今日は、運転をしないつもりだった。
百合園セイアは列車の窓際に座り、駅で買った温かい紅茶を飲んでいた。
車の鍵は、持ってきていない。
鞄には本と財布と携帯端末。それから、帰りに何か買った時のための、小さく畳んだ袋がある。
ミレニアムへ向かうのは、初めてではなかった。
EXPOの時には、見学のはずが随分と慌ただしいことになった。
少し前には、車の異音を調べてもらい、修理が終わるまで街を歩いた。
今回は、そのどちらでもない。
頼まれた用事も、預ける機械もなかった。
前に歩けなかった方の通りを見て、気になった店へ入り、適当なところで食事をする。
それで、十分だった。
窓の向こうに、ガラスを多く使った建物が増えてくる。
朝日を受けた壁面が、列車の動きに合わせて白く光った。
セイアはカップを置き、本を閉じた。
読みかけの頁に挟んだ栞は、帰りまで動かなくても構わない。
◇
駅を出たところで、聞き覚えのある声がした。
「だから、最初にあっちへ行けばいいんだって!」
「お姉ちゃん、それだとお店の開店時間まで待つことになるよ」
「待ってる間にゲームできるじゃん」
「最初から、それが目的でしょ」
セイアは、声のする方へ顔を向けた。
ピンクと緑。
よく似た二人が、端末の地図を挟んで何かを言い合っている。
その横では、アリスが二人の顔を交互に見ていた。少し後ろに立つユズは、口を挟む機会を探しているようだった。
「……先にゲームセンターでも、大丈夫だと思う」
小さな声で、ユズが言う。
モモイがすぐに振り返った。
「ほら! ユズもそう言ってる!」
「でも、時間は決めておこうね。あとで買うものもあるんだから」
「分かってるってば」
そこで、アリスがこちらに気づいた。
「セイア!」
三人も顔を上げる。
モモイの表情が、ぱっと明るくなった。
「あ、セイアじゃん! 今日は何しに来たの?」
「おはよう。少し、街を歩きに来たんだ」
「またミレニアムに?」
「ああ。今度は、見回りではないよ」
モモイは一瞬だけ黙り、それから店の開いた入口を指した。
「今日はちゃんと営業時間内だからね!」
「それは何よりだ」
ミドリが、小さくため息をついた。
EXPOのあと、閉場した会場で交わしたやり取りを、彼女も覚えているのだろう。
ユズが少し前へ出て、会釈する。
「お、おはようございます……」
「おはよう、ユズ。今日は、皆で買い物かな」
「はい。新しいゲームを……その、参考にするものも、見に」
「そして、冒険にも出かけます」
アリスが続けた。
セイアは、四人の向こうにある大きな看板を見上げた。
光る文字。
奥から聞こえる、何種類もの音楽。
自動扉が開くたびに、違う世界の音が道へ漏れてきていた。
◇
「セイアも来る?」
モモイが尋ねた。
「ゲームセンターへ?」
「そう。せっかく会ったんだし」
ミドリが、すぐにこちらを見る。
「このあと予定があるなら、無理にとは言いませんけど……」
「特にはないよ」
「じゃあ、決まり!」
「お姉ちゃん」
「本人がないって言ったじゃん!」
セイアは笑い、入口へ目を戻した。
ゲームを全く知らないわけではない。
ただ、四人と同じように、並んでいる機械の顔を見ただけで遊び方まで分かるわけでもなかった。
「では、少し付き合ってもいいかな。何から始めればよいか、教えてもらえると助かる」
「お任せください。最初の街では、チュートリアルが重要です」
アリスが、嬉しそうに頷いた。
四人と一緒に扉をくぐる。
中へ入った途端、音がぐっと近くなった。
頭の上を走る光。
画面いっぱいに動く文字。
硬いボタンを叩く音が、音楽の合間から聞こえる。
セイアは、少しだけ歩く速さを落とした。
今日はまだ、どの音へ向かえばよいのか分からなかった。
◇
最初に遊んだのは、音楽に合わせてボタンを押すゲームだった。
ミドリが曲を選び、難易度を一つ下げる。
「初めは、こちらで。線のところに重なったら押してください」
「分かった」
セイアはボタンに指を置いた。
音楽が始まる。
画面の上から、小さな印が降ってきた。
一つ。
二つ。
ここまではよい。
次の印へ目を移した時、左側にもう一つあることに気づいた。
押す。
遅かった。
取り返そうとして、今度は右を早く押しすぎる。
画面に、別の判定が出た。
「……忙しいね」
「次、両方!」
モモイが言う。
セイアは両手を動かした。
片方だけ、間に合った。
アリスが隣で、小さく身体を揺らしている。
どうやら、足で拍子を取っているらしい。
セイアも真似をしてみた。
少し合うようになった。
合ったと思ったところで、曲の調子が変わった。
「今、分かったばかりなんだが」
誰に向けたものでもない抗議が、機械の音へ混じった。
◇
終わると、思ったより低い数字が出た。
セイアは画面を眺めた。
「これは、まだ続きがあるという評価なのかな」
「もう一回やれば、絶対上がるよ」
モモイが言う。
ユズは、画面の端に残っている結果を見ていた。
「……押す場所は、合っています。少しだけ、音より画面を追いすぎてるかも」
「見てからでは、遅いんだね」
「はい。でも、途中から合っていましたから。その……同じ曲で、もう一度なら」
セイアは頷いた。
「では、今度は音をよく聞いてみよう」
二度目は、少しよくなった。
大幅に、とはいかない。
それでも、最後まで繋がるところが増えた。
曲が終わる直前、長く押し続ける印を早く離してしまい、セイアは思わず「あ」と声を漏らした。
モモイが笑う。
「惜しかった!」
「そこは、言われなくても分かったよ」
