空崎ヒナが、坂の上に立っていた。
手には、薄い書類入れ。
セイアの顔から、帽子、外套、サングラスへと視線が動く。
「珍しい格好ね」
「こんにちは。もう少し、迷ってくれてもよかったんだが」
「何を?」
「私かどうか、というところを」
ヒナは一度だけ瞬きをした。
それから、小さく息を吐く。
「服が違うだけでしょう」
セイアはサングラスを少し下げた。
「どうやら、知っている相手には役に立たないらしい」
「お忍び?」
「そのつもりだよ」
ヒナは周囲を見た。
近くには、ベンチで休んでいる客が二人。
少し下の道を、買い物袋を持った生徒が歩いている。
こちらを気にしている者はいなかった。
「それで、今日は何か用事?」
「温泉に入りに来たんだ。一泊して、明日帰る」
ヒナの視線が、書類入れではなくセイアへ戻った。
「……本当に、それだけ?」
「ああ」
「そう」
少し間を置いて、ヒナは頷いた。
「それなら、よかった」
◇
セイアは、腰掛けの隣を少し空けた。
ヒナは迷ったあと、そこへ座った。
書類入れを膝へ置く。
「君は?」
「この上の施設で、確認することがあって。もう終わったから、帰るところ」
「温泉の近くへ来たのに、入らずに?」
「今日は、その支度をしていないもの」
「貸し出しもあるそうだよ」
ヒナがこちらを見る。
セイアは少し笑った。
「先ほど、案内を読んだばかりなのでね」
「一日で、ずいぶん詳しくなったのね」
「まだ、入口を間違えない程度だけれど」
ヒナも、わずかに口元を緩めた。
通りの向こうから、風が来る。
湯気は、山の方へ少し傾いていた。
セイアはサングラスを外し、畳んで手に持った。
話す相手がいる時には、その方が顔を見やすかった。
◇
「気づかれた?」
ヒナが尋ねた。
「君には」
「私以外に」
「宿の主人には、名前を書いた時に。あとは……どうだろうね。トリニティだとは、分かるようだけれど」
鞄の紋章を示す。
ヒナはそこを見て、頷いた。
「なら、普通に旅行してるだけに見えるんじゃない」
「私の工夫が効いたのか、そもそも必要なかったのか、分からなくなってきたよ」
「確かめるために、名乗って回るつもり?」
「それでは、何のための格好か分からないだろう」
「そうね」
ヒナの返事に、少し笑いが混じった。
セイアも笑った。
名前を呼ばれた時には、一度だけ背中が伸びた。
けれど今は、また椅子へ戻っている。
ヒナも、用件を待つような座り方はしていなかった。
◇
少し休んでから、二人は坂を下りた。
ヒナはバス乗り場の方へ。
セイアは、その途中で夕食の店を探すつもりだった。
通りへ出ると、昼より食べ物の匂いが増えていた。
焼けたパン。
肉の脂。
煮込んだ野菜。
その中で、ヒナが一軒の前で足を緩めた。
小さな洋食屋だった。
セイアも看板を見る。
「入ったことが?」
「一度。帰る前に食べるなら、ここでもいいと思う」
「君も、まだなのかな」
「ええ」
セイアはヒナを見た。
「では、一緒にどうだい」
ヒナは時計を確かめた。
そのあと、店の窓を見る。
空いた席が一つ、見えた。
「……そうね。食べてから帰るわ」
誰かを休ませるための相談にはならなかった。
二人とも、夕食がまだだった。
それで、入る理由になった。
◇
店員はヒナを見ると、軽く会釈した。
「いらっしゃいませ。お二人ですか」
「ええ」
「奥の席へどうぞ」
セイアにも同じ会釈が向けられた。
それ以上、名前を尋ねられることはなかった。
窓際の二人掛けへ座る。
ヒナが書類入れを鞄へ収め、セイアは帽子を脱いだ。
サングラスはケースへ戻す。
手元が片づくと、卓の上には品書きだけが残った。
