真王ガノンドロフ   作:ミスターソード

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3 膝を折る

 

 戦へ赴いた王を迎えるとき、民が最初に見るものは、掲げられた旗でも、引き連れた捕虜でも、敵から奪った財宝でもない。

 

 王の顔である。

 

 その目が勝利を語っているのか、敗北を隠そうとしているのか、それとも失った者たちの数すら忘れているのか、砂漠に生きるゲルドの民は、言葉よりも先に王の顔を見る。

 

 故に、ゲルド王ガノンドロフが一体のモルドラジークと全ての戦士を連れて帰還したとき、街の門へ集まった者たちは歓声を上げるべきか、それとも沈黙を以て迎えるべきかを決められず、赤い旗が外壁の内へ入ってからも、ただ馬上の王を見上げ続けていた。

 

−−−−

 

 陽は既に高く、砂に蓄えられた熱が街の石壁を焼いていた。

 

 軍勢の先頭を進むガノンドロフの鎧には、敵の血も、己の血も付いていない。彼に続く戦士たちにも傷を負った者は殆どおらず、砂海の縁で待機させていたモルドラジークも、腹を空かせて荒々しく身を捩ってはいるものの、その巨体に傷らしい傷はなかった。

 

 それだけを見れば勝利であった。

 

 だが、出陣したときには砂を埋め尽くしていた群れが、一体しか戻っていない。

 

 何より、ガノンドロフの顔に勝者の笑みはなかった。

 

 街の中央へ至るまで、彼は誰の問いにも答えず、王宮の前で馬を止めると、出迎えた老臣へ民を集めるよう命じた。

 

 「王よ、まずはお身体を休められては」

 

 「休むほどの戦をしておらぬ」

 

 「では、評議の間へ。此度のことを知る者は限られております。民へ何を伝えるかは、我らで言葉を整えた後でも遅くはございますまい」

 

 敗北という言葉を使うなという意味である。

 

 モルドラジークの群れは敵の光に滅ぼされたのではなく、ハイラル王の力を測るという役目を果たした。兵が一人も失われなかったことこそ勝利であり、ゲルドが退いたのも、初めから定められていた策の内であった。

 

 そのように語れば、全てが偽りというわけではない。

 

 王が敗れたと知れば、民は不安を抱き、周辺の部族や商人はゲルドを侮る。砂漠で弱さを見せることは、傷口から血を流しながら獣の前へ立つことと変わらない。老臣が国を守るために言葉を選ぼうとしていることを、ガノンドロフも理解していた。

 

 「必要ない」

 

 それでも彼は、老臣の脇を通り過ぎた。

 

 王宮前の広場へ民が集められ、戦士たちがその前へ列を作る。出陣した者の姿を探す家族、失われたモルドラジークの数を数える者、王の言葉を待つ商人や職人の間を、低い囁きが風のように走っていた。

 

 ガノンドロフは王宮へ続く階段を上り、誰よりも高い場所へ立った。

 

 その傍らにはアルディがおり、少し離れた場所には先代族長がいる。老いた女は息子へ何を言うでもなく、腕を組み、集まった民と同じように王の顔を見ていた。

 

 広場が静まり返る。

 

 「我らは勝たなかった」

 

 ガノンドロフの声が、石壁に囲まれた街へ響いた。

 

 誤魔化しも、飾りもない言葉であった。

 

 民の間に動揺が広がり、老臣の一人が何かを言おうと前へ出たが、先代族長に睨まれて足を止める。

 

 「モルドラジークの群れは、ハイラル王ラウルの放った光により滅ぼされた。奴は己が身に着けた石で力を増し、平原を埋める巨体を一撃で焼き払った。今の我らが同じ戦を幾度繰り返そうと、結果は変わらぬ」

 

 誰かが息を呑む。

 

 ガノンドロフの言葉を疑う者はいない。彼が敵の力を過大に語り、己の敗北へ言い訳を重ねるような男ではないことを、民は知っていた。

 

 列の中から、一人の戦士が声を上げた。

 

 「ならば次は王御自らお出になるのですか。あの光とて、撃つ前に首を落とせば――」

 

 「ならぬ」

 

 声を荒らげたわけではない。

 

 されど、戦士は口を閉ざした。

 

