百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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玄龍門・黒亀市場 #公務のあと #三人で昼食 #最初のお茶

 

 その日の予定表には、昼食の店が書かれていなかった。

 

 百合園セイアは、向かいの席に座るナギサへ、紙の端を少し持ち上げて見せた。

 

「ここは、まだ決まっていないのかな」

 

「ええ。現地で選ぼうと思いまして」

 

「珍しいね」

 

「候補は、いくつか調べてあります」

 

「なるほど」

 

 それなら、よく知っているナギサだった。

 

 列車の窓には、まだ朝の光が差している。

 

 テーブルに広げられているのは、山海経への訪問に関する資料だった。午前中に玄龍門で顔を合わせ、今後の小さな文化交流について話す。茶器や菓子の包装、店で使われている道具などを、生徒同士で紹介し合う催しができないか。そのための、最初の打ち合わせである。

 

 大きな式典ではない。

 

 詳しい日程や参加者も、今日すべて決めるわけではなかった。

 

 正式な説明は、ナギサとセイアが受け持つ。

 

 ミカには、催しを見に来る生徒の側から、気づいたことを話してもらうことになっていた。

 

 そのミカは今、資料の端へ小さく何かを書き込んでいる。

 

 セイアが覗くと、会場の配置図に丸が一つ増えていた。

 

「何か気になる?」

 

「ここの入口。説明読む人が止まると、後ろから来る人が入れなくならない?」

 

 ナギサが資料を寄せた。

 

「……確かに、案内板をこの位置に置くと狭くなりますね」

 

「でしょ。見るだけの人もいるし、ここに列ができたら、全部並ばなきゃいけないのかなって思うかも」

 

「あとで、先方にも伺ってみましょう」

 

 ナギサが書き留める。

 

 ミカは頷き、ペンの蓋を閉めた。

 

 それから、セイアの手元へ目をやる。

 

「ところで、お昼の話?」

 

「よく聞こえていたね」

 

「そこは聞き逃さないよ」

 

 ミカは鞄から、別の紙を取り出した。

 

 こちらは店の写真が並んでいた。

 

 蒸籠。

 

 大皿料理。

 

 見たことのない形の菓子。

 

 余白に、星がいくつか描いてある。

 

「私は、こっちも調べてきた」

 

 ナギサがその紙を見た。

 

「……私の候補と、半分ほど同じです」

 

「ほんと?」

 

「ただ、こちらのお店は昼には開いていないようですよ」

 

「えっ。そうなの?」

 

「夕方からだそうです」

 

 ミカは少し残念そうに写真を見た。

 

 丸く焼かれた、葱入りの餅のようなものが写っている。

 

 セイアも、その写真を見た。

 

 朝のうちから、帰りの時刻を少し気にしなければならなくなりそうだった。

 

     ◇

 

 今回のナギサの書類挟みは、以前の三人旅より薄かった。

 

 セイアが気づいていると、本人もそれに気づいた。

 

「必要なものは、こちらにまとめてありますので」

 

 端末を示す。

 

「紙を減らしただけです」

 

「何も言っていないよ」

 

「お顔が、そうおっしゃっていました」

 

 ミカが笑った。

 

 そのあとで、ナギサの膝の上へ手を伸ばす。

 

「見終わったら、こっち置いとく?」

 

「ええ。お願いします」

 

 渡された資料を、ミカが鞄へ収めた。

 

 ナギサは窓の外を見る。

 

 列車は高架へ上がり、建物の屋根が低く見えるようになった。

 

 以前なら、もう一度、同じ頁を確かめていたかもしれない。

 

 今日は、三人で確認を終えたところで、きちんと閉じた。

 

 セイアも本を出さず、窓へ顔を向けた。

 

 街の向こうに、反り上がった屋根が見え始めていた。

 

     ◇

 

 山海経の駅では、ミナが待っていた。

 

 こちらを見つけると、一歩前へ出て会釈する。

 

「遠路お疲れさまでした。門主様がお待ちです」

 

