外へ出た時、雪が降り始めていた。
最初は、見間違えたかと思うほど小さかった。
黒い看板の前を、白い点が一つ落ちる。
次が来る。
見上げると、空の低いところから、同じようなものが幾つも下りてきた。
セイアは、道の端へ寄った。
人の邪魔にならないところで立ち、手袋をした掌を上へ向ける。
一つ載った。
毛糸の上に、小さな白さが残る。
形をよく見ようとして顔を近づけると、少しずつ分からなくなった。
別の一つが、袖へ落ちた。
セイアは、今度は息をかけないようにして眺めた。
近くを通った生徒が、その様子を見て少し笑う。
セイアも、自分がずいぶん熱心になっていることに気づき、手を下ろした。
けれど、すぐには歩き出さなかった。
◇
街灯に灯りが点いた。
空が暗くなったというより、建物の影が濃くなり、白いものの動きが見えやすくなった。
灯りの下では、雪が真っすぐには落ちていない。
右へ流れ、途中で戻り、急に速くなる。
地面へ着くまでに、いくつも向きを変えていた。
セイアは端末を取り出した。
手袋を片方だけ外す。
画面を開き、街灯へ向ける。
写真を撮った。
確かめると、ほとんど写っていなかった。
灯りはある。
建物もある。
肝心の雪は、数えるほどの白い点にしかなっていない。
「……そちらでは、そう見えるのか」
もう一度撮ろうとして、指先が冷えていることに気づいた。
端末をしまう。
手袋を戻し、しばらく自分の目で見た。
風が弱まると、雪はゆっくり下りた。
その時だけ、街全体が少し近づいて見えた。
◇
帰る道は、昼に通った時と違って見えた。
店の庇へ、薄く白い線ができている。
停めてある車の屋根も、少しずつ白くなっていた。
足跡のついた歩道は、まだはっきりしている。
セイアはその中を歩いた。
ゆっくりでも、止まって見ていた時より身体は温まる。
市場の入口では、店員が品物を奥へ寄せていた。
ロボットが短い箒で、戸の前の雪を掃いている。
見慣れないセイアの歩き方に気づいたのか、こちらを見た。
「宿、近く?」
「ああ。もう、その角だよ」
「ならよかった。日が落ちると、足元が見えにくいからね」
「ありがとう」
角を曲がる。
宿の窓が明るくなっていた。
その灯りを見て、肩の力が少し抜けた。
◇
玄関へ入る前に、外套についた雪を払った。
払ったつもりでも、風除室へ入ると、袖の縫い目に白いものが残っている。
もう一度、手で落とす。
内側の扉を開けると、主人が顔を上げた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「降ってきましたね」
「ああ。少し、見ていた」
言ってから、声が普段より小さくなっていることに気づいた。
口元まで、少し冷えていたらしい。
主人は帳場の横を示す。
「先に暖まっていってください。夕食は、どうします?」
「こちらで食べたい。何があるのかな」
「今日は、肉の入った茹で餃子です。きのこの汁もありますよ」
セイアは、ほとんど迷わず頷いた。
「両方、お願いするよ」
昼間、市場で何を買うか考えていた時より、返事がずっと早かった。
◇
部屋へ戻り、外套を掛けた。
手袋を外す。
靴を脱ぐと、足先の冷たさがはっきり分かった。
濡れているほどではない。
けれど、長く外を歩いてきた温度が残っていた。
着替え、足を乾かしてから、市場で買った靴下を履く。
柔らかい。
つま先を動かすと、厚い生地が少し遅れてついてきた。
セイアはベッドの端へ座ったまま、もう一度足を動かした。
「……よい買い物だったね」
窓の外を見る。
中庭の道にも、薄く雪が積もり始めていた。
向かいの扉が開き、誰かが出てくる。
外套の肩へ、すぐに白い点がついた。
その人は、道を渡って別の建物へ入っていった。
セイアは、窓から少し離れた。
今は、暖かい方にいられる。
◇
夕食の席は、一階の長卓だった。
ほかの客も、何人か座っている。
