その日の予定表には、昼食の店が書かれていなかった。
百合園セイアは、向かいの席に座るナギサへ、紙の端を少し持ち上げて見せた。
「ここは、まだ決まっていないのかな」
「ええ。現地で選ぼうと思いまして」
「珍しいね」
「候補は、いくつか調べてあります」
「なるほど」
それなら、よく知っているナギサだった。
列車の窓には、まだ朝の光が差している。
テーブルに広げられているのは、山海経への訪問に関する資料だった。午前中に玄龍門で顔を合わせ、今後の小さな文化交流について話す。茶器や菓子の包装、店で使われている道具などを、生徒同士で紹介し合う催しができないか。そのための、最初の打ち合わせである。
大きな式典ではない。
詳しい日程や参加者も、今日すべて決めるわけではなかった。
正式な説明は、ナギサとセイアが受け持つ。
ミカには、催しを見に来る生徒の側から、気づいたことを話してもらうことになっていた。
そのミカは今、資料の端へ小さく何かを書き込んでいる。
セイアが覗くと、会場の配置図に丸が一つ増えていた。
「何か気になる?」
「ここの入口。説明読む人が止まると、後ろから来る人が入れなくならない?」
ナギサが資料を寄せた。
「……確かに、案内板をこの位置に置くと狭くなりますね」
「でしょ。見るだけの人もいるし、ここに列ができたら、全部並ばなきゃいけないのかなって思うかも」
「あとで、先方にも伺ってみましょう」
ナギサが書き留める。
ミカは頷き、ペンの蓋を閉めた。
それから、セイアの手元へ目をやる。
「ところで、お昼の話?」
「よく聞こえていたね」
「そこは聞き逃さないよ」
ミカは鞄から、別の紙を取り出した。
こちらは店の写真が並んでいた。
蒸籠。
大皿料理。
見たことのない形の菓子。
余白に、星がいくつか描いてある。
「私は、こっちも調べてきた」
ナギサがその紙を見た。
「……私の候補と、半分ほど同じです」
「ほんと?」
「ただ、こちらのお店は昼には開いていないようですよ」
「えっ。そうなの?」
「夕方からだそうです」
ミカは少し残念そうに写真を見た。
丸く焼かれた、葱入りの餅のようなものが写っている。
セイアも、その写真を見た。
朝のうちから、帰りの時刻を少し気にしなければならなくなりそうだった。
◇
今回のナギサの書類挟みは、以前の三人旅より薄かった。
セイアが気づいていると、本人もそれに気づいた。
「必要なものは、こちらにまとめてありますので」
端末を示す。
「紙を減らしただけです」
「何も言っていないよ」
「お顔が、そうおっしゃっていました」
ミカが笑った。
そのあとで、ナギサの膝の上へ手を伸ばす。
「見終わったら、こっち置いとく?」
「ええ。お願いします」
渡された資料を、ミカが鞄へ収めた。
ナギサは窓の外を見る。
列車は高架へ上がり、建物の屋根が低く見えるようになった。
以前なら、もう一度、同じ頁を確かめていたかもしれない。
今日は、三人で確認を終えたところで、きちんと閉じた。
セイアも本を出さず、窓へ顔を向けた。
街の向こうに、反り上がった屋根が見え始めていた。
◇
山海経の駅では、ミナが待っていた。
こちらを見つけると、一歩前へ出て会釈する。
「遠路お疲れさまでした。門主様がお待ちです」
声は落ち着いていた。
人の流れを確かめ、三人を通しやすい方へ導く。挨拶のあとも、周囲を見る目は止まらなかった。
「本日は、よろしくお願いいたします」
ナギサが答える。
セイアも会釈し、ミカがその隣へ並んだ。
駅前には、すでに湯気の立っている店があった。
丸い蓋を持ち上げた店員が、白い包子を紙へ載せている。
香りが届く。
ミカの視線が、ほんの少しそちらへ動いた。
