百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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12.ハイランダー・北嶺線 #十八分の停車 #終点まで #胡桃の焼き菓子

 

 

 その駅の名前は、何度も見たことがあった。

 

 ホームに入ってくる列車の正面。

 

 頭上の発車案内。

 

 自分が乗る列車の、隣の欄。

 

 遠枝行き。

 

 百合園セイアは、その文字を見上げていた。

 

 遠枝。

 

 読める。名前も覚えている。

 

 けれど、そこに何があるのかは知らなかった。

 

 これまでは、行き先を確かめるために見ていた。自分の降りる駅を通るのか。途中で乗り換える必要があるのか。分かれば、それ以上は気にしなかった。

 

 今日は、そこに書かれている場所まで行ってみようと思った。

 

     ◇

 

 窓口で行き先を告げると、ハイランダーの制服を着た生徒が端末を操作した。

 

「遠枝までですね。お帰りも本日ですか?」

 

「ああ。そのつもりだよ」

 

「でしたら、こちらの一日乗車券が使えます。この路線内なら、普通列車と快速の両方に乗れますので」

 

 示された範囲を確かめる。

 

 長い線が何度か曲がり、幾つもの駅を通っている。

 

 その端に、遠枝があった。

 

「じゃあ、それでお願いするよ」

 

「次の普通列車が三番線から出ます。終点までは、途中の停車も入れて四時間ほどです」

 

 セイアは、手元の時刻表へ目を落とした。

 

 出発の時刻から、縦に数字が続いている。

 

 途中に、着く時刻と出る時刻の両方が書かれた駅があった。

 

 そこで、少し長く停まるらしい。

 

「こちらなら、今からでも間に合うね」

 

「はい。ただ、そのあとの快速へ途中で乗り換えますと、二十分ほど早く着きます」

 

「なるほど」

 

 セイアは、二つの列車の欄を見比べた。

 

 片方には、数字のない駅がいくつもある。

 

 もう片方は、どの駅にも時刻が書かれていた。

 

「今日は、この普通列車で行ってみようかな」

 

 窓口の生徒は頷いた。

 

「では、ごゆっくり。帰りの時刻も、こちらに載っています」

 

 小さく折れる時刻表を受け取る。

 

 行く場所のことは、まだほとんど知らない。

 

 そこへ行くまでに、何時にどこへ停まるかは分かった。

 

     ◇

 

 改札へ入る前に、弁当を買った。

 

 売り場には、細長い箱も、丸い容器も、二段に重なったものも並んでいる。

 

 セイアは一度、全体を見た。

 

 最初に気になったのは、肉の多い弁当だった。

 

 次に、魚。

 

 その隣の、小さな品が少しずつ入っているものもよかった。

 

「お決まりですか?」

 

「列車の中で食べようと思うのだけれど」

 

「でしたら、こちらは蓋を重ねて持てますよ。箱が浅いので、お膝の上でも食べやすいです」

 

 店員のロボットが、一つを示した。

 

 焼き鮭。

 

 卵焼き。

 

 鶏の照り焼きと、根菜の煮物。

 

 ご飯には、細かな胡麻が振ってある。

 

 豪華というほどではない。

 

 けれど、どこから食べるかを考えるには、十分な数が入っていた。

 

「それを一つ。それから、お茶も」

 

「すぐ召し上がりますか?」

 

「いや。もう少し先で」

 

 答えてから、セイアは少し笑った。

 

 食べる場所は決まっている。

 

 ただし、その場所は、これから動く。

 

     ◇

 

 三番線の列車は、すでに扉を開けて待っていた。

 

 特別に飾られた観光列車ではなかった。

 

 窓の大きな、四両編成。

 

 車体の側面には、ハイランダーの印と、行き先を示す表示がある。

 

 セイアは一度、先頭まで歩いてみた。

 

 いつも案内の文字ばかり見ていた顔を、今日は少し離れたところから眺める。

 

 運転台の窓。

 

 灯り。

 

 その下に収まった、いくつかの機器。

 

 これが自分を、知らない駅まで運んでいく。

 

 写真を一枚撮り、乗り込んだ。

 

 車内には、二人ずつ並んで座る席が続いていた。

 

 背もたれの裏に、小さな卓が畳まれている。

 

 セイアは窓際へ座った。

 

 足元に鞄を置き、弁当の袋はその上へ。

 

 窓の外では、まだ何人かがホームを歩いていた。

 

     ◇

 

 発車まで、五分ほどあった。

 

 向かいのホームへ別の列車が入ってくる。

 

 降りた生徒たちが、階段へ向かって歩き出した。

 

 その流れから一人が外れ、売店で飲み物を買う。

 

 別の一人は、立ったまま端末へ何かを打ち込んでいた。

 

 セイアも端末を取り出した。

 

 今日は終点まで乗ってみること。

 

 夜には戻ること。

 

 その二つを、ナギサへ伝える。

 

 行き先の名前も添えた。

 

 返信は短かった。

 

『承知しました。よい一日を。』

 

 そのあと、ミカから一件届いた。

 

『終点って何があるの?』

 

 セイアは、窓の外の行き先表示を見た。

 

『それを見に行くところだよ。』

 

 送ってから、端末をしまう。

 

 やがて発車を知らせる音が鳴った。

 

 扉が閉まる。

 

 誰かが急いで走ってくることもなく、列車は静かに動き出した。

 

     ◇

 

 駅を離れてすぐは、線路が何本も並んでいた。

 

 こちらへ近づいてくるもの。

 

 離れていくもの。

 

 途中で交わり、別の方向へ曲がっていくもの。

 

