真王ガノンドロフ 作:ミスターソード
国が滅びた後、最初に取り戻されるものは城でも、王の玉座でもない。
道である。
人が歩き、荷を運び、離れた土地から水と食料を届けるための道がなければ、どれほど堅牢な城壁を積み上げたところで、その内に住む者は飢え、病み、やがて自ら門を開けて外へ去ってゆく。
百年に及ぶ厄災が討ち果たされ、ハイラルの大地から怨嗟に満ちた咆哮が消えた後、人々が始めたのもまた、崩れた王城を元の姿へ戻すことでも、朽ちた王家の旗を掲げ直すことでもなく、落ちた橋へ板を渡し、草に埋もれた轍を掘り起こし、魔物に奪われていた道を一つずつ人の手へ取り戻すことであった。
だが、道というものは、誰かが一度作れば永遠に残るものではない。
雨に削られ、風に埋もれ、通る者が絶えれば名すら失われる。
それでも大地の下には、そこを歩いた者たちの跡が残る。
たとえ、その者の名が歴史から削り取られたとしても。
−−−−
ゲルドキャニオンの東端では、朝から石を打つ音が鳴り続けていた。
切り立った岩壁の間を抜け、中央ハイラルとゲルド地方を結ぶ道は、厄災の脅威が去った今も安全とは言い難く、百年の間に崩れた岩や、街道を我が物としていた魔物の残した物を取り除いただけでは、荷馬車が並んで通れるほどの幅を確保できず、復興を担う者たちは、傾いた地面へ新たな石を敷き、谷へ落ちかけた路肩を木材で支えながら、砂漠へ続く道を少しずつ西へ延ばしていた。
その工事が、三日前から止まっている。
街道の土台を固めるため地面を掘り下げたところ、現在使われている道よりも遥かに古い石組みが姿を現し、石工たちが確かめた限りでは、それは自然に積み重なった岩でも、百年前に壊された建物の残骸でもなく、人の手によって寸分違わぬ高さへ揃えられた、もう一つの道であった。
工事を預かる男は、それが古い時代の街道であることを認めた上で、明日の朝には上から砕き、現在の道の土台として埋めるつもりでいた。
過去の道を残すために、今を生きる者が通る道を止めるわけにはいかない。
その判断を責める者は、作業に加わる者たちの中にはいなかった。
ただ一人、日の出よりも早く野営地へ到着し、掘り返された穴の縁へ腰を下ろしたまま、昼を過ぎても動こうとしない女を除いて。
プルアは膝の上へ広げた紙と、地中から現れた石の表面を交互に見比べていた。
紙に写し取られているのは、ゲルドの街の地下水路から発見された石板の文字であり、それを送ってきたゼルダの書状には、古代のゲルドを治めた男の王と、初代ハイラル国王ラウルについて、新たに読み取れた事実が簡潔に記されていた。
ガノンドロフ。
厄災の名に似たその王は、モルドラジークの群れを率いてハイラルへ攻め入り、ラウル王の光によって敗れた後、僅か七日で敵の王へ臣従を誓ったという。
だが、ハイラルの歴史にガノンドロフという名の王は存在しない。
遠い昔よりガノンと呼ばれる厄災が幾度となく王家を襲い、その度に姫と勇者によって退けられたという御伽話は各地へ残されているが、災いが一人の人間であったとも、砂漠から現れた王であったとも語られておらず、百年前に復活した厄災ガノンと、石板の中から初めて名を現した男を繋ぐものは、今のところ似通った音だけであった。
ゲルドから届いた石板は、忘れられた王について幾つかの行いを記していた。
ガノンドロフは、戦へ放ったモルドラジークを一体だけ残した。
獣を御する戦士たちには敵の力を見届けることだけを命じ、一人としてハイラルの平原へ進ませなかった。
そして帰還したその日の内に、自らの敗北と、敵が持つ力の全てを民へ伝えた。
それでも、その三つの行動を並べた先に、七日後の臣従を置くと、どうにも一つだけ形の合わぬ部品を無理に押し込んだような歪みが残った。
恐れて降ったのならば、なぜ獣を一体残したのか。
再び戦うつもりであったならば、なぜ民へ敵の力を明かしたのか。