けれど、足は止まらなかった。
セイアはその横顔を見てから、前へ向き直る。
今は、約束した場所へ向かう時間だった。
◇
玄龍門の建物へ入ると、通りの音が遠くなった。
磨かれた床。
高い柱。
飾りのある窓から、細く区切られた光が落ちている。
案内された部屋には、資料と茶器が用意されていた。
竜華キサキが、三人を迎える。
「よく来てくれた。道中、変わりはなかったかの」
「おかげさまで。お時間をいただき、ありがとうございます」
ナギサの返事に、キサキは穏やかに頷いた。
席へ着く。
向かい合うと、部屋の広さよりも、卓の上の資料が近く感じられた。
話は、展示に出す品の扱いから始まった。
借りる期間。
説明を添える方法。
制作した生徒へ、どのように参加してもらうか。
普段使っている道具を借りるなら、店の仕事に支障が出ないようにしたい。実物を出せないものは、写真や制作途中の見本でもよいのではないか。
ナギサが順番に確認し、セイアは時々、説明の言葉を補った。
ミカも、手元の紙を見ていた。
退屈そうではなかった。
自分が気になった場所へ話が近づくと、顔が上がる。
◇
「一つ、いいかな」
ミカが言った。
キサキが頷く。
「この体験展示、見るだけでも入れるって、入口で分かるようにしておきたいな」
「参加せずとも、ということか」
「うん。やってみたいかどうかって、実物を見てから決める人もいるでしょ。最初に名前を書くようになっていたら、参加するって決めてない人は入りにくいよ。まずは、気軽に見てもらいたい」
ミナが、配置図へ目を落とした。
ナギサは口を挟まなかった。
ミカが話し終えるのを待ってから、入口の案内板の位置を示す。
「その場合、こちらと受付を分けた方がよいかもしれません。列も交差せずに済みます」
「ふむ」
キサキは、しばらく紙面を見た。
「作る側は、手に取ってもらうところから考えがちじゃな。入る前に迷う者のことも、考えねばならぬか」
ミカは頷いた。
セイアは、そのやり取りを聞きながら、湖畔の資料館を少しだけ思い出した。
運転台の前で、やってみたいと言い出すまでに時間のかかったナギサ。
あの時も、まず、見ていた。
知らないものへ近づく速さは、人によって違う。
けれど、今はその話をしなかった。
卓の上では、配置図の線が一本、引き直されていた。
◇
打ち合わせは、予定していた時間の少し前に終わった。
決まったことを確かめ、持ち帰る課題を分ける。
すべてを今日中に片づけようとする者はいなかった。
茶を飲み終える頃、キサキが尋ねた。
「このあとは、すぐに戻るのか?」
「午後は、市街地を見て回る予定です」
ナギサが答える。
「せっかく三人で来られましたので」
「それはよい」
キサキの目元が、少し緩んだ。
「紙の上で話した品も、店で使われておるところを見れば、また違って見えよう」
「ええ。ただ、今日は少々、食べ物に目を奪われるかもしれませんが」
セイアが言うと、ミカが一瞬こちらを見た。
自分のことを言われたと思ったらしい。
セイアは、否定するつもりもなかった。
キサキが笑う。
「それも、見ていくとよい。玄武商会の辺りなら、迷うほど店がある」
「帰りの道に迷わないよう、気をつけます」
「そちらはミナに聞いておくがよい」
ミナが、すぐに頷いた。
地図を開き、大きな通りを示す。
そのあとで、少し声を落とした。
「夕方は、この通りが賑わいます。裏道もありますが……初めてなら、人の多い方へ」
「危ないの?」
ミカが尋ねる。
「いや。裏道へ入ると、似た門が多い」
セイアは小さく笑った。
ミナは真顔のまま、別の角へ印をつけた。
その地図は、帰り道だけでなく、午後の散歩にも役立ちそうだった。
◇
