宿を選んだ理由は、部屋の写真に椅子が一脚あったからだった。
窓の前に、小さな丸い卓がある。
その横に、籐の椅子が置かれていた。
窓の向こうには川が見える。手すりと、向かいの建物の屋根も少し写っていて、眺望を売りにする写真としては、ずいぶん控えめだった。
卓の上には、何も載っていない。
そこへ本を置いて、座ってみたいと思った。
百合園セイアは写真を一度閉じ、宿の案内を読み、それからもう一度、同じ部屋を見た。
百鬼夜行の中心部から、さらに山へ入ったところにある温泉街。
折瀬温泉。
小さな川に沿って、旅館や商店が集まっているという。
宿の名前は、橋見屋。
写真に写っていた手すりは、橋のものだったらしい。
一名。
一泊。
夕食と朝食つき。
予約内容を確かめ、確定する。
すると、明日の午後には自分の席になる椅子が、画面の向こうにできた。
◇
行きの列車では、途中まで本を読んでいた。
乗り換えの時刻が近づくと栞を挟み、窓の外を見る。街並みの間に、山が見え始めていた。
最初の乗り換え駅は大きかった。
行き先の違う列車が何本も停まり、改札の向こうには、朝から客の入った店が並んでいる。
その次の駅では、ホームが少なくなった。
最後に乗った列車は、二両編成だった。
車内へ入ると、木目の座席と、窓の上に並ぶ沿線の案内が目に入った。忍術体験、季節の市、舞台公演。華やかな広告の端に、温泉の名前が小さく載っている。
セイアは、その下の席へ座った。
発車してしばらくすると、窓の外に竹林が現れた。
竹の幹は、近いものほど速く流れていく。
その向こうの山は、ほとんど動かない。
列車が曲がると、それまで見えていなかった川が、急に窓の下へ現れた。
水は浅いところで白く光り、岩の陰では濃い緑になっている。
セイアは本を鞄へしまった。
今は、こちらを見ていたかった。
◇
停まる駅ごとに、乗客は少しずつ入れ替わった。
大きな旅行鞄を持った生徒が降り、代わりに、荷物をほとんど持たない百鬼夜行の生徒が乗ってくる。
仕事道具らしい箱を抱えたロボットもいた。
座席へ箱を置かず、足元へ収める。中身が動かないよう両足で挟んでから、静かに動作を休めた。
向かいの席では、二人の生徒が旅行案内を広げていた。
「ここも行けるかな」
「それ入れたら、帰りの電車ぎりぎりじゃない?」
「じゃあ、お昼を早くすれば」
指が、地図の上を行き来する。
セイアも自分の端末を開いた。
宿へ着くまでの道。
荷物を預けられる時刻。
帰りの列車。
ただし、最後の一つは明日の話だった。
画面を閉じる。
今日の夕方、どこかの駅へ戻る必要はない。
そのことを確かめただけで、座席へ預ける背中が、少し深くなった。
◇
折瀬温泉駅には、昼前に着いた。
屋根の低い駅舎を抜けると、空気がひんやりしていた。
陽射しは暖かい。
けれど、日陰を通る風には、山の奥から下りてきた冷たさがある。
駅前には小さな広場があり、片隅に、手を洗うための水場があった。細い水が絶えず流れ、受け皿の石を濡らしている。
その音の向こうに、もう少し大きな水音が聞こえた。
川だろう。
姿はまだ見えなかった。
観光案内所の窓口には、百鬼夜行の生徒が一人座っていた。
机の上には、地図と、切符のような小さな紙が何種類も並んでいる。
「こんにちは。散策ですか?」
「ああ。橋見屋に泊まる予定なんだが、こちらの道でよいのかな」
セイアが予約画面を見せると、生徒は頷いた。
「はい。そこの坂を下りて、石の橋を渡ったところです。荷物が重ければ、宿に電話して迎えを頼めますよ」
「歩ける距離だろう?」
「十分くらいですね。ただ、帰りは上りなので」
「帰りの自分に、少し頑張ってもらうことにしよう」
生徒が笑い、地図を一枚差し出した。
