午後の約束まで、セイアは一人で歩いた。
エリは道具を取りに行くという。
レナには、寄りたい画材の店があった。
カノエも、少しだけ用事を済ませるらしい。
待ち合わせる場所と時刻を確かめ、三人と別れた。
急に、周囲の音がよく聞こえるようになった。
さっきまで声がなかったわけではない。
自分へ向けられた言葉がなくなった分、街全体の音が近づいてきたのだ。
靴が石を踏む音。
紙をめくる音。
どこかで短く鳴った、楽器の一音。
その音がもう一度鳴り、少し違う高さへ移る。
セイアは立ち止まった。
建物の間に、小さな広場がある。
そこでは、数人の生徒が練習をしていた。
演奏は途中で止まり、誰かが譜面を示す。
話し合って、もう一度。
最初からではなく、さっき止まった少し手前から始めた。
出来上がった演奏だけを聞く時には、そこに費やされた時間は見えない。
セイアは、次に止まるところまで聞いた。
今度は、少し先まで進んだ。
◇
「聴いていかれますか?」
声をかけてきたのは、緑がかった髪の生徒だった。
穏やかな表情をしている。
手には、折り目のついた譜面があった。
「通りかかっただけなのだけれど」
「それなら、少しだけでも」
その生徒は微笑んだ。
「途中から聞こえる音楽にも、出会い方がありますから」
セイアは、彼女の顔を見た。
そして、昼食の席で聞いた名前を思い出した。
「もしかして、椎名ツムギかな」
「あ……はい」
「エリたちに会ったんだ。百合園セイアだよ」
ツムギは少し驚き、それから柔らかく頷いた。
「お話、届いています。今日は博物館へ?」
「ああ。今は、少し街を歩いている」
「そうでしたか」
ツムギは広場の方を振り返る。
「私も、もう少ししたら合流するつもりでした」
そこで、別の生徒から声がかかった。
ツムギが片手を上げる。
「あと少し、合わせてから行きますね」
「では、それまで聞いていてもよいかな」
「もちろんです」
譜面を抱え直した顔は、先ほどと同じように穏やかだった。
少なくとも、息を吸うまでは。
◇
セイアは、少し瞬きをした。
広場へ響いた声は、直前まで話していたものと、あまりにも違っていた。
強い。
輪郭がはっきりしている。
身体のどこから出ているのか、すぐには分からないような音だった。
けれど、ただ大きいだけではない。
隣で鳴る音に合わせて、短く切れ、また伸びる。
練習は、長くは続かなかった。
終わると、ツムギは仲間たちと二言三言話し、セイアの方へ戻ってくる。
「お待たせしました」
声は、元に戻っていた。
「……君たちの学園では、声にも隠し扉があるのかな」
ツムギは少し考え、それから笑った。
「驚かせてしまいましたか」
「かなりね。ただ、嫌な驚きではなかったよ」
「よかったです」
歩き出しながら、ツムギが言った。
「トリニティの皆さんにも、以前、聴いていただいたことがあるんです」
「放課後スイーツ部だね」
「はい」
セイアは頷いた。
彼女たちが音楽へ向かったこと。
その道の途中で、別の学園の生徒と出会っていたこと。
知っていた話が、今、隣を歩く一人の生徒へ繋がった。
「君のことを、向こうでも思い出しているかもしれないね」
「それは、嬉しいですね」
ツムギは、譜面の端を整えた。
「音は、手元に残りませんから。でも、誰かがまた思い出してくれたら」
言いかけて、少し首を傾ける。
「もう一度、そこに鳴るのかもしれません」
セイアは、広場の方を振り返った。
さっきの声は、もう聞こえない。
けれど確かに、思い出すことはできた。
◇
待ち合わせの場所は、学生の作品を展示している小さな建物だった。
その一角に、制作に使える机と椅子がある。
エリはすでに道具を広げていた。
紙。
鉛筆。
水彩の道具。
小さな水入れ。
隣の椅子には、レナが座っていた。
「来た」
セイアを見るなり、立ち上がる。
