トンネルを抜けると、道の先が青かった。
空だけではない。
低いガードレールの向こうに、海が広がっている。
セイアは、アクセルを踏む足の力を緩めた。緩やかな下りに入った車が、そのまま海岸へ向かっていく。
さっきまで壁に跳ね返っていたエンジンの音は、もう、ボンネットの下から聞こえるだけだった。
窓をわずかに開ける。
風が細く入り、耳のそばの髪を動かした。
潮の匂いは、まだよく分からない。
先を走る小さなトラックが、道の曲がりに沿って左へ向きを変えた。
その後ろについていくと、海の上に、黒い岩が幾つも見えた。
岩の根元だけが、白くなっている。
白いところは、すぐにほどけた。
◇
今日は、岬の灯台まで行くつもりだった。
昨夜、経路を確かめていた時、海岸に沿う道が目に留まった。
幾つかの入り江を回り、町を通り、最後に岬へ上っていく。内陸の道を使うより時間はかかるが、途中には浜へ下りられる場所もある。
地図を広げているうちに、灯台だけでなく、そこまでの道も走ってみたくなった。
朝、鞄へ入れたカメラは、柔らかなケースに収まっている。
その上へ車の鍵を置きかけて、すぐ手に取り直した。
今日は、両方使う。
ナギサとミカには、行先と、夕方から夜の早いうちに戻るつもりだと伝えてある。
今のところ、道は空いていた。
海岸へ下りきる前に、道は岩山の陰へ入った。
窓から入る風が冷たくなり、曲がり角を抜けると、また日に温まった空気へ変わった。
今度は海が近い。
さっき上から見えていた岩の一つが、道のすぐ下にあった。
◇
道は、海岸の形に合わせて曲がっていた。
真っすぐ走れるところでは、水平線が長く見える。岩の張り出したところへ入ると、それが一度途切れ、次の曲がり角で別の浜が現れた。
上りに差しかかり、セイアは一段落とした。
低かった音に、張りが戻る。
長いボンネットの先が、道の傾きに沿って持ち上がった。
上りきると、家の屋根が見えた。
道の片側に、低い建物が並んでいる。軒先には、よく乾いた布が二枚。自転車を押していた生徒が店の前で止まり、中へ声を掛けていた。
セイアは速度を落とす。
店先の小さな旗が、車の窓へ向かって膨らんだ。
焼いた魚の匂いがした。
まだ、昼食には早い。
そう思って通り過ぎたあとも、しばらく匂いが残っていた。
◇
最初の浜には、階段の上に駐車場があった。
道路から奥へ入り、白い線の間に車を収める。エンジンを止めると、窓の外から、絶え間なく何かを擦るような音が聞こえてきた。
ドアを開けたところで、それが波の音になった。
セイアは鞄からカメラを取り出した。
ストラップへ手首を通し、空いたケースをしまう。
足元から吹き上がってきた風に、上着の裾が持ち上がった。
階段を下りると、浜には砂だけでなく、小さな丸い石が混じっていた。
一歩ごとに、靴の下で違う音がする。
乾いた砂を歩いていた足が、石の多いところで、かり、と鳴った。
道から見えていた黒い岩は、近くへ来ると、茶色や灰色の筋が入っている。
その間へ波が入り、白い泡を残して引いていった。
次の波は、別の隙間から来た。
セイアは、濡れた砂の手前で足を止めた。
◇
カメラの画面に、岩と、その向こうの海を入れる。
遠くでは大きく見えなかった波が、手前へ来るにつれて丸く盛り上がった。
岩の脇で、先端が白く崩れる。
そこで、シャッターを押した。
画面に残ったのは、崩れた水が、左右へ広がっているところだった。
セイアは顔を上げる。
もう、泡は薄くなっていた。
次は、もう少し早く。
そう思って構えたが、次に来た波は、岩の手前で崩れた。
「……同じところでは、ないのだね」
言ってから、口元が緩んだ。
しばらく、カメラを下げて見ていた。
