百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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17.ミレニアム・電気街 #試し撮り #それぞれの好み #旅のおとも

 

 列車が駅へ近づくと、窓の外に大きな看板が増えた。

 

 薄い画面を何枚も重ねた広告。その下を流れる、部品の名前らしい文字。次の建物の壁では、小さな機械が同じ動きを繰り返している。

 

 セイアは端末に表示していた店の案内を閉じた。

 

 鞄の中には、まだ十分な空きがある。

 

 帰りには、ここへ箱が一つ入るかもしれない。

 

 そう思うと、駅へ着く前に、もう一度だけ商品の写真を見たくなった。

 

     ◇

 

 きっかけは、数日前のお茶の時間だった。

 

 ミカが、セイアの端末を横向きに持っていた。

 

「これ、どこ?」

 

「ここだよ」

 

「えっ」

 

 ミカは顔を上げ、部屋の中を見回した。

 

 写真には、窓辺の花瓶と、卓の端に置かれたカップが写っている。背後の窓には庭の緑が重なり、白いカーテンは画面の上の方で途切れていた。

 

 いつもの部屋だった。

 

 ただ、椅子へ座って見る高さとは少し違う。

 

「ああ、昨日の。セイアさん、窓のそばにいらっしゃいましたね」

 

 ナギサが、紅茶を注ぎながら言った。

 

「光がきれいに入っていたのでね」

 

「同じ部屋なのに、なんか違うところみたい」

 

 ミカは写真を送った。

 

 次も、同じ花瓶だった。

 

 その次も。

 

 ただし、カップの位置と、窓に映っているものが少しずつ違う。

 

「結構撮ったんだね」

 

「横へ動いたら、花の後ろに柱が入ってね。今度は、それを外してみたくなった」

 

「それで、もう一枚?」

 

「うん。そのあと、少し低いところからも」

 

 ミカが笑った。

 

「見てたよ。セイアちゃん、端末持って、右に行ったり左に行ったりしてたもん」

 

「声をかけてくれればよかったのに」

 

「楽しそうだったから。私も、そっちを撮っておけばよかったな」

 

 セイアは差し出された端末を受け取った。

 

 花瓶の写真は、まだ何枚か続いている。

 

「そんなに好きなら、カメラも見てみたら?」

 

 ミカが言った。

 

「カメラか」

 

「うん。こう、持って、かしゃってするやつ」

 

 両手で四角を作り、ミカは片方の人差し指を曲げる。

 

「それは、どのカメラでも、だいたい同じではありませんか」

 

「ナギちゃん、そこは分かるでしょ」

 

「ええ」

 

 ナギサは笑って、ポットを置いた。

 

 セイアは端末の画面を消さず、写真の端へ目を向けた。

 

 撮りたい範囲を変えるため、何度か画面を触ったことを覚えている。

 

 指で回せる輪や、押し込めるボタンがあったら、どんな感じがするだろう。

 

「以前、店先で見かけたときも、少し気になったんだ。持って歩けそうな、小さなものがあってね」

 

「では、実際にお持ちになってみるのがよいのでは。大きさは、写真だけでは分かりませんし」

 

「そうだね」

 

 セイアは頷いた。

 

 端末でも、写真は撮れる。

 

 それとは別に、その小さな道具を、自分の手で使ってみたかった。

 

「買ったら、また見せてね」

 

「写真のほうかな。それとも、カメラを」

 

「両方。あと、撮ってるセイアちゃんも」

 

「最後のものは、私からは見せにくいね」

 

 ミカは、自分の端末を卓の上で引き寄せた。

 

「じゃあ、それは私が撮る!」

 

     ◇

 

 列車が停まり、扉の向こうから駅の音が入ってきた。

 

 セイアは鞄を持って立ち上がる。

 

 あのあと、いくつかの商品を調べた。

 

 大きさも、値段も、付いている機能も違う。写真を見ている間に候補が増え、もう一度比べて、ようやく二つか三つになった。

 

 今日は、実機を手に取れる店へ来た。

 

 改札を抜けると、広い歩道へ人が流れていく。

 

 セイアもその中へ加わった。

 

 通りの片側には、電子機器の店が続いていた。

 

