真王ガノンドロフ 作:ミスターソード
はるか昔、世界が未だ形を持たず、天と地の境すら定かではなかった頃、混沌の中へと降り立った三柱の女神は、一柱が大地を成し、一柱が世界に理を与え、残る一柱がその理に従う生命を生み出した。
世界を創り終えた女神たちは天へと去り、その跡に『力』『知恵』『勇気』を遺したという。だが女神たちが去った後も、光さえ届かぬ地の底には、いつの頃より存在したのかも分からぬ不浄なるものが潜み、再び地上を覆わんと永い時の中で怨念を募らせていた。
それは、もはや名すら忘れ去られた創世の神話。遥か後の世に生きる者はおろか、神々に近しい者ですら、その全てを知ることはない。
−−−−
大地から引き抜かれるように浮かんだハイラル城の、更に遥か上空。
かつてこの地を手に入れんと画策し、幾星霜もの封印を経て復活を果たし、されど願い叶わず、その身を漆黒の龍へと変貌させた者がいた。
一度その身を龍へと変えれば、二度と元の姿へは戻れず、永遠に自我を失ったまま空を漂い続ける運命にある。それを知りながら秘石を呑み込んだのは、そうまでしてでも討ち果たしたい者が居り、その身を捧げてでも手に入れたいものがあったからだ。
自我を失ってなお、その身の内から溢れ出る憤怒と憎悪、そして絶望が漆黒の鱗を内側から焦がしてゆく。長い髭は炎のようにたなびき、空を覆う巨体からは、血よりも赤い瘴気が絶え間なく滴り落ちていた。
だが、そのような姿も、もうすぐ終わる。侮り、見下し、蔑んでいた、漆黒の鱗にしがみ付く矮小な存在に敗れたのだ。
白き龍が、黒龍の身を縫うように空を駆ける。その背から飛び立った勇者は、風を裂きながら巨体へと迫り、今まさに我が身を滅ぼさんとする退魔の剣を、その眉間へ深々と突き立てた。
瞬間、剣より流れ込んだ膨大な力の奔流が、内側から身を焼いてゆく。
光は黒龍の全身に張り巡らされた憎悪を灼き、その身体へ走った亀裂から、夜明けのような輝きが溢れ出した。
しかしなぜだろうか、闇の力にその身を焼かれていた頃よりも、遥かに心地がよい。
死の間際、僅かにヒトであった頃の自我を取り戻した龍は、襤褸屑のように朽ち始めた身体を擡げ、誰よりも高い空へとその身を昇らせる。
思い返すのは、ヒトであった頃の記憶。このような醜態を晒してまで、自分は何が欲しかったのであろうか。砂漠に作られた、あの小さな玉座で満足していればよかったのであろうか。
違う。
自分は王の中の王であるという自負があった。この身は、あの乾いた砂漠に収まるような器ではない。誰よりも高く、誰よりも強く。大地にある全てを己が足下へ跪かせてこそ、この身に流れる血は意味を持つのだと信じていた。
乾いた風しか知らぬ民に緑の大地を、飢えを知らぬ暮らしを、誰にも侮られぬ力を与えたかった。だが、民へ与えるために欲したはずの大地を己の力を示すために求め、民を守るために欲した力で守るべき者を焼き払うようになったのは、一体いつからであったのか。
そうして亀裂の入った身を、高く、高く、空の果てまで持ち上げたとき、ようやく気が付いた。
眼下には緑溢れた大地が広がっていた。
森を撫で、川面を揺らし、草木の種を運んだ風が、傷ついた黒龍の頬を静かに撫でる。
−我が渇望したのは、眼下に広がる大地ではなかった。−
奪い、踏み躙り、屍で満たされた土地などではない。
−その地へ生命を運んでくる、この風を……我が民へ届けたかったのだ。−
それは、魔に焼かれた身に最後まで残されていたもの。王となった日に抱き、いつしか力への渇望に塗り潰されてしまった、あまりにも小さな願いであった。それを見出した瞬間、内に留め置けなくなった力が空へと溢れ出した。
