真王ガノンドロフ 作:ミスターソード
石は、そこへ刻まれたものが正しいかどうかを知らない。
王の偉業を刻めと命じられれば、戦場から遠く離れた玉座に座る者を誰よりも勇ましく残し、敗れた者の名を削れと命じられれば、その者が確かに生き、何かを成した痕跡さえ、初めから存在しなかったかのように砕いてゆく。
石が残すのは真実ではない。
鑿を振るう者が、残そうと決めたものだけである。
だからこそ石工は、自らの目で見なかったものを刻まず、見たものの中にも、形を与えてよいものと、石へ閉じ込めるべきではないものがあるのだと、まだ槌より重い物を持てなかった頃から教えられてきた。
その教えに従うならば、その日、彼が見たものは、何一つ石へ刻むべきではなかったのかもしれない。
−−−−
ハイラル平原の南を横切る古い街道では、朝から砦の壁を打つ音が続いていた。
砦と呼ばれてはいるものの、今そこへ残っているのは、腰ほどの高さまで崩れた外壁と、半分を失った門、それから兵が雨風を凌ぐための小さな建物だけであり、近隣に暮らす者の多くは、この場所を守りの要としてではなく、荷車の車輪が外れたときに工具を借り、急な雨に降られたときには軒下へ逃げ込むための休息所として使っていた。
それでも、街道を行き交う人が増えれば、魔物や獣から荷を守るための壁が必要となる。
国が形を持ち始めてから、これまで別々の集落で暮らしていた者たちも、王城へ作物を運び、遠い土地で採れた石や木材を受け取り、再び自分たちの村へ持ち帰るようになり、その道の途中にある砦を直すため、王城の命によって十六人の兵と、近隣から集められた石を積む者、木を組む者、食事を用意する者たちが送られていた。
石工も、その中の一人である。
生まれた村から王城まで行ったことはなく、まして、空から降りてきた神の末裔がハイラルを一つの国にしたという話も、作業の合間に兵たちが語るものを聞くばかりであったが、誰が王となろうと、崩れた石を積み直す方法まで変わるわけではなく、今の彼にとっては、初代の王がどれほど強い光を操るかという話より、北壁の土台に入った亀裂を夕方までに埋められるかどうかの方が重要であった。
ただ、七日ほど前に平原を騒がせたモルドラジークの群れについては、王城から離れたこの砦にまで話が届いている。
本来なら砂の下から出ることのない巨獣が何体も大地を渡り、建国されたばかりの王国へ押し寄せたものの、ラウル王が放った光によって退けられ、砦へ向かうはずであった荷車の幾つかも、安全が確かめられるまで道の途中で足止めされたという。
なぜ砂漠の獣が群れを成して現れたのかを知る者はいない。
兵たちは、地中の水脈が変わったのではないか、王城の光を恐れて逃げてきたのではないかと、思いつくままに理由を並べていたが、答えを知っているらしい者は一人もおらず、最後には、獣であれば時に人には分からぬこともするという、何も説明していない言葉で話を終えた。
石工も、それ以上考えなかった。
目の前にモルドラジークが現れれば、考えるより先に逃げるしかなく、現れない獣がなぜ暴れたのかを思い悩んだところで、積み上げる石が一つ増えるわけではない。
その日の昼までに北壁の亀裂は埋まり、石工は最後に詰めた小石を槌の柄で叩きながら、近くで休んでいる兵たちの声を聞いていた。
砦を預かる指揮官は、予定より早く作業が進んだことを喜びながらも、南の草原に魔物の足跡が増えているため、陽が傾くより前に今日の仕事を終え、荷と人を壁の内側へ入れるよう命じている。
心配しすぎだと笑う者もいた。
街道を見張るため連れてきた十六人は、いずれも槍や盾を持ち、一体や二体のボコブリンであれば追い払えるだけの力があり、門も外壁も、昨日までよりは遥かに砦らしい形へ戻っている。
されど、石工はその命令に従った。
石は、崩れる直前まで自らが崩れるとは告げない。
