百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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11-2.赤色市場通り #灯りの下の雪 #朝の足跡 #遠ざかる町

 

 外へ出た時、雪が降り始めていた。

 

 最初は、見間違えたかと思うほど小さかった。

 

 黒い看板の前を、白い点が一つ落ちる。

 

 次が来る。

 

 見上げると、空の低いところから、同じようなものが幾つも下りてきた。

 

 セイアは、道の端へ寄った。

 

 人の邪魔にならないところで立ち、手袋をした掌を上へ向ける。

 

 一つ載った。

 

 毛糸の上に、小さな白さが残る。

 

 形をよく見ようとして顔を近づけると、少しずつ分からなくなった。

 

 別の一つが、袖へ落ちた。

 

 セイアは、今度は息をかけないようにして眺めた。

 

 近くを通った生徒が、その様子を見て少し笑う。

 

 セイアも、自分がずいぶん熱心になっていることに気づき、手を下ろした。

 

 けれど、すぐには歩き出さなかった。

 

【挿絵表示】

 

     ◇

 

 街灯に灯りが点いた。

 

 空が暗くなったというより、建物の影が濃くなり、白いものの動きが見えやすくなった。

 

 灯りの下では、雪が真っすぐには落ちていない。

 

 右へ流れ、途中で戻り、急に速くなる。

 

 地面へ着くまでに、いくつも向きを変えていた。

 

 セイアは端末を取り出した。

 

 手袋を片方だけ外す。

 

 画面を開き、街灯へ向ける。

 

 写真を撮った。

 

 確かめると、ほとんど写っていなかった。

 

 灯りはある。

 

 建物もある。

 

 肝心の雪は、数えるほどの白い点にしかなっていない。

 

「……そちらでは、そう見えるのか」

 

 もう一度撮ろうとして、指先が冷えていることに気づいた。

 

 端末をしまう。

 

 手袋を戻し、しばらく自分の目で見た。

 

 風が弱まると、雪はゆっくり下りた。

 

 その時だけ、街全体が少し近づいて見えた。

 

     ◇

 

 帰る道は、昼に通った時と違って見えた。

 

 店の庇へ、薄く白い線ができている。

 

 停めてある車の屋根も、少しずつ白くなっていた。

 

 足跡のついた歩道は、まだはっきりしている。

 

 セイアはその中を歩いた。

 

 ゆっくりでも、止まって見ていた時より身体は温まる。

 

 市場の入口では、店員が品物を奥へ寄せていた。

 

 ロボットが短い箒で、戸の前の雪を掃いている。

 

 見慣れないセイアの歩き方に気づいたのか、こちらを見た。

 

「宿、近く?」

 

「ああ。もう、その角だよ」

 

「ならよかった。日が落ちると、足元が見えにくいからね」

 

「ありがとう」

 

 角を曲がる。

 

 宿の窓が明るくなっていた。

 

 その灯りを見て、肩の力が少し抜けた。

 

     ◇

 

 玄関へ入る前に、外套についた雪を払った。

 

 払ったつもりでも、風除室へ入ると、袖の縫い目に白いものが残っている。

 

 もう一度、手で落とす。

 

 内側の扉を開けると、主人が顔を上げた。

 

「お帰りなさい」

 

「ただいま」

 

「降ってきましたね」

 

「ああ。少し、見ていた」

 

 言ってから、声が普段より小さくなっていることに気づいた。

 

 口元まで、少し冷えていたらしい。

 

 主人は帳場の横を示す。

 

「先に暖まっていってください。夕食は、どうします?」

 

「こちらで食べたい。何があるのかな」

 

「今日は、肉の入った茹で餃子です。きのこの汁もありますよ」

 

 セイアは、ほとんど迷わず頷いた。

 

「両方、お願いするよ」

 

 昼間、市場で何を買うか考えていた時より、返事がずっと早かった。

 

     ◇

 

 部屋へ戻り、外套を掛けた。

 

 手袋を外す。

 

 靴を脱ぐと、足先の冷たさがはっきり分かった。

 

 濡れているほどではない。

 

 けれど、長く外を歩いてきた温度が残っていた。

 

 着替え、足を乾かしてから、市場で買った靴下を履く。

 

 柔らかい。

 