 「力の正体も知らず、届くかも分からぬ首を求め、民の命を砂へ撒くことを勇猛とは呼ばぬ。残した一体と、それを御した者どもは、次に奴と相対するための力だ。今日の怒りを満たすために失うものではない」

 

 それは昨日までのガノンドロフならば、決して口にしなかった言葉であった。

 

 勝利のためならば犠牲を厭わず、倒れた者の屍を踏み越え、その先で敵の首を掲げればよい。王が誰よりも強くあれば、民は自ずとその背へ続くのだと信じていた。

 

 今も、その考えを捨てたわけではない。

 

 だが、従う者のいない王が、最後には空を彷徨う獣へ成り果てることを知った。

 

 ガノンドロフは民の顔を見渡した。

 

 未来の記憶に残る者もいれば、見覚えのない者もいる。魔王となった後の靄に覆われ、誰を、いつ、どのように失ったのかまでは思い出せないが、この街に立つ多くの者が、いずれ己のために命を落としたことだけは分かる。

 

 母も、アルディも、その中にいた。

 

 胸の奥で、彼女らが弱かったから死んだのだという考えが浮かび、同時に、そのような者は再び切り捨てればよいという熱が全身へ広がった。

 

 ガノンドロフは石段の縁へ置いた手へ力を込めた。

 

 固い石に指が食い込み、細い亀裂が走る。

 

 あれは己の考えである。

 

 民を弱者として蔑み、役に立たぬ者を捨てたいと願う心が、自分の中に全くなかったとは言わない。だが、それだけではない何かが、その僅かな考えへ薪を投じ、他の全てを焼き尽くそうとしている。

 

 ラウルの光を浴びた瞬間だけ、その炎は消えた。

 

 「勝敗に意味のない戦などない」

 

 広場の端に立つ先代族長が、僅かに眉を動かした。

 

 「王が見定めたものは、王の口から民へ伝えねばならぬ。故に俺は今、見たものを伝えた」

 

 借りた言葉であることを、ガノンドロフは隠そうともしない。先代族長も指摘せず、ただ一度、満足したように目を閉じた。

 

 「七日後、俺はハイラルへ赴く」

 

 今度こそ、広場全体が大きくざわめいた。

 

 「ラウル王の御前で、ハイラルへの臣従を誓う」

 

 怒声が上がった。

 

 戦士の何人かが信じられぬものを見る目で王を見上げ、老臣たちは揃って顔色を変える。ゲルドの民にとって、砂漠の外にいる王へ膝を折ることは、敗北を認める以上の屈辱である。たとえ飢え、乾き、滅びようとも、他者の足下で生き長らえるくらいならば砂へ骨を埋める。それが、長くこの地で命を繋いできた者たちの誇りであった。

 

 「静まれ」

 

 ガノンドロフの声が、全てを押し潰した。

 

 「頭を下げることと、首を差し出すことは同じではない。奴の力が我らより上にあるというのならば、その懐へ入り、何を以て我らを退けたのかをこの目で見定める。俺が戻るまで、誰一人ハイラルへ剣を向けるな」

 

 「王は、必ずお戻りになるのですか」

 

 民の中から、幼い声が上がった。

 

 母親に手を引かれた少女が、自分へ集まる視線にも気づかず、王を見上げている。

 

 ガノンドロフは暫く答えなかった。

 

 未来では、この街へ戻ったのだろうか。

 

 秘石を奪い、魔王となり、魔物の軍勢を率いた後、ゲルドの玉座へ再び座った記憶はない。乾いた風と、崩れた石壁と、己へ向けられた刃の断片だけが浮かび、どこまでがこの街であったのかも分からない。

 

 「戻る」

 

 短く告げる。

 

 「この俺が、他者の城を墓に選ぶと思うか」

 

 少女の顔から不安が消え、広場の何処かで笑いが漏れた。それはすぐに周囲へ広がり、張り詰めていた空気が僅かに緩む。

 

 先代族長だけが、笑わなかった。

 

−−−−

 

 その夜、王宮の屋上へ吹く風は、生温く砂を含んでいた。

 

 ガノンドロフは外壁の向こうに広がる闇を見下ろし、右手の中へ魔力を集めていた。黒と赤の入り混じった光が指の間で脈打ち、やがて獣の牙にも似た形を作ったところで握り潰す。

