百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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11-1.市場中央共同食堂 #雪国到着 #赤いシチー #中央市場

 

 

 雪を見に行く、と決めた時、百合園セイアはまず靴を選んだ。

 

 窓から眺めるだけなら、いつもの靴でもよい。

 

 けれど、駅で降りて、店へ入り、知らない道を歩くつもりだった。靴底の溝を確かめ、防水になっているものを出す。試しに部屋の中で歩くと、普段より足元に重さがあった。

 

 外套。

 

 厚手の靴下。

 

 手袋。

 

 首元を覆うもの。

 

 一泊分の荷物を並べてみると、これまでのどの旅よりも嵩張った。

 

 セイアは椅子の上に積まれた衣類を見た。

 

 同じキヴォトスの中を移動するだけなのに、身体の周りをこれほど変えなければならない。

 

 まだ出発していないのに、行く場所の遠さが少し分かった。

 

     ◇

 

「……あったかそう」

 

 談話室へ行くと、ミカが外套へ触れた。

 

 指で袖の厚みを確かめ、少し羨ましそうな顔をする。

 

「着てみていい?」

 

「まだ、出発前だからね」

 

「帰ってきたら駄目なの?」

 

「濡れているかもしれないだろう」

 

「あ、そっか」

 

 ミカは外套を肩へ掛けた。

 

 袖を通す前に、少し小さいことに気づいて、そのまま前を合わせる。

 

「これ、セイアちゃんが着たら、顔しか見えなくなりそう」

 

「そこまでは、覆わないつもりだよ」

 

 ナギサは卓の上の旅程を見ていた。

 

 列車の乗り継ぎと、予約した宿。

 

 翌日の帰りの便。

 

 その下には、余裕を持たせた乗り換え時間が書いてある。

 

「雪で遅れた場合の便も、確認されたのですね」

 

「ああ。今日のうちに調べられることは、調べておこうと思って」

 

「それなら安心しました」

 

 ナギサは紙を返した。

 

 注意事項は、思っていたほど増えなかった。

 

 ミカが外套を脱いで差し出す。

 

「写真、撮ってきてね」

 

「雪の?」

 

「うん。あと、セイアちゃんが寒そうにしてるところ」

 

「それは、私一人では撮りにくいね」

 

「じゃあ、帰ってから再現して」

 

 セイアは受け取った外套を畳んだ。

 

 旅先で何をするかより先に、帰ってからすることが決まりかけていた。

 

     ◇

 

 朝の列車は、まだ明るくなりきらない駅を出た。

 

 セイアは窓際へ座り、外套を隣の空いたところへ置いた。

 

 車内は暖かい。

 

 首元の布を緩め、鞄から本を出す。

 

 最初のうちは、外に見えるものもよく知った形をしていた。

 

 住宅の屋根。

 

 道に沿って並ぶ店。

 

 高い建物の間を抜ける、別の線路。

 

 本へ目を落とし、一区切り読んで顔を上げると、建物の間隔が広くなっていた。

 

 次に顔を上げた時には、山の陰に白いものが残っていた。

 

 雪だった。

 

 日陰にだけ、細く。

 

 道端の草の間に、少しずつ。

 

 セイアは本を閉じなかった。

 

 開いたまま膝へ置き、窓を見ていた。

 

     ◇

 

 乗り換えた先のホームでは、息が白くなった。

 

 ほんの数分立っているだけなのに、耳の辺りから冷えてくる。

 

 セイアは鞄の口を開け、手袋を探した。

 

 右は、すぐに見つかった。

 

 左がない。

 

 反対の仕切りへ手を入れる。

 

 着替えの下を見る。

 

 そうしている間にも、右手だけが温かくなっていった。

 

「……揃えてしまったつもりだったんだが」

 

 外套のポケットに触れると、そこにあった。

 

 昨夜、着心地を確かめた時に入れたのだろう。

 

 セイアは左もはめた。

 

 ちょうど、列車が入ってくる。

 

 乗り込む時、手すりを握った。

 

 手袋越しには、金属の冷たさが少し遠い。

 

 持ってきてよかった、と、早くも一つ思った。

 

     ◇

 

 列車は、さらに白い場所へ入っていった。

 

 畑なのか、広場なのか。

 

 雪の下にある形は、すぐには分からない。

 

 遠くに細い木が並び、その根元には青い影があった。

 

