その駅の名前は、何度も見たことがあった。
ホームに入ってくる列車の正面。
頭上の発車案内。
自分が乗る列車の、隣の欄。
遠枝行き。
百合園セイアは、その文字を見上げていた。
遠枝。
読める。名前も覚えている。
けれど、そこに何があるのかは知らなかった。
これまでは、行き先を確かめるために見ていた。自分の降りる駅を通るのか。途中で乗り換える必要があるのか。分かれば、それ以上は気にしなかった。
今日は、そこに書かれている場所まで行ってみようと思った。
◇
窓口で行き先を告げると、ハイランダーの制服を着た生徒が端末を操作した。
「遠枝までですね。お帰りも本日ですか?」
「ああ。そのつもりだよ」
「でしたら、こちらの一日乗車券が使えます。この路線内なら、普通列車と快速の両方に乗れますので」
示された範囲を確かめる。
長い線が何度か曲がり、幾つもの駅を通っている。
その端に、遠枝があった。
「じゃあ、それでお願いするよ」
「次の普通列車が三番線から出ます。終点までは、途中の停車も入れて四時間ほどです」
セイアは、手元の時刻表へ目を落とした。
出発の時刻から、縦に数字が続いている。
途中に、着く時刻と出る時刻の両方が書かれた駅があった。
そこで、少し長く停まるらしい。
「こちらなら、今からでも間に合うね」
「はい。ただ、そのあとの快速へ途中で乗り換えますと、二十分ほど早く着きます」
「なるほど」
セイアは、二つの列車の欄を見比べた。
片方には、数字のない駅がいくつもある。
もう片方は、どの駅にも時刻が書かれていた。
「今日は、この普通列車で行ってみようかな」
窓口の生徒は頷いた。
「では、ごゆっくり。帰りの時刻も、こちらに載っています」
小さく折れる時刻表を受け取る。
行く場所のことは、まだほとんど知らない。
そこへ行くまでに、何時にどこへ停まるかは分かった。
◇
改札へ入る前に、弁当を買った。
売り場には、細長い箱も、丸い容器も、二段に重なったものも並んでいる。
セイアは一度、全体を見た。
最初に気になったのは、肉の多い弁当だった。
次に、魚。
その隣の、小さな品が少しずつ入っているものもよかった。
「お決まりですか?」
「列車の中で食べようと思うのだけれど」
「でしたら、こちらは蓋を重ねて持てますよ。箱が浅いので、お膝の上でも食べやすいです」
店員のロボットが、一つを示した。
焼き鮭。
卵焼き。
鶏の照り焼きと、根菜の煮物。
ご飯には、細かな胡麻が振ってある。
豪華というほどではない。
けれど、どこから食べるかを考えるには、十分な数が入っていた。
「それを一つ。それから、お茶も」
「すぐ召し上がりますか?」
「いや。もう少し先で」
答えてから、セイアは少し笑った。
食べる場所は決まっている。
ただし、その場所は、これから動く。
◇
三番線の列車は、すでに扉を開けて待っていた。
特別に飾られた観光列車ではなかった。
窓の大きな、四両編成。
車体の側面には、ハイランダーの印と、行き先を示す表示がある。
セイアは一度、先頭まで歩いてみた。
いつも案内の文字ばかり見ていた顔を、今日は少し離れたところから眺める。
運転台の窓。
灯り。
その下に収まった、いくつかの機器。
これが自分を、知らない駅まで運んでいく。
写真を一枚撮り、乗り込んだ。
車内には、二人ずつ並んで座る席が続いていた。
背もたれの裏に、小さな卓が畳まれている。
セイアは窓際へ座った。
足元に鞄を置き、弁当の袋はその上へ。
窓の外では、まだ何人かがホームを歩いていた。
◇
発車まで、五分ほどあった。
向かいのホームへ別の列車が入ってくる。
降りた生徒たちが、階段へ向かって歩き出した。
その流れから一人が外れ、売店で飲み物を買う。
別の一人は、立ったまま端末へ何かを打ち込んでいた。
セイアも端末を取り出した。
今日は終点まで乗ってみること。
夜には戻ること。
その二つを、ナギサへ伝える。
行き先の名前も添えた。
返信は短かった。
『承知しました。よい一日を。』
そのあと、ミカから一件届いた。
『終点って何があるの?』
セイアは、窓の外の行き先表示を見た。
『それを見に行くところだよ。』
送ってから、端末をしまう。
やがて発車を知らせる音が鳴った。
扉が閉まる。
誰かが急いで走ってくることもなく、列車は静かに動き出した。
◇
駅を離れてすぐは、線路が何本も並んでいた。
こちらへ近づいてくるもの。
離れていくもの。