「ここのセット、パンは多いわよ」
ヒナが言う。
「どのくらい?」
「前に頼んだ時は、籠で来た」
「それは、二人なら何とかなる量かな」
「ほかに何を食べるかによると思う」
セイアは品書きを開いた。
風紀委員長に尋ねる質問としては、ずいぶん具体的だった。
けれど、今はそこが知りたかった。
◇
セイアは、薄いカツレツを選んだ。
付け合わせに、香草で焼いたじゃがいもと、酢漬けの野菜がつく。
ヒナは、きのこのリゾット。
パンは、一つの籠を二人で頼むことにした。
注文を済ませると、ヒナが窓の外へ目を向けた。
店の前を、数人のゲヘナ生が通っていく。
一人がこちらを見て、少しだけ姿勢を正しかけた。
けれど、ヒナは軽く頷いただけだった。
生徒たちは、そのまま向こうへ歩いていった。
セイアは水を一口飲んだ。
「君は、隠れるつもりはないんだね」
「今からサングラスを借りても、遅いでしょう」
セイアは、ケースへ目を落とした。
「似合うかどうかは、別の機会にしよう」
「試すことになっているの?」
「まだ、提案の段階だよ」
ヒナは呆れたように見たが、嫌そうではなかった。
◇
カツレツは、皿の大きさに近いほど広かった。
ただし、厚みはない。
ナイフを入れると、細かな衣がさらりと崩れる。
湯気と一緒に、焼いた脂の香りが立った。
セイアは端を小さく切り、一口食べた。
衣は軽い。
その下の肉には、薄くても噛むところがある。
塩気のあとに、ほんの少し胡椒が残った。
次の一切れには、添えられたレモンを少し搾る。
香りが変わった。
酢漬けのキャベツを間に挟むと、もう一度、肉へ戻りたくなる。
ヒナの皿からは、きのこの香りがしていた。
匙で少しすくい、熱さを確かめてから食べている。
「そちらは、どうかな」
「美味しい。前と同じで」
「前にも、それを?」
「ええ」
ヒナは少し考え、付け加えた。
「気に入ったものを、また頼んでもいいでしょう」
「もちろん。私はつい、別のものも気になってしまうけれど」
「それで、決まらなくなるのね」
セイアは一瞬、D.U.の案内板を思い出した。
「……そういう日もある」
ヒナが、小さく笑った。
◇
パンは、本当に籠で来た。
小さな丸いものが三つ。
切り分けた、皮のしっかりしたものが二切れ。
セイアは籠を見て、ヒナを見た。
「先に聞いておいてよかった」
「だから言ったでしょう」
二人で、一つずつ取る。
セイアがちぎると、中央にはまだ温かさがあった。
少しだけじゃがいもの香草バターをつけて食べる。
ヒナは、自分の皿の端に残ったきのこの汁を取った。
食事の間、会話は何度か途切れた。
どちらも、無理に埋めようとはしなかった。
窓の外の店に灯りが点く。
厨房では、次の皿が用意されている。
ヒナの匙が動く間に、セイアもカツレツを切った。
温かいうちに食べることへ、二人ともきちんと時間を使った。
◇
「こういう旅行、よくしているのね」
ヒナが言った。
「最近はね。見てみたい場所が、少しずつ増えてしまって」
「いつも一人?」
「そうでもないよ。ナギサやミカと行くこともある。途中で誰かに会う日もあるし」
「今日は、私」
「ああ」
セイアは頷いた。
「昼には、隣の席の生徒に、卵を落とした皿はパンできれいにすればいいと教わった」
ヒナが顔を上げた。
「……それも、旅の話に入るの?」
「よい食べ方だったのでね」
「そう」
ヒナは、自分の皿へ目を落とした。
残ったパンを一切れ取る。
「それなら、私も今、同じことをしているわね」
セイアは笑った。
その話をする時、相手がどこの学園にいるかは、特に必要なかった。
◇
