百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

12 / 13
折瀬川・石橋通り #足湯 #窓辺の椅子 #夕暮れ

 

 宿を選んだ理由は、部屋の写真に椅子が一脚あったからだった。

 

 窓の前に、小さな丸い卓がある。

 

 その横に、籐の椅子が置かれていた。

 

 窓の向こうには川が見える。手すりと、向かいの建物の屋根も少し写っていて、眺望を売りにする写真としては、ずいぶん控えめだった。

 

 卓の上には、何も載っていない。

 

 そこへ本を置いて、座ってみたいと思った。

 

 百合園セイアは写真を一度閉じ、宿の案内を読み、それからもう一度、同じ部屋を見た。

 

 百鬼夜行の中心部から、さらに山へ入ったところにある温泉街。

 

 折瀬温泉。

 

 小さな川に沿って、旅館や商店が集まっているという。

 

 宿の名前は、橋見屋。

 

 写真に写っていた手すりは、橋のものだったらしい。

 

 一名。

 

 一泊。

 

 夕食と朝食つき。

 

 予約内容を確かめ、確定する。

 

 すると、明日の午後には自分の席になる椅子が、画面の向こうにできた。

 

     ◇

 

 行きの列車では、途中まで本を読んでいた。

 

 乗り換えの時刻が近づくと栞を挟み、窓の外を見る。街並みの間に、山が見え始めていた。

 

 最初の乗り換え駅は大きかった。

 

 行き先の違う列車が何本も停まり、改札の向こうには、朝から客の入った店が並んでいる。

 

 その次の駅では、ホームが少なくなった。

 

 最後に乗った列車は、二両編成だった。

 

 車内へ入ると、木目の座席と、窓の上に並ぶ沿線の案内が目に入った。忍術体験、季節の市、舞台公演。華やかな広告の端に、温泉の名前が小さく載っている。

 

 セイアは、その下の席へ座った。

 

 発車してしばらくすると、窓の外に竹林が現れた。

 

 竹の幹は、近いものほど速く流れていく。

 

 その向こうの山は、ほとんど動かない。

 

 列車が曲がると、それまで見えていなかった川が、急に窓の下へ現れた。

 

 水は浅いところで白く光り、岩の陰では濃い緑になっている。

 

 セイアは本を鞄へしまった。

 

 今は、こちらを見ていたかった。

 

     ◇

 

 停まる駅ごとに、乗客は少しずつ入れ替わった。

 

 大きな旅行鞄を持った生徒が降り、代わりに、荷物をほとんど持たない百鬼夜行の生徒が乗ってくる。

 

 仕事道具らしい箱を抱えたロボットもいた。

 

 座席へ箱を置かず、足元へ収める。中身が動かないよう両足で挟んでから、静かに動作を休めた。

 

 向かいの席では、二人の生徒が旅行案内を広げていた。

 

「ここも行けるかな」

 

「それ入れたら、帰りの電車ぎりぎりじゃない?」

 

「じゃあ、お昼を早くすれば」

 

 指が、地図の上を行き来する。

 

 セイアも自分の端末を開いた。

 

 宿へ着くまでの道。

 

 荷物を預けられる時刻。

 

 帰りの列車。

 

 ただし、最後の一つは明日の話だった。

 

 画面を閉じる。

 

 今日の夕方、どこかの駅へ戻る必要はない。

 

 そのことを確かめただけで、座席へ預ける背中が、少し深くなった。

 

     ◇

 

 折瀬温泉駅には、昼前に着いた。

 

 屋根の低い駅舎を抜けると、空気がひんやりしていた。

 

 陽射しは暖かい。

 

 けれど、日陰を通る風には、山の奥から下りてきた冷たさがある。

 

 駅前には小さな広場があり、片隅に、手を洗うための水場があった。細い水が絶えず流れ、受け皿の石を濡らしている。

 

 その音の向こうに、もう少し大きな水音が聞こえた。

 

 川だろう。

 

 姿はまだ見えなかった。

 

 観光案内所の窓口には、百鬼夜行の生徒が一人座っていた。

 