無傷で残した力を盾として、より有利な条件を引き出そうとしたのか。それとも、臣従そのものが次の戦へ向けた策であったのか、石に刻まれた行いだけでは、そのどちらへも答えを定めることはできない。
何より、石板の末尾へ刻まれた小さな印が、プルアの目をゲルドキャニオンまで向けさせていた。
二本の短い線を一つの弧が繋ぎ、その中央を水滴に似た窪みが貫いている。
文字でも、王家の紋章でもない。石板を書き記した者の署名とも考えたが、それと全く同じ印が、街道の下から掘り出された石の端へ残されていると聞き、プルアは朝食を半分残したまま研究所を発った。
目の前の石に刻まれた印へ、拓本の端を重ねる。
大きさまで同じであった。
偶然ではない。
プルアが三度目の確認を終え、四度目へ取りかかろうとしたところで、穴の上から影が落ちた。
工事を預かる男が、両腕を組んで立っている。
「それで、分かりましたか」
朝に会ったときよりも幾分か低くなった声には、調査が進んだことへの期待ではなく、いつまで道を塞いでおくつもりなのかという苛立ちが混じっていた。
街道の東には、木材と石材を積んだ荷車が既に五台も連なり、その後ろにはゲルドへ穀物を運ぶ商人たちが待たされている。西から来た者も同じであり、砂漠で採れた鉱石や織物を載せた荷車が、狭い道の向こうで動けずにいた。
プルアは拓本を丸め、立ち上がる。
「分かったことと、分からないことが増えたわ」
「では、工事を戻しても」
「それはダメよ」
予想していた答えであったのだろう。男は大きく息を吐いたが、怒鳴ることも、勝手に作業を再開させることもなく、穴の中へ残された石組みを見下ろした。
厄災の後、誰もが自分の仕事だけをしていればよい時代ではなくなった。石工は古い建物の価値を学び、研究者は今日運ばれなければ腐る食料のことを考え、王国に仕える者であろうと、名もない村から働きに来た者であろうと、限られた人手と物をどこへ使うか、自ら決めなければならない。
プルアもまた、過去を守るという言葉だけで、今を生きる者たちへ不便を強いるつもりはなかった。
掘り出された石組みの一部には、細い溝が通っている。
長い年月の内に砂と泥で塞がれているが、雨水を道の外へ逃がすためだけにしては深く、緩やかに西から東へ傾いており、ところどころに設けられた四角い穴は、上へ何かを載せていた跡のように見える。
「道を止めているのが、ただの古い石なら、好きに砕けばいいわ。でも、これが生きている水路なら、上から新しい道を造るより早く、この辺り一帯へ水を引けるかもしれないの」
男の顔から、苛立ちが僅かに薄れた。
この街道には、旅人が休めるだけの水場がない。復興のために人と荷が増えるほど、遠くから運ぶ水も多く必要となり、道を直すための荷車が、その道を通る者へ与える水まで積んでいるような有様であった。
古い水路が使えるのならば、工事を遅らせた三日を取り戻せるだけではない。
男は穴の深さと、東西に延びる溝を見比べた後、いつまでに確かめられるのかと尋ねた。
日が沈むまでという答えでは首を横へ振り、明日の朝までと重ねても、東西から道が詰まっていることを理由に認めず、結局プルアは、陽が岩壁の向こうへ半分隠れるまでという、研究に必要な時間としてはあまりにも短く、商人たちが待てる時間としてはあまりにも長い猶予を得た。
「それまでに何も出なければ、石は砕きます」
「何も出ないことを確かめるのも、大事な調査なんだけどねぇ」
プルアが不満を口にしても、男は既に背を向け、休ませていた者たちを集め始めている。
ここから先は、過去が残る価値を、過去自身に証明させなければならなかった。
−−−−
石組みは、掘れば掘るほど道とは異なる形を現した。
地表に近い部分は確かに荷車を通すため平らに並べられていたが、その下には小さな部屋ほどの空洞があり、壁に沿って下った溝が、岩盤を穿った細い穴へ繋がっている。
