湖畔の駅は、屋根の低い、小さな駅だった。
改札を出ると、風が三人の髪を揺らした。
海とは違う匂いがした。
潮の鋭さはない。水辺の草と、日なたで温まった木と、遠くの山から下りてくる空気。それらが混じった、少し青い匂いだった。
駅前の案内板には、宿までの道と、湖岸の遊歩道が描かれている。
「まず荷物を預け、そのあと昼食にしましょう。チェックインまでは時間がありますので」
「はーい」
「了解したよ」
ナギサは二人の返事を聞いてから、もう一度、案内板を見た。
そこで、右へ一歩進みかけて止まる。
「……こちら、ですよね?」
地図を見ていたセイアが、反対側を指した。
「こちらのようだ」
「そう、ですね」
ミカは何も言わなかった。
ただ、笑いを堪えるために唇を結んでいた。
「ミカさん」
「何も言ってないよ?」
「お顔が」
「だって、ナギちゃんも間違えるんだなあって」
「間違えたのではなく、確認したのです」
「うん。確認、大事だよね」
セイアは先に歩き出した。
二人のやり取りが、すぐ後ろからついてきた。
◇
宿に荷物を預けてから入ったのは、商店街の角にある蕎麦屋だった。
開け放された窓から、涼しい風が入ってくる。壁には手書きの品書きが並び、厨房の奥で湯が沸いている音がした。
店員の小柄なロボットが、水を三つ置く。
「三名様ですね。ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
三名様。
役職も、所属も、名前も続かない。
セイアは水の入ったコップを持ちながら、その簡素な呼び方を心地よく思った。
「くるみだれのお蕎麦、だって」
ミカが品書きを指す。
「名物のようですね」
「天ぷらもつけようかな」
「量を見てからでもいいんじゃないかい」
「セイアちゃんに言われると説得力あるね。前の旅行の写真、全部見たし」
「……今日はまだ、サンドイッチしか食べていないよ」
注文した蕎麦は、浅い竹籠に盛られてきた。
つやのある細い麺に、白い葱と山葵。くるみだれは小さな陶器の器に入り、普段見慣れたつゆより淡い色をしている。
セイアは最初に、何もつけずに一本だけ食べてみた。
ひんやりとして、噛むと穀物の香りが残る。
次は、たれへ。
くるみの丸い甘みが麺に絡み、そのあとから醤油の塩気が来た。見た目よりも重くなく、飲み込んだあとに、香ばしさが少し長く残る。
「……なるほど」
「どうですか?」
「君も早く食べるといい」
説明するより、そちらの方が早いと思った。
ナギサも一口食べ、わずかに目を見開いた。
「思っていたより、すっきりしていますね」
「ねえ、天ぷらすごいよ」
ミカの前に置かれた籠からは、薄い湯気が上がっていた。
舞茸、茄子、かぼちゃ、ししとう。
舞茸を箸で割ると、衣の細かな破片が皿へ落ちた。中からきのこの香りが立つ。
「一個ずつ食べよ」
「君の注文したものだろう?」
「さっきサンドイッチ分けたじゃん」
そう言って、ミカは二人の皿へ天ぷらを置いた。
ナギサは少し迷ってから、自分の小鉢を真ん中へ寄せた。
「では、こちらの胡麻豆腐も」
「……これは、最初から三人で一つの食卓を注文した方がよかったかもしれないね」
セイアが言うと、ミカが笑った。
店の外を、自転車が一台通り過ぎた。
昼の商店街は静かで、向かいの花屋が鉢植えに水をやっている。道の端を流れる水が、日差しを受けて細く光っていた。
蕎麦湯を注ぐ頃には、三人ともずいぶん長く、この町にいたような気がしていた。
◇
午後に訪れた資料館は、昔の駅舎を使った建物だった。
床板は歩くたびに小さく鳴り、窓枠には何度も塗り重ねられた塗料の厚みがあった。壁に並ぶ古い写真の中では、今より短い列車が、今より狭いホームに停まっている。