ハイラルへ幾万の怨念を届けた黒龍、かつてこの地を奪わんと力に溺れた魔王『ガノンドロフ』は、自らが求め、そして手にすることのなかった風の前に、塵となって消えた。
光の中でその巨体は崩れ、黒い鱗は一片ずつ空へと解けてゆく。
白龍の背へと戻った当代の勇者は、役目を終えた剣をそっと鞘へ収めた。
その刃の奥深くで、誰にも聞き取れぬほど微かな音が鳴る。
それが剣の軋みであったのか、あるいは悠久の時を越えて蓄えられた何かが行き場を求めて零した声であったのか、勇者も白龍も知ることはない。ただ一筋の光だけが消えゆく黒龍の内から零れ、時の流れを遡るように空の彼方へと消えていった。
−−−−
ざらざらとした砂粒が、眠りの底にある城壁を撫でる。
ゲルド砂漠の只中に築かれ、その外壁の内に民の暮らす街を抱いた都市。それがゲルド族の王都であった。
この街は女たちによって営まれ、戦も、交易も、街の政も、その一切を女たちが取り仕切っている。百年に一度、一族に生まれるという男が王となり、その玉座へ腰を据えていることを除けば。
それがいつから始まった掟であるのか、正確に知る者はいない。だが、今まさに王宮の寝室で眠りの中にある男、『ガノンドロフ』が、言い伝えどおり生を受けた王であることに疑いの余地はなかった。先代族長を母として生まれ、王となるために育てられた男は、生まれながらにして大きく、幼子の頃には既に同年の子らを寄せ付けぬ膂力を見せたという。
長となるための英才教育を受けたガノンドロフは、その才を余すことなく開花させた。
ゲルド砂漠に生きる屈強な女戦士が束になっても敵わぬ武勇。一族をまとめ、他国の商人すら舌先で従わせる知性。そして、砂嵐の中でも揺らぐことのない胆力。
たとえ市井の者から生まれていたとしても、いずれは自らの手で玉座を掴み取っていたであろう。
そのような男であり、そのような王であった。故に、寝室の外を守る近衛たちは困惑していた。
普段ならば宮殿の端にまで届くほど豪胆ないびきを響かせている王が、今宵に限って苦しげに呻いている。
幾度も寝返りを打ち、何かを振り払うように太い腕を宙へ伸ばしては、聞き取れぬ言葉を繰り返していた。
近衛の一人から報告を受け、寝室を訪れた女が一人。
王家の傍流に生まれ、ガノンドロフとは母方の従妹にあたる女戦士。近衛を束ねる役目を預かるアルディである。
彼女は扉の前で一度だけ声をかけたが返事はなく、呻き声だけが分厚い扉の向こうから漏れてくる。アルディは扉を開くと足音も立てずに王へ近づき、あと一歩で寝台へ手が届こうとした瞬間、眠っていたはずのガノンドロフが跳ね起き、枕元に置かれていた曲刀を抜き放った。
重い刃が、アルディの首筋へ添えられる。
まさしく迅雷と呼ぶに相応しい動きであったが、アルディは慌てることもなく、刃の前で静かに一礼した。
「ご無礼を、王よ。随分と恐ろしい敵と戦っておられたようですな」
「……なぜそう思う」
「王を寝台から転げ落ちさせかけるほどの敵です。弱いはずがありません」
普段であれば、叩き起こされた怒りを雷鳴の如き大声に変え、近衛隊長であろうと容赦なく叱りつけたであろう。
だが今のガノンドロフにその余裕はなく、大量の汗が褐色の肌を伝い、呼吸は荒く、曲刀を握る手にも僅かな震えがあった。
アルディの首から刃を離したガノンドロフは、忙しなく周囲へ視線を巡らせた。
広い寝室、砂除けの厚い幕、壁へ掛けられた大弓、灯火の消えかかった燭台と、そのいずれもが見慣れた物ばかりである。浮かび上がったハイラル城もなければ、空を漂う白き龍もいない。