 列車が分岐を通るたび、床から届く揺れが少し変わった。

 

 セイアは窓の下へ手を置いた。

 

 自分の車なら、道に合わせて足を動かし、次の曲がり角を見ているところだ。

 

 今は、手も足も空いている。

 

 その代わり、自分で曲がることはできない。

 

 左へ延びた線路が、倉庫の間へ消えていった。

 

 セイアの乗る列車は、そのまま進む。

 

 見えなくなるまで目で追ってから、前へ視線を戻した。

 

 こちらの線路にも、まだ続きを見たことのない場所があった。

 

     ◇

 

 最初の幾つかの駅では、乗り降りする人が多かった。

 

 短い距離だけ乗ったらしい生徒が降り、入れ替わりに大きな鞄を持った生徒が座る。

 

 セイアの隣にも、一人乗ってきた。

 

 膝の上へ、布で包んだ細長いものを置いている。

 

 楽器だろうか。

 

 そう思ったが、確かめはしなかった。

 

 その生徒は二駅先で降りた。

 

 代わりに乗ってきた犬の客は、紙袋から新聞を出して読み始めた。

 

 頁を広げすぎないよう、縦に折り直している。

 

 同じ席に座り続けているのは、セイアの方だった。

 

 列車の中では、行き先も、過ごす長さも、それぞれ違う。

 

 次の駅で新聞の客も降りると、隣はまた空いた。

 

 窓の外の建物が、少し低くなっていた。

 

     ◇

 

 車掌が切符を確かめに来た。

 

 セイアは乗車券を見せる。

 

 小さな機械へ読み取らせたあと、車掌は頷いた。

 

「終点までご利用ですか?」

 

「ああ」

 

「次の三辻駅で、快速の待ち合わせをします。向かいのホームへ入りますので、お乗り換えでしたら――」

 

「ありがとう。ただ、今日は、このまま乗っていようと思う」

 

 車掌が一度、セイアを見た。

 

 首を傾げるほどではなかった。

 

 すぐに、手元の時刻を確かめる。

 

「承知しました。この列車も遠枝まで参ります。三辻では十一時二十六分の発車です」

 

「十八分、停まるんだね」

 

「はい。ホームの売店をご利用でしたら、発車時刻にお気をつけください」

 

 会釈をして、先へ進んでいく。

 

 引き留めて、旅の理由を説明する必要はなかった。

 

 早く着く方法を教えてくれた。

 

 自分は、今座っている席を選んだ。

 

 それだけのことだった。

 

 セイアは時刻表へ小さく折り目をつけた。

 

 三辻駅の欄が、開けばすぐに見えるようになった。

 

     ◇

 

 川が見えてきた頃、弁当の蓋を開けた。

 

 朝食は早かった。

 

 まだ昼には少し間があったが、空腹を、時計に合わせて待たせることもない。

 

 背もたれの卓を下ろし、箱を置く。

 

 蓋を重ねると、確かに邪魔にならなかった。

 

 箸を割る。

 

 最初は、焼き鮭にした。

 

 表面には、少し濃い焼き色がある。

 

 身をほぐすと、冷めていても脂の柔らかさが分かった。

 

 ご飯を一口。

 

 米粒は箱の形に収まっているが、箸を入れるときちんとほぐれた。

 

 胡麻の香りと、鮭の塩気。

 

 窓の向こうで、川の幅が広くなる。

 

 食べる手を止めて見る。

 

 再び箸を動かすと、今度は卵焼きが目に入った。

 

 どれから食べるか、決めていたわけではない。

 

 小さな箱の中を、その時に気になる順で巡った。

 

     ◇

 

 照り焼きの鶏肉は、ひと口で食べられる大きさだった。

 

 箸で切り分ける必要がない。

 

 甘辛いたれは、底へ流れ出さない程度に絡んでいる。

 

 煮物の蓮根には、歯触りが残っていた。

 

 人参は、その隣で柔らかい。

 

 列車が少し揺れた時、セイアは箱へ片手を添えた。

 

 中のものは、ほとんど動かなかった。

 

 華やかな皿の上で食べていたら、気づかなかったかもしれない。

 

 どれも、ここで食べるのに困らない形をしていた。

 

 セイアは最後の鮭をほぐし、ご飯と一緒に食べた。

 

 窓の外には、知らない橋があった。

 

 渡るのではなく、少し離れたところを並んで走る。

 

 欄干の上を、自転車を押した生徒が歩いていた。

 

 その姿が木々の間へ隠れる頃、弁当は空になった。

 

     ◇

 

 三辻駅へは、案内された通りの時刻に着いた。

 

 ホームに降りると、車内より風があった。

 

 セイアは鞄を持ち直し、自分が降りた車両の位置を確かめた。

 

 二両目。

 

 柱の横。

 

 その先に、売店の小さな窓がある。

 

 時計を見る。

 

 十八分。

 

 街へ出るには短い。

 

 けれど、何もできないほど短くもなかった。

 

 まず、少し歩いてみた。

 

 柱の間から、別の線路が見える。

 

 側線には、短い車両が二両、並んで停まっていた。

 

 荷物を積んだ台車が、ホームの端へ運ばれていく。

 

 乗務員の生徒が一人、車内へ入る前に窓を見上げ、何かを確かめた。

 

 セイアはその邪魔にならないよう、売店の前へ寄った。

 

     ◇

 

 売店には、温かい飲み物と、袋に入った菓子があった。

 

 小さなパンも並んでいる。

 

 ただし、目についた胡桃の焼き菓子は、一つだけ残っていた。

 

「それ、今ちょうど最後です」

 

