百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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20.星見丘・丘の上の天文台 #暗くなるまで #望遠鏡の向こう #朝の窓

 

 バスが坂を上り始めると、家と家の間に畑が見えるようになった。

 

 低い石垣の上で、葉が並んでいる。

 

 その向こうに、もう一段。さらに上には、小さな屋根と、横に渡した洗濯物。

 

 百合園セイアは、膝の鞄を押さえながら窓の外を見ていた。

 

 列車を降りた駅前には、まだ店の看板が幾つもあった。バスへ乗り換えてからは、それが少しずつ減り、代わりに、道から家までの距離が長くなっている。

 

 坂の途中で、一人降りた。

 

 買い物袋を提げた生徒が、停留所のすぐ脇の細道へ入っていく。

 

 扉が閉まり、バスはまた上り始めた。

 

 曲がり角の先に、白いものが見えた。

 

 木の上へ出た、丸い屋根だった。

 

 セイアは端末を手に取る。

 

 開いておいた案内にも、同じ屋根が写っていた。

 

「……あれだね」

 

 写真の下には、今夜の観望会についての説明がある。

 

 月を、望遠鏡で見る。

 

 その短い一文と、明るい面に幾つもの丸いくぼみが並ぶ写真が、今回の行先を決めた。

 

 月面の写真なら、これまでにも見たことはある。

 

 けれど、望遠鏡の向こうではどのくらい大きく、どんなふうに見えるのだろう。

 

 案内を読んでいるうちに、そこが気になった。

 

 帰りのバスの時刻を調べ、そのあとで近くの宿を探した。泊まるところが決まると、観望会の最後までいられることが、急に楽しみになった。

 

 ナギサとミカには、一泊して翌日に戻ると伝えてある。

 

 膝の上の鞄には、着替えと、夜に着る上着が入っていた。

 

 窓へ目を戻す。

 

 白い屋根は木の陰へ隠れていた。

 

 その上の青い空には、半分ほど明るい月が、もう出ていた。

 

     ◇

 

 星見丘の停留所には、屋根付きのベンチが一つあった。

 

 セイアが降りると、バスはもう少し先の集落へ向かっていった。

 

 エンジンの音が遠ざかる。

 

 代わりに、どこかで水の流れる音が聞こえた。

 

 道端の溝を、細い水が走っている。上から落ちてきた葉が一枚、金網の手前で揺れていた。

 

 宿は、停留所から坂を少し上がったところにあった。

 

 二階建ての建物で、入口の横には木の長椅子が置かれている。引き戸を開けると、奥から食器の触れ合う音がした。

 

「いらっしゃいませ」

 

 前掛けを着けた主人が、帳面を開きながら出てくる。

 

 セイアが名前を告げると、すぐに鍵が一つ、台の上へ置かれた。

 

「今夜は、天文台へ?」

 

「うん。月を見る会に申し込んでいてね」

 

「それなら、お夕食は早い方でご用意します。皆さんが上がるころには、食べ終わりますから」

 

「ありがとう。それは助かるよ」

 

 部屋は二階だった。

 

 窓際に小さな机があり、椅子を引くと、向こうの斜面が見えた。

 

 畑の間を道が曲がっている。その途中に、赤茶色の屋根の小屋が一つ。

 

 さっきバスから見た石垣も、下の方に続いていた。

 

 セイアは鞄を置き、窓を細く開けた。

 

 カーテンの裾が、机の角へ寄ってきた。

 

 外を歩くには、ちょうどよさそうだった。

 

     ◇

 

 天文台への道は、宿の先で右へ分かれていた。

 

 小さな案内板に、白いドームの絵が描いてある。

 

 その通りに歩くと、木の間に建物が見えた。

 

 低い受付棟と、その奥の丸い屋根。

 

 近づいて見ても、屋根はまだ閉じていた。

 

 入口の掲示を確かめる。観望会の受付までは、時間がある。

 

 脇の通路では、名札を下げた生徒が足元の灯りを一つずつ見て回っていた。灯りはまだついていない。

 

 その向こうに、外で空を眺めるためらしい広場があった。

 

 セイアは柵の手前から、空を見上げた。

 

 月は、バスの中で見た時より白く見えた。

 

 明るい側の縁は分かるが、写真にあった丸いくぼみまでは見つからない。

 

 目を細めても、やはり同じだった。

 

 セイアは口元を緩め、掲示の時刻をもう一度見た。

 

