雪を見に行く、と決めた時、百合園セイアはまず靴を選んだ。
窓から眺めるだけなら、いつもの靴でもよい。
けれど、駅で降りて、店へ入り、知らない道を歩くつもりだった。靴底の溝を確かめ、防水になっているものを出す。試しに部屋の中で歩くと、普段より足元に重さがあった。
外套。
厚手の靴下。
手袋。
首元を覆うもの。
一泊分の荷物を並べてみると、これまでのどの旅よりも嵩張った。
セイアは椅子の上に積まれた衣類を見た。
同じキヴォトスの中を移動するだけなのに、身体の周りをこれほど変えなければならない。
まだ出発していないのに、行く場所の遠さが少し分かった。
◇
「……あったかそう」
談話室へ行くと、ミカが外套へ触れた。
指で袖の厚みを確かめ、少し羨ましそうな顔をする。
「着てみていい?」
「まだ、出発前だからね」
「帰ってきたら駄目なの?」
「濡れているかもしれないだろう」
「あ、そっか」
ミカは外套を肩へ掛けた。
袖を通す前に、少し小さいことに気づいて、そのまま前を合わせる。
「これ、セイアちゃんが着たら、顔しか見えなくなりそう」
「そこまでは、覆わないつもりだよ」
ナギサは卓の上の旅程を見ていた。
列車の乗り継ぎと、予約した宿。
翌日の帰りの便。
その下には、余裕を持たせた乗り換え時間が書いてある。
「雪で遅れた場合の便も、確認されたのですね」
「ああ。今日のうちに調べられることは、調べておこうと思って」
「それなら安心しました」
ナギサは紙を返した。
注意事項は、思っていたほど増えなかった。
ミカが外套を脱いで差し出す。
「写真、撮ってきてね」
「雪の?」
「うん。あと、セイアちゃんが寒そうにしてるところ」
「それは、私一人では撮りにくいね」
「じゃあ、帰ってから再現して」
セイアは受け取った外套を畳んだ。
旅先で何をするかより先に、帰ってからすることが決まりかけていた。
◇
朝の列車は、まだ明るくなりきらない駅を出た。
セイアは窓際へ座り、外套を隣の空いたところへ置いた。
車内は暖かい。
首元の布を緩め、鞄から本を出す。
最初のうちは、外に見えるものもよく知った形をしていた。
住宅の屋根。
道に沿って並ぶ店。
高い建物の間を抜ける、別の線路。
本へ目を落とし、一区切り読んで顔を上げると、建物の間隔が広くなっていた。
次に顔を上げた時には、山の陰に白いものが残っていた。
雪だった。
日陰にだけ、細く。
道端の草の間に、少しずつ。
セイアは本を閉じなかった。
開いたまま膝へ置き、窓を見ていた。
◇
乗り換えた先のホームでは、息が白くなった。
ほんの数分立っているだけなのに、耳の辺りから冷えてくる。
セイアは鞄の口を開け、手袋を探した。
右は、すぐに見つかった。
左がない。
反対の仕切りへ手を入れる。
着替えの下を見る。
そうしている間にも、右手だけが温かくなっていった。
「……揃えてしまったつもりだったんだが」
外套のポケットに触れると、そこにあった。
昨夜、着心地を確かめた時に入れたのだろう。
セイアは左もはめた。
ちょうど、列車が入ってくる。
乗り込む時、手すりを握った。
手袋越しには、金属の冷たさが少し遠い。
持ってきてよかった、と、早くも一つ思った。
◇
列車は、さらに白い場所へ入っていった。
畑なのか、広場なのか。
雪の下にある形は、すぐには分からない。
遠くに細い木が並び、その根元には青い影があった。
空は曇っていたが、暗くはなかった。雲の色と地面の色が似ていて、間に立つ電柱や建物だけが、線を引いたように見える。
線路の脇に、人が通れる細い道があった。
そこだけ、雪の色が濃い。
誰かが歩いたあとを、また誰かが通っているのだろう。
セイアは温かい飲み物を買い、両手で包んだ。
窓の内側には、車内の灯りと、自分の手が映っている。
向こう側には、遠くの煙突。
白いものが上がり、空の低いところへ流れていった。
カップの湯気も、顔の前を上っていく。
同じ白さなのに、片方は触れるほど近く、もう片方はいつまでも窓の向こうだった。
◇
レッドウィンターの市街地へ入る頃には、昼が近づいていた。
駅を降りる前に、外套を着る。
帽子をかぶり、首元を閉じる。
車内では少し暑かった。
けれど扉が開いた瞬間、その暑さを惜しく感じた。
空気が、頬へ触れる。
冷たいというより、そこだけ薄く引き締められるような感覚だった。