「こちらが温泉街です。表の坂道にお店が多くて、川沿いの方は静かです。足湯はここ。共同浴場は、もう少し上にあります」
指が、細い川の線を辿る。
下の橋。
宿の並ぶ一角。
浴場のある小路。
さらに上流には、滝見橋という名前があった。
「この辺りまで歩かれる方もいます。道は整っていますけど、少し上りです」
「なるほど」
「全部回るなら、こっちから――」
説明しかけて、生徒はセイアの鞄を見た。
「あ、お泊まりでしたね。では、今日と明日で分けても」
セイアは頷いた。
「そうしてみるよ」
何も書き込まれていない地図を、鞄へ収めた。
◇
坂を下りるにつれて、温泉街が近づいてきた。
遠くからは、屋根が重なっているだけに見えた。
歩いていくと、その間に細い道があり、階段があり、川へ向かって張り出した小さな物干しがある。
軒先に下がった布が、風に揺れていた。
土産物屋の前には、手ぬぐいが何枚も並んでいる。
向かいの店からは、何かを蒸す匂いがした。
足元の側溝を、細い水が流れていた。そこから白いものが上がっているのを見て、セイアは一度足を止める。
湯気だった。
石の縁に、湯の道を示す小さな札がある。
もう少し先では、建物の脇を通る配管の周りだけ、苔の色が濃かった。
川の水音が大きくなる。
坂の先を曲がると、石の橋が現れた。
橋の上から見下ろした川は、思っていたより近い。
大きな岩の間を水が通り、ところどころで白く泡立っていた。
その向こうに、橋見屋の看板が見えた。
飾り気の少ない、木の看板だった。
◇
宿の玄関では、一人の生徒が座布団を運んでいた。
柿色の前掛けを締め、髪を後ろで丸くまとめている。
セイアに気づくと、抱えていたものを脇へ置き、少し急いで近づいてきた。
「いらっしゃいませ。お泊まりのお客様ですか?」
「ああ。百合園で予約している」
「お待ちしておりました。まだお部屋の用意が済んでいないので、お荷物だけでしたら――」
「そのつもりで来たよ。少し町を歩いてこようと思って」
生徒はほっとしたように頷き、荷物を預かる札を持ってきた。
セイアは鞄から貴重品と本を出した。
大きな鞄を渡すと、肩が軽くなる。
生徒が控えを差し出したところで、セイアは、彼女の襟元へ目を留めた。
「……それも、制服の一部かな」
「え?」
生徒が下を向く。
襟に、洗濯ばさみが一つ留まっていた。
「あっ」
すぐに外す。
「さっき、干していて。そのままでした」
「便利そうではあるね」
「お客様の前へ出る時には、取った方がいいですね……」
頬を少し赤くして、前掛けのポケットへしまう。
セイアは笑った。
玄関の奥から、背の低い犬の主人が顔を出す。
会釈を交わし、部屋へ入れる時刻を確かめる。
夕食は六時。
戻ってくるのが遅くなりそうなら、連絡してほしいという。
セイアは頷き、身軽になって玄関を出た。
荷物を置ける場所があると、同じ坂道も、もう少し先まで歩いてみようと思えた。
◇
昼食に選んだのは、うどんを出す小さな店だった。
窓際には二人掛けの席が二つ。
奥には、長い机が置かれている。
店へ入ると、出汁の香りが近づいてきた。
壁の品書きを読む。
温かいうどん。
冷たいうどん。
きのこ。
山かけ。
稲荷寿司もある。
セイアは、きのこうどんを頼んだ。
稲荷寿司にも少し心が動いたが、夕食つきの宿へ泊まることを思い出し、今日はやめておいた。
窓の外では、小さな運搬ロボットが坂を上っている。
箱を積んだ荷台の側面に、旅館の名前がいくつも貼られていた。
坂の途中で一度停まり、車輪の向きを直してから、また進む。
ここで暮らすものには、坂を上るのも毎日の仕事なのだろう。
「お待たせしました」
声がして、丼が置かれた。
◇
出汁は澄んだ色をしていた。
その上に、きのこがたっぷり載っている。
薄く切られたものも、傘の形が残ったものもあった。
