百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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15.トリニティ外縁・菓子店の中庭 #菓子は放課後? #焼きたてのタルト #もう一杯だけ

 

 ナギサから声をかけられたのは、セイアが読み終えた書類を揃えているときだった。

 

「セイアさん。明日の午後は、何かご予定がありますか」

 

「今のところは空いているよ。どうしたんだい」

 

 ナギサは向かいの椅子へ座り、端末の画面をこちらへ向けた。

 

 小さな菓子店の写真だった。

 

 白い壁と、濃い緑の日除け。入口の横には、麦の穂をかたどった控えめな看板が付いている。

 

「こちらのお店、以前から気になっていたんです。ご一緒しませんか」

 

 住所はトリニティの外縁だった。

 

 地区の名は知っている。そこへ向かうバスの行先も、見かけたことがあった。けれど、この店の前を通った覚えはない。

 

「お菓子のほうは、知っているのかな」

 

「サブレをいただいたことがありまして。お店にも伺ってみたいと思っていたんです」

 

 ナギサは画面を指で送り、箱の写真を見せた。

 

 細い縞の入った紙箱に、丸い焼き菓子が並んでいる。

 

「なるほど。次のお茶会のために」

 

「まずは、私がいただく分を」

 

 返事はすぐだった。

 

 セイアは顔を上げる。

 

 ナギサも、口元に笑みを浮かべていた。

 

「では、今日は君の行きたいところから始めようか」

 

「明日です、セイアさん」

 

「おっと。楽しみが先に出てしまったね」

 

 机の上には、まだ片付けるものが残っている。

 

 セイアは書類を閉じて、引き出しへ収めた。

 

     ◇

 

 翌日は、昼食を済ませてから出かけた。

 

 ミカは別の約束で先に外へ出ている。二人も出かけると伝えると、楽しんできてね、という返事が届いていた。

 

 セイアは車の鍵を机に残し、小さな鞄を持った。

 

 店の近くまで、バスで行ける。

 

 停留所で待っていたナギサは、軽い上着を腕にかけていた。

 

「お待たせ」

 

「いえ。私も今、来たところです」

 

 道路の向こうから、行先を表示したバスが近づいてくる。

 

 扉が開くと、先に買い物袋を提げた犬の住民が降りてきた。二人は道を空けてから乗り込む。

 

 窓際に並んで座れる席が空いていた。

 

 ナギサが窓側へ、セイアがその隣へ座る。

 

「車でなくてよかったのかい」

 

「…はい。こちらのほうが、降りてから歩く道も分かりやすそうでしたので」

 

 端末の地図を見せながら、ナギサが言う。

 

 停留所から店までは、交差点を一つ曲がるだけだった。

 

「それなら、私にも覚えられそうだ」

 

「帰りには、私より詳しくなっているかもしれませんね」

 

 バスが動き出す。

 

 いつもの校舎が窓の後ろへ流れていった。

 

     ◇

 

 建物の間隔が、少しずつ広がる。

 

 正面の門構えまでよく見える施設の隣に、低い住宅が並んでいた。花の鉢が置かれた階段。窓の内側に掛かった薄いカーテン。駐輪場で鞄を探っている生徒。

 

 バスは何度か停まり、そのたびに乗客が入れ替わる。

 

 セイアの膝の上では、鞄がほとんど重さを主張しなかった。

 

 泊まるためのものも、移動の途中で読む本も入れていない。

 

 隣でナギサが、窓の外を見ながら言った。

 

「あちらにも、お店がありますね」

 

 指の先には、細長い軒先に鉢を並べた店があった。

 

 大きな葉の影に、黄色い花が隠れている。

 

「帰りに見てみるかい」

 

「場所だけ、覚えておこうと思います。今日はまず、あちらのお店へ」

 

「うん。私も、そろそろ香りを確かめたくなってきたよ」

 

 昼食から、それほど時間は経っていない。

 

 それでも、焼き菓子の写真をもう一度見るくらいの余裕はあった。

 

 ナギサが端末を差し出す。

 

 二人で画面を覗いていると、次の停留所を告げる声が聞こえた。

 

     ◇

 

 バスを降りると、音が遠くなった。

 

 車道を走るエンジンの音はまだ聞こえる。けれど、交差点を曲がると、代わりにどこかで箒を動かす音がした。

 