部屋ごとに離れているわけではないが、無理に話すような配置でもなかった。
セイアの前へ、深い皿が置かれる。
小さなペリメニが、幾つも入っていた。
表面には溶けたバターが絡み、刻んだ緑の葉が少し散っている。
別の器には、サワークリーム。
匙で一つすくう。
丸く折られた生地は、見た目よりしっかりしていた。
一口で食べられそうだったが、念のため半分にする。
中から熱い汁が出た。
セイアは少し冷まし、口へ運んだ。
肉の旨みと、生地の弾力。
バターの香りが重なり、噛むたびに温かさが広がる。
次は、サワークリームを少しつけた。
酸味が加わると、口の中が軽くなった。
それでもう一つ、食べたくなる。
隣の客は、胡椒を少し多く振っていた。
セイアも、その次の一つにだけ試してみた。
同じ皿の中で、食べ方が三つになった。
◇
きのこの汁には、大麦が入っていた。
匙を沈めると、底の方から小さな粒が出てくる。
きのこは柔らかいものと、少し歯触りが残るものが混じっていた。
昼の赤いスープより、ずっと控えめな色だった。
口へ運ぶと、深い香りがある。
肉の皿を食べたあとに飲むと、舌が少し落ち着いた。
パンをちぎる。
今度は、最初から二枚取るかどうか迷わなかった。
主人が窓のカーテンを半分閉めた。
そこへ、外から戻った客が一人入ってくる。
帽子を脱ぎ、肩の雪を落とす。
「まだ、食べられます?」
「ありますよ」
「よかった」
その生徒は、心から安心した声で言った。
セイアは、自分もさっき同じように頼んだことを思い出した。
皿が運ばれるまで、その生徒は両手を擦り合わせていた。
◇
食後の茶は、自分で淹れることになっていた。
卓の端に茶葉と湯が置かれ、カップが並んでいる。
セイアは席を立った。
一杯分を用意しようとして、鞄の中のジャムを思い出す。
部屋へ戻って瓶を持ってくると、隣の席の生徒が顔を上げた。
「それ、市場の?」
「ああ。今日、買ったんだ」
「酸っぱい方だよね。私も好き」
その声が嬉しかった。
セイアは小さな器を借り、ジャムを少し移した。
「よければ、どうぞ」
「いいの?」
「一瓶を、今夜中に食べるわけにはいかないのでね」
生徒が笑い、礼を言った。
反対側の客も、勧めると少しだけ取った。
かわりに、包みに入ったビスケットが卓の中央へ出てくる。
「これ、どうぞ。割れてるけど」
「味には、影響しないだろう」
セイアが一枚取ると、生徒は嬉しそうに頷いた。
茶を注ぎ、席へ戻る。
一人で泊まるために借りた宿だったが、今、卓の上には、自分だけでは揃えなかったものが並んでいた。
◇
「どこから来たんですか」
客の一人が尋ねた。
「トリニティからだよ」
「遠いですね」
「列車には、長く乗ったね。君たちは?」
「私は同じ自治区です。でも、ここからだと、まだ乗り継ぎがあって」
生徒は、指で簡単に行き先を示した。
広い範囲を丸くなぞるような動きだった。
別の客は、朝からこちらへ用事で来ていたらしい。
日帰りできなくはないが、明日の朝の方が楽なので泊まるという。
セイアは、お茶を飲みながら聞いた。
自分が遠くまで来たと思った場所にも、さらに向こうから来ている人がいる。
話題は、列車と、暖房と、朝食へ移った。
誰も、長く立派な話をしようとはしなかった。
ジャムを茶へ少し溶かすと、赤い色が広がった。
セイアは飲んでみた。
甘さのあとに酸味が来る。
窓の外には雪がある。
今夜は、この味を気に入った。
◇
部屋へ戻ったあと、セイアは本を少し読んだ。
暖房のそばの椅子へ座る。
机の上には、飲み残した茶。
靴下の中で、足先がすっかり温まっていた。
読んでいる間、建物の中からいくつか音がした。
廊下の足音。
扉の閉まる音。
管の中を、何かが流れるような低い音。
ときどき、外を車が通る。
窓の向こうを明るさが横切り、天井へ細く映って、消えた。
セイアは本を閉じ、カーテンの隙間から外を見た。