 今は、宿へ戻って夕食にしよう。

 

 来た道を下りる途中、葉の間から宿の二階が見えた。

 

 自分の部屋は、窓の右側に小さな鉢が置かれているところだった。

 

     ◇

 

 食堂へ下りると、窓際の席に箸が並べられていた。

 

 外はまだ明るい。

 

 向かいの斜面に伸びた木の影が、畑の端へ届いていた。

 

「お待たせしました。鍋は熱いので、お気をつけて」

 

 主人が木の敷板ごと、小さな鉄鍋を運んできた。

 

 蓋が持ち上がる。

 

 味噌の匂いと一緒に、湯気が広がった。

 

 太く平たい麺の間に、かぼちゃが見える。大根とにんじん、折り重なった油揚げも入っていた。

 

 汁の表面が、ふつ、と動く。

 

「今日は、ほうとうです。こちらは取り鉢にどうぞ」

 

 小鉢の漬物と、お茶も置かれた。

 

 セイアは箸を取り、鍋の中の麺を一本つまんだ。

 

 持ち上げると、思っていたより長い。

 

 幅のある麺が折れ曲がりながら上がってきて、最後に、汁を一滴落とした。

 

 途中で取り鉢を寄せ、そこへ収める。

 

「なかなか、しっかりしているね」

 

「鍋から直接だと熱いですから、少しずつ取ってくださいね」

 

「うん。そうするよ」

 

 れんげで汁を足す。

 

 鉢の中でも、麺から湯気が立っていた。

 

 一口目は、端を少しだけ。

 

 表面は汁を含んで柔らかく、厚いところを噛むと、むちりと歯が入った。小麦の味に続いて、味噌の汁が口の中へ広がる。

 

 セイアは取り鉢を置かず、もう一口食べた。

 

 今度は、油揚げを一緒に取った。

 

 噛んだところから、含んでいた汁が出てくる。

 

 まだ熱かった。

 

 箸を止め、ゆっくり飲み込んでから、お茶へ手を伸ばした。

 

 主人が、その様子を見て笑った。

 

「よく煮えてますでしょう」

 

「うん。見かけより、ずっと熱を蓄えている」

 

「かぼちゃもですよ」

 

 言われて、セイアは鍋の黄色い塊を見た。

 

 端が少し崩れ、汁に溶けている。

 

 今度は急がず、れんげへ載せて取り鉢に移した。

 

「このかぼちゃは、近くのものかい」

 

「ええ。窓から見える、赤い屋根の小屋があるでしょう。あそこの畑で採れたものです」

 

 セイアは顔を上げた。

 

 二階からも見えた小屋が、窓枠の端にあった。

 

「ああ。さっき、部屋から見ていたところだね」

 

「あちらの方が、うちにも持ってきてくれるんですよ。大根なんかも」

 

 箸の先でかぼちゃを分けると、皮のすぐ上から柔らかく割れた。

 

 十分に冷ましたつもりだったが、中から、また湯気が出た。

 

 口に入れる。

 

 舌の上でほどけて、甘かった。

 

 味噌の塩気が残っていたところへ、その甘さがゆっくり重なる。

 

 セイアはもう一度、窓の外を見た。

 

 畑には、誰の姿もなかった。

 

 小屋の脇に立てかけた板だけが、夕方の日を受けて明るい。

 

「……なるほど」

 

 小さく言い、次は大根を取った。

 

 透き通った端へ箸を入れると、力を掛ける前に割れた。

 

 麺を食べ、野菜を取り、間に漬物を一切れ挟む。

 

 ぱり、とした音が、思っていたよりよく聞こえた。

 

 鍋の中身が減ってくるころには、汁にかぼちゃの色が少し移っていた。

 

 底に残った短い麺を、れんげで拾う。

 

 最後の一口も、まだ温かかった。

 

     ◇

 

 食堂の時計を見上げると、出かけるまで、もう少しあった。

 

 セイアはお茶を飲みながら窓の外を眺めた。

 

 さっき畑の端にあった影が、道まで伸びている。

 

「夜は、そこから急に冷えますからね」

 

 器を下げに来た主人が言った。

 

「上着は持ってきたよ」

 

「それならよかった。お帰りは、玄関の灯りをつけておきます」

 

「ありがとう。ごちそうさま」

 

 部屋へ戻り、鞄から上着を出す。

 

 夕食の間に温まった身体には、まだ少し早い気がした。

 

