その悪魔は、セイアが知っているどの悪魔よりも、行儀よく座っていた。
四角い台座に、きちんと足を揃えている。
背中には翼があり、頭には角があり、口元からは牙が覗いていた。顔つきは決して穏やかではないのに、座り方だけを見ると、誰かに待てと言われたまま長い時間を過ごしているようにも見える。
百合園セイアは、図録を少し傾けた。
古い写真では、像の細かな表情が分からない。
窓から差している午後の光を紙面へ当てても、それは同じだった。
「……何をなさっているのですか」
ナギサが尋ねた。
「顔を見ているんだよ」
「本を傾けても、写真の向こう側までは見えませんよ」
「理屈の上では、その通りだね」
セイアは本を戻した。
写真の下には、短い解説がある。
かつてトリニティへ贈られ、長く大聖堂に飾られていた像。
現在はワイルドハント芸術学院の博物館で、文化財として管理されている。
そこまで読んでから、セイアはもう一度、像の顔を見た。
「今は、あちらにいるんだね」
「ええ。ワイルドハントの博物館には、ほかにも興味深い収蔵品があります」
「行ったことがあるのかい?」
「展示について調べたことはありますが、ゆっくり見て回ったことはありません」
ナギサはそう答え、セイアの開いているページを覗き込んだ。
図録を借りたのは、彼女からだった。
学園祭で主催したアートギャラリーの話をしているうちに、展示の参考にしていた資料がいくつかある、と持ってきてくれたのである。
ナギサがそうした話をする時は、普段の会議とは、少し違う顔になる。
説明が細かくなるところは同じだが、その細かさを楽しんでいるように見えた。
「実物は、もっとよく見えるかな」
セイアが言うと、ナギサはすぐに察した。
「……お出かけになるのですか」
「明日は予定が空いているのでね」
「今度はどこ?」
ソファに座っていたミカが顔を上げた。
「ワイルドハントだよ」
「へえ。車?」
「いや。列車で行ってみようと思う」
ミカは少し目を丸くし、それから楽しそうに笑った。
「じゃあ、今度は道を間違えて別の学園に着いたりしないね」
「乗る列車を間違えれば、同じことは起こり得るが」
「そこは間違えないでよ」
ナギサが、軽く咳払いをした。
「お帰りの列車は確認しておいてくださいね。それと、博物館の開館時間も」
「ああ」
「展示によっては、撮影ができないものもありますから」
「心得ているよ」
「あと、お土産!」
ミカが言った。
ナギサがそちらを見る。
「何ですか、その付け足しは」
「大事でしょ?」
「お願いする順番というものが――」
セイアは、二人のやり取りを聞きながら図録を閉じた。
ワイルドハント。
これまでに、その名を見聞きした機会は少なくない。
トリニティへ来た生徒たちもいる。作品も、音楽も、そうした往来の中にあった。
けれど自分が向こうの街を歩き、向こうの人たちと同じ店へ入り、同じ時間を過ごしたことは、まだなかった。
まずは、一体の像に会いに行く。
旅の理由としては、それでよいように思えた。
◇
翌朝、セイアは駅で切符を受け取った。
行き先の文字を確かめる。
乗り換えの時刻も見る。
それから鞄へ手を伸ばしかけ、車の鍵が入っていないことを思い出した。
今日は、持ってこなかった。
出かける時には必ず触れていたものがないと、鞄の重さまで少し違って感じられる。
改札を抜ける。
ホームへ上がると、列車はまだ来ていなかった。
セイアはベンチへ座り、持ってきた本を開いた。
今朝は、本当に読めた。
窓の外を見たくなった時も、頁をめくりたくなった時も、自分の手でハンドルを持っている必要がない。
列車が到着し、乗り込んでからも、しばらく読んだ。
一章を読み終えたところで、栞を挟む。
窓の向こうには、知らない屋根が続いていた。
運転している時には見られない、高いところの景色だった。
◇
乗り換えた先の列車には、大きな荷物を持った生徒が多かった。
四角い画材のケース。
楽器を収めたらしい、細長い鞄。
丸めた紙を何本も抱えている生徒もいる。
セイアの向かいへ座った生徒は、膝の上の平たい包みを何度か置き直した。
座席に対して、少し大きい。
隣の乗客へ当たらないよう持ち上げると、今度は自分の顎に近づきすぎる。
しばらく苦労した末に、足元へ立てかけようとした。