中庭の雪は、昼より厚くなっていた。
足跡のないところは、淡く光っている。
その中を、建物から建物へ、一筋だけ新しい跡が続いていた。
◇
ミカへ写真を送ったのは、そのあとだった。
昼間の食堂。
市場の瓶詰め。
夕方の街灯。
最後の一枚は、雪があまり写っていなかった。
『雪、もっと降ってるんだよね?』
返事が来る。
『ああ。写真では、上手く写らなかった』
『セイアちゃんは?』
セイアは窓に映った自分を見た。
寝る支度をした姿では、厚着の写真にはならない。
少し考え、ベッドの上に並べた手袋と帽子を撮った。
『今は、全員休んでいるよ』
ミカから、笑っている顔が届いた。
そのあと、ナギサから短く、
『暖かくして、お休みください』
と来た。
セイアは返事をし、端末を置いた。
暖かくすることが、今日ほど具体的に分かる夜は、あまりなかった。
◇
夜中に一度、目が覚めた。
何か大きな音がしたわけではない。
布団の中が暖かく、喉が少し乾いていた。
水を飲み、窓を見た。
カーテンの下に、薄い明るさがある。
時計を見るには暗かったが、まだ朝ではないと分かった。
セイアはまた横になった。
遠くで、低い機械の音がした。
長く続き、少しずつ遠ざかる。
それが何の音か、今は確かめなかった。
足先を布団の中で動かす。
市場で買った靴下は脱いで、椅子へ揃えて置いてある。
そんなことを思い出しているうちに、もう一度眠った。
◇
朝、カーテンを開けると、中庭の形が少し変わっていた。
雪が降り積もったのだ。
夜に見えた足跡は、ほとんど埋まっている。
道の端も、昨日より丸い。
けれど、扉の前だけは、すでに雪が除かれていた。
そこから、一人分の幅の道が伸びている。
誰かが歩いている。
小さな雪かき用の道具を押し、端へ寄せ、また戻る。
セイアは窓へ近づいた。
昨夜、遠くで聞こえた機械の音を思い出す。
大きな道は、今頃、どうなっているのだろう。
時計を見る。
朝食までは、まだ少し時間があった。
◇
身支度をして下りると、主人は入口の敷物を整えていた。
「おはようございます」
「おはよう。少し、外へ出てみてもいいかな」
「玄関の前なら。道の向こうは、まだ作業しているところがありますから」
セイアは頷き、外套の前を閉じた。
手袋も、今度は左右揃えてポケットへ入れてあった。
扉を開く。
昨日の昼よりも、空気が冷たい。
けれど、どういう冷たさが来るかは、少し分かっていた。
靴を下ろす。
新しい雪の上で、きゅ、と音がした。
セイアは立ち止まった。
もう一歩。
同じような音がする。
足を上げたあとに、靴底の形がはっきり残った。
それを見ていると、横から声がした。
「よければ、そこ、もう少しだけ空けてもらえますか」
◇
道具を持った生徒が、入口の脇にいた。
セイアはすぐに道を空けた。
「失礼。足元ばかり見ていた」
「最初、そうなりますよね」
生徒は笑い、雪を押し始めた。
白い層の下から、昨日見た敷石の色が現れる。
「少しなら、手伝えるかな」
セイアが尋ねると、生徒は一度こちらを見た。
「じゃあ、この端だけ。重いところは、そのままで大丈夫です」
渡された道具は、思ったより大きかった。
構えて押す。
雪が前へ集まる。
少し進むと、急に重くなった。
「……なるほど」
「いっぺんに行くと、そうなります」
生徒が小さく笑う。
セイアは半分だけ戻し、今度は薄く押した。
それなら動く。
端へ寄せ、もう一度。
数回繰り返すと、足元に小さな四角い場所ができた。
そこへ、別の客が出てきた。
雪のない場所で鞄を持ち替え、二人へ礼を言って道へ出る。
セイアは、その靴が敷石を踏んでいくところを見た。
◇
大きな作業をしたわけではなかった。
入口の横を、少し広げただけだ。
それでも部屋へ戻る前に手袋を外すと、手の中が温かくなっていた。
「ありがとうございました」
生徒が道具を受け取る。