「この辺り、昔は湖岸まで線路が延びていたんだね」
セイアは、古い路線図と現在の地図を見比べた。
今は遊歩道になっている部分に、線路が描かれている。
旅館や土産物屋の場所にも、別の建物の名前があった。
自分が歩いた道に、自分の知らない時間が重なっている。
その感覚が面白くて、しばらく地図から離れられなかった。
一方、ミカは昔の旅行鞄が並ぶ展示を覗いていた。
「これ、重そう。車輪もないんだ」
「今の鞄は、便利になりましたね」
「ナギちゃんの荷物、これだったら大変だよ。紙いっぱい入ってるし」
「旅行の書類だけです」
「分かってるってば」
小さな展示室を抜けると、鉄道模型のコーナーがあった。
山と湖、橋と駅。町を縮めたような模型の中を、二両編成の列車が走っている。
その横に、体験用の運転台が置かれていた。
『ゆっくり動かして、駅の印で停めてみよう』
ナギサが足を止めた。
セイアも止まった。
ミカは、二人の視線の先を見てから言った。
「やってみる?」
「……いえ、私は」
「空いてるよ」
「ですが」
「ナギサ」
セイアが、運転台の前を空けた。
「私は、君の運転する列車を見てみたいね」
ナギサは一度、展示室を見回した。
ほかの見学者はいない。
受付の犬の職員は、こちらに気づくと、にこやかに頷いた。
「大人……じゃなくても、どなたでもどうぞ。急に動かさなければ大丈夫です」
「……では、少しだけ」
ナギサは運転台に手を置いた。
列車が、ゆっくり動き出した。
ミカが身を屈め、模型の車窓と同じ高さになる。
「わ、動いた」
「速度を上げすぎないようにすれば……」
小さな列車が橋を渡り、トンネルへ入る。
駅が近づく。
ナギサの表情が、わずかに真剣になった。
止まった。
駅の印より、車両半分ほど先だった。
「……」
「ちょっと過ぎたね」
ミカは笑わずに言った。
ナギサは運転台を見つめたまま、静かに尋ねた。
「もう一度、よろしいでしょうか」
セイアは頷いた。
「もちろん」
二度目は、ほとんどぴったりだった。
三度目は、ミカが横から「あとちょっと!」と言ったせいで早く止まった。
四度目を終えた頃には、ナギサも自分で笑っていた。
◇
資料館を出ると、予定していた散歩の開始時刻を少し過ぎていた。
ナギサが旅程表を取り出し、何か言いかける。
けれど、紙を見る前に手を止めた。
「……湖岸へは、こちらでしたね」
「ああ」
「その前にさ」
ミカが、小さな駅舎を振り返った。
「写真、撮ろうよ。三人で」
受付の職員に頼んで、入口の前に並ぶ。
セイアは中央へ促され、ナギサは鞄を足元へ置いた。ミカが二人へ寄ったので、肩が少し触れた。
「はい、撮りますよ」
シャッターが切られる。
確認した写真には、三人と、古い駅舎と、端の方に片づけ忘れた看板が写っていた。
看板には、大きくこう書いてある。
『運転体験できます』
「ナギちゃんの記念写真だね」
「三人の記念写真でしょう」
ナギサはそう訂正したけれど、写真を送ってほしいとは、すぐに言った。
◇
宿の部屋には、窓いっぱいに湖があった。
正確には、窓の下に小さな庭があり、その先に遊歩道があり、葦の茂みがあって、そこから湖が始まっていた。
けれど、部屋へ入った瞬間には、それらすべてが一枚の景色に見えた。
「わあ……」
ミカが真っ先に窓辺へ向かう。
ナギサは宿の案内を受け取り、セイアは鞄を畳の上へ置いた。柔らかな床の感触に、歩き続けていた足がようやく休んだことを知る。
低いテーブル。
座布団が三つ。
窓辺には、小さな椅子が二脚。
「ここも二つしかないね」
ミカが椅子を見て言った。
「交代制だな」
「じゃあ、まずナギちゃん」
「私は荷物を――」
「置いてからでいいから」
今度のミカは譲らなかった。
ナギサは少し困った顔をしたあと、言われた通りに荷物を置き、窓辺へ座った。