 

 力は、以前より増している。

 

 未来の記憶が戻ったためか、それとも、かつて魔王となった身の残滓が魂へ絡み付いているのかは分からない。怒りを抱けば抱くほど魔力は膨れ、ほんの僅かに手を伸ばすだけで、城壁の一つくらいならば容易く崩せるという確信があった。

 

 それを心地よいと思う自分もいる。

 

 「眠れぬのですか」

 

 背後から声をかけたのは、アルディであった。

 

 彼女は武器を持っていない。だが寝間着でもなく、いつでも戦へ出られる軽装を纏い、腰には短い曲刀を下げている。

 

 「近衛隊長が持ち場を離れてよいのか」

 

 「王が寝室におられぬため、持ち場の方からこちらへ参りました」

 

 「口の減らぬ女だ」

 

 アルディはガノンドロフの傍らへ立ち、暗い砂漠を見渡した。

 

 街の外では、残されたモルドラジークが時折砂を揺らしている。その度に、見張りの焚火が小さく動いた。

 

 「あの一体を残していなければ、今日戻ったのは我らだけでした」

 

 「だから何だ」

 

 「礼を申し上げようかと」

 

 「必要ない。あれを残したのは、お前たちを救うためではない」

 

 「存じております。王は勝利を疑わず、ただ敵の力を測るために残されたのでしょう」

 

 その言葉に皮肉はなく、アルディは本心からそう考えているようであった。

 

 未来を確かめるためであったと話したところで、信じるはずもない。たとえ信じたとしても、自分がいずれ彼女らを死へ追いやる魔王となったことまで語るつもりはなかった。

 

 「七日後、お前も来い」

 

 「ハイラルへ?」

 

 「近衛を率いる者が王の傍を離れるつもりか」

 

 「お連れになるのは、誰より従順な者だと思っておりました」

 

 「言われたことしかできぬ者を、敵の城へ連れてゆくほど愚かではない」

 

 ガノンドロフは横目でアルディを見た。

 

 「俺が俺らしからぬ命を出したときは、従う前に疑え」

 

 アルディの目が細められる。

 

 「今朝から、王らしからぬ命ばかりを聞いておりますが」

 

 「ならば、どれが俺のものか見極めろ」

 

 「随分と難しい役目をお与えになりますな」

 

 「不満か」

 

 「いいえ。王の命へ遠慮なく異を唱えられるのであれば、近衛隊長としてこれほど愉快な務めもありません」

 

 「調子に乗るな」

 

 アルディは一礼し、屋上を後にする。

 

 その背を見送りながら、ガノンドロフは先ほど己が口にした言葉を反芻した。

 

 俺らしからぬ命。

 

 どこまでが己であり、どこからが胸の奥で膨れ上がる何かの望みであるのか、それを最も分かっていないのはガノンドロフ自身であった。

 

−−−−

 

 それから七日の間、ガノンドロフは再び兵を動かすことなく、ハイラルへ送る使者と書状を整え、残されたモルドラジークの状態を自ら確かめ、夜になれば未来の記憶を辿った。

 

 ラウルへ膝を折ったこと。

 

 王妃ソニアを殺し、その秘石を奪ったこと。

 

 魔王となったこと。

 

 そこから先は、いくら思い出そうとしても濃い靄に阻まれる。

 

 時折、巨大な腕が胸へ触れた感触と、身体を内側から縛り上げる光が浮かぶ。ラウルの顔が眼前にあったような気もするが、それが秘石を奪った直後なのか、戦の只中なのか、それとも封印された瞬間であったのか、記憶の前後は混ざり合い、掴もうとするほど形を失った。

 

 だが、ソニアを殺した瞬間だけは、鮮明であった。

 

 背後から打ち込んだ一撃。

 

 崩れ落ちる身体。

 

 手の中へ転がり込んだ秘石。

 

 そして、その向こうで彼女を抱き止めた金髪の姫の顔。

 

 未来から来たゼルダは、今もラウルの城にいる。

 

 彼女は自分の末路を知っているのか。何を見て、この時代へ現れたのか。白龍となる運命が変わったのならば、なぜ変わる前と同じように、あの城壁の上へ立っていたのか。

 

 考えても答えは出ない。

 