 声は落ち着いていた。

 

 人の流れを確かめ、三人を通しやすい方へ導く。挨拶のあとも、周囲を見る目は止まらなかった。

 

「本日は、よろしくお願いいたします」

 

 ナギサが答える。

 

 セイアも会釈し、ミカがその隣へ並んだ。

 

 駅前には、すでに湯気の立っている店があった。

 

 丸い蓋を持ち上げた店員が、白い包子を紙へ載せている。

 

 香りが届く。

 

 ミカの視線が、ほんの少しそちらへ動いた。

 

 けれど、足は止まらなかった。

 

 セイアはその横顔を見てから、前へ向き直る。

 

 今は、約束した場所へ向かう時間だった。

 

     ◇

 

 玄龍門の建物へ入ると、通りの音が遠くなった。

 

 磨かれた床。

 

 高い柱。

 

 飾りのある窓から、細く区切られた光が落ちている。

 

 案内された部屋には、資料と茶器が用意されていた。

 

 竜華キサキが、三人を迎える。

 

「よく来てくれた。道中、変わりはなかったかの」

 

「おかげさまで。お時間をいただき、ありがとうございます」

 

 ナギサの返事に、キサキは穏やかに頷いた。

 

 席へ着く。

 

 向かい合うと、部屋の広さよりも、卓の上の資料が近く感じられた。

 

 話は、展示に出す品の扱いから始まった。

 

 借りる期間。

 

 説明を添える方法。

 

 制作した生徒へ、どのように参加してもらうか。

 

 普段使っている道具を借りるなら、店の仕事に支障が出ないようにしたい。実物を出せないものは、写真や制作途中の見本でもよいのではないか。

 

 ナギサが順番に確認し、セイアは時々、説明の言葉を補った。

 

 ミカも、手元の紙を見ていた。

 

 退屈そうではなかった。

 

 自分が気になった場所へ話が近づくと、顔が上がる。

 

     ◇

 

「一つ、いいかな」

 

 ミカが言った。

 

 キサキが頷く。

 

「この体験展示、見るだけでも入れるって、入口で分かるようにしておきたいな」

 

「参加せずとも、ということか」

 

「うん。やってみたいかどうかって、実物を見てから決める人もいるでしょ。最初に名前を書くようになっていたら、参加するって決めてない人は入りにくいよ。まずは、気軽に見てもらいたい」

 

 ミナが、配置図へ目を落とした。

 

 ナギサは口を挟まなかった。

 

 ミカが話し終えるのを待ってから、入口の案内板の位置を示す。

 

「その場合、こちらと受付を分けた方がよいかもしれません。列も交差せずに済みます」

 

「ふむ」

 

 キサキは、しばらく紙面を見た。

 

「作る側は、手に取ってもらうところから考えがちじゃな。入る前に迷う者のことも、考えねばならぬか」

 

 ミカは頷いた。

 

 セイアは、そのやり取りを聞きながら、湖畔の資料館を少しだけ思い出した。

 

 運転台の前で、やってみたいと言い出すまでに時間のかかったナギサ。

 

 あの時も、まず、見ていた。

 

 知らないものへ近づく速さは、人によって違う。

 

 けれど、今はその話をしなかった。

 

 卓の上では、配置図の線が一本、引き直されていた。

 

     ◇

 

 打ち合わせは、予定していた時間の少し前に終わった。

 

 決まったことを確かめ、持ち帰る課題を分ける。

 

 すべてを今日中に片づけようとする者はいなかった。

 

 茶を飲み終える頃、キサキが尋ねた。

 

「このあとは、すぐに戻るのか?」

 

「午後は、市街地を見て回る予定です」

 

 ナギサが答える。

 

「せっかく三人で来られましたので」

 

「それはよい」

 

 キサキの目元が、少し緩んだ。

 

「紙の上で話した品も、店で使われておるところを見れば、また違って見えよう」

 

「ええ。ただ、今日は少々、食べ物に目を奪われるかもしれませんが」

 