そこで列車が揺れた。
セイアは、こちらへ傾いた端を軽く押さえた。
「あ、すみません」
「こちらを少し空けようか」
「ありがとうございます。乾いてはいるんですけど、角をぶつけたくなくて」
包みの位置が、ようやく落ち着く。
生徒は息をつき、膝の上へ両手を置いた。
「作品かい?」
「はい。提出するんです」
言ってから、包みを見た。
その顔は、安心しているようでも、まだ何かを迷っているようでもあった。
「持って出る時は、これでいいと思ったんですけど」
「今は?」
「電車に乗ったら、もう一か所直したくなって」
セイアも包みを見た。
中の絵は、こちらからは見えない。
「戻るのかい?」
「いえ。今日は、持っていきます」
少し間を置いて、生徒は笑った。
「帰ると、別のところまで気になりそうなので」
セイアは頷いた。
何を描いたのか。
どこを直したくなったのか。
聞いてみたい気もしたが、相手は包みから目を離し、窓の外を見始めていた。
セイアも、同じように窓へ顔を向けた。
やがて、建物の色が変わった。
赤茶色の壁。
高い窓。
遠くに見える塔。
近づくにつれて、それらの間に、細かな飾りや、長い回廊が現れてくる。
列車が速度を落とした。
向かいの生徒が包みを抱え直す。
セイアも、鞄を手に取った。
◇
学院へ入るところでは、手荷物の確認があった。
セイアは鞄を開き、求められたものを順番に示した。
本。
財布。
携帯端末。
折り畳んだ上着。
今日は手土産を持ってきていない。買うなら、帰りに現地で選ぼうと思っていた。
「ご訪問の目的は?」
「博物館の見学だよ」
少し考えてから、付け加える。
「そのあと、街も歩いてみたい」
係の生徒が頷いた。
確認を終え、鞄が戻ってくる。
特別に長い時間がかかったわけではない。
けれど、芸術の学院へ来て、最初にしたことが持ち物を一つずつ説明することだったのは、少し意外だった。
門を抜ける。
古い建物の前に、制作中らしいものが置かれていた。
布で覆われているので、全体の形は分からない。
その横には、使用できる区画と時間を書いた札がある。
少し離れたところでは、楽器を持った生徒が、別の生徒へ何かを説明していた。
手振りは大きい。
声も、よく通る。
そのさらに向こうには、静かな回廊が続いている。
自由そうだと思ったところに、細かな決まりがある。
厳しそうだと思ったところで、誰かが妙に楽しそうにしている。
セイアは案内図を開いた。
「……まずは、約束してきた相手のところへ行こうか」
像は、こちらが来ることなど知らない。
それでも、そんな言い方をしてみたくなった。
◇
博物館の中は、外より少し涼しかった。
高い天井から、柔らかな明るさが下りてくる。
足音は壁へ触れて、小さく返ってきた。
受付で案内を受け、目的の展示室を教えてもらう。
そこへ向かう途中にも、足は何度か止まった。
古い額縁。
装飾の施された器。
布に織り込まれた、細かな模様。
どれも、一つずつ見ていれば、それだけで長い時間が過ぎてしまいそうだった。
セイアは時計を見た。
今日は、急ぐ用事があるわけではない。
けれど目当ての像を見る前に昼になってしまうのも、少々間が抜けている。
まずは、先へ進んだ。
◇
像は、写真よりも大きく見えた。
台座に座り、翼を背にしている。
角も、牙も、長く伸びた爪も、印刷された小さな写真よりずっとはっきりしていた。
近づくと、表面に細かな凹凸がある。
遠くからでは一つの灰色に見えた部分にも、光の当たり方で濃淡が生まれていた。
セイアは説明を読んだ。
図録で知った来歴を、実物の隣でもう一度確かめる。
かつて、トリニティの大聖堂にあったもの。
今は、こちらで管理されているもの。
自分よりも、長く二つの学園を知っている像だった。
「……初めまして」
小さく呟く。
像は、当然、何も答えなかった。
セイアは横へ動いた。
正面から見ると険しかった顔が、斜めからでは、少し違って見えた。
顎を引いている。
目の下に影がある。
高いところにあった時には、どのように見えていたのだろう。
見下ろしていたのか。
ただ前を向いていただけなのか。
考えながら、もう一歩だけ横へ動く。
「……その角度、いいですよね」
背後から声がした。
セイアが振り返ると、大きな帽子をかぶった生徒が立っていた。
