百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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16.百鬼夜行・小劇場前通り #一枚の切符 #開演まで #今度こそ

 

 昼食のあとで出かけるには、ちょうどよい時間だった。

 

 セイアは机の上に端末を置き、保存してあった公演案内を開いた。

 

 赤い幕の前に、風呂敷包みが二つ描かれている。

 

 その間から顔を出しているのは、いかにも困り果てた様子の店番だった。片方の包みに手を伸ばしながら、目だけは反対側を見ている。

 

 絵の下には、夕方の開演時刻。

 

 途中に休憩を挟み、夜になるころに終わる。

 

 帰りの列車は、すでに調べてあった。終演後、駅まで歩く時間を取っても余裕がある。

 

 セイアは案内を閉じ、ナギサとミカに出かけることを伝えた。

 

 夕食は向こうで済ませること。帰るのは夜になること。

 

 飲み水を鞄へ入れ、薄い上着を羽織る。

 

 手元の端末が、短く震えた。

 

 ミカから、楽しんできてね、という言葉が届いている。続いてナギサからも、気を付けて、との返事が来た。

 

 セイアは端末を鞄へ収めた。

 

 窓の外は、まだ明るい。

 

 いつもなら帰りのことを考え始める時間に、今日は幕が上がる。

 

     ◇

 

 列車を降りると、改札へ向かう人の流れが二つに分かれた。

 

 セイアは駅の案内図を見て、通りの名前を確かめる。

 

 劇場へは、商店の並ぶ道を少し歩けばよいらしかった。

 

 出口の階段を下りる途中で、どこかの店から呼び込みの声が聞こえた。

 

 折瀬へ向かったときとは、違う駅だった。

 

 こちらには、駅前から軒を連ねる通りがある。低い建物の間から高い建物がのぞき、看板の上を、細く区切られた空が続いていた。

 

 荷物を積んだ台車が通る。

 

 その後ろから、買い物袋を提げた生徒が二人、何かを話しながら歩いてきた。

 

 店先には、竹の籠や、布を巻いた細長い棒が並んでいる。隣の店では、ロボットが大きな箱を持ち上げ、入口の内側へ収めていた。

 

 セイアはその前を避けて、通りの端へ寄る。

 

 昼の商いを終える店もあれば、これから暖簾を出す店もあった。

 

 ガラス戸の向こうで椅子を下ろしている姿が見える。入口へ運ばれた黒板には、まだ料理の名が半分しか書かれていない。

 

 セイアは歩く速さを緩めた。

 

 窓口の場所を見つけるまでには、もう少し時間を使えそうだった。

 

     ◇

 

 赤い幕の絵は、曲がり角の先にあった。

 

 端末で見たものより、ずっと大きい。

 

 困った顔の店番が、今はセイアの頭より高いところから、通りを見下ろしている。

 

 その下に、木の枠で囲まれた入口があった。

 

 扉はまだ閉まっていたが、横の小さな窓口には灯りがついている。

 

 セイアが近づくと、中にいた百鬼夜行の生徒が顔を上げた。

 

「いらっしゃいませ。本日の公演ですか」

 

「ああ。まだ席はあるかな」

 

「はい。お一人様ですか」

 

「一枚お願いできるかな」

 

 窓口へ、座席図が差し出された。

 

 思っていたよりも、列は少ない。

 

 舞台を示す長方形の下へ、小さな四角が並んでいる。係の生徒は、その中央から少し後ろを指した。

 

「こちらでしたら、全体が見やすいと思います」

 

「では、そこをお願いしよう」

 

 代金を払い、紙の切符を受け取る。

 

 公演名と、日付と、席の番号。

 

 端の細い部分には、小さく点線が入っていた。

 

「開場は、こちらのお時間です。入口で切符をお見せください」

 

「ありがとう。まだ、少し時間があるね」

 

「ええ。お近くでしたら、お食事をされてからでも」

 

 セイアは窓口の時計を見る。

 

 慌てなくても、一食分の時間はあった。

 

 切符を鞄の内側へ入れてから、入口の脇に貼られた案内を読む。

 

 小さな旅籠で留守番を任された店番が、二人の客から荷物を預かる。

 

