真王ガノンドロフ   作:ミスターソード

2 / 2
2 砂に残るもの

 

 厄災が滅び、百年もの間ハイラルを覆っていた脅威が去ったからといって、失われたものまで元へ戻るわけではない。

 

 崩れた家は積み直さねばならず、魔物に奪われた街道は人の手で拓かねばならず、荒れ果てた畑へ種を蒔いたところで、実りを得られるのは幾月も先のことである。救われた大地に暮らす人々は、昨日まで生き延びるために振るっていた槌を、今度は明日を築くために振るい始めた。

 

 ハイラルの各地を巡っていたゼルダ姫が、ゲルド砂漠を訪れたのも、そのような復興の只中にある頃であった。

 

−−−−

 

 朝の砂漠には、夜の冷たさが僅かに残っている。

 

 陽が砂丘の向こうから顔を出せば瞬く間に焼けるような熱へ呑み込まれてしまう、その短い時間を惜しむように、ゲルドの街では日が昇るよりも早く女たちが働き始めていた。

 

 街の北を通る水路では砂を掻き出す音が続き、東門の外では新しい交易所の骨組みが組み上げられ、荷を積んだスナザラシが商人の声に急かされながら砂の上を滑ってゆく。厄災そのものがゲルドの街を焼いたわけではないが、百年にわたって魔物が街道を塞ぎ、近年は神獣ヴァ・ナボリスまでもが砂漠を彷徨ったことで、街の外に築かれていた物の多くは失われていた。

 

 何より深刻なのは、水であった。

 

 ゲルド高地に降った雨や雪は、細い流れとなって谷を下り、幾つもの古い水路を通って街へ届く。それらの一部が崩落し、砂に埋まり、残された水路へ無理をさせてきたため、今はまだ街の者が暮らすだけなら足りていても、この先、戻ってくる商人や増えてゆく旅人へ分け与えられるほどの余裕はない。

 

 水がなければ畑は広げられず、染物も、宿も、料理屋も、以前のようには営めない。

 

 だが水路を直すためには石材が要り、木材が要り、それらを砂漠まで運ぶための人手と荷車が要る。ゲルドには宝石と腕のよい戦士がいるが、森もなければ、余るほどの水もない。

 

 族長の寝室に置かれた机の上には、その全てが数字となって積み上げられていた。

 

 「……どう考えても足りぬな」

 

 ルージュは一枚の書付を置き、隣に積まれた別の書付へ手を伸ばした。

 

 そこに記されているものも、先ほどまで眺めていたものと大して変わらない。水路を直せば外壁の補修が遅れ、外壁を優先すれば隊商の護衛へ回す戦士が足りず、戦士を増やせば備蓄の食糧が減る。

 

 一つを救えば、別の何かが砂へ沈む。

 

 幼くして族長となった頃は、玉座へ座れば答えも自然と見えるものだと思っていた。だが実際に座ってみれば、玉座とは正しい答えを教えてくれる場所ではなく、どれを選んでも誰かが不満を抱く問いに、最後の答えを出す者が座らされる場所であった。

 

 ルージュは大きく息を吐き、額へ手を当てた。

 

 「族長、姿勢を」

 

 机の傍らに立っていたビューラが、間を置かずに言う。

 

 「ここは謁見の間ではないぞ」

 

 「誰も見ていないときに崩れる姿勢は、誰かが見ているときにも崩れます」

 

 「おぬしは見ているではないか」

 

 「ですから申し上げております」

 

 幼い頃から何度となく交わしてきたやり取りであり、今更言い返したところで勝てぬことも分かっている。ルージュは渋々背筋を伸ばし、再び数字へ目を落とした。

 

 「北の水路だけでも、先に直すべきだと思うか?」

 

 「今後の交易を考えれば必要でしょう」

 

 「必要であることは分かっておる。聞いているのは、他を止めてでも直すべきかということだ」

 

 「それを決めるのが族長です」

 

 「分かっておるわ」

 

 答えをくれぬ側近へ恨めしげな目を向けたが、ビューラは太い腕を組んだまま表情一つ変えない。先代である母が亡くなってから、彼女はルージュを守り、支え、誤りを犯せば誰よりも厳しく叱ってきた。ルージュにとっては姉にも近く、時には母の代わりですらあったが、政に関わる最後の決断だけは、決して代わりに行おうとはしなかった。