眼前にいるのは、退魔の剣を振り下ろす勇者ではない。幼い頃から幾度となく手合わせをし、己の剣筋を知り尽くしている従妹である。
ガノンドロフは一度収めた曲刀を再び抜き、刃に映る己の顔を見た。
深く刻まれていたはずの皺はない。
額にあるはずの秘石もない。
彼は曲刀を投げ出すと、両手で額を撫で、胸を掻き、肩から腕へと確かめるように触れていった。
黒い鱗はなく、龍の角も、無数の牙も、内から身体を破ろうとしていた瘴気もない。あるのは、若く、強く、何者にも屈していなかった頃の肉体だけであった。
「……ない」
「王?」
「そうか。無いのか」
ガノンドロフは深く息を吐いた。
安堵であると気づき、その事実に誰よりも本人が苛立った。
「いや、それでよい。……何でもない。アルディ、持ち場へ戻れ。俺はどうも、寝過ぎたようだ」
「空が白むまで、まだしばらくございますが」
「ならば、寝言まで逐一報告する暇な近衛どもを走らせておけ」
アルディは僅かに目を細めた。いつものガノンドロフに近い言葉ではあったが、声の奥にあるものが違う。王が何かを恐れているなど、彼女が物心ついてから一度としてなかった。
「承知いたしました」
それでも彼女は何も問わず、一礼して部屋を後にした。扉が閉じ、残されたガノンドロフは両手を強く握ると、寝台へ腰を下ろし、長い夢の中で起きたことを余さず拾い上げるために、深く、深く意識を集中した。
−−−−
夢を見ていた気がする。長い、長い夢を。
その夢の中でも自分は今と同じようにゲルドの長であったが、ある時それは、砂漠の戦士を率いる王から魔物の軍勢を従える魔王へと変わった。一体どこから、一体いつから変わってしまったのか、ガノンドロフは夢の内容を必死に辿った。
ラウルの前へ膝をついた日。王妃ソニアへ向けた凶刃。手の中へ落ちた秘石。そして全身を満たした、あまりにも甘美な力。そこまでは己が歩んだ道として鮮明に思い返せるというのに、魔王と呼ばれる姿へ変貌した後の記憶には濃い靄がかかり、憤怒、歓喜、飢え、痛みといった感情ばかりが、前後の繋がりもなく浮かんでは消えてゆく。
−そうだ。俺は秘石を呑み、龍となり、退魔の剣を持つ勇者によって討ち滅ぼされた。−
夢と呼ぶには、あまりにも鮮明であった。自らが討ち滅ぼさんとした敵の顔を覚えている。その手にかけた者の体温を、肉を断った手応えを、今も指先に残るもののように思い出せる。ハイラルの王妃を殺し、肩を並べた部下の戦士たちの忠義を踏みにじり、手を伸ばさんとしたハイラルの住民も、兵も、数え切れぬ生命も奪った。
そして、生みの親をも死なせた。
皺の刻まれた褐色の顔が、記憶の底から浮かび上がった。
刃を向けられてなお怯まず、ただ哀れむように己を見上げていた先代族長。己の腕がその胸を貫いたのか、それとも己の放った何者かが引き裂いたのか、靄に沈んだ記憶から拾い出すことはできなかったが、彼女を死へ追いやったものが己であることだけは疑いようもなかった。
ガノンドロフは己の右手を睨みつけた。
手は血に濡れていない。それでも、何度拭おうと落ちぬものが皮膚の下まで染み込んでいるように思えた。
「……夢ではない」
吐き出した言葉が、妙に乾いていた。
では、なぜここにいる。何の因果で、全てを失う以前の身体へ戻ったのかと思い起こしたのは、最後に己を貫いた退魔の剣である。
あの剣は、一度この身から溢れ出した瘴気によって朽ちた。それが何の因果か白き龍へと渡り、遥かなる時を経て勇者の元へ舞い戻った。
そして白龍の正体。秘石を呑み込むことで龍へと成る禁忌を犯した、時を司る王妃と同じ力を持つ、遥かな未来から現れた姫。