玄龍門の門を出て、角を一つ曲がった。
ミカが足を止める。
後ろを見る。
もう、見送りの姿はない。
「……終わったー」
声は大きくなかった。
けれど、ずっと揃えていた肩の位置が、はっきり下がった。
両手を上げかけて、人通りに気づき、途中でやめる。
代わりに、鞄の持ち手を左右で持ち替えた。
「お疲れさま」
セイアが言う。
「ミカさんの指摘、助かりました」
ナギサも続けた。
「えへへ。あそこ、気になってたんだ」
「もう少し遅ければ、配置を固めてしまうところでしたね」
ミカは嬉しそうに笑った。
その横で、ナギサも息を吐く。
書類挟みを鞄へしまい、留め具を閉じた。
いつもより、少し勢いがあった。
「では、お昼にしましょう」
「ナギちゃん、早い」
「お腹が空きました」
ミカがセイアを見る。
セイアもミカを見た。
ナギサが、二人の視線に気づく。
「何ですか」
「いや」
セイアは笑った。
「私も、同じだよ」
◇
通りへ出ると、料理の匂いが幾つも重なっていた。
蒸した生地の甘い匂い。
鍋で油が熱せられる匂い。
香辛料の、少し鼻の奥へ残る香り。
店の前を通るたび、どれか一つが近くなる。
ミカは、店先の品を覗き込んだ。
けれど、最初の店で全部を決めようとはしなかった。
「あれも美味しそう。でも、先にちゃんと座ろうよ」
「異議はないね」
「私もです」
三人の意見が、珍しくすぐに揃った。
ナギサが候補の紙を取り出す。
セイアが隣から見る。
ミカは、通りの向こうの看板と見比べていた。
「ここ、すぐそこじゃない?」
大きな看板の下から、食器の音が聞こえた。
玄武商会の本店だった。
入口を覗いたところで、中から声が飛んできた。
「いらっしゃい。三人?」
朱城ルミが、手にした盆を脇の台へ置く。
三人の顔を見て、一度だけ目を丸くした。
「あれ。今日は、ずいぶん顔ぶれが豪華だね」
「昼食を取りたいのだけれど、席は空いているかな」
セイアが尋ねる。
「もちろん。こっちへどうぞ」
ルミは空いた卓を示した。
挨拶を受けるための席ではない。
料理を食べるための、小さな円卓だった。
◇
席へ着くと、三人とも少し黙った。
温かいおしぼりが置かれる。
茶が来る。
ナギサが手を拭き、ミカが鞄を椅子の横へ収めた。
セイアは背もたれへ身体を預けた。
午前中の席では、ほとんど触れていなかった場所だ。
「玄龍門へ行ってたんだって?」
ルミが品書きを置きながら尋ねる。
「連絡が?」
「さっき、門主様から。三人が街を見ていくかもしれないって」
「それなら、あらかじめお知らせしておけばよかったでしょうか」
ナギサが言うと、ルミは首を振った。
「食べに来てくれたんだから、それで十分。何が食べたい?」
三人は品書きを見た。
写真のあるものも、名前だけのものもある。
ミカの指が、一つの蒸籠を指す。
「これは?」
「海老の蒸し餃子。そっちは豚肉と椎茸の焼売」
「両方、気になるなあ」
「二つ頼んでも大丈夫かな」
セイアが尋ねる。
「あと何を食べるか次第だね。大皿も取るなら、少しずつにした方がいろいろ食べられるよ」
ナギサは別の頁を見ていた。
「こちらの、魚の蒸し物をいただいてみたいです」
「いいね。葱と生姜の香りをつけたものだけど、大丈夫?」
「ええ」
そこでナギサは、一度だけ二人を見た。
確認するための視線だった。
ミカが頷く。
「食べたい」
「私も」
セイアが答えると、ナギサはもう遠慮しなかった。
「では、そちらをお願いします」
ルミは注文を書き留めた。
最後に野菜の一皿と、ご飯を少し。
選び終えると、三人は揃って品書きを閉じた。
◇
最初に来たのは、冷たい胡瓜の小皿だった。
表面が軽く潰され、たれが入り込んでいる。
一口食べると、ぱり、と音がした。