セイアも笑った。
結果の数字よりも、最後の一つを離した指の感触が、しばらく残っていた。
◇
次は、アリスと二人で遊んだ。
小さな登場人物を動かし、島の中にある塔を目指すゲームだった。
跳ぶ。
箱を押す。
片方が仕掛けを動かしている間に、もう片方が先へ進む。
セイアは最初、崖の手前で止まりすぎた。
「ここを越えるのかい」
「はい。走ってから跳ぶと、遠くまで届きます」
「分かった」
助走をつける。
少し早く跳びすぎた。
画面の人物が、崖の向こうへ消えた。
「……落ちたね」
「大丈夫です。ここから再出発できます」
アリスは、少し前の足場で待っていた。
次は、渡れた。
セイアが着地すると、アリスの人物が、その場で一度跳ねた。
急いで先へ行くための動きではない。
喜んでいるのだと分かった。
セイアも、同じように一度跳んだ。
「通じるものだね」
「はい!」
次の扉は、セイアが開けた。
アリスが走り抜ける。
その先で別の仕掛けが動き、こちらへ橋が掛かった。
今度は、迷わず渡れた。
◇
区切りまで進むと、画面の二人は、小さな港へ出た。
灯台がある。
店の庇が風に揺れ、桟橋には船が繋がれていた。
セイアは少しだけ、操作を止めた。
「ここで休めるのかな」
「ステージクリアの場所です。次は別の島へ行きます」
「そうか」
画面の端に、続けるかどうかを尋ねる文字が出ている。
セイアは残り時間を見てから、今回は終える方を選んだ。
アリスが振り向く。
「楽しかったですか?」
「ああ。君が待っていてくれたので、助かった」
「パーティーですから」
当然のような返事だった。
ミドリが、二人の画面を覗く。
「最後の橋、初めてなのに一回でできましたね」
「その前に、落ちる練習を十分したのでね」
モモイが笑い、アリスは少し真面目な顔で頷いた。
セイアは椅子から立った。
画面の中では海へ出たけれど、靴の裏は、まだゲームセンターの床にあった。
◇
レースゲームを見つけたのは、モモイだった。
「こっち、空いてる!」
店の奥に、大きな筐体が四台並んでいる。
深い座席。
広く囲むような画面。
ハンドルと、シフトレバー。
足元には、三つのペダルがあった。
頭上の表示には、新作であることが大きく書かれている。
ちょうど前の客が席を立ったところだった。
画面の車がゴールし、記録の数字へ切り替わる。
その音を聞いて、セイアは足を止めた。
「……ずいぶん、本格的だね」
「これ、座席も動くんですよ」
ミドリが説明する。
「車の動きに合わせて揺れるんです。設定で弱くもできます」
セイアは、ハンドルの奥を見た。
丸い計器が表示されている。
こちらも、思っていたより見慣れた形だった。
「乗ってみる?」
モモイが尋ねる。
「せっかくだ。お願いしようかな」
◇
セイアは座席へ身体を収めた。
位置を前へ動かし、ペダルまでの距離を確かめる。
ハンドルへ手を伸ばす。
軽く回すと、戻ろうとする力があった。
側面のベルトを締めると、モモイが隣の席へ座った。
「最初は、おすすめの設定でいいと思うよ。車もこれ、扱いやすいし」
ミドリがもう一台へ。
アリスが残りへ座る。
ユズは、セイアの画面を横から見ることにした。
画面の案内に従って、初めて遊ぶ人向けの設定を選ぶ。
自動変速。
いくつかの運転支援。
座席の動きは、控えめ。
車は、色だけ白へ変えた。
コースが表示される。
最初の勝負は、あまりうまくいかなかった。
◇
全く走れないわけではない。
曲がる。
止まる。
加速する。
ただ、セイアが思っているところと、車が動くところに、少しずつずれがあった。
まだ同じギアで曲がりたいところで、変速する。
もう少し自分で向きを変えたい時に、ハンドルへ別の力が加わる。
目の前の車は無事に走っているのに、どこか、自分の手から半歩だけ離れていた。
最初の曲がり角で膨らんだ。
次は慎重になりすぎた。
その間に、モモイが先へ行く。
「セイア、こっちこっち!」
「見えているよ」
「じゃあ、追いかけてきて!」
「今、その方法を確かめているところだ」
左足が、役目のないままペダルの前にあった。
セイアは一瞬そこを見て、すぐに画面へ戻した。
結果は四人のうち三番目。
アリスは途中で景色の中の看板を読もうとして、道を外れていた。
「港の名前を確認していました……」
「レース中に観光しないの」
ミドリに言われ、アリスが頷く。
セイアは、結果よりも設定の項目を見ていた。
◇
「ユズ」
「は、はい」
「変速を、自分ですることはできるのかな」
「できます。ここの、詳細設定から……」
ユズが指で示す。
別の項目が開いた。
セイアは、少し身体を起こす。
「クラッチも使える?」
「はい。手動クラッチを選べば」
「こちらの、ハンドルの補助は?」
「弱くできます。全部切ることも……でも、その分、車の動きがそのまま出るので」
「その方が、分かりやすそうだ」
ユズの目が、画面からセイアへ移った。
セイアは説明を読みながら、必要なところだけを変えていく。
変速は手動。
クラッチも自分で操作する。
操舵や制動の補助は外し、挙動はシミュレーションの設定へ。
車を選ぶ画面へ戻る。
今度は、長い鼻先のある古い二座席の車を選んだ。
自分のものと同じではない。
けれど、力の出方も、車の重さも、先ほどの車より想像しやすかった。
「……普段、お車を?」
ユズが尋ねる。
「ああ。こういう操作のものに乗っているよ」
隣のモモイが、会話を聞いて振り返った。
「え。セイア、運転できるの?」