 店員の生徒が言った。

 

「では、一つ。お茶もお願いしてよいかな」

 

「熱いので、蓋をしますね」

 

 渡された紙カップを持つ。

 

 鞄の中には、まだ飲み物が残っている。

 

 それでも、ホームへ降りた時に買う温かいものが欲しかった。

 

 セイアは柱の横へ戻り、ベンチへ座った。

 

 停まっている列車を、外から眺める。

 

 さっきまで、その窓の内側にいた。

 

 今は自分の席が、少し暗く見える。

 

 当たり前のことだったが、列車は自分が乗っていなくても、ちゃんとそこにあった。

 

 ここで一日を過ごす人には、いつも入ってきて、しばらくすると出ていくものなのだろう。

 

 お茶を一口飲んだ。

 

 遠くで、別の列車の近づく音がした。

 

     ◇

 

 快速が入ってきた。

 

 普通列車より、窓の間隔が少し違う。

 

 扉が開くと、こちらの列車から降りた何人かが、向こうへ移っていった。

 

 大きな荷物を持った客もいる。

 

 車掌が案内し、ホームの流れが一度に動いた。

 

 セイアはベンチから立った。

 

 時計を見る。

 

 自分の列車の発車までは、まだ少しある。

 

 快速の行き先にも、遠枝と書かれていた。

 

 同じ名前。

 

 同じところへ行く。

 

 こちらへ乗れば、先に着く。

 

 セイアは一口だけお茶を飲み、自分の乗ってきた車両へ戻った。

 

 窓際の席は、空いていた。

 

     ◇

 

 向かいの快速が動き出す。

 

 窓の中で、生徒が端末を見ていた。

 

 その隣では、もう目を閉じている客がいる。

 

 車両が一つずつ目の前を通り、最後尾が遠ざかった。

 

 こちらの列車は、まだ停まっている。

 

 セイアは買った菓子を鞄へ入れ、カップを卓へ置いた。

 

 待っている時間なのに、置いていかれた気はしなかった。

 

 自分で、ここへ戻ってきたのだ。

 

 少しして、開いた扉から二人の生徒が乗ってきた。

 

「こっちの方が空いてるじゃん」

 

「窓、あいてる~」

 

 聞いたことのある声だった。

 

 セイアが顔を上げると、片方もこちらに気づいた。

 

「あれ。セイア?」

 

     ◇

 

「こんにちは、ノゾミ。ヒカリも」

 

 橘ノゾミが、少し目を丸くする。

 

 その隣で、ヒカリがゆっくり手を上げた。

 

「セイアだ~」

 

 二人とは、シャーレで当番の交代が重なった時に、何度か話したことがあった。

 

 互いの予定を知っているほどではない。

 

 顔を見れば声をかけられる、それくらいの間柄だった。

 

「どこ行くの?」

 

「終点まで」

 

「遠枝? 何か用事?」

 

「いや。今日は、この列車に乗りに来たんだ」

 

 ノゾミは、窓の外を一度見た。

 

 快速はもう見えない。

 

「今のに乗れば、早かったのに」

 

「教えてもらったよ。けれど、こちらに残った」

 

「えー。わざと?」

 

「ああ」

 

 ノゾミが少し考え、それから笑った。

 

「パヒャヒャ! 変わったお客さん」

 

 セイアも、少し笑う。

 

 ヒカリは空いている席を見ていた。

 

「ヒカリ、ここ座る~」

 

「私たちは途中までだけど。いい?」

 

「もちろん」

 

 二人は、通路を挟んだ向こう側へ座った。

 

 ヒカリが窓際。

 

 ノゾミは、その隣だった。

 

     ◇

 

 発車の案内が流れる。

 

 ノゾミが時計を見た。

 

 ヒカリは、窓の外の車両へ顔を向けている。

 

 扉が閉まる直前、車掌が通りかかった。

 

 二人と短く挨拶を交わし、そのまま先へ進んでいく。

 

 知っている生徒が乗ったからといって、何かが変わるわけではなかった。

 

 十一時二十六分。

 

 列車が動き出す。

 

 セイアは、手元の時刻表を一度見た。

 

 書いてあった数字が、そのまま今になった。

 

「君たちは、仕事かな」

 

「この先の運行区に用があるの。そこまで移動中」

 

 ノゾミが答える。

 

「今日は運転しないんだね」

 

「今は、乗ってるだけ~」

 

 ヒカリが窓を見たまま言った。

 

「こっちの窓も、いっぱい見えるね~」

 

 セイアは、彼女の視線を追った。

 

 運転台から見ている時とは、違う景色なのかもしれない。

 

     ◇

 

「終点で、何するかは決めてるの?」

 

 ノゾミが尋ねた。

 

「まだだよ。降りて、少し歩いてみようと思っている」

 

「あそこ、大きい観光施設とかないよ」

 

「そうか」

 

「駅前に店はあるけど。あと、バス」

 

「それなら、歩くところには困らなそうだね」

 

 ノゾミはセイアを見た。

 

「本当に、乗りに来たんだ」

 

「出かける理由としては、足りないかな」

 

「ううん。ちゃんと終点まで乗ってくれるなら、いいお客さんだよ」

 

 軽い調子だった。

 

 けれど、からかって終わりにはしなかった。

 

 ヒカリがこちらを向く。

 

「帰りも乗れるし~」

 

「ああ。そこは、楽しみにしている」

 

「いっぱい乗るね~」

 

「今日は、そういう日にしてみた」

 

 ヒカリは納得したように頷き、また窓へ向き直った。

 

