ソードアート・オンライン 〜二度目の人生、パラメータは累積でした〜 作:jmwuva
「マスター。この店で一番威力の弱い曲刀を頼めるか」
武器屋の店主が、作業台の向こうでぴたりと手を止めた。
禿げ上がった頭に丸太のような腕、使い込まれた革の前掛け。絵に描いたような頑固職人だが、もちろん現実に生きている人間ではない。
「……正気かい?」
「正気のつもりだ。一番弱いものが欲しい」
「若いの。武器ってのは普通、強いほうへ買い替えるもんだぜ」
「それは分かっている」
「いや、知らねえ顔だな」
ずいぶん人を見るNPCだ。
黙っていると、店主は盛大に溜息をつき、陳列棚の一番下から見慣れた曲刀を取り出した。ゲームを始めた日に買ったものと同じ、片手用の初期曲刀である。
「うちで一番安くて、一番弱い。初心者が猪を追い回すための剣だ。これでいいのか」
「ああ。それを十二本、お願いしたい」
「やっぱり正気じゃねえな」
判定が早い。
作業台に並べられた十二本を、一本ずつ抜いて確かめる。長さ、反り、重心、柄の太さ。システム上は同一の品らしく、どれを握っても手に返る感触は変わらない。
それがいい。
剣を替えるたびに力加減や間合いを覚え直すのは避けたかった。それに一番弱い剣なら、加減を間違えても何かが残るかもしれない。
敵も、剣も、できれば俺も。
「壊れやすいぞ」
「壊れるまでは使う」
「武器屋としちゃありがたいが、剣士としてはどうなんだ、それ」
NPCに剣士としてのあり方を心配されたのは、前世まで含めても初めてだった。
人間には、何度かある。
二〇二二年十二月二日。デスゲームが始まって、二十六日。
《生命の碑》に刻まれた名前を数えた者たちの話では、すでに二千人近くが死んだという。俺が一人ずつ確かめたわけではない。それでも、五人に一人と考えれば十分すぎるほど多い。県大会の観客席を何度埋めても足りない人数で、その一人一人に、兄さんのように帰りを待っている人間がいる。
それだけ死んで、第一層はまだ攻略されていなかった。
初日の俺は《ヘイト》も《リポップ》も《トレイン》も知らなかった。《ポップ》と聞いて炭酸飲料を思い浮かべた程度には無知だったので、人前で口にしなかった過去の自分だけは褒めてやりたい。
二十六日もあれば、言葉くらいは覚える。この世界が剣だけで人を殺す場所ではないことも、いやでも分かってくる。
大量のモンスターを引き連れて他人に押しつける者がいる。安全圏の境目で待ち伏せ、弱った獲物を横取りする者もいる。相場を知らない初心者に、価値のない道具を高値で売る者など珍しくもない。最近では、眠っている人間の手を動かして決闘申請を承認させる方法がある――そんな噂まで耳にした。
実際に可能なのかは知らないし、試して確かめるつもりもない。ただ、同意しなければ命を奪われないはずの街でさえ、無条件に信じる気にはなれなくなった。
(人間は、規則の穴を悪いほうに使うときだけ覚えが早い)
ログアウトはできず、運営に助けを求める手段もなく、寝床を間違えただけで殺されるかもしれない。
改めて並べると、ひどいゲームだった。
一万人を閉じ込めた張本人にいたっては、自分の姿を巨大化させ、空から演説までしてみせた。北のほうにいる偉い人でも、もう少し登場の仕方は慎むと思う。もっとも、止める人間がいなかったという点では、似たようなものかもしれない。
兄さんは、面白いものがあると言っていた。嘘ではない。面白いと楽しいが同じ意味ではなかっただけだ。帰れたら、そのあたりは詳しく問い質す。
その日まで生き残るために、宿では必ず個室を取った。扉の施錠を二度確認し、窓が開かないことまで確かめる。知らない相手から決闘申請が届けば、まず距離を取ってから拒否する。取引画面の数字は、桁ごとに読む。