 つま先を動かすと、厚い生地が少し遅れてついてきた。

 

 セイアはベッドの端へ座ったまま、もう一度足を動かした。

 

「……よい買い物だったね」

 

 窓の外を見る。

 

 中庭の道にも、薄く雪が積もり始めていた。

 

 向かいの扉が開き、誰かが出てくる。

 

 外套の肩へ、すぐに白い点がついた。

 

 その人は、道を渡って別の建物へ入っていった。

 

 セイアは、窓から少し離れた。

 

 今は、暖かい方にいられる。

 

     ◇

 

 夕食の席は、一階の長卓だった。

 

 ほかの客も、何人か座っている。

 

 部屋ごとに離れているわけではないが、無理に話すような配置でもなかった。

 

 セイアの前へ、深い皿が置かれる。

 

 小さなペリメニが、幾つも入っていた。

 

 表面には溶けたバターが絡み、刻んだ緑の葉が少し散っている。

 

 別の器には、サワークリーム。

 

 匙で一つすくう。

 

 丸く折られた生地は、見た目よりしっかりしていた。

 

 一口で食べられそうだったが、念のため半分にする。

 

 中から熱い汁が出た。

 

 セイアは少し冷まし、口へ運んだ。

 

 肉の旨みと、生地の弾力。

 

 バターの香りが重なり、噛むたびに温かさが広がる。

 

 次は、サワークリームを少しつけた。

 

 酸味が加わると、口の中が軽くなった。

 

 それでもう一つ、食べたくなる。

 

 隣の客は、胡椒を少し多く振っていた。

 

 セイアも、その次の一つにだけ試してみた。

 

 同じ皿の中で、食べ方が三つになった。

 

     ◇

 

 きのこの汁には、大麦が入っていた。

 

 匙を沈めると、底の方から小さな粒が出てくる。

 

 きのこは柔らかいものと、少し歯触りが残るものが混じっていた。

 

 昼の赤いスープより、ずっと控えめな色だった。

 

 口へ運ぶと、深い香りがある。

 

 肉の皿を食べたあとに飲むと、舌が少し落ち着いた。

 

 パンをちぎる。

 

 今度は、最初から二枚取るかどうか迷わなかった。

 

 主人が窓のカーテンを半分閉めた。

 

 そこへ、外から戻った客が一人入ってくる。

 

 帽子を脱ぎ、肩の雪を落とす。

 

「まだ、食べられます?」

 

「ありますよ」

 

「よかった」

 

 その生徒は、心から安心した声で言った。

 

 セイアは、自分もさっき同じように頼んだことを思い出した。

 

 皿が運ばれるまで、その生徒は両手を擦り合わせていた。

 

     ◇

 

 食後の茶は、自分で淹れることになっていた。

 

 卓の端に茶葉と湯が置かれ、カップが並んでいる。

 

 セイアは席を立った。

 

 一杯分を用意しようとして、鞄の中のジャムを思い出す。

 

 部屋へ戻って瓶を持ってくると、隣の席の生徒が顔を上げた。

 

「それ、市場の?」

 

「ああ。今日、買ったんだ」

 

「酸っぱい方だよね。私も好き」

 

 その声が嬉しかった。

 

 セイアは小さな器を借り、ジャムを少し移した。

 

「よければ、どうぞ」

 

「いいの?」

 

「一瓶を、今夜中に食べるわけにはいかないのでね」

 

 生徒が笑い、礼を言った。

 

 反対側の客も、勧めると少しだけ取った。

 

 かわりに、包みに入ったビスケットが卓の中央へ出てくる。

 

「これ、どうぞ。割れてるけど」

 

「味には、影響しないだろう」

 

 セイアが一枚取ると、生徒は嬉しそうに頷いた。

 

 茶を注ぎ、席へ戻る。

 

 一人で泊まるために借りた宿だったが、今、卓の上には、自分だけでは揃えなかったものが並んでいた。

 

     ◇

 

「どこから来たんですか」

 

 客の一人が尋ねた。

 

「トリニティからだよ」

 

「遠いですね」

 

「列車には、長く乗ったね。君たちは?」

 

「私は同じ自治区です。でも、ここからだと、まだ乗り継ぎがあって」

 

 生徒は、指で簡単に行き先を示した。

 