途中で交わり、別の方向へ曲がっていくもの。
列車が分岐を通るたび、床から届く揺れが少し変わった。
セイアは窓の下へ手を置いた。
自分の車なら、道に合わせて足を動かし、次の曲がり角を見ているところだ。
今は、手も足も空いている。
その代わり、自分で曲がることはできない。
左へ延びた線路が、倉庫の間へ消えていった。
セイアの乗る列車は、そのまま進む。
見えなくなるまで目で追ってから、前へ視線を戻した。
こちらの線路にも、まだ続きを見たことのない場所があった。
◇
最初の幾つかの駅では、乗り降りする人が多かった。
短い距離だけ乗ったらしい生徒が降り、入れ替わりに大きな鞄を持った生徒が座る。
セイアの隣にも、一人乗ってきた。
膝の上へ、布で包んだ細長いものを置いている。
楽器だろうか。
そう思ったが、確かめはしなかった。
その生徒は二駅先で降りた。
代わりに乗ってきた犬の客は、紙袋から新聞を出して読み始めた。
頁を広げすぎないよう、縦に折り直している。
同じ席に座り続けているのは、セイアの方だった。
列車の中では、行き先も、過ごす長さも、それぞれ違う。
次の駅で新聞の客も降りると、隣はまた空いた。
窓の外の建物が、少し低くなっていた。
◇
車掌が切符を確かめに来た。
セイアは乗車券を見せる。
小さな機械へ読み取らせたあと、車掌は頷いた。
「終点までご利用ですか?」
「ああ」
「次の三辻駅で、快速の待ち合わせをします。向かいのホームへ入りますので、お乗り換えでしたら――」
「ありがとう。ただ、今日は、このまま乗っていようと思う」
車掌が一度、セイアを見た。
首を傾げるほどではなかった。
すぐに、手元の時刻を確かめる。
「承知しました。この列車も遠枝まで参ります。三辻では十一時二十六分の発車です」
「十八分、停まるんだね」
「はい。ホームの売店をご利用でしたら、発車時刻にお気をつけください」
会釈をして、先へ進んでいく。
引き留めて、旅の理由を説明する必要はなかった。
早く着く方法を教えてくれた。
自分は、今座っている席を選んだ。
それだけのことだった。
セイアは時刻表へ小さく折り目をつけた。
三辻駅の欄が、開けばすぐに見えるようになった。
◇
川が見えてきた頃、弁当の蓋を開けた。
朝食は早かった。
まだ昼には少し間があったが、空腹を、時計に合わせて待たせることもない。
背もたれの卓を下ろし、箱を置く。
蓋を重ねると、確かに邪魔にならなかった。
箸を割る。
最初は、焼き鮭にした。
表面には、少し濃い焼き色がある。
身をほぐすと、冷めていても脂の柔らかさが分かった。
ご飯を一口。
米粒は箱の形に収まっているが、箸を入れるときちんとほぐれた。
胡麻の香りと、鮭の塩気。
窓の向こうで、川の幅が広くなる。
食べる手を止めて見る。
再び箸を動かすと、今度は卵焼きが目に入った。
どれから食べるか、決めていたわけではない。
小さな箱の中を、その時に気になる順で巡った。
◇
照り焼きの鶏肉は、ひと口で食べられる大きさだった。
箸で切り分ける必要がない。
甘辛いたれは、底へ流れ出さない程度に絡んでいる。
煮物の蓮根には、歯触りが残っていた。
人参は、その隣で柔らかい。
列車が少し揺れた時、セイアは箱へ片手を添えた。
中のものは、ほとんど動かなかった。
華やかな皿の上で食べていたら、気づかなかったかもしれない。
どれも、ここで食べるのに困らない形をしていた。
セイアは最後の鮭をほぐし、ご飯と一緒に食べた。
窓の外には、知らない橋があった。
渡るのではなく、少し離れたところを並んで走る。
欄干の上を、自転車を押した生徒が歩いていた。
その姿が木々の間へ隠れる頃、弁当は空になった。
◇
三辻駅へは、案内された通りの時刻に着いた。
ホームに降りると、車内より風があった。
セイアは鞄を持ち直し、自分が降りた車両の位置を確かめた。
二両目。
柱の横。
その先に、売店の小さな窓がある。
時計を見る。
十八分。
街へ出るには短い。
けれど、何もできないほど短くもなかった。
まず、少し歩いてみた。
柱の間から、別の線路が見える。
側線には、短い車両が二両、並んで停まっていた。
荷物を積んだ台車が、ホームの端へ運ばれていく。
乗務員の生徒が一人、車内へ入る前に窓を見上げ、何かを確かめた。
セイアはその邪魔にならないよう、売店の前へ寄った。
◇
売店には、温かい飲み物と、袋に入った菓子があった。
小さなパンも並んでいる。
