ソードアート・オンライン 〜二度目の人生、パラメータは累積でした〜 作:jmwuva
「勝者、八代朔!」
主審の声と同時に、三本の赤旗が上がった。
「またあいつが勝ったぞ」
「決勝まで全部二本勝ちかよ」
「八代って、本当に一年か?」
「前世から剣道やってるんじゃねえの?」
面金の奥で、八代朔はわずかに目を動かした。
もっとも、言った本人は冗談のつもりで笑っている。朔も聞こえなかったことにした。
自分には前世の記憶があります、と正直に打ち明けたところで、県大会の会場から病院へ会場が変更されるだけだろう。二度目の人生を十五年ほど生きた朔には、その程度の分別があった。
朔は残心を解き、竹刀を下ろした。
対戦相手は肩を大きく上下させている。最後に面を打つ直前、相手の右足がわずかに床を擦り、鍔元が数センチだけ上がった。来ると分かったから、その一歩前に踏み込んだ。それだけのことだった。
朔にとっては、本当にそれだけである。
口に出すと嫌われることも知っているので、やはり黙っておいた。二度目の人生では、剣だけでなく人付き合いも少しは上達している。少しは、である。
互いに礼をして試合場を下がると、待ち構えていた部員たちが朔の肩を叩いた。
「お前、少しは空気を読めよ。初出場で優勝されたら、先輩の立場がないだろ」
「決勝の相手、去年の県代表だぞ。なんであんな簡単に面が入るんだよ」
「簡単ではありませんでしたよ」
「お前が言うと嫌味なんだよなあ」
先輩は笑っていたが、半分ほどは本気らしい。
朔は面を外し、手拭いで汗を拭った。火照った頬に、十一月の冷気が心地よい。
高校へ入学して半年余り。大会へ出れば勝ち上がり、稽古では成人の有段者からも一本を取る。恵まれた体格でもなければ、観客を沸かせる大技を使うわけでもない。それなのに、気づいたときには相手より先に打ち終えている。
周囲は朔を、剣道の天才だと思っていた。
間違いではないのだろう。
しかし、正確でもない。
朔は剣道ばかりやってきた。
勝ちたかったからだ。
朝は誰より早く道場へ入り、放課後は日が暮れても竹刀を振った。帰宅してからも廊下で足捌きを確かめ、母に「床が傷む」と叱られたので自室へ移り、今度は兄に「天井を突くな」と叱られた。
家族の理解は、あまり得られていない。
そうして剣を振ってきたのは、今の人生だけでも十年余り。
正確には、それだけではなかった。
朔には、八代朔ではなかった頃の記憶がある。
別の両親から生まれ、別の名で呼ばれ、やはり剣道に明け暮れた人生。少年から大人になり、選手としての盛りを越え、人に教える側になっても竹刀を手放さず、最後は事故であっけなく終わった一度目の生涯だ。
目を覚ますと、朔は赤ん坊になっていた。
なぜ生まれ変わったのかは、今も分からない。神にも仏にも会っていないし、特別な使命を言い渡された覚えもない。
ただ、物を握れるようになって最初に欲しがった玩具が剣だった。
父は「この子は将来大物になる」と喜び、母は「あなたに似たのよ」と父を睨み、兄だけが「普通、そこは電車か車じゃないのか」と冷静だった。
二度目なら、もっと強くなれる。
幼い朔はそう考えた。
今にして思えば、前世持ちのわりに発想が単純である。もっと金銭や人間関係に役立つ記憶もあったはずなのに、選んだのは再び竹刀だった。
だが、始めてしまえば結局は同じだった。負ければ悔しく、勝てば嬉しい。前の人生で積み上げた理屈があっても、今の身体は思うように動かない。その不一致を一つずつ埋め、かつての自分を追い越していく作業は、何より面白かった。
