百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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10.シラトリ区・中央通り #昼食未定 #美食の研究 #街の灯り

 

 その駅で降りること自体は、珍しくなかった。

 

 百合園セイアは改札を抜け、人の流れから少し外れたところで足を止めた。

 

 いつもの出口は、右にある。

 

 案内板を見なくても分かる。そこから先も、何度か通った道だった。用事を済ませるために歩き、終われば同じ駅へ戻ってくる。

 

 けれど今日は、待ち合わせもなければ、届ける書類もなかった。

 

 シャーレへ向かう予定もない。

 

 セイアは頭上の案内を見た。

 

 左の出口の下に、商業施設と書店の名前が並んでいる。

 

 少し離れたところには、公園へ向かう矢印もあった。

 

 右から、急ぎ足の生徒が来る。

 

 セイアは道を空け、それから左へ歩き出した。

 

     ◇

 

 通路を進むと、窓の向こうに大きな広場が見えた。

 

 真ん中には、丸い噴水がある。

 

 水が高く上がるわけではない。浅い水面から細い線が幾つも立ち、それが一定の間隔で低くなったり、また揃って上がったりしていた。

 

 その周りを、さまざまな制服の生徒が歩いている。

 

 同じ制服の二人が別々の方向へ去り、違う制服の三人が一緒に店へ入った。

 

 配達用の箱を積んだロボットが、その間を慎重に進んでいく。

 

 セイアは広場へ出て、一度だけ駅の建物を振り返った。

 

 反対側から見た駅は、あまり知っているものに見えなかった。

 

 乗り換えに使う通路の、外側の壁。

 

 いつもは見上げる必要のなかった大きな時計。

 

 その下に、小さなパン屋があった。

 

「……ここに、店があったんだね」

 

 声に出してから、少し笑った。

 

 店が隠れていたわけではない。

 

 ただ、こちらへ出たことがなかっただけだ。

 

 時計を見る。

 

 まだ、午前中だった。

 

 まずは、書店へ行ってみようと思った。

 

     ◇

 

 書店は、駅と繋がった建物の上階にあった。

 

 入口へ着く前に、文具や雑貨の売り場を通る。

 

 棚には、色のよく似た鞄が並んでいた。隣には、色は全く違うのに、形は同じ靴が並んでいる。

 

 試しに触ってよいと書かれた布の見本。

 

 音を聞くための機械。

 

 小さな箱へ一つずつ収められた菓子。

 

 立ち止まろうと思えば、いつまでも立ち止まれそうだった。

 

 セイアは、そのうち一つの棚へ近づいた。

 

 透明なガラスの中に、小さな時計が収められている。

 

 針は、どれも同じ時刻を示していた。

 

 けれど、一つだけ、他より少し大きく秒の音が聞こえる。

 

 耳を近づけていると、店員の生徒が声をかけた。

 

「気になりますか?」

 

「音が違うんだね」

 

「静かなものを選ぶ方もいれば、音がある方が落ち着くという方もいます」

 

 セイアはもう一度、その時計を見た。

 

 正確な時刻を知るだけなら、端末で足りる。

 

 それでも、ここには何種類も並んでいる。

 

「買うかどうかは、まだ分からないよ」

 

「ええ。どうぞ、ゆっくり見ていってください」

 

 店員はそう言って、少し離れたところへ戻った。

 

 セイアは、もうしばらく秒針を眺めた。

 

 そして、礼を言ってから書店へ向かった。

 

     ◇

 

 旅行の棚へ着くと、まず遠くの土地の本が目に入った。

 

 雪の深い街。

 

 海へ張り出した桟橋。

 

 山の上の駅。

 

 頁を開くと、どれも行ってみたくなる。

 

 セイアは一冊を手に取り、何頁か読んだ。

 

 そのままレジへ向かいかけて、棚の端の小さな案内に気づいた。

 

『駅から歩くD.U.』

 

 厚い旅行案内ではない。

 

 薄い冊子で、写真より地図の方が大きかった。

 

 セイアは、そちらも開いてみた。

 

 今いる駅。

 

 先ほど眺めた噴水。

 

 その先の通りに、小さな飲食店や公園の印がついている。

 

 反対側の頁には、窓から街を見渡せる施設の案内があった。

 

 セイアは二冊を見比べた。

 

 遠くの街へ行く予定は、まだない。

 