 空は曇っていたが、暗くはなかった。雲の色と地面の色が似ていて、間に立つ電柱や建物だけが、線を引いたように見える。

 

 線路の脇に、人が通れる細い道があった。

 

 そこだけ、雪の色が濃い。

 

 誰かが歩いたあとを、また誰かが通っているのだろう。

 

 セイアは温かい飲み物を買い、両手で包んだ。

 

 窓の内側には、車内の灯りと、自分の手が映っている。

 

 向こう側には、遠くの煙突。

 

 白いものが上がり、空の低いところへ流れていった。

 

 カップの湯気も、顔の前を上っていく。

 

 同じ白さなのに、片方は触れるほど近く、もう片方はいつまでも窓の向こうだった。

 

     ◇

 

 レッドウィンターの市街地へ入る頃には、昼が近づいていた。

 

 駅を降りる前に、外套を着る。

 

 帽子をかぶり、首元を閉じる。

 

 車内では少し暑かった。

 

 けれど扉が開いた瞬間、その暑さを惜しく感じた。

 

 空気が、頬へ触れる。

 

 冷たいというより、そこだけ薄く引き締められるような感覚だった。

 

 セイアは一度、息を吸い直した。

 

 靴をホームへ下ろす。

 

 表面はきれいに除雪されている。端の方には、押し固められた雪が細長く残っていた。

 

 鞄を肩へ掛け、改札へ向かう。

 

 歩きながら、頬が少し痛くなった。

 

 厚着は、決して大げさではなかったらしい。

 

     ◇

 

 駅舎を出ると、広い道があった。

 

 広すぎて、向かいの建物が思っていたより遠い。

 

 低い灰色の空の下に、赤い看板や旗が目立っている。

 

 道の脇には雪が積み上げられ、ところどころに、通るための切れ目が作られていた。

 

 その切れ目を、生徒たちは迷わず使っている。

 

 セイアは一度、近そうに見えた方へ向かいかけた。

 

 数歩進んで、行き止まりになっていることに気づく。

 

 雪の壁の向こうに、道は見える。

 

 けれど、そこへ行くには回り込まなければならなかった。

 

 後ろから来た生徒が、少し先を指す。

 

「渡るなら、あっち」

 

「ありがとう」

 

 セイアは向きを変えた。

 

 地図に描かれていない角を、最初に一つ曲がった。

 

     ◇

 

 宿へは、路線バスを使った。

 

 歩けない距離ではなさそうだったが、荷物を持って初めての雪道を急ぐ必要もない。

 

 乗り場で行き先を確かめ、列へ並ぶ。

 

 前にいた生徒の帽子には、耳を覆う部分がついていた。

 

 その下から、明るい色の髪が少しだけ覗いている。

 

 セイアが案内板を見ていると、生徒も同じ方を見た。

 

「市場へ?」

 

「ああ。その近くに泊まるんだ」

 

「じゃあ、三つ先。降りる前に、右側に長い屋根が見えるから」

 

「ありがとう、覚えておくよ」

 

 バスが来た。

 

 扉が開くと、暖かい空気が足元へ流れてくる。

 

 車内の窓は、端の方が白く曇っていた。

 

 セイアは座り、帽子を少し緩めた。

 

 数分前にはありがたかった厚みが、今は暑い。

 

 出入りするたびに、身体の周りを整え直す一日になりそうだった。

 

     ◇

 

 予約した宿は、市場の脇道にあった。

 

 大きな看板も、広い玄関もない。

 

 一階に小さな食堂があり、その上の階が客室になっている。

 

 扉を開けると、短い風除室があった。

 

 もう一枚、扉。

 

 そちらを開けて、ようやく建物の暖かさの中へ入る。

 

 床には、雪を落とすための厚い敷物が敷かれていた。

 

 セイアは靴底を軽く擦った。

 

「こんにちは。予約している百合園だけれど」

 

 帳場にいた犬の主人が顔を上げた。

 

 眼鏡の向こうで宿帳を確かめ、頷く。

 

「はい、お待ちしていました。部屋はもう使えますよ」

 

「助かるね」

 

「お食事は、朝だけでしたね。夜もこちらで食べられます。戻ってから決めてもらって構いません」

 

 鍵を受け取る。

 

 大きな札はついていない。

 

 小さな金属の輪に、部屋番号が一つだけあった。

 

 階段を上る途中、どこかの扉の向こうから、笑い声が聞こえた。

 