海面に、斜めの筋が幾つも寄ってくる。
手前の水が引いたあと、岩の根元に濡れた色が現れた。その色を隠すように、次の波が入ってくる。
今度は、岩を画面の端へ寄せた。
白い水が広がる場所を、真ん中に空けておく。
波が来た。
一枚。
続けて、もう一枚。
押し終えるころには、泡の先が、思っていたより近くまで伸びていた。
セイアは一歩下がった。
靴の先に届く前に、水は止まる。
砂の上に、細い白い線だけが残った。
「そこまで来るのかい」
誰にともなく言い、今度はもう二歩、後ろへ下がった。
◇
階段の下まで戻ってから、写真を確かめた。
最後の一枚では、水が岩の脇を越え、細かく散っていた。
肉眼では白くひとまとまりに見えたところに、暗い隙間がある。
その隙間から、向こうの海が見えていた。
セイアは画面を明るい空から庇い、もう一度覗いた。
さっき見ていた波だ。
けれど、こんな形だったとは気づいていなかった。
カメラを下ろすと、波はまた違う場所で崩れている。
すぐには、階段を上らなかった。
手首からカメラを下げたまま、もう幾つか、波が来るのを見送った。
◇
駐車場へ戻ると、白い車の窓に、雲が映っていた。
靴底の砂を落とし、カメラをケースへ収める。
鞄の口を閉めたあと、セイアは飲み物を一口飲んだ。
まだ、灯台は先だった。
端末で道を確かめると、次の町を抜けたところから、岬へ上がる道が分かれている。
時刻を見る。
町へ着くころには、昼食にちょうどよさそうだった。
運転席へ戻り、窓を半分ほど開ける。
エンジンを掛けると、波の音の下に、馴染みのある低い音が重なった。
出口で道の両側を確かめ、ゆっくり車を出す。
浜の階段は、すぐに後ろへ見えなくなった。
道路から見える海には、相変わらず白い筋が幾つもある。
今度は、その下に細かな水の粒があることも、思い浮かべられた。
◇
昼前の町では、道路と海の間に家が並んでいた。
家の切れ目から、青い水面が短く見える。
洗濯物の向こう。
車庫の脇。
店の横を抜ける細い通路。
海は、出たり隠れたりした。
道端の看板に、魚の絵が描かれていた。
その下へ、小さな文字で昼の献立が並んでいる。
セイアは通り過ぎる前に、店の脇の駐車場を見つけた。
方向指示器を出す。
入口へ車を向けると、開いた窓から、バターの匂いが入ってきた。
ここでよさそうだった。
◇
店の扉には、丸い窓が付いていた。
中から、皿の触れ合う音がする。
扉を開けると、白い前掛けを着けた生徒が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
「ああ。席は空いているかな」
「窓のところ、どうぞ」
案内されたのは、壁際の二人掛けだった。
窓の外には、低い塀がある。
海までは見えなかったが、塀の上を、時々、鳥が横切った。
鞄を隣へ置き、卓上の献立を見る。
魚のソテー。
あさりと野菜のスープ。
パン。
表の看板にもあった組み合わせだった。
別の皿には、海老を入れたクリーム煮と書いてある。
セイアは一度、そちらへ目を移した。
奥の調理場で、何かを焼く音が強くなる。
香ばしい匂いに、手元の献立へ視線が戻った。
「魚のソテーを、お願いできるかな」
「はい。スープとパンも付く方で?」
「うん。それでお願いするよ」
生徒が献立を一枚、手に取った。
「パンのおかわりは、こちらに書いてありますので」
残った小さな札を示してから、奥へ戻っていった。
セイアは、その札を、手の届く方へ少し寄せた。
◇
先に、スープが来た。
浅い器の中に、口を開いたあさりが幾つもある。小さく切った玉ねぎと、赤いトマトが、その間に沈んでいた。
匙でひとすくいする。
澄んだ汁の表面で、油が小さな丸になった。