 机の上には、地図と、切符のような小さな紙が何種類も並んでいる。

 

「こんにちは。散策ですか?」

 

「ああ。橋見屋に泊まる予定なんだが、こちらの道でよいのかな」

 

 セイアが予約画面を見せると、生徒は頷いた。

 

「はい。そこの坂を下りて、石の橋を渡ったところです。荷物が重ければ、宿に電話して迎えを頼めますよ」

 

「歩ける距離だろう?」

 

「十分くらいですね。ただ、帰りは上りなので」

 

「帰りの自分に、少し頑張ってもらうことにしよう」

 

 生徒が笑い、地図を一枚差し出した。

 

「こちらが温泉街です。表の坂道にお店が多くて、川沿いの方は静かです。足湯はここ。共同浴場は、もう少し上にあります」

 

 指が、細い川の線を辿る。

 

 下の橋。

 

 宿の並ぶ一角。

 

 浴場のある小路。

 

 さらに上流には、滝見橋という名前があった。

 

「この辺りまで歩かれる方もいます。道は整っていますけど、少し上りです」

 

「なるほど」

 

「全部回るなら、こっちから――」

 

 説明しかけて、生徒はセイアの鞄を見た。

 

「あ、お泊まりでしたね。では、今日と明日で分けても」

 

 セイアは頷いた。

 

「そうしてみるよ」

 

 何も書き込まれていない地図を、鞄へ収めた。

 

     ◇

 

 坂を下りるにつれて、温泉街が近づいてきた。

 

 遠くからは、屋根が重なっているだけに見えた。

 

 歩いていくと、その間に細い道があり、階段があり、川へ向かって張り出した小さな物干しがある。

 

 軒先に下がった布が、風に揺れていた。

 

 土産物屋の前には、手ぬぐいが何枚も並んでいる。

 

 向かいの店からは、何かを蒸す匂いがした。

 

 足元の側溝を、細い水が流れていた。そこから白いものが上がっているのを見て、セイアは一度足を止める。

 

 湯気だった。

 

 石の縁に、湯の道を示す小さな札がある。

 

 もう少し先では、建物の脇を通る配管の周りだけ、苔の色が濃かった。

 

 川の水音が大きくなる。

 

 坂の先を曲がると、石の橋が現れた。

 

 橋の上から見下ろした川は、思っていたより近い。

 

 大きな岩の間を水が通り、ところどころで白く泡立っていた。

 

 その向こうに、橋見屋の看板が見えた。

 

 飾り気の少ない、木の看板だった。

 

     ◇

 

 宿の玄関では、一人の生徒が座布団を運んでいた。

 

 柿色の前掛けを締め、髪を後ろで丸くまとめている。

 

 セイアに気づくと、抱えていたものを脇へ置き、少し急いで近づいてきた。

 

「いらっしゃいませ。お泊まりのお客様ですか?」

 

「ああ。百合園で予約している」

 

「お待ちしておりました。まだお部屋の用意が済んでいないので、お荷物だけでしたら――」

 

「そのつもりで来たよ。少し町を歩いてこようと思って」

 

 生徒はほっとしたように頷き、荷物を預かる札を持ってきた。

 

 セイアは鞄から貴重品と本を出した。

 

 大きな鞄を渡すと、肩が軽くなる。

 

 生徒が控えを差し出したところで、セイアは、彼女の襟元へ目を留めた。

 

「……それも、制服の一部かな」

 

「え?」

 

 生徒が下を向く。

 

 襟に、洗濯ばさみが一つ留まっていた。

 

「あっ」

 

 すぐに外す。

 

「さっき、干していて。そのままでした」

 

「便利そうではあるね」

 

「お客様の前へ出る時には、取った方がいいですね……」

 

 頬を少し赤くして、前掛けのポケットへしまう。

 

 セイアは笑った。

 

 玄関の奥から、背の低い犬の主人が顔を出す。

 

 会釈を交わし、部屋へ入れる時刻を確かめる。

 

 夕食は六時。

 

 戻ってくるのが遅くなりそうなら、連絡してほしいという。

 

 セイアは頷き、身軽になって玄関を出た。

 

