百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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ワイルドハント・学生作品棟 #肖像画 #旅の途中 #描かれる側

 午後の約束まで、セイアは一人で歩いた。

 

 エリは道具を取りに行くという。

 

 レナには、寄りたい画材の店があった。

 

 カノエも、少しだけ用事を済ませるらしい。

 

 待ち合わせる場所と時刻を確かめ、三人と別れた。

 

 急に、周囲の音がよく聞こえるようになった。

 

 さっきまで声がなかったわけではない。

 

 自分へ向けられた言葉がなくなった分、街全体の音が近づいてきたのだ。

 

 靴が石を踏む音。

 

 紙をめくる音。

 

 どこかで短く鳴った、楽器の一音。

 

 その音がもう一度鳴り、少し違う高さへ移る。

 

 セイアは立ち止まった。

 

 建物の間に、小さな広場がある。

 

 そこでは、数人の生徒が練習をしていた。

 

 演奏は途中で止まり、誰かが譜面を示す。

 

 話し合って、もう一度。

 

 最初からではなく、さっき止まった少し手前から始めた。

 

 出来上がった演奏だけを聞く時には、そこに費やされた時間は見えない。

 

 セイアは、次に止まるところまで聞いた。

 

 今度は、少し先まで進んだ。

 

     ◇

 

「聴いていかれますか?」

 

 声をかけてきたのは、緑がかった髪の生徒だった。

 

 穏やかな表情をしている。

 

 手には、折り目のついた譜面があった。

 

「通りかかっただけなのだけれど」

 

「それなら、少しだけでも」

 

 その生徒は微笑んだ。

 

「途中から聞こえる音楽にも、出会い方がありますから」

 

 セイアは、彼女の顔を見た。

 

 そして、昼食の席で聞いた名前を思い出した。

 

「もしかして、椎名ツムギかな」

 

「あ……はい」

 

「エリたちに会ったんだ。百合園セイアだよ」

 

 ツムギは少し驚き、それから柔らかく頷いた。

 

「お話、届いています。今日は博物館へ?」

 

「ああ。今は、少し街を歩いている」

 

「そうでしたか」

 

 ツムギは広場の方を振り返る。

 

「私も、もう少ししたら合流するつもりでした」

 

 そこで、別の生徒から声がかかった。

 

 ツムギが片手を上げる。

 

「あと少し、合わせてから行きますね」

 

「では、それまで聞いていてもよいかな」

 

「もちろんです」

 

 譜面を抱え直した顔は、先ほどと同じように穏やかだった。

 

 少なくとも、息を吸うまでは。

 

     ◇

 

 セイアは、少し瞬きをした。

 

 広場へ響いた声は、直前まで話していたものと、あまりにも違っていた。

 

 強い。

 

 輪郭がはっきりしている。

 

 身体のどこから出ているのか、すぐには分からないような音だった。

 

 けれど、ただ大きいだけではない。

 

 隣で鳴る音に合わせて、短く切れ、また伸びる。

 

 練習は、長くは続かなかった。

 

 終わると、ツムギは仲間たちと二言三言話し、セイアの方へ戻ってくる。

 

「お待たせしました」

 

 声は、元に戻っていた。

 

「……君たちの学園では、声にも隠し扉があるのかな」

 

 ツムギは少し考え、それから笑った。

 

「驚かせてしまいましたか」

 

「かなりね。ただ、嫌な驚きではなかったよ」

 

「よかったです」

 

 歩き出しながら、ツムギが言った。

 

「トリニティの皆さんにも、以前、聴いていただいたことがあるんです」

 

「放課後スイーツ部だね」

 

「はい」

 

 セイアは頷いた。

 

 彼女たちが音楽へ向かったこと。

 

 その道の途中で、別の学園の生徒と出会っていたこと。

 

 知っていた話が、今、隣を歩く一人の生徒へ繋がった。

 

「君のことを、向こうでも思い出しているかもしれないね」

 

「それは、嬉しいですね」

 

 ツムギは、譜面の端を整えた。

 

「音は、手元に残りませんから。でも、誰かがまた思い出してくれたら」

 

 言いかけて、少し首を傾ける。

 

