百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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13-2.灰羽温泉・南湯通り #パンは一籠で来る #熱めの温泉 #いつもの旅

 空崎ヒナが、坂の上に立っていた。

 

 手には、薄い書類入れ。

 

 セイアの顔から、帽子、外套、サングラスへと視線が動く。

 

「珍しい格好ね」

 

「こんにちは。もう少し、迷ってくれてもよかったんだが」

 

「何を?」

 

「私かどうか、というところを」

 

 ヒナは一度だけ瞬きをした。

 

 それから、小さく息を吐く。

 

「服が違うだけでしょう」

 

 セイアはサングラスを少し下げた。

 

「どうやら、知っている相手には役に立たないらしい」

 

「お忍び?」

 

「そのつもりだよ」

 

 ヒナは周囲を見た。

 

 近くには、ベンチで休んでいる客が二人。

 

 少し下の道を、買い物袋を持った生徒が歩いている。

 

 こちらを気にしている者はいなかった。

 

「それで、今日は何か用事?」

 

「温泉に入りに来たんだ。一泊して、明日帰る」

 

 ヒナの視線が、書類入れではなくセイアへ戻った。

 

「……本当に、それだけ?」

 

「ああ」

 

「そう」

 

 少し間を置いて、ヒナは頷いた。

 

「それなら、よかった」

 

     ◇

 

 セイアは、腰掛けの隣を少し空けた。

 

 ヒナは迷ったあと、そこへ座った。

 

 書類入れを膝へ置く。

 

「君は?」

 

「この上の施設で、確認することがあって。もう終わったから、帰るところ」

 

「温泉の近くへ来たのに、入らずに?」

 

「今日は、その支度をしていないもの」

 

「貸し出しもあるそうだよ」

 

 ヒナがこちらを見る。

 

 セイアは少し笑った。

 

「先ほど、案内を読んだばかりなのでね」

 

「一日で、ずいぶん詳しくなったのね」

 

「まだ、入口を間違えない程度だけれど」

 

 ヒナも、わずかに口元を緩めた。

 

 通りの向こうから、風が来る。

 

 湯気は、山の方へ少し傾いていた。

 

 セイアはサングラスを外し、畳んで手に持った。

 

 話す相手がいる時には、その方が顔を見やすかった。

 

     ◇

 

「気づかれた?」

 

 ヒナが尋ねた。

 

「君には」

 

「私以外に」

 

「宿の主人には、名前を書いた時に。あとは……どうだろうね。トリニティだとは、分かるようだけれど」

 

 鞄の紋章を示す。

 

 ヒナはそこを見て、頷いた。

 

「なら、普通に旅行してるだけに見えるんじゃない」

 

「私の工夫が効いたのか、そもそも必要なかったのか、分からなくなってきたよ」

 

「確かめるために、名乗って回るつもり?」

 

「それでは、何のための格好か分からないだろう」

 

「そうね」

 

 ヒナの返事に、少し笑いが混じった。

 

 セイアも笑った。

 

 名前を呼ばれた時には、一度だけ背中が伸びた。

 

 けれど今は、また椅子へ戻っている。

 

 ヒナも、用件を待つような座り方はしていなかった。

 

     ◇

 

 少し休んでから、二人は坂を下りた。

 

 ヒナはバス乗り場の方へ。

 

 セイアは、その途中で夕食の店を探すつもりだった。

 

 通りへ出ると、昼より食べ物の匂いが増えていた。

 

 焼けたパン。

 

 肉の脂。

 

 煮込んだ野菜。

 

 その中で、ヒナが一軒の前で足を緩めた。

 

 小さな洋食屋だった。

 

 セイアも看板を見る。

 

「入ったことが?」

 

「一度。帰る前に食べるなら、ここでもいいと思う」

 

「君も、まだなのかな」

 

「ええ」

 

 セイアはヒナを見た。

 

「では、一緒にどうだい」

 

 ヒナは時計を確かめた。

 

 そのあと、店の窓を見る。

 

 空いた席が一つ、見えた。

 