食後の小さな黒板を、セイアが見た。
焼き林檎がある。
今、もう一皿食べたいほど腹が空いているわけではない。
けれど、窓の外に店の灯りが増え始めたこの時間を、もう少し長くしてもよさそうだった。
ヒナも、同じところを見ていた。
「……半分なら、どうかな」
セイアが言う。
ヒナはすぐには返事をしなかった。
時計を見る。
それから、もう一度黒板を見た。
「少しなら」
店員へ頼むと、小皿と匙を二つ持ってきてくれた。
林檎は、表面に浅い皺ができていた。
切ると、内側から湯気が出る。
溶けたバターと甘い汁が皿へ広がり、香辛料の匂いがした。
セイアは片方をヒナの皿へ載せ、自分の分を取った。
熱い。
けれど、さっきまでの塩気のある食事のあとには、その甘さがよく分かった。
ヒナも一口食べ、少しだけ目を細めた。
◇
食べ終える頃には、外は夕方から夜へ変わっていた。
会計を済ませ、店を出る。
ヒナは帰りのバスへ。
セイアは、一度宿へ戻るつもりだった。
「このあとは、お風呂?」
ヒナが尋ねた。
「ああ。少し休んでから、南の湯へ」
「裏の入口から入るところね」
「それはもう、教わったよ」
「そう」
ヒナは頷いた。
少し先で、道が分かれる。
セイアは足を止めた。
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ」
「食べたいものを、もう一つ頼めた」
ヒナは一度、店の方を見た。
それから、少し笑った。
「私も」
言葉は、それだけだった。
けれど、ヒナが何を言っているのかは分かった。
セイアは、帽子をかぶり直した。
夜なので、サングラスは出さなかった。
「気をつけて帰って」
「あなたも、帰り道を間違えないように」
「ああ」
ヒナはバス乗り場の方へ歩いていった。
セイアはその姿を見送ってから、宿のある通りへ向きを変えた。
◇
部屋へ戻ると、窓の向こうは昼より明るく見えた。
空は暗い。
その代わり、店の看板と、窓の灯りが増えている。
セイアは椅子へ座り、水を飲んだ。
鞄から買った石鹸を出す。
淡い黄色の包みを少し開くと、柑橘の香りがした。
それから、しばらく本を読んだ。
下の通りで笑い声が上がる。
どこかで音楽が流れ始め、すぐに少し小さくなった。
頁をめくる。
会話の続きが気になり、もう一頁読む。
夕食が落ち着いたところで、栞を挟んだ。
温泉へ入るために来たのに、まだ足しか浸けていない。
そろそろ、その続きをしてもよかった。
◇
南の湯の表側は、土産物を売る店になっていた。
教わっていなければ、こちらから入っていたかもしれない。
建物の脇を回る。
石の壁に沿って短い通路があり、その先に浴場の入口があった。
扉を開けると、暖かい空気が顔へ触れた。
眼鏡をかけた客が一人、曇ったレンズを拭きながら出てくる。
セイアは鞄の中のサングラスを思い出した。
しまったままでよかった。
受付の生徒が顔を上げる。
「一人?」
「ああ」
「タオルは持ってる?」
「持ってきたよ」
「じゃあ、入浴だけね」
料金を払い、靴をしまう。
小さな番号札を受け取った。
その数字を一度見てから、脱衣所へ向かう。
ここでは、名前よりも、靴の入った場所を覚えている方が大切だった。
◇
浴場は、思っていたより広かった。
石の縁を持つ大きな湯船が二つ。
奥には、外気の入る小さな浴槽もある。
天井の高いところに窓があり、湯気がそちらへゆっくり上っていた。
身体を流す。
買った石鹸を使うと、掌から、昼の店先で嗅いだ香りがした。
泡を落とし、湯船へ向かう。
縁へ腰を掛け、足先から入った。
足湯より、身体の温まるところが多い。