 故に、直接確かめるほかなかった。

 

 約束した七日が過ぎた朝、ガノンドロフはアルディと四人の近衛だけを連れ、ゲルドの街を発った。

 

 見送りに出た先代族長は、別れの言葉を口にしなかった。

 

 ただ、馬へ乗ろうとする息子を呼び止め、その顔を暫く見上げた。

 

 「何だ」

 

 「戻ると言ったな」

 

 「ああ」

 

 「ならば戻れ。何を得ようと、何を失おうと、その顔を民へ見せよ」

 

 ガノンドロフは答えず、馬へ跨がった。

 

 先代族長も返事を求めなかった。

 

−−−−

 

 砂漠を抜けると、風の匂いが変わった。

 

 乾いた岩場の間へ低い草が現れ、東へ進むほど緑は濃くなり、やがて馬の蹄が踏む土にも湿り気が混じり始める。川沿いには名も知らぬ花が咲き、木陰では獣が身を休め、遠くの畑では人々が水を惜しむことなく地面へ撒いていた。

 

 ゲルドの民が一日をかけて得る水を、ここでは土へ流している。

 

 奪え。

 

 胸の奥に熱が灯る。

 

 この地を手に入れれば、民は飢えず、乾かず、砂嵐に怯えることもない。川の流れを変え、森を切り拓き、その全てを砂漠へ運べばよい。拒む者は力で従わせ、ラウルを殺し、己が唯一の王となればよい。

 

 それは紛れもなく、ガノンドロフ自身が幾度も抱いた望みであった。

 

 されど、その望みを追い続けた果てに、自分が何を得たのかも知っている。

 

 黒龍の頬を撫でた風が、記憶の底から蘇った。

 

 ガノンドロフは手綱を強く握る。

 

 「王」

 

 アルディが馬を寄せた。

 

 「何だ」

 

 「先ほどから、あの畑を随分と恐ろしい目で見ておられます。作物が枯れますぞ」

 

 「ハイラルの畑が俺の目で枯れるならば、戦などせずに済んだものを」

 

 「では、睨むだけ無駄ですな」

 

 アルディはそう言って前へ戻る。

 

 ガノンドロフの口元へ僅かな笑みが浮かび、胸を満たしていた熱がほんの少しだけ遠のいた。

 

−−−−

 

 ハイラルの城門は、ゲルドの使者を拒まなかった。

 

 つい七日前にモルドラジークの群れを差し向けた者たちであるというのに、武器を預けることと、城内では案内に従うことを求められただけで、ガノンドロフたちは王の待つ広間へ通された。

 

 高い天井から光が差し込み、白い石で作られた床を照らしている。

 

 広間の奥にはハイラル王ラウルが立ち、その隣には王妃ソニア、少し後ろには未来から来たゼルダが控えていた。

 

 ガノンドロフの視線が、三人の身に着けた秘石を捉える。

 

 ラウルの光を増幅させた石。

 

 ソニアから奪い、己を魔王へ変えた石。

 

 そして、ゼルダと共に悠久の時を越え、退魔の剣へ力を与えた石。

 

 欲しい。

 

 あれさえあれば、全てを踏み越えられる。

 

 胸の内から湧き上がった渇望は、七日前よりも遥かに強く、ガノンドロフの足を止めかけた。今この場で床を蹴り、最も近いソニアの首を折り、その身体から秘石を奪えと、己の魔力が血の中で暴れ始める。

 

 未来で一度成したことならば、再び成せぬはずがない。

 

 ソニアが、静かな目でこちらを見ていた。

 

 その顔に、未来の最期が重なる。

 

 ガノンドロフは歯を食い縛り、湧き上がる魔力を全身で押さえ込むと、ラウルの前まで進んだ。

 

 そうして片膝を床へつき、頭を垂れる。

 

 王として生まれてから、他者へ膝を折ったことは一度としてない。

 

 未来では秘石を奪うために行った、偽りの臣従。

 

 今も偽りであることに変わりはなかった。

 

 「我らゲルド族は、ハイラル王国に従うことを誓います」

 

 広間へ低い声が響く。

 

 胸の奥にあるものは、忠義ではない。

 

 ラウルの光を暴き、秘石の力を知り、未来から来た姫を見定め、いずれこの男を越えるために、ガノンドロフは膝を折った。

 