「もう一度、そこに鳴るのかもしれません」

 

 セイアは、広場の方を振り返った。

 

 さっきの声は、もう聞こえない。

 

 けれど確かに、思い出すことはできた。

 

     ◇

 

 待ち合わせの場所は、学生の作品を展示している小さな建物だった。

 

 その一角に、制作に使える机と椅子がある。

 

 エリはすでに道具を広げていた。

 

 紙。

 

 鉛筆。

 

 水彩の道具。

 

 小さな水入れ。

 

 隣の椅子には、レナが座っていた。

 

「来た」

 

 セイアを見るなり、立ち上がる。

 

「そこ、日が動くと眩しくなるから、少し向きを変えた方がいいと思う」

 

「なるほど」

 

 エリが椅子を動かす。

 

 カノエは窓の近くに立って、机へ落ちる光を見ていた。

 

「ムギちゃんも、一緒だったんだぁ……」

 

「広場で会ったんです」

 

 ツムギが答える。

 

「セイアさんに、練習を聴いていただきました」

 

「おぉ……魔法の道が、もう繋がっていたんですね!」

 

 エリが言った。

 

 レナは何か言いかけ、やめた。

 

 どうやら、毎回止めていては先へ進まないと判断したらしい。

 

 セイアは上着を脱ぎ、鞄を椅子の横へ置いた。

 

 座る。

 

 エリが紙を見て、自分を見て、また紙を見る。

 

「お願いします」

 

「こちらこそ」

 

 そう答えたところで、セイアは、また姿勢を整えすぎていることに気づいた。

 

     ◇

 

 最初のしばらくは、静かだった。

 

 鉛筆が紙を擦る音がする。

 

 エリは時々顔を上げ、また下を向いた。

 

 セイアは、窓の外の同じ場所を見ていた。

 

 少し離れたところで、ツムギが譜面へ書き込んでいる。

 

 カノエは持ってきた台本を開いた。

 

 レナはノートへ何か描いていたが、時々、こちらの椅子や服の落ち方を見る。

 

 全員が、自分を見るためだけにここにいるわけではない。

 

 それなのに、見られていると思うと、背中が勝手にまっすぐになった。

 

「……セイアさん」

 

 エリが呼んだ。

 

「苦しくないですか?」

 

「いや」

 

「肩、少し上がっているので」

 

 セイアは自分の肩を意識した。

 

 確かに、そうだった。

 

 息を吐く。

 

 少し下がる。

 

「どうやら、じっとするのにも力が必要らしい」

 

 レナが立ち上がった。

 

「その椅子、背中のところが合ってないのかも。何か挟んだ方が楽じゃない?」

 

「上着でよければあるよ」

 

「貸してください」

 

 レナは受け取った上着を、厚くなりすぎないよう畳んだ。

 

 背もたれとの間へ置く。

 

 セイアが座り直すと、先ほどより少し楽だった。

 

「……助かった」

 

「服って、着てる時以外も役に立つから」

 

 そう言って戻る。

 

 エリは、そのやり取りも見ていた。

 

     ◇

 

「私、少しだけ考えすぎていたかもしれません」

 

 エリが言った。

 

 セイアは顔を向けかけ、途中で止める。

 

「動いてもいいです」

 

「それはありがたい」

 

 向き直ると、エリは紙を見ていた。

 

「トリニティのセイアさんを描くなら、こういう感じかな、と。姿勢とか、光の入れ方とか」

 

「何か、決まったものがあるのかい」

 

「決まりではないです。ただ、私がそう思って……」

 

 紙の端を指で押さえる。

 

「でも、さっき話していた時とは、少し違ってきてしまって」

 

 セイアは、紙の向こう側を見ようとはしなかった。

 

 まだ描いている途中だ。

 

 見せる時を決めるのは、エリの方だろう。

 

「私も、そう見えるように座っていたのかもしれないね」

 

「嫌だったわけでは、ないですよね?」

 

「嫌ではないよ。慣れているんだ」

 

 セイアは、膝の上の手を見た。

 

「ただ、今日はずっとそうしていたわけでもない」

 

 列車で本を読んだ。

 