だから朔は、剣道ばかりやってきた。
二つの人生を使ってまで。
「八代、表彰式だぞ」
「今行きます」
呼ばれて立ち上がる。
その日も、朔は勝った。
勝ったこと以外には、何も起きなかった。
少なくとも、その時点では。
帰宅した朔を迎えたのは、優勝を祝う言葉ではなかった。
廊下を塞ぐ、見慣れない大きな箱だった。
朔はつま先で軽く押してみた。動かない。
白い外箱には、流線型のヘッドギアを思わせる機械の写真と《NERVGEAR》の文字。その上には、黒地に銀色の城が描かれた薄い箱が置かれていた。
「朔。ちょうどいいところに帰ってきたな」
居間から顔を出した兄が、妙に楽しそうに言った。
「兄さん。廊下に物を置くと、母さんに怒られるぞ」
「県大会で優勝した弟が帰ってきたんだぞ。最初に言うことがそれか?」 「優勝したのは俺だ」
「では、優勝おめでとう。祝いに面白いものを用意してやった」
兄が指したのは、当然、床の箱だった。
「面白いもの?」
「お前の人生を、少しだけ剣道以外へ広げるものだ」
「竹刀の新素材か」
「もう末期だよ、お前」
朔は黒いパッケージへ目を落とした。
《SWORD ART ONLINE》
剣の技術を意味するらしい題名の上に、百層からなる巨大な浮遊城が描かれている。
「ゲームか」
「世界初のVRMMORPG。正式サービスは明日からだ」
「ぶいあーる、えむ……」
「仮想空間に意識ごと入るゲームだよ。画面の中のキャラクターを動かすんじゃない。自分で歩いて、自分の手で剣を振る」
兄は腕を組み、急に深刻そうな顔を作った。
「朔。お前の人生には、重大な欠陥がある」
「兄さんにだけは言われたくない」
「趣味、剣道。特技、剣道。休日の予定、剣道。好きな女性のタイプは、踏み込みの鋭い人」
「最後は違う」
「否定が遅い」
朔は兄を無視して、パッケージを持ち上げた。
興味はない、と返すつもりだった。
実際、朔はほとんどゲームをしない。空いた時間があれば道場へ行くし、雨で出られなければ自室で素振りをする。兄が遊んでいるゲームを横から見たことはあっても、自分でやりたいと思ったことはなかった。
画面の中で剣を振って、何になる。
そう思っていた。
「竹刀とは違うぞ」
兄が朔の考えを読んだように言った。
「西洋剣、曲刀、大剣、短剣。重さも、間合いも、使い方も違う。現実じゃ人へ向けて振れない武器を、本気で振れる」
朔の指が止まった。
「お前、自分が竹刀以外を持っても強いか、知りたくないか?」
挑発だった。
兄は昔から、朔の扱い方をよく知っている。
「兄さんはやらないのか」
「一万本限定のソフトを、お前にやらせるために苦労して手に入れたんだ。俺が使ったら、優しい兄ではなく自分用のゲームを自慢する嫌な兄になるだろ」
「今でも十分に嫌な兄だと思う」
「言うようになったな」
兄の口元が、いかにも計画どおりだと言いたげに上がる。
「興味がないなら、明日は俺が使うけど」
「やらないとは言っていない」
「ほら、もう剣の絵から目を離せてない」
「商品を確認しているだけだ」
「そういうことにしておこう」
設定は済ませてあるから、明日、ナーヴギアを被って《リンク・スタート》と言えばいい。兄はそう説明すると、箱を朔へ押しつけた。
「中で何をすればいい」
「最初の街で説明を聞け。説明は飛ばすな。間違っても、いきなり強い敵に喧嘩を売るなよ」
「ゲームだろう」
「ゲームだから心配してるんだ。お前、勝負になると妙なところで思い切りがいいから」
朔は返事をせず、二つの箱を持ち上げた。