 広い範囲を丸くなぞるような動きだった。

 

 別の客は、朝からこちらへ用事で来ていたらしい。

 

 日帰りできなくはないが、明日の朝の方が楽なので泊まるという。

 

 セイアは、お茶を飲みながら聞いた。

 

 自分が遠くまで来たと思った場所にも、さらに向こうから来ている人がいる。

 

 話題は、列車と、暖房と、朝食へ移った。

 

 誰も、長く立派な話をしようとはしなかった。

 

 ジャムを茶へ少し溶かすと、赤い色が広がった。

 

 セイアは飲んでみた。

 

 甘さのあとに酸味が来る。

 

 窓の外には雪がある。

 

 今夜は、この味を気に入った。

 

     ◇

 

 部屋へ戻ったあと、セイアは本を少し読んだ。

 

 暖房のそばの椅子へ座る。

 

 机の上には、飲み残した茶。

 

 靴下の中で、足先がすっかり温まっていた。

 

 読んでいる間、建物の中からいくつか音がした。

 

 廊下の足音。

 

 扉の閉まる音。

 

 管の中を、何かが流れるような低い音。

 

 ときどき、外を車が通る。

 

 窓の向こうを明るさが横切り、天井へ細く映って、消えた。

 

 セイアは本を閉じ、カーテンの隙間から外を見た。

 

 中庭の雪は、昼より厚くなっていた。

 

 足跡のないところは、淡く光っている。

 

 その中を、建物から建物へ、一筋だけ新しい跡が続いていた。

 

     ◇

 

 ミカへ写真を送ったのは、そのあとだった。

 

 昼間の食堂。

 

 市場の瓶詰め。

 

 夕方の街灯。

 

 最後の一枚は、雪があまり写っていなかった。

 

『雪、もっと降ってるんだよね?』

 

 返事が来る。

 

『ああ。写真では、上手く写らなかった』

 

『セイアちゃんは?』

 

 セイアは窓に映った自分を見た。

 

 寝る支度をした姿では、厚着の写真にはならない。

 

 少し考え、ベッドの上に並べた手袋と帽子を撮った。

 

『今は、全員休んでいるよ』

 

 ミカから、笑っている顔が届いた。

 

 そのあと、ナギサから短く、

 

『暖かくして、お休みください』

 

 と来た。

 

 セイアは返事をし、端末を置いた。

 

 暖かくすることが、今日ほど具体的に分かる夜は、あまりなかった。

 

     ◇

 

 夜中に一度、目が覚めた。

 

 何か大きな音がしたわけではない。

 

 布団の中が暖かく、喉が少し乾いていた。

 

 水を飲み、窓を見た。

 

 カーテンの下に、薄い明るさがある。

 

 時計を見るには暗かったが、まだ朝ではないと分かった。

 

 セイアはまた横になった。

 

 遠くで、低い機械の音がした。

 

 長く続き、少しずつ遠ざかる。

 

 それが何の音か、今は確かめなかった。

 

 足先を布団の中で動かす。

 

 市場で買った靴下は脱いで、椅子へ揃えて置いてある。

 

 そんなことを思い出しているうちに、もう一度眠った。

 

     ◇

 

 朝、カーテンを開けると、中庭の形が少し変わっていた。

 

 雪が降り積もったのだ。

 

 夜に見えた足跡は、ほとんど埋まっている。

 

 道の端も、昨日より丸い。

 

 けれど、扉の前だけは、すでに雪が除かれていた。

 

 そこから、一人分の幅の道が伸びている。

 

 誰かが歩いている。

 

 小さな雪かき用の道具を押し、端へ寄せ、また戻る。

 

 セイアは窓へ近づいた。

 

 昨夜、遠くで聞こえた機械の音を思い出す。

 

 大きな道は、今頃、どうなっているのだろう。

 

 時計を見る。

 

 朝食までは、まだ少し時間があった。

 

     ◇

 

 身支度をして下りると、主人は入口の敷物を整えていた。

 

「おはようございます」

 

「おはよう。少し、外へ出てみてもいいかな」

 

「玄関の前なら。道の向こうは、まだ作業しているところがありますから」

 

 セイアは頷き、外套の前を閉じた。

 

 手袋も、今度は左右揃えてポケットへ入れてあった。

 