プルア一人で調べられる範囲ではない。
先ほどまで道を造っていた者たちは、今度は古い道を壊さぬよう土を除き、石工は亀裂へ細い木片を差し込んで内部の深さを測り、給水を担っていた者は、乾いた溝へ僅かな水を流して、その行方を確かめた。
名も知らぬ者たちの手によって少しずつ露わとなってゆく構造を見ながら、プルアは何度も紙へ線を引き、消してはまた書き直した。
それは単なる排水路ではなかった。
谷間に降った雨を一度地下へ集め、砂と小石を沈めた後、ハイラルへ向かう東側と、ゲルドへ向かう西側に置かれた水槽へ流すための施設であり、地表に残っていた四角い穴は、旅人が水を汲むための石蓋を支えていた跡であった。
砂漠に近いこの土地で、雨は少ない。
されど、一度岩壁を濡らすほどの雨が降れば、水は低い場所へ集まり、瞬く間に地面を削って流れ去る。その僅かな恵みを一滴でも多く留めるため、地上へ道を造るよりも遥かに深く岩を穿ち、泥を沈める場所まで用意した者たちがいた。
溝の内側には、プルアが持参した古代の記録にも見覚えのない刻みが並んでいた。
一方は、乾いた土地で水の量を測るためにゲルド族が古くから用いた印に似ている。
もう一方は、建国時代のハイラルで石材を組む際に使われた番号であった。
二つの異なる土地で生まれた知識が、一つの水路の中へ交互に刻まれている。
プルアがその事実を紙へ書き留めている間にも、作業は進んでいたが、地下へ続く穴だけは固く締まった砂に塞がれ、細い棒を差し込んでも底へ届かない。
給水を担う女が、上流の入口そのものが崩れているのではないかと告げた。
そうであれば、残された水路をどれほど清めようと水は来ない。
工事を預かる男が空を見上げる。
陽は既に岩壁の頂へ近づき、約束した刻まで長くはなかった。
古い石組みが、現在の道を支える土台として十分な強さを持つことは分かった。水路が死んでいるのならば、上から必要な部分だけを埋め、道を通すという男の判断は正しい。
プルアは穴の底へ膝をつき、砂に埋もれた溝へ手を差し込んだ。
乾いている。
表面だけではない。指が届く範囲に湿り気はなく、長く水が通った石に残るはずの滑らかな削れ方も、途中から不自然に途切れていた。
壊れたのではない。
塞がれている。
指先で砂を掻き出すと、その下から、水路を横切るように置かれた平らな石の縁が現れた。
「ここを開けるわよ」
声を聞いた石工が穴へ下り、周囲の土を払ったが、石には指をかける隙間がなく、道具を差し込むための窪みさえ見当たらなかった。封じるために置かれた石であることは明らかでありながら、外すことを想定していないような造りであった。
その表面に、拓本と同じ印がある。
二本の線を繋ぐ弧と、その中央を貫く水滴。
プルアが砂を払い落とすと、水滴に見えていた部分だけが他より深く彫られており、細い金具を差し込めるほどの穴となっていた。
石工が道具を入れ、ゆっくりと捻る。
石の奥から、何かが外れる鈍い音がした。
だが、蓋は動かない。
重さだけで押さえられているらしく、一人が道具を差し込んでも端が僅かに浮くだけであり、二人が加わっても持ち上がらず、やがて工事を預かる男まで穴へ下りてきた。
プルアは邪魔にならぬ場所へ退き、石の左右へ木の楔を打ち込むよう指示する。
一つ打つ度に僅かな隙間が生まれ、そこへ別の楔を重ね、縄を通すだけの幅を作る。穴の上へ残った者たちが縄を取り、石工の合図に合わせて一斉に引くと、長く閉ざされていた蓋は低い音を立てながら傾き、その下から冷たい空気と、湿った土の匂いが流れ出した。
歓声が上がる。
まだ水は出ていない。
それでも、その匂いだけで、地下のどこかに水が残っていることは分かった。
蓋を完全に起こすと、その裏側へ、表に残されたものとは形の異なる文字が刻まれていた。
−−−−