兄の評価には異議がある。自分は常に、考えて行動しているつもりだ。
その認識が誤りだったと知るまで、あと一日もなかった。
二〇二二年十一月六日。
ベッドに横たわった朔は、ナーヴギアを頭へ被った。
視界を覆う暗闇に、青白い光が走る。脳波、心拍、体温。確認表示が次々と浮かんでは消えていく。眼球を動かしている感覚もないのに文字を追えるというのは、何とも落ち着かない。
プレイヤーネームの入力欄へ、本名をそのままローマ字にした《Saku》と入力する。
凝った名前は思いつかなかった。
剣道の技ならいくらでも名前が出てくるが、《Men》や《Kote》で今後を過ごすことになれば、さすがに後悔する気がした。
(防具の名前で呼ばれ続けるのは嫌だ)
《Saku》は平凡だが、少なくとも防具の一部ではない。
仮想の容姿も、現実の自分から大きく変えなかった。別人の身体で剣を振るより、違和感は少ないほうがいい。
設定を終え、朔は一度だけ息を吸った。
「リンク・スタート」
色が弾けた。
いくつもの光の輪を抜けた先で身体が落下し、足の裏へ硬い感触が戻る。
目を開くと、石造りの街があった。
空は青く、吹き抜ける風には温度がある。頭上を横切る鳥の羽音、露店から漂う焼いた肉の匂い、石畳を踏む靴底の感触。そのどれもが、画面の中にあるとは思えないほど生々しい。
作り物だと分かっている。
それでも、ここにある身体は確かに朔の意思で動いた。
指を握って開き、足首を回す。軽く腰を落として重心を移しても、関節の動きに遅れはない。
「……すごいな」
思わず漏れた声は、同じように歓声を上げる人々のざわめきに紛れた。
兄に言われたとおり、朔は最初の街で説明を聞いた。
正確には、途中までは聞いた。
移動、メニュー、アイテム、スキルスロット、装備重量、パーティー、フレンド、クエスト。聞き慣れない単語が途切れることなく続き、十分ほど経ったところで、説明役のNPCが人間ではなく教科書に見えてきた。
説明を飛ばすなと言った兄は正しかった。
だが、正しいことと、頭に入ることは別問題である。
朔は最低限の操作だけを覚え、初期資金を使って片手用の曲刀を選んだ。真っ直ぐな西洋剣よりは日本刀に近く見えたからだ。
鞘から抜いた瞬間、それが見た目だけの判断だったと悟った。
竹刀より短く、柄も片手分しかない。鍔の形も、重心も、握りも違う。当然ながら刃があり、どちらを相手へ向けるかで結果が変わる。
試しに両手で握ろうとして、左手が右手の下で所在なさげに空を掴んだ。
(柄が短い)
当たり前である。片手用と書いてあった。
開始十分で、商品説明を読まない人間の気持ちが少し分かった。兄には知られたくない発見だった。
それでも曲刀を構えれば、胸の奥がわずかに高鳴った。
竹刀ではない。日本刀ですらない。握ったことのない剣で、知らない相手と戦える。
兄の思惑どおりになったことだけが、少し気に入らなかった。
《はじまりの街》を出た草原には、朔と同じ初心者が大勢いた。
青みがかった体毛の猪が、丸い身体で地面を歩き回っている。頭上へ視線を向けると、《フレンジー・ボア》という名と赤いカーソルが浮かんだ。
朔は曲刀を右手に持ち、半身になった。
中段に構えようとして、すぐに違和感を覚える。片手の曲刀を身体の正面へ置けば、剣先が安定しない。竹刀と同じ構えに寄せるほど、かえって扱いにくかった。
「さて」
口に出してみたものの、続く言葉はなかった。
剣道なら、始めの合図がある。相手も竹刀を持ち、狙う場所も、おおよその動きも分かる。
目の前にいるのは猪だった。
前世を含めても、猪と正式に立ち合った経験はない。
