建物の間から、船が見えた。
交差点の先にある倉庫よりも、ずっと高い。青い横腹の上に白い構造物が重なり、その窓が、朝の光を細かく返していた。
百合園セイアは、信号が変わるのを待ちながら、そちらへ目を向けた。
鐘崎港第1埠頭。
信号のそばの表示を確かめ、前の車に続いてゆっくり進む。
大きな船は、一度、建物の陰へ消えた。
◇
駐車場でエンジンを止めると、外の音が近くなった。
トラックの低い音。
どこかで金属を置く音。
車を降りたところへ、風が通る。潮の匂いに、乾いた埃と、温まった道路の匂いが混じっていた。
セイアは鞄を肩へ掛け直した。
今日は、港を歩いてみるつもりで来た。
船を眺め、近くで昼食を食べる。帰りは夕方までに。ナギサとミカにも、そう伝えてある。
出発する時、ミカに何を食べるのかと聞かれた。
その時には、まだ決めていないと答えた。
今も、決まっていなかった。
車の鍵を鞄の内側へ収め、駐車券は別の小さなポケットに入れる。
入口の表示を振り返り、周りの建物と一緒に覚えた。
すぐ近くの道を、荷物を積んだトラックが曲がっていく。
その後ろが空くのを待ってから、セイアは歩き出した。
◇
岸沿いの道に出ると、空が広がった。
対岸には、低い建物が並んでいる。
その奥にクレーン。手前には、岸壁に沿って停まった船が何隻も見えた。
水面は、遠くから見るほど平らではなかった。
小さな波が幾つも重なり、柱の根元へ当たって、短い音を立てる。
セイアは手すりの前で足を止めた。
先ほど見えた青い船を探す。
ここからは、その後ろ半分が見えた。船尾には白い文字が書かれているが、少し遠くて読めない。
もう少し先へ行けば、全体が見えるだろうか。
そう思って歩き出した時、脇の細い道から、一人の住民が出てきた。
青い作業着を着た、犬の顔の住民だった。
片手に金属の工具箱を提げ、迷いのない足取りで、低い屋根の下へ入っていく。
その後ろを、畳んだ手提げ袋を持った別の客が続いた。
屋根の下には、時刻表があった。
水面へ向かって、緩やかな通路が延びている。
その先に、小さな船が停まっていた。
◇
船の入口には、紺色の上着を着た、犬の顔の係員が立っていた。
工具箱を持った客が切符を見せる。
係員は片手を上げ、そのまま通した。
セイアは、屋根の下の案内を見た。
渡船。
向こう岸までの切符を売っているらしい。
窓口へ近づくと、中にいた係員のロボットがこちらを向いた。
「これには、私も乗れるのかな」
「ええ。次の便、まだ間に合いますよ」
「遊覧船ではないのだね」
「向こうへ渡るだけです。あそこの屋根が見えるでしょう」
窓口の係員が、水の向こうを指さした。
倉庫よりも手前に、小さな屋根が一つある。
さっきから見えていたものだった。
「あちらで一度降りていただきます。戻ってくるなら、切符は向こうで買えますから」
「分かった。では、一人分お願いするよ」
小銭を出し、切符を受け取った。
厚みのある、小さな紙だった。
車を置いてきた駐車場の方へ、一度だけ目を向ける。
歩いて港を見るつもりだったが、水の上からでもよさそうだった。
セイアは切符を持ち、通路へ進んだ。
◇
船へ足を移すと、床がわずかに動いた。
手すりに触れ、もう一歩進む。
船内には、背もたれのある席が並んでいた。その後ろには、外の風に当たれる場所もある。
セイアは、外側の席を選んだ。
鞄を膝に載せる。
先に乗った作業着の住民は、工具箱を足元へ下ろしていた。取っ手に青い布を結びつけてある。
手提げ袋の客は、折った紙を広げ、鉛筆で何かを書き足していた。
パン。
その下の文字は、手に隠れて読めなかった。
乗船口で係員が周りを確かめる。
短い案内が流れた。
床から伝わる振動が変わる。
岸壁が、ゆっくりと横へ動き始めた。
セイアは背もたれから体を起こした。
◇
船が岸から離れると、倉庫の並びがよく見えた。
陸を歩いていた時には、壁と、門と、その前を通る車ばかりが目に入っていた。
今は、屋根の傾きまで見える。
隣同士だと思っていた建物の間に、細い道があった。そこから、水際へ台車を押してくるロボットがいる。
船が進むにつれ、その道は別の倉庫の陰に隠れた。
頬へ、冷たい風が当たる。
セイアは耳のそばの髪を押さえた。