一度、回復薬の値段を一桁見間違えた経験が大きい。命ではなく財布が軽くなっただけで済んだので、授業料ということにしてある。そう思わないと腹が立つ。
一か月近く暮らして分かったのは、アインクラッドが便利さと不便さを妙な具合に混ぜた場所だということだった。
荷物はウィンドウの中へ収納できる。剣も防具も、重量制限に収まる限りは目の前から消して持ち歩ける。必要になればメニューを操作し、何もない空間から取り出せばいい。色も形も違うが、やっていることは某青い猫型ロボットと大差なかった。向こうは腹の袋から夢のある道具を出す。俺が出すのは、同じ形をした初期曲刀。かなり格が落ちた。とはいえるが。
着替えは装備欄を触るだけで済み、傷を負ってもHPさえ戻れば痕は残らない。食事を注文すれば、ほどなく料理が現れる。服も防具も、性能だけを考えるなら数字で比べられた。
もっとも、数値が高いものを何でも身につければいいわけではない。重い金属鎧は防御力に優れているが、俺には足捌きの邪魔になる。軽装は動きやすい代わり、一度もらったときが怖い。現実で防具を選ぶ機会などなかったので、そのあたりは今も手探りだ。
食事も同じである。空腹を満たすだけなら安い黒パンで足りる。ただ、三日続けて同じものを食べると、腹より先に心が拒否し始めた。味覚まで再現した世界で、食べる楽しみだけを捨てるのは、思っていたより難しい。
だから二日に一度は、少しだけいいものを食べることにした。贅沢ではなく、継続して戦うための心の整備である。そう考えれば、肉料理を頼むときの罪悪感も薄い。
浴室のある宿に泊まれた日は、湯にも浸かった。仮想の身体が汗臭くなるのかは知らないし、確かめるために何日も入浴を避ける気もない。前世でいう《風呂キャン界隈》に所属するには、俺は剣を振ったあとの湯を好みすぎている。
便利ではある。ただ、その便利さのほとんどにコルが要った。
腹が減れば食事を買い、夜になれば宿を取る。剣は使えば傷み、回復薬は飲めばなくなる。防具も砥石も、迷宮の地図も無料ではない。この世界では、何もしなくても、生きているだけで金が減っていく。
そして稼ぐには、安全圏の外へ出るしかない。食事と寝床を得るために命を懸けてモンスターと戦う――改めて並べると、ずいぶん厳しい仕組みだった。
前世なら、分からない言葉は検索すればよかった。道に迷えば地図アプリを開き、面倒な調べものはAIに投げれば、少なくとも何かしらの答えは返ってきた。
いっそプレイヤー一人につき一体、専属のナビゲーションAIでもつけてくれればよかったのだ。道案内だけでなく、アイテムの相場やスキルの使い方、危険な場所まで教えてくれる。できれば、能力値を千も振り分けようとした時点で正気かどうか確認してくれる程度には賢いものがいい。
少なくとも、同じ角を三度曲がる前に、
《そこは先ほども通りました》
くらいは言ってほしかった。武器屋のNPCに客の正気を疑う余裕があるのだから、それくらいできても罰は当たらないと思う。
だが、この世界には外部へつながる検索窓すらない。分からない道は自分の足で進み、角を曲がり、間違っていれば戻る。そして検索結果の代わりに、斧を持ったコボルドが出てくる。
文明が進歩したのか後退したのか、判断に困る。
宿代を惜しんで広場や路地で眠る者もいる。食事を一日一度で済ませる者も見かけた。俺には同じことができない。空腹や睡眠不足で集中を欠き、そのせいで剣を誤るほうが高くつく。
だから、鍵のかかる個室と三度の食事だけは削らないと決めた。回復薬は残り三本になった時点で補充し、砥石と緊急時の道具に使う金には手をつけない。剣を十二本まとめて買う人間の金銭感覚として正しいのかは、自分でも少し疑問だが。
