バスが坂を上り始めると、家と家の間に畑が見えるようになった。
低い石垣の上で、葉が並んでいる。
その向こうに、もう一段。さらに上には、小さな屋根と、横に渡した洗濯物。
百合園セイアは、膝の鞄を押さえながら窓の外を見ていた。
列車を降りた駅前には、まだ店の看板が幾つもあった。バスへ乗り換えてからは、それが少しずつ減り、代わりに、道から家までの距離が長くなっている。
坂の途中で、一人降りた。
買い物袋を提げた生徒が、停留所のすぐ脇の細道へ入っていく。
扉が閉まり、バスはまた上り始めた。
曲がり角の先に、白いものが見えた。
木の上へ出た、丸い屋根だった。
セイアは端末を手に取る。
開いておいた案内にも、同じ屋根が写っていた。
「……あれだね」
写真の下には、今夜の観望会についての説明がある。
月を、望遠鏡で見る。
その短い一文と、明るい面に幾つもの丸いくぼみが並ぶ写真が、今回の行先を決めた。
月面の写真なら、これまでにも見たことはある。
けれど、望遠鏡の向こうではどのくらい大きく、どんなふうに見えるのだろう。
案内を読んでいるうちに、そこが気になった。
帰りのバスの時刻を調べ、そのあとで近くの宿を探した。泊まるところが決まると、観望会の最後までいられることが、急に楽しみになった。
ナギサとミカには、一泊して翌日に戻ると伝えてある。
膝の上の鞄には、着替えと、夜に着る上着が入っていた。
窓へ目を戻す。
白い屋根は木の陰へ隠れていた。
その上の青い空には、半分ほど明るい月が、もう出ていた。
◇
星見丘の停留所には、屋根付きのベンチが一つあった。
セイアが降りると、バスはもう少し先の集落へ向かっていった。
エンジンの音が遠ざかる。
代わりに、どこかで水の流れる音が聞こえた。
道端の溝を、細い水が走っている。上から落ちてきた葉が一枚、金網の手前で揺れていた。
宿は、停留所から坂を少し上がったところにあった。
二階建ての建物で、入口の横には木の長椅子が置かれている。引き戸を開けると、奥から食器の触れ合う音がした。
「いらっしゃいませ」
前掛けを着けた主人が、帳面を開きながら出てくる。
セイアが名前を告げると、すぐに鍵が一つ、台の上へ置かれた。
「今夜は、天文台へ?」
「うん。月を見る会に申し込んでいてね」
「それなら、お夕食は早い方でご用意します。皆さんが上がるころには、食べ終わりますから」
「ありがとう。それは助かるよ」
部屋は二階だった。
窓際に小さな机があり、椅子を引くと、向こうの斜面が見えた。
畑の間を道が曲がっている。その途中に、赤茶色の屋根の小屋が一つ。
さっきバスから見た石垣も、下の方に続いていた。
セイアは鞄を置き、窓を細く開けた。
カーテンの裾が、机の角へ寄ってきた。
外を歩くには、ちょうどよさそうだった。
◇
天文台への道は、宿の先で右へ分かれていた。
小さな案内板に、白いドームの絵が描いてある。
その通りに歩くと、木の間に建物が見えた。
低い受付棟と、その奥の丸い屋根。
近づいて見ても、屋根はまだ閉じていた。
入口の掲示を確かめる。観望会の受付までは、時間がある。
脇の通路では、名札を下げた生徒が足元の灯りを一つずつ見て回っていた。灯りはまだついていない。
その向こうに、外で空を眺めるためらしい広場があった。
セイアは柵の手前から、空を見上げた。
月は、バスの中で見た時より白く見えた。
明るい側の縁は分かるが、写真にあった丸いくぼみまでは見つからない。
目を細めても、やはり同じだった。
セイアは口元を緩め、掲示の時刻をもう一度見た。
今は、宿へ戻って夕食にしよう。
来た道を下りる途中、葉の間から宿の二階が見えた。