「できるよ」
「それ、先に言ってよ!」
「ゲームの得意な種類を聞かれた時に答えることでもないと思ってね」
セイアは左足でクラッチを踏んだ。
戻す。
もう一度、踏む。
先ほどまで、少し困っていた足が、急に落ち着いた。
◇
最初は、練習用の単独走行にした。
画面の車が、走り出す前の場所へ置かれる。
セイアはレバーを動かした。
一速。
回転を少し上げ、左足を戻す。
車が前へ出た。
二速へ。
音が変わる。
アクセルを踏み足すと、白いボンネットの向こうで、景色の流れが速くなった。
セイアは笑った。
「……なるほど」
曲がり角へ近づく。
ブレーキを踏む。
座席が前へわずかに動き、ハンドルの重さが変わった。
自分でギアを下げる。
音が高くなる。
車体が向きを変えたあと、右足を戻していく。
今度は、自分のしたことに対して、車が応えていた。
もちろん、本物と全く同じではない。
身体へかかる力も、窓の向こうの広がりも違う。
それでも、先ほどよりずっと話が早かった。
「おお……?」
後ろで、モモイの声がした。
セイアは、聞いていなかった。
◇
直線に出た。
普段なら、この辺りでアクセルを落ち着かせる。
先を確かめ、速度を見て、車の音を聞く。
今日は、その先まで踏んだ。
回転が上がる。
シフトレバーを動かす。
もう一段。
エンジン音が落ち、それからまた高くなる。
長いボンネットが、景色の間を突き進んでいった。
対向車は来ない。
路地から誰かが出てくることもない。
周囲には、同じ方向へ走るための道だけがある。
家で待っている愛車の状態を気にする必要もなかった。
熱を持ちすぎないか。
古い部品へ負担をかけていないか。
タイヤを、そろそろ労わるべきではないか。
それらを今、全部、考えなくてよい。
セイアはもう少し深く、ペダルを踏んだ。
「……ふふ」
音に埋もれそうな笑い声が漏れる。
次の曲がり角が、急に近づいてきた。
ブレーキが遅れた。
◇
ハンドルを切ったところで、車の後ろが外へ流れた。
座席が揺れる。
セイアがすぐに手を返す。
一度は戻った。
けれど、車体はコースの端を越え、砂のある場所へ入り込んだ。
画面いっぱいに、淡い埃が上がる。
「あっ!」
ミドリの声がした。
車は回り、逆を向いて止まった。
数秒後、コースへ戻す表示が出る。
セイアは、それを押した。
同じ白い車が、道の上へ戻る。
エンジンは動いていた。
どこへ連絡する必要もない。
誰かを車から降ろす必要もない。
もう一度、走れる。
セイアは顔を上げた。
「これは、いいね」
モモイが口を開けた。
「今、すごい失敗したよね!?」
「ああ。試したかったことが、一つ分かった」
「分かったっていうか、回ってたけど!」
「次は、もう少し手前でやろう」
ユズが、小さく頷いた。
セイアの声が、先ほどより少し弾んでいることに気づいていた。
◇
二周目は、同じ場所で止まらなかった。
慎重に戻したわけでもない。
一度目より早く車を整え、その代わり、曲がり終えたあとの加速を強くした。
白い車が、コースの外側まで大きく使って立ち上がる。
タイヤの鳴く音がした。
セイアはハンドルをわずかに戻し、車体が向きを揃えるのを待った。
そのあとで、踏む。
音が一気に伸びた。
いつものドライブのように、静かな車内を保つつもりはなかった。
助手席には誰もいない。
隣で青くなっているナギサも、いない。
思い出して、少し笑った。
あの海辺の私有地でも、ここまで気兼ねなく走ったわけではない。
「……もう一周あるんだね」
残り周回数を見て、声が明るくなった。
アリスが、両手を握った。
「セイアのジョブが変わりました!」
「いや、変わりすぎじゃない?」
モモイが言う。
ミドリは、表示されるタイムを見ていた。
ユズは、画面ではなく、セイアの手足の動きを見ていた。
◇
練習が終わると、モモイが隣へ座り直した。
「じゃあ、もう一回やろう!」
「いいのかい」
「このまま見て終わるわけないでしょ!」
ミドリとアリスも戻る。
車の種類とコースを揃える。
セイアの設定を見て、モモイは少し迷い、変速だけは慣れた方へ戻した。
誰も、それを笑わなかった。
自分の走りやすいやり方で走ればよい。
スタートの表示が消えた。
今度はセイアも、最初から遅れなかった。
◇
一周目の半ばで、モモイの車がミラーに入った。
最初は、すぐ後ろだった。
次の曲がり角を抜けると、少し小さくなっていた。
「ちょっと待って!?」
「今は、待たない方のゲームだろう?」
セイアが返す。
声に笑いが混じっていた。
モモイが何か言い返したが、次の曲がり角へ入って、言葉の途中で忙しくなった。
セイアは、遠慮なく先へ出た。
縁石の端を踏み、車体が跳ねる。
レバーを動かす手は止まらない。
次の坂で一段落とし、エンジンの響きを高く保ったまま上っていく。
ずっと横へ滑らせるような走りではない。
けれど、普段の旅で見せる、同乗者を揺らさないための運転でもなかった。
必要なら車を振り、強く速度を落とし、向きが変わればすぐに前へ出る。
画面の車が、忙しく動いた。
その真ん中で、セイアだけが楽しそうだった。
◇
最終周、モモイの車はもう、すぐには追いつけないところにいた。
ミドリとアリスも、その後ろだった。
セイアは最後の直線へ出る。
アクセルを踏み切る。
チェッカーフラッグの模様が、画面の上を通り過ぎた。
一位。
セイアは少し遅れて、息を吐いた。
「……面白い」
「感想、それだけ!?」
モモイが振り返った。
セイアも顔を向ける。