 ここには、もう来ている。

 

 少し迷ってから、厚い方を棚へ戻した。

 

「今日は、こちらにしておこう」

 

 レジへ持っていくと、店員が小さな紙を挟んでくれた。

 

「この辺り、店舗の入れ替わりがあったので。新しい案内も一緒にどうぞ」

 

 見てみると、幾つかの店に印がついている。

 

 新しく開いたところ。

 

 場所を移したところ。

 

 セイアは冊子へ紙を収めた。

 

 今日歩く街について、もう一枚、知らなかったものが増えた。

 

     ◇

 

 文具売り場では、ペンを試した。

 

 買うつもりがあったわけではない。

 

 試し書きの紙の上に、いろいろな人の書いた文字が重なっていたのだ。

 

 名前。

 

 丸。

 

 知らない計算式。

 

 大きく書かれた「眠い」という二文字。

 

 その横に、小さく「私も」と書かれている。

 

 セイアは少し笑い、空いているところへペンを置いた。

 

 何を書くか、考える。

 

 署名ではなくていい。

 

 誰かへ渡すものでもない。

 

『昼食未定』

 

 書いてから、少し見た。

 

 線は細く、書き心地も悪くない。

 

 けれど、書いた内容の方が気になった。

 

 時計を見る。

 

 そろそろ、そういう時刻だった。

 

 セイアはペンを戻した。

 

 かわりに、隣の棚から小さな無地の手帖を一冊取る。

 

 鞄へ入れても邪魔にならない大きさだった。

 

 表紙は、落ち着いた青。

 

 何を書くかは、まだ決めなくてもよかった。

 

     ◇

 

 昼食を探すつもりで上がった階には、店がたくさんあった。

 

 入口の案内には、料理の写真が並んでいる。

 

 魚の焼き色。

 

 濃いソースのかかった肉。

 

 湯気の立つ麺。

 

 薄く焼かれた生地の上に、色鮮やかな具が載ったもの。

 

 山海経で食べたものに似た、蒸籠の写真もあった。

 

 セイアは案内板の前へ立った。

 

 空腹だった。

 

 その点に迷いはない。

 

 問題は、食べたいものが一つではなかったことだ。

 

 魚の店の前まで歩く。

 

 今日の料理を書いた黒板を見る。

 

 戻る途中で、煮込み料理の見本が目に入る。

 

 足を止める。

 

 もう一度、案内板へ戻る。

 

 今度は、さっき見なかった麺料理の写真が気になった。

 

「……困ったね」

 

 先へ進むための道は、幾つもある。

 

 どれも、昼食へは辿り着く。

 

 そのことが、かえって難しかった。

 

     ◇

 

「分かりますわ」

 

 隣から、静かな声がした。

 

 セイアが顔を向ける。

 

 黒舘ハルナが、同じ案内板を見ていた。

 

 こちらを見返すと、その目が少しだけ丸くなった。

 

「あら。セイアさんでしたのね」

 

「こんにちは、ハルナ。君も、昼食を?」

 

「ええ」

 

 ハルナは微笑み、魚料理の写真へ視線を戻した。

 

「先ほど、こちらをご覧になってから、煮込み料理のお店へ。そして、またこちらへ戻っていらしたでしょう」

 

「随分、よく見ていたんだね」

 

「そうした迷い方をなさる方は、気になりますもの」

 

 セイアは案内板を見た。

 

 知らないうちに、観察される側になっていたらしい。

 

「君なら、もう決まっているのでは?」

 

「いえ。実は、私もまだ」

 

「……それなら、相談相手が増えただけかな」

 

「一人で悩むよりは、豊かな時間になるかもしれませんわ」

 

 ハルナは、少し楽しそうだった。

 

 セイアも、すぐには否定できなかった。

 

     ◇

 

 ハルナは、魚の店が気になっていると言った。

 

「皮の焼き方がよさそうですわね。ただ、こちらの煮込みも、今の時間には魅力的ですし」

 

「私は、その二つに麺の店も加わってしまったところだよ」

 

「でしたら、あちらもご覧になりました?」

 

 示されたのは、少し奥にある洋食店だった。

 

 店頭の小さな黒板に、魚料理と煮込みの両方が書かれている。

 

 セイアは近づいた。

 

 白身魚のムニエル。

 

 牛肉と根菜の煮込み。

 

 スープと、パンかご飯がつくらしい。

 