自分の部屋は、窓の右側に小さな鉢が置かれているところだった。
◇
食堂へ下りると、窓際の席に箸が並べられていた。
外はまだ明るい。
向かいの斜面に伸びた木の影が、畑の端へ届いていた。
「お待たせしました。鍋は熱いので、お気をつけて」
主人が木の敷板ごと、小さな鉄鍋を運んできた。
蓋が持ち上がる。
味噌の匂いと一緒に、湯気が広がった。
太く平たい麺の間に、かぼちゃが見える。大根とにんじん、折り重なった油揚げも入っていた。
汁の表面が、ふつ、と動く。
「今日は、ほうとうです。こちらは取り鉢にどうぞ」
小鉢の漬物と、お茶も置かれた。
セイアは箸を取り、鍋の中の麺を一本つまんだ。
持ち上げると、思っていたより長い。
幅のある麺が折れ曲がりながら上がってきて、最後に、汁を一滴落とした。
途中で取り鉢を寄せ、そこへ収める。
「なかなか、しっかりしているね」
「鍋から直接だと熱いですから、少しずつ取ってくださいね」
「うん。そうするよ」
れんげで汁を足す。
鉢の中でも、麺から湯気が立っていた。
一口目は、端を少しだけ。
表面は汁を含んで柔らかく、厚いところを噛むと、むちりと歯が入った。小麦の味に続いて、味噌の汁が口の中へ広がる。
セイアは取り鉢を置かず、もう一口食べた。
今度は、油揚げを一緒に取った。
噛んだところから、含んでいた汁が出てくる。
まだ熱かった。
箸を止め、ゆっくり飲み込んでから、お茶へ手を伸ばした。
主人が、その様子を見て笑った。
「よく煮えてますでしょう」
「うん。見かけより、ずっと熱を蓄えている」
「かぼちゃもですよ」
言われて、セイアは鍋の黄色い塊を見た。
端が少し崩れ、汁に溶けている。
今度は急がず、れんげへ載せて取り鉢に移した。
「このかぼちゃは、近くのものかい」
「ええ。窓から見える、赤い屋根の小屋があるでしょう。あそこの畑で採れたものです」
セイアは顔を上げた。
二階からも見えた小屋が、窓枠の端にあった。
「ああ。さっき、部屋から見ていたところだね」
「あちらの方が、うちにも持ってきてくれるんですよ。大根なんかも」
箸の先でかぼちゃを分けると、皮のすぐ上から柔らかく割れた。
十分に冷ましたつもりだったが、中から、また湯気が出た。
口に入れる。
舌の上でほどけて、甘かった。
味噌の塩気が残っていたところへ、その甘さがゆっくり重なる。
セイアはもう一度、窓の外を見た。
畑には、誰の姿もなかった。
小屋の脇に立てかけた板だけが、夕方の日を受けて明るい。
「……なるほど」
小さく言い、次は大根を取った。
透き通った端へ箸を入れると、力を掛ける前に割れた。
麺を食べ、野菜を取り、間に漬物を一切れ挟む。
ぱり、とした音が、思っていたよりよく聞こえた。
鍋の中身が減ってくるころには、汁にかぼちゃの色が少し移っていた。
底に残った短い麺を、れんげで拾う。
最後の一口も、まだ温かかった。
◇
食堂の時計を見上げると、出かけるまで、もう少しあった。
セイアはお茶を飲みながら窓の外を眺めた。
さっき畑の端にあった影が、道まで伸びている。
「夜は、そこから急に冷えますからね」
器を下げに来た主人が言った。
「上着は持ってきたよ」
「それならよかった。お帰りは、玄関の灯りをつけておきます」
「ありがとう。ごちそうさま」
部屋へ戻り、鞄から上着を出す。
夕食の間に温まった身体には、まだ少し早い気がした。
それでも袖を通し、端末と部屋の鍵を確かめて階段を下りた。
宿の外へ出ると、首元を風が通った。
セイアは上着の前を合わせた。
食堂の窓の向こうでは、主人が次の席に箸を並べていた。
◇
天文台の入口には、先ほどより人が増えていた。