口に運ぶと、まず熱さがあり、そのあとに貝の味が広がる。
飲み込んだあとも、舌の奥へ塩気が残った。
もう一口飲んでから、あさりの身を殻から外した。
やわらかいが、噛むと、きちんと弾む。
窓の外で、鳥が一度だけ鳴いた。
セイアは匙を置き、籠に入ったパンを割った。
丸いパンの皮は薄く、中にはまだ温かさがある。
端をスープへ浸すと、汁を吸ったところから色が変わった。
滴が落ちる前に、口へ運ぶ。
貝の味に、パンの甘さが加わった。
これは、少し困る。
魚が来る前に、パンがなくなりそうだった。
魚は、白い楕円の皿に載っていた。
皮の側が、きつね色に焼けている。
脇には、茹でてから焼いたじゃがいもと、緑の豆。薄いレモンが、皿の端へ立て掛けられていた。
生徒が皿を置くと、バターの匂いが、さっきよりずっと近くなった。
「熱いので、お気をつけください」
「ありがとう」
セイアはカメラを取り出し、料理を一枚だけ撮った。
すぐにしまい、ナイフとフォークを手に取る。
皮へ刃を入れると、薄いところが、ぱり、と割れた。
その下の身は、刃を強く押さなくてもほぐれる。
一口分を切り、焼けた皮と一緒に食べた。
表面の香ばしさが、先に来る。
続いて、熱い身の柔らかさがあった。
皿の上のソースを付けると、口の中へバターの風味が残る。レモンを少し絞ったところでは、それが軽くなった。
セイアは、次の一口にはレモンを足さずに食べた。
そのあとで、もう一度、絞った方へフォークを伸ばす。
どちらかに決めなくてよいのは、ありがたかった。
じゃがいもの端にも、焼き色が付いている。
切ると中は白く、ソースを吸ったところだけが、少し黄色かった。
魚を食べ、じゃがいもを食べる。
スープへ戻った時、籠の中のパンは、もう小さな一片になっていた。
水を注ぎに来た生徒へ、セイアは声を掛けた。
「パンを、もう一ついただけるかな」
「はい。温めますので、少しお待ちください」
「ありがとう。スープが、まだ残っていてね」
生徒は器を見て、それから魚の皿を見た。
「ソースにも合いますよ」
「……それも、確かめてみよう」
小さく笑って、生徒が籠を持っていく。
セイアは、残ったパンをスープへ浸した。
残ったスープとソースの分を、頼んだはずだった。
けれど、温められた次のパンが来ると、まず、何も付けずに一口食べてみたくなった。
表面は、最初のものより少し熱い。
指先で持ち替え、息を吹き掛けてから食べた。
生地の香りが、よく分かった。
残りを二つに分ける。
一方は、スープへ。
もう一方は、魚の皿へ。
食事が終わった時には、どちらの器にも、ほとんど何も残っていなかった。
◇
会計を済ませる時、壁に貼られた写真が目に入った。
白い灯台だった。
手前の草が、同じ向きに傾いている。
「ここから、もう遠くないのかな」
セイアが尋ねると、生徒は写真を見た。
「灯台ですか? 町を出た先を曲がって、坂を上ればすぐですよ。お車ですか?」
「ああ」
「じゃあ、上の駐車場まで行けます。そこからは、ちょっと歩きますけど」
生徒は店の外へ目を向けた。
「今日は、上だと風がありそうですね」
「ここでも、よく吹いているね」
「ここは、まだ家がありますから」
セイアは、写真の草をもう一度見た。
先端だけでなく、根元の方から、みんな同じ側へ倒れていた。
「なるほど。行ってみるよ」
「お気をつけて」
「ごちそうさま。おいしかった」
生徒が嬉しそうに笑った。
扉を開けると、店の中で温まっていた頬へ、風が当たった。
◇
町を抜けたところに、灯台への標識があった。
海岸をそのまま進む道から分かれ、車は上り坂へ入った。
初めは両側に家があり、その次には、低い石垣が続いた。
