目立たない格好というものは、考え始めると、案外難しかった。
百合園セイアは鏡の前で、帽子の角度を少し変えた。
生成りのブラウスに、濃い色の長いスカート。上には軽い外套を羽織り、足元には歩き慣れた靴を選んだ。
髪も、いつもより簡単にまとめてある。
制服ではない。
けれど、自分では見慣れない姿なので、目立たなくなったのかどうかが、よく分からなかった。
最後に、金の縁のサングラスをかける。
鏡の中の目元が隠れた。
顔を少し横へ向ける。
「……どうかな」
「なんか、すごいこと企んでそう」
後ろからミカが言った。
セイアは振り返った。
「それは、目立たないという評価からは、少し遠いね」
「でも、似合ってるよ。お忍びって感じ」
「そのつもりではある」
ミカはセイアの周りを半歩だけ回り、外套の袖と、帽子を見比べた。
「今日は、知らないふりした方がいい?」
「ここでされても、あまり意味はないと思うよ」
「じゃあ、普通に見送るね」
そう言って、ミカは笑った。
◇
卓の上には、温泉街の案内が広げてあった。
灰羽温泉。
ゲヘナ自治区の外縁にある、小さな保養地区だった。
本校方面へ向かう道から離れ、山裾に沿って旅館と浴場が集まっている。
以前の案内は、地区を知っている者にしか通じないような簡単なものだった。今回届いていた冊子には、乗り換え駅からの道順や、学外の生徒が使える宿泊窓口まで載っている。
古い地図の上へ、新しい停留所の印が貼り足されていた。
セイアは、その一角にある宿を予約した。
一名。
一泊、朝食つき。
夕食は町で選ぶつもりだった。
ナギサは、宿から届いた返信を確認していた。
「予約は、お名前のままなのですね」
「ああ。そこを変えるつもりはないよ」
「分かりました」
画面を閉じ、端末を返す。
宿泊客として利用できることも、到着の時刻も、すでに確かめてあった。
ゲヘナへ行くと告げた時、ナギサはすぐに場所を尋ねた。
無条件に賛成したわけではない。
けれど、名前を聞いただけで話を終わらせることもなかった。
案内を読み、宿へ確認し、帰る時刻を相談する。
今回は、その順番を踏んでから出かける。
「何かありましたら、ご連絡ください。何もなくても、着いた時には一度」
「覚えているよ」
セイアは鞄を持った。
持ち手の根元には、以前からつけている、小さなトリニティの紋章がある。
それまで外すつもりはなかった。
今日、どこの生徒かを隠したいわけではない。
少しだけ、名前より先に、旅の用事を済ませたかった。
◇
列車の中では、サングラスを外していた。
窓に映る顔は、いつもとあまり変わらない。
ただ、制服ではない袖口が、本を持つ手の下に見える。
隣の席へ置いた外套も、普段のものとは違った。
乗り換えの案内が流れる。
セイアは栞を挟み、鞄を閉じた。
大きな駅で降り、灰羽方面へ向かうバス乗り場を探す。
案内板の別の矢印は、ゲヘナ本校のある方を示していた。
セイアは、そちらへは進まなかった。
並んでいる客の多くは、ゲヘナの生徒だった。
肩へ大きな袋を担いだ生徒。
タオルの入った籠を持つ生徒。
買い物袋だけを提げ、端末を見ている生徒。
その後ろへ並ぶ。
一人がこちらを見た。
鞄の小さな紋章に目を留め、すぐに前へ戻した。
バスが来る。
皆が順番に乗り込み、セイアもその列についていった。
◇
灰羽温泉へ入る手前で、白い湯気が見えた。
山の間から立ち上る、大きな煙のようなものではない。
建物の脇や、地面に近いところから、細く上がっている。
バスの窓の向こうに、赤茶色の屋根が増えた。
古い石の壁に、新しい看板が取りつけられている。
宿の玄関の隣に、小さな修理店。
菓子を売る店の前に、駐輪された何台ものバイク。
道沿いには、先ほどまでとは違う匂いが入り込んできた。
温かな水の匂い。
焼いた肉の匂い。
どこかで、油に何かを落としたような音がした。
終点で降りると、案内板の上に大きく、灰羽温泉と書いてあった。
その下の文字は、もっと小さい。
『湯は各浴場でお楽しみください。無許可の掘削は禁止されています。』
セイアは一度、読み直した。
温泉へ来たことは分かった。
ゲヘナへ来たことも、少し分かった。
◇
広場には、大きな足湯があった。
まだ入る前に、セイアは案内所へ寄った。
窓口の生徒は、卓の上で地図を折っていた。
「初めて?」
「ああ。宿へ行く前に、少し歩こうと思って」
「どこの宿?」
「赤煉瓦館だよ」