自分の口元が、思っていたより緩んでいることに気づいた。
「もう少し、話してもいいが」
「違う! なんで急にこんな速くなるの!」
「ようやく、自分で運転できた感じがしたのでね」
モモイがミドリを見る。
ミドリも、すぐには何も言えなかった。
アリスが大きく頷く。
「得意な装備に持ち替えたのですね」
「……その説明が、一番近いかもしれない」
セイアは答えた。
そこで、横から小さな声がした。
「あの」
ユズだった。
◇
「次、私も……いいですか」
セイアが顔を上げる。
ユズは、ハンドルと結果の画面を交互に見ていた。
声は小さい。
けれど、さっきまでのように、誰かへ順番を譲ろうとしているわけではなかった。
「もちろん」
セイアはすぐに答えた。
「君が走るところも、見てみたかった」
モモイが席を立った。
「ユズ、やっちゃって!」
「お姉ちゃん。何の応援なの」
「ゲーム開発部の名誉!」
「私たち、別に負けたら廃部になるわけじゃないんだから」
ユズは少しだけ笑い、座席へ座った。
ペダルの位置を確かめる。
ハンドルを軽く回す。
設定画面を開くと、迷わず項目を選び始めた。
セイアと同じ車。
同じコース。
色だけ、深い青に変える。
シフトレバーの動きを一度確かめ、両手をハンドルへ戻した。
その頃には、背中の丸まり方が変わっていた。
◇
ユズは、最初の曲がり角から速かった。
セイアが一度走って確かめた場所を、彼女はためらわずに抜けていく。
無茶に見えるところは少ない。
画面の車は、セイアの車よりも少し静かだった。
けれど、遅くはない。
前を走る青い車へ近づこうとして、セイアは一段早くアクセルを踏んだ。
後ろが流れる。
修正する。
その間に、青い車が少し離れた。
「……なるほど」
セイアは前を向き直った。
今度は、追いかける側だった。
抜けそうな場所が見える。
そこへ着くと、ユズはもう、次の加速に入っている。
直線で少し近づく。
曲がり角が続くところで、また離れる。
一周目。
二周目。
差は大きくない。
けれど、消えなかった。
◇
最後まで追いかけたが、一度も前へ出られなかった。
青い車が先にゴールする。
白い車は、そのすぐあとへ続いた。
差は、一秒と少し。
セイアは結果を見たまま、しばらく動かなかった。
悔しい、という言葉が、思っていたより早く浮かんだ。
同時に、もう一度走りたいと思っていた。
隣のユズが、こちらを見る。
「あの……」
「今、どこで離されたのか分かったところなんだ」
セイアは顔を向けた。
「もう一戦、頼んでもいいかな」
ユズは瞬きをした。
それから、少しだけ笑った。
「……はい」
その返事を聞いて、セイアも笑った。
モモイが、二人の顔を見比べた。
「なんか、こっちまで悔しくなってきた」
「お姉ちゃん、今は走ってなかったよね」
「そうだけど!」
◇
二戦目も、ユズが勝った。
ただし、今度は途中で、セイアが前へ出た。
少し長い直線のあと。
青い車の横に、白い鼻先が並んだ。
次の曲がり角を、二台が近いまま抜ける。
セイアの手に力が入った。
画面の端の順位が、一へ変わる。
「……取った」
思わず言った。
その声は、朝、列車の中で紅茶を飲んでいた時よりも、ずっと若く聞こえた。
けれど、そのまま逃げ切ることはできなかった。
最後に続く曲がり角で、セイアの車が少し外へ出る。
青い車は、小さくなった内側の隙間を、きれいに通った。
もう一度、追う側へ戻った。
差は、前より縮まった。
それでも二位だった。
◇
次の客が来たので、いったん席を空けた。
セイアは筐体から降り、両手を見た。
指の付け根に、ハンドルを握っていた感触が残っている。
喉も渇いていた。
ミドリが飲み物の売り場を指す。
「少し休みましょうか」
「そうだね」
水を買い、壁際で飲む。
ユズも、小さなボトルを両手で持っていた。
セイアは彼女へ顔を向けた。
「さっき、私が前へ出た時。慌てなかったね」
「……追いかけすぎると、次のところで崩れるので」
「私が外へ出ると思っていた?」
ユズは少し考えた。
「一回目も、あそこは少し……曲がり終わる前に、車が外へ向いていたから」
セイアは、画面の道を思い出した。
自分は、前へ出たところで嬉しくなっていた。
ユズは、その次まで見ていた。
「よく見ているね」
「走り方が、さっきと違っていたので。見てないと、追いつけなくなると思って……」
その言葉を聞いて、セイアは顔を上げた。
ユズは、ボトルへ目を落とす。
「私も、負けたくなかったので」
セイアは、ゆっくり頷いた。
「……それは、嬉しいね」
「え?」
「真面目に、相手をしてもらえている」
ユズの耳が、少し赤くなった。
セイアは水をもう一口飲んだ。
次は、どこで仕掛けようかと考えていた。
◇
最後に、もう一戦だけ走ることにした。
今度はモモイもミドリも、横から指示を出さなかった。
アリスだけが、始まる前に短く言った。
「二人とも、頑張ってください」
セイアは頷き、ハンドルを握った。
青と白。
同じ形の車が、並んでスタートを待っている。
セイアは、自分の車の鼻先を見た。
今日、何度も回転を上げ、縁石へ乗せ、砂の中へ滑り込ませた。
けれど、次のスタートには、また走れる状態で戻ってくる。
現実では、なかなかできないことだ。
その有り難さを、今は遠慮なく使いたかった。
スタートの表示が消えた。
◇
一周目は、セイアが後ろについた。
ユズの走る線を、そのまま真似るつもりはなかった。
自分の方が気持ちよく走れる場所もある。