 窓いっぱいに並んだ画面。色の違うコードを吊った棚。入口の前で、指先ほどの部品を見せ合っている生徒たち。

 

 小さな台の上では、模型の列車が円を描いて走っていた。

 

 それを追うように、隣の機械の向きが変わっている。

 

 セイアが足を止めると、そばの画面にも列車が映った。

 

 線路の脇に立つ小さな木が、後ろへ流れていく。

 

「……よく追うものだね」

 

 しばらく見てから、端末の地図を確かめた。

 

 目当ての店は、もう少し先だった。

 

     ◇

 

 店の入口には、階ごとの売り場案内が立っていた。

 

 セイアがカメラの絵を探していると、すぐ横で足音が止まる。

 

 顔を向けると、ケイがこちらを見ていた。

 

「……買い物ですか」

 

「ああ。今日は、カメラを見に来たんだ」

 

 セイアが案内板を指すと、ケイも同じ場所へ目を向けた。

 

「二階ですね」

 

「君も、何か見に来たのかい」

 

「私は、もう少し先の店です。自分で使うカップを買おうと思って」

 

「それなら、この通りに店があったね。窓に食器が並んでいた」

 

「そこです」

 

 ケイは頷き、セイアの手元へ目を戻した。

 

 端末には、候補のカメラが表示されている。

 

「どれにするかは、決まっているんですか」

 

「このあたりを考えているのだけれど。説明を読んでいると、どれにもよいところがあってね」

 

「何を撮るつもりなんですか」

 

「街を歩いていて、目に留まったものかな。建物や、店先や」

 

 セイアは、さきほどの模型の列車を思い出した。

 

「ああいうものを、しばらく見ていることもありそうだ」

 

 ケイが店先を見る。

 

「それなら、まず大きさを確かめた方がよさそうですね。ずっと持って歩くのでしょうし」

 

「詳しいのかい」

 

「基本的なことくらいです。せっかく買っても、持ち歩きにくいと困りますから」

 

 ケイは入口の奥へ目を向けた。

 

「私も、少し見ていきます」

 

「では、付き合ってもらえるかな」

 

 二人で、自動扉の向こうへ入った。

 

     ◇

 

 二階には、低い展示台が並んでいた。

 

 カメラの下に、小さな説明札が差し込まれている。奥の棚には、ケースやストラップ。窓際には、撮影に使うらしい街並みの模型があった。

 

 セイアは、端末で見ていた一台を見つけた。

 

 思っていたより、厚みがある。

 

 手に持つと、指の置き場になる出っ張りが、ちょうどよく収まった。

 

「これは、遠くのものも大きく写せるようだね」

 

 説明札へ目を落として言うと、ケイも隣から覗いた。

 

「そうですね。ただ、街を歩きながらなら、それだけで決めなくてもいいと思います」

 

「ほかには、どこを見ればよいのかな」

 

「持ったときの重さと、手ぶれ補正。それから、操作するときに持ち直さなくて済むか、とか」

 

 ケイは、セイアの指先へ視線を向けた。

 

「そのボタン、押しやすいですか」

 

 セイアは画面を見たまま、親指を動かした。

 

 届く。

 

 けれど、隣の小さなダイヤルを回すには、少し持ち直したくなった。

 

「こちらは、もう少し下にあるとありがたいね」

 

「もう一つの方も、持ってみましょう」

 

 置き直して、隣の一台を取る。

 

 こちらは、手の中に入る部分が薄かった。

 

 指を曲げると、小さな輪の縁へ自然に触れる。

 

「……なるほど」

 

「写真では、そこまで分かりませんから」

 

 セイアは、二台をもう一度見比べた。

 

 説明札の文字は同じように細かいのに、先ほどとは読むところが変わっていた。

 

     ◇

 

「お試しになりますか」

 

 近くにいた犬の店員が、二人へ声をかけた。

 

 セイアは頷き、今持っているものと、最初の一台を示す。

 

「この二つを、比べてみたいのだけれど」

 

「でしたら、窓際の台でどうぞ。あちらの模型をお撮りいただけます」

 

 店員が、順に操作を教えてくれた。

 

 シャッターへ指を置く。軽く押して、画面の中に印が出るのを待つ。

 