すぐ近くに、岸壁へ取りつけられた黒いタイヤが見える。
濡れて光っているところと、乾いて白っぽくなったところがあった。
その向こうに、また船の横腹。
見上げる位置に小さな窓が並び、さらに上の甲板を、人影が一つ横切っていった。
あの高さからは、こちらがどんなふうに見えるのだろう。
端末を出し、船と、その足元の波を一緒に撮った。
画面で確かめると、見上げた時ほど大きくは感じられなかった。
もう一枚、縦に構えてみる。
そこで、到着の案内が流れた。
セイアは顔を上げた。
もう、向こう岸の桟橋が近づいている。
「もう着くのかい」
席のそばを通った係員が頷いた。
「ええ。下船は、着いてからゆっくりで大丈夫ですよ」
工具箱の住民は、まだ座っていた。
買い物のメモを書いていた客も、鉛筆をしまったところだった。
セイアは端末を鞄へ戻した。
写真を二枚撮っているうちに、渡れてしまった。
◇
桟橋へ足を下ろし、岸に上がる。
振り返ると、自分が乗っていた船の上で、係員が次の客を迎えていた。
もう、戻る人が待っている。
セイアはその列を避け、屋根の端にある時刻表を見た。
午前の欄と、午後の欄。
昼食を食べ、町を歩いてから乗れそうな便を一つ選ぶ。
時刻表を端末に収めていると、先ほどの係員が声をかけてきた。
「お帰りも乗られます?」
「そのつもりだよ。車を置いてきたのでね」
「でしたら、こちらへ戻ってきてください。切符売り場は、すぐそこです」
「ありがとう」
確かめてから、町の方へ向き直る。
工具箱を持った住民は、もう道の先を歩いていた。
手提げ袋の客は反対側へ曲がる。
セイアは、食堂の文字が見える方へ進んだ。
◇
道の両側に、小さな店が続いていた。
軍手や長靴を並べた店。
ガラス戸の内側に、洗剤と缶詰を積んだ店。
自転車を店先へ出し、車輪を回している修理屋もあった。
店の間から港が見える。
けれど、歩くたびに水面が見えるわけではない。住居の入口や、裏返して干してある籠、閉じたシャッターも並んでいた。
洗濯物が二階の窓から揺れている。
下を通りかかったところで、揚げ物の匂いがした。
セイアは歩みを緩めた。
短い暖簾の脇に、黒板が出ている。
焼き魚定食。
アジフライ定食。
その下には、カレーと、幾つかの単品料理。
写真はなかった。
店の奥から、油の弾ける音が聞こえてきた。
セイアは暖簾を持ち上げた。
◇
「いらっしゃい。お一人ですか」
犬の顔の主人が、調理場から顔を上げた。
白い前掛けの裾を片手で押さえながら、空いている卓を示す。
「こちら、どうぞ」
窓の近くの、小さな卓だった。
セイアは椅子へ座り、鞄を隣に置いた。
窓から見えるのは向かいの店で、船は見えなかった。
卓の端には箸立てと、ソースの瓶。
壁にも、外と同じ献立が貼ってあった。
「お茶をどうぞ。今日は、アジがいいですよ」
「では、アジフライの定食をお願いするよ」
「はい。今、揚げますね」
主人が調理場へ戻る。
冷蔵庫の開く音がして、そのあとに、油の音が大きくなった。
セイアは湯呑みを両手で持った。
窓の外を、小さな荷台を引いたロボットが通っていく。
店の奥では、先に来ていた二人が食事を終えようとしていた。一人が時計を見て、もう一人が最後の味噌汁を飲む。
「先、戻ってる」
「ああ」
短く言い合い、片方だけが席を立った。
残った客は慌てずに箸を置き、伝票を手に取る。
セイアはお茶を一口飲んだ。
揚げ物の音を聞いていると、昼食を決める前よりも腹が減った気がした。
◇
「お待たせしました」
盆が置かれる。
白い皿に、アジフライが二枚。
こんがりと色づいた衣の脇に、細く切ったキャベツが盛られている。小鉢には青菜と油揚げ。漬物は、小さな皿に二切れずつ。
ご飯と味噌汁から、湯気が上がっていた。
セイアは端末を取り出した。
盆が全部入るように、一枚だけ撮る。
すぐにしまい、箸を手に取った。
「いただきます」
アジフライの端へ箸を入れる。
衣が、軽い音を立てて割れた。
その下の身は白く、厚みがある。割ったところから細い湯気が抜け、衣の内側がしっとりと光った。
小さく分けて、口へ運ぶ。
表面はさくりとしていた。
噛むと、やわらかな身がほどける。
揚げた油の香りのあとに、魚の味が残った。