「あの白龍は、時の賢者の成れ果てか」
ならば、退魔の剣に宿っていた力は何であったのか。
悠久の時を越えて蓄えられた聖なる光か。あるいは、白龍の内に残されていた時の力か。
そのいずれかが、死の間際にあった己の記憶だけを過去へ押し戻した。そう考えれば筋は通るが、それは推測に過ぎず、あれが本当に未来であったという証すら、今の自分は持っていなかった。
ガノンドロフは顔を上げると、閉ざされた扉を睨み、声を張った。
「アルディ」
間を置かず、扉の外から返事が届いた。
「ここに」
「戻れ」
扉を開けたアルディは、まだ廊下の先へも進んでいなかった。
ガノンドロフはそれを咎めず、低い声で問う。
「東へ送った者どもから、報せは来ているか」
「先ほど。モルドラジークの誘導は滞りなく。夜明けと共に、第一陣をハイラル平原へ放てます」
その言葉を聞いた瞬間、記憶の中に朝焼けの平原が広がった。
砂海を割って進む巨大な背。
城壁の上へ立つ、白い体毛の王。
その両側に並ぶ二人の女。
空を焼いた光。
「……今日であったか」
「何か?」
「いや」
夢が未来であるのならば、夜明けと共にハイラルへの襲撃は失敗する。
ラウルは秘石の力を解き放ち、モルドラジークの群れを一撃で焼き払う。
そして、その傍らには、今の時代にいるはずのない女が立っている。
確かめるには十分であった。
「アルディ。モルドラジークを一体、砂海の縁で止めておけ。それを操る者どもも残せ」
「兵力をお減らしになるのですか」
「聞こえなかったか」
「命には従います。ですが、理由を知らぬ兵は、王が勝利を疑ったと受け取るでしょう」
ガノンドロフの目が細められる。
アルディは視線を逸らさない。
心優しき女である。それ故に、兵を意味もなく死地へ送る命令には異を唱えるが、一度理由を認めれば誰よりも忠実に剣を振るう。未来の記憶が正しければ、この女もいずれ己へ刃を向けることになるのだが、何がそこまで彼女を追い詰め、最後にどちらの刃が血に濡れたのかは、靄の向こうに沈んで思い出せない。
「此度の目的は城を落とすことではない」
ガノンドロフは寝台から立ち上がり、床に落ちた曲刀を拾った。
「ハイラル王の力を測る。全てを賭けるのは、それからでよい」
「随分と慎重になられましたな」
「不満か」
「いいえ。ようやく先代族長の小言が、その耳へ届いたのかと思いまして」
「ならば、余計な一言を吐く口も先代に似たらしい」
アルディは僅かに笑みを浮かべ、一礼した。
「御意」
−−−−
夜明けを待たず、王宮の一室には戦の支度を整えた者たちが集められた。
卓上へ広げられた地図には、砂漠からハイラル平原へ至る道と、モルドラジークを誘導する経路が刻まれている。その周囲には部隊を示す小さな駒が並べられ、つい先ほどガノンドロフが残すと決めた一体と、その制御を担う一隊の駒だけが、砂海の端へ置かれていた。
集められた老臣たちは、突然の変更へ不安を隠そうともしない。
この戦のため、長い時間を費やしてきた。
北の水路は年々細り、オアシスの水位も下がり続けている。砂漠を渡る商隊は、ハイラルが諸部族と結んだ新たな交易路へ流れ、ゲルドの街へ運ばれる穀物は目に見えて減っていた。
ラウルはハイラルの地へ国を興し、異なる部族へ手を差し伸べている。
共に豊かになろうという、聞こえのよい言葉と共に。
だが、差し出された手を取ったが最後、ゲルドはハイラルという大国の端へ組み込まれる。
そう考える者は少なくない。
ガノンドロフも、その一人であった。
いずれ膝を折らされるというのならば、その前に相手の膝を折る。水も、緑も、交易路も、力ある者が手にする。それこそが国を率いる王の務めであると考えていた。