「そこ、日が動くと眩しくなるから、少し向きを変えた方がいいと思う」
「なるほど」
エリが椅子を動かす。
カノエは窓の近くに立って、机へ落ちる光を見ていた。
「ムギちゃんも、一緒だったんだぁ……」
「広場で会ったんです」
ツムギが答える。
「セイアさんに、練習を聴いていただきました」
「おぉ……魔法の道が、もう繋がっていたんですね!」
エリが言った。
レナは何か言いかけ、やめた。
どうやら、毎回止めていては先へ進まないと判断したらしい。
セイアは上着を脱ぎ、鞄を椅子の横へ置いた。
座る。
エリが紙を見て、自分を見て、また紙を見る。
「お願いします」
「こちらこそ」
そう答えたところで、セイアは、また姿勢を整えすぎていることに気づいた。
◇
最初のしばらくは、静かだった。
鉛筆が紙を擦る音がする。
エリは時々顔を上げ、また下を向いた。
セイアは、窓の外の同じ場所を見ていた。
少し離れたところで、ツムギが譜面へ書き込んでいる。
カノエは持ってきた台本を開いた。
レナはノートへ何か描いていたが、時々、こちらの椅子や服の落ち方を見る。
全員が、自分を見るためだけにここにいるわけではない。
それなのに、見られていると思うと、背中が勝手にまっすぐになった。
「……セイアさん」
エリが呼んだ。
「苦しくないですか?」
「いや」
「肩、少し上がっているので」
セイアは自分の肩を意識した。
確かに、そうだった。
息を吐く。
少し下がる。
「どうやら、じっとするのにも力が必要らしい」
レナが立ち上がった。
「その椅子、背中のところが合ってないのかも。何か挟んだ方が楽じゃない?」
「上着でよければあるよ」
「貸してください」
レナは受け取った上着を、厚くなりすぎないよう畳んだ。
背もたれとの間へ置く。
セイアが座り直すと、先ほどより少し楽だった。
「……助かった」
「服って、着てる時以外も役に立つから」
そう言って戻る。
エリは、そのやり取りも見ていた。
◇
「私、少しだけ考えすぎていたかもしれません」
エリが言った。
セイアは顔を向けかけ、途中で止める。
「動いてもいいです」
「それはありがたい」
向き直ると、エリは紙を見ていた。
「トリニティのセイアさんを描くなら、こういう感じかな、と。姿勢とか、光の入れ方とか」
「何か、決まったものがあるのかい」
「決まりではないです。ただ、私がそう思って……」
紙の端を指で押さえる。
「でも、さっき話していた時とは、少し違ってきてしまって」
セイアは、紙の向こう側を見ようとはしなかった。
まだ描いている途中だ。
見せる時を決めるのは、エリの方だろう。
「私も、そう見えるように座っていたのかもしれないね」
「嫌だったわけでは、ないですよね?」
「嫌ではないよ。慣れているんだ」
セイアは、膝の上の手を見た。
「ただ、今日はずっとそうしていたわけでもない」
列車で本を読んだ。
包みを押さえた。
像の横へ回り込んだ。
パイを割る場所に迷った。
知らない声に、少し驚いた。
どの時も、同じ姿勢ではなかった。
「……どの私を描くか、君にも選ぶところがあるのだろうね」
エリは頷いた。
すぐには、鉛筆を動かさなかった。
◇
「声も、そうだよぉ……」
カノエが、台本から顔を上げた。
「きれいに言えたところが、欲しかったところとは限らないし……」
セイアは彼女を見る。
「そうなのかい」
「言い終わる前に、笑っちゃう方が……合うこともあるからねぇ」
カノエは、紙へ目を戻した。
それ以上の説明はしなかった。
エリが鉛筆を持ち直す。
「セイアさん、本を読んでいても大丈夫です」
「持ってきた本を?」
「はい。お話しても。ずっと同じところを見ていなくても、描けますから」
その声は、先ほどよりも少し確かだった。
「私も、見て考えます」
セイアは頷いた。
鞄から本を出す。
開こうとして、間に挟んでいた切符の控えが、膝へ落ちた。