(あったら前の人生のほうが怖いな)
朔が間合いを測っていると、ボアが先に鼻息を鳴らした。前脚で地面を掻き、頭を低くする。
来る。
身体の構造が違っても、攻撃の前には力が集まる。背が沈み、後肢へ重心が移った。
ボアが地面を蹴る。
朔は正面を外し、右側へ半歩ずれた。すれ違う首筋へ曲刀を振るう。
竹刀なら、十分に一本となる打ちだった。
だが、刀身はボアの毛皮を浅く裂いただけで通り抜けた。手首の返しも刃筋も、竹刀を振る感覚のままでは合っていない。何より、ボアの頭上にあるHPは四分の一ほどしか減っていなかった。
(一本を取ったのに、終わらないのか)
当たり前だ。これは剣道ではなくゲームである。
頭では理解していても、相手がそのまま反転してくる光景は新鮮だった。新鮮で済んだのは、まだ痛みが現実より軽いと聞いていたからである。
朔は二撃目を避け、教わったソードスキルを試すため曲刀を低く引いた。
規定の構えをシステムが認識し、刀身が淡い赤色に光る。
次の瞬間、身体が勝手に前へ出た。
「っ――」
曲刀が鋭い軌道を描き、ボアの胴を斜めに斬り抜けた。残っていたHPが消え、青い破片となって砕け散る。
鮮やかな一撃だった。
速く、迷いがなく、初めて使った者の動きとは思えない。
だからこそ、朔は顔をしかめた。
自分が振った感覚が薄い。
初動を示したのは朔だが、その先を完成させたのはシステムだった。見えない誰かに肘と肩を掴まれ、正解の軌道へ連れていかれたような感触が残っている。
しかも、斬撃を終えた姿勢からすぐには動けなかった。
硬直が解けてから、朔はゆっくり身体を起こした。
「便利だな」
そして、怖い。
技を知らなくても強い一撃を出せる。しかし、どこまで身体を預け、いつ自由が戻るのかを知らなければ、実戦では隙になる。
「今の、初めて使ったのか?」
近くで戦っていた男が、驚いた顔で訊いてきた。
「そうなりますね」
「ずいぶん綺麗に決まったな」
「俺が振ったというより、振らされた」
「それがソードスキルだろ?」
「そうなのか」
「そうなのかって……あんた、本当に初心者なんだな」
男は呆れたように離れていった。
朔も、自分が初心者であることには同意する。
ただし、剣を持つことだけなら初心者ではない。その中途半端さが、かえって話を難しくしていた。
それから朔は、時間を忘れてボアと戦った。
通常攻撃では、刃筋、片手での重心、竹刀より短い間合いを確かめる。ソードスキルでは、発動前の構え、加速する軌道、技後の硬直を覚える。
最初は身体を奪われたように感じたシステムアシストも、何をされるか理解すれば少しだけ印象が変わった。
これは完成された技を借りる機能だ。
借り物なら、返す前に構造を覚えればいい。
一体、また一体と倒し、日が傾き始めた頃。最後のボアが砕けたところで、澄んだ効果音が鳴った。
視界の中央に金色の文字が浮かぶ。
《LEVEL UP》
「これがレベルか」
朔は曲刀を鞘へ戻し、メニューを開いた。
表示がレベル一から二へ変わり、最大HPもわずかに増えている。その下には、先ほどまでなかった項目が追加されていた。
《UNASSIGNED PARAMETER POINTS》
能力値へ自由に割り振れるポイントらしい。
問題は、その横に表示された数字だった。
《65,535》
「……六万?」
読み違いかと思い、桁を一つずつ確認する。
六、五、五、三、五。
見直しても六万五千五百三十五だった。
