真王ガノンドロフ 作:ミスターソード
魔物は、王が滅びれば共に消えるほど忠義深いものではない。
百年にわたりハイラル城を覆っていた怨念が祓われ、赤黒い光を放っていた厄災が勇者と姫の手によって討ち果たされた後も、大地に巣食っていた魔物の全てが、その主らしきものの後を追って滅びることはなかった。
森にはボコブリンが残り、岩場にはモリブリンが棍棒を引き摺り、橋の下や道の曲がり角には、旅人の荷を奪うことを覚えた獣が潜んでいる。
厄災が消えた今も、血より赤い月が二度と昇らず、倒された魔物が未来永劫蘇らないと断じられる者はいなかったが、少なくとも、昨日討ち払った群れが翌朝には同じ場所へ焚き火を灯しているという、百年の間に幾度も繰り返された光景は見られなくなり、一つの巣を潰せば、そこへ人が戻るだけの時間を得られるようになった。
あまりにも当たり前でありながら、この国から長く失われていた理であった。
−−−−
朝露に濡れた草を踏み分け、九つの影がハイラル平原を南へ進んでいた。
先頭を行く男は馬に乗り、その後ろには、槍を持つ者、弓を背負う者、鍋の蓋よりは幾分か頑丈な円盾を腕へ括り付けた者たちが続いている。
揃いの鎧も、王家の紋章を染め抜いた旗もない。
身に着けている防具は、百年前の城跡から拾い出して錆を落としたもの、村の鍛冶屋が農具を潰して打ち直したもの、倒した魔物から剥ぎ取った革を裏へ縫い付けたものが入り混じり、遠目に見れば、兵士の一団というより、装備の趣味がひどく異なる旅人が偶然同じ方角へ歩いているようにも見えた。
それでも彼らは、復興のために各地から集められた魔物討伐隊である。
先頭で手綱を握るホスタは、小高い丘の上まで馬を進めると、片手を上げて後続を止め、朝靄の向こうに見える崩れた砦へ目を凝らした。
ハイラル軍駐屯地跡から更に南東へ外れた場所にあるその砦は、百年前に造られたものではない。
厄災が復活する遥か以前、平原を横切る街道を守るために建てられ、役目を終えた後も旅人の雨宿りや、羊を追う者の休息に使われてきたが、厄災によって人の往来が絶えると、代わりに魔物が住み着き、今では半ば崩れた外壁の内側へ、粗末な木の柵と見張り台が組まれている。
東の空へ細い煙が昇っていた。
炊事の煙にしては黒く、狼煙にしては低い。
風は北から南へ流れ、砦の匂いを草原の奥へ運んでいるため、こちらの存在はまだ気づかれていないはずであった。
ホスタは馬を降り、腹這いになって丘の縁へ近づくと、傍らへ来た弓持ちから小さな遠眼鏡を受け取った。
砦の北門にボコブリンが二体。
西側の見張り台に弓を持つものが一体。
崩れた南壁の内側には、更に幾つもの影が動き、焚き火の傍らでは、他よりも頭一つ大きなモリブリンが、何かの骨を棍棒の先で転がしている。
報告より多い。
昨日ここを調べた斥候は、ボコブリンが五体と、見張り台に一体だけだと数えていた。夜の内に別の群れが合流したのか、それとも、石壁の陰へ隠れていたものを見落としたのか、どちらであろうと、連れてきた人数が増えるわけではない。
背後で、誰かが小さく息を吐いた。
「勇者様は、やはり来られないのですか」
尋ねたのは、隊の中で最も若い槍持ちであった。
声に恐れはない。
ただ、もしあの剣士がいれば、目の前の砦など日が高くなる前に空になるだろうという、疑いようのない期待があった。
ホスタ自身、その考えを否定するつもりはない。
百年前の眠りから目覚めた勇者が、たった一人で神獣を解放し、厄災に覆われた城へ踏み込み、姫と共に国を救ったことを、この地に生きる者で知らぬ者はいなかった。ホスタもまた、初めて彼と出会った頃には、その小柄な身体が伝え聞いた騎士その人であるとは思わず、後になって己の見る目のなさを恥じた一人である。
