ナギサから声をかけられたのは、セイアが読み終えた書類を揃えているときだった。
「セイアさん。明日の午後は、何かご予定がありますか」
「今のところは空いているよ。どうしたんだい」
ナギサは向かいの椅子へ座り、端末の画面をこちらへ向けた。
小さな菓子店の写真だった。
白い壁と、濃い緑の日除け。入口の横には、麦の穂をかたどった控えめな看板が付いている。
「こちらのお店、以前から気になっていたんです。ご一緒しませんか」
住所はトリニティの外縁だった。
地区の名は知っている。そこへ向かうバスの行先も、見かけたことがあった。けれど、この店の前を通った覚えはない。
「お菓子のほうは、知っているのかな」
「サブレをいただいたことがありまして。お店にも伺ってみたいと思っていたんです」
ナギサは画面を指で送り、箱の写真を見せた。
細い縞の入った紙箱に、丸い焼き菓子が並んでいる。
「なるほど。次のお茶会のために」
「まずは、私がいただく分を」
返事はすぐだった。
セイアは顔を上げる。
ナギサも、口元に笑みを浮かべていた。
「では、今日は君の行きたいところから始めようか」
「明日です、セイアさん」
「おっと。楽しみが先に出てしまったね」
机の上には、まだ片付けるものが残っている。
セイアは書類を閉じて、引き出しへ収めた。
◇
翌日は、昼食を済ませてから出かけた。
ミカは別の約束で先に外へ出ている。二人も出かけると伝えると、楽しんできてね、という返事が届いていた。
セイアは車の鍵を机に残し、小さな鞄を持った。
店の近くまで、バスで行ける。
停留所で待っていたナギサは、軽い上着を腕にかけていた。
「お待たせ」
「いえ。私も今、来たところです」
道路の向こうから、行先を表示したバスが近づいてくる。
扉が開くと、先に買い物袋を提げた犬の住民が降りてきた。二人は道を空けてから乗り込む。
窓際に並んで座れる席が空いていた。
ナギサが窓側へ、セイアがその隣へ座る。
「車でなくてよかったのかい」
「…はい。こちらのほうが、降りてから歩く道も分かりやすそうでしたので」
端末の地図を見せながら、ナギサが言う。
停留所から店までは、交差点を一つ曲がるだけだった。
「それなら、私にも覚えられそうだ」
「帰りには、私より詳しくなっているかもしれませんね」
バスが動き出す。
いつもの校舎が窓の後ろへ流れていった。
◇
建物の間隔が、少しずつ広がる。
正面の門構えまでよく見える施設の隣に、低い住宅が並んでいた。花の鉢が置かれた階段。窓の内側に掛かった薄いカーテン。駐輪場で鞄を探っている生徒。
バスは何度か停まり、そのたびに乗客が入れ替わる。
セイアの膝の上では、鞄がほとんど重さを主張しなかった。
泊まるためのものも、移動の途中で読む本も入れていない。
隣でナギサが、窓の外を見ながら言った。
「あちらにも、お店がありますね」
指の先には、細長い軒先に鉢を並べた店があった。
大きな葉の影に、黄色い花が隠れている。
「帰りに見てみるかい」
「場所だけ、覚えておこうと思います。今日はまず、あちらのお店へ」
「うん。私も、そろそろ香りを確かめたくなってきたよ」
昼食から、それほど時間は経っていない。
それでも、焼き菓子の写真をもう一度見るくらいの余裕はあった。
ナギサが端末を差し出す。
二人で画面を覗いていると、次の停留所を告げる声が聞こえた。
◇
バスを降りると、音が遠くなった。
車道を走るエンジンの音はまだ聞こえる。けれど、交差点を曲がると、代わりにどこかで箒を動かす音がした。
軒先を掃いていたロボットが顔を上げ、二人へ会釈する。
ナギサも軽く頭を下げた。
道沿いには、住宅と小さな店が交互に並んでいた。食料品店の前では、空の箱を積んだ台車が止まっている。隣の窓には、直した服を受け取るよう知らせる小さな札が貼ってあった。
セイアは歩調を緩める。
写真で見た緑の日除けは、次の建物の向こうにあった。
近づくと、奥から甘い香りが流れてくる。
バターを焼いた香りだった。
その上に、果物の温かな甘さが重なっている。
「こちらです」
「地図より先に分かったよ」
ナギサが端末をしまう。
