百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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13-1.灰羽温泉・足湯広場 #トリニティから #お忍び的な #ゲヘナ自治区

 

 

 目立たない格好というものは、考え始めると、案外難しかった。

 

 百合園セイアは鏡の前で、帽子の角度を少し変えた。

 

 生成りのブラウスに、濃い色の長いスカート。上には軽い外套を羽織り、足元には歩き慣れた靴を選んだ。

 

 髪も、いつもより簡単にまとめてある。

 

 制服ではない。

 

 けれど、自分では見慣れない姿なので、目立たなくなったのかどうかが、よく分からなかった。

 

 最後に、金の縁のサングラスをかける。

 

 鏡の中の目元が隠れた。

 

 顔を少し横へ向ける。

 

「……どうかな」

 

「なんか、すごいこと企んでそう」

 

 後ろからミカが言った。

 

 セイアは振り返った。

 

「それは、目立たないという評価からは、少し遠いね」

 

「でも、似合ってるよ。お忍びって感じ」

 

「そのつもりではある」

 

 ミカはセイアの周りを半歩だけ回り、外套の袖と、帽子を見比べた。

 

「今日は、知らないふりした方がいい?」

 

「ここでされても、あまり意味はないと思うよ」

 

「じゃあ、普通に見送るね」

 

 そう言って、ミカは笑った。

 

     ◇

 

 卓の上には、温泉街の案内が広げてあった。

 

 灰羽温泉。

 

 ゲヘナ自治区の外縁にある、小さな保養地区だった。

 

 本校方面へ向かう道から離れ、山裾に沿って旅館と浴場が集まっている。

 

 以前の案内は、地区を知っている者にしか通じないような簡単なものだった。今回届いていた冊子には、乗り換え駅からの道順や、学外の生徒が使える宿泊窓口まで載っている。

 

 古い地図の上へ、新しい停留所の印が貼り足されていた。

 

 セイアは、その一角にある宿を予約した。

 

 一名。

 

 一泊、朝食つき。

 

 夕食は町で選ぶつもりだった。

 

 ナギサは、宿から届いた返信を確認していた。

 

「予約は、お名前のままなのですね」

 

「ああ。そこを変えるつもりはないよ」

 

「分かりました」

 

 画面を閉じ、端末を返す。

 

 宿泊客として利用できることも、到着の時刻も、すでに確かめてあった。

 

 ゲヘナへ行くと告げた時、ナギサはすぐに場所を尋ねた。

 

 無条件に賛成したわけではない。

 

 けれど、名前を聞いただけで話を終わらせることもなかった。

 

 案内を読み、宿へ確認し、帰る時刻を相談する。

 

 今回は、その順番を踏んでから出かける。

 

「何かありましたら、ご連絡ください。何もなくても、着いた時には一度」

 

「覚えているよ」

 

 セイアは鞄を持った。

 

 持ち手の根元には、以前からつけている、小さなトリニティの紋章がある。

 

 それまで外すつもりはなかった。

 

 今日、どこの生徒かを隠したいわけではない。

 

 少しだけ、名前より先に、旅の用事を済ませたかった。

 

     ◇

 

 列車の中では、サングラスを外していた。

 

 窓に映る顔は、いつもとあまり変わらない。

 

 ただ、制服ではない袖口が、本を持つ手の下に見える。

 

 隣の席へ置いた外套も、普段のものとは違った。

 

 乗り換えの案内が流れる。

 

 セイアは栞を挟み、鞄を閉じた。

 

 大きな駅で降り、灰羽方面へ向かうバス乗り場を探す。

 

 案内板の別の矢印は、ゲヘナ本校のある方を示していた。

 

 セイアは、そちらへは進まなかった。

 

 並んでいる客の多くは、ゲヘナの生徒だった。

 

 肩へ大きな袋を担いだ生徒。

 

 タオルの入った籠を持つ生徒。

 

 買い物袋だけを提げ、端末を見ている生徒。

 

 その後ろへ並ぶ。

 

 一人がこちらを見た。

 

 鞄の小さな紋章に目を留め、すぐに前へ戻した。

 

 バスが来る。

 

 皆が順番に乗り込み、セイアもその列についていった。

 