されど、姫の傍らで各地を巡り、崩れた村や道を確かめている勇者を、平原に残る魔物の群れ一つごとに呼び戻すつもりはなく、何より、彼が来なければ武器を取れぬ者ばかりであるならば、この先ハイラルへ道を通すことなど到底できなかった。
「姫様と北の村へ向かわれている。我々の仕事へ呼び戻す必要はない」
ホスタは遠眼鏡を畳み、持ち主へ返した。
若い槍持ちは何かを言いかけたが、隣にいた盾持ちから肩を叩かれ、口を閉ざす。
ここまで来た者の中に、戦を知らぬ者はいない。
厄災の下で生まれた者にとって、魔物から逃げ、隠れ、時には武器を手に取ることは、畑を耕し、井戸から水を汲むことと同じく、生きるために覚えねばならぬ営みであった。しかし、一人で襲ってきたボコブリンを追い払えることと、壁を持ち、見張りを置き、群れとして動く魔物の巣へ踏み込むことは違う。
違うからこそ、ホスタは誰より先に砦を見て、誰より長く考える。
勇敢であることと、死を急ぐことを取り違えれば、その間違いへ付き従った者から死んでゆく。
ホスタは地面へ短い枝を置き、砦の外壁と門を描いた。
弓持ち二人は北西の岩場へ回り、見張り台を射る。
盾を持つ三人が北門から入り、自分と槍持ちがその後ろへ続く。
残る二人には東側の草へ水を撒かせ、魔物が火を放っても退路まで燃え広がらぬよう備えさせた上で、逃げたものが街道へ向かわぬよう見張らせる。
「南は空けておくのですか」
「追い詰めれば、死ぬまでこちらへ向かってくる。逃げ道があるうちは、臆病なものから群れを捨てる」
全てを一度に討ち取る必要はない。
今日の目的は、魔物の首を数えることではなく、この道へ人を戻すことである。
説明を終えたホスタは、地面に描いた砦を靴裏で消し、腰の剣が鞘から抜けることを確かめた。
夜露を含んだ風の中へ、魔物の焚き火が吐く脂の匂いが混じり始めている。
陽が昇れば、風向きが変わる。
その前に、片を付けなければならなかった。
−−−−
最初の矢は見張り台の柱へ当たり、乾いた音に顔を上げたボコブリンが角笛へ手を伸ばしたところで、二本目がその手から笛を弾き飛ばし、見張りは何が起きたのかも分からぬまま柵へ腹を打ち付け、耳障りな声を上げながら地面へ落ちた。
それと同時に三枚の盾が北門へ走り、ホスタはその背後から柵の隙間を抜けてきた槍を剣の腹で逸らすと、正面へ飛び込んできたボコブリンを肩から押し返し、後ろに控えていた槍持ちへ渡した。
門を越えた時点までは、立てた策の通りであった。
されど、崩れた兵舎の奥から現れた青い肌のボコブリンと、焚き火の傍らで太い棍棒を持ち上げたモリブリンは、丘の上から数えた群れの中にはおらず、振り下ろされた棍棒を三人の盾持ちが重ねて受け止めたものの、続けざまに横へ薙がれると、亀裂の入った盾ごと身体を押し流され、そこへ壁際から現れた魔物たちが殺到した。
ホスタは開いた隙間へ入り、迫る刃を肩当てで受けながら一体を退け、外壁の向こうから降る矢に助けられて盾の列を立て直したが、倒したものの陰から次が現れ、狭い門の内側へ人と魔物が重なるにつれ、初めから報告が誤っていたのではなく、地上からは見えない場所へ残りが潜んでいるのだと気づいた。
その答えを示すように、崩れた兵舎の床に開いた暗い穴から、更に一体のボコブリンが這い出してくる。
砦の下には古い地下室か、土へ埋もれた別の建物があり、魔物たちはそこまで巣として使っているらしく、穴の中に何体残っているかも分からぬまま戦い続けることはできないと、ホスタが後退の合図を送ろうとしたとき、逃げ道として空けておいた南側から角笛が鳴った。