 だが、それだけではない。

 

 七日前に得た静けさを、もう一度確かめたいと望んでいる。

 

 その事実だけが、何者にも屈したことのない王の誇りを、床へ擦り付ける膝よりも深く傷つけていた。

 

 「ガノンドロフよ。面を上げよ」

 

 ラウルの声が降りてくる。

 

 顔を上げたガノンドロフと、金色の瞳が正面からぶつかった。

 

 七日前、城壁の上からモルドラジークを焼き払ったときとは違い、その顔に敵意はない。かといって、差し出された臣従を信じて喜ぶほど愚かな目でもなかった。

 

 ラウルは全てを見透かした上で、笑みを浮かべている。

 

 「君たちを、ハイラルの友として迎えよう」

 

 「寛大なお言葉、痛み入ります」

 

 口から出る言葉とは裏腹に、胸の奥では再び殺意が膨れ上がっていた。

 

 ラウルを殺せ。

 

 ソニアを殺せ。

 

 ゼルダを殺せ。

 

 特に二人の女へ向けた憎悪は異様なほど強く、その血に触れることそのものが許せぬという、理由のない怒りが視界を赤く染めてゆく。

 

 ガノンドロフは表情を崩さぬまま、爪が掌へ食い込むほど拳を握った。

 

 その僅かな動きを、ラウルの目が捉える。

 

 「長旅で疲れただろう。部屋を用意させている。供の者たちと、今日は身体を休めるといい」

 

 「御心遣い、感謝いたします」

 

 ガノンドロフは立ち上がった。

 

 一礼し、踵を返そうとしたところで、ゼルダへ視線を向ける。

 

 「そちらの方は、初めてお目にかかりますな」

 

 ゼルダの肩が僅かに強張った。

 

 「ゼルダだ。遠い地より我らを頼って来た、大切な客人でね」

 

 ラウルが答える。

 

 「ゼルダ……」

 

 ガノンドロフは、既に幾度も口にした名を、今初めて知ったもののように繰り返した。

 

 「よい名ですな」

 

 微笑みを残し、今度こそ広間を後にする。

 

 重い扉が閉じる寸前まで、ゼルダの警戒に満ちた目は、ガノンドロフの背へ向けられていた。

 

−−−−

 

 「ラウル様、あの者を信用してはなりません」

 

 扉が閉じると同時に、ゼルダが口を開いた。

 

 ソニアも笑みを消し、夫の隣から扉を見つめている。

 

 「もちろん分かっている」

 

 ラウルは答えた。

 

 「ならば、なぜ城の中へ」

 

 「遠ざければ、何を企んでいるのか分からなくなる。だからこそ、我が目の届くところに置いておきたい」

 

 それは、かつてと同じ選択であった。

 

 ただ一つ違うのは、ラウルが思い返していたものが、ガノンドロフの笑みでも、握り込まれた拳でもなく、面を上げた直後、彼の目へほんの僅かに浮かんだ疲労であったこと。

 

 それは長旅によるものとも、敗北の屈辱によるものとも違うように見えたが、何があの男を蝕んでいるのかまでは、ラウルにも分からなかった。

 

−−−−

 

 ガノンドロフに用意された部屋は、客人を迎えるに相応しい広さと調度を備えていたが、窓には外から目立たぬ細工が施され、廊下には一定の間隔で兵が立っていた。

 

 歓迎という名の監視である。

 

 窓枠へ仕込まれた細工を調べていたアルディは、外から覗くために僅かに削られた溝へ指を這わせ、随分と信用されているようだと声に薄い皮肉を滲ませたが、ガノンドロフに腹を立てる様子はなく、己がラウルの立場であったなら、目の届かぬ場所へ放り出すよりも、同じように上等な部屋と見張りを与えただろうと、窓の外へ連なる城壁を眺めたまま言った。

 

 「それで、膝を折った御気分は」

 

 「もう一度聞けば、その膝を折る」

 

 脅しの言葉を受けたアルディは、ようやくいつもの王へ戻ったと安堵したように僅かばかり口元を緩め、窓辺を離れたものの、その目は未だガノンドロフの顔から外れなかった。敵の城へ入ったというのに、見取り図を奪えとも、秘石の置き場所を探れとも命じず、謁見の間で彼の視線を捉えた姫君についてさえ何一つ問おうとしない沈黙は、戦の前ほど多くを語らぬこの王を長く傍らで見てきたアルディにとっても、見過ごすには不自然なものであった。