 包みを押さえた。

 

 像の横へ回り込んだ。

 

 パイを割る場所に迷った。

 

 知らない声に、少し驚いた。

 

 どの時も、同じ姿勢ではなかった。

 

「……どの私を描くか、君にも選ぶところがあるのだろうね」

 

 エリは頷いた。

 

 すぐには、鉛筆を動かさなかった。

 

     ◇

 

「声も、そうだよぉ……」

 

 カノエが、台本から顔を上げた。

 

「きれいに言えたところが、欲しかったところとは限らないし……」

 

 セイアは彼女を見る。

 

「そうなのかい」

 

「言い終わる前に、笑っちゃう方が……合うこともあるからねぇ」

 

 カノエは、紙へ目を戻した。

 

 それ以上の説明はしなかった。

 

 エリが鉛筆を持ち直す。

 

「セイアさん、本を読んでいても大丈夫です」

 

「持ってきた本を?」

 

「はい。お話しても。ずっと同じところを見ていなくても、描けますから」

 

 その声は、先ほどよりも少し確かだった。

 

「私も、見て考えます」

 

 セイアは頷いた。

 

 鞄から本を出す。

 

 開こうとして、間に挟んでいた切符の控えが、膝へ落ちた。

 

 拾う。

 

 レナが時計を見る。

 

「電車、何時ですか?」

 

「まだ余裕はあるよ」

 

「ならいいけど。帰れなくなったら困るでしょ」

 

「君たちに、泊めてもらうわけにもいかないだろうしね」

 

「……絶対、やめた方がいいです」

 

 返事が、あまりにも早かった。

 

 セイアは顔を上げた。

 

 カノエが笑う。

 

「レナちゃん、寂しくなぁい……?」

 

「そういう問題じゃない!」

 

「では、今日は切符をなくさないようにしておこう」

 

 セイアが言うと、エリが小さく笑った。

 

 鉛筆は、今度は止まらなかった。

 

     ◇

 

 本は、三ページほど進んだ。

 

 その間に、一度、エリが紙を替えた。

 

 最初のものを破ったわけではない。

 

 脇へ置き、新しい一枚を前へ出した。

 

 セイアが顔を上げると、エリは頷く。

 

「残しておきます。最初にどう見ようとしたかも、あとで分かるので」

 

「失敗ではないんだね」

 

「失敗したところもあります。でも、全部なくさなくてもいいかなって」

 

 セイアは、その言葉を聞いてから、本へ視線を戻した。

 

 自分のために描いているものを、簡単に失敗と呼ばれると、少し寂しかったかもしれない。

 

 けれど、そうではなかった。

 

 最初に見えたものがあって。

 

 そのあと、別のものが見えてきた。

 

 紙を替える動きは、それを残すためのものだった。

 

     ◇

 

 途中で、短い休憩を挟んだ。

 

 セイアが立つと、足が少し固くなっていた。

 

 座っていただけなのに、思ったより時間を使った感じがする。

 

 窓辺へ歩く。

 

 外では、朝とは違う方向へ影が伸びていた。

 

 レナが、紙袋から包みを一つ出した。

 

 細長い、チョコレート色の線が見える。

 

 クレープだった。

 

「……さっきの店で、頼んでいたのかい」

 

「食べる時間がなかったから。こっちへ来る途中で買ったの」

 

 少し言い訳のような声だった。

 

 セイアは頷いた。

 

「よい選択だと思うよ」

 

 レナは、半分ほど開いた包みを見た。

 

「セイアさんも、何か買えばよかったのに」

 

「今は、君が美味しそうに食べるところを見るだけで、少し満足している」

 

「……見られると、食べにくいんですけど」

 

「なるほど」

 

 セイアは、すぐに視線を窓へ戻した。

 

「それは、よく分かったところだ」

 

 レナが一瞬きょとんとして、それから、少しだけ笑った。

 

     ◇

 

 カノエは、休憩が終わる前に席を立った。

 

「私は、そろそろ……」

 

「このあとも、用事があるのかい」

 

「うん。少し、声を使ってくるねぇ……」

 

 台本を鞄へ収める。

 