東へ置いた二人が取り逃がしたものではなく、戦いの音を聞きつけた別の群れが丘の陰を回り、錆びた剣や骨を括り付けた棒を掲げながら、崩れた壁を越えて砦へなだれ込もうとしている。
逃げ道が、そのまま自分たちを挟む道となった。
「北門まで下がる! 走るな、負傷者を内へ入れろ!」
走れば追われ、背を見せれば弓に射られ、一人が倒れれば、それを助けようとした者から列を離れてゆくため、命令を受けた者たちは押し込まれかけた盾を前へ向けたまま、一歩ずつ北門へ下がったが、その途中で、盾の後ろから槍を繰り出していた若い男が肩を打たれ、隣の者が腕を掴んだところへ、モリブリンの棍棒が振り上げられた。
ホスタは二人の前へ踏み込み、落ちていた盾を拾うと、正面から受け止めるのではなく、打ち下ろされる軌道へ斜めに差し入れ、腕まで痺れる衝撃と共に棍棒を横へ滑らせた。
逸れた棍棒が地面を打ち、石が割れる。
乾いた床へ走った亀裂は、魔物が出てきた穴へ向かって一息に広がり、次の瞬間には、モリブリンの足下だけでなく、ホスタと負傷した男、その腕を掴んでいた盾持ち、更には周囲へ群がっていたボコブリンまで、崩れた石と土煙に呑み込みながら暗い地下へ沈んでいった。
−−−−
背中から石へ叩きつけられ、肺の中にあった息が全て押し出された。
目を開いても、何も見えない。
頭上では人の叫ぶ声と魔物の鳴き声が入り混じり、何か重いものが崩れる音が続いている。
ホスタは咳き込みながら起き上がり、手探りで剣を探した。
右手が柄へ触れる。
鞘は腰に残っているが、剣は途中で抜け、少し離れた場所へ落ちていた。
拾い上げた刃は折れていない。
左腕も動く。
右脚へ体重を掛けると痛みが走ったが、骨が折れたときのものではなかった。
「返事をしろ!」
一つ、二つと咳が返る。
負傷していた槍持ちと、その者を助けようとした盾持ちが、同じ場所へ落ちている。もう一人分の呻き声は人のものではなく、少し離れた暗がりから、喉を鳴らす低い音が聞こえた。
土煙の向こうで、赤い目が開く。
ボコブリンであった。
向こうも落下の衝撃を受けたらしく、片脚を引き摺っている。
されど、こちらが三人いることを見ても逃げようとはせず、欠けた刃を拾い、地面へ手をつきながら立ち上がった。
ホスタは二人を背へ置き、剣を構えた。
暗闇の中では、相手の肩も、刃の長さも測れない。
赤い目だけを見て踏み込めば、その目が動くより先に剣を振るうことはできるが、外した後に壁までどれだけの距離が残るのか分からず、倒れた仲間を踏ませる恐れもある。
上から土が落ちた。
開いた穴を塞ぐように、崩れた床の一部が傾いている。
その隙間から射し込んだ細い光が、地下の壁を照らした。
白い石の表面へ、深く彫られた一人の男の背が現れる。
現実の人間よりも遥かに大きく刻まれたその男は、長い髪を炎のように広げ、片手に湾曲した剣を持ち、もう一方の腕を背後へ伸ばしていた。
その背には、小さく刻まれた兵と、荷を抱いて身を寄せ合う者たちがいる。
男の正面には、角と牙を持つ巨大な魔物が彫られていた。
射し込んだ光によって、それまで何もなかった闇の中へ己より遥かに大きな人影が立ち上がったためか、地下へ落ちたボコブリンの赤い目がホスタから壁の男へ移り、折れかけた脚が僅かに後ろへ下がった。
それが石像へ向けた恐れであったのか、ただ突然現れた影に気を取られただけなのかを確かめる暇はなく、ホスタは生まれた隙へ踏み込み、魔物が再び刃を持ち上げるより早く、その胸へ剣を突き入れた。
魔物の身体が崩れ落ちる。
赤い目から光が消え、後には地下を満たす土埃と、頭上で続く戦いの音だけが残った。
「隊長、あれは……」
盾持ちが、壁へ刻まれた大男を見上げている。
ホスタは答えず、まず二人の傷を確かめた。
槍持ちは肩を打ち、盾持ちは額を切っているが、どちらも自力で歩ける。