反対に、追いつこうとすると余計な動きが増えるところもある。
手応えを一つずつ確かめる。
二周目の直線で、横へ出た。
白いボンネットの隣に、青い車が見える。
普段なら、こんな距離で車を並べることはしない。
今日は、そこにいるのがユズの車だと分かっている。
互いに、譲ってもらうつもりではなかった。
次の曲がり角へ、セイアが先に入った。
座席が揺れた。
タイヤが鳴く。
さっきよりも、ずっと忙しい音だった。
それでも、車は道の上に残った。
セイアは、笑いながら息を吐いた。
「……よし」
短い直線で、青い車がミラーの中央へ入る。
近い。
離せてはいない。
けれど、追われる側の景色も、ひどく面白かった。
◇
最終周に入る。
途中の曲がり角で、ユズが一度前へ出た。
その次で、セイアが取り返す。
モモイが声を上げかけ、両手で口を押さえた。
ミドリは、画面から目を離せないでいた。
アリスの指が、膝の上で小さく動いている。
自分もハンドルを握っているつもりなのかもしれない。
最後の、続けて曲がる区間が近づいた。
セイアは、さっきの失敗を覚えていた。
外へ膨らみすぎないよう、車を整える。
今回は、道に残った。
けれど、そこへ残るために落とした速度を、戻すのがわずかに遅れた。
青い車が、隣へ出た。
「……そちらか」
セイアの声に、悔しさと笑いが一緒に混じる。
ユズは答えなかった。
前を見ていた。
最後の直線。
白い車が追う。
レバーを動かす。
踏む。
ゴールの線が近づく。
二台の鼻先は、まだ並びきっていなかった。
◇
一位、ユズ。
二位、セイア。
差は、〇・一八四秒だった。
結果が表示されても、セイアはすぐにハンドルを離さなかった。
あと少し。
本当に、あと少しだった。
画面に流れる短い映像では、青い車のすぐ後ろを、白い車が通り抜けていく。
セイアは一度、目を閉じた。
それから、笑った。
「……ああ。悔しいな」
隣で、ユズも深く息を吐いた。
「私も……最後、抜かれるかと思いました」
「次は、そうしたいね」
ユズが顔を向ける。
セイアは、もう画面ではなく、彼女を見ていた。
「よい勝負をありがとう」
ユズは少し戸惑い、それから頷いた。
「こちらこそ……ありがとうございました」
モモイが二人の間へ顔を出す。
「二人とも速すぎるんだけど!」
ミドリも頷いた。
「最後、ほとんど同時でしたね」
「でも、勝ったのはユズだよ」
セイアははっきり言った。
ユズは、照れたように視線を下げた。
けれど、口元は嬉しそうだった。
◇
走行記録を残せると教わり、セイアは自分のカードを登録した。
名前を入力する。
白い車を選ぶ。
今日の記録が、小さな画面の中に残った。
ユズの方には、見覚えのある綴りが表示されていた。
UZQueen。
セイアは、その文字を見てから本人を見る。
ユズは、先ほどからあまりに見られるので、少し落ち着かないようだった。
「これなら、次に来た時も続きができるんだね」
セイアが言った。
「はい。設定も、保存されるので」
「ありがたい。操作を決めるだけで、今日は随分違ったからね」
ユズは頷く。
セイアもカードを受け取り、財布の内側へ入れた。
紙の地図でも、店の控えでもない。
今日の旅から持ち帰るものが、また一つ増えた。
◇
クレーンゲームでは、三回続けて失敗した。
狙ったのは、小さな白いロボットのマスコットだった。
目は青い線で描かれ、手足は短い。
こちらを向いたまま、景品の山へ半分埋まっている。
アームは、持ち上げた。
ちゃんと、持ち上げたのだ。
けれど落とす場所へ届く前に、ロボットは腕の中から抜けてしまった。
「……今のは、運び方に問題があったようだね」
「セイアが反省会を始めました」
アリスが言った。
モモイが笑う。
「まだやる?」
セイアは景品を見た。
さっきより少しだけ、出口へ近づいている。
「もう一回。今度で終わりにするよ」
横から位置を確かめた。
ミドリが、アームの向く先を示す。
セイアは頷き、操作した。
白いロボットが傾く。
持ち上がるというより、山の端から押し出される形になった。
ころり、と。
出口へ落ちた。
セイアは一瞬、動かなかった。
「取りました!」
アリスの声で、ようやく下の取り出し口を覗き込む。
そこに、白いロボットがいた。
「……こちらも、嬉しいものだね」
掌へ載せる。
速くもなければ、強くもなさそうだった。
今日、一番長く思い通りにならなかった機械かもしれない。
◇
外へ出ると、昼の光が眩しかった。
ゲームセンターの中で明るい画面を見続けていたのに、空はそれとは別の明るさを持っている。
セイアは一度、目を細めた。
隣で、モモイが大きく伸びをする。
「お腹空いたー!」
「思ったより、長くいましたね」
ミドリが時計を見る。
午前の時間は、ほとんどゲームセンターの中で過ぎていた。
セイアも同じ時計を見た。
少し驚いた。
けれど、何に使ったのかはよく分かっている。
ユズと走っていた最後の数分が、まだ指先に残っていた。
「近くで、食べようか」
セイアが言うと、四人が頷いた。
今度は、全員の行き先がすぐに決まった。
◇
入ったのは、学生向けの小さな食堂だった。
大きな窓と、広く使える卓がある。
品書きには、オムライス、パスタ、ホットサンド。
飲み物と一緒に頼める、揚げ物の皿もあった。
五人で座ると、卓の上はすぐに賑やかになった。
セイアは、鶏肉とチーズのホットサンドを頼んだ。
皿の脇には、細いフライドポテトが添えられている。
切られたパンの間から、熱いチーズが少し出ていた。
紙で持ち、ひと口食べる。