 包みは二つ。

 

 間違えようのないはずの仕事が、なぜか一向に片付かない。

 

 そこまで読んだところで、風が角を曲がってきた。

 

 魚を焼く匂いがした。

 

 セイアは、文字から顔を上げる。

 

 隣の通りに、紺色の暖簾が見えた。

 

     ◇

 

 暖簾の脇には、今日の定食が書かれていた。

 

 焼き鯖。

 

 煮魚。

 

 鶏の照り焼き。

 

 セイアは最初の一行へ目を戻した。

 

 さっきから届いている匂いには、もう答えが出ているようなものだった。

 

 引き戸を開けると、奥から声がかかる。

 

「いらっしゃいませ。お一人でしたら、こちらへどうぞ」

 

 前掛けをつけた犬の店員が、壁際の二人掛けを示した。

 

 卓の端には、箸の入った筒と、小さな醤油差しがある。

 

 セイアは鞄を隣の椅子へ置き、品書きを開いた。

 

「焼き鯖の定食を、お願いできるかな」

 

「はい。ご飯の量は、普通でよろしいですか」

 

「うん。それでお願いするよ」

 

 湯呑みが置かれる。

 

 食堂の奥では、皿の触れ合う音と、油のはぜる音がしていた。

 

 まだ夕食には少し早い時間だったが、席は半分ほど埋まっている。

 

 向こうの卓にいた生徒が、紙を一枚、鞄へしまった。

 

 同じ切符だった。

 

 セイアも、内側へ入れた切符の位置を一度確かめてから、鞄の留め具を閉じた。

 

     ◇

 

 定食は、大きな盆に載って来た。

 

 細長い皿の上に、焼き目のついた鯖。

 

 脇には大根おろしと、小さく切った漬物。別の器には、黄色い出汁巻きが二切れ並んでいる。

 

 味噌汁からは、刻んだ葱の香りが上がっていた。

 

「お待たせしました。熱いので、お気を付けください」

 

「ありがとう」

 

 セイアは箸を取り、鯖の端へ入れた。

 

 皮が小さな音を立てて割れる。

 

 その下の身は、箸を押し込まなくても、厚いところからすっと離れた。

 

 白い湯気が、切り口から上がる。

 

 まずは、そのまま食べた。

 

 表面の塩気に続いて、温かな脂が口へ広がる。皮の焼けたところは香ばしく、柔らかい身と一緒に噛むと、かすかな苦みが残った。

 

 ご飯を一口。

 

 思っていたよりも、箸が早く動く。

 

 セイアは茶碗を置き、今度は大根おろしを少し取った。

 

 鯖の身へ載せて食べると、冷たさと、すっきりした辛みが加わった。

 

 同じ皿の上で、次の食べ方が決まっていく。

 

 出汁巻きは、箸で持ち上げると少したわんだ。

 

 噛むと、中から出汁が滲む。

 

 魚の塩気が残った口には、その甘さがよく分かった。

 

 セイアは一度箸を止め、味噌汁を飲んだ。

 

 出かける前には、向こうで何か食べよう、としか決めていなかった。

 

 ずいぶんよいところへ、匂いに連れてきてもらったものだった。

 

     ◇

 

「このあと、あちらをご覧になるんですか」

 

 お茶を足しに来た店員が尋ねた。

 

 セイアは頷く。

 

「ああ。窓口で、食事をしてからでも間に合うと聞いたのでね」

 

「ええ。まだ大丈夫ですよ。今のお客さんは、あちらへ行かれる方も多いです」

 

 近くの卓でも、食べ終えた器の脇へ切符が出されていた。

 

「皆さん、先に食事をしてからなのだね」

 

「あそこ、静かな場面もありますからね」

 

 店員が笑う。

 

 セイアは、自分の茶碗を見た。

 

「それは、今のうちに済ませておくべきだ」

 

「ご飯のお代わりもできますよ」

 

「ありがとう。ただ、今度は眠くなってしまいそうだ」

 

 店員はもう一度笑い、空いた卓のほうへ向かった。

 

 皿には、骨のそばの身が少し残っている。

 