 

 やがて扉の外から近衛の声が届いた。

 

 「族長、ハイラル王家のゼルダ姫がお着きになりました」

 

 ルージュは顔を上げる。

 

 予定していた刻限よりも早い。砂漠の日差しが強くなる前に進んだのであろうと考えながら、机の上へ広げた書付を纏め、立ち上がる。

 

 「通せ。……ゼルダ姫だけなのか?」

 

 扉の向こうの近衛が、僅かに返事を遅らせた。

 

 「姫のお供は、街の外でお待ちです」

 

 「そうか。リンクは来ているのだな」

 

 その名が、自分でも思っていたより早く口から出た。

 

 ルージュは何事もなかったように椅子を離れたが、視線だけが一度、窓の向こうにある東門へ向かう。厚い街壁に遮られ、ここから門外の様子など見えるはずもない。

 

 背後で、ビューラが小さく息を吐いた。

 

 「何だ」

 

 「何も申し上げておりません」

 

 「ならば、その顔をやめよ」

 

 「生まれつきです」

 

 振り返ったところで、やはりビューラの顔には何の変化もない。ルージュは追及を諦めると、知らず触れていた髪飾りから手を離し、ハイラルの姫を迎えるため、族長の顔を作った。

 

−−−−

 

 謁見の間へ現れたゼルダは、王家の姫という言葉から想像するような華美な衣ではなく、長い旅に耐えられる簡素な服を纏っていた。供として連れているのも僅かな護衛と、地図や測量具を抱えた数人だけであり、百年前の王家を知る者が見れば眉を顰めたかもしれないが、今のハイラルで飾りに使う布や金があるのならば、破れた天幕と農具へ回すべきだと考えるのがゼルダであった。

 

 互いに挨拶を交わした後、ルージュは彼女を玉座の前に設けた卓へ招いた。

 

 広げられた地図には、ゲルド高地から街へ続く水の流れと、崩落が確認された箇所が記されている。ゼルダは一通り説明を聞くと、身を屈めて地図を覗き込み、幾つかの場所を指先で辿った。

 

 「ハイラル平原の南で、使われていない石材を集めています。街道の魔物を退けることができれば、荷車でここまで運べると思います」

 

 「随分と簡単に言うな。ハイラルとて、城下町の跡すら片付いておらぬであろう」

 

 「はい。ですから、全てをこちらへ回すことはできません」

 

 ゼルダは言い難いことを誤魔化さなかった。

 

 百年前の王家であれば、大国としての面目を保つため、出来もしない約束をしていたかもしれない。あるいは助けを求める側へ、王への服従や税を条件として突きつけていたかもしれないが、目の前の姫は自国の乏しさを隠さず、その上で差し出せるものだけを卓へ載せている。

 

 「石材に加えて、アッカレから技師を数人。木材はリトの村と相談しなければなりませんが、運搬路の整備にはこちらからも護衛と人手を出せます。ただし、準備だけでも幾月かは必要でしょう」

 

 「返礼は何を望む」

 

 「返礼、ですか?」

 

 「まさか、全て無償で差し出すつもりではあるまい」

 

 ルージュの声が僅かに硬くなった。

 

 助けが必要であることは認めている。ハイラル王家へ恩があることも、ゼルダとリンクを信頼していないわけでもない。だが一度、国の命を支える水を他国の施しによって得れば、その次も、そのまた次も手を差し出すことになる。

 

 ゲルドは砂漠に生きる民であり、乏しいものを奪い合うのではなく、乏しいままでも生きられる強さを誇りとしてきた。

 

 ハイラルが豊かさを取り戻したとき、今日の助けを理由に何かを求めぬと、どうして言い切れる。

 

 それはゼルダ個人への疑いではない。百年後、二百年後に、同じ心を持つ者が王家を継ぐとは限らぬという、国を預かる者としての疑いであった。

 

 ゼルダはルージュの顔を見つめ、暫く考えた後、静かに頷いた。

 

 「では、ゲルド砂漠を通る交易路の安全を、お願いできますか」

 

 「それだけか?」

 

 「街道を通れる商人が増えれば、ハイラルにも物が戻ります。ゲルドの宝石や織物を買う者も増えるでしょう。それに、砂漠の魔物を退けることは、ハイラルから出せる護衛だけでは難しい」

 

 援助ではなく、互いに持つものを差し出す取引。

 

