頁の下まで読み終えたところで、列車が揺れた。
百合園セイアは、窓の外へ目を向ける。
建物の壁に、大きな絵が見えた。通り過ぎると、その隣にも。こちらはまだ描いている途中らしく、足場の上で生徒が筆を動かしていた。
車内に、駅名の案内が流れる。
セイアは本へ栞を挟んだ。
最近読み終えたばかりの短編集だった。鞄に入れやすく、気に入った話からでも読み返せるので、今日はこれを持ってきた。
端末を出し、予約の画面を確かめる。
印刷体験。
好きな図案を、二種類の紙へ刷る。
案内の写真には、小さな機械と、その前に並べられたカードが写っていた。
同じ青い枝の絵なのに、隣同士の紙で、見た感じが違っている。
初めは、写真の光の加減かと思った。
説明を読むと、紙を替えて刷っているらしい。
それなら、実物で比べてみたい。
列車の時刻を調べ、午前の枠を申し込んだ。ナギサとミカには、ワイルドハントへ日帰りで出かけると伝えてある。
本を鞄へしまったところで、列車は駅へ入った。
◇
駅前の通りには、丸めた紙を抱える生徒がいた。
長い筒が二本、肩から提げた袋の口を越えている。隣の生徒は、小さな箱を両手で持って歩いていた。
セイアは二人の後ろを少し歩き、角で別の道へ曲がった。
店の窓が近くなる。
額縁、色のついた瓶、紙に包まれた筆。入口を開けた店では、生徒が品物を台へ並べていた。
アイリス通りの標識を確かめ、端末を鞄へ戻す。
工房は、二軒先にあった。
窓の内側へ、幾枚ものカードが留められている。
小さな屋根の絵。花を囲む線。細い枝に、葉が並んだもの。
セイアは、その枝の前で足を止めた。
白い紙の隣に、生成りの紙がある。
青は同じはずなのに、生成りの方では、葉と葉の間まで暖かく見えた。
目を戻して、白い方を見る。
こちらは、枝がすっと浮かんでいる。
入口の向こうで、ローラーの動く音がした。
◇
工房へ入ると、奥の作業台で生徒が機械を拭いていた。
受付には、名札を下げた別の生徒がいる。
予約の画面を見せると、台の端の籠を示された。
「お荷物はこちらへどうぞ。始まるまで、紙の見本をご覧になっていてください」
「ありがとう」
セイアが鞄を置くと、中の本の背が見えた。端末だけを取り出し、見本の棚へ向かう。
棚の前には、先に一人いた。
小さな手帳を開き、紙の横へ置かれた札を見ている。
長い髪の向こうから、古関ウイが顔を上げた。
「……あ」
手帳を閉じかけて、途中で止める。
セイアは、隣に並んだ刷り見本へ目を向けた。
「おはよう。君も、今日は刷るのかい」
「は、はい……」
ウイは棚と、奥の機械を順に見た。
「紙を替えて、同じものを刷れると聞いたので……」
「窓にもあったね。私も、あれが気になって来たんだよ」
「……写真では、分かりにくいですから」
「そうだね。実物だと、随分違って見える」
ウイが頷く。
手帳には紙の名前らしいものが、幾つか書かれていた。
セイアは、棚に置かれた小さな紙片を手に取った。触れてよい見本と書かれている。
端を指で挟むと、窓に飾られた紙より薄かった。
「これは、今日使う紙かな」
「そちらは、別の見本です。今日のは……こちらに」
ウイが、隣の札を指す。
同じ大きさの白と生成りが、二枚ずつ重ねられていた。
「なるほど。手で持っても、違うものだね」
セイアが紙片を戻すと、ウイはその薄い紙へもう一度目を向けた。
「……薄いものを見ると、つい、補修に使う紙と比べてしまって」
「古書の?」
「はい。破れたところをつなぐときなどに……」
そこまで答え、手帳へ目を落とす。
奥の生徒が、二人へ声をかけた。
「準備ができました。こちらへどうぞ」
◇