卓の向かい側に立つ先代族長は、砂海へ残された駒を見下ろしていた。
老いたとはいえ、その背は曲がっていない。ガノンドロフより頭二つは低い身体に、若い戦士すら口を噤ませる威圧を纏っている。
「今になって怖気づいたか」
母ではなく、先代族長としての声であった。
「言葉を選べ。既に王は俺だ」
「ならば王として答えよ。兵を残す理由は何だ」
「敵の力量も知らず全てを投じるほど、俺は愚かではない」
「それを昨日まで愚かと笑っていたのは、どこの王であったか」
老臣たちの視線が、二人の間を彷徨う。
ガノンドロフは答えなかった。
記憶の中にある母は、長く続いた戦に力を奪われ、今よりも酷く疲れ果てていたが、それでも背筋を伸ばし、魔へ堕ちた息子を真正面から見据えていた。何を言われたのかも、最後に何がその胸を貫いたのかも、魔王となった後の靄に呑まれて思い出せず、ただその顔に怒りも恐怖もなく、深い悲しみだけが浮かんでいたことだけが残っている。
目の前の先代族長が、あの時と同じ目でこちらを見ていた。
その時、胸の奥で何かが蠢き、黙らせろ、その首を折り、二度と己を諫めることのないよう力の差を分からせればよいという考えが、あまりにも自然に浮かび上がった。
ガノンドロフの呼吸が止まり、地図を挟んだ向こう側にいる女へ届こうとするように、その手が己の意志よりも先に動きかけた。
「王?」
アルディの声に、意識が引き戻される。
ガノンドロフは拳を握り込み、伸びかけていた指を掌へ食い込ませた。
違和感はすぐに消え、残されたのは、自分が母の首を折ろうとした事実だけであった。
「……目的は変わらぬ」
ガノンドロフは砂海に残された駒を、指先で弾いた。
「ハイラル王の力を暴き、次の戦で確実に喉笛を噛み切る。そのための斥候だ。此度の勝敗に意味はない」
先代族長は暫く黙っていた。
やがて、息子の顔から卓上の駒へ視線を落とす。
「勝敗に意味のない戦などない。その言葉で命を投げさせられるのは、王座に座る者だけだ」
「承知している」
「ならばよい。生きて戻れ。王が見定めたものは、王の口から民へ伝えねばならぬ」
先代族長は踵を返し、老臣らを連れて部屋を後にした。
扉が閉じるまで、ガノンドロフはその背を見続けていた。
アルディだけが残り、卓上の駒を片付け始める。
「何だ」
「何も」
「ならば、その目をやめろ」
「王が先代族長の言葉へ素直に頷かれたもので。今日は西から雨が降るやもしれません」
「砂漠で溺れたくなければ、さっさと支度をしろ」
「御意」
アルディは最後の駒を拾い、今度こそ部屋を出ていった。
一人となったガノンドロフは、母へ伸ばしかけた手を見下ろした。先ほどの殺意は未来の記憶に心を乱されたためか、それともあれこそが己の本性であり、魔王となった未来は避けようのないものなのか。答えは出ず、ただ掌へ食い込んだ爪の跡から流れる血だけが、あの衝動を夢ではないと告げていた。
−−−−
東の空が白み始める。
冷え切っていた砂が光を浴び、見る間に熱を蓄えてゆく。夜と朝の境を渡る風がゲルドの旗をはためかせ、その下に並ぶ戦士たちの赤い髪を揺らした。
砂海の奥で大地が動き、一つ、二つ、三つと巨大な背が砂を割り、海を泳ぐ魚のように砂丘の間を進んでいた。モルドラジークの群れである。
ガノンドロフは高い岩山の縁に立ち、眼下の軍勢を見下ろしていた。
風の匂いも、旗の靡く向きも、遠くから伝わる大地の震えも、記憶にある景色と寸分違わない。
違うのは、後方へ残した制御隊と、砂海の縁で動きを止めている一体のモルドラジークだけであった。
アルディが隣へ並ぶ。