酸味のあとに、胡麻の香りが残った。
ミカが、もう一つ取る。
「お腹空いてる時にこれ来るの、いいね」
「もう、少し落ち着いた?」
セイアが尋ねる。
「気分はね。でも、お腹は準備始めた感じ」
「よく分かる説明だね」
続いて、蒸籠が二つ運ばれてきた。
蓋が開く。
白い湯気が、卓の中央へ立ち上った。
海老餃子の皮は薄く、うっすら中の色が見えている。
焼売には椎茸の細かな色が混じり、上の方に小さな艶があった。
三人は一度、互いの箸を見た。
それから、同じ蒸籠へ伸ばした。
「あ」
ミカが手を止める。
「先にどうぞ」
ナギサが言った。
「じゃあ、もらうね」
以前なら、その一言だけで、もう少しやり取りが続いたかもしれない。
今日はミカが取り、ナギサが続き、セイアが最後の一つを取った。
皮が破れないよう小皿へ載せる。
少し冷まして食べると、中の海老には、しっかりした歯触りがあった。
噛むたび、甘みが出る。
セイアは、思っていたよりゆっくり食べた。
その横で、ミカが小さく頷いている。
何も言わなくても、同じような感想を持ったことは分かった。
◇
魚の皿は、卓の中央へ置かれた。
湯気の中に、葱と生姜の匂いがある。
淡い色の身へ、熱い油とたれが薄く絡んでいた。
ルミが取り分け用の匙を置く。
「まずは、そのままで食べてみて。足りなければ、下のたれを少し」
ナギサが、最初の一切れを自分の皿へ取った。
ミカとセイアにも続けて分けようとして、途中で手を止める。
二人とも、もう取り皿を持っていた。
「……では、お任せしますね」
「うん。ナギちゃん、冷めないうちに食べて」
ナギサは頷き、箸を取った。
白い身が、きれいに分かれる。
一口食べて、目を少し細めた。
「美味しい」
いつもの、客へ向ける感想より短かった。
セイアも食べる。
熱い葱の香りの下に、魚の淡い甘さがあった。
たれのかかったところはご飯と合う。
かかっていないところは、それだけで食べたくなる。
ミカが匙を伸ばした。
「この葱も食べていい?」
「もちろん」
ルミが笑う。
「むしろ、一緒に食べてほしくて載せてるから」
ミカは魚と一緒に取った。
食べて、また頷く。
「これ、好き」
ナギサも頷いた。
セイアは、その二人を見ながらご飯を一口食べた。
午前中にも、三人で同じ意見になったところがあった。
けれど、今の方が、確かめるまでに言葉が少なかった。
◇
料理は、一度に全部は来なかった。
一つ食べ始めた頃に、次の皿が加わる。
卓がいっぱいになりすぎる前に、空いた蒸籠が下げられた。
ミカは野菜の炒め物へ箸を伸ばし、思ったより歯触りが残っていたのか、少し目を開いた。
「これ、柔らかそうだったのに」
「葉と茎で、感じが違うね」
セイアが言う。
ナギサは茎のところをもう一つ食べてみた。
料理について話すたびに、箸の向かう先が変わる。
誰かが美味しいと言ったところを、別の誰かも食べてみる。
そのうち、ミカの茶が空になった。
ナギサが気づくより先に、ミカが急須を取った。
「二人もいる?」
「お願いするよ」
「ありがとうございます」
三つの杯に、お茶が足される。
ミカは最後に自分のものへ注ぎ、蓋の向きを直して卓へ戻した。
それだけの動きを、セイアは少し長く見ていた。
「何?」
ミカが気づく。
「いや。今、ちょうど飲みたかったのでね」
「そっか」
ミカは満足そうに、茶を一口飲んだ。
◇
最後に残った焼売を、誰が食べるかという話になった。
数を揃えて注文したはずなのに、ほかの皿へ気を取られているうち、一つだけ蒸籠に残っていた。
ミカが見る。
ナギサも見る。
セイアは二人を見た。
「どちらか、まだ食べられる?」
「私は、これ以上だとお茶の時に困るかも」