 さっきまでののんびりした動きの中に、時間を見ている確かさがあった。

 

「描き上がったら、あとで見せてねぇ」

 

 エリが頷く。

 

 カノエはセイアを見る。

 

「帰りの列車で、誰かに呼ばれても……忘れ物を取りに戻らないようにねぇ」

 

「何か、そういう話があるのかい」

 

「今、できたのかもしれないよぉ……」

 

「作らないで!」

 

 レナが言った。

 

 カノエは楽しそうに笑い、手を振って出ていった。

 

 ツムギも、少しして譜面をまとめた。

 

 まだ合わせたいところがあるらしい。

 

「完成までいられなくて、残念です」

 

「こちらこそ、聴かせてもらえてよかった」

 

 セイアが言うと、ツムギは微笑んだ。

 

「また、どこかで音が聞こえたら」

 

「ああ。少し、足を止めてみよう」

 

 ツムギは嬉しそうに頷き、エリとレナにも声をかけてから去った。

 

 部屋が、少し静かになる。

 

 けれど、いなくなった二人の声は、しばらく残っているように感じられた。

 

     ◇

 

 エリは、鉛筆の線へ薄く色を重ねていた。

 

 セイアの目元を見て。

 

 紙を見る。

 

 窓を見る。

 

 また、こちらへ視線を戻す。

 

 その繰り返しだった。

 

 セイアは、今度はそれを気にしすぎないようにした。

 

 本を読む。

 

 時々、話す。

 

 レナがノートへ描いた小さな飾りを見せてくれれば、その形を見る。

 

 どちらの色がよいかと聞かれ、少し迷って答える。

 

「こちらかな」

 

「理由、あります?」

 

「今の君の服に合わせるなら、こちらの方が、目が行く気がする」

 

「……なるほど」

 

 レナが、その色の隣へ小さく印をつけた。

 

 正しい答えだったのかは、分からない。

 

 採用されるかどうかも、分からない。

 

 けれど、聞かれたから考えて、見えたように答えた。

 

 それで、話は続いた。

 

     ◇

 

「セイアさん」

 

 エリが呼ぶ。

 

 顔を上げると、彼女は少し困ったように笑っていた。

 

「少しだけ、今のままで」

 

「……難しい注文だね」

 

「すみません。でも、今、分かったところがあって」

 

 セイアは動きを止めた。

 

 本は膝の上。

 

 顔は、レナの方から戻したところだった。

 

 何の話をしていたのか。

 

 確か、ミカならどの色を選びそうか、という話だ。

 

 レナに尋ねられ、自分が答えた。

 

 答えているうちに、本人の反応が思い浮かんで、少し笑った。

 

 それだけだった。

 

 エリの筆が動く。

 

 長くはかからなかった。

 

 やがて、彼女は筆を置いた。

 

 少し離れて紙を見る。

 

 もう一度、近づく。

 

 それから、深く息を吐いた。

 

「……今日は、ここまでにします」

 

 セイアも、息をついた。

 

 終わりを決める声を、列車の中で聞いた言葉と一緒に思い出した。

 

 もう一か所、直したくなる。

 

 けれど、今日は持っていく。

 

 エリにも、そういう場所があるのだろう。

 

     ◇

 

 見せてもらった絵の中で、セイアは窓を見ていなかった。

 

 正面も、見ていない。

 

 誰かの声に振り向き、何かを言おうとしているところだった。

 

 膝の上には本がある。

 

 片方の手は、その頁を押さえていた。

 

 もう一方は、少しだけ浮いている。

 

 姿勢は、整いすぎてはいなかった。

 

 上着を挟んでもらった背もたれへ、少し身体を預けている。

 

 肩の線は柔らかい。

 

 髪の明るいところには、塗られていない紙の白さが残っていた。

 

 そのすぐ隣に、薄い色がある。

 

 影は、灰色だけではなかった。

 

 セイアは、しばらく黙って見た。

 

「……こういう顔をしていたんだね」

 

 エリが、少しだけ頷いた。

 

「私には、そう見えました」

 

 断言しすぎない答えだった。

 

 それが、よかった。

 

 自分の全てを言い当てられたわけではない。

 