 そのまま押し込むと、小さな音がした。

 

 画面に、小さな通りが残る。

 

 模型にはパン屋と、青い屋根の家と、窓の多い建物があった。道路の隅には、二つの箱を載せた手押し車が置いてある。

 

 セイアはレンズを向け直した。

 

 パン屋の看板を大きく入れる。

 

 今度は、その横の路地まで入れてみる。

 

 少し身をかがめると、青い屋根の向こうに、窓際の明るさが広がった。

 

「そちらの輪で、写す範囲を変えられます」

 

 店員の言葉に従って、指を動かす。

 

 看板が近づき、手押し車が画面の外へ出た。

 

 逆へ回すと、また戻ってくる。

 

「これは、分かりやすいね」

 

「もう一台も、どうぞ」

 

 持ち替えて、同じ通りを撮る。

 

 こちらには、撮影を助ける設定がいくつもあった。店員に一つ見せてもらい、動くものへ向けたときの使い方も聞く。

 

 ケイが横から、機能の違いを短く尋ねた。

 

 セイアも、説明を聞きながら画面を確かめる。

 

 どちらも、自分の撮りたいものは撮れそうだった。

 

 もう一度、薄い方を持つ。

 

 さきほどの輪へ指を置き、通りの角を入れる。

 

 押す。

 

 手元に返ってくる感触が、気持ちよかった。

 

「買う前から、ずいぶん楽しんでいますね」

 

 ケイの声に、セイアは顔を上げた。

 

「そう見えるかな」

 

「同じ看板、何枚か撮っていますよ」

 

「位置を変えると、後ろに見えるものも変わるのでね」

 

「ええ。見ていました」

 

 その返事が、数日前のミカと少し似ていた。

 

 セイアは笑って、二台を並べた。

 

「機能の方は、こちらでも十分なのだね」

 

「今話していた使い方なら、大丈夫だと思います。細かいところは、さっき確認しましたし」

 

 ケイが店員を見る。

 

 店員も頷いた。

 

 セイアは薄い方を持ち上げ、もう一度だけ構えた。

 

 小さな看板が、画面の中へ収まる。

 

「では、こちらにしよう。これなら、持って出たくなる」

 

     ◇

 

 箱から出した品は、展示されていたものより、表面が少し冷たかった。

 

 セイアは店員に頼み、その日のうちに使えるよう、必要なものを一緒に揃えてもらった。

 

 記録用のカードを入れ、電池を確かめ、ストラップを付ける。

 

 設定を済ませる間、ケイは隣で、持ち歩くためのケースを見ていた。

 

「こちらなら、鞄に入れても場所を取りませんね」

 

 差し出された柔らかなケースへ、カメラを入れてみる。

 

 ぴたりと収まった。

 

「これもお願いしようかな」

 

 会計を終え、セイアは小さな紙袋を受け取った。

 

 空いた箱は鞄へ。紙袋は畳んで、箱の脇へ差し込んだ。カメラはケースに入れて、その上の取り出しやすいところへ収める。

 

「ありがとうございました」

 

 店員に見送られ、二人は階段を下りた。

 

 通りへ出ると、さっきまで画面の中にあった模型より、ずっと大きな看板が頭上に並んでいた。

 

 セイアは思わず見上げる。

 

「もう撮りますか」

 

「いや。先に、君のカップを見に行こう」

 

 ケイは一度、セイアの鞄へ目を向けた。

 

「……では、あちらです」

 

 並んで歩き出すと、鞄の中の重さが、出発したときよりはっきり分かった。

 

 それを確かめるように、肩の位置を直した。

 

     ◇

 

 生活用品の店は、大通りから角を一つ曲がったところにあった。

 

 窓の内側に、白い皿が立てて並べられている。

 

 その下には、布巾と木の匙。入口に近い棚では、色違いの小さな籠が重なっていた。

 

 扉を開けると、さっきの店より照明が柔らかかった。

 

 ケイは食器の棚へ向かう。

 

 セイアも、その隣へ立った。

 

「こうして並ぶと、思っていたより種類がありますね」

 

 ケイが、棚の上から下まで見た。

 

 細く背の高いもの。口の広いもの。取っ手のないものまで、同じ段に並んでいる。

 