 

 ガノンドロフの目が鋭くなる。

 

 「なぜ、あの女を挙げる」

 

 「王は、あの方を初めて見る目で見ておられませんでした」

 

 「くだらぬ勘繰りだ」

 

 アルディはそういうことにしておくとばかりに一礼し、それ以上追及する代わりに、武器を預けて空となった腰へ手をやると、今宵は王が姫君の部屋へ忍び込まぬよう見張りを増やしておく必要がありそうだと言い残して扉へ向かった。背後から落とされた低い声が、次の一歩を踏み出せば窓の外へ放り投げると告げていたが、振り返った彼女は窓枠の向こうを一瞥し、ここは二階であり、砂漠の王宮よりは落ちても安全であろうと涼しい顔で見積もっただけで、その歩みを止めることはなかった。

 

 扉を開いたアルディの前に、ハイラルの兵が一人立っていた。

 

 王からの呼び出しを告げに来たのだという。

 

−−−−

 

 案内されたのは謁見の間ではなく、城の奥にある小さな中庭であった。夜の訪れた庭には白い花が咲き、細い水路を流れる水が月明かりを映しており、砂漠であれば多くの者が一日を生きるために使う量の水が、ここでは花を育てるためだけに絶え間なく流されている。

 

 ラウルは護衛も連れず、その水路の傍らに背を向けて立っていたが、無防備に見える姿を前にして、今すぐ襲いかかれば首を取れると考えるほどガノンドロフは愚かではなく、庭へ通じる回廊には兵の姿がなくとも幾つかの柱の陰から人の気配があり、たとえ誰一人控えていなかったとしても、モルドラジークの群れを一撃で焼き払った男を相手に、武器を預けた身で勝利できるという確証はなかった。

 

 何よりラウルの長い耳は、ガノンドロフが庭へ踏み込んだ瞬間に僅かに動いている。

 

 「供の者は一緒ではないのか」

 

 「話をするだけならば必要ない。罠であるならば、供が増えたところで同じことだ」

 

 臣下らしい口調を捨てたガノンドロフへ、ラウルは怒るでもなく振り返り、謁見の間で浮かべていた王としての笑みを消すと、先ほどよりも今の方が君らしいと告げた。その目は臣従を信じて喜ぶ者のものではなく、敵と知りながら同じ卓へ座らせ、その手がどこへ伸びるのかを見定めようとする者の目であった。

 

 俺を知ったような口を利くなとガノンドロフの目が告げても、ラウルはその敵意を正面から受け止めたまま、知らないからこそここへ呼んだのだと静かに返し、二人の間を流れる水へ一度だけ視線を落とした。臣従という言葉が空より軽いことを互いに承知している以上、今更その真偽を問う必要などなく、彼が知ろうとしているのは、その偽りを携えてまで敵の城へ足を踏み入れた王が、何を求めているのかという一点だけであった。

 

 「臣従を誓うためだ」

 

 「それを信じてほしいのならば、謁見の間だけで十分だった。あの場にはソニアも、ゼルダも、臣下たちもいた。君は私へ従うと告げ、私は君をハイラルの友として迎えた。それで二つの国は、少なくとも明日から互いへ剣を向けずに済む」

 

 ラウルが偽りと知りながら臣従を受け入れたのは、ガノンドロフを侮っているからでも、自らの力へ溺れているからでもなく、広間で交わされた言葉を両国の民へ示し、次の戦が始まるまでの時間を僅かにでも引き延ばすためであったらしい。王の言葉が真実であるかよりも、その言葉によって守られる時間を選ぶという考えを、ガノンドロフは弱さと切り捨てることができなかった。

 

 たった一度兵を挙げれば崩れるような平和に何の価値があるとガノンドロフは鼻で笑ったが、ラウルは、砂上に置かれた仮初めのものであろうと、何もないより一日長く民を生かすのであれば、それを無価値とは呼ばぬらしい。まして、その一日を得るために難しいことをする必要さえなく、砂漠の王が見事に膝を折ってくれたのだからと、からかうように僅かばかり目を細めた。