何も起きていないときに備えることを笑う者ほど、亀裂が開いた後になって、なぜ誰も教えなかったのかと喚くものである。
道具を纏め、使わなかった石材へ布を掛けていると、南の見張り台から短い笛の音が鳴った。
一度。
間を置かず、二度目が続く。
魔物を見つけた合図であった。
−−−−
最初に草の間から姿を現したのは、小さな角を持つ三体のボコブリンであり、見張り台から放たれた矢が一体の足下へ刺さると、散り散りになって逃げるどころか、後ろに続くものへ道を譲るように左右へ分かれた。
その間から、長い槍を持つリザルフォスと、二体のモリブリンが現れる。
更に後ろでは、草より高い木の柵が動いていた。
魔物たちが枝と獣の骨を括り合わせ、盾の代わりとして前へ押し出しているのであり、その陰に幾つの影が潜んでいるのか、砦から見ただけでは分からなかった。
指揮官の声が飛び、外で作業をしていた者たちが門へ走る。
石工も槌を腰へ差し、近くにいた木工の腕を掴んで壁の内側へ入ったが、食料を積んだ荷車の一台が門の前で車輪を溝へ落とし、引いていた馬が魔物の声に怯えて暴れたため、道は瞬く間に塞がれた。
荷車を捨てろという命令に、持ち主である商人が積荷だけは下ろさせてくれと食い下がり、兵が馬の縄を切り、別の者が袋を一つでも砦へ投げ込もうとする間にも、木の柵を押す魔物は距離を詰めてくる。
矢が柵へ当たり、骨の隙間へ突き刺さる。
一本、二本と重なっても、柵の向こうにいるものまでは届かない。
指揮官は八人を門の外へ出し、盾を重ねて魔物の進路を狭めると、残る兵には外壁の内側から槍を出させ、作業に来た者たちを北側の兵舎へ集めるよう命じた。
十六人もいるのだから、どうにかなる。
石工はそう考えようとしたが、木の柵が盾の列へぶつかった瞬間、その考えは、重い音と共に砕けた。
受け止めた兵たちの足が土へ沈み、柵の隙間から突き出された槍が盾の縁を滑る。左右へ分かれていたボコブリンが外壁へ取り付き、石を積み直したばかりの北側へ回ろうとするのを、壁上の兵が矢で追い払ったものの、正面ではモリブリンが柵ごと兵を押し返し、溝へ落ちた荷車が退路を狭めていた。
石工は、兵舎へ運び込まれた者の数を数えた。
食事を作っていた二人。
木工が三人。
商人と、荷を運んでいた者が四人。
自分を含めた石工が二人。
一人足りない。
門の外を見ると、荷車の下へ、小さな身体が伏せている。
商人に付いてきた子供であった。
大人たちが積荷と馬へ気を取られている間に転び、動き出した魔物と砦の間へ取り残されている。
石工は門へ向かった。
兵の一人に胸を押し返され、武器も持たぬ者が出るなと怒鳴られたが、荷車の下に子供がいると告げると、その兵は顔色を変え、傍らの者へ盾を寄せるよう命じた。
その僅かな間に、正面の柵が兵の列を押し割った。
門の外へ出ようとした兵が、横から振るわれた棍棒を盾で受け、石工の前へ倒れる。
木と骨の柵が傾き、その向こうから魔物が溢れ出した。
子供は、まだ荷車の下にいる。
石工は倒れた兵の盾を拾い、使い方も分からぬまま身体の前へ構えた。
今から走っても、間に合わない。
そう分かっていながら一歩を踏み出したとき、街道の北で、六頭の馬が相次いで嘶いた。
荷車へ近づいていたボコブリンが足を止め、魔物の何体かが、声のした方角へ顔を向ける。
少し離れた崩れた道標には六頭の馬が繋がれ、乗り手だけが、戦いの起きている場所まで進んできていた。
五人の女戦士が立っている。
日に焼けた褐色の肌と、燃えるような赤い髪。身に纏う布や金の装飾は、この辺りで暮らす者のものではなく、石工も、砂漠から来る商人に交じって何度か見たことのあるゲルド族であるとすぐに分かった。
先頭の女は、ハイラルの兵が用いるものよりも刃が広く、柄へ赤い布を巻いた槍を構え、残る四人は曲刀へ手を掛けている。
ゲルド族は女の一族であり、その誰もが、幼い頃から砂と魔物の中で生きる術を学ぶという。