「……そうね。食べてから帰るわ」

 

 誰かを休ませるための相談にはならなかった。

 

 二人とも、夕食がまだだった。

 

 それで、入る理由になった。

 

     ◇

 

 店員はヒナを見ると、軽く会釈した。

 

「いらっしゃいませ。お二人ですか」

 

「ええ」

 

「奥の席へどうぞ」

 

 セイアにも同じ会釈が向けられた。

 

 それ以上、名前を尋ねられることはなかった。

 

 窓際の二人掛けへ座る。

 

 ヒナが書類入れを鞄へ収め、セイアは帽子を脱いだ。

 

 サングラスはケースへ戻す。

 

 手元が片づくと、卓の上には品書きだけが残った。

 

「ここのセット、パンは多いわよ」

 

 ヒナが言う。

 

「どのくらい?」

 

「前に頼んだ時は、籠で来た」

 

「それは、二人なら何とかなる量かな」

 

「ほかに何を食べるかによると思う」

 

 セイアは品書きを開いた。

 

 風紀委員長に尋ねる質問としては、ずいぶん具体的だった。

 

 けれど、今はそこが知りたかった。

 

     ◇

 

 セイアは、薄いカツレツを選んだ。

 

 付け合わせに、香草で焼いたじゃがいもと、酢漬けの野菜がつく。

 

 ヒナは、きのこのリゾット。

 

 パンは、一つの籠を二人で頼むことにした。

 

 注文を済ませると、ヒナが窓の外へ目を向けた。

 

 店の前を、数人のゲヘナ生が通っていく。

 

 一人がこちらを見て、少しだけ姿勢を正しかけた。

 

 けれど、ヒナは軽く頷いただけだった。

 

 生徒たちは、そのまま向こうへ歩いていった。

 

 セイアは水を一口飲んだ。

 

「君は、隠れるつもりはないんだね」

 

「今からサングラスを借りても、遅いでしょう」

 

 セイアは、ケースへ目を落とした。

 

「似合うかどうかは、別の機会にしよう」

 

「試すことになっているの?」

 

「まだ、提案の段階だよ」

 

 ヒナは呆れたように見たが、嫌そうではなかった。

 

     ◇

 

 カツレツは、皿の大きさに近いほど広かった。

 

 ただし、厚みはない。

 

 ナイフを入れると、細かな衣がさらりと崩れる。

 

 湯気と一緒に、焼いた脂の香りが立った。

 

 セイアは端を小さく切り、一口食べた。

 

 衣は軽い。

 

 その下の肉には、薄くても噛むところがある。

 

 塩気のあとに、ほんの少し胡椒が残った。

 

 次の一切れには、添えられたレモンを少し搾る。

 

 香りが変わった。

 

 酢漬けのキャベツを間に挟むと、もう一度、肉へ戻りたくなる。

 

 ヒナの皿からは、きのこの香りがしていた。

 

 匙で少しすくい、熱さを確かめてから食べている。

 

「そちらは、どうかな」

 

「美味しい。前と同じで」

 

「前にも、それを?」

 

「ええ」

 

 ヒナは少し考え、付け加えた。

 

「気に入ったものを、また頼んでもいいでしょう」

 

「もちろん。私はつい、別のものも気になってしまうけれど」

 

「それで、決まらなくなるのね」

 

 セイアは一瞬、D.U.の案内板を思い出した。

 

「……そういう日もある」

 

 ヒナが、小さく笑った。

 

     ◇

 

 パンは、本当に籠で来た。

 

 小さな丸いものが三つ。

 

 切り分けた、皮のしっかりしたものが二切れ。

 

 セイアは籠を見て、ヒナを見た。

 

「先に聞いておいてよかった」

 

「だから言ったでしょう」

 

 二人で、一つずつ取る。

 

 セイアがちぎると、中央にはまだ温かさがあった。

 

 少しだけじゃがいもの香草バターをつけて食べる。

 

 ヒナは、自分の皿の端に残ったきのこの汁を取った。

 

 食事の間、会話は何度か途切れた。

 