腕にはスケッチブック。
空いた手には、短くなった鉛筆を持っている。
「正面とは、翼の重なり方が違うんです。向こう側の縁が少しだけ見えて……あ、そこからだと、影もきれいに入ります」
セイアは、言われた場所を見た。
確かに、翼の間には細い影があった。
写真では分からなかったところだ。
「よく見ているんだね」
「にゅふふ。オカルトの探究には、観察も欠かせませんから!」
「……ここで儀式を始めなければ、普通に観察してていいと思うけど」
少し遅れて、もう一人の生徒がやってきた。
淡い色のカーディガン。
いくつも留められた髪飾り。
手には、小さなノートを持っている。
「今日は描きに来ただけですよ!」
「そう言ってるうちはいいのよ」
セイアは二人を見た。
それから、帽子の生徒が、自分の顔をあらためて見つめていることに気づいた。
「あれ……?」
鉛筆を持つ手が止まる。
「もしかして、トリニティの……百合園セイアさん、ですか?」
「ああ。そうだよ」
「えっ」
隣の生徒まで、こちらを見た。
二人とも、一度だけ背筋が伸びる。
その変化があまりに揃っていて、セイアは少し笑ってしまった。
「今日は、見学に来ただけなんだ。そんなに改まらないでくれると助かるよ」
◇
「オカルト研究会の、白尾エリです!」
帽子の生徒が名乗った。
「こちらはレナさん。私たちは、その……この像の研究を、少し」
「私は展示を見に来たの。ついでに、変なことしないか見てるだけ」
レナはそう言ってから、セイアへ向き直った。
「衣斐レナです。よろしくお願いします」
「よろしく。君たちの話は、先生から少し聞いているよ」
「マスターから!?」
エリの声が、少し大きくなった。
レナがすぐに肘で促す。
エリは口元へ手を当て、周囲を見回した。
「……どのようなお話を?」
「芸術とオカルトを、一生懸命に追いかけている生徒たちだと」
エリは、目に見えて嬉しそうになった。
レナは少しだけ眉を寄せる。
「そこ、一緒にされてるのね……」
「君は、違うのかな」
「私は、何でもオカルトで説明するのは違うと思ってるだけ。自分で確かめたいんです」
言ってから、少し考える。
「……できれば、危なくないところで」
「それは、大切な条件だね」
セイアは頷いた。
エリが像を振り返る。
「セイアさんも、この像を見に来たんですか?」
「ああ。昔、トリニティにあったと読んでね。実物を見てみたくなった」
「そうだったんですね」
エリは、先ほどまでより落ち着いた声になった。
「長く大聖堂に飾られていたそうです。あちらにいた時の姿も、見てみたかったです」
「私も、その時の姿を知っているわけではないんだ」
セイアは像を見る。
「写真で知ったものを、自分の目で見に来ただけだよ」
レナが、少しだけ表情を緩めた。
「それなら、普通の見学ですね」
「君たちに、別のものを期待されたらどうしようかと思っていた」
「……私は期待してないです」
レナが言う。
エリは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
セイアは、その違いを見逃さなかった。
◇
エリのスケッチブックには、像の全体が描かれていたわけではなかった。
翼。
足。
背中から首へ続く線。
角度を変えた小さな絵が、同じ頁にいくつもある。
「完成した絵にするのかい?」
「今日は、まだ分かりません。見ていると気になるところが増えるので、忘れないように」
セイアは、細く描かれた線を見た。
自分は、顔ばかり見ていた。
エリが見ているのは、その顔を支える首や、座った身体の重さまで含めた姿だった。
「魔除けの像なんですよね」
エリが言った。
「怖い形をしているのに、役目は守ること。そこが、気になるんです」
「怖く見えることも、役目のうちなのだろうね」
「はい。でも、描く時にただ怖くするだけでいいのかは、まだ分からなくて」
鉛筆の先が、紙の上へ戻る。
セイアは像を見た。
同じ台座。
同じ翼。
同じ顔。
けれど、先ほどより、背中の丸まり方が気になった。
エリが黙ったまま描き始めると、レナもノートを開いた。
こちらには、別の展示室にあった布の模様が描かれていた。
縁取り。
留め具。
繰り返される、小さな飾り。
「君は、衣服を?」
