登山鉄道 #三人 #旅立ち #キヴォトスの車窓から
百合園セイアの一人旅から、一週間が過ぎた。
お土産の団子はその日のうちになくなり、焼き菓子も残り少なくなった。ナギサから受けた「外出時の連絡について」の話は、セイアが想定していたより少々長かったけれど、それも今となっては旅の後日談の一つである。
午後の談話室には、いつものように紅茶の香りが漂っていた。
違っていたのは、ミカが菓子皿ではなく、セイアの携帯端末を独占していたことだ。
「……セイアちゃん」
「何だい」
「海の写真、ないの?」
「あるだろう。先ほどから見ているはずだが」
「これ、海鮮丼」
「海の恵みだね」
「こっちは?」
「焼きホタテ」
「その次」
「海の見える喫茶店のプリンだ」
「海、ちょっとしか写ってないじゃん!」
ミカが端末を掲げる。
確かに画面の大部分を占めているのは、黄色いプリンと、その上に乗ったさくらんぼだった。海は窓の向こうに細く収まっている。
ナギサがカップの陰で小さく笑った。
「随分と充実したご旅行だったようですね」
「その言い方だと、私が食べることしかしていなかったように聞こえるが」
「違うんですか?」
「……歩いたよ」
「食べ物のお店まで?」
セイアは紅茶を飲んだ。
反論するには、写真という証拠があまりにも不利だった。
もちろん、海も見た。
知らない道を歩き、風の匂いが変わるのを感じた。旅館の部屋で、誰の声もしない時間を過ごした。
けれど、それらは写真に残すよりも先に、自分の中へ入ってきてしまったのだ。
一方、料理は運ばれてきた時点で、撮るべきものとして目の前にあった。
そう説明すると、ミカは少し考えたあとで、端末をテーブルに置いた。
「じゃあさ、次は私が撮ってあげる」
「何を?」
「海も。街も。セイアちゃんも」
ごく当たり前のことのように言ってから、ミカはナギサの方を向いた。
「ナギちゃんも来るでしょ?」
ナギサの手が止まった。
「……まだ、次の旅行があるとも伺っていませんが」
「今、できたの」
「そのような決め方をされても困ります」
「でも、行きたくないわけじゃないでしょ?」
返事までに、わずかな間があった。
セイアは、その間を見逃さなかった。
「ナギサ。日程の問題なら、調整の余地はあると思うよ」
「簡単におっしゃいますが、三人揃って留守にするとなれば、それなりに準備が必要です。引き継ぎもありますし、連絡体制も――」
「それを済ませれば、行けるということだね」
「……セイアさん」
ミカが、ぱっと顔を輝かせた。
「決まり!」
「まだです」
「じゃあ、決まりそう!」
その表現には、ナギサもすぐには訂正を入れられなかった。
窓の外で、庭木の葉が揺れている。
セイアは、先日の帰りの列車を思い出した。
紙袋の中のクリームパンと、窓に映る自分の顔。
帰ったら何を話そうかと考えていた、あの時間。
今度は、話を持ち帰る相手が隣にいる。
その場合、旅はどのような形をするのだろう。
「……そうだね」
セイアはカップを置いた。
「今度は、三人で行ってみようか」
◇
準備には、二週間ほどかかった。
ミカが持ってきた旅行雑誌には、いくつもの付箋が貼られていた。
山の展望台。
湖上遊覧船。
古い街並み。
ガラス細工。
温泉。
なぜか大きなパフェ。
ナギサはそれらを眺め、移動時間を調べ、同じ日に回ることのできない場所を丁寧に分けた。
セイアは横から、
「何も決めない時間も欲しいね」
と言って、ナギサに見つめられた。
「何も決めない時間を、あらかじめ決めておくということですか?」
「少々、言葉が込み入ってきたね」
「セイアちゃん、難しいこと言ってナギちゃんの予定表に空欄作ろうとしてる?」
「理解が早くて助かるよ」
行き先は、キヴォトスの外れにある湖畔の保養区に決まった。
湖の周囲には古い商店街があり、山へ向かう小さな登山鉄道が走っている。湖岸の宿には温泉があって、近くには資料館や工房もあるらしい。
三泊四日。
同じ宿に泊まり、そこを拠点に出かける。
「毎日荷物をまとめなくていいの、いいね」
「移動ばかりでは、休みに来た意味がありませんから」
「おや。ナギサにしては余裕のある計画だ」
「どなたかが、余白も必要だとおっしゃいましたので」
ナギサはそう言って、印刷した旅程表を三部、テーブルに並べた。
宿の住所、列車の時刻、現地の連絡先。
整った文字の間に、鉛筆で書き込める程度の空白が残されている。
ミカは早速、その一角に小さな星を描いた。
「ここ、二日目の夕方。遊覧船!」
「ええ。予約も取れました」
「ほんと?」
「三人分です」
ミカは旅程表を両手で持ち直した。
その顔を見て、セイアは思った。
まだ出発していないのに。
もう、前の旅とは随分違っている。
◇
出発当日の朝、駅で最初に待っていたのはナギサだった。
時間の十分前に到着したセイアを見て、彼女は腕時計から顔を上げる。