 それでも袖を通し、端末と部屋の鍵を確かめて階段を下りた。

 

 宿の外へ出ると、首元を風が通った。

 

 セイアは上着の前を合わせた。

 

 食堂の窓の向こうでは、主人が次の席に箸を並べていた。

 

     ◇

 

 天文台の入口には、先ほどより人が増えていた。

 

 受付で名前を告げると、小さな案内紙を渡された。

 

「お揃いになるまで、前の広場でお待ちください。望遠鏡の準備ができたら、お呼びします」

 

 紙には、建物の簡単な図が載っている。

 

 観望室、展示室、休憩室。

 

 セイアは一通り目を通し、折ってポケットへ入れた。

 

 広場からは、丘の下まで見渡せた。

 

 家々の屋根の間に、駅へ戻る道が細く続いている。バスが走っているのが見えたが、ここからでは音までは届かなかった。

 

 背後で、低い音がした。

 

 振り返る。

 

 ドームの上に、黒い筋ができていた。

 

 筋が、ゆっくり広がっていく。

 

 空が見えた。

 

 セイアは、屋根の開いていくところを目で追った。

 

 隣でも、同じように誰かが見上げていた。

 

 肩に鞄を掛けた生徒だった。

 

「あそこ、開くんですね」

 

「うん。あれだけ大きいと、音もするのだね」

 

 動きが止まると、急に辺りが静かになった。

 

 広場を渡る風と、受付の方で話す声が聞こえてくる。

 

 生徒は首を戻し、空へ視線を移した。

 

「月は、もうあんなにはっきり見えるのに」

 

「星の方は、まだ見つからないね」

 

 二人でしばらく探したが、青みの残る空には、月のほかは見つけられなかった。

 

 やがて、入口の生徒が手を上げた。

 

「準備ができました。こちらからどうぞ」

 

     ◇

 

 観望室へ入ると、望遠鏡は、思っていたより高いところを向いていた。

 

 太い筒を支える台があり、その周囲には、人が立って覗ける場所が空けてある。

 

 案内の生徒が一度接眼部を覗き、機械の脇へ手を伸ばした。

 

 短い音がする。

 

 もう一度覗いてから、振り返った。

 

「最初は、月の明るい面全体が入る倍率で見ていただきます。目の位置が合わなかったら、声を掛けてください」

 

 参加者が順に進む。

 

 覗いた生徒が、すぐに顔を上げた。

 

「わ、こんなに見えるんですか」

 

 そう言ってから、また目を戻した。

 

 その後ろで、待っていた人たちも笑った。

 

 セイアは、相手の肩越しに接眼部を見ていた。

 

 そこからでは、何も分からない。

 

 見えている人が、しばらく顔を動かさずにいる。

 

 やがて身体を起こして、一つ場所を空けた。

 

 セイアも前へ進む。

 

「どうぞ」

 

 目を近づけると、端に白い光が見えた。

 

 もう少し寄る。

 

 今度は黒くなった。

 

「……こちらでよいのかな」

 

「ほんの少し、目を離してみてください。そうです。そのまま、真ん中を見る感じで」

 

 頭をゆっくり戻す。

 

 白いものが、視野の中へ入ってきた。

 

 月だった。

 

 空で見上げた時より、ずっと大きい。

 

 丸く続く外側の縁と、途中で暗くなる境目。その明るい面には、薄い灰色のところと、白っぽいところが広がっていた。

 

 セイアは息をついた。

 

 その拍子に少し動いたのか、視野の端が欠けた。

 

 さっき教わった位置へ戻ると、月も戻ってきた。

 

 今度は、落ち着いて見られた。

 

 明暗の境目へ目を向ける。

 

 肉眼では、ただ途中で切れているように見えたところだ。

 

 望遠鏡の中では、線が細かく出入りしていた。

 

 その脇に、丸い形がある。

 

 一つではない。

 

 大きなものの近くに、小さなものが重なっている。丸い形の内側は暗いのに、縁の一部だけが、白く細く見えた。

 

「あの、丸いところは」

 

 言いかけて、もう一度見る。

 

 白い部分は、やはり片側に寄っている。

 

「片側だけ、光って見えるのだね」

 

「クレーターの縁に日が当たっているんです。内側には、その縁の影ができています」

 

 セイアは、暗いところを見た。

 

 穴が黒く開いているように思っていた。

 

 けれど、教わってから見ると、その黒さの端にも形があった。

 

 丸い縁の内側へ、影が伸びている。

 