刻んだ油揚げと葱が、その間から見える。
まず、汁を一口。
温かい。
醤油は強すぎず、あとからきのこの香りが残った。
麺を持ち上げると、湯気が顔へ近づく。
少し冷まして口へ運ぶ。
柔らかいが、噛むと芯に弾力がある。
きのこを一緒に食べると、歯触りが変わった。
油揚げには汁がよく染みていて、噛んだ時だけ、少し濃い味になる。
セイアは箸を置かずに、しばらく食べた。
窓から入ってくる風が、頬を冷やす。
丼の中は熱い。
その差が、心地よかった。
食べ終える頃には、手の先まで温まっていた。
代金を払う時、店の主人が尋ねた。
「このあと、お風呂ですか」
「そのつもりだよ。まだ宿へは入れないので、もう少し歩くけれど」
「では、川沿いの方がいいですよ。今は日が入っていますから」
セイアは礼を言い、外へ出た。
昼食を取る間に、午後の歩き方が一つ増えていた。
◇
足湯は、川へ向かって開いた屋根の下にあった。
長い湯船に沿って、木の腰掛けがある。
入口には靴を置く棚と、小さな更衣用の囲い。桶や、貸し出しの布も整えて置かれていた。
先客は二人。
百鬼夜行の生徒たちだった。
片方は鞄を膝へ置き、もう片方は靴下を丁寧に畳んでいる。
セイアも靴を脱ぎ、裾を濡らさないように整えてから、端へ座った。
足先を湯へ入れる。
「……熱いね」
「あ、そっちは湯口に近いから。こっちの方が少し温いですよ」
隣の生徒が、腰掛けの空いたところを示した。
「ありがとう」
移ってみると、確かに違った。
足首までゆっくり沈める。
最初の熱さが、少しずつ身体へ馴染んでいった。
川の水音がする。
湯船の底にできた光の模様が、足を動かすたびに崩れた。
隣の二人は、帰りの列車を相談していた。
このあと菓子を買い、駅へ戻れば、予定の便に間に合うらしい。
時刻を確かめた生徒が、セイアにも顔を向ける。
「駅へ戻るなら、坂、ちょっと余裕を見ておいた方がいいですよ」
「今日は泊まるんだ」
「あ、いいなあ」
返事が、すぐに来た。
「この時間になると、泊まりにすればよかったって思うんですよね」
もう一人が頷く。
「朝は、日帰りで十分って言ってたのに」
「来る前は、そう思うじゃん」
二人が笑う。
セイアもつられて笑った。
やがて二人は足を拭き、靴下を履き、鞄を持って出ていった。
急いでいるわけではない。
ただ、帰る時間が来たのだ。
屋根の下には、セイアが一人残った。
川の向こうで、小さな鳥が石へ降りる。
セイアはしばらくそれを見てから、足を湯から上げた。
自分で終わりを決めなければ、いつまでもここにいそうだった。
◇
足を拭いて靴を履くと、靴の内側が少し冷たく感じられた。
歩き始めた足は、さっきより軽い。
川沿いの道には、店の裏側が見えた。
表にはきれいな暖簾が出ていた店も、こちらには洗ったざるや、空の木箱が並んでいる。
旅館の窓から、布団を運ぶ生徒の姿が見えた。
大きなシーツが、風に膨らむ。
別の建物では、木の戸を開けて、座敷へ風を通していた。
道の端に、長いほうきが立てかけられている。
その近くの石畳だけ、落ち葉がなかった。
セイアは、川の方へ寄りすぎないようにしながら歩いた。
観光案内に大きく載っている景色ではない。
けれど、誰かが今夜泊まる部屋を整えているところを、遠くから見ているのは悪くなかった。
自分の部屋も、どこかで同じように用意されている。
そう思うと、荷物を預けた宿の窓が少し気になった。
◇
表の坂道へ戻る途中、手ぬぐいの店へ入った。
竹の棒に掛けられた布が、入口で揺れている。
花。
波。
猫。
小さな湯桶が繰り返し並んだ模様もあった。
セイアは、細い青い線が何本も走っているものを手に取った。
「それ、ここの川を描いた柄なんですよ」
店員の生徒が言った。
「川?」
