浜町 一丁目 #港町 #朝市 #孤独のグルメ
百合園セイアが一人旅を思いついたのは、ある日の午後だった。
理由は、大したものではない。
ティーパーティーの会議が予定より早く終わった。
ミカはどこかへ遊びに行き、ナギサは山積みになった書類と格闘している。
珍しく、自分には何の予定もない。
窓の外では、薄い雲が流れていた。
セイアは手元のティーカップを傾ける。
「……ぬるいね」
紅茶は、すっかり冷めていた。
普段であれば、淹れ直してもらうところだった。
けれど、その日はなぜかそれすら億劫だった。
代わりに机の端に置かれていた旅行雑誌へ手を伸ばす。
誰が置いたのだろう。
ページをめくる。
海。
山。
古い町並み。
温泉。
湖。
セイアの視線が、ある一ページで止まった。
『港町・朝市特集』
色鮮やかな海鮮丼の写真が、紙面いっぱいに載っている。
「……」
じっと見つめる。
隣のページには、焼き魚。
その次には、出汁の効いた汁物。
さらに、名物の卵焼き。
商店街の揚げたてコロッケ。
海辺の喫茶店のプリン。
セイアは無言でページをめくり続けた。
「……なるほど」
小さく呟く。
旅というものには、食事が付きものらしい。
当然といえば当然なのだが、改めてそう意識すると妙に気になった。
トリニティにいれば、食事には困らない。
むしろ困るほどに整っている。
時間になれば用意される。
栄養も考えられている。
紅茶に合わせる菓子も選ばれている。
来客があれば相応のものが並ぶ。
それはとても恵まれていることだ。
だが。
「自分で、何を食べるか決める……か」
誰に相談するでもなく。
誰かの都合を考えるでもなく。
その時、自分が食べたいものを、自分で選ぶ。
そんな当たり前のことが、妙に面白そうに思えた。
◇
翌朝。
セイアは一人、駅にいた。
小さな旅行鞄。
帽子。
上着。
携帯端末。
財布。
そして、旅行雑誌。
ナギサには言っていない。
ミカにも言っていない。
先生には――
『少し出かけてくるよ』
それだけ送った。
返ってきたのは、
『"いってらっしゃい。ちゃんとご飯食べてね"』
だった。
セイアはその返信を見た時、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「まるで子供扱いだ」
そう呟いたものの。
今になってみれば、実に適切な助言だったかもしれない。
なぜなら。
「……朝食を忘れたね」
駅のホームに立ってから気づいた。
時刻は午前七時過ぎ。
胃が空腹を訴え始めている。
旅の開始早々、食事を忘れる。
「先が思いやられるな」
しかし、不思議と悪い気分ではなかった。
むしろ、これも予定外の一つだと思うと少し楽しい。
列車がやってきた。
セイアは乗り込む。
そして最初の乗り換え駅で、売店へ向かった。
「……これは」
駅弁が並んでいる。
肉。
魚。
卵。
野菜。
炊き込みご飯。
種類が多い。
セイアはしばらく黙って眺めた。
いつもなら、選択肢が多いほど判断は早い。
必要な条件を整理し、最適なものを選ぶ。
だが、食事となると話は別だった。
「何を食べたいか、か……」
合理性では決めにくい。
最終的に手に取ったのは、幕の内弁当だった。
焼き鮭。
卵焼き。
煮物。
漬物。
小さな唐揚げ。
俵型のご飯。
ひどく普通だった。
だが、列車の窓際で弁当を開けると、その普通さが妙に嬉しい。
まず卵焼きを一切れ。
「……甘い」
少し驚く。
出汁巻きのような塩気を想像していた。
けれど、これはかなり甘い。
次に鮭。
こちらは塩気が強い。
「なるほど」
甘い卵。
塩辛い鮭。
白いご飯。
交互に食べると、ちょうどいい。
煮物は冷めている。
だが、不思議と味が染みていた。
人参。
里芋。
蓮根。
一つずつ噛む。
列車が揺れる。
窓の外の景色が流れていく。
「……食事とは、場所で味が変わるものなのかな」
同じ弁当をティーパーティーの部屋で食べても、きっとこれほど楽しくはない。
知らない景色。
知らない駅名。
一定のリズムで響く車輪の音。
そして膝の上の弁当。
セイアは最後の一口まで、思ったより丁寧に食べた。
◇
目的地に着いたのは、午前十時前だった。
海沿いの小さな町。
駅を出た瞬間、潮の匂いがした。