「日が当たる向きが変われば、あの底も見えるのかい」

 

「ええ。同じクレーターでも、違う姿に見えますよ」

 

「……なるほど」

 

 セイアは接眼部から目を離しかけ、その前に、もう一度だけ境目を辿った。

 

 暗い側のすぐ近くに、小さな白い点があった。

 

 何かの先だけが、日を受けているように見える。

 

 そこを覚えてから、身体を起こした。

 

 観望室の床が、少し暗く感じられた。

 

「ありがとう。よく見えたよ」

 

 横へ退くと、後ろにいた生徒が、待ちかねたように目を近づけた。

 

 セイアはその場所を空け、入口の方へ戻った。

 

     ◇

 

 広場へ出ると、空の色が変わっていた。

 

 丘の下に、幾つか灯りがついている。

 

 宿のある方を見たが、木が重なっていて、どの灯りかまでは分からなかった。

 

 足元では、昼間に生徒が確かめていた小さな灯りが、通路の端を照らしていた。

 

 セイアは月を見上げた。

 

 大きさは、来る時に見た月に戻っている。

 

 明暗の境目も、遠目には滑らかだった。

 

 それでも、さっきの丸い縁が、あの辺りにある。

 

 目を離さずにいると、隣へ人が来た。

 

 屋根が開くところを一緒に見ていた生徒だった。

 

「見えました?」

 

「うん。縁のところが、思っていたよりでこぼこしていた」

 

「私も、そっちばかり見ちゃいました。真ん中の、模様みたいなところも見たかったんですけど」

 

「一度に見るには、随分いろいろあるね」

 

 生徒が頷いたあと、月から少し離れた空を指した。

 

「あ。あそこ、一つ」

 

 セイアも顔を向ける。

 

 初めは分からなかった。

 

 指の先から、もう少し上へ目を移すと、小さな光が見つかった。

 

「……見えた」

 

 さっきは見つからなかったものだった。

 

 一つ見つかると、近くにもありそうな気がして、二人とも、しばらく同じ空を探した。

 

     ◇

 

 観望室から最後の参加者が出てきたころ、案内の生徒も入口へ顔を出した。

 

「このあと、倍率を上げて、月の一部をもう少し詳しく見ます。ご希望の方は、もう一度こちらへお並びください」

 

 広場にいた人たちが、幾人か入口へ向かった。

 

 セイアも、その後ろについた。

 

 先ほどの生徒が、半歩遅れて隣へ来る。

 

「もう一回、見るんですか」

 

「うん。今度は、さっきの影のところを」

 

「私も、もう少し見たくて」

 

 入口の向こうでは、案内役が望遠鏡の部品を替えていた。

 

 外したものを箱へ収め、別のものを取り付ける。

 

 覗いて確かめ、また脇の操作部へ手を伸ばす。

 

 セイアはポケットの中で、折った案内紙に指を触れた。

 

 日帰りなら、そろそろバスの時刻が気になるころだった。

 

 今夜は、宿まで歩いて戻ればよい。

 

 前の人が一歩進み、セイアも続いた。

 

     ◇

 

 二度目は、目を置く位置がすぐに分かった。

 

 ただ、見えてきた月は、さっきと同じ姿ではなかった。

 

 丸い外側の縁が、視野に入っていない。

 

 明るい地面と暗い影が、ずっと近くにあった。

 

 大きな丸いくぼみの脇を、細かな凹凸が囲んでいる。なだらかに見えたところにも、小さな窪みがあった。

 

 セイアは、一度、どこを見ればよいのか迷った。

 

「先ほど、明るいところと暗いところの境目に、大きなクレーターがありましたね。今、真ん中に入れているのが、それです」

 

 教わったところへ、目を向ける。

 

 片側に、白い弧があった。

 

 その内側へ落ちる影の形を見て、ようやく、先ほど見たものとつながった。

 

「ああ……これか」

 

 大きくなると、丸い形の整い方も違って見えた。

 

 縁は、綺麗な一本の線ではない。

 

 白いところが細くなる場所も、少し太く見える場所もある。その下の影には、浅い切れ込みのような形が並んでいた。

 

 眺めていると、輪郭がふっと揺れた。

 

 セイアは動かないようにした。

 

 それでも、白い線がゆらりと滲む。

 

「今のは、私が動いたのかな」

 

「空気の揺れですね。そのまま見ていると、落ち着いて見える時があります」

 