 扉を開く。

 

 昨日の昼よりも、空気が冷たい。

 

 けれど、どういう冷たさが来るかは、少し分かっていた。

 

 靴を下ろす。

 

 新しい雪の上で、きゅ、と音がした。

 

 セイアは立ち止まった。

 

 もう一歩。

 

 同じような音がする。

 

 足を上げたあとに、靴底の形がはっきり残った。

 

 それを見ていると、横から声がした。

 

「よければ、そこ、もう少しだけ空けてもらえますか」

 

     ◇

 

 道具を持った生徒が、入口の脇にいた。

 

 セイアはすぐに道を空けた。

 

「失礼。足元ばかり見ていた」

 

「最初、そうなりますよね」

 

 生徒は笑い、雪を押し始めた。

 

 白い層の下から、昨日見た敷石の色が現れる。

 

「少しなら、手伝えるかな」

 

 セイアが尋ねると、生徒は一度こちらを見た。

 

「じゃあ、この端だけ。重いところは、そのままで大丈夫です」

 

 渡された道具は、思ったより大きかった。

 

 構えて押す。

 

 雪が前へ集まる。

 

 少し進むと、急に重くなった。

 

「……なるほど」

 

「いっぺんに行くと、そうなります」

 

 生徒が小さく笑う。

 

 セイアは半分だけ戻し、今度は薄く押した。

 

 それなら動く。

 

 端へ寄せ、もう一度。

 

 数回繰り返すと、足元に小さな四角い場所ができた。

 

 そこへ、別の客が出てきた。

 

 雪のない場所で鞄を持ち替え、二人へ礼を言って道へ出る。

 

 セイアは、その靴が敷石を踏んでいくところを見た。

 

     ◇

 

 大きな作業をしたわけではなかった。

 

 入口の横を、少し広げただけだ。

 

 それでも部屋へ戻る前に手袋を外すと、手の中が温かくなっていた。

 

「ありがとうございました」

 

 生徒が道具を受け取る。

 

「こちらこそ。思ったより、難しかったよ」

 

「慣れると、ちょうどいい幅で押せるようになります」

 

 生徒は、さっきセイアが動かしたところの端を、一度だけ整えた。

 

 それから別の場所へ向かう。

 

 セイアは、まだ手を入れていない中庭の雪を見た。

 

 平らで、きれいだった。

 

 その横の、少し不揃いな雪の山を見る。

 

 こちらは、自分が押したものだった。

 

 写真を撮るなら、前者の方がよいのかもしれない。

 

 けれど、入口を使う人には、後者が必要だった。

 

 セイアは手袋を軽く叩き、建物へ戻った。

 

 朝食の匂いがしていた。

 

     ◇

 

 朝食は、丸く焼いたチーズ入りの小さなパンケーキだった。

 

 表面には焼き色がつき、切ると、中は白く柔らかい。

 

 横にはサワークリームと、少量のジャム。

 

 卵と、温かい飲み物もついていた。

 

 セイアは一切れ取った。

 

 甘さは強くない。

 

 少し酸味があり、噛むとしっとりしている。

 

 昨日買ったジャムに似た赤いものをつけると、味がはっきり変わった。

 

 朝から、悪くない食べ方だった。

 

 昨夜、ビスケットを出してくれた生徒が向かいに座る。

 

「外、行ってた?」

 

「ああ。少しだけ」

 

「寒かったでしょう」

 

「今は、お腹が空いた方がよく分かるね」

 

 生徒が笑った。

 

 セイアも笑い、二切れ目を食べた。

 

 朝食を食べる前に、身体を少し使った。

 

 それだけで、皿の上のものが、昨日とは違う速さで減っていった。

 

     ◇

 

 出発までの時間は、雪のない道を選んで歩いた。

 

 広場へ抜ける大通りには、すでに車が走っていた。

 

 端には、新しく寄せられた雪がある。

 

 夜、寝ている間にも、この道を使えるようにしていた人たちがいたのだ。

 

 セイアは歩道の上を進んだ。

 

 昨日、風に押されるようにして渡った広場が見える。

 

 今朝は、雲の間に少し青いところがあった。

 

 像の肩には、新しい雪が載っている。

 