「こちらこそ。思ったより、難しかったよ」
「慣れると、ちょうどいい幅で押せるようになります」
生徒は、さっきセイアが動かしたところの端を、一度だけ整えた。
それから別の場所へ向かう。
セイアは、まだ手を入れていない中庭の雪を見た。
平らで、きれいだった。
その横の、少し不揃いな雪の山を見る。
こちらは、自分が押したものだった。
写真を撮るなら、前者の方がよいのかもしれない。
けれど、入口を使う人には、後者が必要だった。
セイアは手袋を軽く叩き、建物へ戻った。
朝食の匂いがしていた。
◇
朝食は、丸く焼いたチーズ入りの小さなパンケーキだった。
表面には焼き色がつき、切ると、中は白く柔らかい。
横にはサワークリームと、少量のジャム。
卵と、温かい飲み物もついていた。
セイアは一切れ取った。
甘さは強くない。
少し酸味があり、噛むとしっとりしている。
昨日買ったジャムに似た赤いものをつけると、味がはっきり変わった。
朝から、悪くない食べ方だった。
昨夜、ビスケットを出してくれた生徒が向かいに座る。
「外、行ってた?」
「ああ。少しだけ」
「寒かったでしょう」
「今は、お腹が空いた方がよく分かるね」
生徒が笑った。
セイアも笑い、二切れ目を食べた。
朝食を食べる前に、身体を少し使った。
それだけで、皿の上のものが、昨日とは違う速さで減っていった。
◇
出発までの時間は、雪のない道を選んで歩いた。
広場へ抜ける大通りには、すでに車が走っていた。
端には、新しく寄せられた雪がある。
夜、寝ている間にも、この道を使えるようにしていた人たちがいたのだ。
セイアは歩道の上を進んだ。
昨日、風に押されるようにして渡った広場が見える。
今朝は、雲の間に少し青いところがあった。
像の肩には、新しい雪が載っている。
その近くで、生徒が小さな雪だるまを作っていた。
一人が顔へ何かを描こうとし、もう一人が黒い紙を出す。
少しして、雪だるまに立派な髭がついた。
セイアは足を止めた。
生徒たちが、その出来栄えを見て笑っている。
像と雪だるまを同じ画面へ入れようとして、端末の角度を何度か変えた。
今度は、写真にもよく写った。
◇
市場は、開店したばかりだった。
棚へ品物を並べている店がある。
入口の前で、靴についた雪を落とす人がいる。
昨日と同じ屋根の下なのに、声が少し少なかった。
セイアは、包みパンの店へ向かった。
覚えていた匂いがする。
店主の猫がこちらを見て、頷いた。
「来たね」
「帰りに寄ると言ったからね」
「今日は、きのこのが先に焼けてるよ。肉の方は、もう少し」
セイアは天板を見た。
丸く膨らんだ生地に、小さな切れ目がある。
そこから、薄い湯気が出ていた。
「きのこを一つ。それから、キャベツのものも」
「列車で?」
「ああ」
店主は包み方を変えた。
蒸気がこもりすぎないよう、少し余裕を持たせる。
「熱いうちは、袋をきつく閉じないでね」
受け取ると、紙の底が温かかった。
セイアは両手で持った。
昨日の雪と同じように、今度も、長くそのままでは残らないものだった。
◇
宿へ戻って荷物を受け取り、会計を済ませた。
机の上へ鍵を置く。
主人が宿帳を閉じた。
「よくお休みになれましたか」
「ああ。暖かかったよ」
言ってから、もう少し何か付け加えようとした。
部屋が静かだったこと。
夕食が美味しかったこと。
濡れたものを、朝には乾かせたこと。
けれど、主人は最初の言葉だけで、満足そうに頷いていた。
「それは、何よりです」
セイアも頷いた。
外套を着る。
帽子をかぶる。
手袋をはめる。
昨日よりも、支度が少し早くなっていた。
最後に、パンの袋を鞄の上へ置く。
玄関を出ると、朝に広げた敷石が見えた。
セイアはそこへ立ち、荷物を持ち直した。
◇
駅へ向かうバスの窓から、町が少しずつ離れていった。
市場の長い屋根。
共同食堂の大きな窓。
風の通る広場。