入口のガラス越しに、菓子の並ぶ棚が見えた。
◇
扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
白い前掛けをつけた犬の店員が、包みかけの箱から顔を上げる。
店内は、写真から想像したより奥行きがあった。
正面の棚には紙箱。窓の下には、一つずつ包まれた焼き菓子。ガラスのケースには、クリームを挟んだ小さなケーキが並んでいる。
ナギサは、丸いサブレの入った箱を見つけて足を止めた。
「これです。以前いただいたのは」
「お店で見ると、隣のものも気になるね」
セイアは、その横の細長い焼き菓子を見る。
表面に、薄く砂糖のかかったものがあった。
「お持ち帰りですか。それとも、奥でお召し上がりになりますか」
店員が尋ねる。
ナギサは店の奥へ目を向けた。
「お席があるのですか」
「はい。中庭にございます。今でしたら、お二人のお席が空いておりますよ」
棚と壁の間に、細い通路が延びていた。
その先だけ、明るい。
セイアとナギサは顔を見合わせる。
「お茶もいただけるようだね」
「ええ。ぜひ、お願いできますか」
店員が、奥へどうぞと手を差し出した。
◇
通路を抜けると、頭の上に空があった。
四方を建物に囲まれた、小さな庭だった。
壁際には鉢が並び、一方の柱に蔓が沿っている。丸い石を敷いた場所と、歩くための平らな煉瓦が分かれていた。
日除けの下に、いくつかのテーブルが置かれている。
その一つから、声が聞こえた。
「だから、今回はちゃんと時間を調べてきたんだってば」
「うん。ちゃんと間に合ってる」
「その返事、ちょっと軽くない?」
セイアが顔を向ける。
四人掛けの席にいたのは、放課後スイーツ部だった。
先にこちらへ気付いたアイリが、メニューから顔を上げる。
「あ……こ、こんにちは」
アイリの視線が、セイアから、その後ろのナギサへ移った。
カズサも振り向き、背筋を伸ばす。さっきまで話していたヨシミが口を閉じ、ナツは開いていたメニューを、そっと卓へ置いた。
ティーパーティーの二人が揃って現れるとは、思っていなかったのだろう。
アイリが椅子から腰を浮かせかける。
「こんにちは。どうぞ、そのままで。私たちも、お茶をいただきに来たものですから」
ナギサが微笑むと、アイリは小さく頷いた。
「は、はい」
座り直した膝の上で、両手が揃う。
店員に案内され、二人は隣の二人掛けへ向かった。
セイアが腰を下ろすと、日除けの端から差す光が、卓の隅を白く照らしていた。
「いい席を見つけたね。君たちも、ここへ来るのは初めてかな」
「あ、はい。お菓子の写真を見て……みんなで、来てみようと」
アイリが答え、隣のカズサへ目を向ける。
「はい。私たちも、初めてです」
カズサも頷いた。膝へ置き直した鞄の持ち手には、まだ指が掛かっている。
「そうだったんだね。奥にこんな庭があるとは、思わなかったよ」
セイアは壁際の鉢へ目を向け、それから店員の差し出すメニューを受け取った。
◇
メニューには、店頭に並んでいた菓子のほかに、皿で出されるものが載っていた。
セイアは、いちばん下にある短い一行を見る。
焼きたての洋梨タルト、ミルクアイス添え。
その横に、午後のみ、と小さく書いてある。
「皆さんは、何を召し上がるところだったのでしょう」
ナギサが隣へ尋ねた。
「ええと、私たちはタルトを。ちょうど、焼き上がる時間だそうで……」
アイリが、自分たちのメニューの同じ欄を指す。
四人はもう注文を済ませて、焼き上がりを待っているところだった。
「こちらでは、温かいままいただけるのですね」
ナギサが写真を覗き込む。
「はい。持ち帰りのものは冷ましてから包むそうなんですけど、お店では、焼きたてにアイスも付けてくださるそうで」
そこまで話して、アイリは一度口を閉じた。
「……それが、気になって」
「ええ。私も、いただいてみたくなりました」
ナギサがメニューへ視線を戻すと、アイリの口元が少し緩んだ。
「写真だと、結構大きいんで……」
ヨシミが端末を持ち上げかけた。二人の顔を見て、言葉が止まる。
「あ、いえ。こちらにも、写真がありましたね」