拾う。
レナが時計を見る。
「電車、何時ですか?」
「まだ余裕はあるよ」
「ならいいけど。帰れなくなったら困るでしょ」
「君たちに、泊めてもらうわけにもいかないだろうしね」
「……絶対、やめた方がいいです」
返事が、あまりにも早かった。
セイアは顔を上げた。
カノエが笑う。
「レナちゃん、寂しくなぁい……?」
「そういう問題じゃない!」
「では、今日は切符をなくさないようにしておこう」
セイアが言うと、エリが小さく笑った。
鉛筆は、今度は止まらなかった。
◇
本は、三ページほど進んだ。
その間に、一度、エリが紙を替えた。
最初のものを破ったわけではない。
脇へ置き、新しい一枚を前へ出した。
セイアが顔を上げると、エリは頷く。
「残しておきます。最初にどう見ようとしたかも、あとで分かるので」
「失敗ではないんだね」
「失敗したところもあります。でも、全部なくさなくてもいいかなって」
セイアは、その言葉を聞いてから、本へ視線を戻した。
自分のために描いているものを、簡単に失敗と呼ばれると、少し寂しかったかもしれない。
けれど、そうではなかった。
最初に見えたものがあって。
そのあと、別のものが見えてきた。
紙を替える動きは、それを残すためのものだった。
◇
途中で、短い休憩を挟んだ。
セイアが立つと、足が少し固くなっていた。
座っていただけなのに、思ったより時間を使った感じがする。
窓辺へ歩く。
外では、朝とは違う方向へ影が伸びていた。
レナが、紙袋から包みを一つ出した。
細長い、チョコレート色の線が見える。
クレープだった。
「……さっきの店で、頼んでいたのかい」
「食べる時間がなかったから。こっちへ来る途中で買ったの」
少し言い訳のような声だった。
セイアは頷いた。
「よい選択だと思うよ」
レナは、半分ほど開いた包みを見た。
「セイアさんも、何か買えばよかったのに」
「今は、君が美味しそうに食べるところを見るだけで、少し満足している」
「……見られると、食べにくいんですけど」
「なるほど」
セイアは、すぐに視線を窓へ戻した。
「それは、よく分かったところだ」
レナが一瞬きょとんとして、それから、少しだけ笑った。
◇
カノエは、休憩が終わる前に席を立った。
「私は、そろそろ……」
「このあとも、用事があるのかい」
「うん。少し、声を使ってくるねぇ……」
台本を鞄へ収める。
さっきまでののんびりした動きの中に、時間を見ている確かさがあった。
「描き上がったら、あとで見せてねぇ」
エリが頷く。
カノエはセイアを見る。
「帰りの列車で、誰かに呼ばれても……忘れ物を取りに戻らないようにねぇ」
「何か、そういう話があるのかい」
「今、できたのかもしれないよぉ……」
「作らないで!」
レナが言った。
カノエは楽しそうに笑い、手を振って出ていった。
ツムギも、少しして譜面をまとめた。
まだ合わせたいところがあるらしい。
「完成までいられなくて、残念です」
「こちらこそ、聴かせてもらえてよかった」
セイアが言うと、ツムギは微笑んだ。
「また、どこかで音が聞こえたら」
「ああ。少し、足を止めてみよう」
ツムギは嬉しそうに頷き、エリとレナにも声をかけてから去った。
部屋が、少し静かになる。
けれど、いなくなった二人の声は、しばらく残っているように感じられた。
◇
エリは、鉛筆の線へ薄く色を重ねていた。
セイアの目元を見て。
紙を見る。
窓を見る。
また、こちらへ視線を戻す。
その繰り返しだった。
セイアは、今度はそれを気にしすぎないようにした。
本を読む。
時々、話す。
レナがノートへ描いた小さな飾りを見せてくれれば、その形を見る。
どちらの色がよいかと聞かれ、少し迷って答える。
「こちらかな」
「理由、あります?」
「今の君の服に合わせるなら、こちらの方が、目が行く気がする」