     ◇

 

 灰羽温泉へ入る手前で、白い湯気が見えた。

 

 山の間から立ち上る、大きな煙のようなものではない。

 

 建物の脇や、地面に近いところから、細く上がっている。

 

 バスの窓の向こうに、赤茶色の屋根が増えた。

 

 古い石の壁に、新しい看板が取りつけられている。

 

 宿の玄関の隣に、小さな修理店。

 

 菓子を売る店の前に、駐輪された何台ものバイク。

 

 道沿いには、先ほどまでとは違う匂いが入り込んできた。

 

 温かな水の匂い。

 

 焼いた肉の匂い。

 

 どこかで、油に何かを落としたような音がした。

 

 終点で降りると、案内板の上に大きく、灰羽温泉と書いてあった。

 

 その下の文字は、もっと小さい。

 

『湯は各浴場でお楽しみください。無許可の掘削は禁止されています。』

 

 セイアは一度、読み直した。

 

 温泉へ来たことは分かった。

 

 ゲヘナへ来たことも、少し分かった。

 

     ◇

 

 広場には、大きな足湯があった。

 

 まだ入る前に、セイアは案内所へ寄った。

 

 窓口の生徒は、卓の上で地図を折っていた。

 

「初めて?」

 

「ああ。宿へ行く前に、少し歩こうと思って」

 

「どこの宿?」

 

「赤煉瓦館だよ」

 

「じゃあ、この通りを上って、二つ目の角。食べるところなら、その手前にいくつかある」

 

 折りたての地図を一枚渡してくれる。

 

 セイアは受け取り、サングラスを少し上げた。

 

 紙の上の細かな文字は、外した方が読みやすかった。

 

 係の生徒の目が、鞄へ移る。

 

「トリニティから来たんだ」

 

「ああ」

 

「駅で迷わなかった?」

 

「案内があったのでね」

 

「よかった。前の乗り場、まだ地図に残ってることがあるんだよ」

 

 生徒は、紙の端を指した。

 

 そこには、訂正された停留所の名前が載っていた。

 

「夕方から店が増えるのは、こっち。お風呂は南の湯が遅くまでやってる。西側の旧道は工事中だから、入らないでね」

 

「分かった」

 

「あと、日差しが強いなら、そのままかけてた方がいいよ。午後になると、石の道が結構眩しいから」

 

 サングラスを指して言う。

 

 セイアは、手に持った金色の縁を見た。

 

「……そうしよう」

 

 最初に感想をもらえたのは、変装としての出来栄えではなかった。

 

     ◇

 

 昼食は、宿へ向かう途中の店で取ることにした。

 

 窓が大きく開き、入口の横でソーセージを焼いている。

 

 鉄板の上で脂が弾けるたび、店員が少しだけ身体を引いた。

 

 焼けたものは、すぐに皿へ移されていく。

 

 セイアは品書きを見た。

 

 ソーセージとじゃがいもの昼食。

 

 パンとスープ。

 

 小さな温泉卵がついている。

 

 席へ着くと、向かいの椅子にはすでに一人、ゲヘナの生徒がいた。

 

 相席でも構わないかと尋ねられ、頷く。

 

 生徒は一度だけ顔を上げ、空いている方へ自分の鞄を寄せた。

 

 それで、挨拶は済んだ。

 

     ◇

 

 ソーセージは、思っていたより太かった。

 

 表面に濃い焼き目がつき、ナイフを入れると、皮が小さく弾けた。

 

 中から湯気が上がる。

 

 少し冷まして口へ運ぶと、肉の塩気のあとから、香辛料の匂いが残った。

 

 じゃがいもは、薄く切ったものを玉葱と一緒に焼いてある。

 

 端はぱりっとしていて、重なったところは柔らかい。

 

 パンを一口。

 

 スープを飲む。

 

 それから、温泉卵の小鉢へ匙を入れた。

 

 白身は、思っていたより柔らかかった。

 

 持ち上げたところで黄身が崩れ、皿の上へ少し落ちる。

 

 セイアが手を止めると、向かいの生徒が言った。

 

「それ、パンで取るといいよ」

 

「なるほど」

 