 悪い話ではない。それでもルージュは即座に頷かず、地図へ目を落とした。条件を受け入れれば北の水路は直るが、復興の途上にあるハイラルへ負担を負わせ、ゲルドの戦士にも長く街道を守らせることになる。

 

 一度決めれば、民へ理由を説明せねばならない。

 

 そこへ、慌ただしい足音が近づいてきた。

 

 扉の前で止めようとする近衛の声と、それでも何事かを伝えようとする女の声が重なる。ビューラが眉を寄せ、扉へ向かおうとしたところで、ルージュは片手を上げた。

 

 「構わぬ。入れ」

 

 許しを得て入ってきたのは、水路の修復を取り仕切っている戦士であった。砂に汚れた手を胸へ当て、息を整える暇も惜しむように一礼する。

 

 「申し上げます。北の水路を塞いでいた岩を取り除いたところ、その下から古い空洞が見つかりました」

 

 「空洞?」

 

 「石で組まれた部屋のようです。中に文字の刻まれた石板があるのですが、今の文字とは形が異なり、我らには読めません」

 

 ルージュとゼルダは顔を見合わせた。

 

 復興のため大地を掘り返せば、時折、百年前よりも遥かに古い時代の遺物が姿を現すことがある。ゼルダが各地を巡っている理由の一つも、そのような遺構を記録し、散逸する前に保護するためであった。

 

 「水路へ影響は?」

 

 「空洞の上を古い水路が通っていたようで、壁の一部が崩れています。このまま掘り進めてよいものか、判断を仰ぎたく」

 

 ルージュは卓上の地図を畳んだ。

 

 「案内せよ。ここで数字を睨んでいても、水は流れてこぬ」

 

 「私も同行してよろしいでしょうか」

 

 問うゼルダの目には、先ほどまで復興について語っていたときとは異なる光が宿っている。未知の遺構を前にして、止めたところで大人しく待っているような姫ではないことを、ルージュもよく知っていた。

 

 「無論だ。ただし、崩れかけた場所へ勝手に入るでないぞ」

 

 「はい」

 

 あまりにも素直な返事へ、ルージュは疑わしげな目を向けた。

 

 「ビューラ、見張っておれ」

 

 「族長も含めて、でしょうか」

 

 「……好きにせよ」

 

−−−−

 

 北の水路は、街を囲む壁の内側を走っている。

 

 高地から引かれた水は石造りの溝を通り、街の建物の間を巡って、最後には地下の貯水槽へ集められる。問題の空洞は、その水路が街へ入る直前、長い年月を経て押し寄せた砂が石壁の半ばまで覆っている場所で見つかっていた。

 

 作業をしていた女たちが退けられ、縄と木材で崩れかけた入口が支えられている。

 

 ルージュたちは灯りを手に、慎重に中へ入った。

 

 空洞は人の手で築かれた小さな部屋であった。壁には今のゲルドが用いるものとは異なる文様が刻まれ、床には割れた壺と、原形を失った木箱の跡が残されている。長く水路の下にあったためか、砂漠の遺構にしては空気が湿っており、天井から落ちた雫が床の砂へ黒い点を作っていた。

 

 奥の壁には、五枚の石板が並べられている。

 

 いずれも背丈の半分ほどの大きさで、その表面を埋める文字は、ルージュが王家に伝わる古文書で見たものよりも古い。ところどころ欠け、石灰に覆われていたが、中央に彫られたゲルドの紋章だけは、遥かな時を経ても形を留めていた。

 

 「これは……随分と古いものです」

 

 ゼルダが石板へ顔を近づける。

 

 「触れるなと言うたのは、おぬしであろう」

 

 「触れてはいません」

 

 「今にも額が触れそうだ」

 

 「文字を見ているだけです」

 

 後ろに立つビューラが咳払いをすると、二人は揃って石板から半歩離れた。

 

 遅れて呼ばれた記録係の老女が、灯りを受け取り、一文字ずつ指で追ってゆく。彼女は王家に残された系譜や古い交易の記録を守る者であったが、それでも読むのは容易ではないらしく、何度も首を傾げ、薄い木板へ文字を書き写しては、別の形へ置き換えていった。

 

 「水路について書かれているのか?」

 

 ルージュが問うと、老女は暫く石板を見つめたまま答えなかった。

 

 やがて、信じ難いものを見たように顔を上げる。

 