「いつでも」
ガノンドロフは返事をせず、東を見据えた。
砂漠を越えた先には、広大な緑がある。
川が流れ、樹木が茂り、獣が草を食む大地。乾きに喘ぐこともなく、子どもが泥水を啜ることもなく、明日の糧を得るため命を賭して砂海を渡る必要もない国。
あの地が欲しい。ラウルを引きずり下ろし、その全てを己のものにしたいという熱が胸の内に灯り、それが民のためであるのか己のためであるのか、もはや区別する必要などないと何かが囁いた気がした。
だが、声が聞こえたわけではない。
それは紛れもなく、自分自身の考えであった。
「始めろ」
振り下ろされた手と共に、角笛が鳴り響く。
砂海が爆ぜた。
モルドラジークの群れが地上へ躍り出し、土煙を巻き上げながらハイラルへ向けて進撃を始める。高台に残ったゲルドの戦士たちは、砂上へ打ち鳴らす特殊な振動とガノンドロフの魔力によって群れの進路を制御し、その中でただ一隊だけが、王の命に従って一体のモルドラジークを砂海の縁へ留め続けた。
それが未来を確かめるために刻まれた、未だ誰も意味を知らぬ最初の違いであった。
−−−−
ハイラルの城壁が見える。
平原を埋め尽くすモルドラジークの群れを前に、城を守る兵たちが慌ただしく動いていた。
やがて高い壁の上へ、三つの人影が現れる。
一人は白い体毛に覆われた長身の男、ハイラル王ラウル。その隣には王妃ソニアがおり、更にもう一人、長い金の髪を風に揺らし、見慣れぬ衣を纏った若い女が立っている。
ガノンドロフは目を見開いた。
知っている。悠久の空を彷徨い、退魔の剣をその身に抱き続けた白き龍。己を討ち滅ぼした勇者が最後まで救おうとしていた、未来から来たハイラルの姫。
夢の中でしか知り得ない者が、今、現実として眼前に立っている。
白龍へ成る前の澄んだ瞳が、遠く離れた岩山の上にいるガノンドロフへ向けられた。
その目に警戒が浮かぶ。
彼女はまだ、自分がやがて龍となり、その背へ勇者を乗せ、黒龍となった己と戦うことを知らない。だがガノンドロフは知っており、夢であるはずの記憶にしか存在しない女が眼前にいるという、その事実こそが答えであった。
未来は、確かに存在した。
城壁の上でラウルが片腕を掲げる。その身に帯びた秘石が輝き、白い光が掌へと集まってゆく。
未来の記憶と、寸分違わない。
太陽すら霞ませる閃光が、平原へ放たれた。
光は大地を奔り、迫り来るモルドラジークを正面から呑み込む。巨大な身体が一瞬にして焼き払われ、巻き上がった砂塵すら白い奔流の中へ消えていった。
音が遅れて届く。
大地が震え、岩山が軋み、戦士たちが腕で顔を覆った。
ガノンドロフは動かなかった。
「なるほど……あれが秘石の力……」
かつての自分が口にしたものと、同じ言葉が零れる。
だが、今の彼が見ているものは、秘石の破壊力だけではなかった。
ラウルの光が平原を満たした瞬間、胸の奥に潜んでいた何かが身を捩った。
痛い、熱い、逃げろと、言葉ともつかぬ形を持たない絶叫が、全身を内側から引き裂いてゆく。
ガノンドロフは胸を押さえた。
魔力を練ったわけでも、傷を負ったわけでもない。それでも、心臓の奥へ白く焼けた刃を差し込まれたような痛みが走った。
やがて光が遠ざかると、痛みと共に何かが消えた。ハイラルを奪えと叫んでいた渇きも、ラウルを引きずり下ろせと騒いでいた怒りも、王妃とあの金髪の女を見たときに理由もなく湧き上がった殺意も、その全てがほんの一瞬だけ、嘘のように静まり返った。
後に残ったのは、敗北した軍勢と、己の命令を待つ民の姿。そして、彼らを率いる王としての思考だけであった。