「じゃあ、この通りを上って、二つ目の角。食べるところなら、その手前にいくつかある」
折りたての地図を一枚渡してくれる。
セイアは受け取り、サングラスを少し上げた。
紙の上の細かな文字は、外した方が読みやすかった。
係の生徒の目が、鞄へ移る。
「トリニティから来たんだ」
「ああ」
「駅で迷わなかった?」
「案内があったのでね」
「よかった。前の乗り場、まだ地図に残ってることがあるんだよ」
生徒は、紙の端を指した。
そこには、訂正された停留所の名前が載っていた。
「夕方から店が増えるのは、こっち。お風呂は南の湯が遅くまでやってる。西側の旧道は工事中だから、入らないでね」
「分かった」
「あと、日差しが強いなら、そのままかけてた方がいいよ。午後になると、石の道が結構眩しいから」
サングラスを指して言う。
セイアは、手に持った金色の縁を見た。
「……そうしよう」
最初に感想をもらえたのは、変装としての出来栄えではなかった。
◇
昼食は、宿へ向かう途中の店で取ることにした。
窓が大きく開き、入口の横でソーセージを焼いている。
鉄板の上で脂が弾けるたび、店員が少しだけ身体を引いた。
焼けたものは、すぐに皿へ移されていく。
セイアは品書きを見た。
ソーセージとじゃがいもの昼食。
パンとスープ。
小さな温泉卵がついている。
席へ着くと、向かいの椅子にはすでに一人、ゲヘナの生徒がいた。
相席でも構わないかと尋ねられ、頷く。
生徒は一度だけ顔を上げ、空いている方へ自分の鞄を寄せた。
それで、挨拶は済んだ。
◇
ソーセージは、思っていたより太かった。
表面に濃い焼き目がつき、ナイフを入れると、皮が小さく弾けた。
中から湯気が上がる。
少し冷まして口へ運ぶと、肉の塩気のあとから、香辛料の匂いが残った。
じゃがいもは、薄く切ったものを玉葱と一緒に焼いてある。
端はぱりっとしていて、重なったところは柔らかい。
パンを一口。
スープを飲む。
それから、温泉卵の小鉢へ匙を入れた。
白身は、思っていたより柔らかかった。
持ち上げたところで黄身が崩れ、皿の上へ少し落ちる。
セイアが手を止めると、向かいの生徒が言った。
「それ、パンで取るといいよ」
「なるほど」
ちぎったパンで、皿の上を軽くなぞる。
黄身と、ソーセージの汁が少しついた。
食べると、美味しかった。
向かいの生徒は、セイアの反応を見る前に、自分の食事へ戻っていた。
教えたことが、特別な親切であるとは思っていないらしい。
「ありがとう。よい食べ方だね」
「でしょ」
短い返事だった。
◇
会計を待つ間、店の奥で大きな金属音がした。
セイアが顔を上げる。
店員の生徒が、すぐに奥へ声をかけた。
「それ、そこに置かないでって言ったじゃん!」
「置いたんじゃなくて、倒れたの!」
「だから!」
大きな蓋が、床から持ち上げられる。
近くの客が少し笑い、店員も呆れたように息をついた。
セイアは財布へ視線を戻した。
何の音か分からないうちは、身体が先に反応する。
分かれば、もうそれ以上構えなくてよかった。
店を出る時、向かいに座っていた生徒も立ち上がった。
入口で一緒になる。
「温泉?」
「ああ。一泊するつもりだよ」
「じゃあ、夜の方が涼しくていいかも。今、外歩くと暑いし」
「君は?」
「午後も作業。風呂は、そのあと」
鞄を担ぎ、手を軽く上げて去っていく。
セイアも会釈を返した。
名前は、聞かなかった。
こちらも、尋ねられなかった。
◇
赤煉瓦館は、その名の通り、赤い煉瓦の壁を持つ宿だった。
入口の扉は新しい。
窓枠と、階段の手すりには、長く使われてきた跡があった。
玄関へ入る前に、セイアはサングラスを外した。
犬の主人が帳場から顔を上げる。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか」
「ああ。百合園で予約している」
「お待ちしておりました。こちらへ、お名前をお願いいたします」
用紙へ名前を書く。
住所と、連絡先。
主人はそれを受け取り、確認しかけた手を、一度だけ止めた。
名前を見る。
セイアの顔へ、視線が移る。
「……百合園セイア様、ですね」
「ああ」
声は、静かなままだった。
主人が何かを確かめようとする前に、セイアは続けた。
「今回は、私用なんだ。予約した通りに泊めてもらえれば、ありがたい」
主人は少しの間だけこちらを見て、それから頷いた。
「承知しました。お部屋は二階の街側です。朝食は、七時半から九時まで」