 軒先を掃いていたロボットが顔を上げ、二人へ会釈する。

 

 ナギサも軽く頭を下げた。

 

 道沿いには、住宅と小さな店が交互に並んでいた。食料品店の前では、空の箱を積んだ台車が止まっている。隣の窓には、直した服を受け取るよう知らせる小さな札が貼ってあった。

 

 セイアは歩調を緩める。

 

 写真で見た緑の日除けは、次の建物の向こうにあった。

 

 近づくと、奥から甘い香りが流れてくる。

 

 バターを焼いた香りだった。

 

 その上に、果物の温かな甘さが重なっている。

 

「こちらです」

 

「地図より先に分かったよ」

 

 ナギサが端末をしまう。

 

 入口のガラス越しに、菓子の並ぶ棚が見えた。

 

     ◇

 

 扉を開けると、小さな鈴が鳴った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 白い前掛けをつけた犬の店員が、包みかけの箱から顔を上げる。

 

 店内は、写真から想像したより奥行きがあった。

 

 正面の棚には紙箱。窓の下には、一つずつ包まれた焼き菓子。ガラスのケースには、クリームを挟んだ小さなケーキが並んでいる。

 

 ナギサは、丸いサブレの入った箱を見つけて足を止めた。

 

「これです。以前いただいたのは」

 

「お店で見ると、隣のものも気になるね」

 

 セイアは、その横の細長い焼き菓子を見る。

 

 表面に、薄く砂糖のかかったものがあった。

 

「お持ち帰りですか。それとも、奥でお召し上がりになりますか」

 

 店員が尋ねる。

 

 ナギサは店の奥へ目を向けた。

 

「お席があるのですか」

 

「はい。中庭にございます。今でしたら、お二人のお席が空いておりますよ」

 

 棚と壁の間に、細い通路が延びていた。

 

 その先だけ、明るい。

 

 セイアとナギサは顔を見合わせる。

 

「お茶もいただけるようだね」

 

「ええ。ぜひ、お願いできますか」

 

 店員が、奥へどうぞと手を差し出した。

 

     ◇

 

 通路を抜けると、頭の上に空があった。

 

 四方を建物に囲まれた、小さな庭だった。

 

 壁際には鉢が並び、一方の柱に蔓が沿っている。丸い石を敷いた場所と、歩くための平らな煉瓦が分かれていた。

 

 日除けの下に、いくつかのテーブルが置かれている。

 

 その一つから、声が聞こえた。

 

「だから、今回はちゃんと時間を調べてきたんだってば」

 

「うん。ちゃんと間に合ってる」

 

「その返事、ちょっと軽くない?」

 

 セイアが顔を向ける。

 

 四人掛けの席にいたのは、放課後スイーツ部だった。

 

 先にこちらへ気付いたアイリが、メニューから顔を上げる。

 

「あ……こ、こんにちは」

 

 アイリの視線が、セイアから、その後ろのナギサへ移った。

 

 カズサも振り向き、背筋を伸ばす。さっきまで話していたヨシミが口を閉じ、ナツは開いていたメニューを、そっと卓へ置いた。

 

 ティーパーティーの二人が揃って現れるとは、思っていなかったのだろう。

 

 アイリが椅子から腰を浮かせかける。

 

「こんにちは。どうぞ、そのままで。私たちも、お茶をいただきに来たものですから」

 

 ナギサが微笑むと、アイリは小さく頷いた。

 

「は、はい」

 

 座り直した膝の上で、両手が揃う。

 

 店員に案内され、二人は隣の二人掛けへ向かった。

 

 セイアが腰を下ろすと、日除けの端から差す光が、卓の隅を白く照らしていた。

 

「いい席を見つけたね。君たちも、ここへ来るのは初めてかな」

 

「あ、はい。お菓子の写真を見て……みんなで、来てみようと」

 

 アイリが答え、隣のカズサへ目を向ける。

 

「はい。私たちも、初めてです」

 

 カズサも頷いた。膝へ置き直した鞄の持ち手には、まだ指が掛かっている。

 

「そうだったんだね。奥にこんな庭があるとは、思わなかったよ」

 

 セイアは壁際の鉢へ目を向け、それから店員の差し出すメニューを受け取った。

 

     ◇

 