幸い、稼ぐこと自体は難しくなかった。低層のモンスターなら一撃で倒せる。敵を倒し、得た素材を売り、必要な分だけ残す。その繰り返しで生活費と装備代は足りた。
それでも、いくら敵を倒せても、宿屋の場所を知らなければ眠れない。相場を知らなければ安く買い叩かれ、地図を読めなければ同じ場所へ戻ってくる。
強さと、生きること。似ているようで、少し違うらしい。
そうしてゲームの中で暮らす方法を覚える一方、俺はもう一つ、扱いに困る問題とも向き合い続けていた。
俺自身である。
レベル二になった日、STR、AGIに五百を振り分けた。
あとになって説明欄をきちんと読むと、STRは攻撃力だけでなく装備条件や持ち運べる重量にも影響し、AGIは移動速度や動作の速さに関係するらしい。読んだ瞬間、先に確認しなかった過去の自分を叱りたくなった。
おかげで、曲刀を十二本持ち歩いても重量には余裕がある。便利ではあった。普通は同じ曲刀を十二本も持ち歩かないが。
AGIの五百も、移動時間を大幅に縮めてくれた。目的地で止まれれば、という条件はつく。
意味を理解した頃には、合計千という数字はとっくに振り分けられたあとだった。元へ戻す方法は、今も見つかっていない。
また、どちらに数字を足しても、HPは増えなかった。そもそも、HPにポイントの振り分けができなかった。HPを増やすには従来通りレベルを上げ、罠を見つけるには索敵を覚え、武器を使いこなすには、それぞれのスキル熟練度を高めるしかない。
六万を超える数字は、食事を用意してくれるわけでも、宿の扉を施錠してくれるわけでもない。地図も読んでくれなければ、罠の場所も教えてくれなかった。
選べるのは、さらに強くなるか、さらに速くなるか。どちらも今のところ間に合っている。むしろ、これ以上増やせば扱いきれなくなる。
だから最初の千を除いて、一ポイントも足していなかった。まずは、今ある力を自分のものにする。
そのために、歩くところから始めた。
十歩先で止まる。止まれるようになれば五歩に縮め、次は三歩。地面に小石を並べ、その手前で止まり、次は石と石の間へ足を置く。剣道で身につけた足捌きをいったん崩し、この身体に合わせて組み直していった。
初日は壁。三日目は木。五日目には猪へぶつかった。衝突する相手が少しずつ柔らかくなっているので、進歩していると考えることにした。猪には迷惑だったと思う。
七日目、ようやく何にもぶつからず止まれた。
そこからは早かった。
俺の意識そのものが速くなったわけではない。全力で動けば、目に入ったものへ反応するより先に、身体がそこを通り過ぎてしまう。それなら、動いてから考えなければいい。
どこへ踏み込み、どこを斬り、どちらの足で止まるのか。一連の動作を先に組み立て、始めてからは迷わない。剣道では当たり前にやってきたことを、当たり前ではない速度へ移し替える。それだけのことに一週間かかった。
剣も同じだった。力を抜くだけでは足りない。曲刀の重さと刃渡り、刃を触れさせる深さまで揃えて、ようやく同じ一撃を繰り返せるようになった。
俺が初期曲刀に固執するのは、安いからでも、店主に心配されたいからでもない。二十六日かけて作った基準を、剣を替えるたびに捨てたくなかったのだ。
ほかのプレイヤーが戦う姿を遠くから眺めた限りでは、ソードスキルを使ったときの踏み込みより、俺が普通に踏み込んだときのほうが速いことさえあった。
低層の敵なら、強く振る必要もない。敵が来る場所に、先に刃を置く。あとは向こうが、その刃へ飛び込んでくる。それだけでHPが消えた。
ある夜、五体の狼に囲まれたときも、俺が見たのは逃げ道ではなく、すべての敵が飛びかかってくる順番だった。