 話が通じたのかどうかを、何度も確かめる必要はなかった。

 

     ◇

 

 列車が大きく揺れた。

 

 橋へ入るところだった。

 

 セイアは、紙カップへ手を添えた。

 

 同時に、ヒカリが窓の下を見た。

 

「今の音は、橋に入ったからかな」

 

「うん。もうすぐ、また変わるよ~」

 

 セイアは耳を澄ませた。

 

 少し硬く響いていた音が、橋を抜けると、元の響きへ戻った。

 

「……本当だ」

 

 ヒカリは小さく笑った。

 

「ここ、長いからね~」

 

「君は、何度も通っているんだね」

 

「通るよ~」

 

 言いながら、窓の向こうへ指を上げる。

 

「あっちの道からだと、橋ぜんぶ見える」

 

 川沿いの道が、遠くにあった。

 

 セイアはそちらを見た。

 

 今走っている橋を、外から見る場所。

 

 それは、今日は通らない道だった。

 

「そちらからも、見てみたくなるね」

 

「でも、今の列車は向こうへ行かないよ」

 

 ノゾミが言う。

 

「知っているよ」

 

「セイア、行きたいところ増えちゃったんじゃない?」

 

「少しね」

 

 ノゾミが楽しそうに笑った。

 

 セイアも否定しなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

     ◇

 

 次の駅で、買い物袋を持った客が乗ってきた。

 

 空いている席へ向かう途中、袋の端が手すりへ引っかかる。

 

 ノゾミが、さっと手を伸ばした。

 

「こっち、通して」

 

 袋の向きを少し変える。

 

 外れた。

 

 客が礼を言うと、ノゾミは片手を上げて席へ戻った。

 

 ヒカリは、その間も窓を見ていた。

 

 けれどノゾミが座る前に、隣へ置いていた自分の鞄を膝へ戻した。

 

 何かを言われたわけではなかった。

 

 セイアは二人を見てから、卓のカップを片づけた。

 

 少し前までは、車両の揺れや音ばかり気にしていた。

 

 今は、その中で動いている人の手も、目に入る。

 

     ◇

 

「さっきの駅、お茶買ったの?」

 

 ノゾミが、片づけられたカップを見て尋ねた。

 

「ああ。菓子も一つ」

 

「何の?」

 

「胡桃のものだよ」

 

「あー、あれ」

 

 ヒカリが振り返った。

 

「なくなるの、早い~」

 

「今日は最後の一つだったらしい」

 

「じゃあ、いい停まり方したね」

 

 ノゾミが言った。

 

 セイアは笑った。

 

「列車を停めたのは、私ではないけれど」

 

「降りたのはセイアでしょ」

 

 確かに、その通りだった。

 

 セイアは鞄へ目を落とした。

 

 時刻表の十八分は、窓口で見た時にはただの空き時間だった。

 

 今は、温かいお茶と、胡桃の菓子と、向こうの列車を見送った時間になっていた。

 

     ◇

 

 二人が降りる駅は、三つ先だった。

 

 ノゾミが端末を見て、ヒカリへ声をかける。

 

「次。荷物、忘れないでね」

 

「あるよ~」

 

「帽子も」

 

 ヒカリが頭へ触れる。

 

 ちゃんとかぶっていた。

 

「ある~」

 

「うん。ならいい」

 

 セイアは、そのやり取りを少し笑って聞いていた。

 

 ノゾミが立ち、鞄を肩へ掛ける。

 

「じゃあ、私たちはここで」

 

「ああ。付き合ってくれて、ありがとう」

 

「一緒の列車だっただけじゃん」

 

「それが、楽しかったんだよ」

 

 ノゾミは少しだけ、返事を遅らせた。

 

 それから、いつもの明るい調子で言う。

 

「終点まで、ちゃんと楽しんでね」

 

 ヒカリも立ち上がった。

 

「ばいばい、セイア~」

 

「ああ。またシャーレで」

 

 列車が停まる。

 

 二人はほかの客と一緒に降りていった。

 

 窓の外でヒカリが一度振り返り、小さく手を振る。

 

 セイアも返した。

 

 発車すると、二人はホームの柱の向こうへ隠れた。

 

     ◇

 

 通路の向こうの席が、空いた。

 

 窓の外は、まだ続いている。

 

 少しの間、列車の音がよく聞こえた。

 

 寂しいというほどではない。

 

 ただ、さっきまでそこへ重なっていた二人の声がなくなった。

 

 セイアは鞄から胡桃の菓子を出した。

 

 袋を開ける。

 

 小さな長方形の生地に、刻んだ胡桃が入っている。

 

 一口かじると、端は軽く崩れた。

 

 中央は少ししっとりしていて、噛むと木の実の香ばしさが残る。

 

 ヒカリが、よく売り切れると言っていた。

 

 その話を聞く前より、少し大事に食べたくなった。

 

 残りを一度袋へ戻し、お茶を飲む。

 

 窓の向こうには、低い畑が広がっていた。

 

 菓子を見てから顔を上げるたびに、景色の方が少し先へ進んでいた。

 

     ◇

 

 山が近づいてきた。

 

 線路は川へ寄り、また離れる。

 

 短いトンネルへ入ると、窓に自分の姿が映った。

 

 座っている。

 

 鞄を足元へ置いている。

 

 手には、食べかけの菓子。

 

 トンネルを出ると、その姿は薄くなり、木々の向こうへ消えた。

 

 セイアは、残りを食べ終えた。

 

 本を出す。

 

 今度は、しばらく読んだ。

 

 音の変わるところで顔を上げ、駅へ停まれば駅名を見る。

 