 セイアが言うと、ミカが一瞬こちらを見た。

 

 自分のことを言われたと思ったらしい。

 

 セイアは、否定するつもりもなかった。

 

 キサキが笑う。

 

「それも、見ていくとよい。玄武商会の辺りなら、迷うほど店がある」

 

「帰りの道に迷わないよう、気をつけます」

 

「そちらはミナに聞いておくがよい」

 

 ミナが、すぐに頷いた。

 

 地図を開き、大きな通りを示す。

 

 そのあとで、少し声を落とした。

 

「夕方は、この通りが賑わいます。裏道もありますが……初めてなら、人の多い方へ」

 

「危ないの?」

 

 ミカが尋ねる。

 

「いや。裏道へ入ると、似た門が多い」

 

 セイアは小さく笑った。

 

 ミナは真顔のまま、別の角へ印をつけた。

 

 その地図は、帰り道だけでなく、午後の散歩にも役立ちそうだった。

 

     ◇

 

 玄龍門の門を出て、角を一つ曲がった。

 

 ミカが足を止める。

 

 後ろを見る。

 

 もう、見送りの姿はない。

 

「……終わったー」

 

 声は大きくなかった。

 

 けれど、ずっと揃えていた肩の位置が、はっきり下がった。

 

 両手を上げかけて、人通りに気づき、途中でやめる。

 

 代わりに、鞄の持ち手を左右で持ち替えた。

 

「お疲れさま」

 

 セイアが言う。

 

「ミカさんの指摘、助かりました」

 

 ナギサも続けた。

 

「えへへ。あそこ、気になってたんだ」

 

「もう少し遅ければ、配置を固めてしまうところでしたね」

 

 ミカは嬉しそうに笑った。

 

 その横で、ナギサも息を吐く。

 

 書類挟みを鞄へしまい、留め具を閉じた。

 

 いつもより、少し勢いがあった。

 

「では、お昼にしましょう」

 

「ナギちゃん、早い」

 

「お腹が空きました」

 

 ミカがセイアを見る。

 

 セイアもミカを見た。

 

 ナギサが、二人の視線に気づく。

 

「何ですか」

 

「いや」

 

 セイアは笑った。

 

「私も、同じだよ」

 

     ◇

 

 通りへ出ると、料理の匂いが幾つも重なっていた。

 

 蒸した生地の甘い匂い。

 

 鍋で油が熱せられる匂い。

 

 香辛料の、少し鼻の奥へ残る香り。

 

 店の前を通るたび、どれか一つが近くなる。

 

 ミカは、店先の品を覗き込んだ。

 

 けれど、最初の店で全部を決めようとはしなかった。

 

「あれも美味しそう。でも、先にちゃんと座ろうよ」

 

「異議はないね」

 

「私もです」

 

 三人の意見が、珍しくすぐに揃った。

 

 ナギサが候補の紙を取り出す。

 

 セイアが隣から見る。

 

 ミカは、通りの向こうの看板と見比べていた。

 

「ここ、すぐそこじゃない?」

 

 大きな看板の下から、食器の音が聞こえた。

 

 玄武商会の本店だった。

 

 入口を覗いたところで、中から声が飛んできた。

 

「いらっしゃい。三人?」

 

 朱城ルミが、手にした盆を脇の台へ置く。

 

 三人の顔を見て、一度だけ目を丸くした。

 

「あれ。今日は、ずいぶん顔ぶれが豪華だね」

 

「昼食を取りたいのだけれど、席は空いているかな」

 

 セイアが尋ねる。

 

「もちろん。こっちへどうぞ」

 

 ルミは空いた卓を示した。

 

 挨拶を受けるための席ではない。

 

 料理を食べるための、小さな円卓だった。

 

     ◇

 

 席へ着くと、三人とも少し黙った。

 

 温かいおしぼりが置かれる。

 

 茶が来る。

 

 ナギサが手を拭き、ミカが鞄を椅子の横へ収めた。

 

 セイアは背もたれへ身体を預けた。

 