一体目の喉へ刃を置き、返す手で二体目の前脚を払う。三体目の外側へ抜けざまに胴を撫で、四体目の鼻先を下から跳ね上げる。最後の一体の首筋へ刃を引き、最初に決めた場所で足を止めた。
背後で五つのHPバーが順番に消え、遅れて散った青い光片が夜の草原を満たしていく。曲刀は一度も光っていない。
正直に言えば、爽快だった。二度の人生で積み上げた剣が、人間にはできない速さを得て、一瞬で五体を斬る。少年らしく胸が躍らなかったと言えば嘘になる。前世の年齢まで持ち出して冷静を装うには、青い光の散り方が少し格好よすぎた。
もっとも、あまりに簡単なので三日で慣れた。
人前で同じことをすれば、爽快感より先に面倒がやってくる。
なぜ一撃で倒せるのか。レベルはいくつなのか。どんな装備で、何のスキルを使ったのか。
どれも、俺自身が知りたいくらいだった。
ソードスキルなら、なおさらである。
技そのものは、ほかのプレイヤーと変わらない。同じ初動を取り、刀身が光り、システムが決められた軌道へ身体を導く。ただ、そこに俺の身体が加わると、少々話がおかしくなる。
一度だけ、誰もいない草原で基本の一撃技を全力で発動したことがある。
狙った猪は消えた。横薙ぎの軌道に入ってきた隣の猪まで巻き込まれた。そのまま停止地点にあった岩へ曲刀を突き立て、どうにか身体を止めた。
(一撃技とは、一体を斬る技ではないのか)
名前を素直に信じてはいけないらしい。
威力は十分すぎる。問題は、発動中に進路を変えられず、技を終えた直後に硬直が残ることだった。通常攻撃なら自分の意思で加減できる身体が、ソードスキルへ預けた瞬間だけ、決められた軌道を最後まで走り抜けようとする。
便利ではある。そして、雑に使えば死ぬ。
だからといって封じるつもりはなかった。発動距離を一歩ずつ変え、どこで加速し、どこで自由が戻るかを繰り返し確かめる。最初は借り物にしか思えなかった剣技を、自分の剣に変えるための稽古だった。
熟練度は、使わなければ上がらない。レベルを上げなければHPも増えず、索敵や罠の知識も身につかない。六万を超えるポイントは、そのどれも代わりにやってはくれなかった。
身体の扱いには、ようやく慣れてきた。
次は、このゲームそのものを覚える番である。
そのために俺は、第一層の迷宮区へ来ていた。
「……お前、その曲刀で迷宮区まで来たのか?」
迷宮区で出会った黒髪の少年は、俺の顔を見るより先に、腰の曲刀を見てそう言った。
「何か問題があるのか?」
「それ、《はじまりの街》で売ってる初期装備だろ」
「ああ。壊れるまでは使うつもりだ」
「普通は壊れる前に替えるんだよ」
「替えなら持っているが」
「だったら、いま使ってる剣の耐久値を確認しろ」
言われるまま、腰の曲刀を指先で叩き、プロパティを開く。
「……赤いな」
「なんでそんなに落ち着いてるんだ!? 今すぐ替えてくれ!」
「これまでの減り方から考えれば、あと八十回ほどは振れる」
「その計算を信用できる理由が一つもない!」
「予備なら、今ここに九本ある」
「九本!?」
「宿にも三本置いてある。全部で十二本だ」
「そういう正確さは要らない!」
会って十秒で叱られた。悪い人間ではなさそうだった。
この少年と出会ったのは、俺が同じ角を三度曲がった直後である。迷っていたわけではなく構造を確認していたのだと説明したところ、少年は通路の壁に残された俺自身の目印を指した。
言い逃れは難しかった。
「俺はキリト。お前は?」
「サク。お前は?」
「もう名乗っただろ!」
「……確かに」
考えることが多かったので、聞き逃したらしい。
「それで、その装備でよく迷宮区まで来られたな」
「一人で来る分には、特に問題なかった」
