百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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14.鐘崎港・渡船乗り場 #向こう岸まで #焼き魚も人気 #船の見える町

 

 

 建物の間から、船が見えた。

 

 交差点の先にある倉庫よりも、ずっと高い。青い横腹の上に白い構造物が重なり、その窓が、朝の光を細かく返していた。

 

 百合園セイアは、信号が変わるのを待ちながら、そちらへ目を向けた。

 

 鐘崎港第1埠頭。

 

 信号のそばの表示を確かめ、前の車に続いてゆっくり進む。

 

 大きな船は、一度、建物の陰へ消えた。

 

     ◇

 

 駐車場でエンジンを止めると、外の音が近くなった。

 

 トラックの低い音。

 

 どこかで金属を置く音。

 

 車を降りたところへ、風が通る。潮の匂いに、乾いた埃と、温まった道路の匂いが混じっていた。

 

 セイアは鞄を肩へ掛け直した。

 

 今日は、港を歩いてみるつもりで来た。

 

 船を眺め、近くで昼食を食べる。帰りは夕方までに。ナギサとミカにも、そう伝えてある。

 

 出発する時、ミカに何を食べるのかと聞かれた。

 

 その時には、まだ決めていないと答えた。

 

 今も、決まっていなかった。

 

 車の鍵を鞄の内側へ収め、駐車券は別の小さなポケットに入れる。

 

 入口の表示を振り返り、周りの建物と一緒に覚えた。

 

 すぐ近くの道を、荷物を積んだトラックが曲がっていく。

 

 その後ろが空くのを待ってから、セイアは歩き出した。

 

     ◇

 

 岸沿いの道に出ると、空が広がった。

 

 対岸には、低い建物が並んでいる。

 

 その奥にクレーン。手前には、岸壁に沿って停まった船が何隻も見えた。

 

 水面は、遠くから見るほど平らではなかった。

 

 小さな波が幾つも重なり、柱の根元へ当たって、短い音を立てる。

 

 セイアは手すりの前で足を止めた。

 

 先ほど見えた青い船を探す。

 

 ここからは、その後ろ半分が見えた。船尾には白い文字が書かれているが、少し遠くて読めない。

 

 もう少し先へ行けば、全体が見えるだろうか。

 

 そう思って歩き出した時、脇の細い道から、一人の住民が出てきた。

 

 青い作業着を着た、犬の顔の住民だった。

 

 片手に金属の工具箱を提げ、迷いのない足取りで、低い屋根の下へ入っていく。

 

 その後ろを、畳んだ手提げ袋を持った別の客が続いた。

 

 屋根の下には、時刻表があった。

 

 水面へ向かって、緩やかな通路が延びている。

 

 その先に、小さな船が停まっていた。

 

     ◇

 

 船の入口には、紺色の上着を着た、犬の顔の係員が立っていた。

 

 工具箱を持った客が切符を見せる。

 

 係員は片手を上げ、そのまま通した。

 

 セイアは、屋根の下の案内を見た。

 

 渡船。

 

 向こう岸までの切符を売っているらしい。

 

 窓口へ近づくと、中にいた係員のロボットがこちらを向いた。

 

「これには、私も乗れるのかな」

 

「ええ。次の便、まだ間に合いますよ」

 

「遊覧船ではないのだね」

 

「向こうへ渡るだけです。あそこの屋根が見えるでしょう」

 

 窓口の係員が、水の向こうを指さした。

 

 倉庫よりも手前に、小さな屋根が一つある。

 

 さっきから見えていたものだった。

 

「あちらで一度降りていただきます。戻ってくるなら、切符は向こうで買えますから」

 

「分かった。では、一人分お願いするよ」

 

 小銭を出し、切符を受け取った。

 

 厚みのある、小さな紙だった。

 

 車を置いてきた駐車場の方へ、一度だけ目を向ける。

 

 歩いて港を見るつもりだったが、水の上からでもよさそうだった。

 

 セイアは切符を持ち、通路へ進んだ。

 

     ◇

 

 船へ足を移すと、床がわずかに動いた。

 

 手すりに触れ、もう一歩進む。

 

 船内には、背もたれのある席が並んでいた。その後ろには、外の風に当たれる場所もある。

 

 セイアは、外側の席を選んだ。

 

 鞄を膝に載せる。

 

 先に乗った作業着の住民は、工具箱を足元へ下ろしていた。取っ手に青い布を結びつけてある。

 