 そのあと、食器の触れる音。

 

 長く滞在している客もいるのかもしれない。

 

     ◇

 

 部屋には、ベッドと机があった。

 

 窓の下に暖房器具が置かれ、近づくと、じんわりした熱が伝わってくる。

 

 壁には、額も写真もほとんどない。

 

 窓から見えるのは、中庭と、隣の建物の裏側だった。

 

 屋根の端に、厚い雪が載っている。

 

 中庭には、雪を除いた道が一本。

 

 扉から扉へ、細く繋がっていた。

 

 セイアは外套を脱いだ。

 

 鞄を開き、着替えを出す。

 

 濡れたものを乾かす場所を確かめてから、ベッドの端へ座った。

 

 部屋は、十分に暖かかった。

 

 よい眺めの部屋を探して予約したわけではない。

 

 駅と市場の間で、帰って休めるところを選んだ。

 

 その選び方は、今のところ間違っていなかった。

 

 腹が鳴った。

 

 セイアは机へ置いた時計を見た。

 

「……まずは、そちらだったね」

 

     ◇

 

 主人に教わった共同食堂は、大きな窓のある建物だった。

 

 入口の前には、何本もの靴跡が重なっている。

 

 扉を開くと、温かい汁物の匂いがした。

 

 長い卓。

 

 同じ形の椅子。

 

 壁には幾つかの掲示物があり、その一角に、立派な髭をつけた少女の絵が飾られている。

 

 その下の品書きは、ずっと実用的だった。

 

 本日のスープ。

 

 煮込み。

 

 肉団子。

 

 パン。

 

 セイアが入口で見ていると、配膳台の向こうから声がした。

 

「食べるなら、お盆はそこだよ」

 

「学外の者でも、構わないかな」

 

「お金を払ってくれればね。今日は、赤いスープが温まるよ」

 

 セイアは盆を取った。

 

 皿を選び、列の後ろへ並ぶ。

 

 前の生徒は、パンを三枚取った。

 

 その前の生徒は、一枚。

 

 セイアの番が来る。

 

「パンは?」

 

「……二枚、お願いするよ」

 

 何となく、間を取った。

 

 配膳係は迷わず二枚置いた。

 

 旅先では、そういう小さな決断も必要になる。

 

     ◇

 

 スープは、ボルシチだった。

 

 器いっぱいの赤。

 

 中央には白いサワークリームが載り、その周りから湯気が立っている。

 

 セイアは窓に近い長卓の端へ座った。

 

 外套を脱ぎ、帽子を椅子の背へ掛ける。

 

 それだけの間にも、身体が少しずつ楽になった。

 

 匙を入れる。

 

 細く切られたキャベツと、赤い野菜。

 

 じゃがいも。

 

 底の方から、小さな肉の塊が現れた。

 

 まず、白い部分を混ぜずに一口。

 

 熱かった。

 

 けれど、その熱さのあとに、野菜の甘みと、少しだけ酸味が残る。

 

 続けて、サワークリームを匙の先で溶かした。

 

 赤い汁に、白い線が伸びる。

 

 もう一口飲むと、先ほどよりも味が丸くなった。

 

 セイアは、器を手前へ寄せた。

 

 駅へ降りた時から、身体のどこかがずっと冷たいままだった。

 

 それが今、内側からほどけていく。

 

 パンをちぎる。

 

 表面はしっかりしていて、中にも密な重さがある。

 

 噛むと、穀物の香りと、わずかな酸味がした。

 

 スープへ浸す。

 

 少し柔らかくなったところを食べると、二枚にしておいてよかったと思った。

 

     ◇

 

「そこ、空いてる?」

 

 声をかけてきたのは、大きな帽子を片手に持った生徒だった。

 

 袖の肘に、青い布の継ぎがある。

 

 セイアが頷くと、向かいへ盆を置いた。

 

 そちらには肉団子と、茶色い粒の穀物が盛られていた。

 

 生徒は一度、セイアの服へ目をやった。

 

「トリニティ?」

 

「ああ」

 

「交流の用事?」

 

「いや。旅行だよ」

 

 生徒は匙を持ったまま、少し首を傾げた。

 

「ここに?」

 

「そんなに、意外かな」

 

「観光なら、もっと案内の多いところがあるから」

 

 窓の外を見る。

 

 雪の向こうを、一台の作業車がゆっくり通った。

 

「雪を見たくて来たんだ」

 