「……一人なら、って?」
答える代わりに、俺はキリトの装備を眺めた。
使い込まれた片手用直剣に、動きを邪魔しない程度の防具。傷んだ箇所は放置されず、きちんと補修されている。個々の値段までは分からないが、意味もなく身につけているものが一つもないことは分かった。
「ゲームに詳しいのか」
「まあ、それなりに」
「それなら、少し頼みがある」
キリトの表情が僅かに強張った。初対面の人間から頼みがあると言われれば、警戒するのも当然だろう。
「何だよ」
「レベルを上げたいんだ。よければ、少し付き合ってくれないか」
頼み方として、何かが足りなかったらしい。キリトはしばらく黙り、やがて呆れたように頭を掻いた。
「初対面だよな、俺たち」
「ああ」
「普通、もう少し遠慮しないか?」
「ほかに頼れそうな相手がいなくてな」
「それを初対面の相手に言えるのがすごいよ……」
口では呆れているものの、断る気はないらしい。知り合って数分の相手に付き合おうとするあたり、かなり面倒見のいい人間なのだろう。本人に教えれば否定しそうなので、黙っておいた。
「一戦だけだぞ」
「ありがとう。助かる」
「その前に武器を替えてくれ。俺の心臓が持たない」
仕方なく、耐久値の減った曲刀をしまい、予備の一本を実体化する。形も長さもまったく同じ二本を見比べ、キリトが何とも言えない顔になった。
「本当に同じものを十二本買ったのか……」
「店主にも正気を疑われた」
「NPCの判定が正しいよ」
迷宮区の通路に、金属音が響いた。
重装備のコボルドが振り下ろした斧を、キリトの直剣が斜めに受け流す。
俺は少し離れた場所に立ち、その戦いを見ていた。
もちろん、最初から見学するつもりだったわけではない。戦う前に、普通のプレイヤーがどのくらいの速さで動き、何度斬れば敵を倒せるのか確かめようと思っただけである。
結果として、見学になった。
レベルを上げたいと頼んだ本人が、戦闘に参加せず腕を組んでいる。何かがおかしい気はしたが、観察は必要だった。
これまで俺は、人目のない時間と場所を選んで戦ってきた。ほかのプレイヤーの「普通」をほとんど知らない。普通を知らなければ、俺の動きの何を、どの程度まで隠すべきかも決められなかった。
キリトに、現実の剣術を習った形跡は見当たらない。足幅は一定ではなく、剣を戻す位置も技ごとに違う。道場で同じ動きをすれば、まず足から直したくなる。
それでも、筋がいい。
敵が斧を振り上げるより先に軌道から外れ、直剣が光る直前の溜めも短い。何より、システムに身体を預けることへの躊躇がない。その剣は少しも借り物には見えなかった。
ゲームの剣を、ゲームの剣として使っている。
「スイッチ!」
キリトの声が聞こえた。
俺はコボルドの足元を見ていた。斧を弾かれた直後、敵の動きが僅かに止まり、キリトは追撃せずに一歩下がっている。
(なるほど。動きの止まった前衛と、待機していた後衛を入れ替えるのか)
「スイッチ!」
キリトは通常攻撃を二度当て、コボルドのHPを三割ほど削っていた。そのあとに放った一撃のソードスキルは、速度も威力も、それまでの斬撃とは明らかに違う。
少なくとも、普通のプレイヤーにとっては、ソードスキルが攻撃の中心になるらしい。
俺の場合は逆だった。通常攻撃でも、あのコボルドなら一撃で消してしまうかもしれない。ソードスキルを使えば、コボルドを抜け、その後ろにいるキリトのところまで進みかねない。
実際にキリトまで斬れるのかは知らない。確かめるために人へ剣を向けるほど、このゲームに慣れたくもなかった。
「スイッチって言ってるだろ!」
この城には百の層があり、上へ進むには迷宮区を探し、その最上部にいるボスを倒さなければならない。