 その近くで、生徒が小さな雪だるまを作っていた。

 

 一人が顔へ何かを描こうとし、もう一人が黒い紙を出す。

 

 少しして、雪だるまに立派な髭がついた。

 

 セイアは足を止めた。

 

 生徒たちが、その出来栄えを見て笑っている。

 

 像と雪だるまを同じ画面へ入れようとして、端末の角度を何度か変えた。

 

 今度は、写真にもよく写った。

 

     ◇

 

 市場は、開店したばかりだった。

 

 棚へ品物を並べている店がある。

 

 入口の前で、靴についた雪を落とす人がいる。

 

 昨日と同じ屋根の下なのに、声が少し少なかった。

 

 セイアは、包みパンの店へ向かった。

 

 覚えていた匂いがする。

 

 店主の猫がこちらを見て、頷いた。

 

「来たね」

 

「帰りに寄ると言ったからね」

 

「今日は、きのこのが先に焼けてるよ。肉の方は、もう少し」

 

 セイアは天板を見た。

 

 丸く膨らんだ生地に、小さな切れ目がある。

 

 そこから、薄い湯気が出ていた。

 

「きのこを一つ。それから、キャベツのものも」

 

「列車で?」

 

「ああ」

 

 店主は包み方を変えた。

 

 蒸気がこもりすぎないよう、少し余裕を持たせる。

 

「熱いうちは、袋をきつく閉じないでね」

 

 受け取ると、紙の底が温かかった。

 

 セイアは両手で持った。

 

 昨日の雪と同じように、今度も、長くそのままでは残らないものだった。

 

     ◇

 

 宿へ戻って荷物を受け取り、会計を済ませた。

 

 机の上へ鍵を置く。

 

 主人が宿帳を閉じた。

 

「よくお休みになれましたか」

 

「ああ。暖かかったよ」

 

 言ってから、もう少し何か付け加えようとした。

 

 部屋が静かだったこと。

 

 夕食が美味しかったこと。

 

 濡れたものを、朝には乾かせたこと。

 

 けれど、主人は最初の言葉だけで、満足そうに頷いていた。

 

「それは、何よりです」

 

 セイアも頷いた。

 

 外套を着る。

 

 帽子をかぶる。

 

 手袋をはめる。

 

 昨日よりも、支度が少し早くなっていた。

 

 最後に、パンの袋を鞄の上へ置く。

 

 玄関を出ると、朝に広げた敷石が見えた。

 

 セイアはそこへ立ち、荷物を持ち直した。

 

     ◇

 

 駅へ向かうバスの窓から、町が少しずつ離れていった。

 

 市場の長い屋根。

 

 共同食堂の大きな窓。

 

 風の通る広場。

 

 昨日は、どこで降りればよいかを気にしていた。

 

 今日は、通り過ぎる場所に、短い時間が一つずつある。

 

 あそこでスープを飲んだ。

 

 あの通りで、雪を見ていた。

 

 あの建物へ入ると、手を動かせるくらい暖かかった。

 

 セイアは、窓の外を最後まで見ていた。

 

 駅へ着くと、列車は少し遅れていた。

 

 案内表示を確かめる。

 

 乗り継ぎには、まだ余裕がある。

 

 セイアは待合室へ入り、ベンチへ座った。

 

 暖房のある場所へ先に入ることを、今は迷わなかった。

 

     ◇

 

 手袋をしたまま、切符を取り出そうとした。

 

 指が上手く動かず、財布の端を一度つかみ損ねる。

 

 セイアは手を止めた。

 

 昨夜の帰り道なら、外してから冷たい指で探していたかもしれない。

 

 今は、待合室にいる。

 

 手袋を膝へ揃えて置き、ゆっくり財布を開いた。

 

 切符を確かめる。

 

 鞄の中の瓶も、菓子も、つぶれていない。

 

 最後に、パンの袋を少し開けた。

 

 きのこの香りが近づいた。

 

 昼食にはまだ早かったが、ひと口くらい食べたい。

 

 セイアは周囲を見て、飲食してよい場所であることを確かめた。

 

 そして、片方を取り出した。

 

     ◇

 

 生地は、外側に薄い張りがあった。

 

 歯を入れると、その下は柔らかい。

 

 中には、細かく刻まれたきのこと玉葱。

 

