その駅で降りること自体は、珍しくなかった。
百合園セイアは改札を抜け、人の流れから少し外れたところで足を止めた。
いつもの出口は、右にある。
案内板を見なくても分かる。そこから先も、何度か通った道だった。用事を済ませるために歩き、終われば同じ駅へ戻ってくる。
けれど今日は、待ち合わせもなければ、届ける書類もなかった。
シャーレへ向かう予定もない。
セイアは頭上の案内を見た。
左の出口の下に、商業施設と書店の名前が並んでいる。
少し離れたところには、公園へ向かう矢印もあった。
右から、急ぎ足の生徒が来る。
セイアは道を空け、それから左へ歩き出した。
◇
通路を進むと、窓の向こうに大きな広場が見えた。
真ん中には、丸い噴水がある。
水が高く上がるわけではない。浅い水面から細い線が幾つも立ち、それが一定の間隔で低くなったり、また揃って上がったりしていた。
その周りを、さまざまな制服の生徒が歩いている。
同じ制服の二人が別々の方向へ去り、違う制服の三人が一緒に店へ入った。
配達用の箱を積んだロボットが、その間を慎重に進んでいく。
セイアは広場へ出て、一度だけ駅の建物を振り返った。
反対側から見た駅は、あまり知っているものに見えなかった。
乗り換えに使う通路の、外側の壁。
いつもは見上げる必要のなかった大きな時計。
その下に、小さなパン屋があった。
「……ここに、店があったんだね」
声に出してから、少し笑った。
店が隠れていたわけではない。
ただ、こちらへ出たことがなかっただけだ。
時計を見る。
まだ、午前中だった。
まずは、書店へ行ってみようと思った。
◇
書店は、駅と繋がった建物の上階にあった。
入口へ着く前に、文具や雑貨の売り場を通る。
棚には、色のよく似た鞄が並んでいた。隣には、色は全く違うのに、形は同じ靴が並んでいる。
試しに触ってよいと書かれた布の見本。
音を聞くための機械。
小さな箱へ一つずつ収められた菓子。
立ち止まろうと思えば、いつまでも立ち止まれそうだった。
セイアは、そのうち一つの棚へ近づいた。
透明なガラスの中に、小さな時計が収められている。
針は、どれも同じ時刻を示していた。
けれど、一つだけ、他より少し大きく秒の音が聞こえる。
耳を近づけていると、店員の生徒が声をかけた。
「気になりますか?」
「音が違うんだね」
「静かなものを選ぶ方もいれば、音がある方が落ち着くという方もいます」
セイアはもう一度、その時計を見た。
正確な時刻を知るだけなら、端末で足りる。
それでも、ここには何種類も並んでいる。
「買うかどうかは、まだ分からないよ」
「ええ。どうぞ、ゆっくり見ていってください」
店員はそう言って、少し離れたところへ戻った。
セイアは、もうしばらく秒針を眺めた。
そして、礼を言ってから書店へ向かった。
◇
旅行の棚へ着くと、まず遠くの土地の本が目に入った。
雪の深い街。
海へ張り出した桟橋。
山の上の駅。
頁を開くと、どれも行ってみたくなる。
セイアは一冊を手に取り、何頁か読んだ。
そのままレジへ向かいかけて、棚の端の小さな案内に気づいた。
『駅から歩くD.U.』
厚い旅行案内ではない。
薄い冊子で、写真より地図の方が大きかった。
セイアは、そちらも開いてみた。
今いる駅。
先ほど眺めた噴水。
その先の通りに、小さな飲食店や公園の印がついている。
反対側の頁には、窓から街を見渡せる施設の案内があった。
セイアは二冊を見比べた。
遠くの街へ行く予定は、まだない。
ここには、もう来ている。
少し迷ってから、厚い方を棚へ戻した。
「今日は、こちらにしておこう」
レジへ持っていくと、店員が小さな紙を挟んでくれた。
「この辺り、店舗の入れ替わりがあったので。新しい案内も一緒にどうぞ」
見てみると、幾つかの店に印がついている。
新しく開いたところ。
場所を移したところ。
セイアは冊子へ紙を収めた。
今日歩く街について、もう一枚、知らなかったものが増えた。
◇
文具売り場では、ペンを試した。
買うつもりがあったわけではない。