 メニューには、店頭に並んでいた菓子のほかに、皿で出されるものが載っていた。

 

 セイアは、いちばん下にある短い一行を見る。

 

 焼きたての洋梨タルト、ミルクアイス添え。

 

 その横に、午後のみ、と小さく書いてある。

 

「皆さんは、何を召し上がるところだったのでしょう」

 

 ナギサが隣へ尋ねた。

 

「ええと、私たちはタルトを。ちょうど、焼き上がる時間だそうで……」

 

 アイリが、自分たちのメニューの同じ欄を指す。

 

 四人はもう注文を済ませて、焼き上がりを待っているところだった。

 

「こちらでは、温かいままいただけるのですね」

 

 ナギサが写真を覗き込む。

 

「はい。持ち帰りのものは冷ましてから包むそうなんですけど、お店では、焼きたてにアイスも付けてくださるそうで」

 

 そこまで話して、アイリは一度口を閉じた。

 

「……それが、気になって」

 

「ええ。私も、いただいてみたくなりました」

 

 ナギサがメニューへ視線を戻すと、アイリの口元が少し緩んだ。

 

「写真だと、結構大きいんで……」

 

 ヨシミが端末を持ち上げかけた。二人の顔を見て、言葉が止まる。

 

「あ、いえ。こちらにも、写真がありましたね」

 

 セイアは、その写真を見る。

 

 白い皿に、厚みのある一切れが載っていた。

 

 表面には、薄く切った洋梨が少しずつ重なっている。端の生地は、中央より濃い色に焼けていた。

 

「それは楽しみだね。端のところまで、ゆっくり食べられそうだ」

 

「……はい」

 

 ヨシミは端末を伏せ、両手でメニューを支え直した。

 

 セイアが顔を上げると、ナギサと目が合った。

 

「私も、こちらにしようと思います」

 

「うん。私も同じものを」

 

 飲み物は紅茶を選んだ。

 

 注文を聞いた店員は、皆さまの分も間もなくお持ちします、と四人へ声をかけて厨房へ戻っていく。

 

「君たちのおかげで、選ぶのが早く済んだよ」

 

「いえ……お口に合うと、いいんですけど」

 

 アイリが答える。

 

「君たちも、これからだったね」

 

「はい」

 

「では、楽しみに待とうか」

 

 セイアはメニューを閉じた。

 

 隣でも、四人がそれぞれ卓の上へメニューを重ねる。ナツがヨシミへ何か囁き、ヨシミは小さく頷いた。

 

 先ほど通路まで聞こえていた声は、まだ戻ってこなかった。

 

     ◇

 

 中庭の奥には、厨房へ通じる窓があった。

 

 その内側で、皿が重なる音がする。

 

 人の動く影が横切り、さっきよりもはっきりと、焼けた果物の香りが届いた。

 

 ヨシミが窓を見る。

 

 カズサも見る。

 

 セイアも、つられてそちらへ顔を向けた。

 

「……同じ方を見てしまいますね」

 

 ナギサが言う。

 

「音より先に、匂いが知らせてくれるからね」

 

 店員が盆を持って現れた。

 

 白い皿が、一枚ずつ卓へ置かれる。

 

 四人の席へ。それから、二人の席へ。

 

 目の前へ来たタルトは、写真よりも焼き色がよく見えた。

 

 洋梨の縁は透き通っている。果肉の間からのぞく生地には細かな膨らみがあり、外側の厚い縁には、小さく割れたところがあった。

 

 隣に添えられたアイスは、まだ丸い形を保っている。

 

 皿へ触れる底のあたりだけ、白く柔らかくなり始めていた。

 

「熱いところがございますので、お気を付けください」

 

 紅茶も運ばれてきた。

 

 ナギサが礼を言い、セイアはフォークを取る。

 

 隣でも、小さな声で「いただきます」が重なった。

 

 アイリがフォークを取り、ナツは皿を少し手前へ寄せる。カズサも、膝の上の鞄を椅子の脇へ置いた。

 

 セイアは、タルトの先へフォークを入れる。

 

 表面の洋梨はすんなり切れた。

 

 その下の生地は柔らかく、底まで届いたところで、かすかな抵抗がある。

 

 小さな音を立てて、一口分が離れた。

 

 口へ運ぶ。

 