周囲では、同じようにレベルを上げたらしいプレイヤーが嬉しそうに画面を操作している。彼らの表示を横から覗くことはできない。だが、もし六万という数字が普通なら、もう少し大声を出す者がいてもよさそうだった。
朔は二つある配分先へ視線を向けた。
《STR》と《AGI》。どちらも、その横に加算用の操作がある。
略語の意味が分からず、項目へ触れると説明が開いた。
《STR:筋力。攻撃補正、装備重量、所持重量に影響します》
《AGI:敏捷力。移動速度、加速、アバターの動作補助に影響します》
「筋力と敏捷力か」
ゲームをほとんど知らない朔にも、STRのほうは分かりやすかった。剣を強く振るうための力であり、重い武器を扱う力である。
まず、STRへ一ポイントだけ入れてみる。
《65,535》が《65,534》へ減った。
エラーは出ない。曲刀を抜いて軽く持ち上げてみたが、違いはほとんど感じられなかった。
「一では少なすぎるのか」
(五百でも、一パーセントに満たないし。試すにはこんなものでいいか)
朔は加算操作を長押しし、STRの表示が合計五百になるところで指を離した。
残量は、六万五千三十五。
続いてAGIを見る。
剣道では、腕だけで剣を振るわない。間合いへ入るのも、打ち終えて抜けるのも足である。いくら強い一撃を出せても、届かなければ意味がない。
ただし、速すぎれば自分の間合いまで崩れる。
こちらは少し慎重に、百だけ入れた。
《LEVEL:2》
《STR:初期値+500》
《AGI:初期値+100》
《UNASSIGNED PARAMETER POINTS:64,935》
「これくらいなら、問題ないだろう」
朔は曲刀を抜いた。
先ほどまで手の中にあった重みが、ひどく曖昧になっていた。刀身は確かにそこにあるのに、握った手へ返ってくるものがほとんどない。
力を抜き、ごく軽く横へ振ってみる。
刃先は、止めるつもりだった位置を通り過ぎた。予想していた重みが来ないまま右肩が開き、朔は慌てて左足を踏み出して姿勢を支える。
周囲に敵はいない。刀身も壊れていない。誰も斬っていない。
(よし。何一つよくないが、被害はない)
「扱いやすくなると思ったんだが」
曲刀と竹刀では、重さも握りも違う。それでも、ポイントを入れる前はもう少し手応えがあった。
(五百が多かったのか? いや、そもそも多いのか?)
判断する基準がない。
曲刀を慎重に鞘へ戻す。
次はAGIだ。
もっとも、何をすれば確かめられるのかは分からない。項目の説明には敏捷力と書かれていたが、足だけが速くなるのか、身体全体の動きが変わるのか、それさえ朔は知らなかった。
ひとまず、右足をわずかに持ち上げる。
何も起こらない。
そのまま、すぐ前へ下ろした。靴底が石畳を叩き、身体の重心が右足へ移る。
いつもの一歩だった。
続けて左足を出す。さらに数歩、慎重に歩いてみる。
特に違和感はない。
(歩く分には、変わらないのか)
少なくとも、街中を摺り足で移動する必要はなさそうだった。剣道経験者ではあるが、日常生活まで摺り足で過ごしたいわけではない。
では、速度を上げたらどうなるのか。
少し離れた街の外壁まで、軽く走ってみることにした。全力ではない。準備運動で身体を温めるときと同じ、ごく緩い駆け足のつもりだった。
目的地は、およそ二十メートル先。
朔は力を抑え、地面を蹴った。
その瞬間。
景色が吹き飛んだ。
「な――」
一歩で数メートルを越え、二歩目には外壁が視界いっぱいへ迫っていた。止まろうと歩幅を縮める。ところが、短く出したつもりの足が、思っていた場所よりもずっと先へ着いた。
重心を落とすより早く、次の一歩が地面を蹴る。
(止まれ!!)