「はい。実際の地図とは違うんですけど。橋の下で、こう曲がるところがあって」
指で模様をなぞる。
セイアには、まだそこまで町の形が分からなかった。
けれど、白い布の中を細い青が曲がっている、その柄は気に入った。
「一枚、お願いするよ」
「包みますか?」
「いや。今日、使ってみようと思う」
店員が頷き、札を外してくれた。
受け取った布は、薄く、柔らかかった。
折り畳んで鞄へ入れる。
飾るための土産ではなく、これから使うものを買うのは、少し新鮮だった。
◇
橋見屋へ戻ったのは、午後の早い時間だった。
玄関には、さっきの生徒がいた。
襟に洗濯ばさみはない。
「お帰りなさいませ。お部屋、ご用意できています」
「ありがとう」
鍵を受け取る。
木の札がついていた。
二階、桔梗。
札は、鍵に対して少し大きい。
失くさないためには、その方がよいのかもしれない。
階段を上り、短い廊下を通る。
部屋の戸が開いた。
畳。
低い卓。
座布団。
床の間には、小さな花が一輪挿してある。
そして、その奥に窓があった。
◇
椅子は、写真と同じ場所にあった。
籐の背もたれ。
少し厚い座面の布。
横には丸い卓がある。
ただ、実際に座ると、川の全体が見えるわけではなかった。
窓の下の方に、流れる水。
その向こうには、橋の手すり。
さらに向こうには、旅館の屋根と、物干しの端。
顔を少し動かせば、山が見えた。
セイアは椅子へ腰を下ろした。
背もたれが、小さく鳴った。
予約した時に見ていた場所へ、自分の身体が収まる。
そのことに、思ったより満足した。
「お風呂は一階です。今ですと、まだ空いていると思います。お茶と、お菓子はこちらに」
生徒が卓を示す。
「夕食は六時から、食事処にお願いします。お布団は、その間に敷かせていただきます」
「分かった」
「何かございましたら、内線でお呼びください」
生徒が一礼して、部屋を出た。
戸が閉まる。
足音が遠ざかる。
そのあとに、川の音が残った。
◇
荷物をほどく。
上着を掛ける。
本を卓へ置く。
それだけで、することがなくなった。
まだ明るい。
地図を開けば、歩いていないところはいくつもある。
共同浴場へ行ってもいい。
上流の橋も、見ていない。
店も、全部回ったわけではない。
セイアは椅子に座ったまま、地図を見た。
そのあと、窓の外へ目を向ける。
橋の上を、一人の生徒が歩いていた。
小さな袋を二つ持ち、片方の肩へ掛け直す。
やがて向こう側へ着き、建物の陰へ消えた。
それを最後まで見てから、セイアは地図を畳んだ。
部屋を出る前に、まず風呂へ入ろう。
今日は、そのために来たのでもある。
◇
宿の浴場には、先客が一人だけいた。
セイアは挨拶をして、身体を流した。
湯気で曇った窓から、淡い光が入っている。
湯船の縁は、手で触れると滑らかだった。何度も磨かれ、何人もの手が同じ場所へ置かれてきたのだろう。
足先から、ゆっくり入る。
湯は足湯よりも深く、身体を預けると、背中まで温かさが届いた。
ふう、と息が漏れる。
先客の生徒が、少し笑った。
「気持ちいいですよね」
「ああ」
返事は、それだけになった。
外の小さな湯船へ出ると、空が見えた。
庭木の向こうに、向かいの建物の屋根がある。
遠くの山まで見渡せるような露天風呂ではなかったが、その分、風は穏やかだった。
湯の中にいる身体は温かい。
頬だけが、外の空気に触れている。
庭木の葉が一枚、揺れていた。
セイアはそれを眺めた。
名前を確かめる札も、説明もない。
今は、それでよかった。
◇
部屋へ戻り、水を飲んだ。
髪を乾かし、浴衣の帯を整える。
窓の前へ座ると、さっきより椅子が身体に合うように感じられた。
お茶を淹れる。
宿の菓子は、小さな栗の饅頭だった。
すぐに食べようとして、まだ少し満腹なことに気づく。