試し書きの紙の上に、いろいろな人の書いた文字が重なっていたのだ。
名前。
丸。
知らない計算式。
大きく書かれた「眠い」という二文字。
その横に、小さく「私も」と書かれている。
セイアは少し笑い、空いているところへペンを置いた。
何を書くか、考える。
署名ではなくていい。
誰かへ渡すものでもない。
『昼食未定』
書いてから、少し見た。
線は細く、書き心地も悪くない。
けれど、書いた内容の方が気になった。
時計を見る。
そろそろ、そういう時刻だった。
セイアはペンを戻した。
かわりに、隣の棚から小さな無地の手帖を一冊取る。
鞄へ入れても邪魔にならない大きさだった。
表紙は、落ち着いた青。
何を書くかは、まだ決めなくてもよかった。
◇
昼食を探すつもりで上がった階には、店がたくさんあった。
入口の案内には、料理の写真が並んでいる。
魚の焼き色。
濃いソースのかかった肉。
湯気の立つ麺。
薄く焼かれた生地の上に、色鮮やかな具が載ったもの。
山海経で食べたものに似た、蒸籠の写真もあった。
セイアは案内板の前へ立った。
空腹だった。
その点に迷いはない。
問題は、食べたいものが一つではなかったことだ。
魚の店の前まで歩く。
今日の料理を書いた黒板を見る。
戻る途中で、煮込み料理の見本が目に入る。
足を止める。
もう一度、案内板へ戻る。
今度は、さっき見なかった麺料理の写真が気になった。
「……困ったね」
先へ進むための道は、幾つもある。
どれも、昼食へは辿り着く。
そのことが、かえって難しかった。
◇
「分かりますわ」
隣から、静かな声がした。
セイアが顔を向ける。
黒舘ハルナが、同じ案内板を見ていた。
こちらを見返すと、その目が少しだけ丸くなった。
「あら。セイアさんでしたのね」
「こんにちは、ハルナ。君も、昼食を?」
「ええ」
ハルナは微笑み、魚料理の写真へ視線を戻した。
「先ほど、こちらをご覧になってから、煮込み料理のお店へ。そして、またこちらへ戻っていらしたでしょう」
「随分、よく見ていたんだね」
「そうした迷い方をなさる方は、気になりますもの」
セイアは案内板を見た。
知らないうちに、観察される側になっていたらしい。
「君なら、もう決まっているのでは?」
「いえ。実は、私もまだ」
「……それなら、相談相手が増えただけかな」
「一人で悩むよりは、豊かな時間になるかもしれませんわ」
ハルナは、少し楽しそうだった。
セイアも、すぐには否定できなかった。
◇
ハルナは、魚の店が気になっていると言った。
「皮の焼き方がよさそうですわね。ただ、こちらの煮込みも、今の時間には魅力的ですし」
「私は、その二つに麺の店も加わってしまったところだよ」
「でしたら、あちらもご覧になりました?」
示されたのは、少し奥にある洋食店だった。
店頭の小さな黒板に、魚料理と煮込みの両方が書かれている。
セイアは近づいた。
白身魚のムニエル。
牛肉と根菜の煮込み。
スープと、パンかご飯がつくらしい。
「……候補を減らす相談だったつもりなんだが」
「あら。お店の数は、減りましたでしょう?」
「確かに」
セイアは笑った。
その時、入口の扉が開いた。
食事を終えた客が二人出てくる。
扉の隙間から、焼いたバターの匂いがした。
少し遅れて、濃いソースの香りも届く。
二人は同時に、店の奥を見た。
店員の生徒が、こちらに気づいた。
「いらっしゃいませ。お二人ですか?」
セイアとハルナは、一度、互いを見る。
「……ご一緒しても?」
ハルナが尋ねた。
「ああ。ここまで相談して、別々に食べるのも惜しいね」
案内板の前で立ち止まっていた時間は、ようやく終わった。
◇
窓から少し離れた席へ座る。
卓の上には、白い小さな花が一輪だけ挿してあった。
店内は、話し声が聞こえる程度に賑わっている。
厨房から、皿を置く音がする。
セイアは煮込みを選んだ。
ハルナは、魚料理。
どちらもパンにした。
注文を終えると、ハルナは品書きを閉じた。
セイアも同じようにする。