 セイアは箸で丁寧に外し、大根おろしと一緒に食べた。

 

 最後に出汁巻きを半分ずつ。

 

 茶碗のご飯がなくなるころには、鯖の皿もきれいになっていた。

 

 お茶を飲み、壁の時計を見る。

 

 そろそろ戻れば、ちょうどよさそうだった。

 

     ◇

 

 劇場の入口は、先ほどより明るく見えた。

 

 扉が開き、中から灯りが通りへこぼれている。

 

 窓口の前には、数人の客が並んでいた。

 

 セイアは鞄から切符を出し、入口の係員へ渡す。

 

 点線に沿って端が切り取られ、席番号のある側が戻ってきた。

 

「お席は、こちらの通路からどうぞ」

 

 薄い上演案内を一枚受け取り、中へ入る。

 

 廊下には、以前の公演の写真が並んでいた。

 

 同じ舞台の上に、違う部屋がある。

 

 看板の店番によく似た顔も見つかった。こちらの写真では、長い棒を持ち、今よりずっと真面目な表情をしている。

 

 セイアは少し立ち止まり、それから客席へ続く扉をくぐった。

 

     ◇

 

 舞台は、思っていたより近かった。

 

 厚い幕の下に、わずかな隙間がある。

 

 その前には、何も置かれていない床が細く伸びていた。

 

 セイアは座席の番号を確かめ、中央寄りの椅子へ座る。

 

 背もたれへ身体を預けると、舞台の左右が一度に見えた。

 

 鞄は足元へ置いた。

 

 その前に端末を取り出し、音が出ないことを確かめる。

 

 時刻は、開演まであと少しだった。

 

 画面を消して、鞄へ戻す。

 

「すみません、隣です」

 

 顔を上げると、百鬼夜行の制服を着た生徒が、切符を手に立っていた。

 

 セイアは膝を引き、足元の鞄を少し寄せる。

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 生徒が席へ収まり、手に持っていた上演案内を開いた。

 

 セイアも、自分のものへ目を落とす。

 

 表には、入口と同じ絵がある。

 

 内側には、登場人物と、演じる生徒たちの名が並んでいた。

 

 店番。踊り手。職人。旅籠の主人。

 

 あらためて店番の絵を見ると、どうにも頼りない。

 

 けれど、本人だけは真剣なのだろう。眉の寄せ方に、そのつもりがよく出ていた。

 

 幕の下を、影が横切る。

 

 奥で、何かを置く音がした。

 

 セイアは上演案内から顔を上げた。

 

 しばらくして、客席の明かりがゆっくりと落ち始める。

 

 隣で紙を畳む音がした。

 

 セイアも案内を閉じ、膝の上へ置く。

 

 最後に残っていた話し声が、後ろのほうで小さくなった。

 

     ◇

 

 幕が開くと、旅籠の入口が現れた。

 

 低い帳場と、その脇の棚。

 

 奥には、客室へ続くらしい廊下が描かれている。

 

 入口に腰を下ろしていた店番が、立ち上がろうとして袖を引っかけた。

 

 振り返る。

 

 誰もいない。

 

 もう一度前へ進もうとして、同じところへ引かれる。

 

 客席のどこかで、笑い声がした。

 

 ようやく自分の袖だと気付いた店番は、丁寧に布を外した。何事もなかったように襟を直し、帳場へ向かう。

 

 ちょうどそのとき、奥から主人が出てきた。

 

「留守の間、頼みましたよ」

 

「はい。お任せください」

 

「お客様の荷物は、間違えないように」

 

「荷物は荷物の場所へ。お客様はお客様のお部屋へ」

 

「あなたは?」

 

「私は、ここにおります」

 

 言い切ってから、店番が帳場の内側へ入りかける。

 

 ところが、前へ進めなかった。

 

 今度は主人が、裾を踏んでいた。

 

 店番が主人を見上げるまでに、少し間があった。

 

 セイアの口元も緩んだ。

 

     ◇

 

 主人が出かけると、すぐに最初の客が来た。

 

 踊り手だった。

 

 夕方から近くの座敷へ出るのだという。細い鼻緒の草履を脱いで上がり、持っていた包みを帳場へ置いた。風呂敷の結び目を解く。

 