昨日は、どこで降りればよいかを気にしていた。
今日は、通り過ぎる場所に、短い時間が一つずつある。
あそこでスープを飲んだ。
あの通りで、雪を見ていた。
あの建物へ入ると、手を動かせるくらい暖かかった。
セイアは、窓の外を最後まで見ていた。
駅へ着くと、列車は少し遅れていた。
案内表示を確かめる。
乗り継ぎには、まだ余裕がある。
セイアは待合室へ入り、ベンチへ座った。
暖房のある場所へ先に入ることを、今は迷わなかった。
◇
手袋をしたまま、切符を取り出そうとした。
指が上手く動かず、財布の端を一度つかみ損ねる。
セイアは手を止めた。
昨夜の帰り道なら、外してから冷たい指で探していたかもしれない。
今は、待合室にいる。
手袋を膝へ揃えて置き、ゆっくり財布を開いた。
切符を確かめる。
鞄の中の瓶も、菓子も、つぶれていない。
最後に、パンの袋を少し開けた。
きのこの香りが近づいた。
昼食にはまだ早かったが、ひと口くらい食べたい。
セイアは周囲を見て、飲食してよい場所であることを確かめた。
そして、片方を取り出した。
◇
生地は、外側に薄い張りがあった。
歯を入れると、その下は柔らかい。
中には、細かく刻まれたきのこと玉葱。
噛むと、少しずつ旨みが出た。
脂が強すぎず、パンの甘さも残っている。
セイアはひと口のつもりで、もうひと口食べた。
列車の案内が入る。
待っていた人たちが顔を上げた。
セイアも紙を畳み、残りを包む。
まだ温かいものを、最後までここで食べてしまう必要はない。
列車へ持っていけばよかった。
◇
走り出した窓の向こうで、雪の街が遠ざかった。
最後まで白い地面が続く。
その上を、建物の影と、細い木の影が横切っていた。
セイアは外套を脱ぎ、座席へ収まった。
車内が暖かい。
行きにも同じように思ったはずなのに、帰りは、その暖かさを少し長く感じた。
鞄から本を出す。
開く前に、青い手帖も出した。
D.U.で買った、小さなものだ。
新しい頁を開き、今日のことを書こうとする。
寒かった。
スープが美味しかった。
夜に雪が降った。
どれも本当だったが、それだけでは、少し足りない気がした。
しばらく考え、先に一行だけ書いた。
『手袋は、外へ出る前に。』
読み返す。
自分にしか役立たない、旅行の記録だった。
セイアは笑い、その下へ、食堂と宿のことを書き始めた。
◇
乗り換える頃には、雪は道の端に残るだけになっていた。
さらに列車が進むと、それも少なくなる。
窓の外に、土の色が戻ってきた。
緑の葉も見える。
同じ日のうちに、こんなに違う景色へ来てしまうことが、不思議だった。
セイアは手袋を鞄の外側の仕切りへ入れた。
今度は、左右揃えて。
ミカへ写真を送る。
市場。
赤いスープ。
朝の雪だるま。
最後の一枚に、すぐ返事が来た。
『そっちの雪だるま、髭あるんだ』
『あの広場では、そうだったよ』
『セイアちゃんも作った?』
セイアは少し考えた。
雪で何かを作ったわけではない。
むしろ、動かした。
『入口を、少し広くしてきた』
送ってから、説明が足りないと思った。
案の定、ミカから疑問符が届いた。
セイアは、帰って話そうと思った。
◇
トリニティへ着いた時には、夜だった。
雪は降っていない。
駅から歩く道で、セイアは首元を少し緩めた。
同じ外套を着ているのに、今は暖かすぎるくらいだった。
見慣れた建物へ入る。
談話室の扉を開けると、ミカが顔を上げた。
「お帰り!」
「ただいま」
「……ほんとに、顔しか見えない」
「少々、厚着をしているだけだよ」
帽子を脱ぎ、外套を掛ける。
ナギサが立ち上がり、鞄を置く場所を空けてくれた。
「お疲れさまでした。道中は大丈夫でしたか」
「ああ。少し遅れた列車もあったけれど、問題なく帰れたよ」
セイアは袋を取り出した。
蜂蜜の菓子。
小さなジャムの瓶。
ミカが、熊の形を見つけて笑う。
「これ、私の?」
「一つはね」