五人だけで十六人の兵へ加わろうというのであれば無謀であるが、彼女たちが魔物へ向ける目には恐れがなく、中でも先頭に立つ女は、王城から来た指揮官よりも遥かに戦場へ慣れているように見えた。
あの女が長なのだろう。
石工がそう考えた直後、女は槍を投げず、僅かに身体を横へ退いた。
背後から、もう一つの影が現れる。
その足が地を踏んでいるのを見るまでは、馬に乗っているのだと思った。
女戦士たちよりも頭二つは高く、肩幅も、腕の太さも、同じヒトとして生まれたことを疑うほど大きかったためであり、長く赤い髪と、額から伸びる金の飾りを見ても、それがゲルド族と共に歩く男であることを理解するまでには、幾つかの呼吸が必要であった。
男は武器を抜いていない。
魔物へ襲われている砦と、道を塞ぐ荷車、それから槍を構えるハイラル兵を順に見た後、その視線を先頭の女へ向けた。
「王よ、南へ回れば砦を避けられます」
女が告げる。
何か別の聞き間違いであると、石工は思った。
王とは、国を治める者を呼ぶ言葉である。
ゲルド族を治めるのならば、目の前の女こそがその立場にあるはずであり、女ばかりが生まれる砂漠の一族に、なぜ男の王がいるのか、石工の知る限り、そのような話は御伽話の中にすらなかった。
だが、四人の女戦士もまた、男が答えるのを待っている。
巨大な男は南へ続く道を見た。
砦を避けることはできる。
遠回りにはなるが、目の前の魔物へ関わらず、砂漠へ帰る道を選ぶこともできるはずであった。
その時、崩れかけた正面の柵から弾き出された二体のボコブリンが左右へ分かれ、一体は声を上げる馬の方角へ、もう一体は街道の南へ走り出すと、群れの後方にいたモリブリンまでもが、大きく迂回しながら女戦士たちの背後へ回ろうと動き出した。
戦いを避けるための道は、既に戦いの外にはない。
男は南へ向けていた目を戻し、乱れ始めた魔物の群れと、立て直せずにいるハイラル兵、それから自らの進路を塞ぐ荷車を一度に見渡した。
男は腰の曲刀を抜いた。
「道を塞ぐものを退ける。アルディ、四人を東へ回せ。お前は残れ」
それが命令であると理解したアルディが槍を投げ、荷車へ近づいていたボコブリンの肩を貫くと、四人の女戦士も曲刀を抜き、理由を問い返すことなく街道の東へ走った。
ハイラル兵の指揮官が、男へ向かって何者かと叫ぶ。
男は答えなかった。
代わりにアルディと呼ばれた女が、背に残した槍へ手を掛けたまま、ゲルドの王、ガノンドロフの進路を塞ぐのであれば、魔物と共に斬られても文句を言うなと告げた。
礼でも、共闘の申し出でもない。
それでも、魔物へ向けられた五つの刃だけは、ハイラル兵と同じ方角を向いていた。
−−−−
ガノンドロフは、兵たちへ何一つ命じなかった。
互いに盾を合わせることも、どちらが正面を受け持つかを決めることもなく、ハイラル兵が門の前で魔物を押し留めている間に、四人のゲルド戦士は外壁の東を回り、群れの横腹へ曲刀を入れた。
アルディは一人だけ街道へ残り、背に負っていたもう一本の槍を、砦から離れた場所に潜んでいた弓持ちへ投げると、腰の曲刀を抜き、そのままガノンドロフの後を追う。
男は走っていなかった。
砦へ向かって歩いている。
されど、その一歩は、槍を持つ兵が二歩進むよりも長く、前へ立ったボコブリンが錆びた剣を振り上げたときには、既に曲刀の届く場所まで近づいていた。
一度、刃が閃く。
魔物の持つ剣だけが宙へ飛び、二度目には、振り下ろされた曲刀が肩から胸までを深く斬り裂いた。
ガノンドロフは倒れる身体を見ず、その向こうにいた次の一体へ進む。
速いのではない。
迷いがない。
どこから武器が伸び、どの足が先に動き、傷を負った魔物がどちらへ逃げるのか、その全てを、相手が動くより前から知っているようであった。
石工は、子供のもとへ走った。
兵が作った僅かな隙間を抜け、荷車の下へ手を伸ばす。
子供は足を挫いていたが、骨は折れていない。