 鮮やかな帯が見えた。

 

「こちら、あとで使いますから」

 

「大切にお預かりします」

 

 店番は中身を見て頷き、包み直されたものを棚の端へ置いた。

 

 踊り手が奥へ消えると、今度は職人が現れる。

 

 こちらも包みを持っていた。幅の広い鼻緒の草履を脱ぎ、先ほどの客と同じように帳場へ向かう。

 

 布の柄が、よく似ている。

 

 職人は中から、畳んだ仕事着を少しだけ引き出した。

 

「洗ってもらった着替えだ。ひと風呂浴びたら取りに来る」

 

「こちらも、大切に」

 

 店番は隣へ並べようとして、一度手を止める。

 

 包みを見比べる。

 

 客席のほうまで分かるように、大きく頷いた。

 

 それから二つの間へ、手のひら一枚分の隙間を空けた。

 

 セイアは、棚を見る。

 

 間隔を空けたところで、中身まで覚えたことになるのだろうか。

 

 店番は、もう安心した顔をしていた。

 

     ◇

 

 芝居の中では、店番の用事が少しずつ増えていった。

 

 部屋を案内する。

 

 湯の支度を確かめる。

 

 食事の膳を運び、客の数を数える。

 

 茶碗が一つ余ると、客を数え直す。自分を数に入れたことに気付いて茶碗を下げると、今度は盆まで一緒に持ち帰ってしまう。

 

 廊下の向こうから、声が飛んでくる。

 

「お茶は?」

 

「ただいま」

 

「今度こそ、間違いございません」

 

 戻ってきた店番の手には、なぜか自分の湯呑みがある。

 

 言われて初めて気付き、片方の袖を直す。

 

 その一つ一つは、ひどく大きな失敗ではなかった。

 

 けれど、本人がようやく落ち着いたと思ったところへ、次の用事がやってくる。

 

 セイアも、いつの間にか店番の手元を目で追っていた。

 

 そこへ置いたら、また分からなくなる。

 

 今度は、そのまま持っていけばよい。

 

 そう思ったところで、役者がぴたりと足を止める。

 

 客席の笑いが収まるのを待っているのか、それとも本当に困っているのか。

 

 区別のつかない顔で、店番は袖を直した。

 

     ◇

 

 職人が、着替えを取りに来た。

 

 店番は、棚へ向かう。

 

 一度、踊り手の包みへ手を伸ばした。

 

 途中で止まり、もう片方を見る。

 

 セイアは背もたれから、わずかに身体を起こした。

 

 店番は職人の包みを取った。

 

 正しい。

 

 胸を張る前に、あの袖を直す。

 

「今度こそ、間違いございません」

 

 職人へ差し出そうとした、そのときだった。

 

「ちょっと、お湯が出ないんですけれど」

 

 奥から踊り手が顔を出す。

 

 店番は振り向き、手に持った包みを帳場へ置いた。

 

「お湯でしたら、赤いほうを」

 

「赤いほう?」

 

「そうです。青いほうではなく」

 

「赤い札に、冷水と書いてありますよ」

 

 店番の顔が止まる。

 

 客席から、笑いが起きた。

 

「……では、札に従っていただいて」

 

 踊り手が頷きかけ、店番の後ろへ目を向ける。

 

 職人が、手を出したまま待っていた。

 

 店番は、はっとしたように前へ向き直る。

 

 そして、帳場に置いた包みを通り過ぎ、棚に残っていたもう一つを取った。

 

 セイアは口元へ手を寄せかけた。

 

 職人は包みを受け取り、結び目を解く。

 

 鮮やかな色がのぞいた。

 

 片端をつまみ、持ち上げる。

 

 帯が出てくる。

 

 まだ出てくる。

 

 職人は無言のまま、畳まれたところをもう一つ開いた。

 

 セイアの喉から、小さく声が漏れた。

 

 隣からも笑い声がした。

 

 舞台の上では、職人が両手を広げている。

 

 店番はその間に垂れた帯を見て、それから、奥に立っている踊り手を見る。

 