 まず、洋梨が温かかった。

 

 よく火が通っているのに、舌へ触れると果肉の形が分かる。噛むと甘さが広がり、そのあとからバターと、焼けた生地の香ばしさが追いついてくる。

 

 底の薄い層は、歯の下でほろりと崩れた。

 

 セイアは、もう一度皿を見た。

 

 思っていたより、次の一口が早く欲しくなる。

 

 ナギサも、小さく切り分けたところを食べていた。

 

「……生地が、まだ温かいですね」

 

「うん。奥に席があってよかったよ」

 

「本当に」

 

「おいしい……」

 

 隣から、ヨシミの声がした。

 

 思わず出たらしい言葉のあとで、こちらと目が合う。ヨシミはフォークを止め、口を結びかけた。

 

「ええ。焼き上がりに間に合って、よかったですね」

 

 ナギサの皿には、もう二口目を切り分けたところがあった。

 

 ヨシミがその皿を見て、頷く。

 

「……はい。温かいうちに食べると、こんなに違うんですね」

 

 今度は、口元に笑みが残った。

 

 アイリも一口食べて、隣のナツと顔を見合わせる。

 

 セイアは紅茶を飲み、もう一度フォークを取った。

 

     ◇

 

 アイスをすくおうとすると、皿に接していたところが、とろりと崩れた。

 

 セイアはそのまま、タルトの欠片を一緒に取る。

 

 冷たさが先に舌へ触れ、そのあとに、まだ温かい生地が残った。

 

 ミルクの甘さに包まれても、洋梨の香りは消えない。

 

 飲み込んでから紅茶を飲むと、口の中に残っていたバターの香りがほどけていった。

 

「これ、持って帰るだけだと分からなかったね」

 

 カズサが言う。

 

「でしょ。だから、ここで食べられる時間に来たかったの」

 

 ヨシミの声が弾んだ。

 

「うん。来てよかった」

 

 そう返したカズサの顔を見て、ヨシミも満足そうに頷く。

 

 アイリは、もう一度メニューを開いていた。

 

「タルト、時期によって変わるんですね」

 

「次の分も、もう気になっているのかい」

 

 セイアが尋ねると、アイリは少し照れたように笑った。

 

「はい。でも、今はこれを最後まで食べたいです」

 

「それには賛成だね」

 

 セイアも、自分の皿へ戻る。

 

 端の焼き色が濃いところを切り分けると、細かな欠片が皿へ落ちた。

 

 甘さの奥に、焼けた生地のほろ苦さがある。

 

 中央の柔らかいところを食べていたときとは、口の中の音まで違った。

 

 ナギサは、落ちた欠片をフォークで寄せている。

 

 その動作が妙に丁寧で、セイアは自分の皿に残ったものまで気になった。

 

「セイアさん?」

 

「いや。端まで楽しむには、少々技術が要りそうだと思ってね」

 

 ナギサは皿の上を見て、それから脇に置かれたスプーンを取った。

 

「こちらのほうが、よろしいかもしれません」

 

「なるほど」

 

 セイアもスプーンへ持ち替える。

 

 溶けかけたアイスと一緒なら、小さな欠片もきれいに集められた。

 

「あ、それなら端のところも……」

 

 ヨシミが呟き、自分もスプーンを取った。

 

「うん。うまくいったよ」

 

 セイアが答えると、ヨシミは今度は手を止めず、皿の隅をすくって口へ運んだ。

 

 ナツが紅茶を飲み、満足そうに息をつく。

 

「ここまで来た時間も、隠し味というわけだね」

 

「その割に、来る前はほかのお店にも寄ろうとしてたじゃない」

 

「あれは、可能性を広げていたんだよ」

 

「お店を三つも?」

 

 ヨシミの声に、カズサが顔を上げる。

 

「今日は、ここに着いたからいいんじゃない」

 

「それは、そうだけど」

 

 アイリが笑った。先ほどメニューを説明していたときより、よく聞こえる声だった。

 

 ナギサも、カップを置いて口元を緩めている。

 

     ◇

 

 食べる手が落ち着いたころ、ナツが庭の上を見た。

 

「外からだと、ここは見えなかっただろうね…」

 

 ナツの顔が、今度は自然に二人のほうへ向く。

 

「私たちも、席があるとは思っていなかったんです」

 