 どちらも、無理に埋めようとはしなかった。

 

 窓の外の店に灯りが点く。

 

 厨房では、次の皿が用意されている。

 

 ヒナの匙が動く間に、セイアもカツレツを切った。

 

 温かいうちに食べることへ、二人ともきちんと時間を使った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

     ◇

 

「こういう旅行、よくしているのね」

 

 ヒナが言った。

 

「最近はね。見てみたい場所が、少しずつ増えてしまって」

 

「いつも一人?」

 

「そうでもないよ。ナギサやミカと行くこともある。途中で誰かに会う日もあるし」

 

「今日は、私」

 

「ああ」

 

 セイアは頷いた。

 

「昼には、隣の席の生徒に、卵を落とした皿はパンできれいにすればいいと教わった」

 

 ヒナが顔を上げた。

 

「……それも、旅の話に入るの?」

 

「よい食べ方だったのでね」

 

「そう」

 

 ヒナは、自分の皿へ目を落とした。

 

 残ったパンを一切れ取る。

 

「それなら、私も今、同じことをしているわね」

 

 セイアは笑った。

 

 その話をする時、相手がどこの学園にいるかは、特に必要なかった。

 

     ◇

 

 食後の小さな黒板を、セイアが見た。

 

 焼き林檎がある。

 

 今、もう一皿食べたいほど腹が空いているわけではない。

 

 けれど、窓の外に店の灯りが増え始めたこの時間を、もう少し長くしてもよさそうだった。

 

 ヒナも、同じところを見ていた。

 

「……半分なら、どうかな」

 

 セイアが言う。

 

 ヒナはすぐには返事をしなかった。

 

 時計を見る。

 

 それから、もう一度黒板を見た。

 

「少しなら」

 

 店員へ頼むと、小皿と匙を二つ持ってきてくれた。

 

 林檎は、表面に浅い皺ができていた。

 

 切ると、内側から湯気が出る。

 

 溶けたバターと甘い汁が皿へ広がり、香辛料の匂いがした。

 

 セイアは片方をヒナの皿へ載せ、自分の分を取った。

 

 熱い。

 

 けれど、さっきまでの塩気のある食事のあとには、その甘さがよく分かった。

 

 ヒナも一口食べ、少しだけ目を細めた。

 

     ◇

 

 食べ終える頃には、外は夕方から夜へ変わっていた。

 

 会計を済ませ、店を出る。

 

 ヒナは帰りのバスへ。

 

 セイアは、一度宿へ戻るつもりだった。

 

「このあとは、お風呂?」

 

 ヒナが尋ねた。

 

「ああ。少し休んでから、南の湯へ」

 

「裏の入口から入るところね」

 

「それはもう、教わったよ」

 

「そう」

 

 ヒナは頷いた。

 

 少し先で、道が分かれる。

 

 セイアは足を止めた。

 

「今日は、ありがとう」

 

「こちらこそ」

 

「食べたいものを、もう一つ頼めた」

 

 ヒナは一度、店の方を見た。

 

 それから、少し笑った。

 

「私も」

 

 言葉は、それだけだった。

 

 けれど、ヒナが何を言っているのかは分かった。

 

 セイアは、帽子をかぶり直した。

 

 夜なので、サングラスは出さなかった。

 

「気をつけて帰って」

 

「あなたも、帰り道を間違えないように」

 

「ああ」

 

 ヒナはバス乗り場の方へ歩いていった。

 

 セイアはその姿を見送ってから、宿のある通りへ向きを変えた。

 

     ◇

 

 部屋へ戻ると、窓の向こうは昼より明るく見えた。

 

 空は暗い。

 

 その代わり、店の看板と、窓の灯りが増えている。

 

 セイアは椅子へ座り、水を飲んだ。

 

 鞄から買った石鹸を出す。

 

 淡い黄色の包みを少し開くと、柑橘の香りがした。

 

 それから、しばらく本を読んだ。

 

 下の通りで笑い声が上がる。

 

 どこかで音楽が流れ始め、すぐに少し小さくなった。

 