俺は当初、猛烈な勢いで突っ走り、階段を見つけ、邪魔な敵を斬ればよいと考えていた。
だが、速く走れても、地図がなければ同じ角へ戻る。敵を一撃で倒せても罠は消えない。STRとAGIに数字を足したところで、HPも索敵スキルも迷宮の知識も増えなかった。
何より、俺一人が速くなったところで、すでに二千人が死んだ時間を巻き戻すことはできない。
考えている間に、キリトがコボルドの斧を躱した。空振りした敵の脇腹を、青い光をまとった直剣が斬り上げる。残っていたHPが尽き、コボルドは光の欠片となって消えていった。
「おい!」
戦闘を終えたキリトが、その勢いのまま詰め寄ってくる。
「どうした?」
「どうした、じゃない! 何回スイッチって言ったと思ってるんだ!」
「三回」
「聞こえてたのかよ!」
「一人でも勝てていただろう」
「そういう問題じゃない! お前がレベルを上げたいって言ったんだぞ!」
忘れていた記憶が、今ひらく花のような新鮮さで蘇った。
「……そうだった。すまない」
「忘れてたのか!?」
「見ているうちに、つい」
「何をだよ!」
「お前を」
キリトが一歩下がった。
「……急に気持ち悪いことを言うな」
「悪い。正確には、お前の剣を見ていた」
「それでも先にそう言え!」
俺としては、剣以外に何があるのか分からない。
「それで、見て何が分かったんだよ」
「かなり筋がいいと思う」
「上からだな」
「そう聞こえたなら悪い。昔、人に教えていた癖が残っているらしい」
「昔って、お前いくつだよ」
「十五だ」
「一つしか違わないだろ!」
前世まで含めれば、もう少し離れている。正直に説明すれば、迷宮区より病院へ行くことを勧められそうなので、言わなかった。
「現実の剣術とは違う。だが、敵と技の癖をよく見ているし、ソードスキルを使うことにも迷いがない」
「そりゃ、ゲームだからな」
「俺には、それがまだ難しい」
腰の曲刀に触れる。
剣を振るのは自分でありたいと思っていた。だが、この世界の敵は一本を取っても止まってくれない。武器の性能も、スキルの威力も、技後の硬直も、知らなければ死ぬ。
自分の剣にこだわった末に死ぬのは、剣士らしいのかもしれない。
だが、この中で死ぬのは御免こうむりたかった。
「キリトは、敵だけを見ているわけじゃないんだな」
「は?」
「この世界の仕組みまで見ている」
意外なことを言われた顔で、キリトが俺を見た。
「それ、褒めてるのか?」
「かなり褒めているつもりだ」
「顔に出ないな……」
感情が顔に出ないことは、よく言われていた。どうやら、言葉を足してもあまり変わらないらしい。
「それで、見学は終わったか?」
「ああ。当面の目標も決まった」
「レベル上げだろ」
「……それも、そうだった」
「今決めたみたいに言うな!」
呆れ果てた声が迷宮区へ響いた、その直後だった。
背後で、靴底が小石を弾く音がする。
振り返るより先に、視界の端へ赤いカーソルが滑り込んだ。先ほどの戦闘音に引き寄せられたのか、新たなコボルドが斧を振り上げ、すぐそこまで迫っている。
近い。
そう判断したときには、もう身体が動いていた。
「邪魔だ」
踏み込む必要すらなかった。
振り下ろされる斧の内側へ曲刀を滑り込ませ、金属鎧の継ぎ目から覗く脇腹を横へ撫でる。
ソードスキルの光はない。手応えも、拍子抜けするほど軽い。
それでも刃が抜けた瞬間、満タンだったコボルドのHPバーが、緑から赤まで一息に落ちた。赤を残す間もなく、そのまま消滅する。巨体が青い光となって散っていった。
「……は?」
背後から聞こえたキリトの声で、ようやく思い出した。
俺は普通の戦い方を知るために、彼の剣を見ていたのではなかったか。そして人前では目立たないようにしようと決めていたはずだ。