上へ戻る道は、落ちてきた石に塞がれていた。
声を張り上げれば、仲間だけではなく魔物にも自分たちの位置を教えることになる。
ホスタは壁から目を離し、射し込む光の向きと、床に積もった砂の流れを見た。
風がある。
僅かではあるが、右手の奥から冷たい空気が流れ、土煙を上へ押し上げている。
この地下は、砦の床下だけで終わっていない。
剣を前へ出し、壁沿いに進む。
足下には、魔物が運び込んだ獣の骨や、割れた器が散らばっていたが、その下から、等しい幅で並べられた古い石床が現れた。
ここは魔物の掘った穴ではない。
砦よりも遥かに古い、別の建物である。
細い通路を抜けると、前方へ淡い光が見えた。
外へ通じる穴かと思ったが、近づくにつれて、それが陽の光ではなく、天井に開けられた幾つもの細孔から落ちる光であることが分かった。
その下には、広い部屋がある。
壁際へ石の台が並び、台の上には、朽ちて形を失いかけた剣や槍が置かれていた。
墓であるのか、それとも戦いの後に武具を納めた場所であるのか、その場で見分けることはできず、埋められた者の骨も、石の台へ刻まれた名もなかったが、刃が置かれた向きと、一つずつ分けられた場所を見れば、少なくとも使われなくなった物を積み上げただけの倉ではなかった。
右側の台には細身の槍と、中央に翼を刻んだ丸盾が置かれ、左側には幅の広い曲刀と、鮮やかな染料の痕を僅かに残す布があり、それがゲルドの武具であることは、古い物に詳しくないホスタにも見分けられた。
砂漠から遠く離れたハイラル平原の地下へ、ハイラルの兵が用いたものと共に納められている。
敵同士であったのなら、一方の武器を奪い、勝者の墓へ戦利品として供えることはある。しかし、右の槍も左の曲刀も、切っ先を部屋の中央へ向け、柄を壁側へ揃えて置かれており、互いへ刃を向けてはいない。
同じ何かと戦った者たちの武具が、異なる場所へ分けられながら、同じ方角を向いたまま残されている。
ホスタは部屋の中央へ進んだ。
石床には、焚き火の煤でも、土へ染み込んだ水でもなく、石そのものが熱で変じたような黒い染みが残り、そこから伸びる細長い五本の跡は、先ほど壁に彫られていた男であれば同じほどの大きさになるかもしれない、人の手を遥かに超えた指の形となって地面へ刻み付けられていた。
槍持ちが、その痕へ触れようと腰を屈める。
「待て」
ホスタが止めると、伸ばされた手が宙で止まった。
何が危険であるのか説明できるものはなく、色も、形も、厄災に覆われていた頃の城で地面や壁へこびり付いていた怨念とは異なり、あの禍々しい赤黒い光も、触れずとも肌を刺した悪寒もなかったが、それでも、黒い跡を見つめていると、ホスタは両者の間に言葉へ変えられぬ何かが似通っているように思えた。
何が似ているのかを言葉へ変えるより早く、頭上から大きな振動が届いた。
戦いは終わっていない。
地下に残されたものを調べるのも、壁の男が誰であるかを考えるのも、生きている者を地上へ戻してからでよい。
ホスタは部屋を見回し、流れ込む風が最も強い場所へ進んだ。
壁際に置かれた一枚の石板が、僅かに傾いている。
三人で押すと、その奥から土が崩れ、細い横穴が現れた。
先へ進むほど風は強くなり、やがて、草の根の隙間から陽が射す場所へ出る。
剣の柄で土を崩し、身体を捻じ込む。
顔を出した先は、砦の南側にある低い斜面であった。
背後から砦へ入った魔物の群れが、目の前を横切っている。
ホスタたちが床下へ落ちたことで、北門を守る者たちは一度外へ退くことに成功していたが、魔物は門を越えて追い、岩場にいた弓持ちまで砦の東へ追い詰めている。
地上へ這い出したホスタは、痛む脚を押さえながら立ち上がった。