 噛むと、少しずつ旨みが出た。

 

 脂が強すぎず、パンの甘さも残っている。

 

 セイアはひと口のつもりで、もうひと口食べた。

 

 列車の案内が入る。

 

 待っていた人たちが顔を上げた。

 

 セイアも紙を畳み、残りを包む。

 

 まだ温かいものを、最後までここで食べてしまう必要はない。

 

 列車へ持っていけばよかった。

 

     ◇

 

 走り出した窓の向こうで、雪の街が遠ざかった。

 

 最後まで白い地面が続く。

 

 その上を、建物の影と、細い木の影が横切っていた。

 

 セイアは外套を脱ぎ、座席へ収まった。

 

 車内が暖かい。

 

 行きにも同じように思ったはずなのに、帰りは、その暖かさを少し長く感じた。

 

 鞄から本を出す。

 

 開く前に、青い手帖も出した。

 

 D.U.で買った、小さなものだ。

 

 新しい頁を開き、今日のことを書こうとする。

 

 寒かった。

 

 スープが美味しかった。

 

 夜に雪が降った。

 

 どれも本当だったが、それだけでは、少し足りない気がした。

 

 しばらく考え、先に一行だけ書いた。

 

『手袋は、外へ出る前に。』

 

 読み返す。

 

 自分にしか役立たない、旅行の記録だった。

 

 セイアは笑い、その下へ、食堂と宿のことを書き始めた。

 

     ◇

 

 乗り換える頃には、雪は道の端に残るだけになっていた。

 

 さらに列車が進むと、それも少なくなる。

 

 窓の外に、土の色が戻ってきた。

 

 緑の葉も見える。

 

 同じ日のうちに、こんなに違う景色へ来てしまうことが、不思議だった。

 

 セイアは手袋を鞄の外側の仕切りへ入れた。

 

 今度は、左右揃えて。

 

 ミカへ写真を送る。

 

 市場。

 

 赤いスープ。

 

 朝の雪だるま。

 

 最後の一枚に、すぐ返事が来た。

 

『そっちの雪だるま、髭あるんだ』

 

『あの広場では、そうだったよ』

 

『セイアちゃんも作った?』

 

 セイアは少し考えた。

 

 雪で何かを作ったわけではない。

 

 むしろ、動かした。

 

『入口を、少し広くしてきた』

 

 送ってから、説明が足りないと思った。

 

 案の定、ミカから疑問符が届いた。

 

 セイアは、帰って話そうと思った。

 

     ◇

 

 トリニティへ着いた時には、夜だった。

 

 雪は降っていない。

 

 駅から歩く道で、セイアは首元を少し緩めた。

 

 同じ外套を着ているのに、今は暖かすぎるくらいだった。

 

 見慣れた建物へ入る。

 

 談話室の扉を開けると、ミカが顔を上げた。

 

「お帰り!」

 

「ただいま」

 

「……ほんとに、顔しか見えない」

 

「少々、厚着をしているだけだよ」

 

 帽子を脱ぎ、外套を掛ける。

 

 ナギサが立ち上がり、鞄を置く場所を空けてくれた。

 

「お疲れさまでした。道中は大丈夫でしたか」

 

「ああ。少し遅れた列車もあったけれど、問題なく帰れたよ」

 

 セイアは袋を取り出した。

 

 蜂蜜の菓子。

 

 小さなジャムの瓶。

 

 ミカが、熊の形を見つけて笑う。

 

「これ、私の?」

 

「一つはね」

 

「もう一つは?」

 

「私も、食べてみたかったので」

 

 ナギサが小皿を取りに向かった。

 

 セイアは椅子へ座った。

 

 もう、靴の底から冷えてくることはなかった。

 

     ◇

 

 お茶が来るまでに、食堂の話をした。

 

 赤いスープに、白いクリームを少しずつ溶かしたこと。

 

 パンを何枚取るか、前の人たちを見て決めたこと。

 

 プリンを大きくするか、二個にするかを話し合っていた生徒たちのこと。

 

「二個の方がいいよ」

 

 ミカが即座に言った。

 

「理由は?」

 

「一個食べたあと、まだ一個あるから」

 

 セイアは笑った。

 

「彼女たちへ伝えたかったね」

 