 セイアが言うと、生徒は窓を見たまま笑った。

 

「それなら、足りなくなる心配はないね」

 

「帰る頃には、満足しているとよいのだけれど」

 

「寒いの、得意?」

 

 セイアは少し考えた。

 

 駅へ降りた時の頬。

 

 手袋を探した左手。

 

 今、目の前にある熱いスープ。

 

「まだ、よく分からない。ただ、これは好きだよ」

 

 器を示す。

 

 生徒は頷いた。

 

「それ、美味しいよね」

 

 そこから先は、食べながらの短い話だった。

 

 市場へ行く道。

 

 風が強い広場。

 

 夕方になると、日がなくても雪がよく見える場所。

 

 食堂を出るまでに、セイアの午後には幾つかの目印が増えていた。

 

     ◇

 

 返却口へ盆を持っていくと、入口の近くで二人の生徒が紙を書いていた。

 

 題名には、食堂への要望、とある。

 

 セイアが通り過ぎる時、一人が声をかけた。

 

「プリン、一個で足りると思う?」

 

 セイアは足を止めた。

 

「大きさにもよるのではないかな」

 

「そういう意見もあった」

 

 相手は真面目に頷き、紙へ何かを書き足した。

 

「大きくする案と、二個にする案で、まだ決まってなくて」

 

「両方にすると、話が大きくなりすぎるかい」

 

 二人が顔を見合わせた。

 

「それだと、まず断られそう」

 

「なるほど。順番を考えているんだね」

 

 セイアは笑った。

 

 署名を求められることはなかった。

 

 二人はまた紙へ向き直り、具体的な大きさについて話し始めた。

 

 食堂の入口を出ると、冷たい空気が頬へ戻ってきた。

 

 セイアは首元を閉じた。

 

 さっきまでの議論の続きを、もう少し聞いていてもよかった気がした。

 

     ◇

 

 広場は、地図で見た時より大きかった。

 

 端から向こう側まで、建物の間に何もない。

 

 風が、その空いたところを真っすぐ抜けてくる。

 

 中央には像があった。

 

 肩に雪を載せ、前へ手を伸ばしている。

 

 近くで見ようとしたセイアは、広場の途中で一度立ち止まった。

 

 首元を閉じ直す。

 

 手袋の中で、指を動かす。

 

 思っていたより、遠い。

 

 反対側の建物へ着いた頃には、像の細部よりも、風を遮る壁の方をありがたく感じていた。

 

「……立派な広場だね」

 

 誰に言うでもなく呟く。

 

 返事の代わりに、風が看板の端を鳴らした。

 

 セイアは、先ほど食堂で教わった方へ曲がった。

 

 広場から一本外れるだけで、歩きやすくなった。

 

     ◇

 

 市場には、屋根があった。

 

 大きな一棟の中に店が並ぶところと、庇の下へ品物を出しているところがある。

 

 入口をくぐると、雪の白さから、急に色の多い場所へ入った。

 

 瓶の中の赤い実。

 

 橙色の果物。

 

 積み重ねられた茶色いパン。

 

 青や緑の毛糸。

 

 小さな暖房器具の前で、店番のロボットが伝票を数えている。

 

 セイアは外套の前を少し開いた。

 

 市場の中は、暖かいというほどではない。

 

 それでも、風がないだけでずいぶん違った。

 

 魚を扱う店の前を通る。

 

 次は、乾かしたきのこ。

 

 その隣では、瓶詰めの蓋が、同じ方向を向いて並べられていた。

 

 保存しておくためのものが多い。

 

 けれど、食べ物ばかりではなかった。

 

 戸の隙間へ詰めるもの。

 

 靴底へつける滑り止め。

 

 替えの靴紐。

 

 小さな雪かき用の道具。

 

 旅の支度で揃えたものの先にも、まだたくさんの品物があった。

 

     ◇

 

 毛糸の店では、厚い靴下を手に取った。

 

 灰色に、小さな青い模様が入っている。

 

 店番の生徒が、セイアの靴を見た。

 

「外で履くなら、それより薄い方がいいかも。靴の中、きつくなるから」

 

「これは、部屋で使おうと思って」

 

「それなら、こっちの方が柔らかいですよ」

 

 別の一足を出してくれる。

 

 触ると、確かに違った。

 

 模様は、ほとんどない。

 

 その代わり、足首のところがゆるく、手を入れると柔らかく広がった。

 