「……候補を減らす相談だったつもりなんだが」

 

「あら。お店の数は、減りましたでしょう?」

 

「確かに」

 

 セイアは笑った。

 

 その時、入口の扉が開いた。

 

 食事を終えた客が二人出てくる。

 

 扉の隙間から、焼いたバターの匂いがした。

 

 少し遅れて、濃いソースの香りも届く。

 

 二人は同時に、店の奥を見た。

 

 店員の生徒が、こちらに気づいた。

 

「いらっしゃいませ。お二人ですか?」

 

 セイアとハルナは、一度、互いを見る。

 

「……ご一緒しても?」

 

 ハルナが尋ねた。

 

「ああ。ここまで相談して、別々に食べるのも惜しいね」

 

 案内板の前で立ち止まっていた時間は、ようやく終わった。

 

     ◇

 

 窓から少し離れた席へ座る。

 

 卓の上には、白い小さな花が一輪だけ挿してあった。

 

 店内は、話し声が聞こえる程度に賑わっている。

 

 厨房から、皿を置く音がする。

 

 セイアは煮込みを選んだ。

 

 ハルナは、魚料理。

 

 どちらもパンにした。

 

 注文を終えると、ハルナは品書きを閉じた。

 

 セイアも同じようにする。

 

「選んでしまうと、少し落ち着くね」

 

「ええ。ただ、運ばれてくるまでは、別の楽しみがありますわ」

 

 ハルナは、厨房の方へ目を向けた。

 

 何かを厳しく見張っているのではない。

 

 次に運ばれてくる皿を、待っている顔だった。

 

 セイアは水を飲んだ。

 

 さっきまで、どちらを選ぶかで頭の中がいっぱいだった。

 

 今は、煮込みのことを考えている。

 

 案外、単純なものだと思った。

 

     ◇

 

 最初に、スープが来た。

 

 小さな器に、淡い橙色のポタージュが入っている。

 

 匙を入れると、表面の細いクリームがゆっくりほどけた。

 

 口へ運ぶ。

 

 柔らかな甘みがある。

 

 そのあとに、野菜の香りが少し残った。

 

 ハルナも一口飲み、静かに器を置いた。

 

「温かいうちにいただけるのは、嬉しいですわね」

 

 セイアは頷いた。

 

 窓の向こうで、店の案内を見ている二人連れがいた。

 

 一人がどこかを指し、もう一人が首を傾げる。

 

 こちらも、少し前まではああしていた。

 

 スープを飲み終える頃、料理が運ばれてきた。

 

     ◇

 

 煮込みの器は、深く、重そうだった。

 

 濃い色のソースの中に、牛肉と人参、玉葱が収まっている。

 

 脇には、表面を焼いたじゃがいも。

 

 セイアは、まず肉へ匙を入れた。

 

 少し力をかけると、繊維に沿って柔らかく分かれる。

 

 湯気が上がった。

 

 一口。

 

 肉の味のあとから、煮詰めた野菜の甘みが来る。

 

 濃いけれど、ただ重いだけではない。

 

 飲み込んだところで、パンへ手が伸びた。

 

 端をちぎる。

 

 薄い皮が、小さな音を立てて割れた。

 

 ソースを少しつけて食べると、肉だけの時よりも、酸味がよく分かった。

 

 セイアは器を見た。

 

 案内の写真では、全部が同じ茶色に見えていた。

 

 実際には、肉を食べるか、野菜を食べるか、パンへつけるかで、少しずつ違う。

 

 次は、玉葱をすくった。

 

 形を残したまま柔らかくなっていて、匙の縁で簡単に切れた。

 

「……こちらにして、よかった」

 

 独り言のつもりだった。

 

 ハルナが、顔を上げた。

 

「もう、決まりましたのね」

 

「何が?」

 

「今日のお昼の答えですわ」

 

 セイアは、一度、自分の器を見た。

 

 それから笑った。

 

「食べ始めてから出す答えなら、随分と楽だね」

 

「食べる前に、全て分かってしまってはつまらないでしょう?」

 

 ハルナはそう言って、自分の皿へ目を戻した。

 

     ◇

 

 魚の表面には、薄い焼き色がついていた。

 

 ナイフを入れると、その下から白い身が見える。

 

 ハルナは、最初の一口にはレモンを使わなかった。

 