 手提げ袋の客は、折った紙を広げ、鉛筆で何かを書き足していた。

 

 パン。

 

 その下の文字は、手に隠れて読めなかった。

 

 乗船口で係員が周りを確かめる。

 

 短い案内が流れた。

 

 床から伝わる振動が変わる。

 

 岸壁が、ゆっくりと横へ動き始めた。

 

 セイアは背もたれから体を起こした。

 

     ◇

 

 船が岸から離れると、倉庫の並びがよく見えた。

 

 陸を歩いていた時には、壁と、門と、その前を通る車ばかりが目に入っていた。

 

 今は、屋根の傾きまで見える。

 

 隣同士だと思っていた建物の間に、細い道があった。そこから、水際へ台車を押してくるロボットがいる。

 

 船が進むにつれ、その道は別の倉庫の陰に隠れた。

 

 頬へ、冷たい風が当たる。

 

 セイアは耳のそばの髪を押さえた。

 

 すぐ近くに、岸壁へ取りつけられた黒いタイヤが見える。

 

 濡れて光っているところと、乾いて白っぽくなったところがあった。

 

 その向こうに、また船の横腹。

 

 見上げる位置に小さな窓が並び、さらに上の甲板を、人影が一つ横切っていった。

 

 あの高さからは、こちらがどんなふうに見えるのだろう。

 

 端末を出し、船と、その足元の波を一緒に撮った。

 

 画面で確かめると、見上げた時ほど大きくは感じられなかった。

 

 もう一枚、縦に構えてみる。

 

 そこで、到着の案内が流れた。

 

 セイアは顔を上げた。

 

 もう、向こう岸の桟橋が近づいている。

 

「もう着くのかい」

 

 席のそばを通った係員が頷いた。

 

「ええ。下船は、着いてからゆっくりで大丈夫ですよ」

 

 工具箱の住民は、まだ座っていた。

 

 買い物のメモを書いていた客も、鉛筆をしまったところだった。

 

 セイアは端末を鞄へ戻した。

 

 写真を二枚撮っているうちに、渡れてしまった。

 

     ◇

 

 桟橋へ足を下ろし、岸に上がる。

 

 振り返ると、自分が乗っていた船の上で、係員が次の客を迎えていた。

 

 もう、戻る人が待っている。

 

 セイアはその列を避け、屋根の端にある時刻表を見た。

 

 午前の欄と、午後の欄。

 

 昼食を食べ、町を歩いてから乗れそうな便を一つ選ぶ。

 

 時刻表を端末に収めていると、先ほどの係員が声をかけてきた。

 

「お帰りも乗られます?」

 

「そのつもりだよ。車を置いてきたのでね」

 

「でしたら、こちらへ戻ってきてください。切符売り場は、すぐそこです」

 

「ありがとう」

 

 確かめてから、町の方へ向き直る。

 

 工具箱を持った住民は、もう道の先を歩いていた。

 

 手提げ袋の客は反対側へ曲がる。

 

 セイアは、食堂の文字が見える方へ進んだ。

 

     ◇

 

 道の両側に、小さな店が続いていた。

 

 軍手や長靴を並べた店。

 

 ガラス戸の内側に、洗剤と缶詰を積んだ店。

 

 自転車を店先へ出し、車輪を回している修理屋もあった。

 

 店の間から港が見える。

 

 けれど、歩くたびに水面が見えるわけではない。住居の入口や、裏返して干してある籠、閉じたシャッターも並んでいた。

 

 洗濯物が二階の窓から揺れている。

 

 下を通りかかったところで、揚げ物の匂いがした。

 

 セイアは歩みを緩めた。

 

 短い暖簾の脇に、黒板が出ている。

 

 焼き魚定食。

 

 アジフライ定食。

 

 その下には、カレーと、幾つかの単品料理。

 

 写真はなかった。

 

 店の奥から、油の弾ける音が聞こえてきた。

 

 セイアは暖簾を持ち上げた。

 

     ◇

 

「いらっしゃい。お一人ですか」

 

 犬の顔の主人が、調理場から顔を上げた。

 

 白い前掛けの裾を片手で押さえながら、空いている卓を示す。

 

「こちら、どうぞ」

 

 窓の近くの、小さな卓だった。

 

 セイアは椅子へ座り、鞄を隣に置いた。

 

 窓から見えるのは向かいの店で、船は見えなかった。

 

 卓の端には箸立てと、ソースの瓶。

 

 壁にも、外と同じ献立が貼ってあった。

 