「もう一つは?」
「私も、食べてみたかったので」
ナギサが小皿を取りに向かった。
セイアは椅子へ座った。
もう、靴の底から冷えてくることはなかった。
◇
お茶が来るまでに、食堂の話をした。
赤いスープに、白いクリームを少しずつ溶かしたこと。
パンを何枚取るか、前の人たちを見て決めたこと。
プリンを大きくするか、二個にするかを話し合っていた生徒たちのこと。
「二個の方がいいよ」
ミカが即座に言った。
「理由は?」
「一個食べたあと、まだ一個あるから」
セイアは笑った。
「彼女たちへ伝えたかったね」
ナギサも、カップを並べながら口元を緩める。
「大きさにもよるでしょう」
「……それは、私も言ったよ」
「では、結論は出ていないのですね」
「ああ。大切な問題なのでね」
三人で笑った。
旅先の食堂の入口で聞いた話が、ずいぶん遠くまで来てしまった。
◇
ジャムは、まず小皿へ出して味わうことにした。
ミカが少し舐め、思っていたより酸っぱかったのか、目を丸くする。
「もっと甘いと思った」
「そのあとで、お茶を飲んでみるといい」
セイアに言われ、飲む。
ミカは少し考えた。
それから、もう一度ジャムへ手を伸ばした。
ナギサも試してみる。
「こちらの方が、お茶の香りは分かりやすいですね」
「私は、向こうでは少し溶かして飲んだよ」
「どうでした?」
セイアは、宿の長卓を思い出した。
濡れた外套。
食べ終えた皿。
誰かが出してくれた、少し割れたビスケット。
赤い色の沈んだ茶。
「……あの晩には、よく合った」
ナギサは頷いた。
それ以上、どちらがよいかを決めようとはしなかった。
◇
雪の写真を見せると、ミカは端末へ顔を寄せた。
「降ってるところ、あんまり見えないね」
「実際には、もっとあったんだが」
「でも、寒そうなのは分かる」
セイアは同じ写真を見た。
暗い建物。
街灯。
数えるほどの、白い点。
外した左手が冷たくなり、もう一度手袋へ戻したところまで、自分には思い出せた。
ミカには、それは分からないだろう。
そのかわり、向こうは画面の中に、何か別のものを見つけたらしい。
「あ、ここ。窓、明るい」
指の先に、宿の近くの建物があった。
セイアは頷く。
「ああ。あの道を曲がると、泊まった宿があった」
「近かったんだ」
「そう。あの時は、もう帰るところだったよ」
ミカは、少し安心したように笑った。
◇
ナギサがお茶を足そうとした時、セイアは先にポットへ手を伸ばした。
「私がやるよ」
「ありがとうございます」
カップを寄せる。
温かい茶が、細く注がれる。
ミカの分。
ナギサの分。
最後に、自分の分。
席へ戻ると、二人ともカップを持っていた。
何度も見てきた光景だった。
ミカが一口飲み、菓子の皿をこちらへ寄せる。
ナギサは、窓へ一度目をやった。
「こちらも、少し冷えるようになりましたね」
セイアは同じ方を見た。
暗い庭。
灯りの届く窓辺。
ガラスの内側にいる、三人の姿。
レッドウィンターの窓の中で見たものを、今は反対側から見ていた。
◇
自室へ戻る頃には、もう遅かった。
荷物をほどく。
着替えを出し、土産を包んでいた紙を畳む。
市場で買った靴下は、洗うものと分けて置いた。
手袋を取り出すと、指の先に、あの朝の道具を押した感触が少し戻った。
入口の脇にできた、小さな四角い場所。
そこへ立って、客が鞄を持ち替えた。
今頃はまた、雪が載っているかもしれない。
けれど、その人はあの時、雪を踏まずに出かけられた。
セイアは手袋を、左右揃えて棚へ置いた。
外へ出る時には、すぐ取れる場所だった。
手帖を閉じ、本の隣へ収める。
窓の外を見る。
雪はない。
明日の朝も、たぶんいつもの道を歩く。
セイアは最後に、厚い外套の肩を軽く撫でた。
すっかり乾いていた。
それから部屋の灯りを消すために立ち上がり、もう一度だけ、棚の上へ目を向けた。
手袋は、二つともそこにあった。