鍵が差し出される。
「夕食は、お外で召し上がるご予定でしたね」
「そうだよ」
「南湯通りでしたら、遅くまで開いている店もあります。夜のお戻りはこちらの鍵で」
説明が、宿の説明へ戻った。
セイアは鍵を受け取った。
部屋が急に広くなったり、誰かが呼ばれたりすることはなかった。
◇
部屋には、小さな机と、寝台があった。
窓の向こうに、通りの屋根が見える。
その先に山はあるが、景色の大半を占めているのは、看板や煙突や、店の上の物干しだった。
窓を少し開ける。
下から声が届いた。
「そっち、もう一箱!」
「聞こえてる!」
何かを運んでいるらしい。
少し離れた場所では、バイクのエンジンがかかり、すぐに止められた。
静かな部屋ではない。
けれど、眠れないほどの騒がしさとも違った。
セイアは荷物をほどいた。
身分証を鞄の内側へしまい、外套を掛ける。
サングラスを机へ置くと、窓から入った光が、赤い縁へ当たった。
ナギサへ到着を知らせる。
宿へ入ったこと。
昼食を済ませたこと。
これから少し歩くこと。
返事が来る前に、セイアは椅子へ座った。
ここまで来た。
あとは、夕食までの時間をどう使うかだった。
◇
広場の足湯には、昼より人が増えていた。
湯船を囲む腰掛けに、何人もの生徒が座っている。
声はよく響く。
店の呼び込みも、近くを通る車の音も聞こえた。
百鬼夜行で入った、川沿いの足湯とは違う。
ここでは、足を温めながらも、町の真ん中にいる。
セイアは靴を脱ぎ、裾を整えてから、空いたところへ座った。
湯へ足を入れる。
思ったより熱かったが、今日はすぐに引っ込めなかった。
少しずつ、身体が温度を受け入れるのを待つ。
隣では、二人の生徒が同じ菓子の袋を覗いていた。
「まだある?」
「最後の一個」
「半分」
「こんな小さいの?」
結局、一人が半分に割った。
大きさが揃っていない。
しばらく見比べた末に、小さい方を自分で食べた。
セイアは、そのやり取りを見ないふりをして、広場の反対側へ顔を向けた。
そこでも、別の生徒が誰かに手を振っていた。
◇
「それ、見える?」
隣から声がした。
セイアは振り向く。
菓子を分けていた生徒の一人が、こちらの持つ地図を指していた。
「文字、細かいよね」
「ああ。少し」
サングラスを外す。
すると、生徒は地図の端へ指を寄せた。
「そこの浴場、入口は裏。表から行くと、店の方へ入っちゃうから」
「君も、間違えたのかい」
「一回だけ」
「それなら、覚えておこう」
生徒は頷き、セイアの鞄を見た。
「あ、トリニティなんだ。休み?」
「ああ」
「いいな。私はこのあと戻って、洗濯」
その話は、地図の話と同じくらいの重さだった。
どこから来たかが分かっても、それ以上は続かなかった。
セイアは、湯の中で足先を少し動かした。
自分が何者かについて考えていた時間より、今、どちらの足を伸ばせば楽かを考える時間の方が、少しずつ長くなっていた。
◇
足湯を出たあと、セイアは通りの店を見て回った。
大きな菓子の箱が並ぶ店。
小さな石鹸を色別に積んだ店。
土産のタオルと、作業用の軍手が同じ棚に置かれている店もあった。
石鹸の前で足を止める。
柑橘。
木。
ほとんど匂いのないもの。
香りを確かめていると、店番の生徒が小さな籠を寄せてくれた。
「旅先で使うなら、こっちの小さいのもあるよ」
手のひらに収まる、薄い石鹸だった。
セイアは、淡い黄色のものを一つ選んだ。
まだ今夜、風呂へ入るつもりである。
買ったその日に使える土産は、少し嬉しかった。
店を出ると、道の反対側で、二人の生徒が看板を取りつけていた。
片方が少し高いと言い、もう片方が、それでは傾くと言う。
セイアが次の角へ着くまで、相談は続いていた。
◇
坂を上がると、通りの屋根が少し低く見えた。
山の手前に、白い湯気が何本も上がっている。
新しい配管が、古い石壁に沿って走っていた。
その下に置かれた植木鉢だけ、葉の色が濃い。
セイアは日陰の腰掛けへ座り、水を飲んだ。
帰り道を確かめようと地図を開く。
夜に入ろうと思っている南の湯は、宿からそう遠くない。
夕食の店も、その近くにいくつかある。
地図を畳む。
今は、まだ日が高かった。
サングラスをかけ直すと、白く光っていた屋根の形が見やすくなる。
そのまましばらく眺めていると、足音が近づいてきた。
「……セイア?」
声を聞くより早く気づく、ということはなかった。
けれど、聞いてから振り向くまでには、誰か分かっていた。