その膝の上に、何もない。
セイアには、それが少し新鮮だった。
◇
温泉の湯は、足先からゆっくり熱を伝えてきた。
木の縁へ肘を置くと、浴場の向こうから水の落ちる音が聞こえる。露天の湯船の上には空があり、庭木の葉が風に動くたび、夕方の光が細かく揺れた。
ミカは最初こそ楽しそうに話していたが、しばらくすると静かになった。
ナギサも目を閉じている。
セイアは、その二人を順番に見た。
談話室で三人が黙る時は、大抵、誰かが考え事をしている。言葉の選び方を探しているか、次に処理するべき何かを頭の中で並べている。
今の沈黙は、それとは違った。
「……静かだね」
セイアが呟くと、ミカが目を開けた。
「私、うるさかった?」
「そういう意味ではないよ」
「よかった」
また、静かになった。
今度はセイアも、何も言わなかった。
◇
夕食は、小さな食事処に用意されていた。
焼きたての川魚と、山の野菜の煮物。きのこの土瓶蒸し。豆乳を使った小さな鍋。炊き込みご飯には、細かく刻んだ根菜が入っていた。
「前回ほどの量ではないね」
セイアが言うと、ナギサは箸を取る前に彼女を見た。
「比較の基準が分かりませんが」
「写真、見たでしょ。セイアちゃんの前の夕ご飯、すっごかったもん」
「あれは……確かに」
焼き魚の皮には薄く塩が浮いていた。
箸を入れると、皮がぱり、と小さな音を立てる。身はほろりと離れ、口の中では見た目よりも繊細だった。骨を避けながら少しずつ食べるため、自然と食事の速度が落ちる。
ミカは最初、勢いよく箸を伸ばしかけて、途中から慎重になった。
「これ、きれいに食べるの難しいね」
「背中の方から身を外すと、取りやすいですよ」
「こう?」
「ええ。そこを……」
ナギサが自分の魚で手本を見せる。
ミカは真似をして、きれいに外れた一片を嬉しそうに持ち上げた。
「できた」
「お見事」
セイアが言う。
「セイアちゃんの、もう骨だけじゃん」
「話を聞きながら食べていたからね」
「ずるくない?」
「どういう規則に反したんだい」
土瓶蒸しの蓋を開けると、出汁ときのこの香りが一緒に上がってきた。
小さな杯へ注いで飲む。
温かい汁が喉を通ると、山へ入ってから感じていた空気の涼しさが、身体の内側からほどけていくようだった。
食事の途中で、ナギサの端末が短く振動した。
彼女の指が、すぐにそちらへ動く。
画面を見て、返事を打とうとする。
セイアは何も言わなかった。
ミカも、言わなかった。
ただ、ナギサの前に置かれた炊き込みご飯から、湯気が少しずつ薄くなっていった。
やがてナギサは、端末を伏せた。
「……緊急ではありませんでした」
「そう」
セイアは頷いた。
「ご飯、冷めちゃうよ」
ミカが言う。
「ええ」
ナギサは箸を持ち直した。
そのあと、炊き込みご飯を一口食べて、少しだけ笑った。
「まだ、温かいですね」
◇
部屋へ戻ると、布団が三組並んでいた。
ミカが中央の布団の前で足を止める。
「私、真ん中がいい」
「どうしてですか?」
「両方にいるから」
ナギサは、一瞬だけ返す言葉を失った。
セイアはその横を通り、窓に近い布団へ座った。
「では、私はここにしよう」
「……分かりました」
ナギサも、反対側へ腰を下ろす。
明日の予定を確認し、目覚ましをかけ、照明を落とす。
暗くなった部屋で、ミカが小さな声を出した。
「ねえ」
「どうしたんだい」
「まだ一日目なんだね」
「そうだね」
「あと三日ある」
ナギサが、暗闇の中で答えた。
「ええ」
ミカはそれ以上、何も言わなかった。
しばらくすると、穏やかな寝息が聞こえてきた。
セイアは天井を見上げたまま、湖から聞こえるかすかな水音に耳を澄ませた。
隣に二人いるだけで、知らない部屋の暗さまで、少し違って見えた。