文字を読むための石が、なぜ読めぬ側へ伏せられていたのか。
プルアが最初に抱いた疑問は、そこに刻まれた内容を確かめるより早く、石そのものによって答えを与えられた。
長方形に整えられた石の上下には、何かへ嵌め込むための浅い窪みが残り、水路を塞ぐ蓋としては必要のない装飾も縁を巡っている。初めから地面へ伏せるために作られたものではなく、かつては街道の傍らへ立てられ、行き交う者が両側から読めるよう置かれていた碑を、後の時代にここまで運び、蓋の代わりとして横たえたのである。
上を向いていた面には、建国時代に使われた古いハイリア文字が刻まれている。
対して、地中へ伏せられていた面に並ぶのは、ゼルダから届いた拓本と同じ古いゲルドの文字であり、二つの面には、それぞれ異なる文字で何事かが記されていた。
砂を落とし、斜めから光を当てると、表の文字は一つ一つの深さが異なり、石そのものが古びているにもかかわらず、幾つかの箇所だけ鑿の跡が鋭く残っている。
『砂漠の王、ハイラル王に従い、その御前に仕える』
ハイリア文字で刻まれたその文章だけを読むならば、砂漠の王は敗北によってハイラルへ服し、一人の臣下として王城へ迎えられたことになる。
しかし『従い』と『仕える』の周囲だけは石肌が一段低く、以前そこにあった文字を削り落とした上から、新しい文言を刻み直していた。
プルアは表の文字を紙へ写し、続けて裏側へ回ると、ゲルドから届いた拓本と、その横へ添えられた解読文を傍らへ広げた。
伏せられていた面は風雨に晒されることなく、表よりも古い刻みを明瞭に残していたが、形が見えることと、その意味が読めることは同じではなく、拓本に現れた文字と似たものを見つけても、前後へ置かれた僅かな線の違いによって、同じ言葉であるのか、全く別の意味を持つのかさえ分からない。
古代の技術であれば、どれほど用途の知れぬ器具であろうと、力を送り、動きを確かめ、内部の仕組みを一つずつ辿れば、いずれ作った者の意図へ行き着くことができる。だが文字は、正しいものへ触れたからといって光ることも、間違えたからといって音を立てることもなく、紙の上へ並べた三つの解釈が全て異なっていたとしても、黙ったままそれらしい顔をしている。
「ワタシの専門は古代の技術であって、古代語じゃないのよねぇ」
誰へ聞かせるでもなく零した言葉へ答える者はおらず、プルアは汚れた膝を抱えたまま、拓本と石の間を幾度となく往復した。
砂漠を示す文字。
王を示す文字。
王城と思われる二つの文字までは、ゼルダの解読文と同じ並びから拾うことができたが、その間へ置かれた言葉だけが三度読み直しても定まらず、戦ったとも、並んだとも、互いに背を向けたとも取れた。
一度はハイリア文字の文章に引かれ、王へ従ったという意味で書き留めたものの、それでは同じ文の末尾にある、旅人を客として迎える際に使われたらしい文字と繋がらない。プルアは自ら書いた答えへ線を引き、別の紙へ最初から文字を並べ直すと、長く伸び始めた自分の影へ気づくこともなく、削られた表の文章と、地中に残された裏の文章が分かれた場所を探し続けた。
やがて、戦いを示すものと考えていた二つの文字が、敵対ではなく、二人が互いに正面を向くことを示していると気づいたとき、曖昧であった文章がようやく一つの形を結んだ。
『砂漠の王、光の王に相対し、その客人として王城に留まる』
異なる文字で写し取った二枚の紙を、膝の上へ並べる。
従ったのではない。
仕えたのでもない。
相対し、客人として留まった。
たったそれだけの違いであれば、長い時の中で言葉の意味が変わり、後世の者が分かりやすい表現へ直したとも考えられる。敵であった王が臣従を誓い、王城へ入ったのであれば、それを仕えたと記すことも、全くの偽りとは言い切れない。
だが、分かりやすくするためだけならば、古い文字を残したまま、新たな石へ説明を加えればよい。