 頁をめくる。

 

 会話の続きが気になり、もう一頁読む。

 

 夕食が落ち着いたところで、栞を挟んだ。

 

 温泉へ入るために来たのに、まだ足しか浸けていない。

 

 そろそろ、その続きをしてもよかった。

 

     ◇

 

 南の湯の表側は、土産物を売る店になっていた。

 

 教わっていなければ、こちらから入っていたかもしれない。

 

 建物の脇を回る。

 

 石の壁に沿って短い通路があり、その先に浴場の入口があった。

 

 扉を開けると、暖かい空気が顔へ触れた。

 

 眼鏡をかけた客が一人、曇ったレンズを拭きながら出てくる。

 

 セイアは鞄の中のサングラスを思い出した。

 

 しまったままでよかった。

 

 受付の生徒が顔を上げる。

 

「一人?」

 

「ああ」

 

「タオルは持ってる?」

 

「持ってきたよ」

 

「じゃあ、入浴だけね」

 

 料金を払い、靴をしまう。

 

 小さな番号札を受け取った。

 

 その数字を一度見てから、脱衣所へ向かう。

 

 ここでは、名前よりも、靴の入った場所を覚えている方が大切だった。

 

     ◇

 

 浴場は、思っていたより広かった。

 

 石の縁を持つ大きな湯船が二つ。

 

 奥には、外気の入る小さな浴槽もある。

 

 天井の高いところに窓があり、湯気がそちらへゆっくり上っていた。

 

 身体を流す。

 

 買った石鹸を使うと、掌から、昼の店先で嗅いだ香りがした。

 

 泡を落とし、湯船へ向かう。

 

 縁へ腰を掛け、足先から入った。

 

 足湯より、身体の温まるところが多い。

 

 胸の下まで沈めると、呼吸が少しゆっくりになった。

 

 肩にも湯をかけ、それから背中を落ち着かせる。

 

 向こう側では、二人の生徒が明日の話をしていた。

 

「何時に起きるの」

 

「起きた時」

 

「集合九時なんだけど」

 

「じゃあ、八時」

 

「移動は?」

 

「……七時半」

 

 セイアは笑わないように、少し顔を下げた。

 

 湯の表面が、鼻先で揺れた。

 

     ◇

 

 奥の浴槽へ移ると、外の空気が頬へ触れた。

 

 昼間歩いた通りの音が、ここまで薄く届く。

 

 バイクが通る。

 

 誰かが呼びかける。

 

 店の戸を閉める音。

 

 川や木々の音ではない。

 

 それでも、湯の中で聞くと、少し遠かった。

 

 隣にいた生徒が、こちらを見た。

 

 しばらくして、目が合う。

 

「あれ。昼の」

 

 ソーセージの店で、向かいに座っていた生徒だった。

 

 髪のまとめ方は変わっていたが、声を聞くと分かった。

 

「君も、入りに来たんだね」

 

「やっと終わった。今日は、もう帰るだけ」

 

 そう言って、肩まで湯へ沈む。

 

 しばらく、何も話さなかった。

 

 仕事が終わった生徒と、旅行に来た自分が、同じ湯へ入っている。

 

 どちらが先に来たかも、どちらが遠くから来たかも、今はあまり関係がなかった。

 

     ◇

 

「晩ご飯、食べた?」

 

 生徒が尋ねた。

 

「ああ。通りの洋食屋で」

 

「あそこ、お腹いっぱいになるよね」

 

「パンが、なかなか多かった」

 

「そう、それ」

 

 生徒が笑った。

 

「私、一回、何も考えずに全部セットにして、最後すごかった」

 

「今日は、先に教えてくれた人がいたのでね」

 

「よかったじゃん」

 

 それ以上、誰だったのかは聞かなかった。

 

 セイアも、名前を足さなかった。

 

 湯口から新しい湯が入り、表面に細かな皺ができる。

 

 少し熱くなったところで、セイアは肩を出した。

 

 生徒も、ほぼ同じ時に身体を起こした。

 