「選んでしまうと、少し落ち着くね」
「ええ。ただ、運ばれてくるまでは、別の楽しみがありますわ」
ハルナは、厨房の方へ目を向けた。
何かを厳しく見張っているのではない。
次に運ばれてくる皿を、待っている顔だった。
セイアは水を飲んだ。
さっきまで、どちらを選ぶかで頭の中がいっぱいだった。
今は、煮込みのことを考えている。
案外、単純なものだと思った。
◇
最初に、スープが来た。
小さな器に、淡い橙色のポタージュが入っている。
匙を入れると、表面の細いクリームがゆっくりほどけた。
口へ運ぶ。
柔らかな甘みがある。
そのあとに、野菜の香りが少し残った。
ハルナも一口飲み、静かに器を置いた。
「温かいうちにいただけるのは、嬉しいですわね」
セイアは頷いた。
窓の向こうで、店の案内を見ている二人連れがいた。
一人がどこかを指し、もう一人が首を傾げる。
こちらも、少し前まではああしていた。
スープを飲み終える頃、料理が運ばれてきた。
◇
煮込みの器は、深く、重そうだった。
濃い色のソースの中に、牛肉と人参、玉葱が収まっている。
脇には、表面を焼いたじゃがいも。
セイアは、まず肉へ匙を入れた。
少し力をかけると、繊維に沿って柔らかく分かれる。
湯気が上がった。
一口。
肉の味のあとから、煮詰めた野菜の甘みが来る。
濃いけれど、ただ重いだけではない。
飲み込んだところで、パンへ手が伸びた。
端をちぎる。
薄い皮が、小さな音を立てて割れた。
ソースを少しつけて食べると、肉だけの時よりも、酸味がよく分かった。
セイアは器を見た。
案内の写真では、全部が同じ茶色に見えていた。
実際には、肉を食べるか、野菜を食べるか、パンへつけるかで、少しずつ違う。
次は、玉葱をすくった。
形を残したまま柔らかくなっていて、匙の縁で簡単に切れた。
「……こちらにして、よかった」
独り言のつもりだった。
ハルナが、顔を上げた。
「もう、決まりましたのね」
「何が?」
「今日のお昼の答えですわ」
セイアは、一度、自分の器を見た。
それから笑った。
「食べ始めてから出す答えなら、随分と楽だね」
「食べる前に、全て分かってしまってはつまらないでしょう?」
ハルナはそう言って、自分の皿へ目を戻した。
◇
魚の表面には、薄い焼き色がついていた。
ナイフを入れると、その下から白い身が見える。
ハルナは、最初の一口にはレモンを使わなかった。
少し味わってから、次の一片へだけ搾る。
セイアは、その動きを見ていた。
「最初から全部には、かけないんだね」
「このままの香りも、好きですので」
ハルナは、焼き色のついたところへフォークを入れた。
「ただ、こちらの野菜といただく時には、少し加えたくなりますわ」
添えられていたのは、青い葉野菜と、小さな人参だった。
魚だけ。
野菜と一緒。
レモンを加えたところ。
同じ一皿の中で、彼女は食べるものを選び直している。
セイアも、自分の皿のじゃがいもへ目を向けた。
煮込みの汁へ全部浸す前に、端の焼けたところを一口食べる。
表面には、少し硬さがあった。
その内側は柔らかい。
次は、ソースへ。
そちらも、美味しかった。
「……迷う場所が、卓の上へ移ったらしい」
セイアが言うと、ハルナは小さく笑った。
「今度は、両方いただけますもの」
◇
料理が美味しかったので、会話は何度か途切れた。
その間も、居心地は悪くなかった。
相手が食べている時に、新しい質問を重ねなくてもよい。
自分も、温かいものを温かいうちに食べられる。
セイアは最後のパンをちぎった。
皿に残ったソースへ触れさせる。
向かいでも、ハルナが小さく残ったバターのソースを、パンへつけていた。
ほとんど同じ動きになった。
目が合う。
セイアが先に笑った。
「見逃せないところは、同じようだね」
「ええ。ここまでいただいて、ようやく一皿ですもの」
ハルナの皿は、きれいになっていた。
セイアも最後の一口を食べ、匙を置いた。
満足していた。
もっと何かを頼みたいというより、今の味を、少しそのままにしておきたかった。