石垣が途切れると、草地になる。
セイアは開けていた窓を少し上げた。
風の音が細くなり、その分、坂を上るエンジンの響きがよく聞こえた。
曲がり角の手前で速度を落とす。
レバーを動かし、左足を戻すと、車がまた、滑らかに坂を上っていく。
海は、時々、低い草の向こうに見えた。
さっき通ってきた家の屋根が、小さくなっている。
最後の曲がり角で、白いものが正面へ現れた。
思っていたより、細い。
塔の先に付いた黒い枠だけが、空の中ではっきりしていた。
その手前で、駐車場への矢印が右を指していた。
◇
車を降りた時、上着が、後ろへ引かれた。
セイアはドアに手を添えたまま、風が一度弱まるのを待った。
さっきの店の生徒の言葉が、よく分かった。
ここには、風を遮る家がない。
草が一斉に傾き、起き上がりかけて、また同じ方へ倒れた。
鞄の口を閉め、上着の前を留める。
カメラは、まだケースに入れたままにした。
駐車場の先から、歩くための道が続いている。
道の縁には、膝より少し高い石積みがあった。
その陰へ入ると、足元の風が弱くなる。
セイアは髪を押さえていた手を離し、灯台へ向かって歩いた。
◇
近くで見る灯台は、写真ほど真っ白ではなかった。
壁の下の方には、雨が流れた細い跡がある。
小さな扉の取っ手だけは、塗装が薄くなっていた。
灯台の建物へ続く数段の階段があり、その脇から、外側を回る通路が延びている。
入口には、立ち入りを関係者に限る札が出ていた。
セイアは扉の前を通り、柵に沿って海側へ進んだ。
そこで、風の向きが変わる。
塔の陰から出た途端、遠くまで海が開けた。
下の岩場では、波が白く砕けている。
音は、少し遅れて、低いところから届いた。
浜で見ていた時には目の前いっぱいだった波が、ここでは、岩の周りを縁取る細い線に見える。
その向こうには、また、別の青が続いていた。
セイアは柵の手前で足を止める。
しばらく、鞄を開けることを忘れていた。
◇
塔の先を入れようとすると、手元の画面から階段が消えた。
近すぎるのだろう。
セイアはカメラを下ろし、塔から離れた通路へ戻った。
数歩歩いてから振り返る。
今度は、足元の草も入る。
白い塔の脇へ、青い海が細く見えていた。
そこで、一枚撮った。
確認している間に、風が草を倒す。
写真の中では、穂先がばらばらの方向へ向いていた。
店の壁にあった写真とは、少し違う。
同じ灯台なのに、草のせいで、こちらの方が落ち着かなく見えた。
もう一度、実際の草を見る。
今は、きれいに一方向へ揃っていた。
風が緩むと、またほどける。
カメラを構え直すより先に、その動きを最後まで見ていた。
◇
灯台の壁へ戻ると、階段の影が目に留まった。
一段ずつ、暗い形が重なっている。
いちばん上の影だけが、丸い壁に沿って曲がっていた。
セイアは、塔の先まで写真に収めるのをやめた。
階段と、壁と、その脇の小さな草。
カメラを縦に持ち替えると、曲がった影が長く見えた。
一枚撮ってから、足元を見る。
自分の立っている通路にも、柵の影が並んでいた。
線の間を踏むように歩き、反対側へ回る。
そこには、風の弱い場所があった。
壁際に、短いベンチが置かれている。
先に座っていた二人の生徒が立ち上がり、片方が、鞄の持ち手へ挟んでいた紙を取り直した。
紙が風に鳴る。
もう一人がその端を押さえ、二人で駐車場の方へ歩いていった。
セイアは空いたベンチへ腰を下ろした。
◇
座ると、さっきより海が見えなくなった。
石積みが、下の方を隠している。
その上に、水平線だけが残った。
カメラを膝へ置き、水を飲む。
灯台の向こうでは風が強いのに、ここでは、髪の先が時々動くくらいだった。
歩いてきた道が見える。