「……これは分かりやすいね」
風が少し強い。
遠くからカモメの声も聞こえる。
旅行雑誌によれば、ここでは朝市が有名らしい。
地図を頼りに歩く。
ほどなくして、人の声が聞こえてきた。
「おお……」
市場だった。
魚。
貝。
干物。
野菜。
果物。
焼き物の匂い。
揚げ物の音。
湯気。
セイアは思わず立ち止まった。
「これは……想像以上だ」
視線をどこへ向けても食べ物がある。
店先で魚が焼かれている。
隣では海老が串焼きにされている。
さらに向こうでは、貝を網の上で焼いていた。
香りが混じる。
腹は、先ほど駅弁を食べたばかりのはずだった。
しかし。
「……不思議だね」
もう何か食べられそうだった。
最初に買ったのは、焼きホタテだった。
殻付きのまま焼かれた大きなホタテ。
店員が最後に醤油を垂らす。
じゅっ、と音がした。
香ばしい匂いが立ち上る。
「熱いから気をつけてね」
「ああ。ありがとう」
箸で貝柱をつまむ。
湯気。
息を吹きかけてから口に入れる。
「……っ」
熱い。
思った以上に熱い。
セイアは少しだけ目を見開いた。
「……これは……」
柔らかい。
噛むと甘い。
そのあとから醤油の香ばしさと潮の風味が広がる。
「美味しいね」
思わず口から出た。
気取った表現ではない。
ただ、美味しい。
それだけだった。
次は、海老の串焼き。
殻ごと食べられる、小さめの海老。
塩が強い。
「こちらは随分と直接的な味だ」
けれど、それがいい。
海辺を歩きながら食べると、その塩気すら景色の一部になる。
さらに。
練り物。
揚げたてだった。
魚のすり身に玉ねぎと生姜が混ぜられている。
一口。
「……これは危険だね」
歩きながら食べられる。
温かい。
しかも軽い。
「いくらでも食べられそうだ」
そう言った直後。
隣から漂ってきた匂いに足が止まった。
コロッケ。
「……」
市場でコロッケ。
一見、海とはあまり関係がない。
だが、店頭にはこう書かれている。
『魚屋のカニクリームコロッケ』
「なるほど。これは海の食べ物だ」
妙な納得をして、一つ買う。
紙袋から取り出す。
衣は熱い。
半分に割ると、中から白いクリームがとろりと出てきた。
「これは……慎重に食べるべきだな」
ひと口。
「……!」
セイアは無言になった。
熱い。
だが美味しい。
蟹の風味。
濃いクリーム。
ざくざくした衣。
そこへ潮風。
「……旅行雑誌というものも、案外侮れないね」
満足そうに呟いた。
◇
昼前。
セイアは市場の食堂に入った。
まだ食べるのか。
自分でもそう思う。
けれど、店先に並ぶ料理の写真を見てしまった。
海鮮丼。
これだけは食べておかなければならない。
なぜなら旅の目的だからだ。
少なくとも、今そう決めた。
「注文は?」
「おすすめを」
「じゃあ、今日の地魚丼ね」
「それで頼むよ」
しばらくして。
運ばれてきた丼を見て、セイアは少し沈黙した。
「……随分と豪快だね」
白いご飯の上。
魚が何種類も重なっている。
赤身。
白身。
青魚。
いくら。
卵焼き。
大葉。
隣には味噌汁。
漬物。
小鉢。
まず味噌汁を飲む。
「……ああ」
温かい。
海藻の出汁が効いている。
市場で立ち食いを続けたあとだからか、汁物が異様に落ち着く。
次に白身魚。
醤油を少し。
口に入れる。
「柔らかい……」
噛むほどに甘みが出る。
今度は青魚。
「こちらは濃いね」
次はいくら。
ぷち、と弾ける。
「……面白い食感だ」
いくらとご飯を一緒に食べる。
さらに卵焼き。
「こちらの卵は甘くないんだね」
市場の料理は、食べるたびに味が変わる。
一口ごとに違う。
それが楽しかった。
普段のコース料理は、最初から最後まで一つの流れとして考えられている。
だがこれは違う。
気になったものから食べればいい。
醤油を多くしてもいい。
わさびを足してもいい。
味噌汁を途中で挟んでもいい。
「自由なものだな」
そう呟いて。
セイアは自分で少し可笑しくなった。
旅を始めてから、何度も同じことを考えている。
自由。
選択。
予定外。
どれも、今まで決して知らなかった言葉ではない。
むしろ意味なら理解していた。
だが。
理解しているのと、味わうのとは違う。
「食事も同じか」