 そのあと、また頁へ戻る。

 

 どちらかを選んだからといって、もう片方をずっと見ないままでいる必要はなかった。

 

     ◇

 

 小さな駅へ停まった時、向かいのホームに生徒が一人立っていた。

 

 膝の上へ箱を置き、ベンチに座っている。

 

 セイアの列車が来ても、立ち上がらなかった。

 

 逆方向へ行くのだろう。

 

 その生徒の向こうには、低い建物が数軒ある。

 

 駅前から伸びる道は、すぐに角を曲がって見えなくなっていた。

 

 セイアは、今日そこで降りるつもりはなかった。

 

 降りれば、何か見つかるのかもしれない。

 

 でも今は、窓の中から見たところまででよかった。

 

 扉が閉まる。

 

 ホームの生徒は、箱の位置を一度直した。

 

 その姿が後ろへ流れていく。

 

 セイアは駅名を、手帖へ一つだけ書いた。

 

 何があるのかではなく、何を見たのかを、短く添えた。

 

     ◇

 

 終点が近づくと、車内の人は少なくなっていた。

 

 いなくなったわけではない。

 

 前の席には、小さな荷物を持った犬の客がいる。

 

 少し離れたところでは、ハイランダーの生徒が二人、静かに話していた。

 

 セイアは時刻表を開いた。

 

 最後の行まで、あと二駅。

 

 窓の外を見て、もう一度紙を見る。

 

 長い欄の下にあった名前が、ようやく近づいていた。

 

 早く着いてほしいとは思わなかった。

 

 けれど、見えてきてほしいとは思った。

 

 列車はゆっくりと曲がり、家の屋根の間へ入っていった。

 

     ◇

 

 遠枝駅は、小さな終着駅だった。

 

 低い屋根のホームが二つ。

 

 端の方に、花の鉢が置かれている。

 

 駅名標には、一つ前の駅の名前が書かれていた。

 

 反対側には、何もない。

 

 列車が止まる。

 

 扉が開いた。

 

 セイアは鞄を持って立ち上がった。

 

 何時間も座っていた足へ、体重が戻る。

 

 少しだけ伸びをしたくなったが、後ろから来る客のために先へ進んだ。

 

 ホームへ降りる。

 

 空気は、出発した駅より少し涼しかった。

 

 振り返ると、乗ってきた列車が停まっている。

 

 さっきまで、窓の向こうの景色が動いていた。

 

 今は自分が、その景色の側へ立っていた。

 

     ◇

 

 改札で一日乗車券を見せると、駅員が頷いた。

 

「お帰りも、こちらからですか」

 

「ああ。少し町を歩いてから戻るよ」

 

「でしたら、時刻表はこちらにもあります」

 

 壁の案内を示す。

 

 セイアは帰りの列車を幾つか確かめた。

 

 午後の普通列車。

 

 そのあとの快速。

 

 まだ、どちらでも帰れる。

 

 写真を撮り、駅舎の外へ出た。

 

 小さな広場があった。

 

 バス停。

 

 数台の自転車。

 

 日用品を扱う店。

 

 食堂らしい暖簾。

 

 向こうの坂には住宅が並び、道が山の間へ続いている。

 

 セイアは、しばらくそこに立った。

 

 路線図の線は、ここで終わっていた。

 

 町の道は、その先へ延びていた。

 

     ◇

 

 駅の脇から、線路の終わるところが見えた。

 

 柵の外を通る歩道へ回る。

 

 二本の線路は、少し先で車止めへ突き当たっていた。

 

 その向こうには、道路がある。

 

 信号で、小さな配達車が停まっていた。

 

 青になると、車は左へ曲がっていった。

 

 セイアはその後ろ姿を見送り、もう一度線路を見た。

 

 大きな記念碑も、眺望を案内する看板もない。

 

 電車が進むための道が、ここで止まっている。

 

 朝、表示で見た名前には、そういう場所があった。

 

「……着いたね」

 

 小さく言った。

 

 誰に告げたのか、自分でもよく分からなかった。

 

 端末を取り出し、柵のこちら側から一枚撮る。

 

 写真には、止まった線路の向こうを歩く人も、小さく写った。

 

     ◇

 

 町を歩くと、家と店の間隔がゆっくりになった。

 

 駅前には客を迎える店が集まっていたが、少し離れると、暮らしのための店が多くなる。

 

 靴の修理。

 

 金物。

 

 日用品。

 

 店先の黒板に、明日の入荷を知らせる文字が書いてあった。

 

 一軒の文具店の前で、生徒が便箋を見比べている。

 

 もう一人が、隣から色の違うものを出した。

 

 何を送るのかまでは、聞こえなかった。

 

 セイアは、通りの端を歩いた。

 

 観光用の案内は少ない。

 

 それでも、どこを歩けばよいか分からなくなるほどではなかった。

 

 駅から続く道を辿り、小さな川を渡る。

 

 その先で、買い物袋を下げた人が、家の戸を開けた。

 

 列車でここへ着く人の中には、この戸を開けるために乗っている人もいるのだろう。

 

     ◇

 

 川沿いの腰掛けで、少し休んだ。

 

 水は浅く、小さな石の間を流れていた。

 

 列車の窓から見た川とは、違う支流なのかもしれない。

 

 ここでは、水の音が聞こえる。

 

 午前中は、何度も川を見た。

 

 そのどれも、音までは聞かなかった。

 

 セイアは、鞄から水を出した。

 

 飲みながら、流れを見る。

 

 線路のある方から、列車の音が届いた。

 

 建物に隠れて、姿は見えない。

 