 荷物を置ける場所があると、同じ坂道も、もう少し先まで歩いてみようと思えた。

 

     ◇

 

 昼食に選んだのは、うどんを出す小さな店だった。

 

 窓際には二人掛けの席が二つ。

 

 奥には、長い机が置かれている。

 

 店へ入ると、出汁の香りが近づいてきた。

 

 壁の品書きを読む。

 

 温かいうどん。

 

 冷たいうどん。

 

 きのこ。

 

 山かけ。

 

 稲荷寿司もある。

 

 セイアは、きのこうどんを頼んだ。

 

 稲荷寿司にも少し心が動いたが、夕食つきの宿へ泊まることを思い出し、今日はやめておいた。

 

 窓の外では、小さな運搬ロボットが坂を上っている。

 

 箱を積んだ荷台の側面に、旅館の名前がいくつも貼られていた。

 

 坂の途中で一度停まり、車輪の向きを直してから、また進む。

 

 ここで暮らすものには、坂を上るのも毎日の仕事なのだろう。

 

「お待たせしました」

 

 声がして、丼が置かれた。

 

     ◇

 

 出汁は澄んだ色をしていた。

 

 その上に、きのこがたっぷり載っている。

 

 薄く切られたものも、傘の形が残ったものもあった。

 

 刻んだ油揚げと葱が、その間から見える。

 

 まず、汁を一口。

 

 温かい。

 

 醤油は強すぎず、あとからきのこの香りが残った。

 

 麺を持ち上げると、湯気が顔へ近づく。

 

 少し冷まして口へ運ぶ。

 

 柔らかいが、噛むと芯に弾力がある。

 

 きのこを一緒に食べると、歯触りが変わった。

 

 油揚げには汁がよく染みていて、噛んだ時だけ、少し濃い味になる。

 

 セイアは箸を置かずに、しばらく食べた。

 

 窓から入ってくる風が、頬を冷やす。

 

 丼の中は熱い。

 

 その差が、心地よかった。

 

 食べ終える頃には、手の先まで温まっていた。

 

 代金を払う時、店の主人が尋ねた。

 

「このあと、お風呂ですか」

 

「そのつもりだよ。まだ宿へは入れないので、もう少し歩くけれど」

 

「では、川沿いの方がいいですよ。今は日が入っていますから」

 

 セイアは礼を言い、外へ出た。

 

 昼食を取る間に、午後の歩き方が一つ増えていた。

 

     ◇

 

 足湯は、川へ向かって開いた屋根の下にあった。

 

 長い湯船に沿って、木の腰掛けがある。

 

 入口には靴を置く棚と、小さな更衣用の囲い。桶や、貸し出しの布も整えて置かれていた。

 

 先客は二人。

 

 百鬼夜行の生徒たちだった。

 

 片方は鞄を膝へ置き、もう片方は靴下を丁寧に畳んでいる。

 

 セイアも靴を脱ぎ、裾を濡らさないように整えてから、端へ座った。

 

 足先を湯へ入れる。

 

「……熱いね」

 

「あ、そっちは湯口に近いから。こっちの方が少し温いですよ」

 

 隣の生徒が、腰掛けの空いたところを示した。

 

「ありがとう」

 

 移ってみると、確かに違った。

 

 足首までゆっくり沈める。

 

 最初の熱さが、少しずつ身体へ馴染んでいった。

 

 川の水音がする。

 

 湯船の底にできた光の模様が、足を動かすたびに崩れた。

 

 隣の二人は、帰りの列車を相談していた。

 

 このあと菓子を買い、駅へ戻れば、予定の便に間に合うらしい。

 

 時刻を確かめた生徒が、セイアにも顔を向ける。

 

「駅へ戻るなら、坂、ちょっと余裕を見ておいた方がいいですよ」

 

「今日は泊まるんだ」

 

「あ、いいなあ」

 

 返事が、すぐに来た。

 

「この時間になると、泊まりにすればよかったって思うんですよね」

 

 もう一人が頷く。

 

「朝は、日帰りで十分って言ってたのに」

 

「来る前は、そう思うじゃん」

 