胸の下まで沈めると、呼吸が少しゆっくりになった。
肩にも湯をかけ、それから背中を落ち着かせる。
向こう側では、二人の生徒が明日の話をしていた。
「何時に起きるの」
「起きた時」
「集合九時なんだけど」
「じゃあ、八時」
「移動は?」
「……七時半」
セイアは笑わないように、少し顔を下げた。
湯の表面が、鼻先で揺れた。
◇
奥の浴槽へ移ると、外の空気が頬へ触れた。
昼間歩いた通りの音が、ここまで薄く届く。
バイクが通る。
誰かが呼びかける。
店の戸を閉める音。
川や木々の音ではない。
それでも、湯の中で聞くと、少し遠かった。
隣にいた生徒が、こちらを見た。
しばらくして、目が合う。
「あれ。昼の」
ソーセージの店で、向かいに座っていた生徒だった。
髪のまとめ方は変わっていたが、声を聞くと分かった。
「君も、入りに来たんだね」
「やっと終わった。今日は、もう帰るだけ」
そう言って、肩まで湯へ沈む。
しばらく、何も話さなかった。
仕事が終わった生徒と、旅行に来た自分が、同じ湯へ入っている。
どちらが先に来たかも、どちらが遠くから来たかも、今はあまり関係がなかった。
◇
「晩ご飯、食べた?」
生徒が尋ねた。
「ああ。通りの洋食屋で」
「あそこ、お腹いっぱいになるよね」
「パンが、なかなか多かった」
「そう、それ」
生徒が笑った。
「私、一回、何も考えずに全部セットにして、最後すごかった」
「今日は、先に教えてくれた人がいたのでね」
「よかったじゃん」
それ以上、誰だったのかは聞かなかった。
セイアも、名前を足さなかった。
湯口から新しい湯が入り、表面に細かな皺ができる。
少し熱くなったところで、セイアは肩を出した。
生徒も、ほぼ同じ時に身体を起こした。
目が合い、二人とも少し笑う。
昼よりも、ずっと短い会話だった。
◇
湯から上がると、身体の内側に温かさが残っていた。
水を飲み、髪を乾かす。
靴を履き、外へ出た。
通りの空気が、湯上がりの頬へ心地よかった。
浴場の脇には、飲み物の売り場があった。
セイアは、小さな瓶の生姜の炭酸飲料を選んだ。
腰掛けへ座り、一口飲む。
泡が舌へ触れ、そのあとに少し辛い香りが残った。
甘さもある。
けれど、昼間の食後に飲むものとは違う気がした。
瓶を膝の上へ置く。
向かいの店では、まだ串を焼いていた。
笑いながら注文を待っている生徒たちがいる。
自分はもう食べたし、風呂にも入った。
だから、今はただ見ていられた。
◇
宿へ戻る道で、セイアは夜の通りを一枚だけ撮った。
湯気。
看板。
店の前に並んだ客。
写真を確かめると、思ったより雑然としていた。
きれいに整った風景ではない。
看板の大きさも色も揃っていないし、画面の端には、片づけかけの空箱が入っている。
けれど、今日歩いた通りはそういう場所だった。
撮り直さず、端末をしまう。
昼間、看板を取りつけていた店の前を通った。
今は、ちゃんと灯りが入っている。
少し斜めに見えたが、道の方が傾いているのかもしれない。
セイアは首を少し傾けて見た。
それから、分からないまま宿へ戻った。
◇
主人が帳場で鍵を確認していた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。南の湯へ行ってきたよ」
「お湯は、いかがでしたか」
「よかった。少し熱かったけれど」
「あちらは、地元の方にも人気ですから」
主人は笑い、入口の時計を確かめた。
セイアの名前を呼んだり、昼間の話へ戻ったりはしなかった。
会話は、風呂の話だけで終わる。
セイアは階段を上った。