 午前中の席では、ほとんど触れていなかった場所だ。

 

「玄龍門へ行ってたんだって?」

 

 ルミが品書きを置きながら尋ねる。

 

「連絡が?」

 

「さっき、門主様から。三人が街を見ていくかもしれないって」

 

「それなら、あらかじめお知らせしておけばよかったでしょうか」

 

 ナギサが言うと、ルミは首を振った。

 

「食べに来てくれたんだから、それで十分。何が食べたい?」

 

 三人は品書きを見た。

 

 写真のあるものも、名前だけのものもある。

 

 ミカの指が、一つの蒸籠を指す。

 

「これは?」

 

「海老の蒸し餃子。そっちは豚肉と椎茸の焼売」

 

「両方、気になるなあ」

 

「二つ頼んでも大丈夫かな」

 

 セイアが尋ねる。

 

「あと何を食べるか次第だね。大皿も取るなら、少しずつにした方がいろいろ食べられるよ」

 

 ナギサは別の頁を見ていた。

 

「こちらの、魚の蒸し物をいただいてみたいです」

 

「いいね。葱と生姜の香りをつけたものだけど、大丈夫?」

 

「ええ」

 

 そこでナギサは、一度だけ二人を見た。

 

 確認するための視線だった。

 

 ミカが頷く。

 

「食べたい」

 

「私も」

 

 セイアが答えると、ナギサはもう遠慮しなかった。

 

「では、そちらをお願いします」

 

 ルミは注文を書き留めた。

 

 最後に野菜の一皿と、ご飯を少し。

 

 選び終えると、三人は揃って品書きを閉じた。

 

     ◇

 

 最初に来たのは、冷たい胡瓜の小皿だった。

 

 表面が軽く潰され、たれが入り込んでいる。

 

 一口食べると、ぱり、と音がした。

 

 酸味のあとに、胡麻の香りが残った。

 

 ミカが、もう一つ取る。

 

「お腹空いてる時にこれ来るの、いいね」

 

「もう、少し落ち着いた?」

 

 セイアが尋ねる。

 

「気分はね。でも、お腹は準備始めた感じ」

 

「よく分かる説明だね」

 

 続いて、蒸籠が二つ運ばれてきた。

 

 蓋が開く。

 

 白い湯気が、卓の中央へ立ち上った。

 

 海老餃子の皮は薄く、うっすら中の色が見えている。

 

 焼売には椎茸の細かな色が混じり、上の方に小さな艶があった。

 

 三人は一度、互いの箸を見た。

 

 それから、同じ蒸籠へ伸ばした。

 

「あ」

 

 ミカが手を止める。

 

「先にどうぞ」

 

 ナギサが言った。

 

「じゃあ、もらうね」

 

 以前なら、その一言だけで、もう少しやり取りが続いたかもしれない。

 

 今日はミカが取り、ナギサが続き、セイアが最後の一つを取った。

 

 皮が破れないよう小皿へ載せる。

 

 少し冷まして食べると、中の海老には、しっかりした歯触りがあった。

 

 噛むたび、甘みが出る。

 

 セイアは、思っていたよりゆっくり食べた。

 

 その横で、ミカが小さく頷いている。

 

 何も言わなくても、同じような感想を持ったことは分かった。

 

     ◇

 

 魚の皿は、卓の中央へ置かれた。

 

 湯気の中に、葱と生姜の匂いがある。

 

 淡い色の身へ、熱い油とたれが薄く絡んでいた。

 

 ルミが取り分け用の匙を置く。

 

「まずは、そのままで食べてみて。足りなければ、下のたれを少し」

 

 ナギサが、最初の一切れを自分の皿へ取った。

 

 ミカとセイアにも続けて分けようとして、途中で手を止める。

 

 二人とも、もう取り皿を持っていた。

 

「……では、お任せしますね」

 

「うん。ナギちゃん、冷めないうちに食べて」

 

 ナギサは頷き、箸を取った。

 

 白い身が、きれいに分かれる。

 

 一口食べて、目を少し細めた。

 