「お茶をどうぞ。今日は、アジがいいですよ」

 

「では、アジフライの定食をお願いするよ」

 

「はい。今、揚げますね」

 

 主人が調理場へ戻る。

 

 冷蔵庫の開く音がして、そのあとに、油の音が大きくなった。

 

 セイアは湯呑みを両手で持った。

 

 窓の外を、小さな荷台を引いたロボットが通っていく。

 

 店の奥では、先に来ていた二人が食事を終えようとしていた。一人が時計を見て、もう一人が最後の味噌汁を飲む。

 

「先、戻ってる」

 

「ああ」

 

 短く言い合い、片方だけが席を立った。

 

 残った客は慌てずに箸を置き、伝票を手に取る。

 

 セイアはお茶を一口飲んだ。

 

 揚げ物の音を聞いていると、昼食を決める前よりも腹が減った気がした。

 

     ◇

 

「お待たせしました」

 

 盆が置かれる。

 

 白い皿に、アジフライが二枚。

 

 こんがりと色づいた衣の脇に、細く切ったキャベツが盛られている。小鉢には青菜と油揚げ。漬物は、小さな皿に二切れずつ。

 

 ご飯と味噌汁から、湯気が上がっていた。

 

 セイアは端末を取り出した。

 

 盆が全部入るように、一枚だけ撮る。

 

 すぐにしまい、箸を手に取った。

 

「いただきます」

 

 アジフライの端へ箸を入れる。

 

 衣が、軽い音を立てて割れた。

 

 その下の身は白く、厚みがある。割ったところから細い湯気が抜け、衣の内側がしっとりと光った。

 

 小さく分けて、口へ運ぶ。

 

 表面はさくりとしていた。

 

 噛むと、やわらかな身がほどける。

 

 揚げた油の香りのあとに、魚の味が残った。

 

 セイアは、すぐにご飯を一口食べた。

 

 もう一度、フライを見る。

 

 二枚ある。

 

 先ほど盆が置かれた時には、ただ数を見ただけだった。

 

 今は、その二枚が嬉しかった。

 

 ソースをかけ、次の一口へ箸を入れる。

 

 衣へ染みたところが濃くなり、酸味のある香りが立った。

 

 魚とご飯を続けて食べ、味噌汁の椀を持つ。

 

 中には豆腐と葱が入っていた。

 

 葱の青いところを箸で寄せ、汁を飲む。

 

 潮風に当たっていた顔へ、湯気が触れた。

 

     ◇

 

 店の扉が開いた。

 

 袖をまくった住民が二人、入ってくる。

 

「まだ、焼き魚ある?」

 

「ありますよ。いつもの?」

 

「うん。それで」

 

 主人は返事をしながら、空いた卓を拭いた。

 

 セイアはキャベツへ箸を伸ばす。

 

 細い葉が、思っていたよりも歯ごたえを残していた。

 

 小鉢の青菜は冷たく、油揚げを噛むと煮汁が出た。

 

 皿の上のものを食べている間も、調理場から音が続く。

 

 フライを揚げる音。

 

 鍋の蓋を置く音。

 

 器同士が触れる音。

 

 向かいの店のシャッターが下りる音だけが、その中へ大きく入り込んだ。

 

 窓の外を見ると、ガラス戸に昼休みの札が掛かっている。

 

 壁の時計は、正午を過ぎていた。

 

「お茶、足しましょうか」

 

「お願いするよ」

 

 湯呑みを卓の手前へ寄せる。

 

 主人はお茶を注ぎ、隣の客へも同じように声をかけた。

 

 セイアは、残っていたフライを食べた。

 

 尾に近い衣は、最初に食べたところよりも薄く、よく揚がっている。

 

 最後のご飯を口へ運び、箸を置いた。

 

 皿には尾と、細かな衣だけが残った。

 

     ◇

 

「ごちそうさま。よい昼食だったよ」

 

 会計のところで伝えると、主人は目を細めた。

 

「ありがとうございます。午後もお仕事ですか?」

 

「いや、観光だよ。もう少し、船を眺めていこうと思っている」

 

「船を?」

 

「ああ。向こうから渡ってきたのだけれど、乗っている間は、あまりゆっくり見られなくてね」

 

「近いですからねえ」

 

 主人は笑い、店の外へ目を向けた。

 

「それなら、表の角を曲がって、まっすぐ行ったところがよく見えますよ。ベンチもありますから」

 

「ここから近いかな」

 