セイアは、すぐにご飯を一口食べた。
もう一度、フライを見る。
二枚ある。
先ほど盆が置かれた時には、ただ数を見ただけだった。
今は、その二枚が嬉しかった。
ソースをかけ、次の一口へ箸を入れる。
衣へ染みたところが濃くなり、酸味のある香りが立った。
魚とご飯を続けて食べ、味噌汁の椀を持つ。
中には豆腐と葱が入っていた。
葱の青いところを箸で寄せ、汁を飲む。
潮風に当たっていた顔へ、湯気が触れた。
◇
店の扉が開いた。
袖をまくった住民が二人、入ってくる。
「まだ、焼き魚ある?」
「ありますよ。いつもの?」
「うん。それで」
主人は返事をしながら、空いた卓を拭いた。
セイアはキャベツへ箸を伸ばす。
細い葉が、思っていたよりも歯ごたえを残していた。
小鉢の青菜は冷たく、油揚げを噛むと煮汁が出た。
皿の上のものを食べている間も、調理場から音が続く。
フライを揚げる音。
鍋の蓋を置く音。
器同士が触れる音。
向かいの店のシャッターが下りる音だけが、その中へ大きく入り込んだ。
窓の外を見ると、ガラス戸に昼休みの札が掛かっている。
壁の時計は、正午を過ぎていた。
「お茶、足しましょうか」
「お願いするよ」
湯呑みを卓の手前へ寄せる。
主人はお茶を注ぎ、隣の客へも同じように声をかけた。
セイアは、残っていたフライを食べた。
尾に近い衣は、最初に食べたところよりも薄く、よく揚がっている。
最後のご飯を口へ運び、箸を置いた。
皿には尾と、細かな衣だけが残った。
◇
「ごちそうさま。よい昼食だったよ」
会計のところで伝えると、主人は目を細めた。
「ありがとうございます。午後もお仕事ですか?」
「いや、観光だよ。もう少し、船を眺めていこうと思っている」
「船を?」
「ああ。向こうから渡ってきたのだけれど、乗っている間は、あまりゆっくり見られなくてね」
「近いですからねえ」
主人は笑い、店の外へ目を向けた。
「それなら、表の角を曲がって、まっすぐ行ったところがよく見えますよ。ベンチもありますから」
「ここから近いかな」
「すぐです。飲み物も売っていますよ」
「ありがとう。行ってみるよ」
釣り銭を受け取り、財布をしまう。
暖簾を出ると、揚げ物の匂いが後ろへ残った。
教わった角へ向かいながら、一度、店を振り返る。
黒板のアジフライの文字の上に、暖簾の影が揺れていた。
◇
曲がり角の店には、長さも太さも違う縄が並んでいた。
輪に巻かれたもの。
束ねて、棚へ重ねたもの。
隣には大きな刷毛と、蓋の閉じた塗料の缶があった。
戸口に立っていたロボットが、セイアを見る。
セイアは軽く会釈をし、その前を通った。
次の建物を過ぎると、また水面が見えた。
岸沿いに、小さな広場がある。
手すりに向かってベンチが幾つか並び、端には自動販売機が置かれていた。
セイアは冷たいお茶を一本買った。
取り出し口から持ち上げると、缶の表面が指に冷たかった。
ちょうど日陰になっているベンチを選ぶ。
腰を下ろしてから、正面を見た。
朝、建物の間から見えた青い船が、そこにいた。
◇
この岸からは、船の側面がよく見えた。
長い青い横腹。
その上に並ぶ、四角い積み荷。
白い建物のような部分には、階段が何段も重なっている。
朝、車から見た時には、その上の方だけを見ていたのだと分かった。
セイアは缶を開けた。
乾いた音がして、飲み口が開く。
お茶を一口飲んで、膝に置いた。
大きな船のそばを、小さな船が動いていた。
黒い縁取りのある船で、後ろに白い波を広げている。
いったん離れたかと思うと、また近くへ戻っていく。
大きな船の方は、動いていないように見えた。
セイアはしばらく、その組み合わせを眺めていた。
遠くから、金属を叩く音が届く。
音のした方へ顔を向けると、隣のベンチで袋を開けていた住民も、同じ方を見ていた。
すぐに、その住民は袋へ目を戻した。
セイアも、船へ視線を戻す。
白い建物が見えていた。
船の向こう側にある、陸の建物だった。
さっきまでは、角しか見えていなかったはずだ。
手すりの柱と、船の端を見比べる。
少しずつ、隙間が広がっていた。
「……動いていたのだね」
セイアは缶を持ち直した。
船の向きが変わるにつれて、それまで横へ長く見えていた形が、ゆっくりと短くなっていく。