料理について知っていることと。
実際に食べて美味しいと感じることは、違う。
そんな当たり前の事実に気づきながら、セイアは丼を食べきった。
◇
「……さすがに食べすぎたかな」
市場を出たあと。
セイアは海沿いの道を歩いていた。
腹は満ちている。
かなり満ちている。
朝の駅弁。
ホタテ。
海老。
練り物。
コロッケ。
海鮮丼。
「ミカなら、このあと普通にクレープを食べそうだな」
想像する。
『デザートは別腹だよ、セイアちゃん!』
「……言いそうだ」
少し笑った。
しばらく歩く。
海辺の道は静かだった。
観光客の姿もまばらになる。
防波堤。
砂浜。
古い倉庫。
漁船。
派手なものは何もない。
だが、その何もなさが心地いい。
そして三十分ほど歩いたところで。
セイアは喫茶店を見つけた。
海の見える、小さな店。
入口の黒板には、
『自家製プリン』
と書いてある。
「……」
足が止まる。
「これは……」
困った。
さすがに今は満腹だ。
合理的に考えれば、入るべきではない。
しかし。
自家製プリン。
「……」
セイアは店に入った。
◇
窓際の席に座る。
海が見える。
「ご注文は?」
「プリンと……紅茶を」
「紅茶、ミルクとレモンどちらにします?」
「ストレートで」
少しして運ばれてくる。
プリン。
随分と昔ながらの見た目だった。
黄色いプリン。
濃い茶色のカラメル。
上に生クリーム。
さくらんぼ。
「……これは」
スプーンを入れる。
硬めだ。
口に運ぶ。
「……なるほど」
卵の味が強い。
甘さは控えめ。
その代わり、カラメルが苦い。
プリンと一緒に食べると、ちょうどいい。
紅茶を飲む。
「……」
一度、カップを置く。
もう一口。
「悪くない」
むしろ好きな味だった。
特別に高級な茶葉ではないだろう。
淹れ方だって、トリニティの専門の給仕に比べれば素朴だ。
それでも。
海を見ながら飲む紅茶は、美味しかった。
セイアはプリンを少しずつ食べた。
急ぐ理由はない。
店内では静かな音楽が流れている。
時計の音。
カップが触れ合う音。
遠くから波の音も聞こえる。
「……贅沢とは」
セイアは窓の外を見た。
「高価であることとは、少し違うのかもしれないね」
時間を自由に使えること。
誰にも急かされないこと。
食べたいものを選べること。
それを、ゆっくり味わえること。
今の自分にとっては、それが随分と贅沢に思えた。
◇
午後。
今夜泊まる宿へ向かう。
小さな温泉旅館だった。
昔ながらの建物。
畳の部屋。
窓からは海が見える。
「夕食は六時半からになります」
「分かったよ」
「お部屋にお持ちしますね」
「……部屋で?」
「はい」
セイアは少し驚いた。
「それは……随分と」
豪華ではないか。
荷物を置く。
温泉に入り。
少し休んで。
気づけば六時半。
仲居が料理を運んできた。
「……」
セイアは目を瞬いた。
一品。
二品。
三品。
まだ増える。
「……多くないかな」
「今日は海の幸のコースですから」
「なるほど……」
先付け。
刺身。
焼き魚。
煮魚。
茶碗蒸し。
天ぷら。
小鍋。
ご飯。
味噌汁。
漬物。
「……これは」
昼間の食事を思い出す。
「判断を誤ったかもしれない」
しかし。
せっかく出された料理を残すのも惜しい。
まず刺身。
昼とは魚の種類が違う。
「……美味しい」
次は焼き魚。
皮が香ばしい。
箸を入れると、身から湯気が出る。
昼に食べた海鮮丼は、生の魚の甘みだった。
こちらは焼いたことで脂が強く感じられる。
「同じ魚でも、調理でここまで変わるものなんだね」
次は茶碗蒸し。
蓋を開ける。
湯気。
出汁の香り。
スプーンですくう。
「……これは好きだな」
優しい味だった。
中から椎茸。
銀杏。
鶏肉。
海老。
一口ごとに違う具が出てくる。
セイアは少し楽しくなった。
「宝探しのようだ」
次は天ぷら。
海老。
白身魚。
茄子。
大葉。
塩を少し。
「……」
さくり。
「揚げたてというのは、反則だね」
昼のコロッケでも思った。
揚げ物は出来たてが強い。
単純だが、非常に強い。
そして小鍋。
蓋を開ける。
魚介と野菜が煮えている。
汁を一口。
「……ああ」
セイアは思わず息を吐いた。
落ち着く。