 「いいえ。これは……戦の記録にございます」

 

 「なぜ、そのようなものが水路の下にある」

 

 「この部屋が築かれた頃は、ここが王宮の一部であったのかもしれません。街は幾度も砂に埋まり、その上へ新しい街が築かれております故」

 

 老女は最も左にある石板へ灯りを寄せ、途切れた文字を繋ぐように、ゆっくりと読み上げた。

 

 「ハイラルに国を興した異形の王、ラウル……その者の力を見定めるため、我らが王は砂海の主たるモルドラジークを率い、東の平原へ兵を進めた……」

 

 ゼルダが息を呑む音が、狭い部屋へ響く。

 

 ハイラル初代国王ラウル。

 

 その名は王家に僅かな記録が残されているだけで、どのような時代に生き、何を成した王であるのか、今では殆ど分かっていない。ハイラル城の地下深くに、彼の時代のものと考えられる遺構があることまでは、近年の調査で明らかになっていたが、そこへ至る道は長く厄災の影響で塞がれ、未だ十分な調査は行われていなかった。

 

 老女の指が、次の行へ移る。

 

 「我らが王……ガノンドロフは……」

 

 そこで、読む声が止まった。

 

 部屋にいる者たちの視線が、一斉に老女へ集まる。

 

 聞き違えるはずのない名であった。

 

 百年前、ハイラル城から溢れ出し、大地を滅ぼしかけた厄災ガノン。その名とあまりにもよく似ている。

 

 ルージュは石板へ近づき、灯りの下に浮かぶ文字を見た。古い形ではあるが、確かにそれは、ゲルドの言葉で男の名を表している。

 

 「続けよ」

 

 老女は頷き、再び文字を辿った。

 

 「ガノンドロフは、群れの内より一頭を選び、その御し手と共に砂海へ残した。勝利を疑ったのではない。王にしか見えぬものを確かめるためであった……残る群れはラウル王の光によって滅びたが、我らが戦士は高地より一部始終を見届け、一人として敵地へ足を踏み入れず……王は追撃を命じることなく、残した一頭と全軍を率いて帰還した……」

 

 遥かな過去、ハイラルの平原で行われた戦が、時を越えて石の上に残されている。

 

 だが、そこに刻まれた王の胸の内までは、誰にも知ることができない。

 

 「奇妙だな」

 

 ルージュが呟く。

 

 「何がですか?」

 

 ゼルダの問いへ、石板から目を離さぬまま答えた。

 

 「この書き方では、まるで王を讃えているようではないか。ハイラルへ戦を仕掛け、モルドラジークを失った王であろう」

 

 「書いた者にとっては、そうではなかったのでしょう。戦に勝てなかったことと、王への信頼は、必ずしも同じではありません」

 

 「敗れた王を信じられるものか?」

 

 問うた言葉は、思いのほか鋭くなった。

 

 ルージュは幼い頃から、敗れてはならぬと言われて育った。族長の迷いは民を迷わせ、族長の弱さは街を危険に晒す。母から玉座を受け継いだ幼い娘へ向けられる目の中には、敬意だけでなく、哀れみや不安が混じっていることも知っていた。

 

 だからこそ、強くあろうとした。

 

 雷鳴の兜を失ったことも、ヴァ・ナボリスを止められなかったことも、リンクの助けを借りなければ何一つ成せなかったことも、今でこそ受け入れているが、当時は民の前へ立つたび、自分が族長に相応しくないと告げられているようであった。

 

 ゼルダはすぐには答えず、古い文字を見つめていた。

 

 「敗れた後、何をしたかによるのだと思います」

 

 「その後?」

 

 「はい。勝つことだけが王の務めであるならば、この記録は敗北で終わっていたはずです。けれど、石板はまだ四枚も残っています」

 

 ルージュは隣の石板へ目を向けた。

 

 老女が表面の石灰を傷つけぬよう払い、続きを読み解いてゆく。

 

 「帰還した王は、全ての戦士と民を王宮の前へ集めた……我らは勝たなかったと告げ、異形の王が持つ光と、未だ敵わぬ力を、自らの口で余さず伝えた……」

 

 更に幾つかの欠けた行を飛ばし、老女は、深く刻まれた一節を読んだ。

 

 「勝敗に意味のない戦などない。王が見定めたものは、王の口から民へ伝えねばならぬ……」

 