セイアは、その写真を見る。
白い皿に、厚みのある一切れが載っていた。
表面には、薄く切った洋梨が少しずつ重なっている。端の生地は、中央より濃い色に焼けていた。
「それは楽しみだね。端のところまで、ゆっくり食べられそうだ」
「……はい」
ヨシミは端末を伏せ、両手でメニューを支え直した。
セイアが顔を上げると、ナギサと目が合った。
「私も、こちらにしようと思います」
「うん。私も同じものを」
飲み物は紅茶を選んだ。
注文を聞いた店員は、皆さまの分も間もなくお持ちします、と四人へ声をかけて厨房へ戻っていく。
「君たちのおかげで、選ぶのが早く済んだよ」
「いえ……お口に合うと、いいんですけど」
アイリが答える。
「君たちも、これからだったね」
「はい」
「では、楽しみに待とうか」
セイアはメニューを閉じた。
隣でも、四人がそれぞれ卓の上へメニューを重ねる。ナツがヨシミへ何か囁き、ヨシミは小さく頷いた。
先ほど通路まで聞こえていた声は、まだ戻ってこなかった。
◇
中庭の奥には、厨房へ通じる窓があった。
その内側で、皿が重なる音がする。
人の動く影が横切り、さっきよりもはっきりと、焼けた果物の香りが届いた。
ヨシミが窓を見る。
カズサも見る。
セイアも、つられてそちらへ顔を向けた。
「……同じ方を見てしまいますね」
ナギサが言う。
「音より先に、匂いが知らせてくれるからね」
店員が盆を持って現れた。
白い皿が、一枚ずつ卓へ置かれる。
四人の席へ。それから、二人の席へ。
目の前へ来たタルトは、写真よりも焼き色がよく見えた。
洋梨の縁は透き通っている。果肉の間からのぞく生地には細かな膨らみがあり、外側の厚い縁には、小さく割れたところがあった。
隣に添えられたアイスは、まだ丸い形を保っている。
皿へ触れる底のあたりだけ、白く柔らかくなり始めていた。
「熱いところがございますので、お気を付けください」
紅茶も運ばれてきた。
ナギサが礼を言い、セイアはフォークを取る。
隣でも、小さな声で「いただきます」が重なった。
アイリがフォークを取り、ナツは皿を少し手前へ寄せる。カズサも、膝の上の鞄を椅子の脇へ置いた。
セイアは、タルトの先へフォークを入れる。
表面の洋梨はすんなり切れた。
その下の生地は柔らかく、底まで届いたところで、かすかな抵抗がある。
小さな音を立てて、一口分が離れた。
口へ運ぶ。
まず、洋梨が温かかった。
よく火が通っているのに、舌へ触れると果肉の形が分かる。噛むと甘さが広がり、そのあとからバターと、焼けた生地の香ばしさが追いついてくる。
底の薄い層は、歯の下でほろりと崩れた。
セイアは、もう一度皿を見た。
思っていたより、次の一口が早く欲しくなる。
ナギサも、小さく切り分けたところを食べていた。
「……生地が、まだ温かいですね」
「うん。奥に席があってよかったよ」
「本当に」
「おいしい……」
隣から、ヨシミの声がした。
思わず出たらしい言葉のあとで、こちらと目が合う。ヨシミはフォークを止め、口を結びかけた。
「ええ。焼き上がりに間に合って、よかったですね」
ナギサの皿には、もう二口目を切り分けたところがあった。
ヨシミがその皿を見て、頷く。
「……はい。温かいうちに食べると、こんなに違うんですね」
今度は、口元に笑みが残った。
アイリも一口食べて、隣のナツと顔を見合わせる。
セイアは紅茶を飲み、もう一度フォークを取った。
◇
アイスをすくおうとすると、皿に接していたところが、とろりと崩れた。
セイアはそのまま、タルトの欠片を一緒に取る。
冷たさが先に舌へ触れ、そのあとに、まだ温かい生地が残った。
ミルクの甘さに包まれても、洋梨の香りは消えない。
飲み込んでから紅茶を飲むと、口の中に残っていたバターの香りがほどけていった。
「これ、持って帰るだけだと分からなかったね」
カズサが言う。
「でしょ。だから、ここで食べられる時間に来たかったの」
ヨシミの声が弾んだ。
「うん。来てよかった」
そう返したカズサの顔を見て、ヨシミも満足そうに頷く。
アイリは、もう一度メニューを開いていた。
「タルト、時期によって変わるんですね」