部屋へ入ると、昼の服を掛けたままの場所に、帽子とサングラスのケースがあった。
夜の間、それらは何もしていなかった。
セイアの方は、夕食を食べ、湯へ入り、炭酸飲料を飲んできた。
服を着替え、寝台の端へ座る。
足先が、まだ温かかった。
◇
灯りを消す前に、ナギサへ短く連絡した。
風呂から戻っていること。
明日も、予定通りの便で帰ること。
送ってから、ヒナと夕食を取ったことも書き足した。
すぐに返事が来た。
『そうでしたか。ゆっくりお話しできましたか?』
セイアは、画面を少し長く見た。
何を話したかと尋ねられたら、料理の話が多くなる。
旅行のことも少し。
サングラスの役立ち方については、結論が出なかった。
『ああ。焼き林檎も、半分ずつ食べたよ。』
返すと、しばらくして、
『お帰りになってから伺いますね。おやすみなさい』
と届いた。
セイアも同じ言葉を返し、端末を置いた。
窓の外では、まだ少し話し声がしていた。
やがてそれが遠ざかり、店の戸が閉まる音がする。
夜は、一度に静かになるのではなかった。
セイアは、その途中で眠った。
◇
朝、部屋の中へパンの匂いが入ってきた。
窓の明るさを見てから、身体を起こす。
通りを覗くと、昨夜の店のほとんどは閉まっていた。
代わりに、荷物を運ぶ車が一台停まっている。
店の裏口が開き、生徒が箱を受け取った。
昨日の灯りの下にいた人たちが、全部眠っているわけではない。
ただ、見える用事が変わっていた。
セイアは着替えを持ち、宿の小さな浴室へ向かった。
朝は、誰もいなかった。
大きな浴槽ではない。
窓の下から光が差し、湯気を白く見せている。
湯へ入ると、昨夜より静かだった。
しばらくして、廊下の向こうで食器の触れる音がした。
セイアは、それを朝食の知らせのように聞いた。
◇
食堂には、焼いたパンと卵が用意されていた。
小さな器の煮豆。
チーズ。
果物。
紅茶かコーヒーを選べるというので、紅茶にした。
窓際の席へ座る。
昨日、チェックインの時に見た帳場が、少し離れたところにある。
主人はそこで、ほかの客の会計をしていた。
名を呼ぶ。
鍵を受け取る。
礼を言う。
その合間に、新しいパンを運んでくる。
セイアは厚いパンへバターを塗った。
表面が熱く、端から少しずつ溶けていく。
一口食べると、皮は香ばしく、中は柔らかい。
昨夜の店のパンとは違う。
同じ町でも、同じものばかりが出てくるわけではなかった。
◇
「今日は、すぐにお帰りですか」
主人が尋ねた。
「少し歩いてから。昼前のバスに乗るつもりだよ」
「でしたら、お荷物はお預かりします」
「お願いするよ」
セイアは茶を飲んだ。
主人は一度、外の通りへ目を向ける。
「朝は、坂の上がよく見えます。夜に歩かれた道とは、また少し違いますよ」
「そうしてみよう」
話はそれで終わった。
セイアがどこの誰かを知っていても、主人が勧めるのは、朝の散歩道だった。
食べ終えた皿を見て、パンを追加するかどうかも尋ねられた。
少し考えたが、今日はやめておいた。
帰りに、何か一つ買いたい店があった。
◇
荷物を預け、外へ出る。
サングラスは鞄ではなく、外套のポケットへ入れた。
今はまだ、道に影が多い。
夜に通った南湯通りを、逆から歩いた。
提灯は消えている。
店先の卓は重ねられ、昨日座った椅子も、壁際へ寄せられていた。
南の湯の入口では、係の生徒が床を流している。
表側の土産店はまだ閉まっていたが、裏からは人が出てきた。
早い時間に風呂へ入ってきたのだろう。
セイアはその人とすれ違い、坂を上った。
日が当たるところへ出ると、石の道が白く光る。
ポケットからサングラスを出し、かけた。