包みを戻し、本を開いた。
窓から入る光は、読むのにちょうどよい。
川の音も、今は気にならなかった。
一ページ。
もう一ページ。
途中の会話が面白くて、少し笑う。
そのあと、同じ行へ二度、目が戻った。
セイアは本の角へ指を挟んだまま、目を閉じた。
ほんの少しだけのつもりだった。
◇
次に目を開けた時、窓枠の影が卓の上まで伸びていた。
カップのお茶は冷めている。
本は膝の上にあったが、どこまで読んだのかは分からなくなっていた。
セイアは、しばらくそのまま座っていた。
自分がどこにいるのかを、順番に思い出す。
川。
橋。
旅館。
そうだ。温泉へ来たのだった。
時計を見ると、思っていたより時間が過ぎている。
「……これは、よく寝たね」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
本へ栞を挟み、お茶を一口飲む。
冷めていたが、喉にはありがたかった。
端末には、ミカから連絡が一件届いていた。
『今、何してる?』
送られてきた時刻を見る。
その頃、自分は確かに何かをしていた。
眠っていた。
少し考え、
『昼寝をしていたよ』
と返す。
ほどなく、
『温泉まで行って?』
と返ってきた。
『温泉へ行ったのでね』
今度はすぐに送った。
ミカから、笑っている顔が届いた。
◇
夕食まで、まだ時間があった。
セイアは部屋の鍵と財布を持ち、浴衣の上へ薄い羽織を重ねた。
玄関で履き物を確かめていると、前掛けの生徒が顔を上げた。
「お出かけですか?」
「少しだけ。戻ってくる時刻は覚えているよ」
「はい。今だと、下の坂のお店もまだ開いてます」
教えられた方へ歩く。
午後の初めと比べると、通りの人は少なくなっていた。
駅へ向かって上っていく人がいる。
反対に、宿から浴衣姿で出てくる人もいた。
店先の品物が、少しずつ中へ戻されていく。
昼間は看板の陰に隠れていた灯りが、一つずつ点き始めた。
提灯が、明るい空の下でぼんやり光っている。
夜になる準備は、暗くなる前から始まっていた。
◇
坂の途中で、小さな遊技場を見つけた。
輪投げ。
射的。
奥には、古い卓球台が一台ある。
射的の棚には、菓子の箱や、木の小物が並んでいた。
手前の大きな箱よりも、その後ろの、小さな招き猫が目に入った。
セイアが見ていると、店番のロボットが声をかけた。
「五発で一回ですよ」
「……少し、やってみようかな」
軽い銃を受け取る。
コルク玉を詰める仕組みを教わり、構えた。
いつも目にするものとは、重さも、手応えも違う。
最初の一発は、目当ての箱の下へ当たった。
二発目は、角へ。
箱は少し動いたが、倒れなかった。
「見た目より、しぶといね」
「箱そのものじゃなくて、上の方を狙うといいですよ」
セイアは狙いを変えた。
三発目。
今度は、薄い菓子の箱が棚から落ちた。
奥で卓球をしていた生徒が、こちらを見て小さく拍手する。
セイアは会釈を返した。
残りの二発は、招き猫へ使った。
一発目は外れた。
二発目は、耳の横をかすめた。
招き猫は、何事もなかったように棚の上に残った。
「……あれは、あの場所が気に入っているようだ」
銃を返すと、店番が笑った。
景品は、薄い煎餅の小箱だった。
受け取って外へ出る。
上手くいったとも、いかなかったとも言い切れない。
けれど、夕食までの時間の使い方としては、かなり楽しかった。
◇
橋へ戻ると、川の上が暗くなり始めていた。
空はまだ明るいが、山が日を遮っている。
宿の窓には、いくつか灯りが点いていた。
昼間、自分が座っていた窓も見える。
そこだけは、まだ暗かった。
セイアは橋の中央で足を止めた。
川の音は、昼と変わらない。
けれど、水面が見えにくくなるにつれて、その音の方が大きく感じられた。