セイアは一度、息を吸い直した。
靴をホームへ下ろす。
表面はきれいに除雪されている。端の方には、押し固められた雪が細長く残っていた。
鞄を肩へ掛け、改札へ向かう。
歩きながら、頬が少し痛くなった。
厚着は、決して大げさではなかったらしい。
◇
駅舎を出ると、広い道があった。
広すぎて、向かいの建物が思っていたより遠い。
低い灰色の空の下に、赤い看板や旗が目立っている。
道の脇には雪が積み上げられ、ところどころに、通るための切れ目が作られていた。
その切れ目を、生徒たちは迷わず使っている。
セイアは一度、近そうに見えた方へ向かいかけた。
数歩進んで、行き止まりになっていることに気づく。
雪の壁の向こうに、道は見える。
けれど、そこへ行くには回り込まなければならなかった。
後ろから来た生徒が、少し先を指す。
「渡るなら、あっち」
「ありがとう」
セイアは向きを変えた。
地図に描かれていない角を、最初に一つ曲がった。
◇
宿へは、路線バスを使った。
歩けない距離ではなさそうだったが、荷物を持って初めての雪道を急ぐ必要もない。
乗り場で行き先を確かめ、列へ並ぶ。
前にいた生徒の帽子には、耳を覆う部分がついていた。
その下から、明るい色の髪が少しだけ覗いている。
セイアが案内板を見ていると、生徒も同じ方を見た。
「市場へ?」
「ああ。その近くに泊まるんだ」
「じゃあ、三つ先。降りる前に、右側に長い屋根が見えるから」
「ありがとう、覚えておくよ」
バスが来た。
扉が開くと、暖かい空気が足元へ流れてくる。
車内の窓は、端の方が白く曇っていた。
セイアは座り、帽子を少し緩めた。
数分前にはありがたかった厚みが、今は暑い。
出入りするたびに、身体の周りを整え直す一日になりそうだった。
◇
予約した宿は、市場の脇道にあった。
大きな看板も、広い玄関もない。
一階に小さな食堂があり、その上の階が客室になっている。
扉を開けると、短い風除室があった。
もう一枚、扉。
そちらを開けて、ようやく建物の暖かさの中へ入る。
床には、雪を落とすための厚い敷物が敷かれていた。
セイアは靴底を軽く擦った。
「こんにちは。予約している百合園だけれど」
帳場にいた犬の主人が顔を上げた。
眼鏡の向こうで宿帳を確かめ、頷く。
「はい、お待ちしていました。部屋はもう使えますよ」
「助かるね」
「お食事は、朝だけでしたね。夜もこちらで食べられます。戻ってから決めてもらって構いません」
鍵を受け取る。
大きな札はついていない。
小さな金属の輪に、部屋番号が一つだけあった。
階段を上る途中、どこかの扉の向こうから、笑い声が聞こえた。
そのあと、食器の触れる音。
長く滞在している客もいるのかもしれない。
◇
部屋には、ベッドと机があった。
窓の下に暖房器具が置かれ、近づくと、じんわりした熱が伝わってくる。
壁には、額も写真もほとんどない。
窓から見えるのは、中庭と、隣の建物の裏側だった。
屋根の端に、厚い雪が載っている。
中庭には、雪を除いた道が一本。
扉から扉へ、細く繋がっていた。
セイアは外套を脱いだ。
鞄を開き、着替えを出す。
濡れたものを乾かす場所を確かめてから、ベッドの端へ座った。
部屋は、十分に暖かかった。
よい眺めの部屋を探して予約したわけではない。
駅と市場の間で、帰って休めるところを選んだ。
その選び方は、今のところ間違っていなかった。
腹が鳴った。
セイアは机へ置いた時計を見た。
「……まずは、そちらだったね」
◇
主人に教わった共同食堂は、大きな窓のある建物だった。
入口の前には、何本もの靴跡が重なっている。
扉を開くと、温かい汁物の匂いがした。
長い卓。
同じ形の椅子。
壁には幾つかの掲示物があり、その一角に、立派な髭をつけた少女の絵が飾られている。
その下の品書きは、ずっと実用的だった。
本日のスープ。
煮込み。
肉団子。
パン。
セイアが入口で見ていると、配膳台の向こうから声がした。
「食べるなら、お盆はそこだよ」
「学外の者でも、構わないかな」
「お金を払ってくれればね。今日は、赤いスープが温まるよ」
セイアは盆を取った。
皿を選び、列の後ろへ並ぶ。
前の生徒は、パンを三枚取った。
その前の生徒は、一枚。
セイアの番が来る。
「パンは?」
「……二枚、お願いするよ」
何となく、間を取った。
配膳係は迷わず二枚置いた。
