Dropping Out 〜What if Liko drop out to our world? 作:vic.
【警視庁・渋谷警察署 取調室】
交番での手に負えない状況を受け、本署へと移送されたリコは、ただ呆然とパイプ椅子に腰かけていた。
机の上には、警察が用意した身元不明者用の書類。しかし、「氏名」「生年月日」「住所」「本籍」のすべての欄が空欄のまま放置されている。
警察官A
「……戸籍データベース、住民基本台帳、指紋照会、さらには失踪者リスト。何一つヒットしない。文字通り、この世界に『存在しない人間』だ」
警察官B
「それだけじゃないですよ……あの頭の耳と尻尾。医師を呼んで簡易的に診察してもらいましたが、筋肉も血管も神経も、完全に本人の体の一部として機能しているそうです。『精巧な特殊メイクや義体などではない』って……」
警察官A
「じゃあ何だっていうんだ……。アニメのキャラクターが、本物の『猫耳』を生やして渋谷の真ん中に落っこちてきたとでも言いたいのか!?」
警察官たちの困惑と苛立ちが混じった話し声が、ドア越しに漏れ聞こえてくる。
リコは膝の上で固く拳を握りしめ、下を向いた。
リコ
「(私は……本当に『物語の中の存在』だったの……? ロイも、ドットも、フリードさんも……あの温かいブレイブアサギ号の日々も……全部、この世界の人たちが作った『アニメ』なの……?)」
自分の根底がグラグラと揺らぐような恐ろしい感覚。
胸を刺すような孤独感に耐えかねて身体を縮めると、頭の上の耳がくたんと力なく伏せられた。
【都内・大手テレビ局 報道番組スタジオ】
その夜、事態は警察の管理下をはるかに超えて動き出していた。
渋谷スクランブル交差点で数千人の通行人に目撃され、SNSに無数の動画や写真が投稿されたことで、インターネット上は大炎上状態となっていたのだ。
キャスター
「次のニュースです。本日午後、東京・渋谷のスクランブル交差点で、人気アニメ『ポケットモンスター』の主人公・リコのコスプレをしたとみられる身元不明の少女が保護されました」
コメンテーター
「ええ、この映像ですね。SNS上では『リアルすぎる』『CGではないか』と大きな話題になっていますが……驚くべきは、彼女の頭部にある猫耳と尻尾です」
画面が、通行人の撮影したスマートフォン映像へと切り替わる。
混乱し、耳を伏せてその場にしゃがみ込むリコの鮮明な姿。
動画内で彼女の緑色の猫耳が感情に合わせてピクピクと動き、指で触れた瞬間に飛び上がる様子がアップで強調される。
キャスター
「警察および医療機関の発表によりますと、少女の頭部の耳と尻尾は装飾品ではなく、生体組織であることが確認されたとのことです。現在、警察は彼女の身元の特定を急ぐとともに、遺伝子異常や遺伝子組み換え実験の可能性も含めて調査を進めています」
コメンテーター
「アニメ『ポケットモンスター』の最新シリーズ放映中というタイミングも相まって、海外のメディアでも『次元を超えた現象か』『極めて高度なプロモーションか』と大々的に報じられています。しかし、警察側は事件性の有無を含めて慎重に……」
【ネットの反応(SNS・動画配信サイト)】
テレビ報道を皮切りに、世間の狂乱はピークに達していた。
@user_1:「アニポケのリコちゃん本物すぎて怖いんだがwww 猫耳動いてるのヤバすぎ」
@user_2:「テレビで見たけど、あれ絶対に演技じゃないよね……マジでパニックになってて可哀想になってきた」
@user_3:「ポケモンの新手のPR施策説は? でも人間の体に耳生やすとかコンプライアンス的に無理だろ」
@user_4:「ニュースで『身元不明』って言ってたぞ。マジで異世界転移(逆転移)してきた説あるんじゃないの……?」
@user_5:「渋谷の交番前にメディアと野次馬がヤバいぐらい集まってるらしい。警察も警察で対応に困ってるな」
「#渋谷の猫耳少女」「#アニポケリコ」「#現実転移」といったワードがX(旧Twitter)のトレンド上位を独占。
リコの写真や動画は数億回再生され、ひとつの「巨大なコンテンツ」として現実世界の消費の渦に呑み込まれていった。
【渋谷警察署・特別保護室】
深夜。警察署の外には、押し寄せた報道陣のフラッシュと、野次馬たちの雑音が遠くから鳴り響いていた。
薄暗い部屋のベッドに腰掛け、壁に設置された小さなテレビをみつめるリコ。
画面の中では、色鮮やかなアニメ『ポケットモンスター』の映像が流れていた。
画面の中で、元気に笑顔を弾けさせるロイ。
パソコンに向かって不機嫌そうにキーを叩くドット。
そして――自分の腕に抱きつき、嬉しそうに「にゃう!」と鳴く相棒のニャオハ。
リコ
「ニャオハ……。みんな……っ」
テレビの画面へ手をおそるおそる伸ばす。
しかし、指先に触れるのは、冷たく平らなガラスの感触だけだった。
温もりも、甘い香りも、そこには存在しない。
リコ
「私……みんなに会いたいよ……。ブレイブアサギ号に帰りたい……っ」
画面の中の「自分」は、仲間たちと共に楽しそうに旅を続けている。
けれど、今ここにいる自分は、相棒も仲間も居場所も失い、ただの見知らぬ世界で「珍しい現象」として大勢の人に見せ物にされている。
涙が頬を伝い、膝の上へとぽとぽととこぼれ落ちる。
動揺に反応して、頭の上の猫耳が悲しげにぴったりと頭に張り付き、尻尾が痛々しく力なく床を擦った。
誰も本当の私を見てくれない。
誰も私を「リコ」として助けてはくれない。
世間が「メディアの寵児」として彼女の話題で持ちきりになる裏で、少女はひとり、冷たい現実の闇の中で静かに絶望に沈んでいく。
【ブレイブアサギ号・操縦室】
激しい警戒音が、ブレイブアサギ号の船内に響き渡っていた。
モニター群の前に陣取ったドットは、血走った目で高速で流れる複雑なコードと波形データを追い続けている。キーボードを叩く指先は、恐怖と焦燥で激しく震えていた。
ドット
「なんなんだよ……なんなんだよ、これ……っ!