こちらに気づいた槍持ちが、声を潜めて問う。
「どうしますか」
北へ抜ければ、三人だけでも逃げられる。
地上に残った者たちは、ホスタが死んだと思っているはずであり、隊長を失いながらも互いを庇い、砦から離れようとしている。
ここで背後から魔物へ踏み込めば、挟まれているのはこちらではなくなる。
ホスタは剣を握り直した。
「角笛を奪う。吹けるな」
盾持ちが、額から流れる血を袖で拭いながら頷いた。
三人は斜面を下り、前方の戦いへ気を取られている群れの最後尾へ近づくと、角笛を持つボコブリンの口を槍持ちが塞ぎ、ホスタが脚を払って倒し、その手から奪った笛を盾持ちへ投げた。
息を吸い込む音の後、低く歪んだ響きが平原へ広がると、魔物たちが一斉に振り返り、同時に、北門の向こうで後退を続けていた隊の者たちも顔を上げたため、ホスタは自分が生きていることを知らせるように剣を掲げた。
「前へ出ろ! 今度はこちらが挟む番だ!」
返った声は六つあり、傷を負い、盾を割られ、土と血に汚れながらも、地上に残った者が誰一人欠けていないことが、その声だけで分かった。
北と南から人の列が進み、逃げ道を失った魔物たちが、先ほどまで自分たちの挟んでいた相手へ背を向けて右往左往する中、最も大きなモリブリンだけは、床下へ落ちながら崩れた石へしがみ付いて這い上がったらしく、折れた角と血を流す肩をホスタへ向け、なおも群れを繋ぎ止めようと吼えた。
この一体を残せば、魔物は崩れない。
ホスタは正面から走り、振り下ろされた棍棒を横へ転がって避けると、返す一撃の下へ身体を沈めて懐へ入り、その腿を斬ったものの、浅い傷を受けたモリブリンは踏み止まり、退こうとしたホスタの肩へ太い指を伸ばした。
その手の甲を、地下へ共に落ちた若い男の槍が横から貫き、怒りに任せて振るわれた腕を、額から血を流す盾持ちが割れかけた盾で受け止める。
ホスタは、二人へ気を取られた魔物の脇から胸へ剣を突き上げ、なおも倒れぬ巨体へ、北から戻った弓持ちの矢が続けて刺さると、モリブリンはようやく膝を折り、古い砦を揺らしながら地面へ倒れた。
群れを束ねていた声が止まった瞬間、残る魔物は南の崩れた壁へ一斉に逃げ出したが、ホスタが追うなと命じるまでもなく、隊の者たちは武器を支えにしなければ立てぬほど疲れ果て、その場で肩を上下させていた。
剣を抜くと、倒れたモリブリンの身体から黒い血が溢れ、古い石床の亀裂へ流れ込んでゆく。
その先には、先ほど開いた地下への穴があった。
魔物の血は暗がりへ落ち、遥か昔に刻まれた黒い手の跡へ向かうように見えた。
−−−−
砦の周囲へ逃げた魔物が戻らぬことを確かめ、負傷した者の手当てを終えた頃には、陽は空の中央を越えていた。
討ち取った魔物の数は、初めに斥候が報告したものの倍を超えている。
重い傷を負った者は二人。
歩けぬ者はいない。
失った盾が三つ、折れた槍が一本、刃の欠けた剣が二本。
そして、死者はない。
それだけを確かめると、ホスタはようやく腰を下ろした。
勇者であれば、傷一つ負わずに終えたのかもしれない。
されど、ここにいる九人は勇者ではなく、それでも九人のまま砦を取り戻した。
若い槍持ちが、折れた柄を杖代わりにしながら近づいてくる。
「次は、来ていただきましょう」
何のことかと問う必要はなかった。
ホスタは、ひびの入った肩当てを外しながら、次はまず斥候を二人に増やすと答えた。
笑い声が起きる。
長くは続かなかったが、戦いの後に笑う者がいるというだけで、この場所が既に魔物の巣ではなくなり始めているように思えた。
休んでいる間にも、東で待機していた者たちが、砦の外へ散らばった武器を集め、壊れた柵を外し始めている。