◇
食後の飲み物を待つ間、ハルナが尋ねた。
「今日は、どちらまでいらっしゃる予定ですの?」
「D.U.の中を、適当に歩くつもりだよ。午後の行き先は、まだ決めていない」
「それで、お昼だけあれほど真剣に」
「君も、同じ場所で悩んでいたではないか」
「ええ。ですから、よく分かりますわ」
ハルナは悪びれずに微笑んだ。
セイアも笑う。
「君は、このあとも店を?」
「寄りたいところがあります。今日は一人ですので、少しゆっくり見て回ろうかと」
詳しい場所までは尋ねなかった。
向こうも、同行を求めなかった。
お茶が運ばれてくる。
二人とも、先ほどよりゆっくりと飲んだ。
◇
店を出ると、案内板の前には別の客が立っていた。
魚料理の写真を見ている。
次に、隣の写真へ。
それから、少し遠い店へ目を向けた。
セイアは、思わずハルナを見た。
彼女も気づいていたらしい。
二人とも何も言わなかったが、同じことを思ったのは分かった。
「それでは。楽しい昼食でしたわ」
「こちらこそ。よい一日を」
「セイアさんも」
ハルナは反対側の通路へ歩いていった。
人の間へ入ると、長い髪が一度だけ揺れ、そのあとで姿が見えなくなった。
セイアは、しばらくその方を見ていた。
一時間にも満たない同席だった。
それでも、一人で食べていたら見なかったはずの、皿の上の食べ方が残っていた。
鞄を持ち直す。
午後の分の街は、まだほとんど歩いていない。
◇
建物を出ると、風があった。
昼前よりも人が増えている。
広場の噴水の周りでは、買い物袋を持った生徒たちが座っていた。
セイアは端の腰掛けへ座り、買ったばかりの冊子を開いた。
現在地を探す。
写真で見た通りへは、市内を走るバスでも行けるらしい。
歩くには、少し遠かった。
冊子を閉じ、停留所へ向かう。
次に来る便の表示を確かめた。
待っている人たちは、セイアほど頻繁には案内を見なかった。
それぞれ端末を見たり、荷物を持ち替えたりしている。
ここから乗ることに、慣れているのだろう。
バスが来た。
セイアも、その列の中へ入った。
◇
窓際へ座ると、さっきまで見上げていた店の庇が、少し低く見えた。
バスが動く。
大きな交差点を曲がり、広い道へ入った。
高い建物の間に、急に低い店が現れる。
短い高架をくぐる。
横の道路では、別の色のバスが同じ方向へ走っていた。
信号で並び、次の交差点で分かれる。
セイアは、自分の乗る車内を見た。
楽器のケースを抱えた生徒。
紙袋の中を何度も確かめている生徒。
膝へ小さな花束を置いた犬の乗客。
皆が同じところへ行くわけではない。
その途中だけ、同じ揺れの中にいた。
次の停留所が近づいた時、隣の席から声がした。
「すみません、降ります」
「ああ」
セイアは足を引き、鞄を抱えた。
通り過ぎた生徒が会釈する。
扉が閉まり、またバスが動き始めた。
それだけのやり取りだった。
けれど、どこかの学園の代表として向かい合うより、ずっと近いところに他校の生徒がいた。
◇
シラトリ区で降りると、駅前とは少し違う空気があった。
通りは広い。
けれど、足を止める店の大きさは、先ほどより小さかった。
建物の新しい壁の隣に、使い込まれた看板がある。
歩道の舗装は途中で色が変わり、植えられた街路樹にはまだ支えがついていた。
配達の荷物を受け取っている店。
椅子を外へ出して、窓を拭いている生徒。
扉へ本日の営業時間を貼っているロボット。
セイアは、ゆっくり歩いた。
冊子に載っていた角を曲がる。
思っていたより細い道だった。
その先に、小さな広場があった。
◇
広場のベンチは、半分ほど埋まっていた。
昼食を食べている生徒がいる。
膝にノートを広げ、何かを書いている生徒もいた。
端の方では、制服の違う二人が、同じ携帯端末を覗き込んで笑っている。
セイアは木陰の空いたところへ座った。
鞄から冊子を出しかけ、それをやめて、今朝買った手帖を出す。
一頁目を開く。
何を書こうか、考えた。
今日行った店。
食べたもの。