これは訂正ではない。
ハイリア文字で記された古い文章を削り、その上から別の意味を刻み込んだ後、同じ内容を残すゲルド文字の面を地中へ伏せ、石そのものを水路の蓋へ変えた。古い碑を再利用しただけと呼ぶには、あまりにも都合よく、本来の言葉だけが人目から隠されていた。
「厄災ガノンと、この王は同じものなんですか」
いつの間にか穴の縁へ集まっていた者の一人が、プルアの手元を覗き込みながら言った。
その者もまた、王家を襲う災いについて語られた御伽話と、百年前に王国を焼いた怨念の姿を知っており、よく似た二つの名を前にすれば、それらが同じものではないかと考えるのも無理はなかった。
プルアはすぐには答えなかった。
百年前、ハイラルを滅亡へ追いやった厄災ガノンが人々の敵であったことに疑いはなく、各地に残された破壊の跡も、奪われた命も、書き手によって都合よく形を変えられる昔話ではない。だが、その災いと遥かな昔に生きた男の間には、同一であると断じるための記録も、別物であると言い切るための証拠も、今はまだ何一つ残されていなかった。
「名前が似ていること以外は、まだ何も分からないわ。だから、削る前に読むのよ」
それ以上の答えを持たぬまま、プルアは蓋の側面へ目を移した。
表と裏の文章に挟まれた細い側面へ、記録を補うような小さなゲルド文字が並んでいる。石を伏せた者は、その存在に気づかなかったのか、あるいは細く刻まれたものまで読むことができなかったのか、幾つかは蓋を動かした際に欠けていたものの、大半は形を留めていた。
『砂漠の王は七夜にわたり、同じ刻に庭を訪れた』
プルアの指が止まる。
その続きを、声に出さず目だけで追う。
『光の王もまた、七度これを迎えた』
敗北したガノンドロフは、民の前で臣従を告げてから七日を置いてハイラルへ赴き、王城へ入った後には、それとは別の七夜をかけてラウルと向かい合ったことになる。
一度であれば、臣下へ命令を与えるためとも、敵の企みを問い質すためとも考えられる。二度、三度と呼び出したのであれば、監視の一つとして言葉を交わしたのだと説明することもできる。
だが、記録はラウルがガノンドロフを呼びつけたとは書いていない。
砂漠の王が自ら庭を訪れ、光の王がそれを迎えたと、二人を並べて記している。
七度も。
作業を見ていた者たちは、その回数にさほど意味を感じなかったらしく、古代の王も毎夜長い評議をしたのだろうと話しながら、それぞれの持ち場へ戻ってゆく。
プルアは彼らを呼び止めなかった。その解釈が間違っているという証拠はなく、ラウルが砂漠の王を監視するために呼び、ガノンドロフもまた敗北の条件を少しでも有利にするため、その場へ通ったのかもしれない。客人という言葉も、敵国の王を表向き遇するための呼び名であったと考えれば不自然ではなく、奇妙なのは二人が七夜を共にしたことではなく、それを記した言葉を後世の誰かが別の意味へ変え、元の文章を地中へ伏せたことであった。
プルアは側面の続きを追った。
一夜目、二夜目と、それぞれの日に何が起きたのかを書いた文章はなく、ただ二人の王が同じ庭で向かい合った回数だけが刻まれ、その末尾に、他より僅かに深い傷が走っている。
風化ではない。
細い鑿を何度も打ち込み、文字の形が分からなくなるまで石を抉った跡である。
辛うじて残っていたのは、文章の初めだけであった。
『七度目の夜、砂漠の王は――』
その先には、何もない。
砂漠の王が何を語り、光の王が何と答えたのか。その対話が両国の間へ何を残したのか、削られた窪みは、読む者がどれほど目を凝らしても、失われた文字を返そうとはしなかった。
−−−−
陽が岩壁の向こうへ半分沈んだ。
工事を預かる男は、約束の刻を忘れてはいなかった。
石の蓋へ記録が残されていたことと、その下に湿った空気があることだけでは、街道を更に一日止める理由にはならず、水路が今も生きていると証明できなければ、文字を写した後、石組みの上へ新たな道を重ねるという判断も変わらない。