この道を再び使うためには、血と汚れを洗い流し、崩れた床を塞ぎ、旅人が夜を越せるだけの屋根を直さなければならない。
やるべきことは、魔物を倒した後の方が多い。
地下を見た二人から話を聞いた者たちは、休息よりも古い部屋を確かめることへ興味を向けたが、ホスタは、石へ触れることも、武器を持ち出すことも禁じた。
自分たちは魔物を討つことはできても、古い物の扱いを知る者ではない。
分からぬものを見つけたとき、己の知る形へ無理に押し込まず、分かる者が来るまで残しておくこともまた、国を取り戻すために必要な仕事であった。
それでも、開いた穴をそのままにしておくわけにはいかない。
ホスタは三人だけを連れ、松明を持って再び地下へ下りた。
先ほどは逃げ道を探すため通り過ぎた部屋を、今度は入口からゆっくりと確かめる。
部屋の左右へ置かれた武器の数は同じではなく、中央に翼を刻んだハイラルの槍と盾が十六組あるのに対し、ゲルドの曲刀は五本だけであったが、少ない側を捕虜として一箇所へ纏めたようには見えず、曲刀はハイラルの武具の間へ一つずつ離して置かれ、五人が十六人の中へ分かれて入り、別々の場所で同じものを食い止めたときの位置を、そのまま部屋へ写したように並んでいた。
それが死者の数を示すのか、戦いに加わった者を表しているだけなのかは分からなかったものの、奥の壁へ続く浮彫りにも同じ構図が残され、右側には槍と盾を構えて砦へ集まるハイラルの兵が、左側には曲刀を掲げて街道を駆ける五人の女戦士が、肩を並べることも背を預けることもなく、互いの存在を知りながら、それぞれ異なる場所で中央の魔物へ刃を向けている。
そして浮彫りの最も奥、地下へ落ちた直後に細い光が照らした場所には、女戦士たちと同じ文様を身に纏いながら、その誰よりも遥かに大きな長髪の男が、右手へ曲刀を持ち、倒れたハイラル兵と逃げ遅れた者たちを庇うように左腕を広げて立っていた。
女戦士たちを率いた者であったのかもしれない。
だが、その顔は残されていない。
風雨によって薄れたのではなく、額から顎まで何度も鑿を打ち込まれ、目も、鼻も、口も意図して砕かれた上、頭上にあった文字の帯まで一つの線も読めぬほど深く抉られており、他の兵や魔物には同じ傷が見当たらないことから、この大男だけが後の時代に選ばれ、名と顔を消されたことは疑いようがなかった。
ホスタが松明を上げ、その男と対峙するものを照らすと、浮彫りの中で最も大きな魔物は、胸にも首にも曲刀を受けた跡がないまま片膝をつき、長い腕にはなお武器を握り、牙を剥いた顔を男へ向けているにもかかわらず、前へ踏み出すはずの脚だけを不自然に折っていた。
「魔物を従えていたのでしょうか」
背後にいた者が呟いた。
ホスタはすぐには答えず、服従するものが武器を握ったまま牙を剥くとは思えなかったが、争っているのならば男の刃が届いた跡がないことも不自然であり、魔物が頭を垂れたのか、足を挫いて倒れかけたのか、それとも襲いかかる寸前に何らかの理由で動きを止めたのか、石へ刻まれた一瞬だけを見て、その前後まで決めることはできなかった。
「少なくとも、後ろにいる者たちを襲わせはしなかったらしい」
ホスタがそう答えると、松明を持つ者は、顔のない大男の背後へ刻まれた、武器を失った兵、荷車の陰へ子供を隠す者、足を傷つけて立てぬ者を二人がかりで運ぶ者たちへ目を移したが、王や英雄の勝利だけを称えるための絵であるならば、庇われる者の姿をこれほど細かく刻む必要はなく、彫った者が大男の強さと共に、その背に誰がいたのかを残そうとしたことだけは見て取れた。
ならば、なぜ守った者の顔を砕き、その名を消しながら、守られた兵と民だけを残したのか。
ホスタには分からない。
分からぬまま、松明の火を黒い手の跡へ近づけた。