 目が合い、二人とも少し笑う。

 

 昼よりも、ずっと短い会話だった。

 

     ◇

 

 湯から上がると、身体の内側に温かさが残っていた。

 

 水を飲み、髪を乾かす。

 

 靴を履き、外へ出た。

 

 通りの空気が、湯上がりの頬へ心地よかった。

 

 浴場の脇には、飲み物の売り場があった。

 

 セイアは、小さな瓶の生姜の炭酸飲料を選んだ。

 

 腰掛けへ座り、一口飲む。

 

 泡が舌へ触れ、そのあとに少し辛い香りが残った。

 

 甘さもある。

 

 けれど、昼間の食後に飲むものとは違う気がした。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 瓶を膝の上へ置く。

 

 向かいの店では、まだ串を焼いていた。

 

 笑いながら注文を待っている生徒たちがいる。

 

 自分はもう食べたし、風呂にも入った。

 

 だから、今はただ見ていられた。

 

     ◇

 

 宿へ戻る道で、セイアは夜の通りを一枚だけ撮った。

 

 湯気。

 

 看板。

 

 店の前に並んだ客。

 

 写真を確かめると、思ったより雑然としていた。

 

 きれいに整った風景ではない。

 

 看板の大きさも色も揃っていないし、画面の端には、片づけかけの空箱が入っている。

 

 けれど、今日歩いた通りはそういう場所だった。

 

 撮り直さず、端末をしまう。

 

 昼間、看板を取りつけていた店の前を通った。

 

 今は、ちゃんと灯りが入っている。

 

 少し斜めに見えたが、道の方が傾いているのかもしれない。

 

 セイアは首を少し傾けて見た。

 

 それから、分からないまま宿へ戻った。

 

     ◇

 

 主人が帳場で鍵を確認していた。

 

「お帰りなさいませ」

 

「ただいま。南の湯へ行ってきたよ」

 

「お湯は、いかがでしたか」

 

「よかった。少し熱かったけれど」

 

「あちらは、地元の方にも人気ですから」

 

 主人は笑い、入口の時計を確かめた。

 

 セイアの名前を呼んだり、昼間の話へ戻ったりはしなかった。

 

 会話は、風呂の話だけで終わる。

 

 セイアは階段を上った。

 

 部屋へ入ると、昼の服を掛けたままの場所に、帽子とサングラスのケースがあった。

 

 夜の間、それらは何もしていなかった。

 

 セイアの方は、夕食を食べ、湯へ入り、炭酸飲料を飲んできた。

 

 服を着替え、寝台の端へ座る。

 

 足先が、まだ温かかった。

 

     ◇

 

 灯りを消す前に、ナギサへ短く連絡した。

 

 風呂から戻っていること。

 

 明日も、予定通りの便で帰ること。

 

 送ってから、ヒナと夕食を取ったことも書き足した。

 

 すぐに返事が来た。

 

『そうでしたか。ゆっくりお話しできましたか?』

 

 セイアは、画面を少し長く見た。

 

 何を話したかと尋ねられたら、料理の話が多くなる。

 

 旅行のことも少し。

 

 サングラスの役立ち方については、結論が出なかった。

 

『ああ。焼き林檎も、半分ずつ食べたよ。』

 

 返すと、しばらくして、

 

『お帰りになってから伺いますね。おやすみなさい』

 

 と届いた。

 

 セイアも同じ言葉を返し、端末を置いた。

 

 窓の外では、まだ少し話し声がしていた。

 

 やがてそれが遠ざかり、店の戸が閉まる音がする。

 

 夜は、一度に静かになるのではなかった。

 

 セイアは、その途中で眠った。

 

     ◇

 

 朝、部屋の中へパンの匂いが入ってきた。

 

 窓の明るさを見てから、身体を起こす。

 

 通りを覗くと、昨夜の店のほとんどは閉まっていた。

 

 代わりに、荷物を運ぶ車が一台停まっている。

 

 店の裏口が開き、生徒が箱を受け取った。

 

 昨日の灯りの下にいた人たちが、全部眠っているわけではない。

 