ただし、目についた胡桃の焼き菓子は、一つだけ残っていた。
「それ、今ちょうど最後です」
店員の生徒が言った。
「では、一つ。お茶もお願いしてよいかな」
「熱いので、蓋をしますね」
渡された紙カップを持つ。
鞄の中には、まだ飲み物が残っている。
それでも、ホームへ降りた時に買う温かいものが欲しかった。
セイアは柱の横へ戻り、ベンチへ座った。
停まっている列車を、外から眺める。
さっきまで、その窓の内側にいた。
今は自分の席が、少し暗く見える。
当たり前のことだったが、列車は自分が乗っていなくても、ちゃんとそこにあった。
ここで一日を過ごす人には、いつも入ってきて、しばらくすると出ていくものなのだろう。
お茶を一口飲んだ。
遠くで、別の列車の近づく音がした。
◇
快速が入ってきた。
普通列車より、窓の間隔が少し違う。
扉が開くと、こちらの列車から降りた何人かが、向こうへ移っていった。
大きな荷物を持った客もいる。
車掌が案内し、ホームの流れが一度に動いた。
セイアはベンチから立った。
時計を見る。
自分の列車の発車までは、まだ少しある。
快速の行き先にも、遠枝と書かれていた。
同じ名前。
同じところへ行く。
こちらへ乗れば、先に着く。
セイアは一口だけお茶を飲み、自分の乗ってきた車両へ戻った。
窓際の席は、空いていた。
◇
向かいの快速が動き出す。
窓の中で、生徒が端末を見ていた。
その隣では、もう目を閉じている客がいる。
車両が一つずつ目の前を通り、最後尾が遠ざかった。
こちらの列車は、まだ停まっている。
セイアは買った菓子を鞄へ入れ、カップを卓へ置いた。
待っている時間なのに、置いていかれた気はしなかった。
自分で、ここへ戻ってきたのだ。
少しして、開いた扉から二人の生徒が乗ってきた。
「こっちの方が空いてるじゃん」
「窓、あいてる~」
聞いたことのある声だった。
セイアが顔を上げると、片方もこちらに気づいた。
「あれ。セイア?」
◇
「こんにちは、ノゾミ。ヒカリも」
橘ノゾミが、少し目を丸くする。
その隣で、ヒカリがゆっくり手を上げた。
「セイアだ~」
二人とは、シャーレで当番の交代が重なった時に、何度か話したことがあった。
互いの予定を知っているほどではない。
顔を見れば声をかけられる、それくらいの間柄だった。
「どこ行くの?」
「終点まで」
「遠枝? 何か用事?」
「いや。今日は、この列車に乗りに来たんだ」
ノゾミは、窓の外を一度見た。
快速はもう見えない。
「今のに乗れば、早かったのに」
「教えてもらったよ。けれど、こちらに残った」
「えー。わざと?」
「ああ」
ノゾミが少し考え、それから笑った。
「パヒャヒャ! 変わったお客さん」
セイアも、少し笑う。
ヒカリは空いている席を見ていた。
「ヒカリ、ここ座る~」
「私たちは途中までだけど。いい?」
「もちろん」
二人は、通路を挟んだ向こう側へ座った。
ヒカリが窓際。
ノゾミは、その隣だった。
◇
発車の案内が流れる。
ノゾミが時計を見た。
ヒカリは、窓の外の車両へ顔を向けている。
扉が閉まる直前、車掌が通りかかった。
二人と短く挨拶を交わし、そのまま先へ進んでいく。
知っている生徒が乗ったからといって、何かが変わるわけではなかった。
十一時二十六分。
列車が動き出す。
セイアは、手元の時刻表を一度見た。
書いてあった数字が、そのまま今になった。
「君たちは、仕事かな」
「この先の運行区に用があるの。そこまで移動中」
ノゾミが答える。
「今日は運転しないんだね」
「今は、乗ってるだけ~」
ヒカリが窓を見たまま言った。
「こっちの窓も、いっぱい見えるね~」
セイアは、彼女の視線を追った。
運転台から見ている時とは、違う景色なのかもしれない。
◇
「終点で、何するかは決めてるの?」
ノゾミが尋ねた。
「まだだよ。降りて、少し歩いてみようと思っている」
「あそこ、大きい観光施設とかないよ」
「そうか」
「駅前に店はあるけど。あと、バス」
「それなら、歩くところには困らなそうだね」
ノゾミはセイアを見た。
「本当に、乗りに来たんだ」
「出かける理由としては、足りないかな」
「ううん。ちゃんと終点まで乗ってくれるなら、いいお客さんだよ」
軽い調子だった。
けれど、からかって終わりにはしなかった。
ヒカリがこちらを向く。
「帰りも乗れるし~」
「ああ。そこは、楽しみにしている」
「いっぱい乗るね~」
「今日は、そういう日にしてみた」