 「先ほどの王の言葉か?」

 

 「そのように記されているようです」

 

 「その七日後、王は僅かな供を連れ、ハイラルへ向かった……」

 

 老女の声が続く。

 

 「我らは屈服を恐れ、再びの戦を望む者もいた。されど王は、己が見たものを己の目で確かめ終えるまで、剣を抜くなと命じた……王が異形の王の御前で何を語り、何を得て戻るのか、その時の我らは未だ知らなかった……」

 

 そこで一枚目の記録は終わっていた。

 

 次の石板にはハイラルとの交わりが始まったことが記されているようであったが、中央から大きく割れ、肝心の部分は床へ崩れ落ちている。三枚目以降は水路の建造と、幾度かの補修についての記録へ変わっており、初めの戦からどれほど後に築かれたのかは分からないものの、この場所が王家の記録を収める部屋から、水を守るための基礎へ作り替えられたことだけは読み取れた。

 

 「最後に、記した者の名があります」

 

 老女が一枚目の最下部へ灯りを寄せた。

 

 欠けた紋章の傍らに、本文より小さな文字が刻まれている。

 

 「王家の傍流に生まれ、王の傍らにて近衛を束ねし者……アルディ」

 

 ルージュは、その名を胸の中で繰り返した。

 

 聞き覚えはない。王家に残された系譜の多くは、長い年月と幾度もの戦で失われ、今のルージュへ確かに繋がる者ですら、十代を遡れば名の分からぬ者が珍しくなかった。

 

 それでも、石板の隅へ刻まれた王家の傍流を示す紋様は、今ルージュが身に着けている飾りと、僅かに形が似ていた。

 

 かつて一人の女が、自らの王が何を見て、何を選び、どのように敗北から立ち上がったのかを、後の民へ残そうとした。

 

 その血が今も自分へ流れているのか、確かめることはできない。

 

 だが、彼女が残した言葉は、今ここに届いた。

 

 ルージュは入口の向こうへ目を向けた。掘り返された水路の先では、朝より高く昇った陽が砂を焼いている。街のために働く者たちは、族長がどの答えを持ち帰るのかを待っている。

 

 勝てぬ相手へ膝を折ることが、必ずしも屈服であるとは限らない。

 

 誰かの力を借りることが、己の弱さを認めることだけを意味するのでもない。

 

 大切なのは、差し出された手を取った後に何を成し、その結果を誰へ返すかである。

 

 「ゼルダ姫」

 

 ルージュは振り返った。

 

 「先ほどの話、受けよう。ただし、ハイラルから施しを受けたとは言わせぬ」

 

 ゼルダが真っ直ぐにその目を見返す。

 

 「もちろんです」

 

 「石材と技師を借りる代わりに、ゲルドは砂漠を通る道を守る。それだけではない。水路が直り、以前のように染物を作れるようになれば、最初の荷はハイラルへ送ろう。代価は正しく受け取るがな」

 

 「ええ。正しい値で買わせていただきます」

 

 ゼルダの顔へ笑みが浮かぶ。

 

 ルージュも僅かに口元を緩めたが、すぐに老女と作業を率いる戦士へ向き直った。

 

 「石板を傷つけぬよう、部屋を補強せよ。水路はこの上を通さず、僅かに東へ曲げる。余計に石が要るだろうが、この記録を再び砂へ埋めるよりはよい」

 

 「承知いたしました」

 

 「それから、今日の夕刻、民を集める。水路とハイラルとの取り決めについて、わらわ自身の口から伝えよう」

 

 命を受けた女たちが動き始める。

 

 その傍らで、ビューラだけが石板とルージュを交互に見ていた。

 

 「何だ」

 

 「良きご決断かと」

 

 「珍しく素直ではないか」

 

 「族長が決断された後にまで、逆らう理由はございません」

 

 「決める前には、何一つ答えぬくせに」

 

 「それを決めるのが族長ですので」

 

 同じ言葉を返され、ルージュは小さく鼻を鳴らした。

 

−−−−

 

 遺構を出る頃には、陽は既に砂漠の高みへ昇っていた。

 

 街の石畳は焼け、日陰を選んで歩いても、足元から熱が這い上がってくる。ルージュは水路の作業を再開させ、ゼルダと共に王宮へ戻ろうとしたところで、東門の外から聞き慣れぬ音が響いてくることに気づいた。