新しく駐車場へ入った車から、住民が一人降りてきた。
帽子に手を置いたまま、こちらへ向かってくる。
セイアは、上着の前をもう一度確かめた。
灯台の陰へ入った住民が、ほっとしたように肩を下ろす。
目が合った。
「こっちだと、楽ですね」
犬の顔をした住民が言った。
「ああ。座っていると、向こうの風を忘れそうになるよ」
「戻る時に思い出すんですよね」
住民は笑い、灯台の海側へ回っていった。
セイアも笑って見送った。
少しして、塔の向こうで、住民が帽子を押さえ直すのが見えた。
水の蓋を閉め、鞄へ戻す。
まだ、立ち上がるには早かった。
◇
ベンチを離れ、もう一度、海の方へ回った。
岬の付け根に近いところからは、陸も見渡せた。
家の屋根が集まり、その先に、海岸道路が細く続いている。
道路は、思っていたより大きく曲がっていた。
運転している時には、一つずつの曲がり角だったものが、ここからは、入り江を丸く囲んでいる。
朝に下りた浜は、手前の岩山に隠れていた。
その向こうから、別の道の一部だけが顔を出している。
そこも、通ってきたはずだった。
セイアはカメラを持ち上げた。
今度は、灯台を横に置き、道の見える方へ向ける。
細い道の上を、一台の車が進んでいた。
家の間へ隠れ、また現れる。
その車が入り江の曲がりへ差しかかった時、シャッターを押した。
画面の中では、小さな明るい点になっていた。
しばらく目で追ってから、カメラをしまう。
自分も、そろそろ、あの道へ戻る時間だった。
◇
駐車場へ戻る道では、風が正面から来た。
思わず、顎を引く。
ベンチで会った住民の言葉どおりだった。
セイアは上着の襟を押さえ、最後の数歩を少し早足で歩いた。
車へ乗り込み、ドアを閉める。
耳元の風が、急に遠くなった。
大きく息をついてから、手で髪を整える。
窓の向こうでは、まだ草が忙しく動いていた。
端末を取り出し、帰りの道を確かめた。
海岸へ戻り、来た道を引き返す。
途中の入り江にも、駐車場の印がある。行きには通り過ぎた場所だった。
帰りの時刻を見ても、一度降りるくらいの余裕はある。
端末をしまい、ベルトを締める。
車内に、エンジンの振動が戻った。
◇
岬からの下りでは、上ってきた時より先まで道が見えた。
左へ回り込んだ先に、次の曲がり角がある。
その下に、町の屋根。
速度を落とし、低い段のまま坂を下りていくと、足元から伝わる響きも、上りの時とは違っていた。
海岸道路へ戻る前の交差点で、一度止まる。
窓を下げた。
入ってきた風は、灯台の下ほど強くなかった。
町へ向かって走り出すと、食堂の魚の看板が見えた。
表に立っていた生徒が、昼の献立を書いた板を、店の中へ運んでいる。
丸い窓のある扉が開き、閉まった。
セイアは、その前を通り過ぎた。
口の中へ、さっきのスープの味が戻ってくる。
パンをもう一つ頼んで、よかった。
◇
来た道なのに、覚えのない壁があった。
白い壁の上に、青い雨樋が走っている。
来る時には、車庫の入口ばかりが目に入った建物だった。
その先の細い通路には、洗濯物の影が落ちている。
家の隙間へ見えていた海が、今は、道の先に長く開けていた。
町を出ると、道路は、海へ向かって大きく下った。
往路では背中の方へ隠れていた入り江が、今は、正面に開けていた。
岩と岩の間に、小さな浜がある。
朝に寄った浜より、ずっと奥まっているようだった。
道路脇の駐車場の表示を確かめ、入口へ向かう。
エンジンを止めてから窓の外を見ると、浜のすぐ手前に、低い木が一本生えていた。
枝が、海と反対の方へ伸びている。
その下に、細い影ができていた。
◇
入り江へ下りる道は、さっきの浜ほど長くなかった。