 少し味わってから、次の一片へだけ搾る。

 

 セイアは、その動きを見ていた。

 

「最初から全部には、かけないんだね」

 

「このままの香りも、好きですので」

 

 ハルナは、焼き色のついたところへフォークを入れた。

 

「ただ、こちらの野菜といただく時には、少し加えたくなりますわ」

 

 添えられていたのは、青い葉野菜と、小さな人参だった。

 

 魚だけ。

 

 野菜と一緒。

 

 レモンを加えたところ。

 

 同じ一皿の中で、彼女は食べるものを選び直している。

 

 セイアも、自分の皿のじゃがいもへ目を向けた。

 

 煮込みの汁へ全部浸す前に、端の焼けたところを一口食べる。

 

 表面には、少し硬さがあった。

 

 その内側は柔らかい。

 

 次は、ソースへ。

 

 そちらも、美味しかった。

 

「……迷う場所が、卓の上へ移ったらしい」

 

 セイアが言うと、ハルナは小さく笑った。

 

「今度は、両方いただけますもの」

 

     ◇

 

 料理が美味しかったので、会話は何度か途切れた。

 

 その間も、居心地は悪くなかった。

 

 相手が食べている時に、新しい質問を重ねなくてもよい。

 

 自分も、温かいものを温かいうちに食べられる。

 

 セイアは最後のパンをちぎった。

 

 皿に残ったソースへ触れさせる。

 

 向かいでも、ハルナが小さく残ったバターのソースを、パンへつけていた。

 

 ほとんど同じ動きになった。

 

 目が合う。

 

 セイアが先に笑った。

 

「見逃せないところは、同じようだね」

 

「ええ。ここまでいただいて、ようやく一皿ですもの」

 

 ハルナの皿は、きれいになっていた。

 

 セイアも最後の一口を食べ、匙を置いた。

 

 満足していた。

 

 もっと何かを頼みたいというより、今の味を、少しそのままにしておきたかった。

 

     ◇

 

 食後の飲み物を待つ間、ハルナが尋ねた。

 

「今日は、どちらまでいらっしゃる予定ですの?」

 

「D.U.の中を、適当に歩くつもりだよ。午後の行き先は、まだ決めていない」

 

「それで、お昼だけあれほど真剣に」

 

「君も、同じ場所で悩んでいたではないか」

 

「ええ。ですから、よく分かりますわ」

 

 ハルナは悪びれずに微笑んだ。

 

 セイアも笑う。

 

「君は、このあとも店を?」

 

「寄りたいところがあります。今日は一人ですので、少しゆっくり見て回ろうかと」

 

 詳しい場所までは尋ねなかった。

 

 向こうも、同行を求めなかった。

 

 お茶が運ばれてくる。

 

 二人とも、先ほどよりゆっくりと飲んだ。

 

     ◇

 

 店を出ると、案内板の前には別の客が立っていた。

 

 魚料理の写真を見ている。

 

 次に、隣の写真へ。

 

 それから、少し遠い店へ目を向けた。

 

 セイアは、思わずハルナを見た。

 

 彼女も気づいていたらしい。

 

 二人とも何も言わなかったが、同じことを思ったのは分かった。

 

「それでは。楽しい昼食でしたわ」

 

「こちらこそ。よい一日を」

 

「セイアさんも」

 

 ハルナは反対側の通路へ歩いていった。

 

 人の間へ入ると、長い髪が一度だけ揺れ、そのあとで姿が見えなくなった。

 

 セイアは、しばらくその方を見ていた。

 

 一時間にも満たない同席だった。

 

 それでも、一人で食べていたら見なかったはずの、皿の上の食べ方が残っていた。

 

 鞄を持ち直す。

 

 午後の分の街は、まだほとんど歩いていない。

 

     ◇

 

 建物を出ると、風があった。

 

 昼前よりも人が増えている。

 

 広場の噴水の周りでは、買い物袋を持った生徒たちが座っていた。

 

 セイアは端の腰掛けへ座り、買ったばかりの冊子を開いた。

 

 現在地を探す。

 

 写真で見た通りへは、市内を走るバスでも行けるらしい。

 

 歩くには、少し遠かった。

 

 冊子を閉じ、停留所へ向かう。

 

 次に来る便の表示を確かめた。

 

 待っている人たちは、セイアほど頻繁には案内を見なかった。

 