 

 重い物が砂へ落ちる音と、大勢の女たちが何かを囃し立てる声である。

 

 「何を騒いでおる」

 

 近くにいた衛兵へ問うと、女は困ったように笑った。

 

 「姫のお供の方が、交易所の柱を運んでおりまして」

 

 「リンクが?」

 

 「はい。街の中へ入れぬのならば、外でできることをすると。初めは皆も止めたのですが、気づけば三人がかりで運ぶ柱を一人で担いでおりましたので……どこまで運べるか、賭けが始まりました」

 

 「止めぬか」

 

 「柱を運ぶことをでしょうか、賭けをでしょうか」

 

 「両方だ」

 

 そう言いながら、ルージュの足は既に東門へ向いていた。

 

 ゼルダが隣へ並ぶ。

 

 「リンクなら、大丈夫だと思います」

 

 「そういう問題ではない。客人を働かせ、周りで賭けをする街だと思われるであろう」

 

 「本人は、待っているより働く方が好きですから」

 

 「おぬしも止めなかったのか」

 

 「止めて聞く人ならば、もう少し苦労は少なかったのですが」

 

 深く疲れたようなゼルダの声に、ルージュは返す言葉を失った。

 

 東門を抜けた先では、新しい交易所を建てるための柱が砂上へ並べられていた。その内の一本を肩へ担いだリンクが、指示された穴まで運んでいる。古びた英傑の服は汗と砂に汚れ、腰には退魔の剣ではなく、作業に使っていたらしい鉄の槌が下げられていた。

 

 周囲を囲むゲルドの女たちが声を上げ、その度にリンクは妙な期待を背負わされたような顔をしながら、それでも柱を下ろさず歩いてゆく。

 

 やがて決められた場所へ柱を立てると、歓声が上がった。

 

 リンクは息を整えながら顔を上げ、門の前に立つルージュを見つけた。

 

 砂に汚れた手を、いつものように軽く上げる。

 

 それだけであった。

 

 神獣へ共に挑んだときも、雷鳴の兜を取り戻したときも、百年の厄災を討ち果たした後ですら、彼は己の成したことを誇ろうとはしなかった。まるで少し長い旅から戻っただけのような顔で現れ、こちらがどれほど言葉を尽くしても、静かに笑うだけである。

 

 ルージュは胸の奥へ浮かんだ安堵が顔へ出るより早く、族長らしく腕を組んだ。

 

 「随分と遅い到着ではないか、リンク」

 

 リンクが、街の入口に立つ衛兵を指す。

 

 「分かっておる。街の掟を破れと言っているのではない。せめて使いの一人くらい寄越せたであろう」

 

 今度はゼルダを指した。

 

 「姫を使いにする者があるか」

 

 返事の代わりに、リンクは僅かに肩を竦めた。

 

 近くで見ていた女たちから笑いが漏れ、ルージュは自分の頬が砂漠の暑さとは別の理由で熱を持ったような気がして、咳払いと共に顔を背けた。

 

 「族長、姿勢を」

 

 背後から、ビューラの声が飛んでくる。

 

 「崩しておらぬ!」

 

 思わず振り返って声を上げた後、ルージュは彼女の口元がほんの僅かに緩んでいることに気づいたが、問い詰めたところで生まれつきだと言い張るに違いない。

 

 ゼルダがリンクの傍へ行き、遺構で見つけたものを話し始める。

 

 初代国王ラウルの名があったこと。古代のゲルドに、ガノンドロフという男の王がいたこと。その王がハイラルへ攻め入り、敗れた後、自らラウル王のもとへ向かったこと。

 

 リンクは黙って耳を傾け、ガノンドロフの名を聞いたときだけ僅かに眉を寄せたが、それ以上の反応はなく、初めて聞いた古い名を記憶へ留めるように、石板の眠る北の水路へ目を向けた。

 

 「残りの石板も、全て読み解いてみたいと思います」

 

 話し終えたゼルダが言う。

 

 「ハイラル城の地下にある遺構と、同じ時代のものかもしれません。ラウル王について記したものが他にも残っているなら、王国がどのように始まり、厄災がどこから生まれたのかを知る手掛かりになるでしょう」

 

 「地下へ入るつもりか?」

 

 「すぐにではありません。まだ崩落した場所も多く、調査の支度も整っていませんから。ですが、いつか必ず」

 