今度は、何のために使っているのか、すぐに分かった。
◇
坂の上からは、湯気の上がる場所が幾つも見えた。
宿の屋根。
公共の浴場。
店の裏側。
人の歩く道のすぐ近くに、温かな水の通る管がある。
昨日は道を間違えないように、看板や角ばかり見ていた。
今は、建物と建物の間を通るものも目に入った。
その先の小さな広場で、生徒が二人、朝食を食べている。
片方はパンを手に持ち、もう片方は、紙カップを両手で包んでいた。
何を話しているのかは、聞こえない。
少し笑ったことだけが分かった。
セイアは、昨日ヒナと座った腰掛けへ寄った。
今は誰もいない。
座面には日が当たり、手で触れると少し温かかった。
座らず、そのまま下の町を眺めた。
◇
帰りに寄った菓子店では、平たい焼き菓子を買った。
表面に薄い砂糖がかかり、中には細かく切った柑橘の皮が入っている。
試食を一つ勧められ、食べてみた。
甘い。
けれど、あとに少しだけ苦みが残る。
紅茶には合いそうだった。
「ご自宅用?」
「友人と食べるつもりだよ」
「何人?」
「三人」
店員は、大きすぎない箱を出した。
派手な包装ではない。
店の名前と、灰羽温泉の文字が入っている。
セイアは、その文字を少し見た。
持って帰れば、ミカはきっと開ける前に味を尋ねる。
ナギサは、合わせる茶を少し考えるだろう。
その様子まで思い浮かべてから、箱を受け取った。
◇
宿へ戻る途中、昼食を取った店の前を通った。
昨日の相席の生徒が、入口の脇で飲み物を買っていた。
セイアを見ると、軽く手を上げる。
「もう帰る?」
「ああ」
「どうだった? 南の湯」
「よかったよ。宿の朝の風呂も、入ってきた」
「結構入ったね」
「そのために来たのでね」
生徒は笑った。
名前を聞かれたら、今日は答えるつもりだった。
けれど、聞かれなかった。
代わりに、バスまで時間があるかと尋ねられた。
「余裕はあるよ」
「ならよかった。最後、坂だから」
セイアは頷いた。
「君も、よい一日を」
「そっちも。気をつけて」
短く手を振り、別れる。
生徒は店へ入り、セイアは宿へ向かった。
◇
会計を済ませると、主人が荷物を持ってきてくれた。
鍵を返す。
受け取った明細には、自分の名前と、一泊分の料金が書いてあった。
特別な項目はない。
予約した部屋に泊まり、朝食を食べた。
その分だった。
「お世話になったね」
「こちらこそ。ありがとうございました」
セイアは一度だけ、部屋のある階へ目を向けた。
階段の上は、ここからは見えない。
窓から聞こえた通りの声と、朝のパンの匂いは、まだ思い出せた。
「また、町を歩きに来てもよいかな」
尋ねてから、宿の主人へ許可を求める話ではなかったと思った。
けれど主人は、自然に頷いた。
「ええ。お待ちしております」
セイアは帽子をかぶり、玄関を出た。
◇
バス乗り場には、昨日よりも大きな荷物を持った人がいた。
土産の袋が二つ。
タオルを外側へ掛けた鞄。
眠そうに壁へ寄りかかっている生徒もいる。
セイアも列の最後へ並んだ。
広場の足湯には、新しく来た客が座っていた。
靴を脱ぐ。
裾を上げる。
足先を入れ、少しだけ肩を動かす。
その反応を、セイアは昨日と同じ場所からではなく、帰る列の中で見ていた。
バスが来る。
乗り込む前に、もう一度だけ通りを振り返った。
湯気が上がっている。
店が開き始めている。
自分が帰ったあとにも、今日の分の客が来るのだろう。
セイアは、サングラスをかけたまま乗り込んだ。
窓側の席には、よく日が当たっていた。
◇
列車へ乗り換えてから、帽子とサングラスを外した。
鞄の上へ置く。