船首の曲線が見えた。
水面には、船の青い色が大きく揺れている。
もう少し、こちらを向くのだろうか。
そう思ったところで、汽笛が鳴った。
低く、長い音だった。
セイアは思わず背を伸ばした。
胸の辺りまで響いた気がした。
手に持った缶も、微かに震えたように感じる。
音が遠くへ伸び、消えてからも、しばらく船を見ていた。
◇
端末を取り出した。
船を画面へ収めようとする。
船首を入れると、船尾が切れた。
少し引いてみる。
今度は、画面の端に自動販売機が大きく入った。
セイアは座ったまま、端末を持つ手を横へ動かした。
あまり変わらなかった。
「こちらからでは、難しいかな」
缶を鞄の横へ置き、立ち上がる。
横へ数歩移動し、もう一度構えた。
ようやく、船の前と後ろが一緒に入る。
一枚撮った。
画面を確かめている間に、船の向きがまた変わった。
今度は白い部分の正面も見える。
もう一枚。
小さな船が横を通り、長い波を残した。
それも入れて撮ってみる。
端末を下ろした時、船首の前にあった水面が、さっきより広くなっていた。
セイアは、そのまま手すりのところで眺めた。
大きな船のそばにいた小さな船が、少しずつ離れていく。
青い横腹の向こうから、岸の景色が現れた。
屋根。
窓。
並んだ車。
船に隠れていた場所にも、道が続いていた。
◇
ベンチへ戻って、お茶を飲んだ。
ぬるくなっていた。
セイアは缶を見て、それから、遠くなった船を見る。
買った時には、手が冷たくなるほどだった。
端末で時刻を確かめた。
思っていたよりも、長く眺めていたらしい。
帰りの便には、まだ余裕がある。
残りのお茶を飲み、背もたれへ体を預けた。
広場の前を、買い物袋を持った客が通る。
白い袋から、長い葱がのぞいていた。
行きの船で、メモを広げていた客だった。
セイアはこちらから軽く頭を下げた。
相手は一瞬だけ目を丸くして、それから同じように会釈を返す。
そのまま、渡船乗り場の方へ歩いていった。
セイアは鞄を膝へ戻した。
空になった缶を分別箱へ入れ、ベンチの周りに忘れ物がないか確かめる。
立ち上がって見ると、船はもう、端末を横へ向けなくても写真に収まりそうな大きさになっていた。
今度は撮らず、その姿を一度見てから、広場を出た。
◇
来た道を、乗り場へ戻った。
昼休みの札を掛けていた店は、もう戸を開けていた。
縄の並んだ店の前には、先ほどなかった荷物が置かれている。
店員のロボットが箱を一つ持ち上げ、奥へ運んだ。
セイアは、その横を通った。
食堂の黒板も見えた。
暖簾は出たままだったが、ガラス越しに見える席は、昼よりも空いている。
主人が卓を拭いていた。
こちらに気づいたので、セイアは手を小さく上げた。
主人も、布巾を持っていない方の手を上げた。
セイアはそのまま歩き、角を曲がった。
乗り場の屋根が見える。
桟橋には、船がまだ来ていなかった。
◇
切符を買って、屋根の下へ入る。
朝、工具箱を抱えていた住民が、柱のそばに立っていた。
今は上着を脱いで、腕に掛けている。
工具箱の取っ手には、青い布。
セイアが近くへ並ぶと、住民は会釈をした。
「朝も、ご一緒でしたね」
「ああ。向こうから来る時に」
「もうお帰りですか」
「うん。昼食を食べて、船を見ていたところだよ。君も、仕事は終わりかな」
「こっちはね。戻って、道具を片づけたら終わりです」
工具箱を持ち上げる。
中で何かが、かちゃりと鳴った。
セイアは頷いた。
買い物を終えた客も、少し離れたところに立っている。
今度はメモを見ていなかった。
手提げ袋を両手で持ち、足元へ置いている。
その向こうの水面を、白い船が横切った。
セイアの乗る渡船だった。
行きには見ていなかった側面が見える。
入口に立つ係員の紺色の上着が、小さく分かった。
◇
船が着いても、すぐには列が動かなかった。
係員が通路を整え、降りる客を先に通す。
大きな袋を持った客が一人、ゆっくりと岸へ上がってきた。
その後ろに、何人か続いた。
最後の客が通り過ぎてから、工具箱の住民が歩き始める。
セイアも、その後ろへ続いた。
「どうでした、向こうは」
切符を渡すと、係員が尋ねた。
「昼の定食がよかったよ。アジフライを食べてきた」