受付で名前を告げると、小さな案内紙を渡された。
「お揃いになるまで、前の広場でお待ちください。望遠鏡の準備ができたら、お呼びします」
紙には、建物の簡単な図が載っている。
観望室、展示室、休憩室。
セイアは一通り目を通し、折ってポケットへ入れた。
広場からは、丘の下まで見渡せた。
家々の屋根の間に、駅へ戻る道が細く続いている。バスが走っているのが見えたが、ここからでは音までは届かなかった。
背後で、低い音がした。
振り返る。
ドームの上に、黒い筋ができていた。
筋が、ゆっくり広がっていく。
空が見えた。
セイアは、屋根の開いていくところを目で追った。
隣でも、同じように誰かが見上げていた。
肩に鞄を掛けた生徒だった。
「あそこ、開くんですね」
「うん。あれだけ大きいと、音もするのだね」
動きが止まると、急に辺りが静かになった。
広場を渡る風と、受付の方で話す声が聞こえてくる。
生徒は首を戻し、空へ視線を移した。
「月は、もうあんなにはっきり見えるのに」
「星の方は、まだ見つからないね」
二人でしばらく探したが、青みの残る空には、月のほかは見つけられなかった。
やがて、入口の生徒が手を上げた。
「準備ができました。こちらからどうぞ」
◇
観望室へ入ると、望遠鏡は、思っていたより高いところを向いていた。
太い筒を支える台があり、その周囲には、人が立って覗ける場所が空けてある。
案内の生徒が一度接眼部を覗き、機械の脇へ手を伸ばした。
短い音がする。
もう一度覗いてから、振り返った。
「最初は、月の明るい面全体が入る倍率で見ていただきます。目の位置が合わなかったら、声を掛けてください」
参加者が順に進む。
覗いた生徒が、すぐに顔を上げた。
「わ、こんなに見えるんですか」
そう言ってから、また目を戻した。
その後ろで、待っていた人たちも笑った。
セイアは、相手の肩越しに接眼部を見ていた。
そこからでは、何も分からない。
見えている人が、しばらく顔を動かさずにいる。
やがて身体を起こして、一つ場所を空けた。
セイアも前へ進む。
「どうぞ」
目を近づけると、端に白い光が見えた。
もう少し寄る。
今度は黒くなった。
「……こちらでよいのかな」
「ほんの少し、目を離してみてください。そうです。そのまま、真ん中を見る感じで」
頭をゆっくり戻す。
白いものが、視野の中へ入ってきた。
月だった。
空で見上げた時より、ずっと大きい。
丸く続く外側の縁と、途中で暗くなる境目。その明るい面には、薄い灰色のところと、白っぽいところが広がっていた。
セイアは息をついた。
その拍子に少し動いたのか、視野の端が欠けた。
さっき教わった位置へ戻ると、月も戻ってきた。
今度は、落ち着いて見られた。
明暗の境目へ目を向ける。
肉眼では、ただ途中で切れているように見えたところだ。
望遠鏡の中では、線が細かく出入りしていた。
その脇に、丸い形がある。
一つではない。
大きなものの近くに、小さなものが重なっている。丸い形の内側は暗いのに、縁の一部だけが、白く細く見えた。
「あの、丸いところは」
言いかけて、もう一度見る。
白い部分は、やはり片側に寄っている。
「片側だけ、光って見えるのだね」
「クレーターの縁に日が当たっているんです。内側には、その縁の影ができています」
セイアは、暗いところを見た。
穴が黒く開いているように思っていた。
けれど、教わってから見ると、その黒さの端にも形があった。
丸い縁の内側へ、影が伸びている。
「日が当たる向きが変われば、あの底も見えるのかい」
「ええ。同じクレーターでも、違う姿に見えますよ」
「……なるほど」