作業台には、白い紙と、生成りの紙が分けて置かれていた。
その横に、刷り見本と同じ枝の図案。
セイアはエプロンを受け取り、腰の後ろで紐を結んだ。ウイも袖を整え、髪を後ろへまとめている。
「こちらの図案でよろしいですか」
「うん。窓のものがよかったのでね」
「私も……同じもので、お願いします」
案内の生徒が、小さな版を光にかざした。
枝や葉のところだけが、わずかに盛り上がっている。
「樹脂でできた版です。今日は、水性のインクで濃い青を一色刷ります」
説明を終えると、生徒は版を機械へ固定した。
生徒がレバーを動かす。
ローラーが版の上を通り、青が乗った。
セイアは身を寄せて、その動きを見た。
紙は、開いている面の目印へ合わせる。
指が離れたのを確かめてから、生徒がレバーを下げた。
機械が閉じ、短く止まる。
戻すと、紙に枝が現れていた。
「外すときは、こちらの余白を持ってください。刷ったところは、まだ触らずに」
「分かったよ」
生徒が紙を取り出し、脇の台へ置く。
見本の説明より先に、その青い枝を見てしまった。
「では、お一人ずつ」
セイアは白い紙を一枚取った。
目印へ端を合わせる。
奥へ少し寄りすぎて、戻した。
「これでいいかな」
「はい。手を離して、レバーをどうぞ」
握ったレバーには、思っていたより重さがあった。
下げる途中で、手に伝わる抵抗が変わる。
最後まで動かし、戻す。
紙の真ん中に、青い葉が並んでいた。
セイアは余白を持ち、目の高さへ上げた。
さっきまで何もなかった一枚だった。
今は、細い枝が左下から伸びている。
窓で見たものと同じ絵が、自分の指の間にあった。
「……ちゃんと、出たね」
案内の生徒が笑った。
「出ました。次の紙も、同じように置いてみましょう」
◇
ウイは、紙を目印へ置いてから、もう一度端を見た。
「これで……合っていますか」
「はい、大丈夫です」
指を離し、レバーへ手を伸ばす。
機械が閉じるとき、セイアはローラーの方へ目を向けた。
さっきは自分の手元ばかり見ていた。横からだと、紙へ絵が付くまでの動きが、一続きで分かる。
ウイが紙を取り出した。
白い余白を持ち、少し傾ける。
口元が、わずかに緩んだ。
「どうかな」
「……きれいに、出ています」
ウイは台へ置き、枝の先へ顔を近づけた。
セイアも、その隣から覗く。
「ここの葉は、ずいぶん細い線なのだね」
「はい。こちらの……葉の中の線も」
ウイが、触れない距離で指を止めた。
セイアは、指の先を追う。
葉の中央を通る一本から、さらに細い線が分かれていた。
「見本を見たときには、そこまで気づかなかったよ」
「私も……刷る前より、よく見てしまいます」
ウイは紙を置いたまま、手帳を開いた。
紙名を確かめて、短く書き添える。
それを待つ間に、セイアは生成りの紙を手に取った。
「こちらも、刷ってみよう」
◇
二人が刷り終えるころには、それぞれの前へ、白と生成りが二枚ずつ並んでいた。
八枚の紙に、青い枝がある。
セイアは一歩離れて眺め、そのあとで生成りの一枚を選んだ。
余白の角に、小さな番号札を置く。
「そちらが、お好きですか」
ウイの方から尋ねられた。
「うん。枝の周りまで明るく見えてね」
セイアは隣の白い紙を見る。
「白い方は、葉がはっきりしている。けれど、今日は、こちらを持って帰りたいかな」
ウイも生成りへ目を移した。
今度は、顔を近づけずに見る。
「……同じ青なのに」
「違って見えるね」
ウイが頷く。
自分の四枚へ目を戻すと、白い方の枝の根元を見比べていた。
「こちらは、細い線が、切れずに出ていますね……」
「どの線だい」
セイアは隣へ寄った。
ウイの示すところに、小さな線がある。