「普段使うものなら、まず、どのくらい入るものがよいか考えてみようか」

 

「大きすぎなくていいです。一度に、そんなにたくさんは」

 

「では、このあたりかな」

 

 セイアは中ほどの段を示した。

 

 ケイが灰色のカップを手に取る。

 

 丸い胴に、細めの取っ手が付いていた。

 

「形は、これがよさそうです」

 

「持ち手に、指を入れてみてもらえるかな」

 

 ケイは、両手で包んでいたカップを持ち替えた。

 

 人差し指を入れ、親指を添える。

 

「……少し、狭いですね」

 

「飲み物が入れば、今より重くなるからね。無理なく持てる方が、使いやすいと思うよ」

 

 ケイは隣のカップと持ち比べた。

 

 似た大きさでも、取っ手の張り出し方が違う。

 

 今度は、指の横に少し余裕があった。

 

「こちらの方が、楽です」

 

「うん。私なら、そちらの方が好みだね」

 

 セイアも、棚から一つ持ち上げた。

 

 口の縁が厚く、丸みがある。

 

「飲み口も、随分違うものですね」

 

「うん。薄いものも、厚みのあるものも、それぞれよさがある。気になるなら、そこも見比べておくといい」

 

 ケイは、棚へ戻したカップの縁を見た。

 

 それから、今持っている方へ目を戻す。

 

「持った感じは、こっちですね」

 

「色違いもあるようだよ」

 

 セイアが示すと、ケイは棚の奥を覗いた。

 

     ◇

 

 同じ形のカップが、三つ並んでいた。

 

 無地の白いもの。細い線の入ったもの。そして、片側に猫の絵が付いたもの。

 

 猫は、何かを待つように座っていた。

 

 ケイは絵柄の方を持ち上げ、ゆっくりと回した。

 

「こちらは……」

 

 そこで、手が止まる。

 

 覗き込んだ先、カップの底にも、小さな猫がいた。

 

 今度は、丸くなって眠っている。

 

「中にもいるんですね」

 

 セイアも、隣から見た。

 

「飲み終わるころには、そちらが見えるわけだ」

 

「……これは、ちょっといいですね」

 

 ケイはカップを傾け直し、外側の猫を見る。

 

 無地の方へ視線を移したあと、また手元へ戻ってきた。

 

「持ち手の方は?」

 

 セイアが尋ねる。

 

 ケイは指を入れ、確かめた。

 

「こちらも、持ちやすいです」

 

 少し持ち上げ、そっと下ろす。

 

 棚の上で、底が安定した。

 

「これにします」

 

「うん」

 

 セイアは頷いた。

 

 ケイがカップを手元へ寄せる。

 

 そのとき、外側の猫が、ちょうどこちらを向いた。

 

「待っているような顔だね」

 

「中では、もう寝ていますけど」

 

 セイアはもう一度、底を覗きたくなった。

 

     ◇

 

 会計の台で、カップは薄い紙と緩衝材に包まれた。

 

 店員が紙袋へ入れ、ケイへ渡す。

 

 ケイは持ち手を握り、底へもう片方の手を添えた。

 

 セイアも、隣の棚から離れる。

 

「何か、見ていたんですか」

 

「小さな皿があってね。形がよいと思っていたんだ」

 

「買わなくていいんですか」

 

「今日は、覚えておくことにするよ」

 

 ケイが、皿の並ぶ棚を一度見る。

 

 セイアは扉を開けた。

 

 外の明るさに、二人とも目を細める。

 

 通りの向こうから、玉ねぎを炒める匂いがした。

 

     ◇

 

「もう、お昼ですね」

 

 ケイが端末を確かめた。

 

 セイアも、通りの時計を見る。

 

 カメラとカップを選んでいる間に、昼を少し回っていた。

 

「何か食べていくかい」

 

「そうですね。私も、そのつもりでした」

 

 匂いのする方へ歩くと、角に小さな洋食屋があった。

 

 入口の黒板には、煮込みハンバーグ、ナポリタン、魚のフライと順に書かれている。

 

 セイアは、いちばん上で視線を止めた。

 

「決まりましたか」

 

「うん。こちらは、あまり迷わずに済みそうだ」

 