その「人」の目の前で、おそらく最も普通ではない倒し方をした。
(……あ)
曲刀を鞘へ戻しながら、言い訳を探す。
「いや、これは、その……新しい剣だったから、少し」
「同じ初期装備だろ!」
そうだった。つい先ほど、自分で見せた。
「……今の、ソードスキルじゃないよな?」
「ああ。普通に斬っただけだ」
「それで、あのコボルドが一撃?」
「俺も少し驚いている」
「驚く側に回るなよ!」
倒せたことではなく、考え事一つで隠すべきことを忘れた自分に驚いているのだが、そこまで説明すると余計に怒られそうだった。
これ以上は、どう説明しても六万という数字に近づいていく。かといって、出会ったばかりの相手にすべてを話す気にもなれない。
返答に困っていると、通路の向こうから鋭く短い呼気が聞こえた。
続いて、細い金属で何かを貫くような音が、一度ではなく、二度、三度と、ほとんど間を置かずに響く。
俺とキリトは、同時に通路の奥を見た。
「誰か戦ってる」
キリトが走り出し、俺もそのあとを追う。
最初の角を曲がり、次の通路を抜けると、開けた小部屋の中央で、フードを被った細身のプレイヤーが剣を振るっていた。
説明を後回しにできたことへ安堵したのは、秘密にしておく。おそらく、キリトは忘れてくれないだろうが。
武器は細剣。閃く切っ先が、敵の身体へ何度も突き込まれている。
速い。
けれど、危うい。
踏み込んだ足を戻す前に次の技を放ち、敵が消えれば休むことなく次を探す。上手くなろうとしているようには見えなかった。長く戦おうとしているようにも見えない。
ただ、一秒でも早く先へ進もうとしている。
何を急いでいるのかは分からない。ただ、あのまま続ければ、剣より先に身体のほうが動かなくなることだけは分かった。
「おい!」
キリトが声をかけても、フードのプレイヤーは振り返らない。
「聞こえてないのか?」
二度目も無視されたところで、俺はキリトの隣へ並んだ。
「キリトも無視されたな」
「お前にだけは言われたくない」
同じ無視ではない。俺は考え事をしていただけである。
そう説明しようとしたが、キリトの目が、言っても無駄だと告げていた。まだ知り合って一時間も経っていないのに、理解が早い。
最後の敵が砕け散った。
フードを被った細剣使いは、次の敵を探すように通路の奥へ顔を向ける。だが、その視線がこちらを捉えたところで、ぴたりと動きを止めた。
正確には、俺を見ていた。
フードの奥で、栗色の瞳が大きく見開かれる。細剣を握っていた腕が、力を失ったように下がった。色を失っていた唇が、何かを確かめるように僅かに震える。
「……サク君?」
聞き覚えのある声だった。だが、掠れているうえに、フードで顔もほとんど見えない。
誰だったか思い出すより先に、少女がこちらへ歩き出した。
一歩目から、足元が覚束ない。二歩目で身体が傾いたため、俺は反射的に腕を伸ばした。
そのまま少女が、胸元へ飛び込んでくる。
「――え?」
背中へ両腕が回された。
倒れるのを受け止めたつもりだったのだが、どうやら抱きつかれているらしい。なぜかは分からない。
「サク、お前……知り合いなのか?」
隣で、キリトが目を見開いていた。
「分からない」
「分からない相手に抱きつかれてるのかよ!?」
「俺が聞きたい」
腕の中の少女が、ゆっくりと顔を上げた。
深く被っていたフードがずれ、栗色の長い髪が肩から零れ落ちる。
疲労で頬は青ざめていた。その顔を縁取る髪も、長い睫毛の奥で揺れる大きな瞳も、記憶にあるものより僅かに大人びている。
それでも、見間違えるはずがなかった。何度も会ったことがある。
「本当に……サク君なのね」
その声と、目の前の顔が、ようやく一つにつながった。
「……明日奈?」