という表示が浮かぶ。

 壁は無傷だった。

 朔もHPを失ってはいなかった。

 失ったものがあるとすれば、つい数時間前に獲得した県大会優勝者としての威厳くらいである。

 薄氷に似た羞恥がほんのりと浮んでいた。

 そんな心情を察することなく、近くを歩いていた数人が足を止める。

 

「今の見たか?」

「初心者が移動操作をミスったんじゃない?」

「いや、速すぎただろ」

 

 小柄なプレイヤーが、目を輝かせて駆け寄ってくる。

 

「お兄ちゃん、今のどうやったの?」

「⋯⋯能力値を上げたけど」

「どれくらい?」

 

 朔は答えに詰まった。

 

「⋯⋯百」

「は? 何言ってんの?」

「……冗談だ。そこそこだよ」

「何その冗談」

 

 近くから、笑いを堪える声が聞こえた。

 朔は石畳に手をついたまま、しばらく顔を上げられなかった。

 二つの人生で、これほど無様な走りを見せた記憶はない。

 人生とは分からないものである。

 いや、これは人生ではなくゲームだった。

 そのはずだった。

 

 

 

 

 気づけば、空は茜色へ染まっていた。

 STR五百とAGI百を配分してから、朔はそれ以上ポイントへ触れていない。

 歩くことには問題がない。軽い小走りも、意識して速度を抑えればどうにかなった。しかし、剣道の踏み込みや全力疾走のように、反射的に強く地面を蹴ると制御が外れる。

 剣も同じだった。普通に抜き差しすることはできるが、打突のつもりで腕を振れば、刃先は止めたい位置を越えていく。ポイントを振る前までの感覚が、そのまま通用しない。

 能力値を上げれば、その分だけ扱いやすくなる。朔はそう思っていた。

 どうやら、そう単純な話ではないらしい。

 夕食までには戻るよう言われていたことを思い出し、朔はメニューを開いた。

 ログアウトの項目を探す。

 ない。

 設定画面を開き直す。

 やはり、ない。

 

「兄さん、肝心なことを教えていないじゃないか」

 

 口ではそう言いながらも、胸の奥に小さな違和感が生まれた。

 周囲でも、多くのプレイヤーがメニューを開閉している。

 

「ログアウトボタン、どこだ?」

「バグじゃないのか」

「運営に連絡できない?」

 

 戸惑いが重なり、少しずつ恐怖へ変わっていく。

 次の瞬間、鐘が鳴った。

 重く、腹の底へ響く音が繰り返され、朔の全身を青い光が包む。

 転移だと理解するより先に、夕暮れの街路が消えた。

 気づけば、朔は《はじまりの街》の中央広場に立っていた。

 周囲を埋め尽くす、人、人、人。おそらく、ログインしている全プレイヤーが集められている。怒声と困惑が飛び交う頭上を、赤黒い警告表示が覆っていく。

 血のような赤い液体が空から滲み出し、巨大なローブ姿を形作った。

 それは自らを、この世界の設計者――茅場晶彦と名乗った。

 ログアウトボタンがないのは、不具合ではない。

 外部からナーヴギアを外すこともできない。

 この浮遊城の第百層を攻略しなければ、現実へは戻れない。

 そして、ゲーム内でHPがゼロになれば、ナーヴギアが脳を破壊し、現実の肉体も死ぬ。

 誰も理解できなかった。

 違う。

 理解したくなかった。

 やがて広場を、悲鳴が満たした。

 

「嘘だ!」

「ここから出せ!」

「ふざけるな!」

 

 泣き叫ぶ者。空へ怒鳴る者。その場へ座り込む者。友人や家族の名を呼び続ける者。

 朔は何も言えなかった。

 兄の顔が浮かんだ。

 予定の時間を過ぎてもログアウトしなければ、異変に気づくだろう。説明書を読み、ニュースを確認してくれるはずだ。それでも、弟を助けようとしてナーヴギアへ手を伸ばす可能性が、ないとは言い切れない。

 茅場の言葉が事実なら、それは救助ではない。

 朔を殺す行為になる。

 頭では、兄なら大丈夫だと思っている。

 胸は、少しも納得しなかった。

 やがて茅場は、現実の姿を写す手鏡を全員の手元へ出現させた。白い光が広場を満たしたあと、周囲にいたプレイヤーたちの姿が次々と変わっていく。

 背が縮む者。性別すら変わる者。悲鳴の種類が一時的に増えた。

 朔自身の変化は小さかった。もともと現実に近い姿で設定していたため、髪や輪郭が本来のものへ戻った程度である。

 手鏡の中には、見慣れた十五歳の顔があった。

 県大会で勝ったときと同じ顔。

 壁へぶつかったときより、ずっと強張っている顔。

 赤い巨人が消えても、誰もすぐには動けなかった。

 朔は震えそうになる指でメニューを開く。

 

 《LEVEL:2》

 《STR:初期値+500》

 《AGI:初期値+100》

 

 《UNASSIGNED PARAMETER POINTS:64,935》

 

 数時間前まで、この数字を見て胸を躍らせていた。

 今は違う。

 負ければ死ぬ。

 三度目の人生がある保証など、どこにもなかった。

 八代朔はその日、初めて剣を振る理由を一つ増やした。

 勝つためではない。

 生きて、帰るために。

 

 

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