「ファッションデザインを勉強してます。こういう模様って、絵で見るのと、布に乗ってるのとで違うから」
レナはノートを少し見せた。
「同じ形を並べても、縫い目のところでずれちゃうし。着ると、折れたり隠れたりするでしょ」
「そうだね」
「だから、正面だけきれいでも……あ」
言いかけて止まり、セイアを見る。
「すみません。いきなり、こんな話」
「いや。面白いよ」
セイアは答えた。
「君たちと同じものを見ているつもりだったが、随分と違うところを見ていたらしい」
◇
三人で展示室を出たあと、セイアは布や衣装の並ぶ部屋にも寄った。
エリはまた別の形に目を留め、少し離れたところで立ち止まる。
レナは、ガラスの前で身体をわずかに左右へ動かした。
「裏側も見えるといいのに」
「何を確かめたいんだい?」
「ここ、どう留めてるのかなって。表からだと飾りで隠れてるけど、重さがあるから、これだけじゃ支えきれないと思う」
セイアは、示されたところへ近づいた。
自分が「立派な装飾だ」と思って見ていたものを、レナは、誰かが身につけて動くものとして見ている。
「着て歩くところまで、考えるんだね」
「服だから」
返事は早かった。
それからレナは少し照れたように、声を落とす。
「飾るだけの服もあるけど……私は、着てもらいたいから」
セイアは、もう一度展示を見た。
きれいなものを見る時、その向こうにいる人まで考えるのは、案外難しい。
少なくとも今日は、二人に言われるまで、気づかなかったところがいくつもあった。
◇
博物館を出ると、街の音が戻ってきた。
回廊の向こうで、誰かが発声の練習をしている。
同じ短い言葉が、少しずつ違う調子で繰り返された。
大通りの彫刻の近くには、スケッチブックを持った生徒が何人もいる。
けれど、どこにでも座ってよいわけではないらしい。
係の生徒に何かを言われ、一人が椅子を少し移動させた。
今度は通路が広く空く。
移動した生徒は、文句を言いながらも絵を描き続けていた。
「……賑やかだね」
セイアが言う。
「いつも、あちこちで何かしてますから」
エリが答えた。
「一人で何かを始めると、見に来る人もいますし。そこから話が長くなって、描く時間が減ることもあります」
「それは、少し困るね」
「困ります。でも、話したくもなるんです」
セイアは笑った。
建物の外観だけを見ると、トリニティで見慣れたものを思い出すところがある。
高い窓。
長い廊下。
古くからそこにあるような石の階段。
けれど、その前で交わされている会話は違う。
同じ形の椅子に座ったからといって、同じ話をするわけではない。
そんな当たり前のことが、今日はよく分かった。
◇
「ところで、セイアさん」
エリが、少し声を小さくした。
「このあと、お時間は……?」
「帰りの列車までは、空いているよ」
「でしたら、昼食をご一緒しませんか。そろそろ、マナの補給が必要で」
「お腹空いたって言えばいいじゃない」
レナが言った。
「同じ意味です!」
「だったら、なおさら」
セイアは二人を見て、頷いた。
「ぜひ、そうしよう。実は私も、先ほどから展示より店の看板が気になっている」
エリの顔が明るくなった。
レナは呆れたような顔をしたが、歩く向きをすぐに変えた。
「じゃあ、あっち。今ならまだ席があると思う」
どうやら、彼女も店を考えていたらしい。
◇
入ったのは、通りから少し奥まったところにあるカフェだった。
窓辺には小さな絵が並び、壁には公演や展示の案内が何枚も貼られている。
椅子の形は揃っていなかった。
けれど、テーブルの高さにはきちんと合っていて、座ると落ち着いた。
「ここ、よく来るのかい」
「時々です」
エリが答える。
「席が空いていれば、少し長くいても大丈夫なので」
「もちろん、注文はちゃんとするけど」
レナが付け加えた。
「重要な補足だね」
セイアは品書きを開いた。
温かいパイの昼食。
スープとパン。
いくつかの軽食。
甘いものの頁には、ケーキのほかにクレープもあった。
レナの目が、一瞬、そちらへ動く。
すぐに食事の頁へ戻った。
セイアは見なかったことにした。
◇
セイアが選んだのは、きのこと鶏肉のパイだった。
深い器の上に、丸く焼けた生地がかぶさっている。
表面は淡い金色で、端の方だけ少し濃い。
匙を入れる場所を考えていると、レナが言った。