「次の分も、もう気になっているのかい」
セイアが尋ねると、アイリは少し照れたように笑った。
「はい。でも、今はこれを最後まで食べたいです」
「それには賛成だね」
セイアも、自分の皿へ戻る。
端の焼き色が濃いところを切り分けると、細かな欠片が皿へ落ちた。
甘さの奥に、焼けた生地のほろ苦さがある。
中央の柔らかいところを食べていたときとは、口の中の音まで違った。
ナギサは、落ちた欠片をフォークで寄せている。
その動作が妙に丁寧で、セイアは自分の皿に残ったものまで気になった。
「セイアさん?」
「いや。端まで楽しむには、少々技術が要りそうだと思ってね」
ナギサは皿の上を見て、それから脇に置かれたスプーンを取った。
「こちらのほうが、よろしいかもしれません」
「なるほど」
セイアもスプーンへ持ち替える。
溶けかけたアイスと一緒なら、小さな欠片もきれいに集められた。
「あ、それなら端のところも……」
ヨシミが呟き、自分もスプーンを取った。
「うん。うまくいったよ」
セイアが答えると、ヨシミは今度は手を止めず、皿の隅をすくって口へ運んだ。
ナツが紅茶を飲み、満足そうに息をつく。
「ここまで来た時間も、隠し味というわけだね」
「その割に、来る前はほかのお店にも寄ろうとしてたじゃない」
「あれは、可能性を広げていたんだよ」
「お店を三つも?」
ヨシミの声に、カズサが顔を上げる。
「今日は、ここに着いたからいいんじゃない」
「それは、そうだけど」
アイリが笑った。先ほどメニューを説明していたときより、よく聞こえる声だった。
ナギサも、カップを置いて口元を緩めている。
◇
食べる手が落ち着いたころ、ナツが庭の上を見た。
「外からだと、ここは見えなかっただろうね…」
ナツの顔が、今度は自然に二人のほうへ向く。
「私たちも、席があるとは思っていなかったんです」
ナギサが答える。
「お菓子を買って帰るだけのつもりで?」
「ええ。近くでお茶をいただけるところがあれば、とも思っていましたけれど」
「一度に見つかったね」
セイアが言う。
入口から通ってきた細い通路を振り返った。
向こうに、菓子の箱を選んでいる客の足元だけが見える。
中庭からは通りが見えない。けれど、誰かが出入りするたびに鈴が鳴り、店の中へ外の音が混じった。
「ワイルドハントでも、建物の間を歩いていて、思わぬ演奏を聴いたことがあってね」
セイアは隣の卓へ目を戻す。
「ツムギの演奏を聴かせてもらったんだ。君たちにも聴いてもらったことがある、と話していたよ」
カズサの顔が上がった。
「聴いたんですね」
「うん。話しているときの声を先に知っていたものだから、驚いたよ」
「あれは、びっくりしますよね」
カズサが頷く。
ヨシミも、食べる手を止めて身を乗り出した。
「すごいですよね。音が出た瞬間に、空気が変わるっていうか」
「私も、よく覚えています」
アイリが言う。
セイアは、あのときの広場と、譜面を抱えていたツムギを思い出した。
今は、風に触れる鉢の葉が見える。
「向こうへは、音楽を聴きに行かれたんですか」
「最初は博物館へ行こうと思っていたんだ。そのあと、いろいろ見せてもらってね」
「絵を描いていただくことにもなりましたものね」
ナギサが付け加える。
セイアは横を向いた。
「あれも、予定にはなかったよ」
「帰っていらしたとき、驚きました」
「描いてもらったんですか?」
アイリが尋ねる。
「うん。見る側だけのつもりで出かけたのだけれどね」
ナツが、自分の皿とセイアを順に見て呟いた。
「今日も何か、増えて帰るかもしれないね」
「少なくとも、焼き菓子は増えそうだ」
セイアが答えると、ナギサも店の入口のほうへ目を向けた。
「ええ。まだ、そちらを選んでいませんから」
◇
紅茶を飲んでいる間に、皿の上のタルトはなくなった。
残っていたアイスも、最後の生地と一緒に食べ終えた。
ヨシミはスプーンを置いて、満足そうに息をつく。
「おいしかった……」
「写真、撮っておいてよかったね」
アイリが端末を見ながら言った。
「うん。あとで送って」
カズサが答える。
「自分では撮らなかったの?」
「食べてたから」