 それぞれ端末を見たり、荷物を持ち替えたりしている。

 

 ここから乗ることに、慣れているのだろう。

 

 バスが来た。

 

 セイアも、その列の中へ入った。

 

     ◇

 

 窓際へ座ると、さっきまで見上げていた店の庇が、少し低く見えた。

 

 バスが動く。

 

 大きな交差点を曲がり、広い道へ入った。

 

 高い建物の間に、急に低い店が現れる。

 

 短い高架をくぐる。

 

 横の道路では、別の色のバスが同じ方向へ走っていた。

 

 信号で並び、次の交差点で分かれる。

 

 セイアは、自分の乗る車内を見た。

 

 楽器のケースを抱えた生徒。

 

 紙袋の中を何度も確かめている生徒。

 

 膝へ小さな花束を置いた犬の乗客。

 

 皆が同じところへ行くわけではない。

 

 その途中だけ、同じ揺れの中にいた。

 

 次の停留所が近づいた時、隣の席から声がした。

 

「すみません、降ります」

 

「ああ」

 

 セイアは足を引き、鞄を抱えた。

 

 通り過ぎた生徒が会釈する。

 

 扉が閉まり、またバスが動き始めた。

 

 それだけのやり取りだった。

 

 けれど、どこかの学園の代表として向かい合うより、ずっと近いところに他校の生徒がいた。

 

     ◇

 

 シラトリ区で降りると、駅前とは少し違う空気があった。

 

 通りは広い。

 

 けれど、足を止める店の大きさは、先ほどより小さかった。

 

 建物の新しい壁の隣に、使い込まれた看板がある。

 

 歩道の舗装は途中で色が変わり、植えられた街路樹にはまだ支えがついていた。

 

 配達の荷物を受け取っている店。

 

 椅子を外へ出して、窓を拭いている生徒。

 

 扉へ本日の営業時間を貼っているロボット。

 

 セイアは、ゆっくり歩いた。

 

 冊子に載っていた角を曲がる。

 

 思っていたより細い道だった。

 

 その先に、小さな広場があった。

 

     ◇

 

 広場のベンチは、半分ほど埋まっていた。

 

 昼食を食べている生徒がいる。

 

 膝にノートを広げ、何かを書いている生徒もいた。

 

 端の方では、制服の違う二人が、同じ携帯端末を覗き込んで笑っている。

 

 セイアは木陰の空いたところへ座った。

 

 鞄から冊子を出しかけ、それをやめて、今朝買った手帖を出す。

 

 一頁目を開く。

 

 何を書こうか、考えた。

 

 今日行った店。

 

 食べたもの。

 

 これから向かう場所。

 

 どれも書ける。

 

 けれど、まだ一つも書かなかった。

 

 隣のベンチで、包み紙の擦れる音がした。

 

 生徒がサンドイッチを半分に分け、隣へ渡している。

 

 受け取った方が、礼を言って食べ始めた。

 

 セイアは少しだけ笑った。

 

 そして手帖の隅へ、小さく書いた。

 

『日陰の席が空いていた。』

 

 書き終えてから見ると、旅行記としては、随分とささやかだった。

 

 それでも、今の自分には大事なことだった。

 

     ◇

 

 隣の生徒たちは、すぐには立ち上がらなかった。

 

 食べ終えた包みを畳み、どちらが捨てに行くかを決める。

 

 そのあとで、一人がセイアへ顔を向けた。

 

「すみません。その冊子、駅で売ってるやつですか?」

 

「ああ。書店で買ったよ」

 

「やっぱり。ここ、載ってるんだ」

 

 セイアは頁を開き、広場の写真を見せた。

 

 生徒が近づく。

 

「ほんとだ。でも、写真、こっちからなんですね」

 

 ベンチの反対側を指した。

 

 写真は、花壇を手前にして撮られている。

 

 実際に座っている場所からは、その花壇の後ろ側が見えた。

 

「普段、こちらへ来るのかい」

 

「たまに。あそこの店で買って、ここで食べるんです」

 

 示されたのは、広場の向こうの小さな店だった。

 

 特別に飾り立てられた入口ではない。

 

 窓に、サンドイッチとスープの品書きが貼られていた。

 

「写真で見ると、ちょっと違う場所みたい」

 

 生徒はそう言って笑い、友人のところへ戻った。

 

 二人が去ったあと、セイアはもう一度冊子を見た。

 