 駅へ戻れば、さっきの列車がまだいるのだろうか。

 

 もう、別の客を乗せて出たかもしれない。

 

 セイアは、すぐには戻らなかった。

 

 今は、川の前に座っていた。

 

     ◇

 

 歩いているうちに、もう一度、何か温かいものが食べたくなった。

 

 弁当を食べてからは、かなり時間が経っていた。

 

 朝の駅で買った一箱は、もう空になっている。

 

 セイアは駅前へ戻り、暖簾の出ていた食堂を覗いた。

 

 中には数人の客がいた。

 

 壁際には、作業着を着たロボット。

 

 窓の前には、ハイランダーの生徒が一人。

 

 カウンターの端が空いていた。

 

「いらっしゃい」

 

 猫の店主が声をかける。

 

 セイアは席へ座り、壁の品書きを見た。

 

 定食。

 

 麺。

 

 カレー。

 

 その下に、本日のおすすめが小さく書いてある。

 

 メンチカツ。

 

 セイアは、少し考えてから、それを選んだ。

 

「ご飯は、少なめでお願いできるかな」

 

「はいよ」

 

 返事と一緒に、厨房の奥で皿が動いた。

 

     ◇

 

 店の時計は、時刻表のすぐ隣に掛かっていた。

 

 食べ終えた客が立ち上がる前に、必ずどちらかを見る。

 

 セイアも、一度見た。

 

 次の普通列車には、間に合いそうだった。

 

 そのあとの快速なら、もう少しゆっくりできる。

 

 どちらも今日中には帰れる。

 

 店主が水を足しながら尋ねる。

 

「何時のに乗るの?」

 

「まだ決めていないよ。食べ終えてから、少し考えようかと」

 

「それなら大丈夫。急ぐ人には先に聞いてるんだ」

 

 セイアは頷いた。

 

 この店では、料理ができるまでの時間と、列車が出るまでの時間が、同じ卓の上にある。

 

 厨房から、油の音が聞こえた。

 

 セイアは時刻表から目を離した。

 

 今は、そちらの方が気になった。

 

     ◇

 

 メンチカツは、丸く厚かった。

 

 皿の上で半分に切られていて、断面から薄く湯気が上がっている。

 

 細いキャベツ。

 

 小さなポテトサラダ。

 

 ご飯と味噌汁。

 

 昼の弁当より、ずっと広く卓を使う食事だった。

 

 箸を入れると、衣が細かく崩れた。

 

 ひと口分を取り、少し冷まして食べる。

 

 最初に、衣の香ばしさ。

 

 そのあと、肉と玉葱の甘みが広がった。

 

 思っていたより熱い。

 

 セイアは水を飲むほどではなく、少しだけ息を吐いた。

 

 次の一口までに、キャベツを食べる。

 

 細く切られているのに、歯触りがよく分かる。

 

 味噌汁には豆腐と葱が入っていた。

 

 飲むと、ゆっくりと腹の中が温まった。

 

 車窓を眺めながら食べた弁当もよかった。

 

 揺れない卓で、湯気を待ちながら食べるものもよかった。

 

 セイアは、小皿のソースを半分にだけかけた。

 

     ◇

 

 窓の向こうを、二人の生徒が駅へ向かって歩いていく。

 

 片方は鞄を肩へ掛け、もう片方はパンの袋を持っていた。

 

 足取りが、少し速い。

 

 店の中にいたハイランダーの生徒も、時計を見て立ち上がった。

 

 会計を済ませ、帽子をかぶり直す。

 

 セイアの前には、まだ半分ほど料理が残っていた。

 

 急いで食べれば、同じ列車へ乗れるかもしれない。

 

 けれど、その必要はなかった。

 

 セイアは、箸で残りのメンチカツを少し崩した。

 

 断面から、新しい湯気が上がる。

 

 それが落ち着くまで待ってから、口へ運んだ。

 

 少しして、駅の方から発車を知らせる音が聞こえた。

 

 セイアは窓を見た。

 

 列車の姿は、建物に隠れて見えなかった。

 

 音が遠ざかる。

 

 今は、食べていたかった。

 

     ◇

 

 食事を終え、温かいお茶を飲んだ。

 

 店内の客は少なくなっていた。

 

 店主が、空いた皿を下げに来る。

 

「ごちそうさま。美味しかったよ」

 

「ありがとう。今日は、何かあったの?」

 

「何か?」

 

「遠くから来たみたいだから。催しでもあるのかと思って」

 

 セイアは、窓の向こうの駅を見た。

 

「終点まで乗ってみたくなったんだ」

 

 店主は一度、手にした皿へ目を落とした。

 

 それから笑った。

 

「じゃあ、うちには都合がよかったね」

 

「そうなのかな」

 

「駅でそのまま折り返したら、食べには来なかっただろう」

 

 セイアも笑った。

 

「確かに」

 

 店主は皿を持って厨房へ戻る。

 

 特別な旅の意味を尋ねられたわけではなかった。

 

 ただ、店へ入った理由が少し分かり、互いに嬉しかった。

 

 それくらいの話だった。

 

     ◇

 

 駅へ戻る前に、パンを買った。

 

 さっき窓から見た袋の店が、通りの角にあったのだ。

 

 中には、甘いものと、食事にするものが一緒に並んでいた。

 

 セイアは小さな焼き菓子を三つ選んだ。

 

 それから、列車で食べるための細いラスクを一袋。

 

 会計の時、店員が尋ねる。

 

「こちらでお召し上がりですか?」

 

「持って帰るよ」

 

 袋へ入れられる。

 

 店員の手は早かった。

 