「美味しい」

 

 いつもの、客へ向ける感想より短かった。

 

 セイアも食べる。

 

 熱い葱の香りの下に、魚の淡い甘さがあった。

 

 たれのかかったところはご飯と合う。

 

 かかっていないところは、それだけで食べたくなる。

 

 ミカが匙を伸ばした。

 

「この葱も食べていい?」

 

「もちろん」

 

 ルミが笑う。

 

「むしろ、一緒に食べてほしくて載せてるから」

 

 ミカは魚と一緒に取った。

 

 食べて、また頷く。

 

「これ、好き」

 

 ナギサも頷いた。

 

 セイアは、その二人を見ながらご飯を一口食べた。

 

 午前中にも、三人で同じ意見になったところがあった。

 

 けれど、今の方が、確かめるまでに言葉が少なかった。

 

     ◇

 

 料理は、一度に全部は来なかった。

 

 一つ食べ始めた頃に、次の皿が加わる。

 

 卓がいっぱいになりすぎる前に、空いた蒸籠が下げられた。

 

 ミカは野菜の炒め物へ箸を伸ばし、思ったより歯触りが残っていたのか、少し目を開いた。

 

「これ、柔らかそうだったのに」

 

「葉と茎で、感じが違うね」

 

 セイアが言う。

 

 ナギサは茎のところをもう一つ食べてみた。

 

 料理について話すたびに、箸の向かう先が変わる。

 

 誰かが美味しいと言ったところを、別の誰かも食べてみる。

 

 そのうち、ミカの茶が空になった。

 

 ナギサが気づくより先に、ミカが急須を取った。

 

「二人もいる?」

 

「お願いするよ」

 

「ありがとうございます」

 

 三つの杯に、お茶が足される。

 

 ミカは最後に自分のものへ注ぎ、蓋の向きを直して卓へ戻した。

 

 それだけの動きを、セイアは少し長く見ていた。

 

「何?」

 

 ミカが気づく。

 

「いや。今、ちょうど飲みたかったのでね」

 

「そっか」

 

 ミカは満足そうに、茶を一口飲んだ。

 

     ◇

 

 最後に残った焼売を、誰が食べるかという話になった。

 

 数を揃えて注文したはずなのに、ほかの皿へ気を取られているうち、一つだけ蒸籠に残っていた。

 

 ミカが見る。

 

 ナギサも見る。

 

 セイアは二人を見た。

 

「どちらか、まだ食べられる?」

 

「私は、これ以上だとお茶の時に困るかも」

 

 ミカが言った。

 

 ナギサも、小さく首を振る。

 

「十分いただきました」

 

「では、私がもらってもよいかな」

 

「どうぞ」

 

「最初から言えばいいのに」

 

 ミカが笑う。

 

 セイアは箸で焼売を取り、自分の皿へ移した。

 

 まだ、ほんのり温かかった。

 

 食べ終えたところへ、ルミが戻ってくる。

 

「きれいに食べてくれたね。ありがとう」

 

「こちらこそ、ごちそうさまでした」

 

 ナギサが答える。

 

「お口に合った?」

 

「はい。特に魚が」

 

「私は、海老の」

 

 ミカが蒸籠のあった場所を示す。

 

 セイアは、空いた皿を眺めた。

 

「私は、最後の焼売まで美味しく食べられたことが、ありがたかったよ」

 

 ルミは少し笑った。

 

「じゃあ、量もちょうどよかったかな」

 

「ああ。君の助言がなければ、もう一皿くらい頼んでいたかもしれない」

 

「その分は、次に取っておいて」

 

 気負いのない言い方だった。

 

 ミカが、すぐに頷いた。

 

     ◇

 

 店を出る前に、午後の茶館について尋ねた。

 

 ナギサが見せた候補を、ルミが指で辿る。

 

「ここなら、今の時間は少し落ち着いてると思う。お茶もゆっくり飲めるよ」

 

「このまま通りを?」

 

「うん。途中に茶器を売ってる店があるから、その先」

 