 

 「次に俺が膝を折るのは、貴様の首を拾うときだ」

 

 その言葉を聞いたラウルは怯むどころか、ガノンドロフが本当に従順な臣下となったのであれば、自分には人を見る目がなかったことになると肩を竦め、細い水路を跨いで彼の前へ立った。二人とも並のハイリア人を遥かに上回る巨躯を持ち、ラウルの角を含めれば僅かに高いが、肩幅と纏う威圧はガノンドロフの方が勝っており、月下で向かい合う姿は、一つの土地に立つことを許されぬ二頭の獣にも見えた。

 

 「君は私に従いに来たのではない。私の力を見に来たのだろう」

 

 それが分かっていながら城へ入れたのかとガノンドロフが問えば、ラウルは、君も自分が見抜いていると承知の上で来たはずだと返す。互いの視線がぶつかったまま暫く言葉は途切れ、姿を隠した兵の気配も、水路を流れる水音も、その沈黙へ割って入ることができず、剣も、弓も、軍勢もない庭の中で、二人の王は言葉より先に相手の内へ刃を差し込もうとしていた。

 

 やがてラウルが口にしたのは、臣従でも、先の襲撃への咎でもなく、なぜモルドラジークを一体だけ残したのかという問いであった。全てを賭ける価値がある敵か見定めるためだとガノンドロフが明かしても、その横顔には納得した色が浮かばず、獣だけを進ませ、その後ろに控えていたゲルドの戦士を一人も平原へ下ろさなかったことまで見ていたらしい長い耳が、答えの続きを促すように僅かに動いた。

 

 「奴らへ命じたのは、獣を御し、貴様の力を見届けることだけだ。役目も与えず死なせる兵など、俺の軍には要らぬ」

 

 その言葉を聞いたラウルの目が僅かに細められたが、そこに浮かんだものが、兵を無為に死なせぬ判断への感心であるのか、命を役目によって量る王への警戒であるのかを読ませるより先に、ガノンドロフは、価値があるのはラウル自身ではなく、その身に余る光と、力を増す石だけだと言い切った。

 

 ラウルは反論せず、己の右手にある秘石へ目を落とした。月光を受けても石そのものは冷たく沈黙しており、その内にモルドラジークの群れを焼き払うほどの光が収められているようには見えない。ガノンドロフの視線が追っているのは石なのか、それとも石によって増幅された光なのかと、今度は言葉ではなく、秘石へ触れた指先とこちらを窺う目とで問いかけていた。

 

 「見せろ」

 

 ガノンドロフの要求を受けても、ラウルはすぐには動かなかった。光を見せれば、その性質を知られ、次に戦う際の手掛かりを与えることになる。それを理解できぬ王ではない以上、ここへガノンドロフを招いた時点で、初めから何かを試すつもりであったことは明らかであり、暫しの沈黙の後、ラウルはようやく頷いた。

 

 「君が私の光を見るというのならば、私は、君がその光をどのように見るのか確かめさせてもらう」

 

 ガノンドロフが好きにしろと顎を上げると、ラウルはその目から一瞬たりとも視線を外さぬまま、右腕を胸の前まで持ち上げた。秘石が淡く輝き始め、その掌の上へ、平原を焼き払ったときのような太陽にも勝る閃光ではなく、夜の庭を僅かに照らすほどの小さな光が浮かび上がった。

 

 胸の奥に潜むものは、その小さな輝きへも激しく反応した。

 

 皮膚の下へ灼けた針を無数に差し込まれたような痛みが走り、心臓を掴まれ、全身から魔力を引き剥がされる。形を持たぬ衝動が逃げろと叫び、その場から退こうとする脚へ力を込めながらも、ガノンドロフは声を漏らさず、光から目を逸らすこともなかった。

 

 やがて痛みが遠のくと、胸の内を満たしていた憎悪も、ラウルを殺せと訴えていた怒りも、秘石を奪えと渇いていた欲望も、潮が引くように消えてゆき、後に残ったのは、白い花を揺らす夜風と、水路を流れる音と、光を掲げて自分を見ている一人の王だけであった。

 

 「……静かだ」

 