ミカが言った。
ナギサも、小さく首を振る。
「十分いただきました」
「では、私がもらってもよいかな」
「どうぞ」
「最初から言えばいいのに」
ミカが笑う。
セイアは箸で焼売を取り、自分の皿へ移した。
まだ、ほんのり温かかった。
食べ終えたところへ、ルミが戻ってくる。
「きれいに食べてくれたね。ありがとう」
「こちらこそ、ごちそうさまでした」
ナギサが答える。
「お口に合った?」
「はい。特に魚が」
「私は、海老の」
ミカが蒸籠のあった場所を示す。
セイアは、空いた皿を眺めた。
「私は、最後の焼売まで美味しく食べられたことが、ありがたかったよ」
ルミは少し笑った。
「じゃあ、量もちょうどよかったかな」
「ああ。君の助言がなければ、もう一皿くらい頼んでいたかもしれない」
「その分は、次に取っておいて」
気負いのない言い方だった。
ミカが、すぐに頷いた。
◇
店を出る前に、午後の茶館について尋ねた。
ナギサが見せた候補を、ルミが指で辿る。
「ここなら、今の時間は少し落ち着いてると思う。お茶もゆっくり飲めるよ」
「このまま通りを?」
「うん。途中に茶器を売ってる店があるから、その先」
ミカが写真の紙を取り出した。
「あと、これって夜の店?」
「ああ、それ。夕方からだね」
「やっぱりかあ」
ミカは紙を畳んだ。
残念ではあるらしい。
けれど、すぐに次の店を尋ねて埋め合わせようとはしなかった。
「今日は、難しいかも」
そう言って鞄へしまう。
ナギサは、閉じられた紙を一度見た。
何も言わず、茶館までの道を確かめた。
◇
最初のお茶は、三人で飲んだ。
通りに面した茶楼の二階に、空いた席があった。
窓は少し開いている。
下を通る声と、遠くの鍋の音が、薄く入ってきた。
卓には、小さな急須と、三つの杯。
ナギサは茶葉の説明を読み、二つの間でしばらく迷った。
「どちらがいいと思いますか」
珍しく、先に二人へ尋ねる。
セイアは説明を見た。
どちらも、まだ飲んだことはない。
「君が今、飲んでみたい方でいいよ」
「うん。私はお菓子選ぶから」
ミカは、別の頁を見ていた。
ナギサは少し笑い、片方を選んだ。
選ばなかった方を惜しむように、もう一度だけ名前を見る。
それから品書きを閉じた。
◇
運ばれてきた茶は、焙った香りがした。
店員の生徒が、最初の一煎を淹れてくれる。
小さな器へ移され、三つの杯に分けられた。
色は、光にかざすと明るく透けた。
セイアは一口飲んだ。
最初に香ばしさが来る。
飲み込んだあと、舌の奥にほのかな甘さが残った。
ミカは杯を見てから、二口目を飲む。
「小さいね」
「また淹れますので」
店員が答える。
「そのたびに、少し変わるところも見てみてください」
ナギサが頷いた。
その顔は、午前中に説明を聞いていた時とよく似ていた。
けれど、手元に筆記具はない。
聞いたことを、すぐに誰かへ説明するためでもない。
今は、自分が飲むために聞いていた。
セイアは杯を置いた。
窓の外で、布の庇が揺れた。
◇
菓子は、小さな卵のタルトと、胡麻の薄焼きを選んだ。
昼食のあとだから、たくさんはいらない。
そう相談して決めたはずなのに、皿を前にすると、ミカは少し嬉しそうに椅子を寄せた。
タルトの生地は、端が細かく層になっている。
噛むと軽く崩れ、中の柔らかな卵の甘さへ変わった。
セイアは、お茶を飲む。
さっきとは、香りの感じ方が違った。
ミカがナギサを見る。
「どう?」
「よく合いますね」
「よかった」
「ミカさんが選んだものですから」
「それ、ちょっと信用しすぎじゃない?」
ミカは笑ったが、嬉しそうだった。
ナギサも、口元を緩める。
「食べたいものを選ぶ時は、よく見ているでしょう」