数段の階段を下りれば、もう砂の上に出る。
水の音も、小さい。
外の海から入ってきた波が、両側の岩に当たり、浜へ届くころには、低くほどけていた。
砂の上へ水が延びる。
止まる。
戻る時に、小さな石が、ころころと鳴った。
セイアは、その音のする方へ歩いた。
浜の端には、丸い石が帯のように集まっている。
白いものも、茶色いものも、濡れているところだけ色が濃い。
次の波が来ると、幾つかの石が、わずかに向きを変えた。
音は、そこからしていた。
しゃがみ、カメラを両手で支える。
画面の中へ、石の帯と、その先の水を入れた。
引いていく波が、石の間に薄い線を残している。
泡がなくなる前に、一枚撮った。
さっきの浜のように、白い水が高く上がることはなかった。
その代わり、濡れた石が、光を小さく返していた。
◇
立ち上がると、背後の木の影が、足元まで延びていた。
枝は海の方へは伸びていないのに、影の先は水際へ届きそうだった。
セイアは振り返り、木を見る。
それから、もう一度、砂の上へ目を戻した。
昼を過ぎた光が、駐車場の向こうから差していた。
木の下まで戻ると、影の中は涼しかった。
根元から離れた石へ腰を下ろし、カメラの画面を開く。
朝の波。
魚の皿。
灯台。
白い壁の影。
写真を送っていく指が、途中で止まった。
灯台から撮った、海岸道路だった。
小さな車が一台、曲がり角へ入ろうとしている。
セイアは画面を拡大した。
その少し先、岩に挟まれたところに、今いる入り江があった。
木までは、はっきりしない。
けれど、浜の形は分かった。
顔を上げる。
ここから灯台を探すと、岩山の端に、白い塔の先がわずかに見えた。
「あそこから、見ていたのか」
思ったより遠かった。
さっきまで座っていたベンチは、当然、見えない。
セイアはカメラを下ろし、塔の先をしばらく眺めた。
◇
砂の上には、誰も来なかった。
道路を車が通るたび、木の向こうで音が膨らみ、また遠ざかっていく。
その間には、水と、小さな石の音が戻ってきた。
セイアは、カメラをケースへしまった。
最後にもう一枚、と思えば、まだ撮りたいところはあった。
枝の影。
少し遠くの、平らな岩。
けれど、今は、座っている方がよかった。
膝へ置いた鞄に手を重ねる。
波が寄ってきた。
引いていく時、さっきより長く、石が鳴った。
◇
駐車場へ戻る前に、端末で帰着の目安を送った。
これから帰ること。
道が混まなければ、夕食には間に合いそうなこと。
送信してから顔を上げると、木の枝の間に、白い車が見えた。
階段を上り、ドアのところで靴の砂を落とす。
鞄を収め、運転席へ身体を滑らせた。
座席の位置も、手を伸ばした先のハンドルも、朝と同じだった。
ドアを閉める。
波と石の音が、薄くなった。
キーを回すと、その手前に、低いエンジンの音が生まれた。
セイアは窓を少しだけ開けた。
水の音が戻ってくる。
今度は、エンジンの響きと一緒に聞こえた。
ベルトを締め、鞄が動かないことを確かめる。
レバーへ手を伸ばした。
◇
帰りの海岸道路は、まだ明るかった。
行きには眩しかった海が、今は、落ち着いた青に見える。
岩の根元で、白い波がほどけた。
セイアは前へ目を戻し、道の曲がりに合わせてハンドルを送った。
助手席の鞄の中では、カメラがケースに収まっている。
岬から見た道も、波の細かな隙間も、もう、その中にあった。
窓から入る風が、髪の先を動かす。
やがて、朝に通ったトンネルが見えてきた。
セイアは窓を上げ、車をその入口へ向けた。
海が後ろへ隠れる。
低いエンジンの音が、壁から返ってきた。
少し先に、出口の光が見えている。
その向こうへ抜けるまで、セイアは、馴染みの音を聞きながら走っていた。