「角の、短い暖簾の店ですか?」
「そう。ご主人に、船の見えるところも教えてもらった」
「ああ、あの店。私は焼き魚を頼みますね」
「それは、乗る前に聞いておきたかったな」
係員が小さく肩を揺らした。
「フライも、いいですよ」
「ああ。それは、よく分かった」
セイアも笑い、船へ乗った。
◇
帰りは、行きと反対側の席へ座った。
鞄を膝に置く。
買い物袋の客は、葱が通路へはみ出さないように袋を回していた。
工具箱は、また足元へ。
皆が落ち着いたところで、船が岸を離れた。
振動が、靴の底から伝わってくる。
セイアは岸を見た。
屋根の下の時刻表が遠ざかる。
その脇の道。
日用品の店の看板。
もう少し奥に、低い屋根が重なっている。
セイアは、その一つを目で追った。
食堂の屋根だった。
道を曲がる時に見た、端の細い雨樋が分かる。
窓の向きも、座っていた卓の位置も、今ならおおよそ分かった。
端末へ手をかけた。
けれど、取り出す前に、船が向きを変えた。
屋根の向こうへ、別の倉庫が重なる。
セイアは鞄の口を閉じ、そのまま見ていた。
食堂の屋根が、端から少しずつ隠れていく。
最後に雨樋が見えなくなった。
セイアは視線を前へ戻した。
◇
青い大きな船は、もう近くにはいなかった。
行きにその船が見えていた場所には、岸壁と、作業する車が見える。
同じ港を通っているのに、今度は奥まで見通せた。
手すりへ片手を置く。
潮風が、袖口へ入り込んだ。
工具箱を持った住民は、目を閉じていた。
その横で、買い物袋の客がパンの包みを押さえる。
袋から飛び出しかけていた紙が、手の下に収まった。
船の先に、出発した側の町が近づいてきた。
白いロードスターを停めた駐車場は、ここからは見えない。
けれど、駐車場へ曲がる角の建物は分かった。
セイアは、そこから乗り場まで歩いてきた道を目でたどった。
到着の案内が流れる。
今度は、端末をしまう必要もなかった。
船が止まり、係員が声をかけるまで、座って待った。
◇
降りた岸には、次の客が並んでいた。
小さな台車を押すロボット。
封筒を抱えた住民。
鞄を肩へ掛け、端末を見ている生徒。
セイアは列の脇を通り、岸へ上がった。
工具箱の住民は、近くに停めた小さな車へ歩いていった。
買い物袋の客は、別の道へ。
背後で、係員が次の客へ声をかけていた。
「その荷物はこちらへどうぞ」
セイアは一度振り返った。
朝、自分が座った席へ、別の客が腰を下ろすところだった。
鞄の中を確かめ、車の鍵を取り出す。
指先に、硬い金属が触れた。
◇
駐車場に戻ると、白いボンネットに日が当たっていた。
隣に停まっていた車は、朝とは違っている。
セイアは鞄を車内へ置き、運転席に座った。
窓を開ける。
港の音が、また近くなった。
端末を取り出し、ナギサとミカへ送る写真を選ぶ。
アジフライの定食は、すぐに見つかった。
その後ろには、青い船が続いていた。
一枚。
次も、同じ船。
さらに次には、小さな船も一緒に写っている。
画面を指で送るたび、青い船の向きが変わった。船首が少しずつ端へ進み、向こう岸の白い建物が広く見えるようになっていく。
セイアは、最初の一枚へ戻った。
自動販売機が、端に大きく写っていた。
「……これは、送らなくてもよいかな」
笑って、次の写真を選ぶ。
船の全体が入ったものを一枚。
それから、昼の定食。
『これから帰るよ。昼食も美味しかった。』
写真を添えて送った。
◇
帰り道を確かめている間に、返信が来た。
『船、大きい! これに乗ったの?』
ミカからだった。
セイアは、写真をもう一度見た。
確かに、船の写真だけを見れば、そう思うかもしれない。
『乗ったのは、もっと小さい船だよ。向こう岸まで渡ってきた。』
『車は?』
『港に置いていった。今はもう、車に戻っているよ。』
送ると、続いてナギサから届いた。
『承知しました。どうぞお気をつけて。』
セイアは短く返事をし、端末をしまった。
窓の向こうで、船が動いている。
さっき降りた、小さな渡船だった。
もう次の客を乗せて、向こう岸へ進んでいく。
セイアはその姿を見送った。
船が倉庫の陰へ入る。
鞄の口を閉じ、シートベルトを引いた。
エンジンをかける。
聞き慣れた音が、足元から戻ってきた。