 ちぎったパンで、皿の上を軽くなぞる。

 

 黄身と、ソーセージの汁が少しついた。

 

 食べると、美味しかった。

 

 向かいの生徒は、セイアの反応を見る前に、自分の食事へ戻っていた。

 

 教えたことが、特別な親切であるとは思っていないらしい。

 

「ありがとう。よい食べ方だね」

 

「でしょ」

 

 短い返事だった。

 

     ◇

 

 会計を待つ間、店の奥で大きな金属音がした。

 

 セイアが顔を上げる。

 

 店員の生徒が、すぐに奥へ声をかけた。

 

「それ、そこに置かないでって言ったじゃん!」

 

「置いたんじゃなくて、倒れたの!」

 

「だから!」

 

 大きな蓋が、床から持ち上げられる。

 

 近くの客が少し笑い、店員も呆れたように息をついた。

 

 セイアは財布へ視線を戻した。

 

 何の音か分からないうちは、身体が先に反応する。

 

 分かれば、もうそれ以上構えなくてよかった。

 

 店を出る時、向かいに座っていた生徒も立ち上がった。

 

 入口で一緒になる。

 

「温泉?」

 

「ああ。一泊するつもりだよ」

 

「じゃあ、夜の方が涼しくていいかも。今、外歩くと暑いし」

 

「君は?」

 

「午後も作業。風呂は、そのあと」

 

 鞄を担ぎ、手を軽く上げて去っていく。

 

 セイアも会釈を返した。

 

 名前は、聞かなかった。

 

 こちらも、尋ねられなかった。

 

     ◇

 

 赤煉瓦館は、その名の通り、赤い煉瓦の壁を持つ宿だった。

 

 入口の扉は新しい。

 

 窓枠と、階段の手すりには、長く使われてきた跡があった。

 

 玄関へ入る前に、セイアはサングラスを外した。

 

 犬の主人が帳場から顔を上げる。

 

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか」

 

「ああ。百合園で予約している」

 

「お待ちしておりました。こちらへ、お名前をお願いいたします」

 

 用紙へ名前を書く。

 

 住所と、連絡先。

 

 主人はそれを受け取り、確認しかけた手を、一度だけ止めた。

 

 名前を見る。

 

 セイアの顔へ、視線が移る。

 

「……百合園セイア様、ですね」

 

「ああ」

 

 声は、静かなままだった。

 

 主人が何かを確かめようとする前に、セイアは続けた。

 

「今回は、私用なんだ。予約した通りに泊めてもらえれば、ありがたい」

 

 主人は少しの間だけこちらを見て、それから頷いた。

 

「承知しました。お部屋は二階の街側です。朝食は、七時半から九時まで」

 

 鍵が差し出される。

 

「夕食は、お外で召し上がるご予定でしたね」

 

「そうだよ」

 

「南湯通りでしたら、遅くまで開いている店もあります。夜のお戻りはこちらの鍵で」

 

 説明が、宿の説明へ戻った。

 

 セイアは鍵を受け取った。

 

 部屋が急に広くなったり、誰かが呼ばれたりすることはなかった。

 

     ◇

 

 部屋には、小さな机と、寝台があった。

 

 窓の向こうに、通りの屋根が見える。

 

 その先に山はあるが、景色の大半を占めているのは、看板や煙突や、店の上の物干しだった。

 

 窓を少し開ける。

 

 下から声が届いた。

 

「そっち、もう一箱!」

 

「聞こえてる!」

 

 何かを運んでいるらしい。

 

 少し離れた場所では、バイクのエンジンがかかり、すぐに止められた。

 

 静かな部屋ではない。

 

 けれど、眠れないほどの騒がしさとも違った。

 

 セイアは荷物をほどいた。

 

 身分証を鞄の内側へしまい、外套を掛ける。

 

 サングラスを机へ置くと、窓から入った光が、赤い縁へ当たった。

 

 ナギサへ到着を知らせる。

 

 宿へ入ったこと。

 

 昼食を済ませたこと。

 

 これから少し歩くこと。

 

 返事が来る前に、セイアは椅子へ座った。

 

 ここまで来た。

 

 あとは、夕食までの時間をどう使うかだった。

 