「端から割ると、食べやすいですよ」
「中央を崩すには、少し勇気がいる形だね」
「魔法陣も、閉じているだけでは発動しませんから」
エリが言う。
「それ、今、関係ある?」
レナが即座に返した。
セイアは、言われた通り端へ匙を入れた。
ぱり、と薄い音がする。
割れた生地の下から湯気が上がり、バターときのこの香りが近づいた。
中には、白い煮込みが入っていた。
小さく切られた鶏肉。
厚みのあるきのこ。
柔らかくなった玉葱。
まず、少し冷まして一口。
生地は上の方に軽さが残り、汁へ浸かったところは柔らかい。
同じ一片の中に、二つの食感があった。
「……なるほど」
「どうですか?」
エリが尋ねる。
「崩してよかったと思う味だよ」
レナが笑った。
「それはよかったです」
付け合わせには、葉野菜と、赤紫色の小さな酢漬けがあった。
濃い煮込みのあとに食べると、口の中がすっきりする。
次の一口は、またパイへ戻りたくなる。
セイアが食べる順番を考えている間に、エリはパンを一つ食べ終えていた。
スケッチブックは、鞄へしまわれている。
今は、目の前の食事に集中していた。
その切り替えが、少し面白かった。
◇
「ここにいたんだねぇ……」
声は、セイアがカップを持ち上げた時に聞こえた。
振り返ると、白い髪の生徒が立っている。
小柄で、声は柔らかい。
けれど、こちらを見る目には、何かを面白がっているような光があった。
「カノエさん!」
エリが顔を上げた。
「終わったんですか?」
「うん……思ったより、早く。連絡、見てないかなぁ……?」
「あ」
エリが端末を取り出す。
レナがため息をついた。
「今、完全にご飯しか見てなかったでしょ」
「マナの補給中だったので……」
カノエは空いている椅子の横へ立ち、セイアを見た。
「初めまして……で、いいのかなぁ」
「百合園セイアだよ」
「板垣カノエ……よろしくねぇ」
差し出された声は、のんびりしているのに、自己紹介の間だけ少し明瞭だった。
セイアはその変化を聞いた。
カノエは、気づかれたことにも気づいたように笑った。
「イヒッ……そんなに、見なくても」
「失礼。声が少し変わったように聞こえたのでね」
「聞いてもらうための声と、そうじゃない声……少し、違うかもねぇ」
そう言って椅子へ座る。
注文したのは、温かいチョコレートだった。
◇
カノエが合流すると、会話の進み方が少し変わった。
エリが話を広げる。
レナが、広がりすぎたところを止める。
カノエは、その二人の間へ、別の方向から一言を置いた。
「博物館で、悪魔に会ってきたんだぁ……」
「像ですよ、像」
レナが言う。
「知ってるよぉ……レナちゃんが無事で、よかったねぇ」
「最初から危なくないから!」
声が大きくなりかけ、レナは周囲を見た。
それから少し音量を落とす。
カノエは、運ばれてきたカップを両手で持った。
すぐには飲まない。
湯気を眺め、少し待つ。
「君も、今日は何かを作っていたのかい」
セイアが尋ねる。
「声を、少し……」
「声」
「同じ言葉でも、言い方で変わるからねぇ……」
カノエは、壁に貼られた案内を見た。
そこには、小さな公演の題名と、開演時刻が書いてある。
「例えば……『お待ちしていました』」
最初の声は、受付で客を迎えるような、明るく整ったものだった。
続いて、同じ言葉。
今度は、ずっと待ち続けた相手をようやく見つけたように、最後の息が少しだけ緩んだ。
セイアは、カップを置いた。
文字は、同じだった。
けれど、その前にあった時間が違って聞こえた。
「……なるほど」
カノエは、いつもの調子へ戻った。
「便利でしょう……?」
「便利というより、少し手強いね」
「イヒッ」
レナが、横から言った。
「それで変な声を出して、驚かせたりもするの」
「表現の幅だよぉ……」
「使い方の問題!」
セイアは笑った。
声にも、描く人の手に相当するものがあるらしかった。
◇
話のきっかけは、壁の小さな絵だった。
皿に乗った焼き菓子が描かれている。
その隣には、窓辺の花。
さらにその隣には、何も置かれていない椅子。
セイアが焼き菓子の絵を見ていると、エリが顔を向けた。
「気になりますか?」
「少しね。トリニティでも、食べ物の絵を集めた展示があったので」
「あ……ロールケーキのですか?」