表面はかりっとしている。
その下に、柔らかなパンと、鶏肉。
軽い酸味のあるソースが、チーズの濃さを少し変えていた。
思っていたより、腹が空いていた。
レースの間、自分が何度も身体へ力を入れていたことを、今になって思い出す。
「……よく食べられそうだね」
「運転してたから?」
モモイが聞く。
「座っていた場所は、変わっていないんだが」
「でも、すっごい楽しそうだったよ」
セイアはパンを置いた。
「そう見えたかい」
「うん。途中から、全然顔違った」
◇
ミドリも頷いた。
「最初に音楽ゲームをしていた時より、ずっと」
「そちらは、指が追いつかなかったのでね」
「車だと、足も使うのに」
「慣れの問題だろう」
セイアはポテトを一本食べた。
端が少し硬く、中は柔らかい。
塩気が、ちょうどよかった。
アリスが隣から尋ねる。
「現実でも、あのように走るのですか?」
セイアは、ポテトへ伸ばしかけた手を止めた。
「いつも、ではないよ」
「いつもじゃないんだ」
モモイが言う。
「走れる場所にも限りがあるし、車の状態も気になる。隣に人がいれば、そちらもね」
ナギサの顔が思い浮かんだ。
思い浮かんだ顔は、あまり機嫌のよいものではなかった。
セイアは少し笑う。
「今日は、ずいぶん気楽だった」
「ゲームの中なら、車は戻ってきますからね」
ミドリが言った。
「ああ。あれは、なかなか贅沢だ」
◇
ユズは、オムライスを少しずつ食べていた。
ゲームの前より口数は増えていたが、視線を向けられると、まだ少し肩が動く。
セイアは、彼女に尋ねた。
「君は、あのコースをどのくらい走ったんだい」
「えっと……実際に遊んだ回数だと、そんなに多くは」
モモイが横から言う。
「動画は、すっごい見てたよね」
「うん。新しいのが入るって、聞いていたので……」
ユズはスプーンを置いた。
「でも、見ている時と、自分で動かす時は違うから」
セイアは頷いた。
「私も、最初の一周では、よく分かった」
「セイアさんは、そのあと、すぐ変わったので。……次は、もっと違う走りになるかもしれないと思います」
ただのお世辞ではないようだった。
ユズは、次の勝負を本当に考えている。
セイアは茶を飲んだ。
「では、私も少し練習しなければね」
ミドリが笑う。
「ハマりましたね」
「そう見えるかな」
「うん!」
モモイとアリスの返事が重なった。
否定するには、少々遅かった。
◇
食事を終える頃、四人は午後の買い物の相談を始めた。
ゲームショップへ行く。
資料を探す。
帰ってから、試したいものもあるらしい。
モモイがセイアへ顔を向けた。
「このあとも、一緒に行く?」
セイアは少し考えた。
朝には、皆と会うことすら予定していなかった。
このまま一緒に歩くのも、きっと楽しい。
けれど、今は少しだけ、自分の速さで街を歩いてみたかった。
「午後は、一人で回ってみようと思うよ」
「そっか」
モモイは、あっさり頷いた。
ミドリが近くの店を幾つか教えてくれる。
アリスは、また協力ゲームの続きをしようと言った。
ユズは最後に、小さな声で言った。
「……また、対戦してください」
セイアは、すぐに頷いた。
「ああ。次も、手加減はしないでほしい」
ユズが笑った。
「はい」
店を出たところで、四人と別れる。
モモイの声は、角を曲がるまで聞こえていた。
セイアはそれを見送ってから、反対の道へ歩き出した。
◇
午後の街は、店の中より少し風があった。
セイアは歩きながら、自分の足音を聞いた。
さっきまでは、誰かが何かを見つけるたびに、進む方向が変わっていた。
今は、自分が止まれば止まる。
歩き出せば、また進む。
通りの向こうに、小さな書店の看板があった。
その下には、中古のゲームを扱う店もある。
朝なら、書店だけを見ていたかもしれない。
今日は、下の店の窓も気になった。
階段を下りる。
入口の前には、古いゲーム機が一台置かれていた。
画面では、小さな人物が同じ足場を行き来している。
試しに遊べるらしい。
セイアは鞄を持ち直し、少し覗き込んだ。
◇
店内の棚には、色の違う箱が隙間なく並んでいた。
同じ題名でも、大きさの違うものがある。
値札も違う。
セイアが見比べていると、店番のロボットが説明した。
「遊ぶ機械が違うんです。そちらは、古い方の機種向けですね」
「なるほど。同じ本の版違いとは、少し違うのか」
「近いところもありますよ。こちらには、あとから追加された内容が入っています」
セイアは箱を裏返した。
小さな画面写真が並んでいる。
文字だけでは、どのように遊ぶものか分からないものもあった。
午前中なら、ここで興味が止まったかもしれない。
今日は、知らない操作でも、誰かに教われば動かせたことを覚えていた。
「これも、二人で遊べるのかな」
「はい。交代ではなく、一緒に進めるものです」
そう言われると、箱の絵の見え方が少し変わった。
一人が前を向き、もう一人が後ろを見ている。
飾りの構図ではなく、遊び方の説明でもあったらしい。
◇
入口の試遊台では、しばらく誰も遊んでいなかった。
店員へ断ってから、セイアはコントローラーを持った。
ボタンが少ない。
動かす。
跳ぶ。
それだけのようだった。
最初の穴の手前で、また一度止まる。
午前中のアリスの声を思い出した。
走ってから。
そのあとで、跳ぶ。
小さな人物は、向こう岸へ届いた。
次の足場で、動く床へ乗る。
そこで、少し早く跳んで落ちた。
セイアは笑った。
「こちらでも、落ちるらしい」
最初の場所へ戻った人物を、もう一度動かす。