セイアは二人を見た。
ミカはすぐには言い返さず、残ったタルトを食べた。
今の言葉を、冗談で返すのが少し惜しかったのかもしれない。
◇
二煎目からは、ナギサが淹れた。
最初に教わったように、小さな急須を持つ。
いつものポットより軽い。
注ぎ終えると、蓋を少しずらし、中の葉を見た。
葉は、来た時より大きく開いていた。
「こんなに違うものなのですね」
「さっきより、香りが丸くなった気がする」
セイアが言う。
「私は、こっちの方が好きかも」
ミカが答えた。
ナギサも飲んでみる。
少し考えた。
「私は、最初の香りも好きでした」
「違ってもいいじゃん。どっちも飲めたし」
「ええ」
ナギサは素直に頷いた。
誰か一人の感想へ、揃える必要はなかった。
三人で同じ茶を飲み、それぞれ違うところを気に入った。
それだけで、卓の上の話は続いた。
◇
ミカが、椅子の背へ少し身体を預けた。
「ねえ。今日の私、ちゃんとしてた?」
「午前中のことかい」
「うん」
セイアは頷く。
「助かったよ。私たちが気づかなかったところを、よく見ていた」
ナギサも杯を置いた。
「とても、頼りになりました」
ミカは一瞬だけ、どこを見てよいか分からなくなったような顔をした。
「……二人で、ちゃんと言うのやめてよ」
「聞いたのは君だろう」
「そうだけど」
照れたように笑い、空いた皿を指で少し動かす。
そのあと、今度はナギサへ向いた。
「ナギちゃんも、お疲れさま」
「ありがとうございます」
「入口の話、すぐ分かってくれて助かった。私、説明してたら、どっち向きの図を見せればいいか分かんなくなってたから」
「途中で、こちらへ回してくださいましたね」
「うん。任せちゃった」
ナギサが笑った。
セイアも、自分の杯を持った。
互いの失敗を防ぐためだけではなく、途中を任せられる。
午前中のやり取りを、今ならそんなふうにも思い出せた。
◇
しばらくすると、会話が途切れた。
誰も、次の話題を探さなかった。
ミカは窓の下を見ていた。
ナギサは、急須の蓋の模様を見ている。
セイアは、開いた窓から入る空気を頬に感じていた。
昼食で満ちた腹が落ち着き、朝から続いていた緊張が、ようやく身体の外へ出ていくようだった。
「……少し、眠くなったね」
セイアが言うと、ミカが笑った。
「セイアちゃん、最近それ多くない?」
「温泉へ行った時だけだよ」
「今日もじゃん」
「確かに」
ナギサは時計を見た。
それから、急須へ目を戻す。
「もう一煎、いただいてからにしましょうか」
セイアが顔を上げた。
「歩き出すのは?」
「そのあとで」
「賛成」
ミカが答える。
セイアも頷いた。
ナギサが湯を注いだ。
窓の外を、誰かが大きな荷物を持って通り過ぎる。
三人は、まだ立たなかった。
◇
茶楼を出た時には、午後の光が少し傾いていた。
ミカが腕を伸ばし、今度は人のいない方へ向けて、小さく背伸びをした。
ナギサも鞄を持ち直す。
セイアは、その二人と一緒に階段を下りた。
通りへ出ると、午前中とは違う店が目に入った。
茶器。
布。
紙細工。
乾物。
今はもう、昼食を探していないからだろう。
ミカが、細い道の先を見た。
「あっち、ちょっと見てみたい」
ナギサは反対側の茶葉の店へ目を留めていた。
セイアも、道具屋の並ぶ一角が気になっていた。
三人で顔を見合わせる。
先に笑ったのは、ミカだった。
「じゃあ、あとで?」
「ああ」
セイアはミナにもらった地図を開いた。
「四時半に、この門の横ではどうかな。人の流れから少し外れている」
「分かりました」
「うん。途中で何かあったら連絡ね」
それだけで、話は決まった。
別々に歩くための説明も、誰かを一人にすることへの言い訳もいらなかった。
◇