これから向かう場所。
どれも書ける。
けれど、まだ一つも書かなかった。
隣のベンチで、包み紙の擦れる音がした。
生徒がサンドイッチを半分に分け、隣へ渡している。
受け取った方が、礼を言って食べ始めた。
セイアは少しだけ笑った。
そして手帖の隅へ、小さく書いた。
『日陰の席が空いていた。』
書き終えてから見ると、旅行記としては、随分とささやかだった。
それでも、今の自分には大事なことだった。
◇
隣の生徒たちは、すぐには立ち上がらなかった。
食べ終えた包みを畳み、どちらが捨てに行くかを決める。
そのあとで、一人がセイアへ顔を向けた。
「すみません。その冊子、駅で売ってるやつですか?」
「ああ。書店で買ったよ」
「やっぱり。ここ、載ってるんだ」
セイアは頁を開き、広場の写真を見せた。
生徒が近づく。
「ほんとだ。でも、写真、こっちからなんですね」
ベンチの反対側を指した。
写真は、花壇を手前にして撮られている。
実際に座っている場所からは、その花壇の後ろ側が見えた。
「普段、こちらへ来るのかい」
「たまに。あそこの店で買って、ここで食べるんです」
示されたのは、広場の向こうの小さな店だった。
特別に飾り立てられた入口ではない。
窓に、サンドイッチとスープの品書きが貼られていた。
「写真で見ると、ちょっと違う場所みたい」
生徒はそう言って笑い、友人のところへ戻った。
二人が去ったあと、セイアはもう一度冊子を見た。
見知らぬ場所として紹介されているものが、誰かにとっては、昼食の包みを開くいつもの場所だった。
その違いを、今日はどちら側からも少し見られた。
◇
午後の散歩は、少しずつ速度が落ちていった。
通りの角にあった古い喫茶店へ入り、炭酸の入った果物の飲み物を頼む。
細いグラスの中を、泡が上がった。
底には、細かく切った柑橘が沈んでいる。
混ぜてから一口飲むと、甘さより先に、冷たさと酸味が来た。
歩いたあとの口に、ちょうどよかった。
窓際の席からは、向かいの花屋が見える。
店員が鉢を一つずつ動かしていた。
高いところのものを下ろし、別のものを表へ出す。
日が当たる場所が変わったのかもしれない。
セイアは、グラスの外側へついた水滴を紙ナプキンで押さえた。
今日は、何も待っていない。
修理が終わる連絡も、待ち合わせの時刻もない。
飲み終えたら、立てばよかった。
飲み終えても、少しだけ座っていた。
◇
店を出ると、通りの影が伸びていた。
来た方へ少し戻り、今度は横道を抜ける。
冊子で見つけた展望フロアのある建物へ向かった。
遠くからは高く見えた建物も、足元へ来ると入口を探す方が忙しい。
商店の入口。
事務所へ向かう入口。
案内板を見て、ようやく展望フロアへ上がるエレベーターを見つけた。
乗り込むと、ほかにも数人の客がいた。
誰かが行き先のボタンを押す。
扉が閉まる。
上がっていく数字を見ていると、身体が少しだけ床へ押しつけられる感じがした。
ほどなく、それも消える。
扉の向こうは、思っていたより静かだった。
◇
窓は、大きかった。
近づくと、街が下へ広がっていた。
道路。
線路。
低い屋根の集まりと、その向こうに立つ大きな建物。
屋上に何もないところもあれば、緑のあるところもある。
下から歩いている時には、どの店の入口かを見ていた。
ここでは、建物の後ろ側や、通り同士の繋がりが見えた。
セイアは冊子の地図を開いた。
今いる場所を確かめる。
昼食を取った建物は、もう少し向こうだろうか。
駅の位置は、比較的すぐに分かった。
そこから伸びる道路を目で辿り、途中で見失う。
地下を通ったのか、建物の陰へ入ったのか。
高いところへ来れば、何もかもよく分かるわけではなかった。
「……歩いた方が分かるところも、多いね」
小さく呟く。
地図を閉じ、今度は何かを探さずに街を見た。
◇
少し離れた窓の前で、二人の生徒が話していた。
「あれ、朝入った店じゃない?」
「一つ隣だと思う」
「え、あんなに歩いた?」
「途中、戻ったじゃん」
セイアは、その会話に少しだけ笑った。