物理的な空間断裂じゃない、テラスタルのエネルギー波形とも違う……! リコが立っていた場所の座標データだけが、一瞬で丸ごと消去(ロスト)されてる……!」
操縦竿を握るオルランドや、重苦しい表情で地図を広げるフリード、マードックたちの顔には、かつてないほどの緊張と色が失われていた。
船内のどこを探しても、リコの姿はない。彼女の部屋にも、甲板の隅にも、彼女がそこにいたという痕跡すら残されていなかった。
ロイ
「リコーーっ! リコーーーっ!!」
甲板へ飛び出したロイは、喉がちぎれんばかりの声で空に向かって叫び続けていた。
隣にはホゲータが立ち、不安そうに大きな目をうるませながら「ホゲ、ホゲぇ……!」と悲痛な声を上げている。
ロイ
「嘘だろ……? さっきまでそこにいたじゃん! 一緒に朝ごはん食べて、笑ってたじゃん!!
リコ! どこにいるんだよ! 返事してくれよっ!!」
ロイは甲板の柵から身を乗り出し、雲の切れ間から見える下界の景色を必死に探した。
パルデアの広い空、青々とした山々、遠くに見える街並み。
だが、どこを見渡しても、青いパーカーを着た少女の姿も、彼女が落ちていったはずの「影」の痕跡すら見当たらなかった。
【ブレイブアサギ号・リコの部屋】
騒然とする船内の中で、リコの部屋だけが不気味なほど静まり返っていた。
ベッドの上には、整えられたままの毛布。
机の上には、旅の途中で買ったスケッチブックとペン。
そして――部屋のドアが開くと同時に、一匹のポケモンが滑り込んできた。
ニャオハだった。
ニャオハ
「にゃ……? にゃう……?」
室内を見回し、リコの匂いを確かめるようにくんくんと鼻を鳴らす。
いつもなら、ドアを開ければ「あ、ニャオハ」と優しく微笑んで抱き上げてくれるはずの主(あるじ)の姿が、どこにもない。
ニャオハはベッドに飛び乗り、リコの枕に顔をうずめた。
そこには、確かにわずか数十分前までリコがいたあたたかな匂いが残っている。
しかし、部屋のどこを探しても、彼女の温かい手も、優しく髪を撫でてくれる感触も存在しなかった。
ニャオハ
「にゃあぁぁぁん……っ! にゃう、にゃうっ!!」
何かを察したように、ニャオハは高く悲しげな鳴き声を上げた。
爪を立ててベッドカバーを引っかき、部屋の中をぐるぐると走り回る。
ドアに向かって叫び、廊下へ飛び出しては、リコを探して船内を走り回った。
【ブレイブアサギ号・医務室前廊下】
駆けずり回っていたニャオハは、廊下の真ん中で足を止めた。
向かい側から、肩を落としたロイとドット、そしてフリードが歩いてくる。
ロイ
「ドット……本当にどこにも反応ないの……? 探知機とか、もっと広げて……っ」
ドット
「やってるよ! パルデア全域のネットワークにアクセスして、監視カメラもレーダーも全部解析してる!