ガラスに、目元の隠れていない自分が映った。
昨日の朝より、何かが大きく変わった顔ではない。
少し歩き、何度か風呂へ入り、よく食べてきた顔だった。
セイアは、ケースへサングラスを収めた。
金色の縁に、小さな指の跡がついている。
布で拭くと、すぐに消えた。
端末を開く。
ヒナへ、短く連絡した。
『南の湯は、よかったよ。今、帰るところだ。昨日はありがとう。』
しばらくして、返事が届いた。
『それならよかった。気をつけて。』
そのあと、もう一件。
『林檎も美味しかったわね。』
セイアは少し笑い、同じように返した。
◇
トリニティへ戻ると、ミカが最初に外套を見た。
「お帰り! どうだった、お忍び」
「ただいま。風呂には、十分入れたよ」
「そっちじゃなくて。分かった人いた?」
「宿の主人と、ヒナ」
「ヒナちゃんには、やっぱり分かるんだ」
「ああ。あまり考える時間もいらなかったらしい」
ミカが笑った。
ナギサが、荷物を置く場所を空けてくれる。
「それ以外は、落ち着いて過ごせましたか」
「町は、賑やかだったよ。ただ、私のことで賑やかになったわけではないね」
セイアは菓子の箱を出した。
ミカが、早速、店の名前を読む。
「これ、何味?」
「柑橘が入っている。少し、苦みもあるよ」
ナギサは箱を見て、茶葉の入った棚へ目を向けた。
思い浮かべた通りだった。
セイアは、少しだけ嬉しくなった。
◇
着替える前に、三人でお茶を飲んだ。
ミカは菓子を割り、中を見てから食べた。
ナギサは、少し遅れて一口。
セイアは、自分の皿を前へ寄せた。
町で試食した時と、同じ味がする。
けれど今は、二人の感想を聞きながら食べられた。
昼のソーセージの話をした。
足湯で、浴場の入口を教えてもらったこと。
ヒナと二人で頼んだパンが、思っていた通り多かったこと。
夜の風呂で、昼に会った生徒とまた会ったこと。
「名前は?」
ミカが尋ねた。
「聞かなかったよ」
「そっか」
ミカは、それ以上気にせず頷いた。
会った人の名前を全部知らなくても、話せることはあった。
セイアは、温かい茶を飲んだ。
◇
「それで、サングラスの効果はあったのですか」
ナギサが尋ねた。
セイアは、卓の端に置いたケースを見た。
少し考える。
「よく分からない」
「分からないんだ」
ミカが笑った。
「名前を知らない相手には、外していても分からなかったかもしれないし。知っているヒナには、すぐ分かった」
「では、あまり役には立たなかったのでしょうか」
「いや」
セイアはケースを開いた。
赤い縁が、談話室の灯りを受ける。
「午後の道が、かなり眩しかった。帰りのバスでもね」
ナギサは一度、セイアの顔を見た。
それから、静かに笑った。
ミカはもう、声を出して笑っていた。
「ちゃんとサングラスだったんだ」
「ああ。よいものを選んでいたらしい」
セイアも笑い、ケースを閉じた。
◇
部屋へ戻り、外套を脱いだ。
帽子を棚へ置き、買った石鹸を取り出す。
包みを開くと、昨日の浴場で使った香りが、かすかに残っていた。
鞄の底から、折り目の増えた地図が出てくる。
南湯通り。
赤煉瓦館。
足湯のある広場。
昼食の店。
昨日は知らなかった名前が、小さな範囲に集まっている。
セイアは、夜に入った浴場へ丸をつけた。
その裏側にある入口へ、短い矢印を足す。
ほかのところへは、まだ何も書かなかった。
昼しか見ていない道もある。
通らなかった坂もある。
いつかまた来るとしても、その時に歩けばよかった。
地図を畳み、サングラスのケースと一緒に、旅の鞄へ戻す。
次に持っていく理由を、いちいち確かめる必要はなかった。