 セイアは目を戻した。

 

 白い縁が、柔らかくほどける。

 

 次の瞬間、それが細い線になった。

 

 影の端も、はっきりした。

 

「……今、見えたよ」

 

 言い終える前に、また少し揺らいだ。

 

 セイアは、その次に輪郭が整うところを待った。

 

 やがて白い弧の下に、影の細い出っ張りが見えた。

 

 そのまま目を動かすと、暗いところの近くに、白い点が一つあった。

 

「あの、離れて白く見えるところも、高いところなのかい」

 

「ええ。周りが影になっていても、高いところには先に日が当たるんです」

 

 セイアは、点の周りを見た。

 

 今見えないところにも、地面が続いている。

 

 そこから出た先端だけが、明るくなっている。

 

 目の前の小さな白さに、高さがあることが、ようやく実感できた。

 

 しばらく見てから、セイアはゆっくり身体を起こした。

 

「大きくすると、探していたものまで、一度分からなくなるのだね」

 

「見える範囲が狭くなりますからね」

 

「うん。でも、同じところだと分かってからは、よく見えた」

 

 場所を譲ると、次の生徒が接眼部へ顔を寄せた。

 

 セイアは、少し離れたところで待った。

 

 さっき一緒に並んだ生徒が覗き終わるまで、屋根の隙間の空を見ていた。

 

     ◇

 

 休憩室の窓には、外の景色より、室内の椅子がよく映っていた。

 

 セイアは給茶機の前で、温かいお茶を選んだ。

 

 紙のカップを両手で包む。

 

 指が、思ったより冷たかった。

 

 手のひらへ熱が移ってくるまで、しばらくそのまま持っていた。

 

 さっきの生徒は、飲み物を手に、窓のそばの席へ腰を下ろした。

 

「あんなに、ずっと覗いていられると思いませんでした」

 

「私も、途中から、何を見ていないのか気になってしまったよ」

 

「全部見るの、無理ですね」

 

「少なくとも、今夜だけではね」

 

 セイアは笑い、お茶を一口飲んだ。

 

 廊下では、案内役がほかの生徒と何かを確かめていた。

 

 こちらに気づき、軽く頭を下げる。

 

 セイアもカップを持ったまま会釈した。

 

「先ほどは、ありがとう」

 

「よく見えてよかったです」

 

 案内役はそう答え、道具の入った箱を持って観望室の方へ戻っていった。

 

 隣の生徒が、端末の時刻を確かめた。

 

「私、そろそろ行きます。下の駐車場で待ち合わせてるので」

 

「そうか。では、気をつけて」

 

「はい。おやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

 扉が閉まると、給茶機から次の一杯が出る音が聞こえた。

 

 セイアは、残っていたお茶を飲んだ。

 

 カップを離しても、指には、もう冷たさがなかった。

 

     ◇

 

 外へ出る前に、上着の前を留め直した。

 

 広場で見上げると、月のほかにも、光が幾つか見つかった。

 

 さっき、生徒が指した辺りを探す。

 

 同じ光かどうか、すぐには分からなかった。

 

 少し場所を移して、木の枝のないところから、もう一度見た。

 

 受付棟の中で椅子を動かす音がした。

 

 セイアは空から目を下ろし、通路へ向かった。

 

 昼間に歩いた道の先に、足元を照らす灯りが続いている。

 

 枝が風に揺れても、その下の舗装は静かだった。

 

 分岐の案内板を過ぎると、宿の玄関が見えた。

 

 灯りの下に、木の長椅子がある。

 

 その形まで見えたところで、セイアは歩く速さを少し緩めた。

 

 引き戸を開けると、主人が帳面から顔を上げた。

 

「おかえりなさい」

 

「ただいま」

 

「冷えたでしょう」

 

「うん。上着があってよかったよ」

 

 言いながら、首元を緩めた。

 

 廊下の奥は暖かかった。

 

     ◇

 

 部屋へ戻り、上着を掛けた。

 

 ポケットから出した案内紙を、机へ置く。

 

 折り目を開くと、望遠鏡の絵が描かれていた。行く前には、建物の図の方ばかり見ていた。

 

 セイアは椅子へ座り、端末を手に取った。

 

 ナギサとミカへ、宿に戻ったことを送る。

 

 月がよく見えたことも、一言足した。

 

 クレーターの縁に影があって、と打ちかけ、そこで指を止めた。

 

 これだけでは、どのようなものか分かりにくい。

 