自分も今日、何度か同じ場所へ戻った。
特に、昼食の案内板の前で。
あの時の店は、ここからでは見つけられなかった。
同じような窓が並ぶ建物の中の、どこかにある。
そこへ、皿が運ばれてきた。
湯気が上がり、パンをちぎった。
その一時間だけを思い出す方が、建物を探すより簡単だった。
セイアは窓へ近づきすぎないよう、一歩下がった。
光の向きが、少しずつ変わっていた。
◇
夕日は建物の間へ沈んでいった。
空が一度に暗くなるわけではない。
上の方には明るさが残り、道路のあたりから先に、灯りが目立ち始めた。
信号の赤。
列車の窓。
店先の看板。
向かいの建物の一室に、白い光が点く。
少しして、その隣も明るくなる。
朝、駅から出てきた時には、人の流れの中にいた。
今は、その人たちの行き先の一部を、遠くから見ていた。
どこへ帰るのか。
何を買うのか。
これから誰と会うのか。
分からない。
分からなくても、灯りが増えていくところは見ていられた。
セイアは、すぐには写真を撮らなかった。
窓の向こうに、まだもう少し明るいところがある。
それが暗くなるまで、待ってみようと思った。
◇
帰る時刻が近づき、ようやく端末を取り出した。
一枚だけ、街を撮る。
画面で確かめると、窓の内側の灯りが、少し写り込んでいた。
自分の姿も、端に薄く見える。
撮り直そうとして、やめた。
今日、ここから見た景色としては、これでよかった。
ナギサへ帰る時刻を伝える。
続いて、ミカからの連絡を開いた。
『D.U.って、今日は何してたの?』
セイアは、写真を添えた。
『本屋と、店を幾つか。それから、街を上から見ていたよ。』
送ったあと、少し考えた。
昼食のことが抜けている。
『お昼は、ハルナと食べた。』
今度は、返事が早かった。
『えっ。ハルナって..あの?そこが一番気になるんだけど!?』
セイアは小さく笑った。
『帰ったら話すよ。』
端末をしまい、エレベーターへ向かった。
◇
地上へ戻ると、街の音が近くなった。
人の話し声。
車の走る音。
入口から流れてくる店内放送。
高いところで眺めていた灯りの下へ、自分も戻ってきた。
駅へ向かう道には、昼より長い列のできている店があった。
小さなパン屋だった。
朝、駅の反対側で見かけた店と同じ袋を持った客が出てくる。
セイアは少しだけ足を止めた。
夕食は、帰ってから食べる。
だから、大きなものはいらない。
窓の中に並ぶパンを見ていると、店員が新しい天板を持ってきた。
丸いバターロール。
表面に、細い焼き色がついている。
セイアは列の最後へ並んだ。
◇
番が来た時には、注文が決まっていた。
「その小さいものを、三つお願いするよ」
「こちらですね」
紙袋へ、一つずつ入れてもらう。
受け取ると、底がほんのり温かかった。
昼には、店へ入るまでにあれほど迷った。
今は、天板が見えた時点で決まっていた。
何が違うのか、考えかける。
それから、袋の口へ顔を少し近づけた。
バターの匂いがする。
今は、それで十分だった。
◇
帰りの駅では、右へ曲がった。
朝、出てこなかった方へ戻ると、通路には見覚えがあった。
いつもの案内板。
何度も通った階段。
けれど、今日はその向こうに、噴水と書店とパン屋があることを知っている。
セイアは改札の前で、切符を出した。
鞄の中には、薄い冊子と、小さな手帖。
レストランの会計でもらった紙が、その間に挟まっていた。
取り出すと、人数の欄に二人と書いてある。
セイアは、それを少し眺めた。
朝、家を出た時には、一人分の予定だった。
もっとも、予定と呼べるほどのものは、ほとんどなかったのだけれど。
紙を手帖へ戻し、改札を通った。
◇
列車の座席へ腰を下ろすと、足に疲れが出た。
長い距離を一度に歩いたわけではない。
店へ入り、階段を上がり、座り、また歩いた。
それらを合わせると、一日分になっていた。
セイアは鞄から手帖を出した。
一頁目には、昼間書いた一行だけがある。
『日陰の席が空いていた。』
その下へ、今日の続きを書いた。