ヒカリは納得したように頷き、また窓へ向き直った。
話が通じたのかどうかを、何度も確かめる必要はなかった。
◇
列車が大きく揺れた。
橋へ入るところだった。
セイアは、紙カップへ手を添えた。
同時に、ヒカリが窓の下を見た。
「今の音は、橋に入ったからかな」
「うん。もうすぐ、また変わるよ~」
セイアは耳を澄ませた。
少し硬く響いていた音が、橋を抜けると、元の響きへ戻った。
「……本当だ」
ヒカリは小さく笑った。
「ここ、長いからね~」
「君は、何度も通っているんだね」
「通るよ~」
言いながら、窓の向こうへ指を上げる。
「あっちの道からだと、橋ぜんぶ見える」
川沿いの道が、遠くにあった。
セイアはそちらを見た。
今走っている橋を、外から見る場所。
それは、今日は通らない道だった。
「そちらからも、見てみたくなるね」
「でも、今の列車は向こうへ行かないよ」
ノゾミが言う。
「知っているよ」
「セイア、行きたいところ増えちゃったんじゃない?」
「少しね」
ノゾミが楽しそうに笑った。
セイアも否定しなかった。
◇
次の駅で、買い物袋を持った客が乗ってきた。
空いている席へ向かう途中、袋の端が手すりへ引っかかる。
ノゾミが、さっと手を伸ばした。
「こっち、通して」
袋の向きを少し変える。
外れた。
客が礼を言うと、ノゾミは片手を上げて席へ戻った。
ヒカリは、その間も窓を見ていた。
けれどノゾミが座る前に、隣へ置いていた自分の鞄を膝へ戻した。
何かを言われたわけではなかった。
セイアは二人を見てから、卓のカップを片づけた。
少し前までは、車両の揺れや音ばかり気にしていた。
今は、その中で動いている人の手も、目に入る。
◇
「さっきの駅、お茶買ったの?」
ノゾミが、片づけられたカップを見て尋ねた。
「ああ。菓子も一つ」
「何の?」
「胡桃のものだよ」
「あー、あれ」
ヒカリが振り返った。
「なくなるの、早い~」
「今日は最後の一つだったらしい」
「じゃあ、いい停まり方したね」
ノゾミが言った。
セイアは笑った。
「列車を停めたのは、私ではないけれど」
「降りたのはセイアでしょ」
確かに、その通りだった。
セイアは鞄へ目を落とした。
時刻表の十八分は、窓口で見た時にはただの空き時間だった。
今は、温かいお茶と、胡桃の菓子と、向こうの列車を見送った時間になっていた。
◇
二人が降りる駅は、三つ先だった。
ノゾミが端末を見て、ヒカリへ声をかける。
「次。荷物、忘れないでね」
「あるよ~」
「帽子も」
ヒカリが頭へ触れる。
ちゃんとかぶっていた。
「ある~」
「うん。ならいい」
セイアは、そのやり取りを少し笑って聞いていた。
ノゾミが立ち、鞄を肩へ掛ける。
「じゃあ、私たちはここで」
「ああ。付き合ってくれて、ありがとう」
「一緒の列車だっただけじゃん」
「それが、楽しかったんだよ」
ノゾミは少しだけ、返事を遅らせた。
それから、いつもの明るい調子で言う。
「終点まで、ちゃんと楽しんでね」
ヒカリも立ち上がった。
「ばいばい、セイア~」
「ああ。またシャーレで」
列車が停まる。
二人はほかの客と一緒に降りていった。
窓の外でヒカリが一度振り返り、小さく手を振る。
セイアも返した。
発車すると、二人はホームの柱の向こうへ隠れた。
◇
通路の向こうの席が、空いた。
窓の外は、まだ続いている。
少しの間、列車の音がよく聞こえた。
寂しいというほどではない。
ただ、さっきまでそこへ重なっていた二人の声がなくなった。
セイアは鞄から胡桃の菓子を出した。
袋を開ける。
小さな長方形の生地に、刻んだ胡桃が入っている。
一口かじると、端は軽く崩れた。
中央は少ししっとりしていて、噛むと木の実の香ばしさが残る。
ヒカリが、よく売り切れると言っていた。
その話を聞く前より、少し大事に食べたくなった。
残りを一度袋へ戻し、お茶を飲む。
窓の向こうには、低い畑が広がっていた。
菓子を見てから顔を上げるたびに、景色の方が少し先へ進んでいた。
◇
山が近づいてきた。
線路は川へ寄り、また離れる。
短いトンネルへ入ると、窓に自分の姿が映った。
座っている。
鞄を足元へ置いている。
手には、食べかけの菓子。
トンネルを出ると、その姿は薄くなり、木々の向こうへ消えた。
セイアは、残りを食べ終えた。
本を出す。
今度は、しばらく読んだ。
音の変わるところで顔を上げ、駅へ停まれば駅名を見る。
そのあと、また頁へ戻る。