今度は少し先まで進んだ。
背後に次の客の気配がしたところで、コントローラーを置く。
席を譲り、店をひと回りしてから外へ出た。
何も買わなかった。
けれど、手ぶらで出る前に、礼は言いたかった。
「少し、遊ばせてもらったよ。ありがとう」
店番は、いつものことのように頷いた。
◇
上の書店では、ゲームに関する本が一角を占めていた。
攻略の本。
作るための本。
絵だけを集めた本。
セイアはその最後の棚で、見覚えのある風景を見つけた。
小さな港。
白い灯台。
色の違う屋根が、段になって海へ向かっている。
午前中、アリスと辿り着いた場所だった。
頁を開く。
画面で見た時より、細かなところまで載っていた。
店の前の椅子。
窓辺の鉢。
桟橋へ下りる階段。
ゲームの中では、次に進むための場所ばかり見ていた。
ここにこんなものもあったのか、と、一つずつ目が止まる。
説明には、実際の街を組み合わせて考えられた、架空の港だとあった。
セイアは、そこを二度読んだ。
列車を探しても、行けない場所。
けれど今日は、画面の中で、確かにそこへ着いた。
◇
画集は少し大きかった。
持って帰れなくはない。
ただ、今の鞄には入らない。
セイアは重さを確かめ、少し考えてから棚へ戻した。
代わりに、その近くにあった小さなカードの束を選んだ。
同じゲームの風景が、何枚か入っている。
港。
森の橋。
夜の塔。
まだ見ていないところもあった。
袋へ入れてもらう時、店員の生徒が尋ねた。
「このゲーム、お好きなんですか?」
「今日、初めて遊んだよ」
「あ、そうなんですね」
「この港までは、辿り着いた」
見せると、店員は笑った。
「じゃあ、この先も、まだたくさんありますね」
「ああ」
セイアは包みを受け取った。
またどこかで続きを遊ぶかどうかは、その時に決めればよい。
今日は、辿り着いた場所の絵が一枚ある。
それが、ちょうどよかった。
◇
地上へ戻ると、風の匂いが変わっていた。
どこかで焼いている、甘いものの香りがする。
セイアは通りの端へ寄り、看板を探した。
少し先の二階に、小さな喫茶店があった。
入口へ続く階段の下に、ワッフルの写真が出ている。
昼食からは、まだそれほど長く経っていない。
けれど歩いた。
本も見た。
少し、座ってみたかった。
理由を三つまで並べたところで、自分で笑ってしまった。
入ることにした。
◇
窓際の席からは、歩行者通路が見えた。
セイアは紅茶と、小さめのワッフルを頼んだ。
荷物を置き、椅子へ座る。
座席は動かない。
その当たり前のことが、今日は少し可笑しかった。
運ばれてきたワッフルには、バターと、別添えのベリーのジャムがついていた。
表面の溝に、溶けたバターが少しずつ入っていく。
端へナイフを入れると、小さな音がした。
一片を口へ運ぶ。
外側は軽く、中央には柔らかさが残っている。
甘すぎない生地に、バターの塩気が合った。
次はジャムを少し。
酸味が加わると、同じものなのに口の中が変わった。
紅茶を飲む。
さっきまで残っていた揚げ物の味も、ゆっくり消えていった。
セイアは窓の外を見た。
高いところを、人が何人も歩いている。
画面ではない景色だった。
◇
端末を開くと、モモイから写真が届いていた。
ゲームセンターでのものだった。
ハンドルを握るセイア。
隣で前を見ているユズ。
画面を見守る、ミドリとアリスの一部も写っている。
セイアは自分の顔を拡大した。
笑っていた。
普段、人に見せるために整える笑い方とは少し違う。
目の前のものを追いかけて、そのまま面白がっている顔だった。
続いて、短い動画が届く。
最後の勝負の、ゴールするところ。
セイアは音を出さずに見た。
白い車が、青い車へ近づいていく。
もう少し。
そこで、線を越える。
結果は、何度見ても変わらなかった。
〇・一八四秒。
セイアはワッフルを食べながら、もう一度だけ再生した。
◇
ユズからも、連絡が来ていた。
『今日は、ありがとうございました。対戦、楽しかったです。』
その下に、記録を呼び出すためのコードが添えられている。
次に遊ぶ時、自分の走りと一緒に表示できるらしい。
セイアは、少し考えて返信した。
『こちらこそ。最後の直線を、まだ少し悔しがっているよ。』
送ってから、続きを打つ。
『次も、また頼む。』
すぐに返事は来なかった。
皆で買い物をしているのかもしれない。
セイアは端末を伏せた。
今日、同じ街にいるからといって、午後までずっと同じことをする必要はない。
窓の外を眺め、残りの紅茶を飲んだ。
◇
喫茶店を出る前に、小さな焼き菓子を一袋買った。
今度は、帰ってから食べるためのものだった。
店を出たところで、風が少し冷たくなっていることに気づく。
上着を羽織り、歩行者通路へ上がった。
通りを高いところから渡れる場所だった。
途中には、植木とベンチがある。
セイアはそこへ少し座った。
下を、小さな車が何台も走っていく。
赤い信号で止まり、青になると順番に動き出した。
急いで前へ出るものはいない。
その動きを見ていると、午前中の画面が少し遠くなる。
あちらでは、前を走る車へ追いつくことばかり考えていた。
こちらでは、ただ流れていくところを見ていられた。
どちらも、今日の自分には面白かった。
◇
遠くには、整備棟のある方角が見えた。
建物に隠れ、あの場所そのものは分からない。
セイアは少しだけ顔を向けた。
家の車は、きちんと走っている。
直してもらったところから、あの音が戻ることもなかった。