 二人が笑う。

 

 セイアもつられて笑った。

 

 やがて二人は足を拭き、靴下を履き、鞄を持って出ていった。

 

 急いでいるわけではない。

 

 ただ、帰る時間が来たのだ。

 

 屋根の下には、セイアが一人残った。

 

 川の向こうで、小さな鳥が石へ降りる。

 

 セイアはしばらくそれを見てから、足を湯から上げた。

 

 自分で終わりを決めなければ、いつまでもここにいそうだった。

 

     ◇

 

 足を拭いて靴を履くと、靴の内側が少し冷たく感じられた。

 

 歩き始めた足は、さっきより軽い。

 

 川沿いの道には、店の裏側が見えた。

 

 表にはきれいな暖簾が出ていた店も、こちらには洗ったざるや、空の木箱が並んでいる。

 

 旅館の窓から、布団を運ぶ生徒の姿が見えた。

 

 大きなシーツが、風に膨らむ。

 

 別の建物では、木の戸を開けて、座敷へ風を通していた。

 

 道の端に、長いほうきが立てかけられている。

 

 その近くの石畳だけ、落ち葉がなかった。

 

 セイアは、川の方へ寄りすぎないようにしながら歩いた。

 

 観光案内に大きく載っている景色ではない。

 

 けれど、誰かが今夜泊まる部屋を整えているところを、遠くから見ているのは悪くなかった。

 

 自分の部屋も、どこかで同じように用意されている。

 

 そう思うと、荷物を預けた宿の窓が少し気になった。

 

     ◇

 

 表の坂道へ戻る途中、手ぬぐいの店へ入った。

 

 竹の棒に掛けられた布が、入口で揺れている。

 

 花。

 

 波。

 

 猫。

 

 小さな湯桶が繰り返し並んだ模様もあった。

 

 セイアは、細い青い線が何本も走っているものを手に取った。

 

「それ、ここの川を描いた柄なんですよ」

 

 店員の生徒が言った。

 

「川?」

 

「はい。実際の地図とは違うんですけど。橋の下で、こう曲がるところがあって」

 

 指で模様をなぞる。

 

 セイアには、まだそこまで町の形が分からなかった。

 

 けれど、白い布の中を細い青が曲がっている、その柄は気に入った。

 

「一枚、お願いするよ」

 

「包みますか?」

 

「いや。今日、使ってみようと思う」

 

 店員が頷き、札を外してくれた。

 

 受け取った布は、薄く、柔らかかった。

 

 折り畳んで鞄へ入れる。

 

 飾るための土産ではなく、これから使うものを買うのは、少し新鮮だった。

 

     ◇

 

 橋見屋へ戻ったのは、午後の早い時間だった。

 

 玄関には、さっきの生徒がいた。

 

 襟に洗濯ばさみはない。

 

「お帰りなさいませ。お部屋、ご用意できています」

 

「ありがとう」

 

 鍵を受け取る。

 

 木の札がついていた。

 

 二階、桔梗。

 

 札は、鍵に対して少し大きい。

 

 失くさないためには、その方がよいのかもしれない。

 

 階段を上り、短い廊下を通る。

 

 部屋の戸が開いた。

 

 畳。

 

 低い卓。

 

 座布団。

 

 床の間には、小さな花が一輪挿してある。

 

 そして、その奥に窓があった。

 

     ◇

 

 椅子は、写真と同じ場所にあった。

 

 籐の背もたれ。

 

 少し厚い座面の布。

 

 横には丸い卓がある。

 

 ただ、実際に座ると、川の全体が見えるわけではなかった。

 

 窓の下の方に、流れる水。

 

 その向こうには、橋の手すり。

 

 さらに向こうには、旅館の屋根と、物干しの端。

 

 顔を少し動かせば、山が見えた。

 

 セイアは椅子へ腰を下ろした。

 

 背もたれが、小さく鳴った。

 

 予約した時に見ていた場所へ、自分の身体が収まる。

 

 そのことに、思ったより満足した。

 

「お風呂は一階です。今ですと、まだ空いていると思います。お茶と、お菓子はこちらに」

 