「……なるほど」
レナが、その色の隣へ小さく印をつけた。
正しい答えだったのかは、分からない。
採用されるかどうかも、分からない。
けれど、聞かれたから考えて、見えたように答えた。
それで、話は続いた。
◇
「セイアさん」
エリが呼ぶ。
顔を上げると、彼女は少し困ったように笑っていた。
「少しだけ、今のままで」
「……難しい注文だね」
「すみません。でも、今、分かったところがあって」
セイアは動きを止めた。
本は膝の上。
顔は、レナの方から戻したところだった。
何の話をしていたのか。
確か、ミカならどの色を選びそうか、という話だ。
レナに尋ねられ、自分が答えた。
答えているうちに、本人の反応が思い浮かんで、少し笑った。
それだけだった。
エリの筆が動く。
長くはかからなかった。
やがて、彼女は筆を置いた。
少し離れて紙を見る。
もう一度、近づく。
それから、深く息を吐いた。
「……今日は、ここまでにします」
セイアも、息をついた。
終わりを決める声を、列車の中で聞いた言葉と一緒に思い出した。
もう一か所、直したくなる。
けれど、今日は持っていく。
エリにも、そういう場所があるのだろう。
◇
見せてもらった絵の中で、セイアは窓を見ていなかった。
正面も、見ていない。
誰かの声に振り向き、何かを言おうとしているところだった。
膝の上には本がある。
片方の手は、その頁を押さえていた。
もう一方は、少しだけ浮いている。
姿勢は、整いすぎてはいなかった。
上着を挟んでもらった背もたれへ、少し身体を預けている。
肩の線は柔らかい。
髪の明るいところには、塗られていない紙の白さが残っていた。
そのすぐ隣に、薄い色がある。
影は、灰色だけではなかった。
セイアは、しばらく黙って見た。
「……こういう顔をしていたんだね」
エリが、少しだけ頷いた。
「私には、そう見えました」
断言しすぎない答えだった。
それが、よかった。
自分の全てを言い当てられたわけではない。
自分が知っている顔とも、少し違う。
けれど、今日ここに座っていた自分の一つの姿だと、思うことができた。
「ありがとう」
セイアは言った。
「好きな絵だよ」
エリの目が、大きくなった。
何か返そうとして、すぐには言葉が出ない。
そのあとで、いつもの元気な声より少し小さく、
「……よかったです」
と答えた。
◇
エリは、絵をセイアへ渡したいと言った。
その代わり、記録のために撮影し、作品として人に見せてもよいかと尋ねた。
「構わないよ」
セイアは答えた。
「ただ、トリニティの公式な肖像だと思われると、少々困るかもしれないね」
「そこは、ちゃんと分かるようにします!」
「題名は、どうするの?」
レナが尋ねた。
エリは紙を見た。
少し考える。
「……まだ、迷っています」
「私の名前でなくてもいいよ」
セイアが言うと、エリは顔を上げた。
「いいんですか?」
「ああ。君が描いた絵なのだから」
エリは、しばらく考えた。
窓。
本。
描かれたセイアの手。
その順番に見てから、言った。
「『旅の途中』、はどうでしょう」
セイアは、もう一度絵を見た。
列車も、駅も、道も描かれていない。
ただ、椅子に座った自分がいる。
それでも、今日の旅の一部だった。
「……よい題名だね」
レナも頷いた。
「帰る前だしね」
その付け足しに、三人とも少し笑った。
◇
色が落ち着くまで待ち、絵は平たい台紙と一緒に包んでもらった。
レナが、鞄へ入る大きさか確かめる。
少し大きい。
「折らないで、持って帰ってくださいね」
「それくらいは分かるよ」
「分かってても、電車で荷物増えると雑になる人、いるから」
紙を傷つけないように、角まで確かめる。
セイアは、その手つきを見た。
午前中の列車で、向かいの生徒が抱えていた包みを思い出す。
今度は、自分の方だった。
「何か、私からもできることはあるかな」