 もう一度、帯を見る。

 

「……ずいぶん、伸びましたね」

 

 今度は、客席のあちこちから声が上がった。

 

 セイアも笑っていた。

 

 職人は、帯の端を持ったまま言う。

 

「洗っただけで、こうなるものかね」

 

 店番の答えを待つ間が、またおかしかった。

 

     ◇

 

 踊り手が帯を引き取ろうとすると、店番が慌てて間へ入った。

 

「一度、こちらへお戻しください。順番に、お返しいたしますので」

 

「今、渡してもらえば済むんじゃないの」

 

「きちんと、帳場を通しませんと」

 

 職人が店番を見る。

 

 踊り手も見る。

 

 二人は顔を見合わせてから、長い帯をゆっくり畳み始めた。

 

 店番はその間に、帳場へ置き忘れた仕事着の包みを見つける。

 

 ずっとそこで預かっていたような顔で、結び目を整える。

 

 セイアには、最初から見えていた。

 

 だからこそ、何もなかったように襟を直す仕草が、余計におかしい。

 

 ようやく二つの包みが帳場へ揃ったところで、外から主人の声がした。

 

「戻りましたよ。変わりはありませんか」

 

 店番は、二人の客を背にして立った。

 

「はい。何も」

 

 すぐ後ろで、帯の端が包みから垂れる。

 

 客席が笑い、その声の中で幕が閉じた。

 

     ◇

 

 灯りが戻ると、周りの顔が見えるようになった。

 

 上演案内が開かれる音がする。

 

 立ち上がって通路へ出る客もいた。

 

 セイアは膝の上の紙を持ち上げ、少しだけ息をついた。

 

 思っていたより、肩が前へ出ていたらしい。

 

 背もたれへ座り直すと、隣の生徒と目が合った。

 

「あの人、ずっとあの調子なんでしょうか」

 

 生徒が、小さく笑いながら言った。

 

「どうだろうね。正しいほうを持っていたところまでは、よかったのだけれど」

 

「『今度こそ』って言うと、もう駄目なんですよね」

 

「うん。私も、あの顔を覚えてしまったよ」

 

 生徒は頷き、案内の内側を見た。

 

「店番の役、この方なんですね」

 

 指の先には、役者の小さな写真があった。

 

 セイアも、自分の案内を開く。

 

 舞台で見たばかりの顔なのに、ずいぶん違って見えた。

 

 眉が困っていない。

 

 それだけで、印象が変わる。

 

「廊下の写真にも、いたようだね」

 

「あ、私も見ました。棒を持っていた人ですよね」

 

「あちらは、何も取り違えそうになかった」

 

 隣の生徒が笑う。

 

 セイアも、もう一度写真を見た。

 

 舞台のほうから、低い音が聞こえる。

 

 幕の向こうで、棚か何かを動かしているらしかった。

 

 生徒が立ち上がり、セイアは膝を引いた。

 

「少し、飲み物を買ってきます」

 

「ああ」

 

 通路へ出ていく姿を見送り、セイアは足元の鞄へ手を伸ばす。

 

 水を少し飲んだ。

 

 蓋を閉め、鞄へ戻す。

 

 端末は出さず、案内を眺めて待った。

 

     ◇

 

 隣の生徒が戻って間もなく、再開を知らせる声が聞こえた。

 

 通路にいた客たちが、席へ帰ってくる。

 

 セイアは案内を畳み、今度は鞄へ収めた。

 

 明かりが落ちる。

 

 幕が開くと、主人が帳場の前に立っていた。

 

 店番は、その横で両手を揃えている。

 

 帯は、もうきちんと畳まれていた。

 

 二つの包みは棚へ戻されている。主人が、持ってきた自分の包みをその隣へ置いた。

 

 けれど、棚の上には包みが三つある。

 

 セイアは、数を見直した。

 

 主人が持ち帰った荷物が、一つ増えている。

 

 店番も、それに気付く。

 

 客席へ向いた顔が、ゆっくりと困ったものに戻った。

 

 笑い声が起こる。

 

 セイアは、まだ何も言わないその顔を見ていた。

 

     ◇

 

 後半は、主人まで巻き込んで話が進んだ。

 