 ナギサも、カップを並べながら口元を緩める。

 

「大きさにもよるでしょう」

 

「……それは、私も言ったよ」

 

「では、結論は出ていないのですね」

 

「ああ。大切な問題なのでね」

 

 三人で笑った。

 

 旅先の食堂の入口で聞いた話が、ずいぶん遠くまで来てしまった。

 

     ◇

 

 ジャムは、まず小皿へ出して味わうことにした。

 

 ミカが少し舐め、思っていたより酸っぱかったのか、目を丸くする。

 

「もっと甘いと思った」

 

「そのあとで、お茶を飲んでみるといい」

 

 セイアに言われ、飲む。

 

 ミカは少し考えた。

 

 それから、もう一度ジャムへ手を伸ばした。

 

 ナギサも試してみる。

 

「こちらの方が、お茶の香りは分かりやすいですね」

 

「私は、向こうでは少し溶かして飲んだよ」

 

「どうでした?」

 

 セイアは、宿の長卓を思い出した。

 

 濡れた外套。

 

 食べ終えた皿。

 

 誰かが出してくれた、少し割れたビスケット。

 

 赤い色の沈んだ茶。

 

「……あの晩には、よく合った」

 

 ナギサは頷いた。

 

 それ以上、どちらがよいかを決めようとはしなかった。

 

     ◇

 

 雪の写真を見せると、ミカは端末へ顔を寄せた。

 

「降ってるところ、あんまり見えないね」

 

「実際には、もっとあったんだが」

 

「でも、寒そうなのは分かる」

 

 セイアは同じ写真を見た。

 

 暗い建物。

 

 街灯。

 

 数えるほどの、白い点。

 

 外した左手が冷たくなり、もう一度手袋へ戻したところまで、自分には思い出せた。

 

 ミカには、それは分からないだろう。

 

 そのかわり、向こうは画面の中に、何か別のものを見つけたらしい。

 

「あ、ここ。窓、明るい」

 

 指の先に、宿の近くの建物があった。

 

 セイアは頷く。

 

「ああ。あの道を曲がると、泊まった宿があった」

 

「近かったんだ」

 

「そう。あの時は、もう帰るところだったよ」

 

 ミカは、少し安心したように笑った。

 

     ◇

 

 ナギサがお茶を足そうとした時、セイアは先にポットへ手を伸ばした。

 

「私がやるよ」

 

「ありがとうございます」

 

 カップを寄せる。

 

 温かい茶が、細く注がれる。

 

 ミカの分。

 

 ナギサの分。

 

 最後に、自分の分。

 

 席へ戻ると、二人ともカップを持っていた。

 

 何度も見てきた光景だった。

 

 ミカが一口飲み、菓子の皿をこちらへ寄せる。

 

 ナギサは、窓へ一度目をやった。

 

「こちらも、少し冷えるようになりましたね」

 

 セイアは同じ方を見た。

 

 暗い庭。

 

 灯りの届く窓辺。

 

 ガラスの内側にいる、三人の姿。

 

 レッドウィンターの窓の中で見たものを、今は反対側から見ていた。

 

     ◇

 

 自室へ戻る頃には、もう遅かった。

 

 荷物をほどく。

 

 着替えを出し、土産を包んでいた紙を畳む。

 

 市場で買った靴下は、洗うものと分けて置いた。

 

 手袋を取り出すと、指の先に、あの朝の道具を押した感触が少し戻った。

 

 入口の脇にできた、小さな四角い場所。

 

 そこへ立って、客が鞄を持ち替えた。

 

 今頃はまた、雪が載っているかもしれない。

 

 けれど、その人はあの時、雪を踏まずに出かけられた。

 

 セイアは手袋を、左右揃えて棚へ置いた。

 

 外へ出る時には、すぐ取れる場所だった。

 

 手帖を閉じ、本の隣へ収める。

 

 窓の外を見る。

 

 雪はない。

 

 明日の朝も、たぶんいつもの道を歩く。

 

 セイアは最後に、厚い外套の肩を軽く撫でた。

 

 すっかり乾いていた。

 

 それから部屋の灯りを消すために立ち上がり、もう一度だけ、棚の上へ目を向けた。

 

 手袋は、二つともそこにあった。

 

 

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