セイアは接眼部から目を離しかけ、その前に、もう一度だけ境目を辿った。
暗い側のすぐ近くに、小さな白い点があった。
何かの先だけが、日を受けているように見える。
そこを覚えてから、身体を起こした。
観望室の床が、少し暗く感じられた。
「ありがとう。よく見えたよ」
横へ退くと、後ろにいた生徒が、待ちかねたように目を近づけた。
セイアはその場所を空け、入口の方へ戻った。
◇
広場へ出ると、空の色が変わっていた。
丘の下に、幾つか灯りがついている。
宿のある方を見たが、木が重なっていて、どの灯りかまでは分からなかった。
足元では、昼間に生徒が確かめていた小さな灯りが、通路の端を照らしていた。
セイアは月を見上げた。
大きさは、来る時に見た月に戻っている。
明暗の境目も、遠目には滑らかだった。
それでも、さっきの丸い縁が、あの辺りにある。
目を離さずにいると、隣へ人が来た。
屋根が開くところを一緒に見ていた生徒だった。
「見えました?」
「うん。縁のところが、思っていたよりでこぼこしていた」
「私も、そっちばかり見ちゃいました。真ん中の、模様みたいなところも見たかったんですけど」
「一度に見るには、随分いろいろあるね」
生徒が頷いたあと、月から少し離れた空を指した。
「あ。あそこ、一つ」
セイアも顔を向ける。
初めは分からなかった。
指の先から、もう少し上へ目を移すと、小さな光が見つかった。
「……見えた」
さっきは見つからなかったものだった。
一つ見つかると、近くにもありそうな気がして、二人とも、しばらく同じ空を探した。
◇
観望室から最後の参加者が出てきたころ、案内の生徒も入口へ顔を出した。
「このあと、倍率を上げて、月の一部をもう少し詳しく見ます。ご希望の方は、もう一度こちらへお並びください」
広場にいた人たちが、幾人か入口へ向かった。
セイアも、その後ろについた。
先ほどの生徒が、半歩遅れて隣へ来る。
「もう一回、見るんですか」
「うん。今度は、さっきの影のところを」
「私も、もう少し見たくて」
入口の向こうでは、案内役が望遠鏡の部品を替えていた。
外したものを箱へ収め、別のものを取り付ける。
覗いて確かめ、また脇の操作部へ手を伸ばす。
セイアはポケットの中で、折った案内紙に指を触れた。
日帰りなら、そろそろバスの時刻が気になるころだった。
今夜は、宿まで歩いて戻ればよい。
前の人が一歩進み、セイアも続いた。
◇
二度目は、目を置く位置がすぐに分かった。
ただ、見えてきた月は、さっきと同じ姿ではなかった。
丸い外側の縁が、視野に入っていない。
明るい地面と暗い影が、ずっと近くにあった。
大きな丸いくぼみの脇を、細かな凹凸が囲んでいる。なだらかに見えたところにも、小さな窪みがあった。
セイアは、一度、どこを見ればよいのか迷った。
「先ほど、明るいところと暗いところの境目に、大きなクレーターがありましたね。今、真ん中に入れているのが、それです」
教わったところへ、目を向ける。
片側に、白い弧があった。
その内側へ落ちる影の形を見て、ようやく、先ほど見たものとつながった。
「ああ……これか」
大きくなると、丸い形の整い方も違って見えた。
縁は、綺麗な一本の線ではない。
白いところが細くなる場所も、少し太く見える場所もある。その下の影には、浅い切れ込みのような形が並んでいた。
眺めていると、輪郭がふっと揺れた。
セイアは動かないようにした。
それでも、白い線がゆらりと滲む。
「今のは、私が動いたのかな」
「空気の揺れですね。そのまま見ていると、落ち着いて見える時があります」
セイアは目を戻した。
白い縁が、柔らかくほどける。