今日は、それを確かめに来たわけではない。
持ってきてすらいない。
それなのに、随分と運転をした。
セイアは鞄から、白いロボットを出した。
青い線の目が、こちらを向いている。
「……君を連れて帰るのに、ハンドルは要らないね」
掌に載せて、少し眺める。
それから鞄の内側へしまい、立ち上がった。
帰りの列車には、まだ十分に間に合う。
駅へ向かう道は、急がず歩くことにした。
◇
帰りの列車では、窓際へ座った。
鞄を膝へ置き、買った絵のカードを一枚だけ出す。
港の絵だった。
紙の上では、風で揺れていた庇も、海の光も止まっている。
それでも、音を思い出すことはできた。
アリスが先で待っている間に聞いた、小さな波の音。
仕掛けが動く音。
足場へ着地した時の音。
そのあとに、店内の賑やかな声までついてくる。
セイアはカードを本へ挟んだ。
今日は、その場所まで読んだということにしてもよい気がした。
列車が動き出す。
窓の外の街は、ゆっくり遠ざかった。
◇
少しして、ミカから連絡が来た。
『今日、どこ歩いてる?』
セイアは、自分の膝の上を見た。
本。
菓子。
ゲームのカード。
小さな景品。
どれから説明しようか、少し迷った。
『今は帰りの列車だよ。午前中は、ゲーム開発部の皆と遊んでいた。』
送ると、すぐに返事が来た。
『え、ゲーセン?』
『ああ』
『何したの?』
セイアは、結果の画面を送った。
一位と二位。
二台の車。
少しだけ離れた時間。
ミカから、しばらく返事が来なかった。
そのあと、別の相手から連絡が来る。
ナギサだった。
『今日は電車でお出かけになったのですよね?』
セイアは、声を立てずに笑った。
『その通りだよ。今も、ちゃんと乗っている。』
◇
トリニティへ着くと、談話室には二人がいた。
ミカはセイアの顔を見るなり、身を乗り出した。
「どんな運転したの?」
「ただいま、くらいは言ってもらいたいね」
「あ、お帰り!」
「ただいま」
セイアは菓子の袋を卓へ置いた。
ナギサが、鞄の横から少し覗いている白いものへ目を留める。
「そちらも、お土産ですか?」
「これは、自分で取ったものだよ」
ロボットを出す。
ミカが手を伸ばしかけ、セイアを見る。
頷くと、嬉しそうに受け取った。
「かわいい。何回?」
「四回」
「結構やったね」
「レースより、思い通りにならなかった」
ナギサは、端末の結果へ目を戻した。
「レースも、二位のようですが」
「こちらは、相手が手強かったのでね」
セイアは椅子へ座った。
少し疲れていた。
足も、指も。
けれど、話す前に休みたくなるような疲れではなかった。
◇
動画を見せると、ミカは声を上げた。
「近い近い! え、ここ抜いたの?」
「ああ。そのあと、抜き返された」
「うわあ……」
ナギサは黙って見ていた。
白い車が縁石へ乗ったところで、カップを持つ手が止まる。
次の曲がり角で、眉が少し寄った。
セイアは、その表情に見覚えがあった。
「……ナギサ」
「何ですか」
「君は、乗っていないよ」
「分かっています」
返事が早かった。
ミカが笑う。
ナギサは画面から目を離し、小さく息をついた。
「ゲームでよかったです」
「私も、そう思った」
セイアは素直に答えた。
ナギサが、少し意外そうにこちらを見る。
「車を壊すことも、隣の君を気にすることもなく、思い切り走れたのでね」
「後半については、普段も十分に気にしてください」
「心得ているよ」
「本当に?」
ミカが横から言う。
セイアは、今度はお茶を飲んだ。
◇
「でも、楽しそう」
ミカが言った。
見ていたのは、走行中の動画ではなく、モモイから届いた写真だった。
セイアが、少し身を乗り出して笑っている。
ユズは隣で真剣に前を見ている。
その二人を、周囲の三人が見ていた。
「こんな顔するんだね」
ミカが、もう一度写真を見た。
「どんな顔だい」
「もう一回って言いそうな顔」
セイアは、返事を少し遅らせた。
実際に、何度も言った。
ミカはその間だけで察し、笑い始めた。
ナギサも、口元を押さえる。
セイアは写真を閉じず、もう一度自分で見た。
負けた日だった。
ユズには、一度も勝てなかった。
それなのに、随分と楽しそうだった。
◇
お茶を飲み終える頃、ユズから返事が届いた。
『こちらこそ、またお願いします。次も楽しみにしています。』
セイアは短く返事をし、端末を卓へ置いた。
ミカがロボットを返してくれる。
それを、窓に近い棚へ置いた。
先にある木の船や、旅先で選んだ小さなものの隣へ。
少し、雰囲気が違う。
けれど、青い目はこちらを向いていた。
席へ戻ると、ミカが尋ねた。
「次は勝てそう?」
「それは、分からないね」
セイアは答えた。
今日、ユズは最後まで勝った。
同じことをもう一度すれば勝てる、という相手ではない。
そこが、よかった。
「ただ、もう一度走りたいよ」
ミカが頷いた。
ナギサは空いた皿を少し端へ寄せる。
セイアは端末を開き、最後のレースを呼び出した。
白い車が、青い車の後ろから迫っている。
さっき見たばかりなのに、また少し身体が前へ出た。
「……そこなんだ。次は、もう少し――」
「セイアちゃん」
ミカが笑いながら言った。
「今、お茶会だよ?」
セイアは画面から顔を上げた。
ナギサも笑っていた。
少しだけ、気恥ずかしい。
それでも画面を閉じる前に、最後の直線まで見た。
青い車が先に線を越える。
白い車が、そのあとへ続く。
セイアは、今度こそ端末を伏せた。
「……うん。やはり、悔しいね」
その声を聞いて、二人がまた笑った。