 セイアが出発の時刻を気にしているように見えたのか、先に釣り銭を揃えてくれた。

 

「まだ、余裕があるよ」

 

 言うと、店員は少し笑った。

 

「この時間だと、急いでいる方も多いので」

 

 セイアは袋を受け取った。

 

 この町では、店の人たちも、列車の時刻を少しずつ持っていた。

 

     ◇

 

 帰りは、快速に乗ることにした。

 

 次に来る便が、それだった。

 

 普通列車で来たからといって、帰りも同じに揃える理由はない。

 

 窓口で時刻を確かめ、ホームへ入る。

 

 行きに降りた場所とは、少し違う位置で待った。

 

 駅名標を見る。

 

 遠枝。

 

 朝、発車案内の上で見ていた文字と同じだった。

 

 けれど、その下には、昼に歩いた町があった。

 

 食堂の時計。

 

 浅い川。

 

 パン屋の袋。

 

 線路の向こうを通っていった配達車。

 

 セイアはベンチへ座り、もう一度駅名を見た。

 

 知らない文字ではなくなっていた。

 

     ◇

 

 列車が入ってきた。

 

 折り返しの準備が済むまで、少し待つ。

 

 乗務員が車内を確かめ、忘れ物を一つ拾い上げた。

 

 客席の端に、薄い手袋が残っていたらしい。

 

 その様子を見て、セイアも自分の荷物を確かめた。

 

 鞄。

 

 菓子。

 

 乗車券。

 

 本も、ちゃんと入っている。

 

 案内があり、乗り込む。

 

 今度は、行きとは反対側の窓を選んだ。

 

 座ると、ホームが違う角度で見えた。

 

 同じ駅でも、どこに座るかで、見えるものが変わる。

 

 その程度のことを試すには、一日乗車券で十分だった。

 

     ◇

 

 帰りの列車が発車した。

 

 車止めは、進む先ではなく後ろにある。

 

 列車は、朝に来た道を戻り始めた。

 

 セイアは振り返ってまで見送らず、横の窓から町が離れていくところを見た。

 

 駅前の道。

 

 食堂の屋根。

 

 家の間を抜ける、小さな川。

 

 それらが隠れると、また広い畑が現れた。

 

 乗っているだけでは分からなかった場所を、少し歩いた。

 

 歩いただけでは届かないところへ、また列車で戻っていく。

 

 セイアは背もたれへ身体を預けた。

 

 今日はまだ、帰り道が残っていた。

 

     ◇

 

 快速は、幾つかの駅を通り過ぎた。

 

 行きには停まったホームが、一度の長い景色になって流れる。

 

 ベンチに誰かがいた。

 

 立っている人もいた。

 

 その顔までは見えなかった。

 

 セイアは時刻表を開いた。

 

 帰りの欄には、数字のないところがある。

 

 朝に見た時には、通過する駅の印だった。

 

 今は、その空欄のいくつかに、見覚えのあるホームを思い出せた。

 

 小さな箱を膝に載せていた生徒。

 

 斜めになった駅名標。

 

 窓のすぐ近くにあった花壇。

 

 書かれているものは少ない。

 

 思い出せるものは、朝より多かった。

 

     ◇

 

 川に沿うところで、日が差した。

 

 行きには曇っていた山の斜面が、少し明るくなる。

 

 セイアはラスクの袋を開けた。

 

 細い一片を取る。

 

 軽い音を立てて割れた。

 

 甘い砂糖と、バターの香り。

 

 飲み物を一口挟んで、窓を見る。

 

 午前中に食べた胡桃の菓子とは違う。

 

 列車も、座っている側も違う。

 

 けれど、同じ線路を走っていた。

 

 ヒカリが、橋の全体を見られると言っていた道が、遠くに見えた。

 

 今度は、思い出す方が先だった。

 

 あそこだ。

 

 そう思っているうちに、列車が橋へ入る。

 

 音が変わった。

 

 セイアは袋を膝へ置き、橋を抜けるまで、その響きを聞いていた。

 

     ◇

 

 少しだけ、眠った。

 

 降りる駅へ近づく頃に気づけるよう、端末へ小さな知らせを設定してから、目を閉じた。

 

 見逃したくない景色がないわけではない。

 

 けれど、ずっと見ていなければ今日が損なわれる、ということでもなかった。

 

 椅子へ背中を預ける。

 

 レールの音が、同じ調子で続く。

 

 次に目を開けた時、窓の外はもう、建物の多い場所だった。

 

 空は薄く暗くなっている。

 

 眠る前より、灯りが増えていた。

 

 セイアは姿勢を戻し、水を飲んだ。

 

 列車は、自分が見ていない間も、ちゃんと走っていた。

 

     ◇

 

 三辻駅で停まった。

 

 行きに十八分を過ごしたホームが、向かいに見える。

 

 売店の窓は、まだ開いていた。

 

 今度は別の客が、温かい飲み物を受け取っている。

 

 胡桃の菓子が残っているかどうかは、ここからでは分からなかった。

 

 セイアは降りなかった。

 

 快速の停車は短い。

 

 窓越しに、店と、座ったベンチと、自分の列車へ戻った場所を見た。

 

 ノゾミとヒカリが乗ってきた扉の位置も、だいたい分かった。

 

 ほんの少し前までは、時刻表の途中にある駅だった。

 

 今日は、そこを通るだけで、十八分ぶんのことを思い出す。

 

 発車する。

 

 売店の灯りが、窓の端へ遠ざかった。

 

     ◇

 

 大きな駅へ近づくと、線路がまた増えた。

 

 右から一つ。

 