プルアも異を唱えなかった。
石へ刻まれた言葉は既に写し取った。遺構の構造も調べ、蓋を戻せば、水路を完全に壊さず上へ道を通すこともできる。過去を一つ残すため、ゲルドへ運ばれる食料を更に待たせることが正しいとは限らない。
ただ、蓋の下から流れ出した湿った空気は、地下に水があることを今も訴えている。
給水を担う女が細い縄の先へ石を結び、開いた穴へ下ろした。
縄は思いのほか深くまで落ちた後、乾いた音を立てて底へ触れたが、引き上げられた石に水は付いていない。
二度目は別の角度へ。
三度目は更に長い縄を使った。
結果は同じであった。
地下に水が溜まっているのではない。遠くにある水場と、この場所を繋ぐ横穴だけが残り、その内側へ染みついた湿気が、蓋を開いたことで流れ出したに過ぎないらしい。
男が作業の終了を告げようとしたとき、プルアは石蓋の裏側に付着した泥へ気づいた。
長く地中へ伏せられていたにしては、その一角だけ色が濃い。
指で触れると、表面は乾いているが、その下には柔らかさが残っていた。
泥を削り落とす。
文章の下から、細い溝が現れた。
文字ではない。
水路の形を示す図であった。
谷間から延びた一本の線が、街道の手前で大きく曲がり、二つの水槽へ分かれている。今いる場所は、その分岐の直前に置かれた蓋であり、地下へ水を求めて縄を垂らしても届くはずがなく、水は横から流れ込む造りとなっていた。
そして図の端には、流れを止めるための仕切りが描かれている。
プルアが顔を上げるより早く、石工が図の示す壁へ走った。
街道の北側、岩壁と石組みの間に、周囲と色の異なる細長い石がある。土へ埋もれ、ただの補修跡と思われていたその石へ道具を差し込むと、僅かに動いた。
引き抜くものではない。
左右へ滑らせるための仕切りである。
縄を巻き、木材を支えにして、集まった者たちが少しずつ力を加える。長い年月の間に固まった砂が石の動きを妨げ、その度に溝を清め、道具の角度を変え、再び縄を引いた。
誰か一人の力で動くものではなかった。
石工が隙間を作り、給水を担う者が砂を流し、荷を待たされていた商人まで縄へ手をかけ、工事を預かる男の合図で全員が身体を後ろへ倒したとき、細長い石はようやく低い音を立てて横へ滑った。
初めに聞こえたのは、水の音ではない。
暗い穴の向こうから、長く閉じ込められていた空気が抜け、石の間を風が通る音であった。
暫くして、砂が崩れる。
その奥から、一筋の濁った水が現れた。
誰も声を上げなかった。
水があまりにも細く、少しでも大きな音を立てれば途切れてしまうように見えたからである。
流れは石の溝を進み、長く溜まっていた土を押し退けながら蓋の下へ入り、図に刻まれていた通り二つに分かれると、街道の東西へ一つずつ埋もれていた水槽へ、一滴ずつ落ち始めた。
飲める水になるまでには、何度も内部を洗い、壊れた箇所を塞ぎ、上流に泥を沈める場所を作り直さなければならない。
それでも水路は死んでいなかった。
砂漠へ向かう者と、砂漠から来る者。そのどちらか一方ではなく、道の両側へ水を渡すために造られたものが、遥かな時を越えて、再び同じ役目を果たそうとしている。
工事を預かる男は流れを暫く見つめた後、石を砕くために用意していた道具を片付けるよう命じた。
古い石組みを土台として埋めるのではなく、水路を残したまま、その上へ新しい道を渡す。
明日からの仕事は増える。
待たされていた荷車が動き始めるのも、当初の予定より遅くなる。
それでも、道を通る者が必要とする水を遠くから運び続けるよりはよいと、男は誰へ言い訳するでもなく呟いた。
プルアは何も返さず、二つに分かれた水の片方へ指先を浸した。
夕方の冷気よりも、更に冷たい。
石へ刻まれた言葉を変えることはできる。