 ナギサが答える。

 

「お菓子を買って帰るだけのつもりで?」

 

「ええ。近くでお茶をいただけるところがあれば、とも思っていましたけれど」

 

「一度に見つかったね」

 

 セイアが言う。

 

 入口から通ってきた細い通路を振り返った。

 

 向こうに、菓子の箱を選んでいる客の足元だけが見える。

 

 中庭からは通りが見えない。けれど、誰かが出入りするたびに鈴が鳴り、店の中へ外の音が混じった。

 

「ワイルドハントでも、建物の間を歩いていて、思わぬ演奏を聴いたことがあってね」

 

 セイアは隣の卓へ目を戻す。

 

「ツムギの演奏を聴かせてもらったんだ。君たちにも聴いてもらったことがある、と話していたよ」

 

 カズサの顔が上がった。

 

「聴いたんですね」

 

「うん。話しているときの声を先に知っていたものだから、驚いたよ」

 

「あれは、びっくりしますよね」

 

 カズサが頷く。

 

 ヨシミも、食べる手を止めて身を乗り出した。

 

「すごいですよね。音が出た瞬間に、空気が変わるっていうか」

 

「私も、よく覚えています」

 

 アイリが言う。

 

 セイアは、あのときの広場と、譜面を抱えていたツムギを思い出した。

 

 今は、風に触れる鉢の葉が見える。

 

「向こうへは、音楽を聴きに行かれたんですか」

 

「最初は博物館へ行こうと思っていたんだ。そのあと、いろいろ見せてもらってね」

 

「絵を描いていただくことにもなりましたものね」

 

 ナギサが付け加える。

 

 セイアは横を向いた。

 

「あれも、予定にはなかったよ」

 

「帰っていらしたとき、驚きました」

 

「描いてもらったんですか?」

 

 アイリが尋ねる。

 

「うん。見る側だけのつもりで出かけたのだけれどね」

 

 ナツが、自分の皿とセイアを順に見て呟いた。

 

「今日も何か、増えて帰るかもしれないね」

 

「少なくとも、焼き菓子は増えそうだ」

 

 セイアが答えると、ナギサも店の入口のほうへ目を向けた。

 

「ええ。まだ、そちらを選んでいませんから」

 

     ◇

 

 紅茶を飲んでいる間に、皿の上のタルトはなくなった。

 

 残っていたアイスも、最後の生地と一緒に食べ終えた。

 

 ヨシミはスプーンを置いて、満足そうに息をつく。

 

「おいしかった……」

 

「写真、撮っておいてよかったね」

 

 アイリが端末を見ながら言った。

 

「うん。あとで送って」

 

 カズサが答える。

 

「自分では撮らなかったの?」

 

「食べてたから」

 

「まあ、それは見てたけど」

 

 ナツは、メニューの端にある店の案内を読んでいた。

 

 四人の間で話題が移るたび、セイアとナギサも、ときどきそこへ言葉を差し入れる。

 

 アイリはもう、答える前に隣のカズサへ目を向けることはなかった。ヨシミが棚の菓子の形を指先で描くと、カズサが横から付け足す。

 

 どの道から来たのか。

 

 帰りはどちらへ向かうのか。

 

 表の棚にあった、形の変わった菓子は何だったのか。

 

 話しているうちに、卓の隅にあった光が、セイアの指先まで伸びてきた。

 

 カップを持つと、手の甲が温かい。

 

 厨房の窓が開き、庭へ新しい空気が入ってきた。

 

     ◇

 

「それじゃ、そろそろ行こうか」

 

 カズサが言い、四人が鞄を持つ。

 

 このあと、駅のほうも見てから帰るつもりなのだという。

 

 アイリが二人へ向き直った。

 

「お話できて、楽しかったです」

 

「私もだよ。タルトのことを教えてくれて、ありがとう」

 

「いえ。私たちも、今日初めて食べたので」

 

「それでも、いいところを選んでいただきました」

 

 ナギサが言うと、ヨシミが嬉しそうに顔を上げた。

 

「はい。ここは、また来たいです」

 

「今度は、どんなタルトになっているんでしょうね」

 

 アイリが、卓の上のメニューへ目を落とした。

 

「今日と同じでも、私は迷ってしまいそうだよ」

 

「分かります。私も、もう一度食べたいです」

 