 見知らぬ場所として紹介されているものが、誰かにとっては、昼食の包みを開くいつもの場所だった。

 

 その違いを、今日はどちら側からも少し見られた。

 

     ◇

 

 午後の散歩は、少しずつ速度が落ちていった。

 

 通りの角にあった古い喫茶店へ入り、炭酸の入った果物の飲み物を頼む。

 

 細いグラスの中を、泡が上がった。

 

 底には、細かく切った柑橘が沈んでいる。

 

 混ぜてから一口飲むと、甘さより先に、冷たさと酸味が来た。

 

 歩いたあとの口に、ちょうどよかった。

 

 窓際の席からは、向かいの花屋が見える。

 

 店員が鉢を一つずつ動かしていた。

 

 高いところのものを下ろし、別のものを表へ出す。

 

 日が当たる場所が変わったのかもしれない。

 

 セイアは、グラスの外側へついた水滴を紙ナプキンで押さえた。

 

 今日は、何も待っていない。

 

 修理が終わる連絡も、待ち合わせの時刻もない。

 

 飲み終えたら、立てばよかった。

 

 飲み終えても、少しだけ座っていた。

 

     ◇

 

 店を出ると、通りの影が伸びていた。

 

 来た方へ少し戻り、今度は横道を抜ける。

 

 冊子で見つけた展望フロアのある建物へ向かった。

 

 遠くからは高く見えた建物も、足元へ来ると入口を探す方が忙しい。

 

 商店の入口。

 

 事務所へ向かう入口。

 

 案内板を見て、ようやく展望フロアへ上がるエレベーターを見つけた。

 

 乗り込むと、ほかにも数人の客がいた。

 

 誰かが行き先のボタンを押す。

 

 扉が閉まる。

 

 上がっていく数字を見ていると、身体が少しだけ床へ押しつけられる感じがした。

 

 ほどなく、それも消える。

 

 扉の向こうは、思っていたより静かだった。

 

     ◇

 

 窓は、大きかった。

 

 近づくと、街が下へ広がっていた。

 

 道路。

 

 線路。

 

 低い屋根の集まりと、その向こうに立つ大きな建物。

 

 屋上に何もないところもあれば、緑のあるところもある。

 

 下から歩いている時には、どの店の入口かを見ていた。

 

 ここでは、建物の後ろ側や、通り同士の繋がりが見えた。

 

 セイアは冊子の地図を開いた。

 

 今いる場所を確かめる。

 

 昼食を取った建物は、もう少し向こうだろうか。

 

 駅の位置は、比較的すぐに分かった。

 

 そこから伸びる道路を目で辿り、途中で見失う。

 

 地下を通ったのか、建物の陰へ入ったのか。

 

 高いところへ来れば、何もかもよく分かるわけではなかった。

 

「……歩いた方が分かるところも、多いね」

 

 小さく呟く。

 

 地図を閉じ、今度は何かを探さずに街を見た。

 

     ◇

 

 少し離れた窓の前で、二人の生徒が話していた。

 

「あれ、朝入った店じゃない?」

 

「一つ隣だと思う」

 

「え、あんなに歩いた?」

 

「途中、戻ったじゃん」

 

 セイアは、その会話に少しだけ笑った。

 

 自分も今日、何度か同じ場所へ戻った。

 

 特に、昼食の案内板の前で。

 

 あの時の店は、ここからでは見つけられなかった。

 

 同じような窓が並ぶ建物の中の、どこかにある。

 

 そこへ、皿が運ばれてきた。

 

 湯気が上がり、パンをちぎった。

 

 その一時間だけを思い出す方が、建物を探すより簡単だった。

 

 セイアは窓へ近づきすぎないよう、一歩下がった。

 

 光の向きが、少しずつ変わっていた。

 

     ◇

 

 夕日は建物の間へ沈んでいった。

 

 空が一度に暗くなるわけではない。

 

 上の方には明るさが残り、道路のあたりから先に、灯りが目立ち始めた。

 

 信号の赤。

 

 列車の窓。

 

 店先の看板。

 

 向かいの建物の一室に、白い光が点く。

 

 少しして、その隣も明るくなる。

 

 朝、駅から出てきた時には、人の流れの中にいた。

 

 今は、その人たちの行き先の一部を、遠くから見ていた。

 

 どこへ帰るのか。

 

 何を買うのか。

 