「私は、ナポリタンにします」

 

 二人の注文が決まったところで、扉を開けた。

 

     ◇

 

 窓から一つ離れた卓へ案内された。

 

 ケイはカップの袋を足元の籠へ入れ、セイアも鞄を隣へ置く。

 

 厨房の方で、皿の重なる音がした。

 

 そのあとに、鉄板へ何かを載せたような音。

 

 セイアは水を一口飲んだ。

 

 店の中には、二人と同じように買い物袋を持った客が何組かいた。壁際では、箱の長さを気にしながら椅子を引いている生徒もいる。

 

「このあたりで買い物をすると、皆、荷物が増えるようだね」

 

「店が多いですから」

 

 ケイが足元を見る。

 

 包まれたカップの上には、紙袋の口が少し開いていた。

 

「カップは、一つで済みました」

 

「その言い方だと、私の方が増えてしまったね」

 

「ケースは、あった方がいいと思いますよ」

 

「私もそう思う。箱だけ持って歩くわけにもいかないからね」

 

 セイアが笑うと、ケイも口元を緩めた。

 

     ◇

 

 ハンバーグは、浅い皿で運ばれてきた。

 

 濃い色のソースの中に、玉ねぎと茸が見える。付け合わせの人参は丸く切られ、端に添えられたじゃがいもには、細かな緑の葉が散っていた。

 

 ナイフを入れると、肉は思っていたより柔らかく分かれた。

 

 切り口から出た汁が、ソースへ混ざる。

 

 セイアは一口分を取り、少しだけ冷ましてから口へ運んだ。

 

 最初に、ソースの深い味が来る。

 

 そのあとに、玉ねぎの甘さと、肉の熱が広がった。

 

「……うん」

 

 ライスを口へ運ぶ。

 

 次は、皿に残ったソースを多めにからめた。

 

 向かいでは、ケイがフォークで麺を巻き取っている。

 

 ナポリタンの赤い色の間に、ピーマンと玉ねぎが見えた。細く切ったソーセージが、皿の端へ転がっている。

 

 ケイは湯気の立つ麺を一口食べ、フォークを下ろして水を飲んだ。

 

「熱いね」

 

「ええ。でも、少し焼けたところがおいしいです」

 

 ケイは皿の手前を指した。

 

 セイアも、じゃがいもの表面をソースへ浸す。

 

 しばらく、二人とも食べる方に忙しかった。

 

     ◇

 

 皿の中身が少なくなるころ、通りを走る車の音が、窓の向こうで遠ざかった。

 

 セイアはフォークを置き、水を飲む。

 

「説明を聞くと、見るところが変わるものだね」

 

 ケイが顔を上げた。

 

「カメラですか」

 

「うん。最初は、できることが多い方がよいのかなと思っていたのだけれど」

 

「使わない機能も、あるでしょうから」

 

「今日は、どこを触ればよいか分かったのが助かったよ」

 

 セイアは、鞄の口へ目を向けた。

 

「でも、最後に決めたのは、触った感じでしたね」

 

「そうだね。君の方は、カップの底だった」

 

「持ちやすさも、ちゃんと確かめましたよ」

 

 返事が早かった。

 

 セイアは笑う。

 

「もちろん。あの取っ手なら、私も使いやすそうだと思った」

 

「それに、置いたときも、がたつきませんでしたし」

 

「うん」

 

 ケイはそこで、少し間を置いた。

 

「……猫も、よかったですけど」

 

「それは、私も見ていたよ」

 

 ケイが目を上げた。

 

 さきほどカメラの前で交わした言葉が戻ってきたのに気づいたのか、今度はケイも笑った。

 

     ◇

 

 食事を終え、セイアはケースからカメラを出した。

 

 膝の上でストラップを手首へ通し、電源を入れてみる。

 

 画面が点いた。

 

 店員と確かめたときと同じ表示だった。

 

 セイアは指を輪へ置き、窓の方を見た。

 

「このあと、撮っていくんですか」

 

 ケイが尋ねる。

 

「そうしようと思う。帰るまでには、まだ時間があるからね」

 

「もう、どこか決めているんですか」

 

「いや。とりあえず、さっきの通りを、もう少し歩いてみるよ」

 