 ミカが写真の紙を取り出した。

 

「あと、これって夜の店?」

 

「ああ、それ。夕方からだね」

 

「やっぱりかあ」

 

 ミカは紙を畳んだ。

 

 残念ではあるらしい。

 

 けれど、すぐに次の店を尋ねて埋め合わせようとはしなかった。

 

「今日は、難しいかも」

 

 そう言って鞄へしまう。

 

 ナギサは、閉じられた紙を一度見た。

 

 何も言わず、茶館までの道を確かめた。

 

     ◇

 

 最初のお茶は、三人で飲んだ。

 

 通りに面した茶楼の二階に、空いた席があった。

 

 窓は少し開いている。

 

 下を通る声と、遠くの鍋の音が、薄く入ってきた。

 

 卓には、小さな急須と、三つの杯。

 

 ナギサは茶葉の説明を読み、二つの間でしばらく迷った。

 

「どちらがいいと思いますか」

 

 珍しく、先に二人へ尋ねる。

 

 セイアは説明を見た。

 

 どちらも、まだ飲んだことはない。

 

「君が今、飲んでみたい方でいいよ」

 

「うん。私はお菓子選ぶから」

 

 ミカは、別の頁を見ていた。

 

 ナギサは少し笑い、片方を選んだ。

 

 選ばなかった方を惜しむように、もう一度だけ名前を見る。

 

 それから品書きを閉じた。

 

     ◇

 

 運ばれてきた茶は、焙った香りがした。

 

 店員の生徒が、最初の一煎を淹れてくれる。

 

 小さな器へ移され、三つの杯に分けられた。

 

 色は、光にかざすと明るく透けた。

 

 セイアは一口飲んだ。

 

 最初に香ばしさが来る。

 

 飲み込んだあと、舌の奥にほのかな甘さが残った。

 

 ミカは杯を見てから、二口目を飲む。

 

「小さいね」

 

「また淹れますので」

 

 店員が答える。

 

「そのたびに、少し変わるところも見てみてください」

 

 ナギサが頷いた。

 

 その顔は、午前中に説明を聞いていた時とよく似ていた。

 

 けれど、手元に筆記具はない。

 

 聞いたことを、すぐに誰かへ説明するためでもない。

 

 今は、自分が飲むために聞いていた。

 

 セイアは杯を置いた。

 

 窓の外で、布の庇が揺れた。

 

     ◇

 

 菓子は、小さな卵のタルトと、胡麻の薄焼きを選んだ。

 

 昼食のあとだから、たくさんはいらない。

 

 そう相談して決めたはずなのに、皿を前にすると、ミカは少し嬉しそうに椅子を寄せた。

 

 タルトの生地は、端が細かく層になっている。

 

 噛むと軽く崩れ、中の柔らかな卵の甘さへ変わった。

 

 セイアは、お茶を飲む。

 

 さっきとは、香りの感じ方が違った。

 

 ミカがナギサを見る。

 

「どう?」

 

「よく合いますね」

 

「よかった」

 

「ミカさんが選んだものですから」

 

「それ、ちょっと信用しすぎじゃない?」

 

 ミカは笑ったが、嬉しそうだった。

 

 ナギサも、口元を緩める。

 

「食べたいものを選ぶ時は、よく見ているでしょう」

 

 セイアは二人を見た。

 

 ミカはすぐには言い返さず、残ったタルトを食べた。

 

 今の言葉を、冗談で返すのが少し惜しかったのかもしれない。

 

     ◇

 

 二煎目からは、ナギサが淹れた。

 

 最初に教わったように、小さな急須を持つ。

 

 いつものポットより軽い。

 

 注ぎ終えると、蓋を少しずらし、中の葉を見た。

 

 葉は、来た時より大きく開いていた。

 

「こんなに違うものなのですね」

 

「さっきより、香りが丸くなった気がする」

 

 セイアが言う。

 

「私は、こっちの方が好きかも」

 

 ミカが答えた。

 

 ナギサも飲んでみる。

 