「おはようございます、セイアさん」
「おはよう。随分早いね」
「乗り換えの確認をしていました」
ナギサの旅行鞄は落ち着いた色合いで、持ち手には小さな名札がついている。普段より歩きやすそうな靴を履き、上着も外出向きのものだった。
ただし、手にした書類挟みだけは、いつもの執務中とほとんど変わらない。
「それも持っていくのかい?」
「旅程表と予約票です。仕事の書類ではありません」
「中を見せてほしいとは言っていないが」
「……そのようなお顔をなさったので」
そこへ、ミカがやってきた。
「おっはよー! 二人とも早い!」
大きく手を振っているが、走ってはいない。
旅行鞄のほかに、小さな紙袋を提げていた。
「遅刻するかと心配しました」
「ちゃんと起きたもん。あと、朝ご飯も買ってきた」
袋の中には、三角形のサンドイッチが並んでいた。
卵、ハムとチーズ、野菜。
三種類が一つずつ。
「前、セイアちゃん朝ご飯忘れたんでしょ?」
「よく覚えているね」
「今回は忘れさせません、ってナギちゃんに先に言われそうだったから」
「実際、そのつもりでした」
「ほらね」
セイアは二人を見比べ、それから紙袋を覗き込んだ。
「なるほど。今回は出発前から、ずいぶん面倒を見てもらえるらしい」
「嫌?」
「いや。卵のものをもらってもいいかな」
「そこは早いんだね!」
◇
列車の座席は、向かい合わせにできる四人掛けだった。
窓側が二つ。
三人いる。
ミカは荷物を棚へ上げたあと、その単純な事実に向き合った。
「……どうする?」
「何がですか?」
「窓側」
「私は通路側で構いませんよ」
ナギサが答えると、ミカは少し不満そうな顔をした。
「そうじゃなくて。せっかくだから、ナギちゃんも景色見ようよ」
「通路側からでも見えますから」
「私が前に乗り出したら見えなくなるかも」
「乗り出さなければよいのでは?」
「確かに!」
結局、一時間ごとに席を替えることになった。
セイアは最初の窓際に座り、ミカはその向かい、ナギサは隣。
発車のベルが鳴り、ホームがゆっくり後ろへ動き出す。
ミカが小さく手を振った。
そこには、見送りの誰かがいるわけではない。
「何に手を振っているんだい」
「出発する時って、振りたくならない?」
「……少し分かる気もするね」
セイアも、窓の下で指先だけを動かした。
やがて建物が低くなり、窓の向こうに広い空が現れた。
ミカがサンドイッチの包みを開き、ナギサが飲み物を配る。紙ナプキンまで出てきた。
「準備がいいね」
「飲食物を車内でいただくのでしたら、必要でしょう」
「ナギちゃん、おしぼりもある?」
「あります」
「すごい。小さなホテルみたい」
「褒めているのですか、それは」
卵のサンドイッチは、パンの端まで具が詰まっていた。
口に入れると、柔らかな卵の甘みに、からしのわずかな辛さが続く。
列車が分岐を通るたび、紙袋がかすかに揺れた。
セイアが二口目を食べたところで、ミカが自分のサンドイッチを眺めながら言った。
「それ、美味しそう」
「君が選んだものだろう」
「でも、そっちもよかったなって」
「半分にしましょうか」
ナギサが、自分のハムとチーズのサンドイッチを包みの上で分けた。
するとミカも野菜の方を分け、セイアも卵の方を分けることになった。
結果、三人の膝の上には、少しずつ違う大きさのサンドイッチが並んだ。
「三種類食べられるね」
満足そうなミカを見て、セイアは小さく笑った。
一人の時には、自分が選んだものだけが食事になる。
三人なら、誰かの「そっちも」が増えるらしい。
◇
最初の席替えは、ミカが忘れた。
二度目は、ナギサが忘れた。
ナギサは窓の外を見ていたのである。
列車は山裾へ入り、川に沿って走っていた。
水の浅いところは明るく、深い淵は緑が濃い。鉄橋に差しかかると車輪の音が変わり、そのたびにナギサは、少しだけ背筋を伸ばした。
「……ナギちゃん?」
「はい?」
「席替えの時間、過ぎてる」
「あ……失礼しました」
慌てて立とうとする彼女を、ミカが止める。
「ううん。今、景色見てたから」
「ええ。川が、思ったより近くて」
「もうちょっとそこにいていいよ」
ナギサは意外そうにミカを見た。
ミカは自分の席に座り直し、セイアの方へ少し身体を寄せた。
「こっちからでも見えるし」
「私が乗り出すと、見えなくなるかもしれないよ」
「じゃあ、ちょっとだけにして」
セイアは本を閉じた。
持ってきた本は、まだ十二ページしか進んでいない。
前の一人旅なら、とっくに一章は読み終えていただろう。
けれど今朝は、橋が見えるたび、面白い看板が現れるたび、誰かが声を上げた。そのたびに視線が上がり、ページをめくる手が止まった。
栞を挟み、鞄へしまう。
「読まないの?」
「後にするよ」
窓の外に、大きく空が開けた。
山と山の間に、光を抱いた湖が見えた。