抱き上げようとしたところで、荷車の反対側から、青い腕が伸びた。
石工は拾った盾を押し出し、ボコブリンの棍棒を受けた。
腕から肩へ衝撃が抜け、盾が手を離れる。
二撃目が来る。
子供を庇って身体を丸めたが、棍棒は落ちなかった。
目の前に、長い赤髪が広がっている。
ガノンドロフが、石工と魔物の間へ立っていた。
曲刀の切っ先から黒い血が落ち、地面へ小さな染みを作る。
男の背は、門よりも大きく見えた。
石工が子供を抱いて立ち上がろうとすると、ガノンドロフは魔物へ曲刀を向けたまま、空いている左腕だけを背後へ伸ばし、その大きな掌で二人を押し留めた。
「剣の邪魔だ。立てるなら、中へ失せろ」
子供の無事を確かめるでもなく、自分たちを見ようとさえしない声は、道に転がる石を退けるときのものと何も変わらず、石工は助けられたのか、ただ戦いの場から追い払われたのかを考える間もないまま、抱えた身体を落とさぬよう立ち上がった。
ガノンドロフは既に振り返り、次に迫る魔物へ曲刀を向けている。
石工は子供を抱いたまま門へ走り、倒れていた兵の傍らを抜けたが、砦の中へ戻る直前、背後から聞こえた声に足を止めた。
笑い声であった。
低く、地の底から響くような、聞くだけで肌が粟立つ声。
振り返ると、ガノンドロフが笑っている。
だが、その顔には喜びがなかった。
曲刀を握る右腕は前へ向けたまま、空いている左手が胸元の布を掴み、厚い指を深く食い込ませている。
アルディが、その名を呼んだ。
王ではなく、ガノンドロフと。
その声には、魔物を前にしても見せなかった焦りがあったが、それが不気味な笑いへ向けられたものなのか、昨夜から残るという傷を案じたものなのか、石工には判じることができなかった。
男の足下では、曲刀から落ちた魔物の血が乾いた土へ吸い込まれ、刃の上を滑った陽の光が、呼吸に合わせて小さく揺れている。
それでも、胸元を掴んだ左手の指は布を破らんばかりに食い込み、刃を握る右腕は、そこに敵がいるわけでもない空所へ向かって、僅かずつ持ち上がろうとしていた。
そのすぐ近くにいた一体のモリブリンだけが、振り下ろしかけた棍棒を不意に止め、頭を垂れることも武器を捨てることもなく、濁った目をガノンドロフへ向けたまま幾度か首を振っていたが、その間にも、他の魔物はハイラル兵の盾を打ち、東ではゲルド戦士たちの曲刀と錆びた刃が幾度も重なっていた。
ガノンドロフの口元が、更に深く歪む。
笑っているはずの顔には、勝利を得た者の歓喜も、獲物を前にした獣の昂ぶりもなく、ただ、今にも折れようとするものを力任せに繋ぎ止めているような苦痛だけが浮かんでいた。
「王よ、傷が開きます。お下がりを!」
アルディの声が飛ぶ。
ガノンドロフは答えない。
石工は子供を抱えたまま、何が起きているのかも分からず、ただ先ほどまで敵を斬っていた男が、今は己の身体さえ思うように動かせずにいることだけを見ていた。
その中で、ガノンドロフだけが次の動きを選んだ。
曲刀を持つ右腕を自らの胸へ引き寄せ、刃を地面へ突き立てると、左膝を折り、開いた掌を古い石床へ叩きつけた。
厚い掌が石を打つ音は、入り乱れる刃や怒号の中にあってなお重く響き、その下にあった古い床へ、五本の指に沿って細い亀裂が走った。
男の背が強張る。
指の爪が石を削り、曲刀を支えにした肩が震え、強く噛み締めた口の端から血が落ちる。
それでも、掌は上がらない。
何のためにそうしているのかは分からなかったが、胸を押さえていたときよりも呼吸は深く、されど一息ごとに石を押す左腕へ掛かる力は強まり、持ち上がりかけた右腕までを全身で押し留めているかのように、その巨体は小刻みに震え続けた。
「黙れ」
目の前にいる魔物へ向けた言葉なのか、駆け寄ろうとするアルディを制したのか、それとも、自らの喉から零れた笑いを止めようとしたのか、石工には分からなかった。