駅の左側の出口。
大きな書店。
煮込みの美味しかった店。
シラトリ区の広場。
窓に映った夕方の街。
書いていると、全部を同じ大きさで残すのは難しかった。
昼食の店の名前は短い。
ハルナと何を話したかを書こうとすると、それだけで何行も使う。
セイアは少し迷い、店の名前の横へ小さく付け加えた。
『決まるまでは、二人とも長かった。』
読み返して、笑った。
◇
窓の外には、夜の街が流れていた。
明るいところも、暗いところもある。
線路の近くの建物では、一つの窓だけが開いていた。
中に何があるのかまでは、分からない。
次の瞬間には、もう後ろへ過ぎている。
セイアは手帖を閉じた。
旅行案内に載っている場所は、今日、全部回ったわけではない。
むしろ、載っていない店や、ただ座っていた場所の方が多かった。
それでも、行かなかった場所を数える気にはならなかった。
足元の鞄へ手を触れる。
紙袋の中のパンは、まだ少し温かかった。
◇
トリニティへ戻ると、談話室にはナギサとミカがいた。
セイアが紙袋を置くと、ミカがすぐに顔を上げる。
「お帰り。で、お昼は?」
「ただいま。まずは荷物を置かせてほしいね」
「それから聞く」
セイアは笑い、鞄を椅子の横へ収めた。
ナギサが紙袋を見た。
「パンですか?」
「ああ。駅で、ちょうど焼き上がったところだったのでね」
「夕食に添えましょうか」
「そうしてもらえると嬉しい」
ミカはまだ、こちらを見ている。
セイアは椅子へ座り、ようやく答えた。
「ハルナとは、昼食の店を決められずにいたところで会ったんだ」
「それで、おすすめの店に連れてってもらったの?」
「いや」
セイアは首を振った。
「彼女も、決まっていなかった」
ミカが一拍置いてから笑う。
ナギサも、小さく口元を緩めた。
「では、お二人で決められたのですね」
「ああ。少し、候補を増やしてから」
「相談したのに?」
「食べ物の話だったのでね」
ミカはもう一度笑った。
セイアも、自分で話していて、少し可笑しかった。
◇
食事の話をしてから、午後の話もした。
冊子に載っていた広場を、普段から使っている生徒がいたこと。
高いところへ上がっても、昼食の店は見つけられなかったこと。
パンだけは、すぐに決まったこと。
ミカは写真を見て、窓へ映った灯りを指した。
「これ、セイアちゃんも写ってる?」
「少しだけね」
「ほんとだ」
ナギサは、冊子に挟まれていた新しい店舗案内を読んでいた。
「こちらの本屋、駅から繋がっているのですね」
「ああ。私も、今日初めて入ったよ」
「何度か通ったことのある駅でしょう?」
「いつもと違う出口へ出たんだ」
ナギサが顔を上げる。
セイアは、冊子の地図を示した。
知っている道は、右にある。
今日歩いたのは、左だった。
指で辿ると、その違いは小さかった。
けれど話を終えるまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。
◇
自分の部屋へ戻ってから、セイアは手帖を机へ置いた。
最初の頁を開く。
書き足した行の間に、会計の紙が挟まっている。
それを少しずらすと、まだ空いている場所があった。
ペンを取る。
次にD.U.へ行く時、どこへ入ろうか。
昼に選ばなかった魚の店も気になる。
今日、眺めるだけだった時計も、もう一度見てみたい。
考えてから、セイアは何も書かずにペンを置いた。
次の予定は、まだなくてもよい。
ただ、頁のいちばん下へ、今日のことを一つだけ足した。
『左の出口から。』
読み返す。
それだけでは、ほとんど何も伝わらない。
けれど、自分には分かった。
大きな時計の下のパン屋も。
何度も戻った案内板も。
昼食の向かいに座った相手も。
夕方、窓の向こうで少しずつ増えていった灯りも。
セイアは手帖を閉じ、次に持って出る鞄へ入れた。
窓の外には、トリニティの夜があった。
ここも、遠くから見れば、誰かが眺める灯りの一つになるのだろう。
セイアは机の灯りを消し、部屋の奥へ戻った。