旅先では、そういう小さな決断も必要になる。
◇
スープは、ボルシチだった。
器いっぱいの赤。
中央には白いサワークリームが載り、その周りから湯気が立っている。
セイアは窓に近い長卓の端へ座った。
外套を脱ぎ、帽子を椅子の背へ掛ける。
それだけの間にも、身体が少しずつ楽になった。
匙を入れる。
細く切られたキャベツと、赤い野菜。
じゃがいも。
底の方から、小さな肉の塊が現れた。
まず、白い部分を混ぜずに一口。
熱かった。
けれど、その熱さのあとに、野菜の甘みと、少しだけ酸味が残る。
続けて、サワークリームを匙の先で溶かした。
赤い汁に、白い線が伸びる。
もう一口飲むと、先ほどよりも味が丸くなった。
セイアは、器を手前へ寄せた。
駅へ降りた時から、身体のどこかがずっと冷たいままだった。
それが今、内側からほどけていく。
パンをちぎる。
表面はしっかりしていて、中にも密な重さがある。
噛むと、穀物の香りと、わずかな酸味がした。
スープへ浸す。
少し柔らかくなったところを食べると、二枚にしておいてよかったと思った。
◇
「そこ、空いてる?」
声をかけてきたのは、大きな帽子を片手に持った生徒だった。
袖の肘に、青い布の継ぎがある。
セイアが頷くと、向かいへ盆を置いた。
そちらには肉団子と、茶色い粒の穀物が盛られていた。
生徒は一度、セイアの服へ目をやった。
「トリニティ?」
「ああ」
「交流の用事?」
「いや。旅行だよ」
生徒は匙を持ったまま、少し首を傾げた。
「ここに?」
「そんなに、意外かな」
「観光なら、もっと案内の多いところがあるから」
窓の外を見る。
雪の向こうを、一台の作業車がゆっくり通った。
「雪を見たくて来たんだ」
セイアが言うと、生徒は窓を見たまま笑った。
「それなら、足りなくなる心配はないね」
「帰る頃には、満足しているとよいのだけれど」
「寒いの、得意?」
セイアは少し考えた。
駅へ降りた時の頬。
手袋を探した左手。
今、目の前にある熱いスープ。
「まだ、よく分からない。ただ、これは好きだよ」
器を示す。
生徒は頷いた。
「それ、美味しいよね」
そこから先は、食べながらの短い話だった。
市場へ行く道。
風が強い広場。
夕方になると、日がなくても雪がよく見える場所。
食堂を出るまでに、セイアの午後には幾つかの目印が増えていた。
◇
返却口へ盆を持っていくと、入口の近くで二人の生徒が紙を書いていた。
題名には、食堂への要望、とある。
セイアが通り過ぎる時、一人が声をかけた。
「プリン、一個で足りると思う?」
セイアは足を止めた。
「大きさにもよるのではないかな」
「そういう意見もあった」
相手は真面目に頷き、紙へ何かを書き足した。
「大きくする案と、二個にする案で、まだ決まってなくて」
「両方にすると、話が大きくなりすぎるかい」
二人が顔を見合わせた。
「それだと、まず断られそう」
「なるほど。順番を考えているんだね」
セイアは笑った。
署名を求められることはなかった。
二人はまた紙へ向き直り、具体的な大きさについて話し始めた。
食堂の入口を出ると、冷たい空気が頬へ戻ってきた。
セイアは首元を閉じた。
さっきまでの議論の続きを、もう少し聞いていてもよかった気がした。
◇
広場は、地図で見た時より大きかった。
端から向こう側まで、建物の間に何もない。
風が、その空いたところを真っすぐ抜けてくる。
中央には像があった。
肩に雪を載せ、前へ手を伸ばしている。
近くで見ようとしたセイアは、広場の途中で一度立ち止まった。
首元を閉じ直す。
手袋の中で、指を動かす。
思っていたより、遠い。
反対側の建物へ着いた頃には、像の細部よりも、風を遮る壁の方をありがたく感じていた。
「……立派な広場だね」
誰に言うでもなく呟く。
返事の代わりに、風が看板の端を鳴らした。
セイアは、先ほど食堂で教わった方へ曲がった。
広場から一本外れるだけで、歩きやすくなった。
◇
市場には、屋根があった。
大きな一棟の中に店が並ぶところと、庇の下へ品物を出しているところがある。
入口をくぐると、雪の白さから、急に色の多い場所へ入った。
瓶の中の赤い実。
橙色の果物。
積み重ねられた茶色いパン。
青や緑の毛糸。
小さな暖房器具の前で、店番のロボットが伝票を数えている。
セイアは外套の前を少し開いた。
市場の中は、暖かいというほどではない。