やがてガノンドロフの口から笑いが消え、持ち上がろうとしていた右腕が下がると、何度か途切れていた呼吸も、少しずつ元の深さを取り戻していった。
何かが光ったわけでも、煙が立ったわけでもない。
ただ、左手を石へついたまま荒い息を吐く男と、その掌の下から伸びる、五本の黒い指の跡だけが残っていた。
動きを止めていたモリブリンが大きく頭を振り、吼えると、そのまま他のものを押し退け、膝をつくガノンドロフへ棍棒を振り上げる。
アルディが駆けるより早く、ガノンドロフは顔を上げた。
左手を石へ残したまま曲刀を引き抜き、迫る棍棒を受けるのではなく、その柄へ刃を滑らせると、持ち手へ届く直前に手首を返し、太い指をまとめて斬り裂いた。
棍棒が地面へ落ちる。
モリブリンは片膝をつき、されど逃げも、頭を垂れもせず、残った腕を振り上げて目の前の男へ掴みかかった。
ガノンドロフは石から掌を剥がした。
黒く焼けた皮膚から血が落ちる。
立ち上がりながら魔物の腕を掻い潜り、その脇へ身体を入れると、力を失ったとは思えぬ一撃で曲刀を振り抜いた。
刃が胸を裂き、巨体が揺れる。
なおも倒れようとしない魔物へ、砦の指揮官が率いる兵たちの槍が、正面ではなく左右から伸びた。
ガノンドロフが命じたのではない。
ハイラル兵も、彼のために動いたのではない。
ただ、それぞれが目の前の敵を倒すために刃を向け、偶然、その瞬間だけ同じ一体へ届いた。
モリブリンが倒れる。
それを見た残りの魔物は、東側から迫る四人のゲルド戦士と、砦から出たハイラル兵の間を抜けようとして散り、追おうとした兵を指揮官が止めた。
アルディもまた、逃げる魔物ではなく、掌から血を流すガノンドロフのもとへ戻った。
戦いは終わった。
誰かが勝利を告げたわけでも、互いの働きを称えたわけでもなく、先ほどまで重なっていた刃の音と怒号が一つずつ消え、後には負傷者の呻きと、倒れた荷車の下で怯える馬の息だけが残った。
−−−−
石工は、抱えていた子供を商人へ返した。
母であったのか、父であったのか、それとも雇い主であったのか、確かめる間もなくその者は子供を抱き締め、何度も頭を下げながら砦の奥へ連れてゆく。
ハイラルの兵たちは負傷した者を壁際へ運び、ゲルドの女戦士たちは街道へ戻り、それぞれ別の場所で刃の血を拭っていた。
戦っていたときには同じ敵へ向いていた二つの集団が、戦いが終わった途端、見えない境を挟んだように分かれている。
ガノンドロフは、そのどちらにも入らなかった。
黒い手形の傍らへ立ち、自らの左手を見ている。
アルディが布を巻こうとすると、男は腕を引き、触れるなと低く告げた。
「王よ、昨夜の傷さえ閉じておりません」
責めるような言葉であったが、声は小さく、石工の場所からは辛うじて聞き取れるほどであった。
昨夜、何があったのか。
先ほどの異様な笑いと関わりがあるのか。
石工には分からない。
ただ、ガノンドロフの衣の下には、今日の戦いで受けたものとは思えぬ古い血の染みがあり、左手を押さえる右腕にも、薄く焼けたような痕が残っていた。
指揮官が近づく。
ガノンドロフを恐れていないわけではない。
先ほど男が笑いながら石へ膝をついたとき、槍を向けようとしたことを隠すように、その手は武器から離されていたが、足取りは慎重であり、男の曲刀が届く場所へ入る直前には、一度だけ呼吸を整えていた。
それでも、指揮官は剣を鞘へ収め、砦の者を救ったことへ礼を述べた。
ガノンドロフは、礼を受けなかった。
「俺は我が道を塞いだ獣を退けただけだ」
予め決めていたような答えであった。
指揮官が、王城へ報告するため、先ほど戦場で告げられた名に相違ないかと確かめると、ガノンドロフは何も返さず、アルディへ出立を命じる。
代わりにアルディが立ち上がり、ハイラルへ臣従を示したゲルドの王、ガノンドロフであると告げた。
ガノンドロフは自ら名乗ろうとはしなかったが、その名と臣従の二つが王城へ持ち帰られることを、止めようともしなかった。