 左から、もう一つ。

 

 別の列車が近づき、しばらく並んで走った。

 

 向こうの窓に、生徒の顔が見える。

 

 こちらを見ているわけではない。

 

 端末を持ち、誰かへ何かを見せていた。

 

 線路が離れると、その車両も遠ざかった。

 

 セイアは、鞄へ本をしまった。

 

 帰りには、ほとんど読まなかった。

 

 その代わり、少し寝た。

 

 行きに停まった場所も見た。

 

 何をしたかを数えても、大きなものはない。

 

 それでも、席を立つのが少し惜しかった。

 

     ◇

 

 改札を出たあと、セイアは発車案内を見上げた。

 

 朝とは違う時刻が並んでいる。

 

 その中に、また遠枝行きがあった。

 

 これから向かう列車だった。

 

 今から乗れば、着く頃には夜になっているだろう。

 

 駅前の食堂は、まだ開いているだろうか。

 

 パン屋の棚には、何が残っているのか。

 

 川沿いは、きっと暗い。

 

 セイアは、しばらくその文字を見た。

 

 もう一度乗るつもりはなかった。

 

 今日は、帰る。

 

 けれど、名前だけを知っていた頃には、浮かばなかった景色があった。

 

 鞄を持ち直し、トリニティへ戻るホームへ向かった。

 

     ◇

 

 談話室へ着くと、ミカがこちらを見た。

 

「お帰り。終点、どうだった?」

 

「ただいま」

 

 セイアは菓子の袋を卓へ置いた。

 

 椅子へ座る。

 

 長く列車に乗っていたあとで、揺れない椅子へ座ると、足元が妙に静かだった。

 

「駅があったよ」

 

「それはそうでしょ」

 

「食堂と、パン屋も」

 

「……そっちも、あったんだね」

 

 ミカは袋の中を覗いた。

 

 薄い焼き菓子が三つある。

 

 すぐに、一つを持ち上げた。

 

「これ?」

 

「ああ。食べるのは、あとにする?」

 

「お茶があったら、今でもいい」

 

 ナギサが立ち上がった。

 

「少し淹れましょう。セイアさんも?」

 

「お願いするよ」

 

 大きな歓迎会のようにはならなかった。

 

 いつもの席へ座り、いつもの相手に、今日の続きを話す時間だった。

 

     ◇

 

 ミカは、三辻駅で買った菓子の話を聞きたがった。

 

 写真は撮っていなかった。

 

 セイアがそう言うと、少し残念そうにする。

 

「最後の一つだったの?」

 

「ああ」

 

「いいなあ」

 

「私も、そう思いながら食べたよ」

 

 ナギサがお茶を置き、時刻表へ一度目をやった。

 

「ずいぶん長く、お乗りになったのですね」

 

「行きも帰りも、ほとんど同じ線路だった」

 

「お疲れではありませんか」

 

「少し。ただ、帰りは眠ったのでね」

 

「それなら、よかったです」

 

 ナギサはそう言って、自分の席へ戻った。

 

 ミカが、次の写真へ画面を送る。

 

 車止めの向こうに、道路が写っていた。

 

「ここで終わり?」

 

「列車はね」

 

 ミカは少し写真を見ていた。

 

 それから、次の、食堂で撮った皿へ移した。

 

「こっちも美味しそう」

 

 セイアは笑った。

 

 終点の説明としては、それも十分に大事だった。

 

     ◇

 

 ヒカリとノゾミに会ったことも話した。

 

 少しだけ同じ車両へ乗り、途中で降りていったこと。

 

 ヒカリが橋の音を教えてくれたこと。

 

 ノゾミに、変わった乗り方だと笑われたこと。

 

「でも、途中で知ってる子に会うのって、嬉しいね」

 

 ミカが言った。

 

「ああ」

 

「最初から一緒に行くのと、ちょっと違うでしょ」

 

「そうだね」

 

 セイアはカップを持った。

 

 二人が乗ってきた時も、降りていった時も、列車の行き先は変わらなかった。

 

 その短い間だけ、向かいの窓が賑やかになった。

 

 帰りに同じ駅へ停まった時、その声まで少し思い出せた。

 

 セイアはお茶を飲んだ。

 

 焼き菓子を割る音が、卓の向こうから聞こえた。

 

     ◇

 

 自室へ戻って、荷物をほどいた。

 

 弁当の包みは、途中の駅で片づけた。

 

 菓子の袋は、談話室へ置いてきた。

 

 鞄には本と手帖と、折り目の増えた時刻表が残っている。

 

 セイアは時刻表を広げた。

 

 三辻駅のところだけ、少し開きやすくなっていた。

 

 指で、その先を辿る。

 

 ヒカリとノゾミが降りた駅。

 

 箱を抱えた生徒が座っていた駅。

 

 車窓から川の見えた区間。

 

 最後に、遠枝。

 

 数字は、朝に窓口で受け取った時のままだった。

 

 けれど、今は一番下まで読むのに、少し時間がかかった。

 

 途中で、いくつも思い出すものがあった。

 

 セイアは手帖を開き、今日の日付を書いた。

 

 その下へ、乗った列車と、着いた駅を短く記す。

 

 何があったかを書こうとして、ペンを止めた。

 

 終点のことだけなら、数行で済むかもしれない。

 

 けれど、あの十八分も、そのあとの声も、弁当を食べながら見た川も、書いておきたかった。

 

 少し考えて、空いた行へ駅の名前をもう一つ足す。

 

 それから、その上にも一つ。

 

 セイアは新しい頁を開いた。

 

 今度は、出発した駅の名前から書き始めた。

 

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