それでも、風がないだけでずいぶん違った。
魚を扱う店の前を通る。
次は、乾かしたきのこ。
その隣では、瓶詰めの蓋が、同じ方向を向いて並べられていた。
保存しておくためのものが多い。
けれど、食べ物ばかりではなかった。
戸の隙間へ詰めるもの。
靴底へつける滑り止め。
替えの靴紐。
小さな雪かき用の道具。
旅の支度で揃えたものの先にも、まだたくさんの品物があった。
◇
毛糸の店では、厚い靴下を手に取った。
灰色に、小さな青い模様が入っている。
店番の生徒が、セイアの靴を見た。
「外で履くなら、それより薄い方がいいかも。靴の中、きつくなるから」
「これは、部屋で使おうと思って」
「それなら、こっちの方が柔らかいですよ」
別の一足を出してくれる。
触ると、確かに違った。
模様は、ほとんどない。
その代わり、足首のところがゆるく、手を入れると柔らかく広がった。
「今日、泊まりですか」
「ああ」
「じゃあ、今夜から使えますね」
セイアは、その一足を買った。
持ってこなかったものを補うというより、泊まる夜のために一つ増やしたかった。
生徒は紙の袋へ入れ、口を軽く折った。
「濡れたままでは履かないでくださいね」
「分かったよ」
受け取ると、袋は驚くほど軽かった。
◇
瓶詰めの店では、黒に近い赤のジャムが気になった。
小さな実が、少し形を残している。
「味、見ていきます?」
店員が細い匙へ取ってくれた。
舐めると、最初は甘い。
そのあとから、しっかりした酸味が来た。
セイアは少し目を細めた。
「紅茶に合いそうだね」
「一緒に食べる人もいますし、少し溶かす人もいますよ」
店員は自分のマグを示した。
底の方に、赤い色が残っている。
「どちらがよいのかな」
「好みですね。私は、甘くしたい時は入れます」
ずいぶん簡単な答えだった。
セイアは笑い、小さな瓶を選んだ。
その横には、薄く焼いた蜂蜜の菓子があった。
表面へ白い線で模様が描かれている。
丸いもの。
四角いもの。
少しだけ、熊の形に見えるもの。
ミカなら、どれを選ぶだろう。
考えたあとで、熊の形を二つと、ほかのものも少し買った。
全部を熊にしなかった理由は、説明しなくてもよいことにした。
◇
市場の奥には、焼いた包みパンを売る店があった。
生地の表面が、濃い金色になっている。
甘いものも、肉や野菜の入ったものもあるらしい。
セイアは、品書きを読んだ。
キャベツ。
肉。
じゃがいもときのこ。
どれも気になったが、昼食からそれほど時間は経っていない。
「あとで食べることはできるかな」
「冷めても食べられるよ。温め直すなら、もっといい」
店主の猫が答えた。
セイアは少し考えた。
「では、明日の帰りに買いに来ようかな」
「明日は、朝から焼いてるよ。昼までには、一通り出る」
店主は紙袋へ何かを書いた。
営業時間だった。
「駅へ行く前なら、寄れると思う」
セイアは紙を受け取った。
買わずに店を出たのに、明日の用事が一つできた。
◇
市場を抜けたところには、雪の少ない歩道が続いていた。
セイアはそこを、少し先まで歩いた。
建物の窓に、花の鉢が並んでいる。
外から見ると、緑がひどく鮮やかだった。
手前には白い雪。
ガラス一枚の向こうには、葉が伸びている。
小さな蕾のついたものもあった。
隣の窓では、何人かの生徒が卓を囲んでいる。
その上に大きな紙が広げられ、一人が何かを書き、別の一人が首を振った。
何の相談なのかは分からない。
先ほどのプリンの話かもしれないし、全く違うものかもしれない。
セイアは、窓を長く覗き込みすぎないようにして歩いた。
見えるのは、暮らしのほんの端だけだった。
◇
文化会館の入口は、開いていた。
中へ入ると、広い玄関に長椅子が並んでいる。
壁の掲示板には、部屋の使用予定が貼られていた。
練習。
打ち合わせ。
展示の搬入。
その下には、忘れ物の手袋が、色も形も違うまま並べられている。
セイアは自分の両手を見た。
今のところ、二つともある。
長椅子へ座ると、奥の方から短い音楽が聞こえた。
途中で止まる。
誰かの声。
もう一度、同じところから。
別の扉からは、椅子を動かす音がした。
雪の向こうから見た時には、どの建物も静かだった。
中へ入ると、そうでもない。
セイアは外套の前を開き、買った瓶を鞄の底へ収め直した。
手を動かせる暖かさがあるうちに、やっておいた方がよかった。
◇