セイアが尋ねる。
エリは少し考え、それから首を振った。
「今日は、時間をいただいたので」
「それだけで?」
「はい。描いている間、ここにいてくださいましたから」
セイアは、返す言葉を少し探した。
像の前で足を止めたこと。
食事をしたこと。
本を読んだこと。
それらが、誰かにとっては絵を描く時間になった。
そう言われると、自分が何もしていなかったとは思えなくなる。
「では、大切に持ち帰ることにしよう」
エリは、今度ははっきり笑った。
◇
別れる時、エリは博物館の方を見た。
「もう一度、寄られるんでしたよね」
「ああ。閉まる前に、少しだけ」
「今なら、朝とは光の向きが違うと思います」
「君の言っていた翼も、見てくるよ」
「はい!」
レナが時計を見た。
「帰りの電車、ちゃんと間に合うように」
「気をつける」
「あと、変なもの買わされないでくださいね」
「何か心当たりがあるような言い方だね」
「……まあ、いろいろ」
エリが口を挟みかける。
レナがそちらを見た。
エリは、何も言わなかった。
セイアは笑った。
「君たちにも、よい午後の続きがあるといいね」
「セイアさんも!」
エリが手を振る。
レナも、少し遅れて手を上げた。
セイアは絵の入った包みを持ち直し、一人で歩き出した。
◇
博物館へ戻ると、展示室の人は朝より少なくなっていた。
像は、同じ場所にいる。
当たり前のことだった。
けれど、自分が街を歩き、食べ、話し、描かれている間も、ここに座っていたのだと思うと、少し不思議だった。
セイアは、朝と同じ正面へ立った。
それから、横へ動く。
エリが教えてくれた、翼の重なるところを見る。
確かに、影の形が変わっていた。
朝よりも細く見えるところがある。
逆に、深く沈んでいるところもある。
顔つきまで変わったように見えたが、像そのものが動いたわけではない。
見る場所と、光が違う。
それから、見る人間が、少し違っていた。
◇
セイアは説明板を、もう一度読んだ。
トリニティへ贈られたこと。
大聖堂に飾られていたこと。
今は、ここにあること。
午前中にも読んだ文章だった。
書かれていることは、何も変わっていない。
ただ、その間を移動したのが、像だけではなかったように思えた。
これを作った誰かがいた。
贈ろうと思った誰かがいた。
見上げた人がいて、運んだ人がいて、今、ここで見ている生徒たちがいる。
その一人は、翼の線を何度も描いていた。
別の一人は、装飾を支える部分を知りたがっていた。
どちらも、ただ古いものだから見ていたわけではなかった。
セイアは、腕に抱えた包みへ目を落とした。
今度は、一枚の絵が、ワイルドハントからトリニティへ向かう。
歴史に残るような出来事ではない。
大きな式典も、立派な文書もない。
描いてもよいかと尋ねられ、構わないと答えた。
そして、持って帰ることになった。
それくらいのことだった。
けれど、自分にとっては、今日一日の中でとても大きなことだった。
「……君にも、最初はそういう一日があったのかな」
像へ尋ねる。
返事はない。
分からないことが、また一つ増えた。
セイアは、それをすぐに埋めようとはしなかった。
◇
売店では、像の絵葉書を一枚買った。
写真で撮られたものだった。
朝に見ていた図録より、ずっと色が分かる。
それでも、実物と同じではない。
角度が決まっている。
光も、その一瞬のものだ。
セイアは少し迷ったが、それを選んだ。
自分が見てきた像と比べられるものが、手元にあってもよいと思ったからだ。
そのあと、駅へ向かう途中で、焼き菓子の店へ寄った。
ナギサには、紅茶と合わせやすそうなもの。
ミカには、見た目にも少し楽しいもの。
両方を考えて選ぶと、結局、一つの箱へ何種類か詰めてもらうことになった。
「贈り物ですか?」
店員が尋ねる。
「そうだね」