 これから誰と会うのか。

 

 分からない。

 

 分からなくても、灯りが増えていくところは見ていられた。

 

 セイアは、すぐには写真を撮らなかった。

 

 窓の向こうに、まだもう少し明るいところがある。

 

 それが暗くなるまで、待ってみようと思った。

 

     ◇

 

 帰る時刻が近づき、ようやく端末を取り出した。

 

 一枚だけ、街を撮る。

 

 画面で確かめると、窓の内側の灯りが、少し写り込んでいた。

 

 自分の姿も、端に薄く見える。

 

 撮り直そうとして、やめた。

 

 今日、ここから見た景色としては、これでよかった。

 

 ナギサへ帰る時刻を伝える。

 

 続いて、ミカからの連絡を開いた。

 

『D.U.って、今日は何してたの?』

 

 セイアは、写真を添えた。

 

『本屋と、店を幾つか。それから、街を上から見ていたよ。』

 

 送ったあと、少し考えた。

 

 昼食のことが抜けている。

 

『お昼は、ハルナと食べた。』

 

 今度は、返事が早かった。

 

『えっ。ハルナって..あの?そこが一番気になるんだけど!?』

 

 セイアは小さく笑った。

 

『帰ったら話すよ。』

 

 端末をしまい、エレベーターへ向かった。

 

     ◇

 

 地上へ戻ると、街の音が近くなった。

 

 人の話し声。

 

 車の走る音。

 

 入口から流れてくる店内放送。

 

 高いところで眺めていた灯りの下へ、自分も戻ってきた。

 

 駅へ向かう道には、昼より長い列のできている店があった。

 

 小さなパン屋だった。

 

 朝、駅の反対側で見かけた店と同じ袋を持った客が出てくる。

 

 セイアは少しだけ足を止めた。

 

 夕食は、帰ってから食べる。

 

 だから、大きなものはいらない。

 

 窓の中に並ぶパンを見ていると、店員が新しい天板を持ってきた。

 

 丸いバターロール。

 

 表面に、細い焼き色がついている。

 

 セイアは列の最後へ並んだ。

 

     ◇

 

 番が来た時には、注文が決まっていた。

 

「その小さいものを、三つお願いするよ」

 

「こちらですね」

 

 紙袋へ、一つずつ入れてもらう。

 

 受け取ると、底がほんのり温かかった。

 

 昼には、店へ入るまでにあれほど迷った。

 

 今は、天板が見えた時点で決まっていた。

 

 何が違うのか、考えかける。

 

 それから、袋の口へ顔を少し近づけた。

 

 バターの匂いがする。

 

 今は、それで十分だった。

 

     ◇

 

 帰りの駅では、右へ曲がった。

 

 朝、出てこなかった方へ戻ると、通路には見覚えがあった。

 

 いつもの案内板。

 

 何度も通った階段。

 

 けれど、今日はその向こうに、噴水と書店とパン屋があることを知っている。

 

 セイアは改札の前で、切符を出した。

 

 鞄の中には、薄い冊子と、小さな手帖。

 

 レストランの会計でもらった紙が、その間に挟まっていた。

 

 取り出すと、人数の欄に二人と書いてある。

 

 セイアは、それを少し眺めた。

 

 朝、家を出た時には、一人分の予定だった。

 

 もっとも、予定と呼べるほどのものは、ほとんどなかったのだけれど。

 

 紙を手帖へ戻し、改札を通った。

 

     ◇

 

 列車の座席へ腰を下ろすと、足に疲れが出た。

 

 長い距離を一度に歩いたわけではない。

 

 店へ入り、階段を上がり、座り、また歩いた。

 

 それらを合わせると、一日分になっていた。

 

 セイアは鞄から手帖を出した。

 

 一頁目には、昼間書いた一行だけがある。

 

『日陰の席が空いていた。』

 

 その下へ、今日の続きを書いた。

 

 駅の左側の出口。

 

 大きな書店。

 

 煮込みの美味しかった店。

 

 シラトリ区の広場。

 

 窓に映った夕方の街。

 

 書いていると、全部を同じ大きさで残すのは難しかった。

 

 昼食の店の名前は短い。

 

 ハルナと何を話したかを書こうとすると、それだけで何行も使う。

 

 セイアは少し迷い、店の名前の横へ小さく付け加えた。

 

『決まるまでは、二人とも長かった。』

 