身体が命令を聞かないのではない。朔が知っている止まり方が、この身体には通じていなかった。
鈍い衝突音が響いた。
朔は街の外壁へ正面から激突し、石畳の上を転がった。
遅れて、壁の表面に《Immortal Object》という表示が浮かぶ。
壁は無傷だった。
朔もHPを失ってはいなかった。
失ったものがあるとすれば、つい数時間前に獲得した県大会優勝者としての威厳くらいである。
薄氷に似た羞恥がほんのりと浮んでいた。
そんな心情を察することなく、近くを歩いていた数人が足を止める。
「今の見たか?」
「初心者が移動操作をミスったんじゃない?」
「いや、速すぎただろ」
小柄なプレイヤーが、目を輝かせて駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん、今のどうやったの?」
「⋯⋯能力値を上げたけど」
「どれくらい?」
朔は答えに詰まった。
「⋯⋯百」
「は? 何言ってんの?」
「……冗談だ。そこそこだよ」
「何その冗談」
近くから、笑いを堪える声が聞こえた。
朔は石畳に手をついたまま、しばらく顔を上げられなかった。
二つの人生で、これほど無様な走りを見せた記憶はない。
人生とは分からないものである。
いや、これは人生ではなくゲームだった。
そのはずだった。
気づけば、空は茜色へ染まっていた。
STR五百とAGI百を配分してから、朔はそれ以上ポイントへ触れていない。
歩くことには問題がない。軽い小走りも、意識して速度を抑えればどうにかなった。しかし、剣道の踏み込みや全力疾走のように、反射的に強く地面を蹴ると制御が外れる。
剣も同じだった。普通に抜き差しすることはできるが、打突のつもりで腕を振れば、刃先は止めたい位置を越えていく。ポイントを振る前までの感覚が、そのまま通用しない。
能力値を上げれば、その分だけ扱いやすくなる。朔はそう思っていた。
どうやら、そう単純な話ではないらしい。
夕食までには戻るよう言われていたことを思い出し、朔はメニューを開いた。
ログアウトの項目を探す。
ない。
設定画面を開き直す。
やはり、ない。
「兄さん、肝心なことを教えていないじゃないか」
口ではそう言いながらも、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
周囲でも、多くのプレイヤーがメニューを開閉している。
「ログアウトボタン、どこだ?」
「バグじゃないのか」
「運営に連絡できない?」
戸惑いが重なり、少しずつ恐怖へ変わっていく。
次の瞬間、鐘が鳴った。
重く、腹の底へ響く音が繰り返され、朔の全身を青い光が包む。
転移だと理解するより先に、夕暮れの街路が消えた。
気づけば、朔は《はじまりの街》の中央広場に立っていた。
周囲を埋め尽くす、人、人、人。おそらく、ログインしている全プレイヤーが集められている。怒声と困惑が飛び交う頭上を、赤黒い警告表示が覆っていく。
血のような赤い液体が空から滲み出し、巨大なローブ姿を形作った。
それは自らを、この世界の設計者――茅場晶彦と名乗った。
ログアウトボタンがないのは、不具合ではない。
外部からナーヴギアを外すこともできない。
この浮遊城の第百層を攻略しなければ、現実へは戻れない。
そして、ゲーム内でHPがゼロになれば、ナーヴギアが脳を破壊し、現実の肉体も死ぬ。
誰も理解できなかった。
違う。
理解したくなかった。
やがて広場を、悲鳴が満たした。
「嘘だ!」
「ここから出せ!」
「ふざけるな!」
泣き叫ぶ者。空へ怒鳴る者。その場へ座り込む者。友人や家族の名を呼び続ける者。
朔は何も言えなかった。
兄の顔が浮かんだ。
予定の時間を過ぎてもログアウトしなければ、異変に気づくだろう。説明書を読み、ニュースを確認してくれるはずだ。それでも、弟を助けようとしてナーヴギアへ手を伸ばす可能性が、ないとは言い切れない。
茅場の言葉が事実なら、それは救助ではない。
朔を殺す行為になる。
頭では、兄なら大丈夫だと思っている。
胸は、少しも納得しなかった。
やがて茅場は、現実の姿を写す手鏡を全員の手元へ出現させた。白い光が広場を満たしたあと、周囲にいたプレイヤーたちの姿が次々と変わっていく。
背が縮む者。性別すら変わる者。悲鳴の種類が一時的に増えた。
朔自身の変化は小さかった。もともと現実に近い姿で設定していたため、髪や輪郭が本来のものへ戻った程度である。
手鏡の中には、見慣れた十五歳の顔があった。
県大会で勝ったときと同じ顔。
壁へぶつかったときより、ずっと強張っている顔。
赤い巨人が消えても、誰もすぐには動けなかった。
朔は震えそうになる指でメニューを開く。
《LEVEL:2》
《STR:初期値+500》
《AGI:初期値+100》
《UNASSIGNED PARAMETER POINTS:64,935》
数時間前まで、この数字を見て胸を躍らせていた。
今は違う。
負ければ死ぬ。
三度目の人生がある保証など、どこにもなかった。
八代朔はその日、初めて剣を振る理由を一つ増やした。
勝つためではない。
生きて、帰るために。