次の瞬間、それが細い線になった。
影の端も、はっきりした。
「……今、見えたよ」
言い終える前に、また少し揺らいだ。
セイアは、その次に輪郭が整うところを待った。
やがて白い弧の下に、影の細い出っ張りが見えた。
そのまま目を動かすと、暗いところの近くに、白い点が一つあった。
「あの、離れて白く見えるところも、高いところなのかい」
「ええ。周りが影になっていても、高いところには先に日が当たるんです」
セイアは、点の周りを見た。
今見えないところにも、地面が続いている。
そこから出た先端だけが、明るくなっている。
目の前の小さな白さに、高さがあることが、ようやく実感できた。
しばらく見てから、セイアはゆっくり身体を起こした。
「大きくすると、探していたものまで、一度分からなくなるのだね」
「見える範囲が狭くなりますからね」
「うん。でも、同じところだと分かってからは、よく見えた」
場所を譲ると、次の生徒が接眼部へ顔を寄せた。
セイアは、少し離れたところで待った。
さっき一緒に並んだ生徒が覗き終わるまで、屋根の隙間の空を見ていた。
◇
休憩室の窓には、外の景色より、室内の椅子がよく映っていた。
セイアは給茶機の前で、温かいお茶を選んだ。
紙のカップを両手で包む。
指が、思ったより冷たかった。
手のひらへ熱が移ってくるまで、しばらくそのまま持っていた。
さっきの生徒は、飲み物を手に、窓のそばの席へ腰を下ろした。
「あんなに、ずっと覗いていられると思いませんでした」
「私も、途中から、何を見ていないのか気になってしまったよ」
「全部見るの、無理ですね」
「少なくとも、今夜だけではね」
セイアは笑い、お茶を一口飲んだ。
廊下では、案内役がほかの生徒と何かを確かめていた。
こちらに気づき、軽く頭を下げる。
セイアもカップを持ったまま会釈した。
「先ほどは、ありがとう」
「よく見えてよかったです」
案内役はそう答え、道具の入った箱を持って観望室の方へ戻っていった。
隣の生徒が、端末の時刻を確かめた。
「私、そろそろ行きます。下の駐車場で待ち合わせてるので」
「そうか。では、気をつけて」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
扉が閉まると、給茶機から次の一杯が出る音が聞こえた。
セイアは、残っていたお茶を飲んだ。
カップを離しても、指には、もう冷たさがなかった。
◇
外へ出る前に、上着の前を留め直した。
広場で見上げると、月のほかにも、光が幾つか見つかった。
さっき、生徒が指した辺りを探す。
同じ光かどうか、すぐには分からなかった。
少し場所を移して、木の枝のないところから、もう一度見た。
受付棟の中で椅子を動かす音がした。
セイアは空から目を下ろし、通路へ向かった。
昼間に歩いた道の先に、足元を照らす灯りが続いている。
枝が風に揺れても、その下の舗装は静かだった。
分岐の案内板を過ぎると、宿の玄関が見えた。
灯りの下に、木の長椅子がある。
その形まで見えたところで、セイアは歩く速さを少し緩めた。
引き戸を開けると、主人が帳面から顔を上げた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「冷えたでしょう」
「うん。上着があってよかったよ」
言いながら、首元を緩めた。
廊下の奥は暖かかった。
◇
部屋へ戻り、上着を掛けた。
ポケットから出した案内紙を、机へ置く。
折り目を開くと、望遠鏡の絵が描かれていた。行く前には、建物の図の方ばかり見ていた。
セイアは椅子へ座り、端末を手に取った。