「すぐです。飲み物も売っていますよ」

 

「ありがとう。行ってみるよ」

 

 釣り銭を受け取り、財布をしまう。

 

 暖簾を出ると、揚げ物の匂いが後ろへ残った。

 

 教わった角へ向かいながら、一度、店を振り返る。

 

 黒板のアジフライの文字の上に、暖簾の影が揺れていた。

 

     ◇

 

 曲がり角の店には、長さも太さも違う縄が並んでいた。

 

 輪に巻かれたもの。

 

 束ねて、棚へ重ねたもの。

 

 隣には大きな刷毛と、蓋の閉じた塗料の缶があった。

 

 戸口に立っていたロボットが、セイアを見る。

 

 セイアは軽く会釈をし、その前を通った。

 

 次の建物を過ぎると、また水面が見えた。

 

 岸沿いに、小さな広場がある。

 

 手すりに向かってベンチが幾つか並び、端には自動販売機が置かれていた。

 

 セイアは冷たいお茶を一本買った。

 

 取り出し口から持ち上げると、缶の表面が指に冷たかった。

 

 ちょうど日陰になっているベンチを選ぶ。

 

 腰を下ろしてから、正面を見た。

 

 朝、建物の間から見えた青い船が、そこにいた。

 

     ◇

 

 この岸からは、船の側面がよく見えた。

 

 長い青い横腹。

 

 その上に並ぶ、四角い積み荷。

 

 白い建物のような部分には、階段が何段も重なっている。

 

 朝、車から見た時には、その上の方だけを見ていたのだと分かった。

 

 セイアは缶を開けた。

 

 乾いた音がして、飲み口が開く。

 

 お茶を一口飲んで、膝に置いた。

 

 大きな船のそばを、小さな船が動いていた。

 

 黒い縁取りのある船で、後ろに白い波を広げている。

 

 いったん離れたかと思うと、また近くへ戻っていく。

 

 大きな船の方は、動いていないように見えた。

 

 セイアはしばらく、その組み合わせを眺めていた。

 

 遠くから、金属を叩く音が届く。

 

 音のした方へ顔を向けると、隣のベンチで袋を開けていた住民も、同じ方を見ていた。

 

 すぐに、その住民は袋へ目を戻した。

 

 セイアも、船へ視線を戻す。

 

 白い建物が見えていた。

 

 船の向こう側にある、陸の建物だった。

 

 さっきまでは、角しか見えていなかったはずだ。

 

 手すりの柱と、船の端を見比べる。

 

 少しずつ、隙間が広がっていた。

 

「……動いていたのだね」

 

 セイアは缶を持ち直した。

 

 船の向きが変わるにつれて、それまで横へ長く見えていた形が、ゆっくりと短くなっていく。

 

 船首の曲線が見えた。

 

 水面には、船の青い色が大きく揺れている。

 

 もう少し、こちらを向くのだろうか。

 

 そう思ったところで、汽笛が鳴った。

 

 低く、長い音だった。

 

 セイアは思わず背を伸ばした。

 

 胸の辺りまで響いた気がした。

 

 手に持った缶も、微かに震えたように感じる。

 

 音が遠くへ伸び、消えてからも、しばらく船を見ていた。

 

     ◇

 

 端末を取り出した。

 

 船を画面へ収めようとする。

 

 船首を入れると、船尾が切れた。

 

 少し引いてみる。

 

 今度は、画面の端に自動販売機が大きく入った。

 

 セイアは座ったまま、端末を持つ手を横へ動かした。

 

 あまり変わらなかった。

 

「こちらからでは、難しいかな」

 

 缶を鞄の横へ置き、立ち上がる。

 

 横へ数歩移動し、もう一度構えた。

 

 ようやく、船の前と後ろが一緒に入る。

 

 一枚撮った。

 

 画面を確かめている間に、船の向きがまた変わった。

 

 今度は白い部分の正面も見える。

 

 もう一枚。

 

 小さな船が横を通り、長い波を残した。

 

 それも入れて撮ってみる。

 

 端末を下ろした時、船首の前にあった水面が、さっきより広くなっていた。

 

 セイアは、そのまま手すりのところで眺めた。

 

 大きな船のそばにいた小さな船が、少しずつ離れていく。

 

 青い横腹の向こうから、岸の景色が現れた。

 

 屋根。

 

 窓。

 

 並んだ車。

 

 船に隠れていた場所にも、道が続いていた。

 

     ◇

 

 ベンチへ戻って、お茶を飲んだ。

 