セイアが振り返る。
「知っているのかい」
「行った人の話を聞きました。あとで、どんな展示だったかという話になって」
エリは少し考えながら言った。
「同じ題材を、どう並べていたのか。何を選んで、何を選ばなかったのか……見てきた人たちが、いろいろ話してました」
セイアは、ナギサの顔を思い出した。
展示について説明していた時の、あの少し楽しそうな顔。
「主催したのは、私の友人なんだ」
「はい。桐藤ナギサさんですよね」
「向こうの生徒に見てもらえたことを、喜んでいたよ」
エリは、嬉しそうに頷いた。
そのあとで、少しだけ言葉を探した。
「……皆が同じ感想だったわけでは、ないと思いますけど」
「もちろん。君たちの学園全体の感想を聞こうというつもりはないよ」
セイアが言うと、エリはほっとしたようだった。
「よかったです。たくさんの人がいるので」
「トリニティも同じだね」
レナが、壁の絵を見た。
「好きなものって、並べ方にも出るんじゃない?」
「並べ方?」
「どれでもいいなら、わざわざ選ばないでしょ。こっちを隣に置きたいとか、これは外したくないとか。そういうの」
セイアは頷いた。
ナギサなら、きっと考えただろう。
細かく、時間をかけて。
他人から見れば同じような題材の絵でも、同じ扱いにはしなかったはずだ。
「……その話は、本人に聞かせたいね」
「えっ。変なこと言ってないですよね?」
「いや。喜ぶと思う」
レナは少し困った顔をした。
褒めたつもりの言葉を、本人へ届けられるとなると、急に落ち着かなくなるらしい。
セイアには、その気持ちも少し分かった。
◇
食後、エリがスケッチブックを取り出した。
ただし、描き始める前にセイアを見る。
「あの。少し、描いてもいいですか?」
「私を?」
「はい。今の、話を聞いているところが……」
そこで言葉が止まる。
セイアが首を傾げると、エリは慌てて続けた。
「すぐに完成させるということではなくて。小さなスケッチです。嫌でしたら、もちろん」
「構わないよ」
セイアは椅子へ座り直した。
背筋を伸ばす。
手を揃える。
顔を、少しだけエリの方へ向ける。
エリの鉛筆が止まった。
「……あ」
「どうしたんだい」
「今の、その……きれいなんですが」
レナがセイアを見た。
次に、エリを見る。
カノエは、カップの向こうで目を細めた。
「急に、ご挨拶の時間になったねぇ……」
セイアは一瞬黙った。
それから、自分の手元へ目を落とす。
確かに、そういう姿勢だった。
写真を撮られる時。
知らない相手へ会う時。
記録に残される時。
自然と、こうしていた。
「……別の方がよいのかな」
「どちらがよいかというより……さっきとは、違ったので」
エリは、正直に答えた。
セイアは少し笑った。
「見られると思うと、変わってしまうらしいね」
「私も、そういうことはあります」
エリが言った。
短い言葉だったが、それ以上の経験があるように聞こえた。
セイアは、揃えていた指をほどいた。
カップを持つ。
「これなら、少しは近いかな」
エリは頷き、鉛筆を動かし始めた。
◇
小さなスケッチは、数分で終わった。
セイアが見せてもらうと、そこには簡単な線で、座った自分が描かれていた。
細かな顔立ちは、まだほとんどない。
けれど、カップを持った腕と、少し傾けた頭で、何をしていたのかが分かる。
「少ない線でも、伝わるものだね」
「忘れないために描いたので。あとから、続きを考えられるように」
エリは頁を見た。
少し黙る。
それから、顔を上げた。
「セイアさん。午後、少しだけ、時間をいただけませんか」
「今の続きを?」
「はい。もう少し、描いてみたいです」
セイアは時計を見た。
帰りの列車までは、まだ十分にある。
博物館をもう一度見る時間も、取れそうだった。
「分かった。ただ、長い間じっとしているのは、得意ではないかもしれないよ」
「途中で休憩しましょう!」
「それなら、安心だね」
カノエが、エリのスケッチブックを覗く。
「ちゃんと、帰してあげるんだよぉ……」
「もちろんです!」
「絵の中に閉じ込めるとか、言い出さないでね」
レナが付け加えた。
セイアは、少しだけ考えるふりをした。
「それは、帰りの切符をどうすればいいんだろう」
「乗らないでください、その話に!」
エリが口を開く前に、レナが止めた。