 自分が知っている顔とも、少し違う。

 

 けれど、今日ここに座っていた自分の一つの姿だと、思うことができた。

 

「ありがとう」

 

 セイアは言った。

 

「好きな絵だよ」

 

 エリの目が、大きくなった。

 

 何か返そうとして、すぐには言葉が出ない。

 

 そのあとで、いつもの元気な声より少し小さく、

 

「……よかったです」

 

 と答えた。

 

     ◇

 

 エリは、絵をセイアへ渡したいと言った。

 

 その代わり、記録のために撮影し、作品として人に見せてもよいかと尋ねた。

 

「構わないよ」

 

 セイアは答えた。

 

「ただ、トリニティの公式な肖像だと思われると、少々困るかもしれないね」

 

「そこは、ちゃんと分かるようにします!」

 

「題名は、どうするの?」

 

 レナが尋ねた。

 

 エリは紙を見た。

 

 少し考える。

 

「……まだ、迷っています」

 

「私の名前でなくてもいいよ」

 

 セイアが言うと、エリは顔を上げた。

 

「いいんですか?」

 

「ああ。君が描いた絵なのだから」

 

 エリは、しばらく考えた。

 

 窓。

 

 本。

 

 描かれたセイアの手。

 

 その順番に見てから、言った。

 

「『旅の途中』、はどうでしょう」

 

 セイアは、もう一度絵を見た。

 

 列車も、駅も、道も描かれていない。

 

 ただ、椅子に座った自分がいる。

 

 それでも、今日の旅の一部だった。

 

「……よい題名だね」

 

 レナも頷いた。

 

「帰る前だしね」

 

 その付け足しに、三人とも少し笑った。

 

     ◇

 

 色が落ち着くまで待ち、絵は平たい台紙と一緒に包んでもらった。

 

 レナが、鞄へ入る大きさか確かめる。

 

 少し大きい。

 

「折らないで、持って帰ってくださいね」

 

「それくらいは分かるよ」

 

「分かってても、電車で荷物増えると雑になる人、いるから」

 

 紙を傷つけないように、角まで確かめる。

 

 セイアは、その手つきを見た。

 

 午前中の列車で、向かいの生徒が抱えていた包みを思い出す。

 

 今度は、自分の方だった。

 

「何か、私からもできることはあるかな」

 

 セイアが尋ねる。

 

 エリは少し考え、それから首を振った。

 

「今日は、時間をいただいたので」

 

「それだけで?」

 

「はい。描いている間、ここにいてくださいましたから」

 

 セイアは、返す言葉を少し探した。

 

 像の前で足を止めたこと。

 

 食事をしたこと。

 

 本を読んだこと。

 

 それらが、誰かにとっては絵を描く時間になった。

 

 そう言われると、自分が何もしていなかったとは思えなくなる。

 

「では、大切に持ち帰ることにしよう」

 

 エリは、今度ははっきり笑った。

 

     ◇

 

 別れる時、エリは博物館の方を見た。

 

「もう一度、寄られるんでしたよね」

 

「ああ。閉まる前に、少しだけ」

 

「今なら、朝とは光の向きが違うと思います」

 

「君の言っていた翼も、見てくるよ」

 

「はい!」

 

 レナが時計を見た。

 

「帰りの電車、ちゃんと間に合うように」

 

「気をつける」

 

「あと、変なもの買わされないでくださいね」

 

「何か心当たりがあるような言い方だね」

 

「……まあ、いろいろ」

 

 エリが口を挟みかける。

 

 レナがそちらを見た。

 

 エリは、何も言わなかった。

 

 セイアは笑った。

 

「君たちにも、よい午後の続きがあるといいね」

 

「セイアさんも!」

 

 エリが手を振る。

 

 レナも、少し遅れて手を上げた。

 

 セイアは絵の入った包みを持ち直し、一人で歩き出した。

 

     ◇

 

 博物館へ戻ると、展示室の人は朝より少なくなっていた。

 

 像は、同じ場所にいる。

 

 当たり前のことだった。

 

 けれど、自分が街を歩き、食べ、話し、描かれている間も、ここに座っていたのだと思うと、少し不思議だった。

 