セイアは答えてから、少し付け加えた。
「私も、一緒に食べるつもりだけれど」
店員が笑った。
「では、こちらも一つ入れておきましょうか。今、焼き上がったところです」
小さな林檎の焼き菓子だった。
表面の薄い艶が、店の灯りを受けている。
セイアは頷いた。
帰りの荷物が、また一つ増えた。
◇
駅へ着いた時、列車までは少し時間があった。
セイアはベンチへ座った。
足が、よく歩いたことを伝えてくる。
肩にも、鞄を持っていた重さが残っていた。
絵の包みを膝へ置く。
ずれないように、両手で端を押さえた。
朝、向かいの生徒がしていたのと同じ姿勢だった。
思い出して、少し笑う。
あの生徒は、無事に作品を提出できただろうか。
直したくなった一か所は、そのままにできただろうか。
セイアには、確かめる方法がない。
もう一度会う約束もしていない。
ただ、今日の列車に、そういう生徒が乗っていたことを覚えている。
絵の包みを、少しだけ持ち直す。
今なら、角をぶつけたくなかった気持ちが、朝よりよく分かった。
◇
端末を見ると、いくつか連絡が届いていた。
ナギサからは、帰りの時刻の確認。
ミカからは、
『石のやつ、いた?』
という、非常に簡潔な質問。
セイアは、売店で買った絵葉書を取り出した。
写真を撮り、送る。
『いたよ。朝と夕方、二度会ってきた』
ミカから、すぐに返事が来た。
『二回も!?』
『違う顔に見えたのでね』
『動いた?』
セイアは少し考えた。
『動いたのは、私の方だよ』
しばらくして、ミカから困った顔の絵文字が届いた。
説明を省きすぎたかもしれない。
そのあと、エリからも連絡があった。
作品の写真。
題名。
そして、今日の礼が書かれている。
セイアは写真を開いた。
紙の実物は、今、膝の上にある。
画面の中でも、自分は同じ方向へ顔を向けていた。
エリのいる場所にも、同じ絵が残っている。
セイアは短く返信した。
『こちらこそ、ありがとう。今、駅で大切に抱えているところだよ』
◇
帰りの列車は、行きより少し空いていた。
窓際へ座り、絵の包みを膝へ置く。
鞄と菓子の箱は、その横へ。
列車が動き出した。
ホームの柱が、一本ずつ後ろへ流れていく。
高い建物が見え、その向こうへ別の屋根が重なった。
やがて、塔の上の方だけが残る。
それも見えなくなったところで、セイアは背もたれへ身体を預けた。
静かだった。
今日一日、いろいろな声を聞いた。
エリの、勢いよく始まる説明。
レナの、間に合うように差し込まれる一言。
カノエの、同じ言葉を別の時間に変える声。
ツムギの、穏やかな話し方と、それとは全く違う歌声。
今は、どれも聞こえない。
車輪の音だけが続いている。
セイアは本を出しかけて、やめた。
今日はもう、読みたいものが膝の上にあった。
◇
包みを少し開き、絵を見る。
窓の光では、さっきの制作スペースと少し色が違って見えた。
目元の影。
髪の白いところ。
本を押さえた指。
エリが描いていた間、自分はずっと、この顔をしていたわけではない。
姿勢を直した。
笑った。
本へ目を落とした。
切符を拾った。
その中から、エリが選んだものがここにある。
セイアは、自分の顔の隣にある余白を見た。
そこには、話しかけていた相手が描かれていない。
けれど、誰もいないようには見えなかった。
視線の先に、続きがある。
今日の自分なら、その声を思い出せる。
知らない人が見たら、別の誰かを思い浮かべるのかもしれない。
それも、悪くないと思った。
包みを閉じる。
掌で、平らな紙の上をそっと押さえた。
◇
トリニティへ戻ると、談話室には灯りがついていた。
ミカが、セイアの抱えている包みを見て立ち上がる。
「お帰り! それ何?」
「ただいま。お土産が二種類あるよ」
菓子の箱をテーブルへ置く。
その隣へ、平たい包みを置いた。
「こっちは、見るものだ」