ここまで様々な料理を食べてきた胃に、温かい出汁が染み込む。
「これは……いくらでも飲めそうだ」
その言葉通り。
気づけば小鍋は空になっていた。
最後。
白いご飯。
味噌汁。
漬物。
セイアは少し迷ってから、焼き魚の残りをご飯に乗せた。
そこへ少しだけ出汁をかける。
「……これは作法として正しいのかな」
誰も見ていない。
「まあ、いいか」
食べる。
「……」
しばらく沈黙。
「これは良い」
非常に良い。
むしろ、なぜ最初からこれをしなかったのか。
海苔も乗せる。
漬物も少し。
「……ふふ」
一人なのに笑ってしまった。
誰かと食事をするのも好きだ。
ナギサが紅茶について細かく語るのを聞くのも。
ミカが人の皿から勝手に菓子を取るのも。
先生が妙に庶民的な食べ方をするのを見るのも。
それはそれで、楽しい。
だが。
一人で食べる食事には。
一人でしか味わえない自由がある。
好きな順番で。
好きな速さで。
好きな組み合わせで。
そして。
「美味しいと、口に出してもいい」
誰に聞かせるでもなく。
「……うん。美味しい」
◇
食後。
もう何も入らない。
本当に入らない。
そう思っていた。
仲居が盆を持って戻ってくるまでは。
「デザートです」
「……」
小さな器。
季節の果物。
そして、一口サイズの羊羹。
「……別腹というのは、迷信だと思っていたんだが」
食べた。
普通に食べられた。
「……ミカの言っていたことにも、一理あったのかもしれない」
これは本人には言わないでおこう。
◇
夜。
布団に横になる。
満腹だった。
本当に満腹だ。
セイアは天井を見上げた。
携帯端末を開く。
通知が大量に来ている。
ナギサから。
『セイアさん、どちらへ行かれたのですか?』
『一人ですか?』
『護衛もなしに?』
『セイアさん?』
『せめて連絡してください』
ミカから。
『セイアちゃーん』
『旅行!?』
『ずるい!』
『お土産!』
『絶対お土産ね!』
先生から。
『"ちゃんと食べてる?"』
セイアは画面を見つめた。
写真フォルダを開く。
今日撮った料理。
駅弁。
ホタテ。
海鮮丼。
プリン。
旅館の夕食。
最後に。
食卓全体の写真を一枚送る。
『食べすぎた』
少しして返信。
『"いい旅してるね"』
「……まったく」
セイアは笑った。
続けて。
『明日の朝食も楽しみだよ』
送ったあと。
少し考える。
自分がそんな言葉を送るとは思わなかった。
旅の景色ではなく。
観光地でもなく。
明日の食事を楽しみにしている。
「……私も随分と単純になったものだ」
だが。
悪くない。
◇
翌朝。
セイアは予定より早く目を覚ました。
理由は一つ。
空腹だった。
「……あれだけ食べたというのに」
自分の胃に少し呆れる。
温泉へ入り。
戻る。
そして朝食。
焼き魚。
卵焼き。
冷奴。
海苔。
納豆。
小鉢。
味噌汁。
白いご飯。
「……朝から多いね」
そう言いつつ。
食べる。
焼き魚。
ご飯。
味噌汁。
「……」
もう一度。
焼き魚。
ご飯。
味噌汁。
「これは……危険な循環だ」
止まらない。
卵焼き。
今度は少し甘い。
「昨日の駅弁を思い出すな」
海苔でご飯を巻く。
「これは簡単だが美味しい」
冷奴。
「口がさっぱりする」
納豆。
「……匂いは強いが」
一口。
「悪くない」
そして。
「ご飯、おかわりできますよ」
そう言われた瞬間。
セイアは少し考えた。
昨日から食べすぎている。
帰ったらナギサに何を言われるか。
そもそも午前中にも食べたいものがある。
合理的に考えれば。
「……半分だけ頼むよ」
頼んだ。
◇
宿を出る。
今日は帰る日だ。
だが列車は午後。
時間がある。
セイアは町を歩いた。
昨日とは別の商店街。
小さな和菓子屋を見つける。
「……」
店頭には団子。
みたらし。
あんこ。
きなこ。
「これはお土産候補だね」
そう言いながら。
一本、自分用にも買う。
みたらし。
焼き目のついた団子に、甘辛いタレ。
一口。
「……うん」
もちもちしている。
「これは紅茶より、お茶の方が合いそうだ」
次。
小さなパン屋。
「……昨日もパンを食べようと思っていたな」
旅の初日に駅弁を選んだため、パンは食べていない。
店に入る。
焼きたてのパンの香り。
セイアは少し悩み。
塩パン。