 セイアは電源を切り、いったんケースへ戻した。

 

 店を出ると、風が服の裾へ触れた。

 

 ケイは紙袋の持ち手を直し、大通りとは反対の方を見た。

 

「私は、こちらなので」

 

「今日はありがとう。よい買い物ができた」

 

「私もです」

 

 ケイが袋を少し持ち上げる。

 

 包みの中の猫は、こちらからは見えない。

 

 それでも、あの底の絵は、もう思い浮かべられた。

 

「気をつけて」

 

「そちらも。よい写真が撮れるといいですね」

 

「うん。ゆっくり試してくるよ」

 

 ケイは頷き、角を曲がっていった。

 

 セイアは、背中が見えなくなるまで見送り、それから大通りへ向き直る。

 

 ここからは、一人だった。

 

     ◇

 

 最初にカメラを向けたのは、通りの看板だった。

 

 細長い文字の板が、奥へ何枚も続いている。

 

 その間を、建物の壁が縦に区切っていた。

 

 セイアは歩道の端へ寄り、足を止めた。

 

 画面の中に、上から下まで入れてみる。

 

 少しだけ大きくすると、いちばん手前の文字が切れた。

 

 戻す。

 

 今度は、右側の柱が気になる。

 

 一歩、横へ動いた。

 

 奥の看板が、手前のものの隙間へ入る。

 

「……ここかな」

 

 指を押し込んだ。

 

 小さな音が、通りの音に混ざった。

 

 画面で確かめると、肉眼で見ていたときより、看板同士が近く感じられた。

 

 見上げて、もう一度、実際の通りを見る。

 

 少し違う。

 

 けれど、これはこれで、面白かった。

 

     ◇

 

 次の交差点で、駅とは違う方へ曲がった。

 

 大きな画面の並ぶ店が途切れ、低い建物が増えていく。

 

 入口に部品の箱を積んだ修理店。階段の下へ自転車を寄せた建物。上の階の窓からは、青い布が少しだけ垂れていた。

 

 軒先に置かれた植木鉢へ、光が当たっている。

 

 葉は明るいのに、その後ろの壁は暗かった。

 

 セイアはカメラを持ち上げた。

 

 画面では、目に留まった葉が、思ったより小さく見える。

 

 周囲には、配線や看板や、窓枠の端まで入っていた。

 

 まず、そのまま一枚撮った。

 

 セイアは通りの様子を確かめてから、少し近づく。

 

 植木鉢の縁を下の方へ置き、葉を真ん中より上へ入れる。

 

 今度は、葉の先の薄い色まで、はっきり見えた。

 

 撮ってから、画面を戻す。

 

 一枚目にも、捨てがたいところがある。

 

 小さな鉢が、いろいろなものの間に収まっていた。

 

 二枚とも、そのまま残した。

 

     ◇

 

 路地の先で、犬の住民が店先の箱を動かしていた。

 

 台車が通り終わるのを待って、セイアも脇を抜ける。

 

 ふと振り返ると、開いた扉の影が、舗道へ斜めに伸びていた。

 

 影の中には、扉に付いた小さな窓の形だけが、明るく残っている。

 

 セイアは足を止めた。

 

 しゃがむほどではない。

 

 膝を少し曲げて、低いところから構える。

 

 シャッターを押す前に、扉が動いた。

 

 光の四角が、足元の方へ滑ってくる。

 

「おや」

 

 店へ戻った住民が、扉を閉めるところだった。

 

 明るい四角は細くなり、やがて消えた。

 

 セイアはカメラを下ろした。

 

 間に合わなかった。

 

 閉まった扉には、営業時間の札が揺れている。

 

 その下に、さきほど台車が通った跡が薄く残っていた。

 

 今度は、それを一枚撮った。

 

     ◇

 

 通りへ出ると、風の音が戻ってきた。

 

 セイアは端末で現在地を確かめる。

 

 駅から、それほど離れてはいない。

 

 一本先の道を戻れば、途中に小さな広場があるようだった。

 

 端末をしまい、そちらへ向かう。

 

 ガラス張りの建物の前で、足が止まった。

 

 向かいの古い建物が、窓へ映っている。

 