     ◇

 

 広場の足湯には、昼より人が増えていた。

 

 湯船を囲む腰掛けに、何人もの生徒が座っている。

 

 声はよく響く。

 

 店の呼び込みも、近くを通る車の音も聞こえた。

 

 百鬼夜行で入った、川沿いの足湯とは違う。

 

 ここでは、足を温めながらも、町の真ん中にいる。

 

 セイアは靴を脱ぎ、裾を整えてから、空いたところへ座った。

 

 湯へ足を入れる。

 

 思ったより熱かったが、今日はすぐに引っ込めなかった。

 

 少しずつ、身体が温度を受け入れるのを待つ。

 

 隣では、二人の生徒が同じ菓子の袋を覗いていた。

 

「まだある?」

 

「最後の一個」

 

「半分」

 

「こんな小さいの?」

 

 結局、一人が半分に割った。

 

 大きさが揃っていない。

 

 しばらく見比べた末に、小さい方を自分で食べた。

 

 セイアは、そのやり取りを見ないふりをして、広場の反対側へ顔を向けた。

 

 そこでも、別の生徒が誰かに手を振っていた。

 

     ◇

 

「それ、見える?」

 

 隣から声がした。

 

 セイアは振り向く。

 

 菓子を分けていた生徒の一人が、こちらの持つ地図を指していた。

 

「文字、細かいよね」

 

「ああ。少し」

 

 サングラスを外す。

 

 すると、生徒は地図の端へ指を寄せた。

 

「そこの浴場、入口は裏。表から行くと、店の方へ入っちゃうから」

 

「君も、間違えたのかい」

 

「一回だけ」

 

「それなら、覚えておこう」

 

 生徒は頷き、セイアの鞄を見た。

 

「あ、トリニティなんだ。休み?」

 

「ああ」

 

「いいな。私はこのあと戻って、洗濯」

 

 その話は、地図の話と同じくらいの重さだった。

 

 どこから来たかが分かっても、それ以上は続かなかった。

 

 セイアは、湯の中で足先を少し動かした。

 

 自分が何者かについて考えていた時間より、今、どちらの足を伸ばせば楽かを考える時間の方が、少しずつ長くなっていた。

 

     ◇

 

 足湯を出たあと、セイアは通りの店を見て回った。

 

 大きな菓子の箱が並ぶ店。

 

 小さな石鹸を色別に積んだ店。

 

 土産のタオルと、作業用の軍手が同じ棚に置かれている店もあった。

 

 石鹸の前で足を止める。

 

 柑橘。

 

 木。

 

 ほとんど匂いのないもの。

 

 香りを確かめていると、店番の生徒が小さな籠を寄せてくれた。

 

「旅先で使うなら、こっちの小さいのもあるよ」

 

 手のひらに収まる、薄い石鹸だった。

 

 セイアは、淡い黄色のものを一つ選んだ。

 

 まだ今夜、風呂へ入るつもりである。

 

 買ったその日に使える土産は、少し嬉しかった。

 

 店を出ると、道の反対側で、二人の生徒が看板を取りつけていた。

 

 片方が少し高いと言い、もう片方が、それでは傾くと言う。

 

 セイアが次の角へ着くまで、相談は続いていた。

 

     ◇

 

 坂を上がると、通りの屋根が少し低く見えた。

 

 山の手前に、白い湯気が何本も上がっている。

 

 新しい配管が、古い石壁に沿って走っていた。

 

 その下に置かれた植木鉢だけ、葉の色が濃い。

 

 セイアは日陰の腰掛けへ座り、水を飲んだ。

 

 帰り道を確かめようと地図を開く。

 

 夜に入ろうと思っている南の湯は、宿からそう遠くない。

 

 夕食の店も、その近くにいくつかある。

 

 地図を畳む。

 

 今は、まだ日が高かった。

 

 サングラスをかけ直すと、白く光っていた屋根の形が見やすくなる。

 

 そのまましばらく眺めていると、足音が近づいてきた。

 

「……セイア?」

 

 声を聞くより早く気づく、ということはなかった。

 

 けれど、聞いてから振り向くまでには、誰か分かっていた。

 

 

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