「絵?」
ナギサが近づいてきた。
セイアは頷き、包みを開いた。
紙を傷つけないよう、ゆっくりと。
二人が覗き込む。
ミカはすぐに声を上げなかった。
少し見てから、絵とセイアを見比べる。
「……これ、セイアちゃんだ」
「そう描いてもらったのでね」
「そういうことじゃなくて」
ミカが絵の目元を指しかけ、触る前に止めた。
「話聞いてる時に、たまにこういう顔する」
セイアは、何も言わずに絵を見た。
ナギサも、少し時間をかけて眺めた。
「お知り合いの方に?」
「今日、博物館で会ったんだ。白尾エリという生徒だよ」
「……今日、ですか」
「ああ」
ナギサは、絵の隅にある名前を見た。
それから、もう一度全体へ目を戻す。
「よい午後だったのですね」
セイアは、少し驚いて彼女を見た。
ナギサは絵を見たまま、穏やかに続けた。
「そう見えます」
「……うん」
セイアは答えた。
「よい午後だったよ」
◇
お茶の用意をしている間に、セイアは像の絵葉書も出した。
ミカが受け取る。
「これが、動かなかった方?」
「ああ」
「ちょっと怖い顔してるね」
「守るための顔でもあるらしい」
「へえ……」
ミカは少し角度を変えて見た。
もちろん、写真の向こう側が見えるわけではない。
セイアは何も言わなかった。
ナギサがカップを並べる。
その側面には、三人で旅先で描いた模様があった。
セイアのものには、青い湖と、途中で残った白いところ。
そこへ紅茶が注がれる。
香りが、談話室に広がった。
「ナギサ」
「はい?」
「君の展示の話も、聞いてきたよ」
ポットを持つ手が、少し止まった。
「私の?」
「向こうで、話題にした生徒たちがいたそうだ。何を集めて、どう並べたのか、と」
ナギサは、静かにポットを置いた。
セイアは続けた。
「全部同じ感想だったわけではないそうだけれどね」
「それは、そうでしょう」
返事は早かった。
けれど、声は少し嬉しそうだった。
「見ていただいた方に、それぞれ考えていただけたのでしたら」
セイアは頷いた。
「君が喜ぶと思ったので、覚えて帰ってきた」
ナギサは、セイアの方を見た。
何か言おうとして、一度、口を閉じる。
それから、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇
ミカが菓子の箱を開けた。
中には、形も色も少しずつ違う焼き菓子が並んでいる。
「これ、どれがおすすめ?」
「私はまだ食べていないよ」
「じゃあ、選んで」
「その二つは、繋がっているのかな」
ナギサが小皿を置き、箱から一つずつ取り分けた。
林檎の焼き菓子には、薄い砂糖が光っている。
ミカが一口食べて、嬉しそうに目を細めた。
セイアも、自分の皿へ手を伸ばす。
さくりとした生地。
柔らかな林檎。
少し遅れて、香辛料の温かい香りがした。
今日見たものを、全部順番に話すには時間がかかりそうだった。
列車で会った生徒のことから始めるか。
博物館でエリに教えてもらった翼のことか。
それとも、ツムギの歌声に驚いた話なら、ミカはすぐ聞きたがるだろうか。
「それで、描いてもらってる時は、何の話してたの?」
ミカが尋ねた。
セイアは少し考えた。
「いろいろだよ。服の色や、帰りの列車や……君なら何を選ぶか、という話もした」
「私?」
「ああ」
ミカは、もう一度絵を見た。
「じゃあ、その時かも」
「何が?」
「セイアちゃんが、ちょっと笑ってるところ」
セイアは、絵へ目を向けた。
そこに描かれた自分は、誰かの話を聞いている。
言葉を返そうとしている。
その相手は紙の中にはいない。
けれど今は、絵のすぐ隣に、ミカが座っていた。
反対側では、ナギサがお茶を飲んでいる。
セイアはカップを置いた。
「……そうかもしれないね」
そして、続きを話し始めた。
絵の中には収まらなかった声が、テーブルの上に少しずつ増えていった。