 店番が説明すればするほど、預かった順番と、渡した順番が分からなくなる。

 

 主人は途中まで真面目に聞いていたが、ついに手を上げた。

 

「包みは、いくつあるんです」

 

「三つです」

 

「私のものを除けば」

 

「二つです」

 

「お客様は」

 

「お二人です」

 

 主人は頷き、自分の包みを抱えて奥へ下がった。

 

 店番だけが、その場に残る。

 

 自分で言った数を、指で確かめている。

 

 セイアは、笑いを含んだ息を吐いた。

 

 難しくしていたものが、目の前から一つ減っただけだった。

 

 やがて二人の客が戻ってきた。

 

 店番は棚を見てから、ゆっくり袖を直した。

 

 隣で、生徒がもう小さく笑っている。

 

 セイアも舞台へ目を向けたまま、唇を結んだ。

 

「今度こそ、間違いございません」

 

 店番は、包みを一つ取る。

 

 そして、すぐには渡さなかった。

 

 帳場へ置き、結び目を解く。

 

 中には、仕事着があった。

 

「こちらは?」

 

「私のだ」

 

 職人が手を上げる。

 

 店番は、その顔をよく見てから渡した。

 

 次の包みも開く。

 

 帯が見えたところで、踊り手が頷いた。

 

 今度は、その手へ正しく収まる。

 

 客席のどこかから、小さな拍手が起きた。

 

 店番は胸を張りかけ、途中でやめた。

 

 二人の手元を、もう一度見ている。

 

 セイアも、ようやく背もたれへ身体を預けた。

 

     ◇

 

 そのあとも、芝居は少し続いた。

 

 踊り手は無事に支度を整え、職人も着替えて、出かけるために入口へ来る。

 

 店番が、今度は草履を並べていた。

 

 細い鼻緒のものと、幅の広い鼻緒のもの。

 

 幕が開いたころ、それぞれが脱いだ二足だった。

 

 店番は膝をつき、入口へまっすぐ向けて揃える。

 

 二足の間も、きちんと空けた。

 

「お忘れ物はございませんか」

 

「荷物は持ったよ」

 

「帯も、ちゃんと締めています」

 

 踊り手が、腰へ軽く手を添える。

 

 店番は満足そうに頷いた。

 

 職人と踊り手が、足元を見る。

 

 自分たちの前に置かれた草履を見る。

 

 それから、互いを見る。

 

 二人は何も言わずに場所を入れ替え、自分の草履を履いた。

 

 店番だけが、深く頭を下げたままだった。

 

 客席に、最後の笑いが広がった。

 

 セイアも、肩を揺らしていた。

 

 店番が顔を上げる。

 

 誰もいなくなった入口を見て、ようやく息をつく。

 

 奥から主人が声をかけた。

 

「さて、今度はあなたのご飯ですよ」

 

 店番が、ぱっと顔を明るくする。

 

 その表情のまま、幕が閉じていった。

 

     ◇

 

 拍手の中で、幕がもう一度開いた。

 

 役者たちが並んでいる。

 

 店番役の生徒も、中央に立っていた。

 

 さっきまでの頼りない立ち方ではない。

 

 足を揃え、背を伸ばし、客席へ深く頭を下げる。

 

 セイアは、その姿を見ながら拍手を続けた。

 

 顔を上げた生徒が、隣の役者と言葉を交わす。

 

 何を言ったのかは聞こえなかった。

 

 けれど、二人が同時に笑ったのは見えた。

 

 主人役が一歩前へ出て、来場への礼を述べる。

 

 それから、もう一度全員で一礼した。

 

 幕が閉じるまで、拍手は続いていた。

 

     ◇

 

 客席が明るくなっても、セイアは少しだけ座ったままでいた。

 

 舞台の上では、もう何も起こっていない。

 

 赤い幕の裾が、ごくわずかに揺れている。

 

 隣の生徒が鞄を持ち、立ち上がった。

 

「面白かったですね」

 

「うん。最後まで、気が抜けなかったよ」

 

「最後も、揃えるところまではよかったんですけど」

 

「丁寧だったね。とても」

 