 ただ、見える用事が変わっていた。

 

 セイアは着替えを持ち、宿の小さな浴室へ向かった。

 

 朝は、誰もいなかった。

 

 大きな浴槽ではない。

 

 窓の下から光が差し、湯気を白く見せている。

 

 湯へ入ると、昨夜より静かだった。

 

 しばらくして、廊下の向こうで食器の触れる音がした。

 

 セイアは、それを朝食の知らせのように聞いた。

 

     ◇

 

 食堂には、焼いたパンと卵が用意されていた。

 

 小さな器の煮豆。

 

 チーズ。

 

 果物。

 

 紅茶かコーヒーを選べるというので、紅茶にした。

 

 窓際の席へ座る。

 

 昨日、チェックインの時に見た帳場が、少し離れたところにある。

 

 主人はそこで、ほかの客の会計をしていた。

 

 名を呼ぶ。

 

 鍵を受け取る。

 

 礼を言う。

 

 その合間に、新しいパンを運んでくる。

 

 セイアは厚いパンへバターを塗った。

 

 表面が熱く、端から少しずつ溶けていく。

 

 一口食べると、皮は香ばしく、中は柔らかい。

 

 昨夜の店のパンとは違う。

 

 同じ町でも、同じものばかりが出てくるわけではなかった。

 

     ◇

 

「今日は、すぐにお帰りですか」

 

 主人が尋ねた。

 

「少し歩いてから。昼前のバスに乗るつもりだよ」

 

「でしたら、お荷物はお預かりします」

 

「お願いするよ」

 

 セイアは茶を飲んだ。

 

 主人は一度、外の通りへ目を向ける。

 

「朝は、坂の上がよく見えます。夜に歩かれた道とは、また少し違いますよ」

 

「そうしてみよう」

 

 話はそれで終わった。

 

 セイアがどこの誰かを知っていても、主人が勧めるのは、朝の散歩道だった。

 

 食べ終えた皿を見て、パンを追加するかどうかも尋ねられた。

 

 少し考えたが、今日はやめておいた。

 

 帰りに、何か一つ買いたい店があった。

 

     ◇

 

 荷物を預け、外へ出る。

 

 サングラスは鞄ではなく、外套のポケットへ入れた。

 

 今はまだ、道に影が多い。

 

 夜に通った南湯通りを、逆から歩いた。

 

 提灯は消えている。

 

 店先の卓は重ねられ、昨日座った椅子も、壁際へ寄せられていた。

 

 南の湯の入口では、係の生徒が床を流している。

 

 表側の土産店はまだ閉まっていたが、裏からは人が出てきた。

 

 早い時間に風呂へ入ってきたのだろう。

 

 セイアはその人とすれ違い、坂を上った。

 

 日が当たるところへ出ると、石の道が白く光る。

 

 ポケットからサングラスを出し、かけた。

 

 今度は、何のために使っているのか、すぐに分かった。

 

     ◇

 

 坂の上からは、湯気の上がる場所が幾つも見えた。

 

 宿の屋根。

 

 公共の浴場。

 

 店の裏側。

 

 人の歩く道のすぐ近くに、温かな水の通る管がある。

 

 昨日は道を間違えないように、看板や角ばかり見ていた。

 

 今は、建物と建物の間を通るものも目に入った。

 

 その先の小さな広場で、生徒が二人、朝食を食べている。

 

 片方はパンを手に持ち、もう片方は、紙カップを両手で包んでいた。

 

 何を話しているのかは、聞こえない。

 

 少し笑ったことだけが分かった。

 

 セイアは、昨日ヒナと座った腰掛けへ寄った。

 

 今は誰もいない。

 

 座面には日が当たり、手で触れると少し温かかった。

 

 座らず、そのまま下の町を眺めた。

 

     ◇

 

 帰りに寄った菓子店では、平たい焼き菓子を買った。

 

 表面に薄い砂糖がかかり、中には細かく切った柑橘の皮が入っている。

 

 試食を一つ勧められ、食べてみた。

 