「まあ、それは見てたけど」
ナツは、メニューの端にある店の案内を読んでいた。
四人の間で話題が移るたび、セイアとナギサも、ときどきそこへ言葉を差し入れる。
アイリはもう、答える前に隣のカズサへ目を向けることはなかった。ヨシミが棚の菓子の形を指先で描くと、カズサが横から付け足す。
どの道から来たのか。
帰りはどちらへ向かうのか。
表の棚にあった、形の変わった菓子は何だったのか。
話しているうちに、卓の隅にあった光が、セイアの指先まで伸びてきた。
カップを持つと、手の甲が温かい。
厨房の窓が開き、庭へ新しい空気が入ってきた。
◇
「それじゃ、そろそろ行こうか」
カズサが言い、四人が鞄を持つ。
このあと、駅のほうも見てから帰るつもりなのだという。
アイリが二人へ向き直った。
「お話できて、楽しかったです」
「私もだよ。タルトのことを教えてくれて、ありがとう」
「いえ。私たちも、今日初めて食べたので」
「それでも、いいところを選んでいただきました」
ナギサが言うと、ヨシミが嬉しそうに顔を上げた。
「はい。ここは、また来たいです」
「今度は、どんなタルトになっているんでしょうね」
アイリが、卓の上のメニューへ目を落とした。
「今日と同じでも、私は迷ってしまいそうだよ」
「分かります。私も、もう一度食べたいです」
そう答える声に、来たときのためらいはなかった。
ナツがメニューを卓の中央へ戻し、カズサは椅子の下を一度見てから立ち上がる。
四人の声が、通路へ移っていった。
「あ、これ。さっき言ってたのって、この袋?」
「そっちじゃない。その隣」
売店でも、まだ話が続いている。
セイアはカップを置き、ナギサと目を合わせた。
二人とも、笑っていた。
しばらくして、入口の鈴が鳴る。
通りへ出た四人の声は、もう聞こえなかった。
◇
店員が空いた皿を下げに来た。
ナギサは礼を言ってから、メニューへ手を伸ばす。
「紅茶を、もう一杯お願いできますか」
「はい。同じものでよろしいでしょうか」
「ええ。お願いします」
「それなら、私も同じものを」
セイアも続けた。
店員が戻っていくと、ナギサはメニューを元の位置へ置いた。
「よく合っていましたね。あのタルトに」
「紅茶かい」
「はい。いただいたあとも、香りがちゃんと残っていて」
セイアは空のカップへ目を落とす。
縁の近くへ顔を寄せると、まだ淡い香りがした。
「二杯目は、お茶のほうをゆっくり楽しめそうだ」
「私も、そう思いまして」
ナギサは椅子へ座り直した。
急いで次の店を探す理由はなかった。
◇
隣の卓が片付くと、その向こうの鉢がよく見えた。
背の高い葉の下に、小さな白い花が咲いている。
ナギサがそちらを見ているので、セイアも目を向けた。
「あそこにも花があったんだね」
「先ほどは、皆さんのお席で隠れていましたから」
葉の間を風が通る。
花の影が、鉢の縁で動いた。
ナギサは上着を椅子の背へ掛け、膝の上の手提げを脇へ移す。
やがて新しい紅茶が運ばれてきた。
セイアは湯気が落ち着くのを待ちながら、入口のほうを眺める。
さっきの四人とは違う客が、今度は一人で通路を抜けてきた。
細長い荷物を椅子へ立てかけ、メニューを開く。店員と言葉を交わす様子には、迷いがない。
通りを歩いてきたときには、こんな庭があるとは分からなかった。
写真にも、表の売店しか写っていなかった。
ナギサはカップを手に取る。
「来てみてよかったです」
「うん。誘ってくれて、ありがとう」
「こちらこそ。お付き合いいただいて」
ひと口飲んで、カップを戻す。
ナギサは、そのまま庭へ視線を向けていた。
セイアも紅茶を飲む。
先ほどよりゆっくり口へ含むと、甘い菓子のあとには気付かなかった渋みが、舌の上に残った。
それも、今はちょうどよかった。
◇
「そういえば、湖のときにも茶葉を見に行っていたね」
セイアが言うと、ナギサは頷いた。
「ええ。あちらのお店も、また伺いたいですね」
「今度は、ミカも一緒に」
「はい。湖のほうも」
セイアは、三人で乗ったボートを思い出す。
水面の揺れと、途中で止まって見た岸の景色。