王の名を削り、その行いを別の意味へ置き換え、後世の者が抱く姿を、書き手の望む形へ整えることもできる。
だが、その王たちが生きた時代に造られた水路は、彼らが敵であったのか、臣下であったのか、あるいは別の何かであったのかを語ることなく、ただ等しく二つの水槽へ水を送り続けていた。
−−−−
夜、野営地の灯りが一つずつ消えた後も、プルアは石蓋の前へ残っていた。
昼間に写し取った紙を地面へ並べ、表の文章と、裏に隠されていた文章、それから側面へ刻まれた七夜の記録を、何度も見比べる。
焚き火の向こうでは、明日から水路の補修に使う木材と石材が分けられ、道を塞いでいた荷車の幾つかは、今夜の内に次の休息地へ向けて出発している。
水路が見つかったという話は、文字の発見よりも早く野営地を巡り、商人の一人は、ここに水が戻れば運べる荷を増やせると喜び、工事に加わった者は、砂に埋もれていた水槽を明日中に掘り出すのだと、疲れた腕を擦りながら話していた。
彼らにとって、石へ刻まれた王の名が誰であるかは、それほど重要ではない。
明日、その水が飲めるのか。
道がいつ開くのか。
運んだ食料が、腐る前に砂漠へ届くのか。
その方が遥かに大切であり、それは決して過去を軽んじることではなかった。
歴史は、残された言葉の中だけにあるのではない。
誰が造ったかも知らぬ道を歩き、名の消えた者が掘った水路から水を汲み、その恩恵を過去ではなく明日のために使う者たちの営みもまた、長い歴史の先にある。
プルアはゼルダへ送る報告へ、水路が街道の復旧に利用できる見込みと、石板と同じ印を持つ碑が蓋として発見されたことを書き、その表面だけが後世に刻み直され、地中へ伏せられたゲルド文字には、ガノンドロフがラウルの客人として王城へ留まり、七夜にわたって同じ庭を訪れたと記されていたことを、読み取れた範囲のまま書き加えた。
砂漠の王と厄災ガノンが同じ存在であったのか、臣従が本心であったのか、二人の王が何を語ったのかという答えは、いずれも書かなかった。今ある記録だけでは、どれ一つとして断定することができない。
ただ最後に、建国時代を記した王家の文書が残っているならば、臣従後の七夜について記したものを優先して調べるべきだと付け加えた。
筆を置き、もう一度石へ向き直る。
灯りを低くし、側面へ沿わせるように当てると、鑿で抉られた窪みの底へ細い影が浮かんだが、それは文字の跡ではなく、壊した者が何度も同じ場所へ刃を打ち込んだ痕であった。
削った者には、明確な意志があった。
ガノンドロフが七夜にわたってラウルと会ったことまで消さなかったのは、この側面の記録を見落としたからかもしれない。
あるいは、二人が対話したという事実そのものではなく、七度目に語られた内容だけを、後世へ残してはならないと考えたのかもしれない。
『七度目の夜、砂漠の王は――』
プルアは残された文字を指でなぞった。
その先を想像だけで埋めることは容易い。
臣従を受け入れた。
王を欺いた。
再び戦うと告げた。
あるいは、そのいずれでもない言葉を口にした。
だからこそ、置いてはならない。
分からない場所へ、自分に都合のよい答えを嵌め込めば、それは表側の文字を削り、別の意味を刻んだ者と何も変わらない。
プルアは石から手を離した。
夜の谷を風が抜ける。
冷え始めた岩壁の間を渡った風は、開かれた水路の上へ小さな波を作り、二つに分かれた流れの片方を、ハイラルへ向かう東の水槽へ、もう片方をゲルドへ向かう西の水槽へ運んでゆく。
消された言葉は戻らない。
それでも、その王たちが生きた時代に残されたものまで、消し去ることはできなかった。
遥かな昔、七度目の夜に一人の王が何を語ったのか、その答えを返せる者は、少なくともプルアの知る地上のどこにもいない。
だが、二人の王が生きた時代の道の下では、長く止まっていた水が再び流れ始めていた。