 甘い。

 

 けれど、あとに少しだけ苦みが残る。

 

 紅茶には合いそうだった。

 

「ご自宅用?」

 

「友人と食べるつもりだよ」

 

「何人?」

 

「三人」

 

 店員は、大きすぎない箱を出した。

 

 派手な包装ではない。

 

 店の名前と、灰羽温泉の文字が入っている。

 

 セイアは、その文字を少し見た。

 

 持って帰れば、ミカはきっと開ける前に味を尋ねる。

 

 ナギサは、合わせる茶を少し考えるだろう。

 

 その様子まで思い浮かべてから、箱を受け取った。

 

     ◇

 

 宿へ戻る途中、昼食を取った店の前を通った。

 

 昨日の相席の生徒が、入口の脇で飲み物を買っていた。

 

 セイアを見ると、軽く手を上げる。

 

「もう帰る?」

 

「ああ」

 

「どうだった? 南の湯」

 

「よかったよ。宿の朝の風呂も、入ってきた」

 

「結構入ったね」

 

「そのために来たのでね」

 

 生徒は笑った。

 

 名前を聞かれたら、今日は答えるつもりだった。

 

 けれど、聞かれなかった。

 

 代わりに、バスまで時間があるかと尋ねられた。

 

「余裕はあるよ」

 

「ならよかった。最後、坂だから」

 

 セイアは頷いた。

 

「君も、よい一日を」

 

「そっちも。気をつけて」

 

 短く手を振り、別れる。

 

 生徒は店へ入り、セイアは宿へ向かった。

 

     ◇

 

 会計を済ませると、主人が荷物を持ってきてくれた。

 

 鍵を返す。

 

 受け取った明細には、自分の名前と、一泊分の料金が書いてあった。

 

 特別な項目はない。

 

 予約した部屋に泊まり、朝食を食べた。

 

 その分だった。

 

「お世話になったね」

 

「こちらこそ。ありがとうございました」

 

 セイアは一度だけ、部屋のある階へ目を向けた。

 

 階段の上は、ここからは見えない。

 

 窓から聞こえた通りの声と、朝のパンの匂いは、まだ思い出せた。

 

「また、町を歩きに来てもよいかな」

 

 尋ねてから、宿の主人へ許可を求める話ではなかったと思った。

 

 けれど主人は、自然に頷いた。

 

「ええ。お待ちしております」

 

 セイアは帽子をかぶり、玄関を出た。

 

     ◇

 

 バス乗り場には、昨日よりも大きな荷物を持った人がいた。

 

 土産の袋が二つ。

 

 タオルを外側へ掛けた鞄。

 

 眠そうに壁へ寄りかかっている生徒もいる。

 

 セイアも列の最後へ並んだ。

 

 広場の足湯には、新しく来た客が座っていた。

 

 靴を脱ぐ。

 

 裾を上げる。

 

 足先を入れ、少しだけ肩を動かす。

 

 その反応を、セイアは昨日と同じ場所からではなく、帰る列の中で見ていた。

 

 バスが来る。

 

 乗り込む前に、もう一度だけ通りを振り返った。

 

 湯気が上がっている。

 

 店が開き始めている。

 

 自分が帰ったあとにも、今日の分の客が来るのだろう。

 

 セイアは、サングラスをかけたまま乗り込んだ。

 

 窓側の席には、よく日が当たっていた。

 

     ◇

 

 列車へ乗り換えてから、帽子とサングラスを外した。

 

 鞄の上へ置く。

 

 ガラスに、目元の隠れていない自分が映った。

 

 昨日の朝より、何かが大きく変わった顔ではない。

 

 少し歩き、何度か風呂へ入り、よく食べてきた顔だった。

 

 セイアは、ケースへサングラスを収めた。

 

 金色の縁に、小さな指の跡がついている。

 

 布で拭くと、すぐに消えた。

 

 端末を開く。

 

 ヒナへ、短く連絡した。

 

『南の湯は、よかったよ。今、帰るところだ。昨日はありがとう。』

 