 少し考えた。

 

「私は、最初の香りも好きでした」

 

「違ってもいいじゃん。どっちも飲めたし」

 

「ええ」

 

 ナギサは素直に頷いた。

 

 誰か一人の感想へ、揃える必要はなかった。

 

 三人で同じ茶を飲み、それぞれ違うところを気に入った。

 

 それだけで、卓の上の話は続いた。

 

     ◇

 

 ミカが、椅子の背へ少し身体を預けた。

 

「ねえ。今日の私、ちゃんとしてた?」

 

「午前中のことかい」

 

「うん」

 

 セイアは頷く。

 

「助かったよ。私たちが気づかなかったところを、よく見ていた」

 

 ナギサも杯を置いた。

 

「とても、頼りになりました」

 

 ミカは一瞬だけ、どこを見てよいか分からなくなったような顔をした。

 

「……二人で、ちゃんと言うのやめてよ」

 

「聞いたのは君だろう」

 

「そうだけど」

 

 照れたように笑い、空いた皿を指で少し動かす。

 

 そのあと、今度はナギサへ向いた。

 

「ナギちゃんも、お疲れさま」

 

「ありがとうございます」

 

「入口の話、すぐ分かってくれて助かった。私、説明してたら、どっち向きの図を見せればいいか分かんなくなってたから」

 

「途中で、こちらへ回してくださいましたね」

 

「うん。任せちゃった」

 

 ナギサが笑った。

 

 セイアも、自分の杯を持った。

 

 互いの失敗を防ぐためだけではなく、途中を任せられる。

 

 午前中のやり取りを、今ならそんなふうにも思い出せた。

 

     ◇

 

 しばらくすると、会話が途切れた。

 

 誰も、次の話題を探さなかった。

 

 ミカは窓の下を見ていた。

 

 ナギサは、急須の蓋の模様を見ている。

 

 セイアは、開いた窓から入る空気を頬に感じていた。

 

 昼食で満ちた腹が落ち着き、朝から続いていた緊張が、ようやく身体の外へ出ていくようだった。

 

「……少し、眠くなったね」

 

 セイアが言うと、ミカが笑った。

 

「セイアちゃん、最近それ多くない?」

 

「温泉へ行った時だけだよ」

 

「今日もじゃん」

 

「確かに」

 

 ナギサは時計を見た。

 

 それから、急須へ目を戻す。

 

「もう一煎、いただいてからにしましょうか」

 

 セイアが顔を上げた。

 

「歩き出すのは?」

 

「そのあとで」

 

「賛成」

 

 ミカが答える。

 

 セイアも頷いた。

 

 ナギサが湯を注いだ。

 

 窓の外を、誰かが大きな荷物を持って通り過ぎる。

 

 三人は、まだ立たなかった。

 

     ◇

 

 茶楼を出た時には、午後の光が少し傾いていた。

 

 ミカが腕を伸ばし、今度は人のいない方へ向けて、小さく背伸びをした。

 

 ナギサも鞄を持ち直す。

 

 セイアは、その二人と一緒に階段を下りた。

 

 通りへ出ると、午前中とは違う店が目に入った。

 

 茶器。

 

 布。

 

 紙細工。

 

 乾物。

 

 今はもう、昼食を探していないからだろう。

 

 ミカが、細い道の先を見た。

 

「あっち、ちょっと見てみたい」

 

 ナギサは反対側の茶葉の店へ目を留めていた。

 

 セイアも、道具屋の並ぶ一角が気になっていた。

 

 三人で顔を見合わせる。

 

 先に笑ったのは、ミカだった。

 

「じゃあ、あとで?」

 

「ああ」

 

 セイアはミナにもらった地図を開いた。

 

「四時半に、この門の横ではどうかな。人の流れから少し外れている」

 

「分かりました」

 

「うん。途中で何かあったら連絡ね」

 

 それだけで、話は決まった。

 

 別々に歩くための説明も、誰かを一人にすることへの言い訳もいらなかった。

 

     ◇

 

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