五本の指は、浮彫りに刻まれた大男の左手と、ほとんど同じ大きさであった。
男がここへ手をつき、石を焼いたのだとすれば、壁に残る場面は、後の者が想像で描いた御伽話ではなく、この場所で実際に起きたことを見た者が刻んだ可能性がある。
ホスタは腰の小袋から紙を取り出し、黒い跡へ直接触れぬよう輪郭だけを写した。
上手い絵にはならない。
長髪の男を描こうとすれば、髪は炎ではなく広がった箒のようになり、曲刀は曲がった枝にしか見えなかったため、二度試したところで諦め、壁面の大きさと、武器の数、それから顔と文字だけが削られていることを、見たまま文章へ書き留める。
研究者へ渡すのであれば、最初から誰かに拓本を取らせた方が早い。
されど、その研究者をここまで安全に連れてくるために、自分たちは砦を取り戻したのである。
−−−−
夕刻、砦の奪還を知らせる煙を見て北の拠点から迎えの荷車が到着すると、負傷者と、詳しい報告を託された一人が、それに乗って来た道を戻っていった。
ホスタは残った者たちと共に、崩れた北門へ仮の柵を立て、魔物が夜の内に戻ってこないよう焚き火を増やした。
古い部屋へ続く穴には板を渡し、その上へ誰も誤って足を置かぬよう、逆さにした桶と壊れた盾を並べており、名も知れぬ時代の武具や浮彫りを守る囲いとしては随分と頼りなかったが、今ある物の中で、壊れた床を塞ぎながら人を近づけぬようにできるものはそれしかなかった。
夜の見張りを決め、食事を終えると、隊の者たちは外壁の内側へ毛布を広げた。
昼まで魔物が肉を焼いていた場所で眠ることを嫌がる者もいたが、屋根の残る場所はそこしかなく、雨が降らぬことを祈って草の上へ横たわるよりはよいと、最後には誰も文句を言わなくなった。
ホスタは眠らず、北門の脇へ腰を下ろし、肩当てを外した場所へ広がる痣と、休んでいる間に腫れ始めた右脚を確かめたが、明日には馬へ乗れなくなるとしても、九人で来た場所から九人が生きて帰り、倒した魔物の数より先にそれを報告できるのであれば、隊長としては十分であった。
焚き火の向こうでは、昼間、勇者が来ないのかと尋ねた若い槍持ちが、傷めた肩を下にして呻き、目を覚まさぬまま反対側へ寝返りを打っており、地下へ落ちても槍を手放さず、最後にはホスタの首へ伸びたモリブリンの腕を貫いたその姿を見ていると、百年後にこの砦が再び崩れたとしても、今日ここで戦った者たちの名が石へ残ることはないだろうが、それを惜しむ必要もないように思えた。
国を救った勇者と姫の名は語り継がれる。
されど、その二人が取り戻した大地へ道を通し、魔物を一つずつ退け、橋を架け、畑を起こす者たちは、名を残すためではなく、明日もそこへ人が暮らすために働いている。
地下の男も同じであったのか、ハイラルの王へ仕えた者であったのか、国を攻めながら気まぐれに敵を助けたのか、それとも後世の誰かによって都合のよい姿へ作り替えられたのか、ホスタには何一つ決められず、ただ、顔も名も奪われた大男の背後に、消されず残された者たちがいたことだけを思い返した。
夜風が仮の柵の隙間から入り、揺れた焚き火の煙が床下へ流れ込むと、暗闇の中で浮彫りの影も僅かに形を変え、片膝をつく魔物と曲刀を掲げる男のどちらが次に動くのかさえ、見る者の立つ場所によって異なるように思われた。
翌朝、北へ送られた報告を受ければ、古いものを調べる者たちが砦を訪れ、消された文字や武器の年代から長髪の男が何者であるのかを探ろうとするだろうが、石へ刻まれなかった言葉まで読み取ることはできない。
その日、名を失うより遥か昔の砂漠の王が、何を思って魔物の前へ立ち、なぜ敵国の兵と民を背へ庇ったのか。
その答えは、未だ誰にも知られぬ過去の中に残されていた。