 ゼルダは遠く北東にあるハイラル城の方角を見た。

 

 砂丘と岩山に遮られ、ここから城を見ることはできない。それでも彼女の目は、遥かな地の底へ続く道を既に捉えているようであった。

 

 ルージュは、先ほどまでリンクが運んでいた柱へ手を置いた。

 

 「ならば、それまでにこちらの記録はわらわたちが読み解いておこう。ただし、持ち出すことは許さぬぞ」

 

 「もちろんです。必要であれば、私がまたこちらへ来ます」

 

 「おぬし一人でか?」

 

 「いいえ。調査となれば護衛も必要です。次も二人で参ります」

 

 ゼルダは旅程を確かめるように傍らのリンクへ顔を向け、リンクが頷くのを見ると、それで話は決まったものとして地図を持つ者へ何事かを指示し始めた。ルージュは小さく「そうか」とだけ返し、なぜか落ち着かなくなった胸の内を誤魔化すように咳払いをした。

 

 「今日はここで食事をしてゆけ。街の中へ入れぬ者がいるのならば、門外へ席を設ければよい」

 

 リンクが目を輝かせた。

 

 そのあまりにも分かりやすい反応に、胸の内にあったものが急に馬鹿らしくなり、ルージュは堪えきれず笑った。

 

−−−−

 

 夕刻、ゲルドの民は王宮の前へ集められた。

 

 ルージュは玉座へ座ったまま書付を読ませることなく、自ら立ち上がり、北の水路で何が見つかったのか、ハイラルから何を借り、代わりにゲルドが何を差し出すのかを、一つずつ己の言葉で伝えた。

 

 全ての者が賛成したわけではない。

 

 ハイラルへ借りを作ることを嫌う者もいれば、街道を守るため戦士を出すことへ不安を口にする者もおり、復興を急ぐあまり古い石板のために水路を曲げる必要があるのかと問う者もいた。

 

 ルージュは、その一つ一つへ答えた。

 

 決めたから従えと命じるのは容易い。だが王が見定めたものを民へ伝えることが務めであるのならば、耳触りのよいことだけでなく、失うものも、背負うものも隠してはならない。

 

 話が終わる頃には陽が傾き、赤く染まった光が街の壁を照らしていた。

 

 民がそれぞれの家へ戻り、ルージュは再び北の水路を訪れた。

 

 崩れた場所へ仮の溝が作られ、高地から届いた細い水が、掘り返された石の間を流れている。まだ街全体を潤すには程遠く、明日になれば別の場所が詰まるかもしれないほど頼りない流れであったが、それでも砂へ吸い込まれることなく、確かに街の中へ進んでいた。

 

 東門の外には食事の席が設けられ、働きを終えた女たちの声が聞こえてくる。

 

 その中にはゼルダとリンクもいる。

 

 ルージュは少しだけ足を止めたが、先に水路の様子を確かめることを選んだ。別に急いで会う必要などない。二人は今宵ここへ留まり、食事は逃げず、リンクもまた、明日の朝まで街の外にいる。

 

 そう自分へ言い聞かせる必要がなぜあるのかまでは、考えなかった。

 

 水路へ手を浸す。

 

 冷たい水が、昼の熱を残した指を流れてゆく。

 

 遥かな昔、この同じ砂漠に一人の男の王が生まれ、豊かなハイラルを求めて戦を起こした。彼が欲したものが水であったのか、緑であったのか、それともただ他者を従わせる力であったのか、石板から読み取ることはできない。

 

 記録に残るのは、行いだけである。

 

 王は一体を残した。

 

 敗北を認め、民へ伝えた。

 

 そして七日後、敵であった王のもとへ向かった。

 

 それが正しい選択であったのかは、残る石板を読み解くまで分からない。あるいは全てを読んだところで、人の胸の奥までは知ることができないだろう。

 

 それでもルージュは、その名を忘れぬよう、もう一度だけ口にした。

 

 「ガノンドロフ……」

 

 水路を抜けた風が、赤い髪を揺らす。

 

 砂漠の夜を運んでくる風は乾いていたが、掘り返された水の上を渡った僅かな冷気を含み、街の奥へ、門の外へ、そして誰も見ることのできぬ遥かな過去へ向かうように吹き抜けていった。

 

 砂に埋もれていた王の名を、その行く先へ運ぶように。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。