 生徒が卓を示す。

 

「夕食は六時から、食事処にお願いします。お布団は、その間に敷かせていただきます」

 

「分かった」

 

「何かございましたら、内線でお呼びください」

 

 生徒が一礼して、部屋を出た。

 

 戸が閉まる。

 

 足音が遠ざかる。

 

 そのあとに、川の音が残った。

 

     ◇

 

 荷物をほどく。

 

 上着を掛ける。

 

 本を卓へ置く。

 

 それだけで、することがなくなった。

 

 まだ明るい。

 

 地図を開けば、歩いていないところはいくつもある。

 

 共同浴場へ行ってもいい。

 

 上流の橋も、見ていない。

 

 店も、全部回ったわけではない。

 

 セイアは椅子に座ったまま、地図を見た。

 

 そのあと、窓の外へ目を向ける。

 

 橋の上を、一人の生徒が歩いていた。

 

 小さな袋を二つ持ち、片方の肩へ掛け直す。

 

 やがて向こう側へ着き、建物の陰へ消えた。

 

 それを最後まで見てから、セイアは地図を畳んだ。

 

 部屋を出る前に、まず風呂へ入ろう。

 

 今日は、そのために来たのでもある。

 

     ◇

 

 宿の浴場には、先客が一人だけいた。

 

 セイアは挨拶をして、身体を流した。

 

 湯気で曇った窓から、淡い光が入っている。

 

 湯船の縁は、手で触れると滑らかだった。何度も磨かれ、何人もの手が同じ場所へ置かれてきたのだろう。

 

 足先から、ゆっくり入る。

 

 湯は足湯よりも深く、身体を預けると、背中まで温かさが届いた。

 

 ふう、と息が漏れる。

 

 先客の生徒が、少し笑った。

 

「気持ちいいですよね」

 

「ああ」

 

 返事は、それだけになった。

 

 外の小さな湯船へ出ると、空が見えた。

 

 庭木の向こうに、向かいの建物の屋根がある。

 

 遠くの山まで見渡せるような露天風呂ではなかったが、その分、風は穏やかだった。

 

 湯の中にいる身体は温かい。

 

 頬だけが、外の空気に触れている。

 

 庭木の葉が一枚、揺れていた。

 

 セイアはそれを眺めた。

 

 名前を確かめる札も、説明もない。

 

 今は、それでよかった。

 

     ◇

 

 部屋へ戻り、水を飲んだ。

 

 髪を乾かし、浴衣の帯を整える。

 

 窓の前へ座ると、さっきより椅子が身体に合うように感じられた。

 

 お茶を淹れる。

 

 宿の菓子は、小さな栗の饅頭だった。

 

 すぐに食べようとして、まだ少し満腹なことに気づく。

 

 包みを戻し、本を開いた。

 

 窓から入る光は、読むのにちょうどよい。

 

 川の音も、今は気にならなかった。

 

 一ページ。

 

 もう一ページ。

 

 途中の会話が面白くて、少し笑う。

 

 そのあと、同じ行へ二度、目が戻った。

 

 セイアは本の角へ指を挟んだまま、目を閉じた。

 

 ほんの少しだけのつもりだった。

 

     ◇

 

 次に目を開けた時、窓枠の影が卓の上まで伸びていた。

 

 カップのお茶は冷めている。

 

 本は膝の上にあったが、どこまで読んだのかは分からなくなっていた。

 

 セイアは、しばらくそのまま座っていた。

 

 自分がどこにいるのかを、順番に思い出す。

 

 川。

 

 橋。

 

 旅館。

 

 そうだ。温泉へ来たのだった。

 

 時計を見ると、思っていたより時間が過ぎている。

 

「……これは、よく寝たね」

 

 誰にも聞かせるつもりのない声だった。

 

 本へ栞を挟み、お茶を一口飲む。

 

 冷めていたが、喉にはありがたかった。

 

 端末には、ミカから連絡が一件届いていた。

 

『今、何してる?』

 

 送られてきた時刻を見る。

 

 その頃、自分は確かに何かをしていた。

 

 眠っていた。

 

 少し考え、

 