あんパン。
小さなクリームパン。
三つ買った。
「……買いすぎたかな」
しかし。
「列車の中で食べればいい」
旅に出て二日目。
すでに自分への言い訳が上手くなっている。
◇
昼。
最後に食べるものは決めていた。
港町のラーメン。
魚介出汁が有名らしい。
小さな店に入る。
カウンター席。
「一人?」
「ああ」
「ここどうぞ」
セイアは座る。
ラーメンが来る。
透き通ったスープ。
細い麺。
焼豚。
ねぎ。
海苔。
まずスープ。
「……」
目を細める。
魚の香り。
だが強すぎない。
塩味も優しい。
「なるほど……」
麺。
するりと入る。
「これは食べやすいね」
焼豚。
柔らかい。
ねぎ。
海苔。
少しずつ組み合わせを変える。
気づけば。
丼の底が見えていた。
「……食べてしまった」
自分でも驚く。
昨日から一体どれほど食べただろう。
数えてみようとして。
「……やめておこう」
旅において、必要のない計算もある。
◇
帰りの列車。
セイアは窓際に座っていた。
膝には小さな紙袋。
中にはパン。
荷物には、お土産の団子と菓子。
ミカ用。
ナギサ用。
先生用。
列車が走り出す。
町が少しずつ遠ざかる。
セイアは窓の外を見つめた。
「……楽しかったな」
自然と口に出た。
景色も。
海も。
温泉も。
静かな時間も。
すべてよかった。
けれど。
一番思い出すのは。
醤油の焦げたホタテの匂い。
海鮮丼の魚の甘さ。
プリンの苦いカラメル。
旅館の茶碗蒸し。
朝の白いご飯。
みたらし団子。
そして、今。
「……」
紙袋を見る。
クリームパン。
「まだ食べるのか、と言われそうだね」
誰に、と考える。
ナギサ。
ミカ。
先生。
三人とも、少しずつ違う反応をしそうだ。
セイアはクリームパンを取り出した。
一口。
「……甘い」
ふわふわしたパン。
中には、少し冷たいクリーム。
「……美味しいな」
列車は走る。
未来へ向かって。
どこかへ帰るために。
旅に出る前の自分は。
一人旅とは、一人で景色を見ることだと思っていた。
けれど違った。
一人で食べる。
一人で選ぶ。
一人で迷う。
一人で美味しいと思う。
そして。
帰ったあとで、その話を誰かにする。
きっと旅とは、そういうものなのだ。
◇
トリニティへ戻ったのは、夕方だった。
門をくぐる。
「セイアさん!」
「……早かったね」
ナギサがいた。
その後ろにはミカ。
「セイアちゃーん!」
「ただいま」
「ただいま、ではありません!」
ナギサが詰め寄る。
「一人で旅に出るのであれば、せめて一言――」
「ナギサ」
「何ですか!」
「お土産があるよ」
「……」
沈黙。
「それで誤魔化されると思っているのですか?」
「思っていないよ」
セイアは紙袋を渡した。
「君には焼き菓子。紅茶に合うそうだ」
「……」
ナギサは受け取った。
「……それとこれとは別ですからね」
「ああ」
「絶対に後でお話を聞きますからね」
「分かったよ」
「私は!?」
ミカが割り込む。
「ミカにもある」
「やったー!」
「団子だ」
「セイアちゃん大好き♡」
「安い愛だね」
そして。
「先生には?」
ミカがにやにやしながら聞く。
「……もちろんあるよ」
セイアは別の小さな包みを見た。
「だが、それは私が直接渡す」
「ふーん?」
「何だい、その顔は」
「べつにー?」
ミカが笑う。
ナギサがため息をつく。
騒がしい。
本当に。
旅先の静かな海とは正反対だ。
けれど。
「セイアさん」
「ん?」
「……楽しかったですか?」
ナギサが聞いた。
セイアは少し考えた。
海。
朝市。
温泉。
列車。
プリン。
茶碗蒸し。
ラーメン。
クリームパン。
全部思い出す。
そして。
「うん」
笑った。
「とても美味しい旅だったよ」
「……美味しい?」
「そこなんだ?」
ミカが笑う。
「セイアちゃん、結局食べ物の話ばっかりじゃん!」
「仕方ないだろう」
セイアは肩をすくめた。
「知らない町というのは、どうにも腹が減るらしい」
そう言って。
百合園セイアは、自分でも少し驚くほど楽しそうに笑った。
次にどこへ行くかは、まだ決めていない。
山もいい。
湖もいい。
温泉街も悪くない。
だが。
次に食べるものだけは。
もう少しだけ、考え始めていた。