 少し考えてから、その部分を消した。

 

 帰って話す時には、丸を描けばよいかもしれない。

 

 端末を置き、窓のカーテンを少し開けた。

 

 畑は暗く、道の曲がるところに灯りが一つ見えた。

 

 午後に見た赤い屋根も、今は区別がつかなかった。

 

 カーテンを閉め、着替えを持って風呂へ行った。

 

 部屋へ戻ると、机の上の案内紙が目に入った。

 

 手を伸ばしかけたところで、あくびが出た。

 

 セイアは、その紙を明日に回すことにした。

 

 明日のバスの時刻を確かめる。

 

 目覚ましを合わせ、端末を充電につないだ。

 

 布団へ入ると、足を伸ばせることが心地よかった。

 

 灯りを消したあと、どこかの部屋で椅子を引く音がした。

 

 それも、すぐに止んだ。

 

     ◇

 

 翌朝、カーテンを開けると、道を小さなトラックが上っていた。

 

 荷台には、浅い箱が重ねてある。

 

 車は赤い屋根の小屋の脇で止まり、誰かが降りてきた。

 

 昨日は斜面に長く伸びていた影が、今は反対側へ落ちている。

 

 畑の葉の上だけが、朝の光を受けて明るかった。

 

 セイアは窓のそばに立ったまま、小屋の戸が開くところまで見ていた。

 

 やがて階下から、食器を並べる音が聞こえた。

 

     ◇

 

 朝食には、ご飯と味噌汁、卵焼きが出た。

 

 小鉢には、青菜が盛られている。

 

 セイアは箸を取り、まず味噌汁を一口飲んだ。

 

 豆腐とねぎの入った汁は、昨夜の鍋よりさらりとしていた。

 

「昨日は、よく見えましたか」

 

 主人が、お茶を注ぎながら尋ねた。

 

「うん。よく見えたよ」

 

 セイアは卵焼きへ箸を伸ばし、そこで手を止めた。

 

「月の、丸いくぼみがあるだろう」

 

「ええ。クレーターでしたね」

 

「あの縁に日が当たって、内側へ影が落ちていたんだ。初めは、黒い穴のように見えていたのだけれど」

 

 箸を戻し、空いた指で小さく弧を描いた。

 

「大きくしてもらうと、その影の端まで、でこぼこしていてね」

 

「二回、ご覧になったんですか」

 

「うん。もう一度見たいところができたので」

 

 主人が笑った。

 

「お泊まりにしてよかったですね」

 

「本当に、そう思うよ」

 

 答えてから、セイアは箸を取り直した。

 

 卵焼きは、まだ温かかった。

 

     ◇

 

 部屋へ戻り、鞄を閉じる。

 

 机の上の案内紙は、元の折り目に沿って畳んで、端末と別のポケットへ入れた。

 

 上着は、今朝も着ていくことにした。

 

 鍵を返し、会計を済ませて外へ出る。

 

 木の長椅子には、まだ誰も座っていなかった。

 

 停留所まで下りる途中、昨日と同じ溝の水が聞こえた。

 

 金網に引っかかっていた葉は、もうなかった。

 

 セイアはベンチへ鞄を置き、端末で時刻を確かめた。

 

 道の向こうから、バスの音が近づいてくる。

 

 やがて、屋根の角が木の間に現れた。

 

     ◇

 

 帰りのバスには、登校するらしい生徒と、空の袋を膝へ置いた乗客が乗っていた。

 

 セイアは窓際へ座り、鞄を膝に載せた。

 

 扉が閉まる。

 

 停留所を離れると、道はすぐに下りへ変わった。

 

 木が途切れたところで、白い丸屋根が見えた。

 

 今朝は、また閉じている。

 

 あの中に、望遠鏡がある。

 

 目を近づけるところは思っていたより小さく、位置が合うと、暗い視野へ月が入ってきた。

 

 セイアは、膝の鞄へ手を置いた。

 

 バスが曲がるまで、屋根を見ていた。

 

 白いものが木の向こうへ隠れ、代わりに、畑を挟んだ家々が窓へ近づいてくる。

 

 小屋の前には、朝に見たトラックが止まっている。

 

 その横に、荷台から下ろした箱が幾つも並んでいた。

 

 次の停留所で、一人乗ってきた。

 

 運転手へ挨拶をして、空いた席へ腰を下ろす。

 

 バスはまた、駅へ向かって坂を下り始めた。

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