臣従という言葉を聞き、周囲の兵が僅かに表情を変える。
砂漠の一族がハイラルへ加わったという知らせは、王城を離れたこの砦へまだ届いていなかった。
何より、女の一族を治める者が男であることを、その場にいる誰も知らなかった。
ガノンドロフは、向けられた驚きの目を気に留めることなく、黒く焼けた左手を下げたまま、右手の曲刀を鞘へ収め、南へ続く街道へ歩き始めた。
五人の女戦士が後へ続く。
誰一人、ハイラルの兵と肩を並べない。
誰一人、助けた者へ振り返らない。
それでも、その場に残された全ての者が、彼らの背を見送っていた。
石工は、黒い手形へ目を落とした。
五本の指は石の表面へ煤を付けたのではなく、内側まで焼き、触れれば崩れそうなほど細かな亀裂を残している。
掌一つで、なぜ石がこのように焼けたのか。
なぜ戦いの只中で笑い、誰へとも知れぬ声で黙れと命じ、その手を地へ押し付けなければならなかったのか。
石工には、そのどれも分からない。
問いかけるべき男は、既に遠ざかっている。
石工は腰から槌を抜き、黒い跡の傍らへ膝をついた。
今ここへ鑿を入れるつもりはない。
見たものをそのまま石へ刻むには、己の目に映ったものが何であったのか、あまりにも分からぬことが多すぎた。
代わりに、砦の中から燃え残った木炭を拾い、崩れていない壁の一面へ、忘れぬための線を引いた。
初めに描いたのは、十六人のハイラル兵である。
次に、離れた場所で曲刀を振るった五人の女戦士。
その間へ、片膝をつきながら、武器を手放さなかった魔物を置く。
最後に、誰よりも大きな男の背を描いた。
顔から先に描こうとは思わなかった。
石工が戦いの中で見たものは、笑いながら苦痛に歪んだ横顔と、礼を退けたときの冷たい目、それから、自分と子供の前へ立った背中であり、そのどれを男の本当の顔として残せばよいのか、決めることができなかったからだ。
背後には、倒れた兵を運ぶ者と、荷車の下から助け出された子供を描き、その前へ立つ男の左腕は、先ほど石工たちを押し留めたときと同じように、大きく後ろへ伸ばした。
石床へ残された五本の黒い跡は、その足下へ別に描き加えた。
そこまで描いたところで、指揮官が傍らへ立った。
「英雄として残すのか」
石工は首を横へ振った。
英雄であるかは分からない。
あの男が群れを崩したため、結果として砦は持ちこたえたが、それを慈悲と呼んでよいのかさえ、石工には分からず、礼を受けようともせず、不気味な笑いを零し、触れた石を黒く焼いた男を、善き者であるとも、悪しき者であるとも決めることはできなかった。
「見たものを、忘れぬようにするだけです」
指揮官は壁の絵と、石床へ焼き付いた手形を見比べた後、それ以上何も言わなかった。
やがて、この砦は建て直される。
木炭で引いた線は雨に流され、石工が見たものを知らぬ者たちの手によって、新たな壁がその上へ積まれるだろう。
それでも、石工が生きている間に、今日の光景を石へ移すことはできる。
ガノンドロフという名も、苦痛に歪んだ顔も、女戦士たちが彼を王と呼んだ声も、その時には覚えている。
いつか誰かが、その名を残してはならないと命じる日が来ることを、石工は知らない。
顔へ鑿を打ち込み、文字を抉り、男が何者であったかを歴史から消そうとする者が現れることも知らない。
ただ、後に何を削られようと、最初から顔を描けなかったとしても、その背後にいた者たちまで消すつもりはなかった。
石工が見た砂漠の王は、自らの道を塞いだ魔物を斬り、その剣筋を塞いだ石工と子供を背後へ追いやり、そして、誰にも理由を告げぬまま石へ膝をついた。
何をしようとし、何を思い留まったのかは分からない。
ただ、子供を抱いた自分を押し留めた左腕と、その前へ立った大きな背だけは、見違えようのないものであった。
槌を持つには、まだ早い。
石工は木炭を握り直し、顔のない大男の背へ、もう一本だけ深い線を加えた。