どこかの宿で、夕食の用意をしているらしい。
焼いた魚の匂いが、風に乗ってきた。
セイアは時計を見た。
急ぐほどではない。
それでも、足は自然に宿の方へ向いた。
◇
夕食は、一階の食事処に用意されていた。
仕切りのある小さな席へ案内される。
座ると、最初の皿が並んでいた。
茄子のお浸し。
胡麻豆腐。
根菜の小鉢。
それから、蓋のついた蒸し鉢。
犬の主人が、温かい茶を置いた。
「お疲れになりましたか」
「少し歩いたよ。そのあと、よく眠ってしまった」
「それなら、よかった」
返事は、あっさりしていた。
せっかく来たのに、とは言われなかった。
セイアは箸を取った。
茄子は柔らかく、口へ入れると出汁が広がった。
胡麻豆腐には弾力があり、少しだけ載った山葵が、甘い香りを引き締める。
小鉢を一つずつ食べているうちに、焼き魚が運ばれてきた。
◇
魚の皮には、薄く塩が残っていた。
箸を入れると、表面が小さく割れる。
身は熱く、白い湯気が上がった。
背中の方から少しずつ外して食べる。
皮の香ばしさと、身の淡い味。
添えられた柑橘を少し搾ると、香りが変わった。
セイアは、次の一口には搾らずに食べてみた。
どちらもよい。
最初から全部へかけなくてよかったと思った。
蒸し鉢の蓋を開ける。
鶏肉ときのこ、厚揚げが、浅い汁の中に入っていた。
蓋の裏の水滴が、縁を伝う。
主人が取り皿を置きながら言った。
「汁も、どうぞ」
少しすくって飲む。
きのこの香りが、昼のうどんとは違う濃さで残った。
鶏肉は柔らかく、厚揚げには汁がよく染みている。
食べるたびに、湯気が顔へ近づいた。
身体を温めるものを、今日はいくつも受け取っている。
湯だけではなかった。
◇
ご飯は、栗の入ったものだった。
蓋を開けると、白い米の間に、淡い黄色が見える。
栗は大きすぎず、箸で少し崩しても食べられた。
ひと口。
米の塩気の中で、栗の甘さがはっきりする。
セイアは、しばらく魚へ戻らず、ご飯だけを食べた。
味噌汁を挟む。
漬物を少し。
また、ご飯。
無理に味を変えなくても、その順番で落ち着いた。
「ご飯、もう少しよそいましょうか」
主人に尋ねられ、茶碗を見る。
空だった。
少し考える。
「ほんの少し、お願いしてもいいかな」
「はい」
二杯目は、最初よりも小さく盛ってもらった。
栗が一つ、上に載っている。
特別に得をした気がしたが、そう言うほどのことではない。
セイアは礼を言い、最後まで食べた。
◇
食事処を出ると、玄関のあたりで前掛けの生徒が帳面を閉じていた。
ちょうど、仕事が一区切りついたところらしい。
「お食事、いかがでしたか」
「美味しかったよ。栗のご飯が、特に」
「よかったです。私も好きです」
返事をしたあとで、自分のことを言ってしまったと思ったのか、少し姿勢を直す。
セイアは笑った。
「賄いにも出るのかい」
「余ったら。でも今日は、きっとあんまり残らないです」
食事処の方をちらりと見る。
セイアは、自分がおかわりしたことを思い出した。
「……すまないね」
「えっ。いえ、そういうことじゃなくて!」
生徒が慌てた。
セイアは手を振る。
「冗談だよ」
生徒はほっとして、それから自分でも笑った。
玄関のガラスには、暗くなった外が映っている。
「このあとも、お仕事かな」
「今日は、ここまでです。少し片づけてから、上のお湯へ行こうと思って」
「共同浴場?」
「はい。あっちは家に帰る途中なので」
セイアは、昼にもらった地図を思い浮かべた。
川沿いの少し上。
今夜、まだ行っていないところだ。
「私も、少し休んだら歩いてみようと思っていた」
「じゃあ、後で会うかもしれませんね」
生徒はそう言ってから、少し照れたように会釈をした。
その言葉には、客を案内する時とは違う響きがあった。