 ぬるくなっていた。

 

 セイアは缶を見て、それから、遠くなった船を見る。

 

 買った時には、手が冷たくなるほどだった。

 

 端末で時刻を確かめた。

 

 思っていたよりも、長く眺めていたらしい。

 

 帰りの便には、まだ余裕がある。

 

 残りのお茶を飲み、背もたれへ体を預けた。

 

 広場の前を、買い物袋を持った客が通る。

 

 白い袋から、長い葱がのぞいていた。

 

 行きの船で、メモを広げていた客だった。

 

 セイアはこちらから軽く頭を下げた。

 

 相手は一瞬だけ目を丸くして、それから同じように会釈を返す。

 

 そのまま、渡船乗り場の方へ歩いていった。

 

 セイアは鞄を膝へ戻した。

 

 空になった缶を分別箱へ入れ、ベンチの周りに忘れ物がないか確かめる。

 

 立ち上がって見ると、船はもう、端末を横へ向けなくても写真に収まりそうな大きさになっていた。

 

 今度は撮らず、その姿を一度見てから、広場を出た。

 

     ◇

 

 来た道を、乗り場へ戻った。

 

 昼休みの札を掛けていた店は、もう戸を開けていた。

 

 縄の並んだ店の前には、先ほどなかった荷物が置かれている。

 

 店員のロボットが箱を一つ持ち上げ、奥へ運んだ。

 

 セイアは、その横を通った。

 

 食堂の黒板も見えた。

 

 暖簾は出たままだったが、ガラス越しに見える席は、昼よりも空いている。

 

 主人が卓を拭いていた。

 

 こちらに気づいたので、セイアは手を小さく上げた。

 

 主人も、布巾を持っていない方の手を上げた。

 

 セイアはそのまま歩き、角を曲がった。

 

 乗り場の屋根が見える。

 

 桟橋には、船がまだ来ていなかった。

 

     ◇

 

 切符を買って、屋根の下へ入る。

 

 朝、工具箱を抱えていた住民が、柱のそばに立っていた。

 

 今は上着を脱いで、腕に掛けている。

 

 工具箱の取っ手には、青い布。

 

 セイアが近くへ並ぶと、住民は会釈をした。

 

「朝も、ご一緒でしたね」

 

「ああ。向こうから来る時に」

 

「もうお帰りですか」

 

「うん。昼食を食べて、船を見ていたところだよ。君も、仕事は終わりかな」

 

「こっちはね。戻って、道具を片づけたら終わりです」

 

 工具箱を持ち上げる。

 

 中で何かが、かちゃりと鳴った。

 

 セイアは頷いた。

 

 買い物を終えた客も、少し離れたところに立っている。

 

 今度はメモを見ていなかった。

 

 手提げ袋を両手で持ち、足元へ置いている。

 

 その向こうの水面を、白い船が横切った。

 

 セイアの乗る渡船だった。

 

 行きには見ていなかった側面が見える。

 

 入口に立つ係員の紺色の上着が、小さく分かった。

 

     ◇

 

 船が着いても、すぐには列が動かなかった。

 

 係員が通路を整え、降りる客を先に通す。

 

 大きな袋を持った客が一人、ゆっくりと岸へ上がってきた。

 

 その後ろに、何人か続いた。

 

 最後の客が通り過ぎてから、工具箱の住民が歩き始める。

 

 セイアも、その後ろへ続いた。

 

「どうでした、向こうは」

 

 切符を渡すと、係員が尋ねた。

 

「昼の定食がよかったよ。アジフライを食べてきた」

 

「角の、短い暖簾の店ですか?」

 

「そう。ご主人に、船の見えるところも教えてもらった」

 

「ああ、あの店。私は焼き魚を頼みますね」

 

「それは、乗る前に聞いておきたかったな」

 

 係員が小さく肩を揺らした。

 

「フライも、いいですよ」

 

「ああ。それは、よく分かった」

 

 セイアも笑い、船へ乗った。

 

     ◇

 

 帰りは、行きと反対側の席へ座った。

 

 鞄を膝に置く。

 

 買い物袋の客は、葱が通路へはみ出さないように袋を回していた。

 

 工具箱は、また足元へ。

 

 皆が落ち着いたところで、船が岸を離れた。

 

 振動が、靴の底から伝わってくる。

 

 セイアは岸を見た。

 

 屋根の下の時刻表が遠ざかる。

 

 その脇の道。

 

 日用品の店の看板。

 