 知らず零れた言葉にラウルの目が僅かに細められ、ガノンドロフはすぐに表情を戻したものの、一瞬だけ肩から力が抜け、握り締められていた拳が開いたことまで隠すことはできなかった。

 

 何か言ったかと問うラウルへ、ガノンドロフは期待外れだと言ったのだと吐き捨て、光に焼かれた痛みも、その後に訪れた安堵も、纏めて不快さの奥へ押し隠した。ラウルは、その程度の光にしては随分と眩しく見えたようだと返しただけで、それ以上追及しようとはせず、開かれたままのガノンドロフの手と、先ほどまで殺意に濁っていた目の間へ一度だけ視線を往復させた。

 

 何が起きたのかを理解した目ではない。予想していた反応とは異なるものを見つけ、その形を忘れぬよう記憶へ留めようとする目であった。

 

 掌の光が消えると、遠ざかっていた熱が胸の底から戻り始める。ガノンドロフは己の胸へ手を当てたい衝動を堪えながら、あの光が魔力を奪ったのでも、疲労を癒やしたのでもなく、自分の中に確かにあるはずの何かだけを焼き、その間だけ思考を自分一人のものへ戻していたことを、今度こそ疑いようのない事実として受け入れた。

 

 あの光を欲するのならば、ラウルを殺してはならない。

 

 秘石は、持ち主が元より備えている力を増幅するだけのもの。未来でソニアの石を奪った自分が時を操ることなく、己の闇と魔力だけを膨れ上がらせたことをガノンドロフは覚えており、ラウルの秘石を手にしたところでその身に光が宿るわけではなく、自らを蝕むものの正体を知るまでは、この男と、その力の双方を手元へ残さねばならなかった。

 

 それにもかかわらず、ラウルを殺して石を奪えという考えが、光の消えた場所を埋めるように再び湧き上がる。己の力を増せば、内に潜むものさえ捻じ伏せられる。光に縋らずとも、全てを屈服させる力があればよいという、あまりにも心地よい結論が、つい先ほどまで光を求めていたはずの心を、いつの間にか別の渇望へ塗り替えていた。

 

 そのすり替わりへ気づいたガノンドロフが、自分の口元へ浮かびかけた笑みを消したとき、ラウルは、明日もここへ来るとよいと告げた。

 

 「君は私を見定めるために来たと言った。たった一度、光を見ただけで、一人の王を測り終えたつもりなのかな」

 

 ラウルが明日も話をしようとするのは、和睦を信じているからでも、ガノンドロフを説き伏せられると考えているからでもない。城へ置いた敵を見張り、言葉を交わし、何を望んでいるのかを知ることもまた、国を守る王の戦いであり、ガノンドロフがラウルの力を測るのと同じように、ラウルもまた、目の前の王を測ろうとしているのだろう。

 

 「俺の内を探るつもりか」

 

 ラウルは否定も肯定もせず、互いに同じことをするのであれば拒む理由はないとでもいうように、ガノンドロフの探る目を受け入れた。どれほど言葉を交わそうと従うことはないと念を押されても、その顔から余裕は失われず、先ほど謁見の間で見た従順な姿だけでも十分であったと穏やかに笑うと、返事を急かすことなく、再び水路の方へ身体を向けた。

 

 細い流れの上を夜風が渡り、二人の間で白い花が揺れている。その無防備な背へ一撃を放てば、今ここでラウルを殺し、城内が動き出すより早くソニアのもとへ向かい、秘石を奪って未来と同じ力を手にすることもできるかもしれないという考えと共に、ガノンドロフの右手へ黒い魔力が集まりかけた。

 

 だが、未来と同じ力を手にすれば、その先に何が待つのかも既に知っている。

 

 開かれた掌に残る静けさの感触が、黒い光を霧散させた。

 

 「ラウル。明日も同じ刻だ。俺を待たせるな」

 

 呼び止められた王は振り返り、まるで臣下から命じられたことを楽しむように、承知したと頷いた。

 

 ガノンドロフは鼻を鳴らして庭を後にする。その日、ゲルド王ガノンドロフはハイラル王の御前で初めて膝を折ったが、部屋へ戻る長い廊下を歩きながら彼が考えていたのは、秘石を奪うために誰を殺すべきかではなく、明日、あの男から何を聞き出すべきかということであった。

 

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