『昼寝をしていたよ』

 

 と返す。

 

 ほどなく、

 

『温泉まで行って?』

 

 と返ってきた。

 

『温泉へ行ったのでね』

 

 今度はすぐに送った。

 

 ミカから、笑っている顔が届いた。

 

     ◇

 

 夕食まで、まだ時間があった。

 

 セイアは部屋の鍵と財布を持ち、浴衣の上へ薄い羽織を重ねた。

 

 玄関で履き物を確かめていると、前掛けの生徒が顔を上げた。

 

「お出かけですか?」

 

「少しだけ。戻ってくる時刻は覚えているよ」

 

「はい。今だと、下の坂のお店もまだ開いてます」

 

 教えられた方へ歩く。

 

 午後の初めと比べると、通りの人は少なくなっていた。

 

 駅へ向かって上っていく人がいる。

 

 反対に、宿から浴衣姿で出てくる人もいた。

 

 店先の品物が、少しずつ中へ戻されていく。

 

 昼間は看板の陰に隠れていた灯りが、一つずつ点き始めた。

 

 提灯が、明るい空の下でぼんやり光っている。

 

 夜になる準備は、暗くなる前から始まっていた。

 

     ◇

 

 坂の途中で、小さな遊技場を見つけた。

 

 輪投げ。

 

 射的。

 

 奥には、古い卓球台が一台ある。

 

 射的の棚には、菓子の箱や、木の小物が並んでいた。

 

 手前の大きな箱よりも、その後ろの、小さな招き猫が目に入った。

 

 セイアが見ていると、店番のロボットが声をかけた。

 

「五発で一回ですよ」

 

「……少し、やってみようかな」

 

 軽い銃を受け取る。

 

 コルク玉を詰める仕組みを教わり、構えた。

 

 いつも目にするものとは、重さも、手応えも違う。

 

 最初の一発は、目当ての箱の下へ当たった。

 

 二発目は、角へ。

 

 箱は少し動いたが、倒れなかった。

 

「見た目より、しぶといね」

 

「箱そのものじゃなくて、上の方を狙うといいですよ」

 

 セイアは狙いを変えた。

 

 三発目。

 

 今度は、薄い菓子の箱が棚から落ちた。

 

 奥で卓球をしていた生徒が、こちらを見て小さく拍手する。

 

 セイアは会釈を返した。

 

 残りの二発は、招き猫へ使った。

 

 一発目は外れた。

 

 二発目は、耳の横をかすめた。

 

 招き猫は、何事もなかったように棚の上に残った。

 

「……あれは、あの場所が気に入っているようだ」

 

 銃を返すと、店番が笑った。

 

 景品は、薄い煎餅の小箱だった。

 

 受け取って外へ出る。

 

 上手くいったとも、いかなかったとも言い切れない。

 

 けれど、夕食までの時間の使い方としては、かなり楽しかった。

 

     ◇

 

 橋へ戻ると、川の上が暗くなり始めていた。

 

 空はまだ明るいが、山が日を遮っている。

 

 宿の窓には、いくつか灯りが点いていた。

 

 昼間、自分が座っていた窓も見える。

 

 そこだけは、まだ暗かった。

 

 セイアは橋の中央で足を止めた。

 

 川の音は、昼と変わらない。

 

 けれど、水面が見えにくくなるにつれて、その音の方が大きく感じられた。

 

 どこかの宿で、夕食の用意をしているらしい。

 

 焼いた魚の匂いが、風に乗ってきた。

 

 セイアは時計を見た。

 

 急ぐほどではない。

 

 それでも、足は自然に宿の方へ向いた。

 

     ◇

 

 夕食は、一階の食事処に用意されていた。

 

 仕切りのある小さな席へ案内される。

 

 座ると、最初の皿が並んでいた。

 

 茄子のお浸し。

 

 胡麻豆腐。

 

 根菜の小鉢。

 

 それから、蓋のついた蒸し鉢。

 

 犬の主人が、温かい茶を置いた。

 

「お疲れになりましたか」

 

「少し歩いたよ。そのあと、よく眠ってしまった」

 