 読み返して、笑った。

 

     ◇

 

 窓の外には、夜の街が流れていた。

 

 明るいところも、暗いところもある。

 

 線路の近くの建物では、一つの窓だけが開いていた。

 

 中に何があるのかまでは、分からない。

 

 次の瞬間には、もう後ろへ過ぎている。

 

 セイアは手帖を閉じた。

 

 旅行案内に載っている場所は、今日、全部回ったわけではない。

 

 むしろ、載っていない店や、ただ座っていた場所の方が多かった。

 

 それでも、行かなかった場所を数える気にはならなかった。

 

 足元の鞄へ手を触れる。

 

 紙袋の中のパンは、まだ少し温かかった。

 

     ◇

 

 トリニティへ戻ると、談話室にはナギサとミカがいた。

 

 セイアが紙袋を置くと、ミカがすぐに顔を上げる。

 

「お帰り。で、お昼は?」

 

「ただいま。まずは荷物を置かせてほしいね」

 

「それから聞く」

 

 セイアは笑い、鞄を椅子の横へ収めた。

 

 ナギサが紙袋を見た。

 

「パンですか?」

 

「ああ。駅で、ちょうど焼き上がったところだったのでね」

 

「夕食に添えましょうか」

 

「そうしてもらえると嬉しい」

 

 ミカはまだ、こちらを見ている。

 

 セイアは椅子へ座り、ようやく答えた。

 

「ハルナとは、昼食の店を決められずにいたところで会ったんだ」

 

「それで、おすすめの店に連れてってもらったの?」

 

「いや」

 

 セイアは首を振った。

 

「彼女も、決まっていなかった」

 

 ミカが一拍置いてから笑う。

 

 ナギサも、小さく口元を緩めた。

 

「では、お二人で決められたのですね」

 

「ああ。少し、候補を増やしてから」

 

「相談したのに?」

 

「食べ物の話だったのでね」

 

 ミカはもう一度笑った。

 

 セイアも、自分で話していて、少し可笑しかった。

 

     ◇

 

 食事の話をしてから、午後の話もした。

 

 冊子に載っていた広場を、普段から使っている生徒がいたこと。

 

 高いところへ上がっても、昼食の店は見つけられなかったこと。

 

 パンだけは、すぐに決まったこと。

 

 ミカは写真を見て、窓へ映った灯りを指した。

 

「これ、セイアちゃんも写ってる?」

 

「少しだけね」

 

「ほんとだ」

 

 ナギサは、冊子に挟まれていた新しい店舗案内を読んでいた。

 

「こちらの本屋、駅から繋がっているのですね」

 

「ああ。私も、今日初めて入ったよ」

 

「何度か通ったことのある駅でしょう?」

 

「いつもと違う出口へ出たんだ」

 

 ナギサが顔を上げる。

 

 セイアは、冊子の地図を示した。

 

 知っている道は、右にある。

 

 今日歩いたのは、左だった。

 

 指で辿ると、その違いは小さかった。

 

 けれど話を終えるまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。

 

     ◇

 

 自分の部屋へ戻ってから、セイアは手帖を机へ置いた。

 

 最初の頁を開く。

 

 書き足した行の間に、会計の紙が挟まっている。

 

 それを少しずらすと、まだ空いている場所があった。

 

 ペンを取る。

 

 次にD.U.へ行く時、どこへ入ろうか。

 

 昼に選ばなかった魚の店も気になる。

 

 今日、眺めるだけだった時計も、もう一度見てみたい。

 

 考えてから、セイアは何も書かずにペンを置いた。

 

 次の予定は、まだなくてもよい。

 

 ただ、頁のいちばん下へ、今日のことを一つだけ足した。

 

『左の出口から。』

 

 読み返す。

 

 それだけでは、ほとんど何も伝わらない。

 

 けれど、自分には分かった。

 

 大きな時計の下のパン屋も。

 

 何度も戻った案内板も。

 

 昼食の向かいに座った相手も。

 

 夕方、窓の向こうで少しずつ増えていった灯りも。

 

 セイアは手帖を閉じ、次に持って出る鞄へ入れた。

 

 窓の外には、トリニティの夜があった。

 

 ここも、遠くから見れば、誰かが眺める灯りの一つになるのだろう。

 

 セイアは机の灯りを消し、部屋の奥へ戻った。

 

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