 セイアは、朝と同じ正面へ立った。

 

 それから、横へ動く。

 

 エリが教えてくれた、翼の重なるところを見る。

 

 確かに、影の形が変わっていた。

 

 朝よりも細く見えるところがある。

 

 逆に、深く沈んでいるところもある。

 

 顔つきまで変わったように見えたが、像そのものが動いたわけではない。

 

 見る場所と、光が違う。

 

 それから、見る人間が、少し違っていた。

 

     ◇

 

 セイアは説明板を、もう一度読んだ。

 

 トリニティへ贈られたこと。

 

 大聖堂に飾られていたこと。

 

 今は、ここにあること。

 

 午前中にも読んだ文章だった。

 

 書かれていることは、何も変わっていない。

 

 ただ、その間を移動したのが、像だけではなかったように思えた。

 

 これを作った誰かがいた。

 

 贈ろうと思った誰かがいた。

 

 見上げた人がいて、運んだ人がいて、今、ここで見ている生徒たちがいる。

 

 その一人は、翼の線を何度も描いていた。

 

 別の一人は、装飾を支える部分を知りたがっていた。

 

 どちらも、ただ古いものだから見ていたわけではなかった。

 

 セイアは、腕に抱えた包みへ目を落とした。

 

 今度は、一枚の絵が、ワイルドハントからトリニティへ向かう。

 

 歴史に残るような出来事ではない。

 

 大きな式典も、立派な文書もない。

 

 描いてもよいかと尋ねられ、構わないと答えた。

 

 そして、持って帰ることになった。

 

 それくらいのことだった。

 

 けれど、自分にとっては、今日一日の中でとても大きなことだった。

 

「……君にも、最初はそういう一日があったのかな」

 

 像へ尋ねる。

 

 返事はない。

 

 分からないことが、また一つ増えた。

 

 セイアは、それをすぐに埋めようとはしなかった。

 

     ◇

 

 売店では、像の絵葉書を一枚買った。

 

 写真で撮られたものだった。

 

 朝に見ていた図録より、ずっと色が分かる。

 

 それでも、実物と同じではない。

 

 角度が決まっている。

 

 光も、その一瞬のものだ。

 

 セイアは少し迷ったが、それを選んだ。

 

 自分が見てきた像と比べられるものが、手元にあってもよいと思ったからだ。

 

 そのあと、駅へ向かう途中で、焼き菓子の店へ寄った。

 

 ナギサには、紅茶と合わせやすそうなもの。

 

 ミカには、見た目にも少し楽しいもの。

 

 両方を考えて選ぶと、結局、一つの箱へ何種類か詰めてもらうことになった。

 

「贈り物ですか?」

 

 店員が尋ねる。

 

「そうだね」

 

 セイアは答えてから、少し付け加えた。

 

「私も、一緒に食べるつもりだけれど」

 

 店員が笑った。

 

「では、こちらも一つ入れておきましょうか。今、焼き上がったところです」

 

 小さな林檎の焼き菓子だった。

 

 表面の薄い艶が、店の灯りを受けている。

 

 セイアは頷いた。

 

 帰りの荷物が、また一つ増えた。

 

     ◇

 

 駅へ着いた時、列車までは少し時間があった。

 

 セイアはベンチへ座った。

 

 足が、よく歩いたことを伝えてくる。

 

 肩にも、鞄を持っていた重さが残っていた。

 

 絵の包みを膝へ置く。

 

 ずれないように、両手で端を押さえた。

 

 朝、向かいの生徒がしていたのと同じ姿勢だった。

 

 思い出して、少し笑う。

 

 あの生徒は、無事に作品を提出できただろうか。

 

 直したくなった一か所は、そのままにできただろうか。

 

 セイアには、確かめる方法がない。

 

 もう一度会う約束もしていない。

 

 ただ、今日の列車に、そういう生徒が乗っていたことを覚えている。

 

 絵の包みを、少しだけ持ち直す。

 

 今なら、角をぶつけたくなかった気持ちが、朝よりよく分かった。

 

     ◇

 

 端末を見ると、いくつか連絡が届いていた。

 