 実際には少し離れている二つの屋根が、ガラスの中では隣り合って見えた。

 

 セイアは一枚撮り、画面を覗いた。

 

 下の端に、自分の袖がわずかに入っていた。

 

 向きを変えれば、外せそうだった。

 

 けれど、そのすぐ横には、通りの端から伸びた影も入っている。

 

 セイアは顔を上げ、窓を見た。

 

 自分も、そこに立っている。

 

 撮り直す前に、もう少し歩いてみた。

 

 数歩で、映り込む屋根の形が変わった。

 

     ◇

 

 広場には、細い木が何本か植えられていた。

 

 石の縁に、腰を下ろせるくらいの幅がある。

 

 セイアは日陰を選んで座った。

 

 鞄を膝の脇へ置き、カメラの画面を開く。

 

 看板。

 

 植木鉢。

 

 閉まった扉と、その下の舗道。

 

 同じものが、少しずつ違う大きさで何枚も並んでいる。

 

 花瓶を撮っていたときと、あまり変わっていなかった。

 

 ただ、今日は、それを手の中の小さな輪で変えたり、ボタンを押して残したりしている。

 

 その感触が、まだ指にあった。

 

 セイアは画面を消した。

 

 頭上で葉が動き、石の上の影が揺れる。

 

 向かいのベンチでは、生徒が鞄から本を取り出していた。

 

 通りの方から、台車の車輪が鳴る音がする。

 

 セイアはカメラを膝へ置いたまま、しばらくそこに座っていた。

 

     ◇

 

 広場を出るころには、少し喉が渇いていた。

 

 角の店で飲み物を買い、外の小さな台へ立ち寄る。

 

 冷たい水が、歩いてきた体へすっと入った。

 

 セイアは蓋を閉めてから、帰りの列車を確かめた。

 

 急げば乗れる便と、その次の便がある。

 

 次の方でも、夕食前には戻れる。

 

 ナギサとミカへ、その時刻を送った。

 

 ほどなく、ミカから短い言葉が届く。

 

『買えた?』

 

『うん。もう使っているよ』

 

『楽しみ!』

 

 セイアは端末をしまった。

 

 手元のカメラを見て、笑みが浮かぶ。

 

 駅までは、もう少し歩ける。

 

     ◇

 

 最後に撮ったのは、歩道橋の上から見える通りだった。

 

 午前中に歩いてきた道が、ここからは一本の線になっている。

 

 さきほどのカメラ店の看板も見えた。

 

 模型の列車までは、小さくて分からない。

 

 セイアは、ほんの少し写す範囲を狭くした。

 

 看板の下を、人が行き交う。

 

 そこで指を止め、しばらく画面を見ていた。

 

 道の向こうに、空が細く開いている。

 

 これ以上大きくすると、その空がなくなる。

 

 今のまま、一枚撮った。

 

 それから電源を切り、ケースへ収める。

 

 階段を下りると、駅の入口はすぐそこだった。

 

     ◇

 

 帰りの列車では、途中まで窓の外を見ていた。

 

 建物の間を抜けるたび、座席の上を光が横切る。

 

 鞄を開けると、いちばん上に、カメラのケースが収まっていた。

 

 セイアは一度だけ取り出し、最後の写真を確かめた。

 

 細い空は、ちゃんと残っている。

 

 ケイが選んだカップのことも思い出した。

 

 使うとき、最初は外側の猫が見える。

 

 飲み終われば、底にもう一匹。

 

 きっと、持ち帰って包みを開くときにも、もう一度覗くだろう。

 

 セイアはカメラをしまい、膝の上で鞄の口を閉じた。

 

     ◇

 

 トリニティへ戻ると、窓の色が夕方のものになっていた。

 

 見慣れた廊下を進み、部屋の扉を開ける。

 

 ミカが顔を上げた。

 

「おかえり、セイアちゃん」

 

「ただいま」

 

「おかえりなさい。今、お茶を淹れようと思っていたところです」

 

 ナギサが、卓の上のカップを揃える。

 

 セイアは鞄を置き、ケースを取り出した。

 

「これ?」

 

 ミカが、すぐに身を寄せる。

 

「うん」

 

「思ってたより、小さいね」

 