ナギサとミカへ、宿に戻ったことを送る。
月がよく見えたことも、一言足した。
クレーターの縁に影があって、と打ちかけ、そこで指を止めた。
これだけでは、どのようなものか分かりにくい。
少し考えてから、その部分を消した。
帰って話す時には、丸を描けばよいかもしれない。
端末を置き、窓のカーテンを少し開けた。
畑は暗く、道の曲がるところに灯りが一つ見えた。
午後に見た赤い屋根も、今は区別がつかなかった。
カーテンを閉め、着替えを持って風呂へ行った。
部屋へ戻ると、机の上の案内紙が目に入った。
手を伸ばしかけたところで、あくびが出た。
セイアは、その紙を明日に回すことにした。
明日のバスの時刻を確かめる。
目覚ましを合わせ、端末を充電につないだ。
布団へ入ると、足を伸ばせることが心地よかった。
灯りを消したあと、どこかの部屋で椅子を引く音がした。
それも、すぐに止んだ。
◇
翌朝、カーテンを開けると、道を小さなトラックが上っていた。
荷台には、浅い箱が重ねてある。
車は赤い屋根の小屋の脇で止まり、誰かが降りてきた。
昨日は斜面に長く伸びていた影が、今は反対側へ落ちている。
畑の葉の上だけが、朝の光を受けて明るかった。
セイアは窓のそばに立ったまま、小屋の戸が開くところまで見ていた。
やがて階下から、食器を並べる音が聞こえた。
◇
朝食には、ご飯と味噌汁、卵焼きが出た。
小鉢には、青菜が盛られている。
セイアは箸を取り、まず味噌汁を一口飲んだ。
豆腐とねぎの入った汁は、昨夜の鍋よりさらりとしていた。
「昨日は、よく見えましたか」
主人が、お茶を注ぎながら尋ねた。
「うん。よく見えたよ」
セイアは卵焼きへ箸を伸ばし、そこで手を止めた。
「月の、丸いくぼみがあるだろう」
「ええ。クレーターでしたね」
「あの縁に日が当たって、内側へ影が落ちていたんだ。初めは、黒い穴のように見えていたのだけれど」
箸を戻し、空いた指で小さく弧を描いた。
「大きくしてもらうと、その影の端まで、でこぼこしていてね」
「二回、ご覧になったんですか」
「うん。もう一度見たいところができたので」
主人が笑った。
「お泊まりにしてよかったですね」
「本当に、そう思うよ」
答えてから、セイアは箸を取り直した。
卵焼きは、まだ温かかった。
◇
部屋へ戻り、鞄を閉じる。
机の上の案内紙は、元の折り目に沿って畳んで、端末と別のポケットへ入れた。
上着は、今朝も着ていくことにした。
鍵を返し、会計を済ませて外へ出る。
木の長椅子には、まだ誰も座っていなかった。
停留所まで下りる途中、昨日と同じ溝の水が聞こえた。
金網に引っかかっていた葉は、もうなかった。
セイアはベンチへ鞄を置き、端末で時刻を確かめた。
道の向こうから、バスの音が近づいてくる。
やがて、屋根の角が木の間に現れた。
◇
帰りのバスには、登校するらしい生徒と、空の袋を膝へ置いた乗客が乗っていた。
セイアは窓際へ座り、鞄を膝に載せた。
扉が閉まる。
停留所を離れると、道はすぐに下りへ変わった。
木が途切れたところで、白い丸屋根が見えた。
今朝は、また閉じている。
あの中に、望遠鏡がある。
目を近づけるところは思っていたより小さく、位置が合うと、暗い視野へ月が入ってきた。
セイアは、膝の鞄へ手を置いた。
バスが曲がるまで、屋根を見ていた。
白いものが木の向こうへ隠れ、代わりに、畑を挟んだ家々が窓へ近づいてくる。
小屋の前には、朝に見たトラックが止まっている。
その横に、荷台から下ろした箱が幾つも並んでいた。
次の停留所で、一人乗ってきた。
運転手へ挨拶をして、空いた席へ腰を下ろす。
バスはまた、駅へ向かって坂を下り始めた。