 ナギサからは、帰りの時刻の確認。

 

 ミカからは、

 

『石のやつ、いた?』

 

 という、非常に簡潔な質問。

 

 セイアは、売店で買った絵葉書を取り出した。

 

 写真を撮り、送る。

 

『いたよ。朝と夕方、二度会ってきた』

 

 ミカから、すぐに返事が来た。

 

『二回も!?』

 

『違う顔に見えたのでね』

 

『動いた?』

 

 セイアは少し考えた。

 

『動いたのは、私の方だよ』

 

 しばらくして、ミカから困った顔の絵文字が届いた。

 

 説明を省きすぎたかもしれない。

 

 そのあと、エリからも連絡があった。

 

 作品の写真。

 

 題名。

 

 そして、今日の礼が書かれている。

 

 セイアは写真を開いた。

 

 紙の実物は、今、膝の上にある。

 

 画面の中でも、自分は同じ方向へ顔を向けていた。

 

 エリのいる場所にも、同じ絵が残っている。

 

 セイアは短く返信した。

 

『こちらこそ、ありがとう。今、駅で大切に抱えているところだよ』

 

     ◇

 

 帰りの列車は、行きより少し空いていた。

 

 窓際へ座り、絵の包みを膝へ置く。

 

 鞄と菓子の箱は、その横へ。

 

 列車が動き出した。

 

 ホームの柱が、一本ずつ後ろへ流れていく。

 

 高い建物が見え、その向こうへ別の屋根が重なった。

 

 やがて、塔の上の方だけが残る。

 

 それも見えなくなったところで、セイアは背もたれへ身体を預けた。

 

 静かだった。

 

 今日一日、いろいろな声を聞いた。

 

 エリの、勢いよく始まる説明。

 

 レナの、間に合うように差し込まれる一言。

 

 カノエの、同じ言葉を別の時間に変える声。

 

 ツムギの、穏やかな話し方と、それとは全く違う歌声。

 

 今は、どれも聞こえない。

 

 車輪の音だけが続いている。

 

 セイアは本を出しかけて、やめた。

 

 今日はもう、読みたいものが膝の上にあった。

 

     ◇

 

 包みを少し開き、絵を見る。

 

 窓の光では、さっきの制作スペースと少し色が違って見えた。

 

 目元の影。

 

 髪の白いところ。

 

 本を押さえた指。

 

 エリが描いていた間、自分はずっと、この顔をしていたわけではない。

 

 姿勢を直した。

 

 笑った。

 

 本へ目を落とした。

 

 切符を拾った。

 

 その中から、エリが選んだものがここにある。

 

 セイアは、自分の顔の隣にある余白を見た。

 

 そこには、話しかけていた相手が描かれていない。

 

 けれど、誰もいないようには見えなかった。

 

 視線の先に、続きがある。

 

 今日の自分なら、その声を思い出せる。

 

 知らない人が見たら、別の誰かを思い浮かべるのかもしれない。

 

 それも、悪くないと思った。

 

 包みを閉じる。

 

 掌で、平らな紙の上をそっと押さえた。

 

     ◇

 

 トリニティへ戻ると、談話室には灯りがついていた。

 

 ミカが、セイアの抱えている包みを見て立ち上がる。

 

「お帰り! それ何?」

 

「ただいま。お土産が二種類あるよ」

 

 菓子の箱をテーブルへ置く。

 

 その隣へ、平たい包みを置いた。

 

「こっちは、見るものだ」

 

「絵?」

 

 ナギサが近づいてきた。

 

 セイアは頷き、包みを開いた。

 

 紙を傷つけないよう、ゆっくりと。

 

 二人が覗き込む。

 

 ミカはすぐに声を上げなかった。

 

 少し見てから、絵とセイアを見比べる。

 

「……これ、セイアちゃんだ」

 

「そう描いてもらったのでね」

 

「そういうことじゃなくて」

 

 ミカが絵の目元を指しかけ、触る前に止めた。

 

「話聞いてる時に、たまにこういう顔する」

 

 セイアは、何も言わずに絵を見た。

 

 ナギサも、少し時間をかけて眺めた。

 