どちらかを選んだからといって、もう片方をずっと見ないままでいる必要はなかった。
◇
小さな駅へ停まった時、向かいのホームに生徒が一人立っていた。
膝の上へ箱を置き、ベンチに座っている。
セイアの列車が来ても、立ち上がらなかった。
逆方向へ行くのだろう。
その生徒の向こうには、低い建物が数軒ある。
駅前から伸びる道は、すぐに角を曲がって見えなくなっていた。
セイアは、今日そこで降りるつもりはなかった。
降りれば、何か見つかるのかもしれない。
でも今は、窓の中から見たところまででよかった。
扉が閉まる。
ホームの生徒は、箱の位置を一度直した。
その姿が後ろへ流れていく。
セイアは駅名を、手帖へ一つだけ書いた。
何があるのかではなく、何を見たのかを、短く添えた。
◇
終点が近づくと、車内の人は少なくなっていた。
いなくなったわけではない。
前の席には、小さな荷物を持った犬の客がいる。
少し離れたところでは、ハイランダーの生徒が二人、静かに話していた。
セイアは時刻表を開いた。
最後の行まで、あと二駅。
窓の外を見て、もう一度紙を見る。
長い欄の下にあった名前が、ようやく近づいていた。
早く着いてほしいとは思わなかった。
けれど、見えてきてほしいとは思った。
列車はゆっくりと曲がり、家の屋根の間へ入っていった。
◇
遠枝駅は、小さな終着駅だった。
低い屋根のホームが二つ。
端の方に、花の鉢が置かれている。
駅名標には、一つ前の駅の名前が書かれていた。
反対側には、何もない。
列車が止まる。
扉が開いた。
セイアは鞄を持って立ち上がった。
何時間も座っていた足へ、体重が戻る。
少しだけ伸びをしたくなったが、後ろから来る客のために先へ進んだ。
ホームへ降りる。
空気は、出発した駅より少し涼しかった。
振り返ると、乗ってきた列車が停まっている。
さっきまで、窓の向こうの景色が動いていた。
今は自分が、その景色の側へ立っていた。
◇
改札で一日乗車券を見せると、駅員が頷いた。
「お帰りも、こちらからですか」
「ああ。少し町を歩いてから戻るよ」
「でしたら、時刻表はこちらにもあります」
壁の案内を示す。
セイアは帰りの列車を幾つか確かめた。
午後の普通列車。
そのあとの快速。
まだ、どちらでも帰れる。
写真を撮り、駅舎の外へ出た。
小さな広場があった。
バス停。
数台の自転車。
日用品を扱う店。
食堂らしい暖簾。
向こうの坂には住宅が並び、道が山の間へ続いている。
セイアは、しばらくそこに立った。
路線図の線は、ここで終わっていた。
町の道は、その先へ延びていた。
◇
駅の脇から、線路の終わるところが見えた。
柵の外を通る歩道へ回る。
二本の線路は、少し先で車止めへ突き当たっていた。
その向こうには、道路がある。
信号で、小さな配達車が停まっていた。
青になると、車は左へ曲がっていった。
セイアはその後ろ姿を見送り、もう一度線路を見た。
大きな記念碑も、眺望を案内する看板もない。
電車が進むための道が、ここで止まっている。
朝、表示で見た名前には、そういう場所があった。
「……着いたね」
小さく言った。
誰に告げたのか、自分でもよく分からなかった。
端末を取り出し、柵のこちら側から一枚撮る。
写真には、止まった線路の向こうを歩く人も、小さく写った。
◇
町を歩くと、家と店の間隔がゆっくりになった。
駅前には客を迎える店が集まっていたが、少し離れると、暮らしのための店が多くなる。
靴の修理。
金物。
日用品。
店先の黒板に、明日の入荷を知らせる文字が書いてあった。
一軒の文具店の前で、生徒が便箋を見比べている。
もう一人が、隣から色の違うものを出した。
何を送るのかまでは、聞こえなかった。
セイアは、通りの端を歩いた。
観光用の案内は少ない。
それでも、どこを歩けばよいか分からなくなるほどではなかった。
駅から続く道を辿り、小さな川を渡る。
その先で、買い物袋を下げた人が、家の戸を開けた。
列車でここへ着く人の中には、この戸を開けるために乗っている人もいるのだろう。
◇
川沿いの腰掛けで、少し休んだ。
水は浅く、小さな石の間を流れていた。
列車の窓から見た川とは、違う支流なのかもしれない。
ここでは、水の音が聞こえる。
午前中は、何度も川を見た。
そのどれも、音までは聞かなかった。
セイアは、鞄から水を出した。
飲みながら、流れを見る。
線路のある方から、列車の音が届いた。
建物に隠れて、姿は見えない。