でも……でも……っ! リコのスマホロトムの信号すら、世界中のどこからも検出されないんだ……! まるで、最初からこの世界に存在していなかったみたいに……っ!」
ドットの目から、こらえきれなくなった涙がポロポロとこぼれ落ちる。
いつも冷静な彼女が、キーボードを叩く手を止めて顔を覆った。
フリード
「……クソっ……! 俺が……俺がもっと近くにいれば……っ!」
壁を強く殴りつけるフリード。
その怒りと無力感に満ちた声に、ニャオハは足を止め、じっと三人の顔を見つめた。
ニャオハ
「にゃ……?」
ロイがしゃがみ込み、震える手でニャオハの体を抱きしめた。
ロイ
「ごめん……ごめんね、ニャオハ……。リコを……リコを見つけられないんだ……っ」
ロイの涙がニャオハの頭に落ちる。
その瞬間、ニャオハは悟った。
大好きなあの少女は、自分たちの手が届かない「どこか」へ、完全に消えてしまったのだと。
ニャオハ
「にゃぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
相棒を失ったニャオハの痛切な叫びが、静まり返ったブレイブアサギ号の船内にどこまでも切なく響き渡っていた。
少女が消えた「仮想世界」と、少女が落ちてしまった「現実世界」。
果てしない次元の隔たりを隔てて、お互いを求め合う声は、どちらの世界にも届くことはない。
第2話「メディアとして流行する少女」(後半)
**【地下鉄・渋谷駅構内】**
警視庁での取り調べや世間の狂乱から這うように逃げ出し、人目を避けるように地下深くへと潜り込んだリコ。
無機質なコンクリートの壁と、冷たいベンチ。行き交う人々はスマートフォンの画面に夢中で、足早に過ぎ去っていく。
すっかり体力を使い果たしたリコは、地下鉄のベンチにポツンと座り込み、力なく俯いていた。
膝の上で丸まるのは、短くもフワフワとした緑混じりの毛並みを持つ小さな尻尾。
感情の糸が切れかかっているせいか、その尻尾も力なく垂れ下がっている。
「……ハァ……っ、ハァ……」
絶望と孤独、そして恐怖。
身体の奥底から押し寄せる疲労感に押しつぶされそうになっていたその時、目の前に静かな足音が立ち止まった。
輝美
「こんにちは、リコちゃん。私は輝美」
不意に頭上から掛けられた、穏やかで澄んだ声。
リコがハッと顔を上げると、そこには眼鏡の奥から温かな眼差しを向ける一人の女性が立っていた。
知的で落ち着いた雰囲気を纏った彼女の名は、青空輝美(あおぞら てるみ)。26歳という若さで実績を重ねる天文学者だった。
リコ
「えっ……あ、あの……私の名前を……? 警察の人、ですか……?」
輝美
「いいえ、ただの天文学者よ。街中の大型ビジョンやニュースであなたのことを見かけてね。居ても立っても居られなくて探していたの」
輝美は膝を折り、リコと目線を合わせるようにして優しく微笑んだ。
輝美
「私にはね、あなたよりひとつ年上の『そのま』っていう娘がいるの。女子高生なんだけど……なんだかあなたを見ていると、放っておけなくてね」
リコ
「娘さん……『そのま』さん……」
輝美
「ええ。それに私、こういう本も書いているのよ」
輝美は鞄から2冊の著書を取り出し、リコに見せるように提示した。
表紙には、出版社『夏至社』のロゴとともに激しい太陽のグラフィックや、広大な宇宙の図版が描かれている。
輝美
「夏至社から出版させてもらった『誰もが知らない太陽フレアの現実』と『2つ目の地球は本当に存在するのか?』という本。私はね、この世界(地球)の外側や、私たちがまだ知らない未知の現象についてずっと研究しているの。だから……あなたが『ここではないどこか』から来たとしても、何も不思議だとは思わないわ」
自分の言葉を頭から否定せず、一つの「可能性」として受け止めてくれる大人の存在。
その事実に、リコの張っていた緊張の糸がふっと緩んだ。
輝美
「ふふ、そんなに警戒しなくて大丈夫。全然緊張しなくて大丈夫だよ!」
そう言うと、輝美は温かい掌で、リコの頭をそっと撫でた。
――その瞬間。
リコ
「……あっ……ん……っ……」
輝美の手が頭頂部に触れた瞬間、リコのおでこから頭部にかけて、心地よい微振動が走り抜けた。
首元と胸の奥から、無意識のうちに音が漏れ出す。
リコ
「ゴロゴロゴロゴロ……っ……」
自分の意志とは無関係に、猫が喉を鳴らすような甘やかな「ゴロゴロ音」が体内に響き渡る。
ニャオハの特性――触れられたときの歓喜や安心感が、彼女の身体に深く刻まれた生物的本能として表出していた。
しかし、以前のニャオハのように周囲を包み込む「甘い香り」が漂うことはなかった。
現実世界という物理法則の厳しい環境において、彼女の身体が「人間としての境界線」をギリギリのところで保ち、完全な異形として崩壊(破綻)してしまわないための、一種の生物的な適応なのかもしれなかった。
ゴロゴロと心地よい音を鳴らしながら、急速に押し寄せる眠気。
温かい手に包まれた安心感の中で、リコはそのまま輝美の膝元へともたれかかり、すーすーと小さな寝息を立てて寝落ちしてしまった。
輝美
「……ふふ、頑張ったわね、リコちゃん。さあ、おうちに帰りましょう」
短くフワフワとした尻尾が、満足そうに一度だけパタンと揺れた。
世間が狂乱の渦に包まれる中、居場所を失った少女は、天文学者・青空輝美という新たな「母」の手によって、静かに引き取られていく。そして、彼女の意識は夢の中へと落とされていき…