 しばらくして、返事が届いた。

 

『それならよかった。気をつけて。』

 

 そのあと、もう一件。

 

『林檎も美味しかったわね。』

 

 セイアは少し笑い、同じように返した。

 

     ◇

 

 トリニティへ戻ると、ミカが最初に外套を見た。

 

「お帰り! どうだった、お忍び」

 

「ただいま。風呂には、十分入れたよ」

 

「そっちじゃなくて。分かった人いた?」

 

「宿の主人と、ヒナ」

 

「ヒナちゃんには、やっぱり分かるんだ」

 

「ああ。あまり考える時間もいらなかったらしい」

 

 ミカが笑った。

 

 ナギサが、荷物を置く場所を空けてくれる。

 

「それ以外は、落ち着いて過ごせましたか」

 

「町は、賑やかだったよ。ただ、私のことで賑やかになったわけではないね」

 

 セイアは菓子の箱を出した。

 

 ミカが、早速、店の名前を読む。

 

「これ、何味?」

 

「柑橘が入っている。少し、苦みもあるよ」

 

 ナギサは箱を見て、茶葉の入った棚へ目を向けた。

 

 思い浮かべた通りだった。

 

 セイアは、少しだけ嬉しくなった。

 

     ◇

 

 着替える前に、三人でお茶を飲んだ。

 

 ミカは菓子を割り、中を見てから食べた。

 

 ナギサは、少し遅れて一口。

 

 セイアは、自分の皿を前へ寄せた。

 

 町で試食した時と、同じ味がする。

 

 けれど今は、二人の感想を聞きながら食べられた。

 

 昼のソーセージの話をした。

 

 足湯で、浴場の入口を教えてもらったこと。

 

 ヒナと二人で頼んだパンが、思っていた通り多かったこと。

 

 夜の風呂で、昼に会った生徒とまた会ったこと。

 

「名前は?」

 

 ミカが尋ねた。

 

「聞かなかったよ」

 

「そっか」

 

 ミカは、それ以上気にせず頷いた。

 

 会った人の名前を全部知らなくても、話せることはあった。

 

 セイアは、温かい茶を飲んだ。

 

     ◇

 

「それで、サングラスの効果はあったのですか」

 

 ナギサが尋ねた。

 

 セイアは、卓の端に置いたケースを見た。

 

 少し考える。

 

「よく分からない」

 

「分からないんだ」

 

 ミカが笑った。

 

「名前を知らない相手には、外していても分からなかったかもしれないし。知っているヒナには、すぐ分かった」

 

「では、あまり役には立たなかったのでしょうか」

 

「いや」

 

 セイアはケースを開いた。

 

 赤い縁が、談話室の灯りを受ける。

 

「午後の道が、かなり眩しかった。帰りのバスでもね」

 

 ナギサは一度、セイアの顔を見た。

 

 それから、静かに笑った。

 

 ミカはもう、声を出して笑っていた。

 

「ちゃんとサングラスだったんだ」

 

「ああ。よいものを選んでいたらしい」

 

 セイアも笑い、ケースを閉じた。

 

     ◇

 

 部屋へ戻り、外套を脱いだ。

 

 帽子を棚へ置き、買った石鹸を取り出す。

 

 包みを開くと、昨日の浴場で使った香りが、かすかに残っていた。

 

 鞄の底から、折り目の増えた地図が出てくる。

 

 南湯通り。

 

 赤煉瓦館。

 

 足湯のある広場。

 

 昼食の店。

 

 昨日は知らなかった名前が、小さな範囲に集まっている。

 

 セイアは、夜に入った浴場へ丸をつけた。

 

 その裏側にある入口へ、短い矢印を足す。

 

 ほかのところへは、まだ何も書かなかった。

 

 昼しか見ていない道もある。

 

 通らなかった坂もある。

 

 いつかまた来るとしても、その時に歩けばよかった。

 

 地図を畳み、サングラスのケースと一緒に、旅の鞄へ戻す。

 

 次に持っていく理由を、いちいち確かめる必要はなかった。

 

 

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