生まれて初めて、自分の頭の中に自分一人しかいないような、奇妙な静けさであった。
「王!」
アルディの声が響く。
ガノンドロフは我に返り、背後を振り向いた。
後方へ残した制御隊と、進撃を止められた一体のモルドラジークがいる。未来の記憶では群れの全てが光に呑まれ、跡形もなく消えていたはずだというのに、その一体だけは今も砂海の縁で身を捩っている。
何を意味する変化なのか知る者は他にいない。だが、未来は確かに変わった。
与えられた結末をなぞるほかない龍とは違う。この手で一つ駒を動かせば、その分だけ盤上の形は変わり、敗北も、母へ刃を向けた未来も、自我を失い醜い龍へ成り果てた末路も、勇者の剣に貫かれて何一つ手にできぬまま消えた結末も変えられる。
全て、変えられる。
「追撃なさいますか」
アルディが問う。
高台の戦士たちは動揺しながらも、王が命じればモルドラジークを再び前へ進めるつもりでいた。記憶の中の自分ならば怒りのまま彼女らへ追撃を命じ、あるいは敗北を認められず、自ら城壁へ向かっていたかもしれない。
胸の奥へ、消えていた熱が少しずつ戻り始める。ラウルを殺し、秘石を奪い、あの力を手にすれば何者にも敗れないという考えが、光に怯えて身を隠していたものが再び鎌首を擡げるように湧き上がった。
その考えが自分のものなのか、先ほど光を恐れた何かのものなのか、ガノンドロフには分からない。
故にこそ、確かめる必要があった。
「退け」
「よろしいのですか」
「同じことを二度言わせるな。全隊を砂海まで下げ、残ったモルドラジークも連れ帰れ」
「承知いたしました」
アルディはすぐさま角笛を掲げ、撤退の合図を鳴らした。
戦士たちが動き始め、敗北したというのに、失われるはずであった一体が砂を割って戻ってくる。その光景を前に、ガノンドロフの口元が僅かに吊り上がった。
やがて笑いは喉の奥から溢れ、朝の平原へ低く響いた。
アルディが振り返る。
「敗れたことが、それほど愉快ですか」
「敗れたのではない」
ガノンドロフは、ラウルの立つ城壁を見据えた。
その傍らには未来から来たゼルダがおり、時を越える力も、力を増幅させる秘石も、己の内に潜む何かを灼いた光も、答えは全てあの城にある。
「欲しいものが、どこにあるか分かっただけだ」
−−−−
ゲルドの軍勢は砂漠へ退き、ハイラルの兵は勝利に沸いてラウル王の力を讃えた。城壁の上からそれを見下ろす王の傍らで、金髪の姫だけが遠ざかる赤い旗を見つめ続けていた。
その日、ゲルド王ガノンドロフは敗れたが、同時に、滅びへ至るはずであった歴史には初めて小さな亀裂が入った。それを知る者は未だ一人しかいない。
砂海へ戻る道中、ガノンドロフはアルディを呼び寄せた。
「使者を選べ」
「どちらへ」
「ハイラルだ」
アルディの眉が動く。
「次の戦を告げるには、少々早いのでは」
「戦を告げるのではない。終わりを告げる」
「まさか、和睦を?」
ガノンドロフは答えず、馬上から遥か遠くに霞むハイラルの城を振り返った。
王が他の王へ膝をつくなど、屈辱であり、敗北であり、本来ならば死よりも耐え難いことであったが、一度の屈辱で未来そのものが手に入るというのならば安い。かつては秘石を奪うために膝をついた。今度はあの光の正体を暴き、未来より現れた姫を見極め、己の身に何が起きているのかを知り、それら全てを利用して今度こそ王の中の王となるために膝をつく。
「彼の王へ伝えよ」
ガノンドロフは口元へ笑みを浮かべた。
それは未来で浮かべたものと、何一つ変わらぬ笑みであった。
されど、その内に抱いたものだけは、既に同じではない。
「ゲルド王ガノンドロフが、その御前にて膝を折るとな」