ナギサの目にも、同じようなものが浮かんでいるのだろうか。窓の外ではなく、庭の上に切り取られた空を見ていた。
「ここでしたら、もう少し気軽に来られますね」
「昼食のあとに出ても、まだお茶を飲んでいられるからね」
セイアは端末を出し、時刻だけを確かめた。
まだ明るいうちに、十分帰れる。
画面を伏せる。
ナギサは残りの紅茶を飲んでから、売店のほうを見た。
「それでは、そろそろお土産も選びましょうか」
「そうだった。今日の目的が、まだ半分残っていたね」
「半分以上かもしれません。種類が多かったですから」
セイアも、棚に並んでいた箱を思い出す。
選ぶ時間は、少し長めに取っておいたほうがよさそうだった。
◇
通路を戻ると、庭にいた間より店内の色が濃く見えた。
木の棚と、紙箱の縞。袋の口を結ぶ細い紐。
ナギサは最初に見ていたサブレの前へ戻る。
「ミカさんには、こちらがよろしいでしょうか」
「君が気になっていたものなら、話も添えられるね」
セイアは隣の箱を見る。
こちらには、色の違うサブレが二種類入っていた。
「こちらも同じお菓子かな」
「はい。プレーンとココアの詰め合わせです」
店員が答える。
ナギサが、二つの箱を見比べた。
「では、こちらにしましょうか。三人でいただけますし」
「賛成だよ」
箱は決まった。
それからナギサは、隣にあった細長い焼き菓子へ目を向ける。
ナッツを散らした、小さな一本だった。
「こちらは、一つから買えますか」
「はい。お好きな数でどうぞ」
セイアはナギサを見る。
「まずは、自分の分だったね」
「ええ。セイアさんは、よろしいのですか」
そう聞かれると、セイアにも見ていたものがある。
最初に気になった、砂糖の薄くかかった焼き菓子だった。
「では、私はこちらを」
小さな袋が二つ、箱の横へ並んだ。
店員が手際よく包み、紙袋へ収めていく。
セイアは入口の脇にあるカードを一枚もらった。
店の名前と、緑の日除けの絵が印刷されている。
裏には、営業時間と定休日が書かれていた。
「お庭のお席も、こちらの時間でよろしいのですか」
ナギサが尋ねる。
「はい。ただ、雨の日は奥の屋根のあるところだけになりますので」
「そうなのですね。ありがとうございます」
ナギサは紙袋を受け取った。
セイアも自分の袋を持ち、カードを鞄へしまう。
◇
外へ出ると、通りの風が頬に触れた。
来たときに軒先を掃いていたロボットは、今は店の中で何かを並べている。
台車に積まれていた空の箱も、なくなっていた。
同じ道を、二人で戻る。
ナギサが持つ紙袋の口から、縞の入った箱が見えていた。
「今度は、お菓子を買いに来るだけでもよさそうですね」
「そのつもりで来て、また奥へ座ってしまうかもしれないよ」
ナギサが手提げを持ち直す。
「ええ。今日のようなお天気でしたら、きっと」
交差点へ出ると、バス停の標識が見えた。
行きには地図で確かめた角を、今度は迷わず曲がる。
セイアが停留所の時刻表を見ている間に、ナギサはミカへ短い連絡を送っていた。
「お土産があると伝えておきました」
「それは、帰ってから開けるのが早そうだね」
ナギサの端末が、すぐに震える。
画面を見せてもらうと、楽しみにしている、という言葉のあとに、気を付けて帰ってきてね、と続いていた。
セイアは頷き、鞄の留め具を閉じる。
バスが来るまで、二人は並んで待った。
◇
帰りの窓には、行きと反対側の家々が流れた。
途中で、鉢を並べた店が見える。
ナギサが顔を上げ、セイアもそちらを見た。
「あそこでしたね」
「うん。次に来たら、迷わず降りられそうだ」
花の色が窓の端へ消える。
その先には、見慣れた建物があった。
出発したときと同じ停留所で降りると、セイアは鞄の位置を直した。
紙袋が一つ増えたぶんだけ、両手がふさがっている。
ナギサも隣へ降りてきた。
まだ夕食までには時間がある。
「帰ったら、どのお茶を合わせようかな」
セイアが言うと、ナギサは歩きながら考えた。
「まずは、いつものものでいかがでしょう。サブレのほうを、よく味わいたいので」
「それがよさそうだね」
門の向こうから、生徒たちの話し声が聞こえる。
二人は紙袋を提げたまま、いつもの道へ戻っていった。