「持ってみるかい」

 

 ストラップへ手を通してもらってから、カメラを渡す。

 

 ミカは両手で持ち、正面と背面を交互に見た。

 

「あ、ここ、回るんだ」

 

「そこが、気に入ったところの一つだよ」

 

「もう、お撮りになったのですか」

 

 ナギサが尋ねる。

 

「カップを買いに来ていたケイと会ってね。カメラを選ぶのを手伝ってもらったんだ。昼食のあとで別れて、それから少し、街を歩いてきた」

 

「では、早速、見せていただいても?」

 

 セイアはカメラを受け取り、写真の画面を開いた。

 

     ◇

 

「看板、いっぱいあるね」

 

 ミカが最初の一枚を見て言った。

 

「通りから見上げたところだよ。実際には、もう少し間が空いて見えたのだけれど」

 

「こっちの鉢は、同じものですか」

 

 ナギサが、続く二枚を見比べた。

 

「うん。近づいて撮ってみたんだ」

 

「こちらだと、葉の色がよく分かりますね」

 

「私、最初のも好き。ちっちゃい鉢が、ちゃんと置いてある感じがする」

 

 ミカの指が、画面の端へ近づく。

 

 箱と、窓枠と、配線の間に、小さな鉢があった。

 

「それで、両方残してきた」

 

「うん。分かる」

 

 次の写真へ送る。

 

 閉まった扉が出た。

 

「こちらは?」

 

「本当は、開いているときの影を撮りたかったんだ。窓の形だけ、地面が明るくなっていてね」

 

「閉まっちゃったんだ」

 

「構えている間にね」

 

 セイアは、そのときの角度を説明しようと、カメラを少し傾けた。

 

 ミカが、自分の端末へ手を伸ばす。

 

 ナギサは紅茶を注ぎ終え、ポットを置いた。

 

「でも、そのあとで下を見ると、台車が通った跡が残っていたんだ。写っているのは、そちらだよ」

 

 セイアは画面を二人へ向け直した。

 

 かしゃ、と短い音がした。

 

     ◇

 

 顔を上げると、ミカが端末を持っていた。

 

「……今、撮ったのかい」

 

「うん」

 

 返事は明るかった。

 

「見せてもらえるかな」

 

 ミカは画面をこちらへ向けた。

 

 そこには、カメラを両手で持ったセイアが写っていた。

 

 画面を誰かへ見せながら、何かを話している。

 

 口元には、自分で思っていたより、はっきりした笑みがあった。

 

「ほら。言ったでしょ」

 

 ミカが笑う。

 

「撮ってるときも、こういう顔だったよ」

 

「……そうだったかな」

 

「今も、楽しそうにお話しされていましたよ」

 

 ナギサも画面を覗き、頷いた。

 

 セイアは、写真の中の自分をもう一度見た。

 

 新しいカメラは、胸の前に収まっている。

 

「その一枚、送ってもらえるかな」

 

「もちろん」

 

 卓の上で、セイアの端末が震えた。

 

 ミカから届いた写真を開く。

 

「カメラを買いに行って、最後に増えたのは、端末で撮った写真か」

 

「セイアちゃんのカメラも、ちゃんと写ってるよ」

 

「そうだね」

 

 セイアは笑って、写真を保存した。

 

 ナギサがカップを寄せる。

 

「では、続きはお茶を飲みながら伺いましょうか」

 

「うん。もう少し、見せたいものがある」

 

 カメラを卓へ置き、カップの取っ手へ指を入れた。

 

 いつもの重さが、手に収まる。

 

 向かいでは、ミカがまだ、さきほどの写真を見て笑っていた。

 

     ◇

 

 自分の部屋へ戻ってから、セイアはカメラを充電につないだ。

 

 机の端へ置くと、出かける前にはなかった場所が、一つ埋まった。

 

 撮った写真を端末へ移し、順に並べてみる。

 

 看板と、葉と、扉と、ガラスに映った屋根。

 

 最後の通りには、細い空が残っていた。

 

 その隣へ、ミカから届いた一枚も入れる。

 

 カメラを持って笑っている自分が、今日歩いた街の中へ加わった。

 

 セイアは少し眺めてから、画面を閉じた。

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