 そう答える声に、来たときのためらいはなかった。

 

 ナツがメニューを卓の中央へ戻し、カズサは椅子の下を一度見てから立ち上がる。

 

 四人の声が、通路へ移っていった。

 

「あ、これ。さっき言ってたのって、この袋?」

 

「そっちじゃない。その隣」

 

 売店でも、まだ話が続いている。

 

 セイアはカップを置き、ナギサと目を合わせた。

 

 二人とも、笑っていた。

 

 しばらくして、入口の鈴が鳴る。

 

 通りへ出た四人の声は、もう聞こえなかった。

 

     ◇

 

 店員が空いた皿を下げに来た。

 

 ナギサは礼を言ってから、メニューへ手を伸ばす。

 

「紅茶を、もう一杯お願いできますか」

 

「はい。同じものでよろしいでしょうか」

 

「ええ。お願いします」

 

「それなら、私も同じものを」

 

 セイアも続けた。

 

 店員が戻っていくと、ナギサはメニューを元の位置へ置いた。

 

「よく合っていましたね。あのタルトに」

 

「紅茶かい」

 

「はい。いただいたあとも、香りがちゃんと残っていて」

 

 セイアは空のカップへ目を落とす。

 

 縁の近くへ顔を寄せると、まだ淡い香りがした。

 

「二杯目は、お茶のほうをゆっくり楽しめそうだ」

 

「私も、そう思いまして」

 

 ナギサは椅子へ座り直した。

 

 急いで次の店を探す理由はなかった。

 

     ◇

 

 隣の卓が片付くと、その向こうの鉢がよく見えた。

 

 背の高い葉の下に、小さな白い花が咲いている。

 

 ナギサがそちらを見ているので、セイアも目を向けた。

 

「あそこにも花があったんだね」

 

「先ほどは、皆さんのお席で隠れていましたから」

 

 葉の間を風が通る。

 

 花の影が、鉢の縁で動いた。

 

 ナギサは上着を椅子の背へ掛け、膝の上の手提げを脇へ移す。

 

 やがて新しい紅茶が運ばれてきた。

 

 セイアは湯気が落ち着くのを待ちながら、入口のほうを眺める。

 

 さっきの四人とは違う客が、今度は一人で通路を抜けてきた。

 

 細長い荷物を椅子へ立てかけ、メニューを開く。店員と言葉を交わす様子には、迷いがない。

 

 通りを歩いてきたときには、こんな庭があるとは分からなかった。

 

 写真にも、表の売店しか写っていなかった。

 

 ナギサはカップを手に取る。

 

「来てみてよかったです」

 

「うん。誘ってくれて、ありがとう」

 

「こちらこそ。お付き合いいただいて」

 

 ひと口飲んで、カップを戻す。

 

 ナギサは、そのまま庭へ視線を向けていた。

 

 セイアも紅茶を飲む。

 

 先ほどよりゆっくり口へ含むと、甘い菓子のあとには気付かなかった渋みが、舌の上に残った。

 

 それも、今はちょうどよかった。

 

     ◇

 

「そういえば、湖のときにも茶葉を見に行っていたね」

 

 セイアが言うと、ナギサは頷いた。

 

「ええ。あちらのお店も、また伺いたいですね」

 

「今度は、ミカも一緒に」

 

「はい。湖のほうも」

 

 セイアは、三人で乗ったボートを思い出す。

 

 水面の揺れと、途中で止まって見た岸の景色。

 

 ナギサの目にも、同じようなものが浮かんでいるのだろうか。窓の外ではなく、庭の上に切り取られた空を見ていた。

 

「ここでしたら、もう少し気軽に来られますね」

 

「昼食のあとに出ても、まだお茶を飲んでいられるからね」

 

 セイアは端末を出し、時刻だけを確かめた。

 

 まだ明るいうちに、十分帰れる。

 

 画面を伏せる。

 

 ナギサは残りの紅茶を飲んでから、売店のほうを見た。

 

「それでは、そろそろお土産も選びましょうか」

 

「そうだった。今日の目的が、まだ半分残っていたね」

 

「半分以上かもしれません。種類が多かったですから」

 

 セイアも、棚に並んでいた箱を思い出す。

 

 選ぶ時間は、少し長めに取っておいたほうがよさそうだった。

 