 もう少し奥に、低い屋根が重なっている。

 

 セイアは、その一つを目で追った。

 

 食堂の屋根だった。

 

 道を曲がる時に見た、端の細い雨樋が分かる。

 

 窓の向きも、座っていた卓の位置も、今ならおおよそ分かった。

 

 端末へ手をかけた。

 

 けれど、取り出す前に、船が向きを変えた。

 

 屋根の向こうへ、別の倉庫が重なる。

 

 セイアは鞄の口を閉じ、そのまま見ていた。

 

 食堂の屋根が、端から少しずつ隠れていく。

 

 最後に雨樋が見えなくなった。

 

 セイアは視線を前へ戻した。

 

     ◇

 

 青い大きな船は、もう近くにはいなかった。

 

 行きにその船が見えていた場所には、岸壁と、作業する車が見える。

 

 同じ港を通っているのに、今度は奥まで見通せた。

 

 手すりへ片手を置く。

 

 潮風が、袖口へ入り込んだ。

 

 工具箱を持った住民は、目を閉じていた。

 

 その横で、買い物袋の客がパンの包みを押さえる。

 

 袋から飛び出しかけていた紙が、手の下に収まった。

 

 船の先に、出発した側の町が近づいてきた。

 

 白いロードスターを停めた駐車場は、ここからは見えない。

 

 けれど、駐車場へ曲がる角の建物は分かった。

 

 セイアは、そこから乗り場まで歩いてきた道を目でたどった。

 

 到着の案内が流れる。

 

 今度は、端末をしまう必要もなかった。

 

 船が止まり、係員が声をかけるまで、座って待った。

 

     ◇

 

 降りた岸には、次の客が並んでいた。

 

 小さな台車を押すロボット。

 

 封筒を抱えた住民。

 

 鞄を肩へ掛け、端末を見ている生徒。

 

 セイアは列の脇を通り、岸へ上がった。

 

 工具箱の住民は、近くに停めた小さな車へ歩いていった。

 

 買い物袋の客は、別の道へ。

 

 背後で、係員が次の客へ声をかけていた。

 

「その荷物はこちらへどうぞ」

 

 セイアは一度振り返った。

 

 朝、自分が座った席へ、別の客が腰を下ろすところだった。

 

 鞄の中を確かめ、車の鍵を取り出す。

 

 指先に、硬い金属が触れた。

 

     ◇

 

 駐車場に戻ると、白いボンネットに日が当たっていた。

 

 隣に停まっていた車は、朝とは違っている。

 

 セイアは鞄を車内へ置き、運転席に座った。

 

 窓を開ける。

 

 港の音が、また近くなった。

 

 端末を取り出し、ナギサとミカへ送る写真を選ぶ。

 

 アジフライの定食は、すぐに見つかった。

 

 その後ろには、青い船が続いていた。

 

 一枚。

 

 次も、同じ船。

 

 さらに次には、小さな船も一緒に写っている。

 

 画面を指で送るたび、青い船の向きが変わった。船首が少しずつ端へ進み、向こう岸の白い建物が広く見えるようになっていく。

 

 セイアは、最初の一枚へ戻った。

 

 自動販売機が、端に大きく写っていた。

 

「……これは、送らなくてもよいかな」

 

 笑って、次の写真を選ぶ。

 

 船の全体が入ったものを一枚。

 

 それから、昼の定食。

 

『これから帰るよ。昼食も美味しかった。』

 

 写真を添えて送った。

 

     ◇

 

 帰り道を確かめている間に、返信が来た。

 

『船、大きい! これに乗ったの?』

 

 ミカからだった。

 

 セイアは、写真をもう一度見た。

 

 確かに、船の写真だけを見れば、そう思うかもしれない。

 

『乗ったのは、もっと小さい船だよ。向こう岸まで渡ってきた。』

 

『車は?』

 

『港に置いていった。今はもう、車に戻っているよ。』

 

 送ると、続いてナギサから届いた。

 

『承知しました。どうぞお気をつけて。』

 

 セイアは短く返事をし、端末をしまった。

 

 窓の向こうで、船が動いている。

 

 さっき降りた、小さな渡船だった。

 

 もう次の客を乗せて、向こう岸へ進んでいく。

 

 セイアはその姿を見送った。

 

 船が倉庫の陰へ入る。

 

 鞄の口を閉じ、シートベルトを引いた。

 

 エンジンをかける。

 

 聞き慣れた音が、足元から戻ってきた。

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