「それなら、よかった」

 

 返事は、あっさりしていた。

 

 せっかく来たのに、とは言われなかった。

 

 セイアは箸を取った。

 

 茄子は柔らかく、口へ入れると出汁が広がった。

 

 胡麻豆腐には弾力があり、少しだけ載った山葵が、甘い香りを引き締める。

 

 小鉢を一つずつ食べているうちに、焼き魚が運ばれてきた。

 

     ◇

 

 魚の皮には、薄く塩が残っていた。

 

 箸を入れると、表面が小さく割れる。

 

 身は熱く、白い湯気が上がった。

 

 背中の方から少しずつ外して食べる。

 

 皮の香ばしさと、身の淡い味。

 

 添えられた柑橘を少し搾ると、香りが変わった。

 

 セイアは、次の一口には搾らずに食べてみた。

 

 どちらもよい。

 

 最初から全部へかけなくてよかったと思った。

 

 蒸し鉢の蓋を開ける。

 

 鶏肉ときのこ、厚揚げが、浅い汁の中に入っていた。

 

 蓋の裏の水滴が、縁を伝う。

 

 主人が取り皿を置きながら言った。

 

「汁も、どうぞ」

 

 少しすくって飲む。

 

 きのこの香りが、昼のうどんとは違う濃さで残った。

 

 鶏肉は柔らかく、厚揚げには汁がよく染みている。

 

 食べるたびに、湯気が顔へ近づいた。

 

 身体を温めるものを、今日はいくつも受け取っている。

 

 湯だけではなかった。

 

     ◇

 

 ご飯は、栗の入ったものだった。

 

 蓋を開けると、白い米の間に、淡い黄色が見える。

 

 栗は大きすぎず、箸で少し崩しても食べられた。

 

 ひと口。

 

 米の塩気の中で、栗の甘さがはっきりする。

 

 セイアは、しばらく魚へ戻らず、ご飯だけを食べた。

 

 味噌汁を挟む。

 

 漬物を少し。

 

 また、ご飯。

 

 無理に味を変えなくても、その順番で落ち着いた。

 

「ご飯、もう少しよそいましょうか」

 

 主人に尋ねられ、茶碗を見る。

 

 空だった。

 

 少し考える。

 

「ほんの少し、お願いしてもいいかな」

 

「はい」

 

 二杯目は、最初よりも小さく盛ってもらった。

 

 栗が一つ、上に載っている。

 

 特別に得をした気がしたが、そう言うほどのことではない。

 

 セイアは礼を言い、最後まで食べた。

 

     ◇

 

 食事処を出ると、玄関のあたりで前掛けの生徒が帳面を閉じていた。

 

 ちょうど、仕事が一区切りついたところらしい。

 

「お食事、いかがでしたか」

 

「美味しかったよ。栗のご飯が、特に」

 

「よかったです。私も好きです」

 

 返事をしたあとで、自分のことを言ってしまったと思ったのか、少し姿勢を直す。

 

 セイアは笑った。

 

「賄いにも出るのかい」

 

「余ったら。でも今日は、きっとあんまり残らないです」

 

 食事処の方をちらりと見る。

 

 セイアは、自分がおかわりしたことを思い出した。

 

「……すまないね」

 

「えっ。いえ、そういうことじゃなくて!」

 

 生徒が慌てた。

 

 セイアは手を振る。

 

「冗談だよ」

 

 生徒はほっとして、それから自分でも笑った。

 

 玄関のガラスには、暗くなった外が映っている。

 

「このあとも、お仕事かな」

 

「今日は、ここまでです。少し片づけてから、上のお湯へ行こうと思って」

 

「共同浴場?」

 

「はい。あっちは家に帰る途中なので」

 

 セイアは、昼にもらった地図を思い浮かべた。

 

 川沿いの少し上。

 

 今夜、まだ行っていないところだ。

 

「私も、少し休んだら歩いてみようと思っていた」

 

「じゃあ、後で会うかもしれませんね」

 

 生徒はそう言ってから、少し照れたように会釈をした。

 

 その言葉には、客を案内する時とは違う響きがあった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。