「お知り合いの方に?」

 

「今日、博物館で会ったんだ。白尾エリという生徒だよ」

 

「……今日、ですか」

 

「ああ」

 

 ナギサは、絵の隅にある名前を見た。

 

 それから、もう一度全体へ目を戻す。

 

「よい午後だったのですね」

 

 セイアは、少し驚いて彼女を見た。

 

 ナギサは絵を見たまま、穏やかに続けた。

 

「そう見えます」

 

「……うん」

 

 セイアは答えた。

 

「よい午後だったよ」

 

     ◇

 

 お茶の用意をしている間に、セイアは像の絵葉書も出した。

 

 ミカが受け取る。

 

「これが、動かなかった方?」

 

「ああ」

 

「ちょっと怖い顔してるね」

 

「守るための顔でもあるらしい」

 

「へえ……」

 

 ミカは少し角度を変えて見た。

 

 もちろん、写真の向こう側が見えるわけではない。

 

 セイアは何も言わなかった。

 

 ナギサがカップを並べる。

 

 その側面には、三人で旅先で描いた模様があった。

 

 セイアのものには、青い湖と、途中で残った白いところ。

 

 そこへ紅茶が注がれる。

 

 香りが、談話室に広がった。

 

「ナギサ」

 

「はい?」

 

「君の展示の話も、聞いてきたよ」

 

 ポットを持つ手が、少し止まった。

 

「私の?」

 

「向こうで、話題にした生徒たちがいたそうだ。何を集めて、どう並べたのか、と」

 

 ナギサは、静かにポットを置いた。

 

 セイアは続けた。

 

「全部同じ感想だったわけではないそうだけれどね」

 

「それは、そうでしょう」

 

 返事は早かった。

 

 けれど、声は少し嬉しそうだった。

 

「見ていただいた方に、それぞれ考えていただけたのでしたら」

 

 セイアは頷いた。

 

「君が喜ぶと思ったので、覚えて帰ってきた」

 

 ナギサは、セイアの方を見た。

 

 何か言おうとして、一度、口を閉じる。

 

 それから、小さく微笑んだ。

 

「ありがとうございます」

 

     ◇

 

 ミカが菓子の箱を開けた。

 

 中には、形も色も少しずつ違う焼き菓子が並んでいる。

 

「これ、どれがおすすめ?」

 

「私はまだ食べていないよ」

 

「じゃあ、選んで」

 

「その二つは、繋がっているのかな」

 

 ナギサが小皿を置き、箱から一つずつ取り分けた。

 

 林檎の焼き菓子には、薄い砂糖が光っている。

 

 ミカが一口食べて、嬉しそうに目を細めた。

 

 セイアも、自分の皿へ手を伸ばす。

 

 さくりとした生地。

 

 柔らかな林檎。

 

 少し遅れて、香辛料の温かい香りがした。

 

 今日見たものを、全部順番に話すには時間がかかりそうだった。

 

 列車で会った生徒のことから始めるか。

 

 博物館でエリに教えてもらった翼のことか。

 

 それとも、ツムギの歌声に驚いた話なら、ミカはすぐ聞きたがるだろうか。

 

「それで、描いてもらってる時は、何の話してたの?」

 

 ミカが尋ねた。

 

 セイアは少し考えた。

 

「いろいろだよ。服の色や、帰りの列車や……君なら何を選ぶか、という話もした」

 

「私?」

 

「ああ」

 

 ミカは、もう一度絵を見た。

 

「じゃあ、その時かも」

 

「何が?」

 

「セイアちゃんが、ちょっと笑ってるところ」

 

 セイアは、絵へ目を向けた。

 

 そこに描かれた自分は、誰かの話を聞いている。

 

 言葉を返そうとしている。

 

 その相手は紙の中にはいない。

 

 けれど今は、絵のすぐ隣に、ミカが座っていた。

 

 反対側では、ナギサがお茶を飲んでいる。

 

 セイアはカップを置いた。

 

「……そうかもしれないね」

 

 そして、続きを話し始めた。

 

 絵の中には収まらなかった声が、テーブルの上に少しずつ増えていった。

 

 

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