駅へ戻れば、さっきの列車がまだいるのだろうか。
もう、別の客を乗せて出たかもしれない。
セイアは、すぐには戻らなかった。
今は、川の前に座っていた。
◇
歩いているうちに、もう一度、何か温かいものが食べたくなった。
弁当を食べてからは、かなり時間が経っていた。
朝の駅で買った一箱は、もう空になっている。
セイアは駅前へ戻り、暖簾の出ていた食堂を覗いた。
中には数人の客がいた。
壁際には、作業着を着たロボット。
窓の前には、ハイランダーの生徒が一人。
カウンターの端が空いていた。
「いらっしゃい」
猫の店主が声をかける。
セイアは席へ座り、壁の品書きを見た。
定食。
麺。
カレー。
その下に、本日のおすすめが小さく書いてある。
メンチカツ。
セイアは、少し考えてから、それを選んだ。
「ご飯は、少なめでお願いできるかな」
「はいよ」
返事と一緒に、厨房の奥で皿が動いた。
◇
店の時計は、時刻表のすぐ隣に掛かっていた。
食べ終えた客が立ち上がる前に、必ずどちらかを見る。
セイアも、一度見た。
次の普通列車には、間に合いそうだった。
そのあとの快速なら、もう少しゆっくりできる。
どちらも今日中には帰れる。
店主が水を足しながら尋ねる。
「何時のに乗るの?」
「まだ決めていないよ。食べ終えてから、少し考えようかと」
「それなら大丈夫。急ぐ人には先に聞いてるんだ」
セイアは頷いた。
この店では、料理ができるまでの時間と、列車が出るまでの時間が、同じ卓の上にある。
厨房から、油の音が聞こえた。
セイアは時刻表から目を離した。
今は、そちらの方が気になった。
◇
メンチカツは、丸く厚かった。
皿の上で半分に切られていて、断面から薄く湯気が上がっている。
細いキャベツ。
小さなポテトサラダ。
ご飯と味噌汁。
昼の弁当より、ずっと広く卓を使う食事だった。
箸を入れると、衣が細かく崩れた。
ひと口分を取り、少し冷まして食べる。
最初に、衣の香ばしさ。
そのあと、肉と玉葱の甘みが広がった。
思っていたより熱い。
セイアは水を飲むほどではなく、少しだけ息を吐いた。
次の一口までに、キャベツを食べる。
細く切られているのに、歯触りがよく分かる。
味噌汁には豆腐と葱が入っていた。
飲むと、ゆっくりと腹の中が温まった。
車窓を眺めながら食べた弁当もよかった。
揺れない卓で、湯気を待ちながら食べるものもよかった。
セイアは、小皿のソースを半分にだけかけた。
◇
窓の向こうを、二人の生徒が駅へ向かって歩いていく。
片方は鞄を肩へ掛け、もう片方はパンの袋を持っていた。
足取りが、少し速い。
店の中にいたハイランダーの生徒も、時計を見て立ち上がった。
会計を済ませ、帽子をかぶり直す。
セイアの前には、まだ半分ほど料理が残っていた。
急いで食べれば、同じ列車へ乗れるかもしれない。
けれど、その必要はなかった。
セイアは、箸で残りのメンチカツを少し崩した。
断面から、新しい湯気が上がる。
それが落ち着くまで待ってから、口へ運んだ。
少しして、駅の方から発車を知らせる音が聞こえた。
セイアは窓を見た。
列車の姿は、建物に隠れて見えなかった。
音が遠ざかる。
今は、食べていたかった。
◇
食事を終え、温かいお茶を飲んだ。
店内の客は少なくなっていた。
店主が、空いた皿を下げに来る。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
「ありがとう。今日は、何かあったの?」
「何か?」
「遠くから来たみたいだから。催しでもあるのかと思って」
セイアは、窓の向こうの駅を見た。
「終点まで乗ってみたくなったんだ」
店主は一度、手にした皿へ目を落とした。
それから笑った。
「じゃあ、うちには都合がよかったね」
「そうなのかな」
「駅でそのまま折り返したら、食べには来なかっただろう」
セイアも笑った。
「確かに」
店主は皿を持って厨房へ戻る。
特別な旅の意味を尋ねられたわけではなかった。
ただ、店へ入った理由が少し分かり、互いに嬉しかった。
それくらいの話だった。
◇
駅へ戻る前に、パンを買った。
さっき窓から見た袋の店が、通りの角にあったのだ。
中には、甘いものと、食事にするものが一緒に並んでいた。
セイアは小さな焼き菓子を三つ選んだ。
それから、列車で食べるための細いラスクを一袋。
会計の時、店員が尋ねる。
「こちらでお召し上がりですか?」
「持って帰るよ」
袋へ入れられる。