 また、二人で笑った。

 

 セイアも鞄を持ち上げ、足元に何もないことを確かめる。

 

 廊下へ出ると、客たちの声が近くなった。

 

 先ほどの台詞を真似している声も聞こえる。

 

 写真の前で、セイアは一度足を止めた。

 

 長い棒を持った役者が、真面目な顔でこちらを見ている。

 

 隣の生徒も、その写真を見た。

 

「次は、こういうのも見てみたいです」

 

「ああ。私も気になるよ」

 

 入口へ向かう流れが、二人の間を少し開けた。

 

 外へ出たところで、生徒が振り返る。

 

「それでは」

 

「うん。気を付けて」

 

 軽く会釈を交わし、それぞれの向きへ歩き出した。

 

     ◇

 

 通りには、灯りが増えていた。

 

 昼間は紙の色まで見えていた看板が、今は文字のところだけ明るい。

 

 入口の脇に貼られた店番の絵も、照明を受けて浮かんでいる。

 

 セイアはその前で、もう一度足を止めた。

 

 来たときには、ただ困った顔だった。

 

 今は、あの声まで聞こえてくる。

 

 少し先で、同じ公演を観ていたらしい客たちが、笑いながら角を曲がった。

 

 セイアも駅へ向かう。

 

 食堂の暖簾は、まだ出ていた。

 

 ガラス戸の向こうには、新しい客が座っている。店員が盆を持って通り、その上に、先ほどと同じ細長い皿が見えた。

 

 鯖の皮を割ったときの感触を、セイアは思い出す。

 

 自分が座っていた卓には、今は二人連れの客がいる。

 

 セイアは鞄の紐を直し、歩き出した。

 

 商店の戸が閉まる音と、これから店へ入る客の声が、同じ道に聞こえていた。

 

     ◇

 

 駅へ着くと、列車を待つ時間が少しあった。

 

 セイアはホームの椅子へ座り、端末で二人へ連絡を送った。

 

 公演が終わったこと。予定していた列車に乗ること。

 

 送ってから、鞄の中の上演案内を取り出した。

 

 間へ、切符の半券を挟む。

 

 角が折れないように入れ直したところで、端末が震えた。

 

 ミカからだった。

 

『お芝居どうだった?』

 

 セイアは少し考えた。

 

 あの包みを説明するには、最初に帯を預かったところから話したくなる。

 

 けれど、そうすると袖のことも、湯呑みのことも入れたくなった。

 

 ひとまず、短く返す。

 

『よく笑ったよ』

 

 続いてナギサから、帰路を気遣う返事が届いた。

 

 セイアは二つの返事を読み、端末をしまった。

 

 ホームへ、列車が入ってくる。

 

     ◇

 

 帰りの席からは、暗い窓に車内の灯りが映っていた。

 

 その向こうを、町の明かりが流れていく。

 

 セイアは鞄を膝の上へ置いた。

 

 食堂で満たされた腹は、まだ落ち着いている。

 

 足の裏には、駅まで歩いたぶんの重さがあった。

 

 窓へ視線を向けたまま、ふと、あの店番の顔を思い出す。

 

 片方の袖を直し、胸を張る。

 

 正しい包みは、もう手に持っている。

 

「……今度こそ、だったね」

 

 小さく呟き、口元を緩めた。

 

 向かいの窓に、笑っている自分の顔が薄く映った。

 

 セイアはそのまま、背もたれへ身体を預ける。

 

 列車は、明るい駅を一つ過ぎた。

 

     ◇

 

 最寄りの駅で降りると、空気が少し冷たかった。

 

 セイアは上着の前を合わせ、改札を抜けた。

 

 見慣れた道には、まだ帰宅途中の生徒が歩いている。

 

 向こうの角に、いつも通る門が見えた。

 

 鞄の中で、紙の端がかすかに擦れる。

 

 家へ戻ったら、案内を机に置いておこうと思った。

 

 ミカに話すときには、あの絵を見せたほうが、店番の顔がよく伝わりそうだった。

 

 門をくぐり、灯りのついた建物へ向かう。

 

 セイアは鞄を持ち直して、扉を開けた。

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