     ◇

 

 通路を戻ると、庭にいた間より店内の色が濃く見えた。

 

 木の棚と、紙箱の縞。袋の口を結ぶ細い紐。

 

 ナギサは最初に見ていたサブレの前へ戻る。

 

「ミカさんには、こちらがよろしいでしょうか」

 

「君が気になっていたものなら、話も添えられるね」

 

 セイアは隣の箱を見る。

 

 こちらには、色の違うサブレが二種類入っていた。

 

「こちらも同じお菓子かな」

 

「はい。プレーンとココアの詰め合わせです」

 

 店員が答える。

 

 ナギサが、二つの箱を見比べた。

 

「では、こちらにしましょうか。三人でいただけますし」

 

「賛成だよ」

 

 箱は決まった。

 

 それからナギサは、隣にあった細長い焼き菓子へ目を向ける。

 

 ナッツを散らした、小さな一本だった。

 

「こちらは、一つから買えますか」

 

「はい。お好きな数でどうぞ」

 

 セイアはナギサを見る。

 

「まずは、自分の分だったね」

 

「ええ。セイアさんは、よろしいのですか」

 

 そう聞かれると、セイアにも見ていたものがある。

 

 最初に気になった、砂糖の薄くかかった焼き菓子だった。

 

「では、私はこちらを」

 

 小さな袋が二つ、箱の横へ並んだ。

 

 店員が手際よく包み、紙袋へ収めていく。

 

 セイアは入口の脇にあるカードを一枚もらった。

 

 店の名前と、緑の日除けの絵が印刷されている。

 

 裏には、営業時間と定休日が書かれていた。

 

「お庭のお席も、こちらの時間でよろしいのですか」

 

 ナギサが尋ねる。

 

「はい。ただ、雨の日は奥の屋根のあるところだけになりますので」

 

「そうなのですね。ありがとうございます」

 

 ナギサは紙袋を受け取った。

 

 セイアも自分の袋を持ち、カードを鞄へしまう。

 

     ◇

 

 外へ出ると、通りの風が頬に触れた。

 

 来たときに軒先を掃いていたロボットは、今は店の中で何かを並べている。

 

 台車に積まれていた空の箱も、なくなっていた。

 

 同じ道を、二人で戻る。

 

 ナギサが持つ紙袋の口から、縞の入った箱が見えていた。

 

「今度は、お菓子を買いに来るだけでもよさそうですね」

 

「そのつもりで来て、また奥へ座ってしまうかもしれないよ」

 

 ナギサが手提げを持ち直す。

 

「ええ。今日のようなお天気でしたら、きっと」

 

 交差点へ出ると、バス停の標識が見えた。

 

 行きには地図で確かめた角を、今度は迷わず曲がる。

 

 セイアが停留所の時刻表を見ている間に、ナギサはミカへ短い連絡を送っていた。

 

「お土産があると伝えておきました」

 

「それは、帰ってから開けるのが早そうだね」

 

 ナギサの端末が、すぐに震える。

 

 画面を見せてもらうと、楽しみにしている、という言葉のあとに、気を付けて帰ってきてね、と続いていた。

 

 セイアは頷き、鞄の留め具を閉じる。

 

 バスが来るまで、二人は並んで待った。

 

     ◇

 

 帰りの窓には、行きと反対側の家々が流れた。

 

 途中で、鉢を並べた店が見える。

 

 ナギサが顔を上げ、セイアもそちらを見た。

 

「あそこでしたね」

 

「うん。次に来たら、迷わず降りられそうだ」

 

 花の色が窓の端へ消える。

 

 その先には、見慣れた建物があった。

 

 出発したときと同じ停留所で降りると、セイアは鞄の位置を直した。

 

 紙袋が一つ増えたぶんだけ、両手がふさがっている。

 

 ナギサも隣へ降りてきた。

 

 まだ夕食までには時間がある。

 

「帰ったら、どのお茶を合わせようかな」

 

 セイアが言うと、ナギサは歩きながら考えた。

 

「まずは、いつものものでいかがでしょう。サブレのほうを、よく味わいたいので」

 

「それがよさそうだね」

 

 門の向こうから、生徒たちの話し声が聞こえる。

 

 二人は紙袋を提げたまま、いつもの道へ戻っていった。

 

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