店員の手は早かった。
セイアが出発の時刻を気にしているように見えたのか、先に釣り銭を揃えてくれた。
「まだ、余裕があるよ」
言うと、店員は少し笑った。
「この時間だと、急いでいる方も多いので」
セイアは袋を受け取った。
この町では、店の人たちも、列車の時刻を少しずつ持っていた。
◇
帰りは、快速に乗ることにした。
次に来る便が、それだった。
普通列車で来たからといって、帰りも同じに揃える理由はない。
窓口で時刻を確かめ、ホームへ入る。
行きに降りた場所とは、少し違う位置で待った。
駅名標を見る。
遠枝。
朝、発車案内の上で見ていた文字と同じだった。
けれど、その下には、昼に歩いた町があった。
食堂の時計。
浅い川。
パン屋の袋。
線路の向こうを通っていった配達車。
セイアはベンチへ座り、もう一度駅名を見た。
知らない文字ではなくなっていた。
◇
列車が入ってきた。
折り返しの準備が済むまで、少し待つ。
乗務員が車内を確かめ、忘れ物を一つ拾い上げた。
客席の端に、薄い手袋が残っていたらしい。
その様子を見て、セイアも自分の荷物を確かめた。
鞄。
菓子。
乗車券。
本も、ちゃんと入っている。
案内があり、乗り込む。
今度は、行きとは反対側の窓を選んだ。
座ると、ホームが違う角度で見えた。
同じ駅でも、どこに座るかで、見えるものが変わる。
その程度のことを試すには、一日乗車券で十分だった。
◇
帰りの列車が発車した。
車止めは、進む先ではなく後ろにある。
列車は、朝に来た道を戻り始めた。
セイアは振り返ってまで見送らず、横の窓から町が離れていくところを見た。
駅前の道。
食堂の屋根。
家の間を抜ける、小さな川。
それらが隠れると、また広い畑が現れた。
乗っているだけでは分からなかった場所を、少し歩いた。
歩いただけでは届かないところへ、また列車で戻っていく。
セイアは背もたれへ身体を預けた。
今日はまだ、帰り道が残っていた。
◇
快速は、幾つかの駅を通り過ぎた。
行きには停まったホームが、一度の長い景色になって流れる。
ベンチに誰かがいた。
立っている人もいた。
その顔までは見えなかった。
セイアは時刻表を開いた。
帰りの欄には、数字のないところがある。
朝に見た時には、通過する駅の印だった。
今は、その空欄のいくつかに、見覚えのあるホームを思い出せた。
小さな箱を膝に載せていた生徒。
斜めになった駅名標。
窓のすぐ近くにあった花壇。
書かれているものは少ない。
思い出せるものは、朝より多かった。
◇
川に沿うところで、日が差した。
行きには曇っていた山の斜面が、少し明るくなる。
セイアはラスクの袋を開けた。
細い一片を取る。
軽い音を立てて割れた。
甘い砂糖と、バターの香り。
飲み物を一口挟んで、窓を見る。
午前中に食べた胡桃の菓子とは違う。
列車も、座っている側も違う。
けれど、同じ線路を走っていた。
ヒカリが、橋の全体を見られると言っていた道が、遠くに見えた。
今度は、思い出す方が先だった。
あそこだ。
そう思っているうちに、列車が橋へ入る。
音が変わった。
セイアは袋を膝へ置き、橋を抜けるまで、その響きを聞いていた。
◇
少しだけ、眠った。
降りる駅へ近づく頃に気づけるよう、端末へ小さな知らせを設定してから、目を閉じた。
見逃したくない景色がないわけではない。
けれど、ずっと見ていなければ今日が損なわれる、ということでもなかった。
椅子へ背中を預ける。
レールの音が、同じ調子で続く。
次に目を開けた時、窓の外はもう、建物の多い場所だった。
空は薄く暗くなっている。
眠る前より、灯りが増えていた。
セイアは姿勢を戻し、水を飲んだ。
列車は、自分が見ていない間も、ちゃんと走っていた。
◇
三辻駅で停まった。
行きに十八分を過ごしたホームが、向かいに見える。
売店の窓は、まだ開いていた。
今度は別の客が、温かい飲み物を受け取っている。
胡桃の菓子が残っているかどうかは、ここからでは分からなかった。
セイアは降りなかった。
快速の停車は短い。
窓越しに、店と、座ったベンチと、自分の列車へ戻った場所を見た。
ノゾミとヒカリが乗ってきた扉の位置も、だいたい分かった。
ほんの少し前までは、時刻表の途中にある駅だった。
今日は、そこを通るだけで、十八分ぶんのことを思い出す。
発車する。
売店の灯りが、窓の端へ遠ざかった。
◇
大きな駅へ近づくと、線路がまた増えた。
右から一つ。