「今日、泊まりですか」

 

「ああ」

 

「じゃあ、今夜から使えますね」

 

 セイアは、その一足を買った。

 

 持ってこなかったものを補うというより、泊まる夜のために一つ増やしたかった。

 

 生徒は紙の袋へ入れ、口を軽く折った。

 

「濡れたままでは履かないでくださいね」

 

「分かったよ」

 

 受け取ると、袋は驚くほど軽かった。

 

【挿絵表示】

 

     ◇

 

 瓶詰めの店では、黒に近い赤のジャムが気になった。

 

 小さな実が、少し形を残している。

 

「味、見ていきます?」

 

 店員が細い匙へ取ってくれた。

 

 舐めると、最初は甘い。

 

 そのあとから、しっかりした酸味が来た。

 

 セイアは少し目を細めた。

 

「紅茶に合いそうだね」

 

「一緒に食べる人もいますし、少し溶かす人もいますよ」

 

 店員は自分のマグを示した。

 

 底の方に、赤い色が残っている。

 

「どちらがよいのかな」

 

「好みですね。私は、甘くしたい時は入れます」

 

 ずいぶん簡単な答えだった。

 

 セイアは笑い、小さな瓶を選んだ。

 

 その横には、薄く焼いた蜂蜜の菓子があった。

 

 表面へ白い線で模様が描かれている。

 

 丸いもの。

 

 四角いもの。

 

 少しだけ、熊の形に見えるもの。

 

 ミカなら、どれを選ぶだろう。

 

 考えたあとで、熊の形を二つと、ほかのものも少し買った。

 

 全部を熊にしなかった理由は、説明しなくてもよいことにした。

 

     ◇

 

 市場の奥には、焼いた包みパンを売る店があった。

 

 生地の表面が、濃い金色になっている。

 

 甘いものも、肉や野菜の入ったものもあるらしい。

 

 セイアは、品書きを読んだ。

 

 キャベツ。

 

 肉。

 

 じゃがいもときのこ。

 

 どれも気になったが、昼食からそれほど時間は経っていない。

 

「あとで食べることはできるかな」

 

「冷めても食べられるよ。温め直すなら、もっといい」

 

 店主の猫が答えた。

 

 セイアは少し考えた。

 

「では、明日の帰りに買いに来ようかな」

 

「明日は、朝から焼いてるよ。昼までには、一通り出る」

 

 店主は紙袋へ何かを書いた。

 

 営業時間だった。

 

「駅へ行く前なら、寄れると思う」

 

 セイアは紙を受け取った。

 

 買わずに店を出たのに、明日の用事が一つできた。

 

     ◇

 

 市場を抜けたところには、雪の少ない歩道が続いていた。

 

 セイアはそこを、少し先まで歩いた。

 

 建物の窓に、花の鉢が並んでいる。

 

 外から見ると、緑がひどく鮮やかだった。

 

 手前には白い雪。

 

 ガラス一枚の向こうには、葉が伸びている。

 

 小さな蕾のついたものもあった。

 

 隣の窓では、何人かの生徒が卓を囲んでいる。

 

 その上に大きな紙が広げられ、一人が何かを書き、別の一人が首を振った。

 

 何の相談なのかは分からない。

 

 先ほどのプリンの話かもしれないし、全く違うものかもしれない。

 

 セイアは、窓を長く覗き込みすぎないようにして歩いた。

 

 見えるのは、暮らしのほんの端だけだった。

 

     ◇

 

 文化会館の入口は、開いていた。

 

 中へ入ると、広い玄関に長椅子が並んでいる。

 

 壁の掲示板には、部屋の使用予定が貼られていた。

 

 練習。

 

 打ち合わせ。

 

 展示の搬入。

 

 その下には、忘れ物の手袋が、色も形も違うまま並べられている。

 

 セイアは自分の両手を見た。

 

 今のところ、二つともある。

 

 長椅子へ座ると、奥の方から短い音楽が聞こえた。

 

 途中で止まる。

 

 誰かの声。

 

 もう一度、同じところから。

 

 別の扉からは、椅子を動かす音がした。

 

 雪の向こうから見た時には、どの建物も静かだった。

 

 中へ入ると、そうでもない。

 

 セイアは外套の前を開き、買った瓶を鞄の底へ収め直した。

 

 手を動かせる暖かさがあるうちに、やっておいた方がよかった。

 

     ◇

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