左から、もう一つ。
別の列車が近づき、しばらく並んで走った。
向こうの窓に、生徒の顔が見える。
こちらを見ているわけではない。
端末を持ち、誰かへ何かを見せていた。
線路が離れると、その車両も遠ざかった。
セイアは、鞄へ本をしまった。
帰りには、ほとんど読まなかった。
その代わり、少し寝た。
行きに停まった場所も見た。
何をしたかを数えても、大きなものはない。
それでも、席を立つのが少し惜しかった。
◇
改札を出たあと、セイアは発車案内を見上げた。
朝とは違う時刻が並んでいる。
その中に、また遠枝行きがあった。
これから向かう列車だった。
今から乗れば、着く頃には夜になっているだろう。
駅前の食堂は、まだ開いているだろうか。
パン屋の棚には、何が残っているのか。
川沿いは、きっと暗い。
セイアは、しばらくその文字を見た。
もう一度乗るつもりはなかった。
今日は、帰る。
けれど、名前だけを知っていた頃には、浮かばなかった景色があった。
鞄を持ち直し、トリニティへ戻るホームへ向かった。
◇
談話室へ着くと、ミカがこちらを見た。
「お帰り。終点、どうだった?」
「ただいま」
セイアは菓子の袋を卓へ置いた。
椅子へ座る。
長く列車に乗っていたあとで、揺れない椅子へ座ると、足元が妙に静かだった。
「駅があったよ」
「それはそうでしょ」
「食堂と、パン屋も」
「……そっちも、あったんだね」
ミカは袋の中を覗いた。
薄い焼き菓子が三つある。
すぐに、一つを持ち上げた。
「これ?」
「ああ。食べるのは、あとにする?」
「お茶があったら、今でもいい」
ナギサが立ち上がった。
「少し淹れましょう。セイアさんも?」
「お願いするよ」
大きな歓迎会のようにはならなかった。
いつもの席へ座り、いつもの相手に、今日の続きを話す時間だった。
◇
ミカは、三辻駅で買った菓子の話を聞きたがった。
写真は撮っていなかった。
セイアがそう言うと、少し残念そうにする。
「最後の一つだったの?」
「ああ」
「いいなあ」
「私も、そう思いながら食べたよ」
ナギサがお茶を置き、時刻表へ一度目をやった。
「ずいぶん長く、お乗りになったのですね」
「行きも帰りも、ほとんど同じ線路だった」
「お疲れではありませんか」
「少し。ただ、帰りは眠ったのでね」
「それなら、よかったです」
ナギサはそう言って、自分の席へ戻った。
ミカが、次の写真へ画面を送る。
車止めの向こうに、道路が写っていた。
「ここで終わり?」
「列車はね」
ミカは少し写真を見ていた。
それから、次の、食堂で撮った皿へ移した。
「こっちも美味しそう」
セイアは笑った。
終点の説明としては、それも十分に大事だった。
◇
ヒカリとノゾミに会ったことも話した。
少しだけ同じ車両へ乗り、途中で降りていったこと。
ヒカリが橋の音を教えてくれたこと。
ノゾミに、変わった乗り方だと笑われたこと。
「でも、途中で知ってる子に会うのって、嬉しいね」
ミカが言った。
「ああ」
「最初から一緒に行くのと、ちょっと違うでしょ」
「そうだね」
セイアはカップを持った。
二人が乗ってきた時も、降りていった時も、列車の行き先は変わらなかった。
その短い間だけ、向かいの窓が賑やかになった。
帰りに同じ駅へ停まった時、その声まで少し思い出せた。
セイアはお茶を飲んだ。
焼き菓子を割る音が、卓の向こうから聞こえた。
◇
自室へ戻って、荷物をほどいた。
弁当の包みは、途中の駅で片づけた。
菓子の袋は、談話室へ置いてきた。
鞄には本と手帖と、折り目の増えた時刻表が残っている。
セイアは時刻表を広げた。
三辻駅のところだけ、少し開きやすくなっていた。
指で、その先を辿る。
ヒカリとノゾミが降りた駅。
箱を抱えた生徒が座っていた駅。
車窓から川の見えた区間。
最後に、遠枝。
数字は、朝に窓口で受け取った時のままだった。
けれど、今は一番下まで読むのに、少し時間がかかった。
途中で、いくつも思い出すものがあった。
セイアは手帖を開き、今日の日付を書いた。
その下へ、乗った列車と、着いた駅を短く記す。
何があったかを書こうとして、ペンを止めた。
終点のことだけなら、数行で済むかもしれない。
けれど、あの十八分も、そのあとの声も、弁当を食べながら見た川も、書いておきたかった。
少し考えて、空いた行へ駅の名前をもう一つ足す。
それから、その上にも一つ。
セイアは新しい頁を開いた。
今度は、出発した駅の名前から書き始めた。