生成りの方へ目を移すと、同じところが点のように見えた。
「本当だ。ここは、少し違うのだね」
案内の生徒も、二枚を覗いた。
「紙の表面が違いますからね。インクの付き方でも変わります。こちらの紙だと、この細さは出にくいことがあります」
「なるほど」
セイアは、一度白い方を見直してから、自分で選んだ生成りへ戻った。
葉の間の明るいところは、やはり好きだった。
◇
「古書を直すときも、こういう線を見るのかい」
セイアが尋ねると、ウイは手帳を台の端へ置いた。
「はい……。文字だけではなく、挿絵や、飾りもありますから」
枝の絵へ目を落とす。
「破れたところが、絵にかかっていることも、ありますし」
「つないだところで、見えにくくなったりはしないのかな」
「なるべく、隠れないようにします。薄い紙を使ったり、貼るところを考えたり……」
ウイは、さっき見本棚にあった薄い紙の方へ顔を向けた。
「あれより、ずっと薄い和紙を使うこともあります。下の文字が、透けて見えるくらいの……」
「そんなに薄いものもあるのだね」
「はい。破れ方や、元の紙によりますけど」
ウイの指が、台の上で小さな幅を作る。
「欠けているところに紙を足すなら、厚さも近いものを選びます。厚いところができると、閉じたときにも……」
言葉が止まった。
ウイは、自分の手を引いた。
「……すみません。関係のない話まで」
「紙を選ぶ話なのだから、関係はあると思うよ」
セイアは棚へ目を向けた。
「私は、本を読んでいても、頁の厚さまでは、あまり考えていなかったのでね」
「読めていれば、気にすることは少ないかもしれません」
「ただ、何度も戻って読むところはある。そういう頁が破れたら、きっと気になるだろうね」
ウイがセイアを見る。
「同じところを……読み返されるんですか」
「うん。一度読み終えた本でもね」
セイアは、受付の籠へ目を向けた。
「今日も、一冊持ってきているよ。列車で、続きを読もうと思って」
◇
刷り上がりは、一枚ずつ棚へ置くことになった。
案内の生徒が、二人の名前を書いた札を用意する。
「こちらで乾かしておきます。お昼を挟んでからでしたら、受け取れると思います。戻られたときに、状態を確認しますね」
「ありがとう。近くで食べてこようと思っていたんだ」
紙を移し、エプロンを外す。流しで手を洗ってから、受付へ戻った。
ウイも手を洗って戻ってきた。
セイアが籠から鞄を取ると、本の背へ視線が向いた。
「……先ほどの本、ですか」
「そう。短い話が幾つか入っていてね」
鞄から取り出し、表紙を見せる。
ウイは、その絵と文字を見てから、セイアへ目を戻した。
「もう、読み終えた本なんですか」
「もう、一度は。今日は途中の話を、もう一度読んでいたんだ」
「どのお話ですか」
さっきより、問いが早かった。
セイアは本を開いた。
栞のあるところから、二枚戻る。
「これだね。二人で歩いているところで、道を間違えてしまう話」
「迷ってしまうんですか」
「そうなのだけれど、なかなかそれを言い出さない。先に道を選んだ方は、もう気づいているのにね」
ウイの目が、開いた頁へ下りた。
「もう一人は?」
「そちらも、気づいているんだよ」
ウイが顔を上げる。
セイアは口元を緩めた。
「けれど、通りかかった店の話をしている。違う道へ入ったおかげで、面白い店があったのでね」
「それで、まだ言わないんですね」
「うん。そのまま、しばらく歩いてしまう」
ウイの肩が、小さく動いた。
「帰り道の話をする方が、難しくなりそうです」
「そうなのだよ。私は、そのあとの会話が好きでね」
セイアは栞を戻し、本を閉じた。
今朝列車で読んだ言葉を、自分で話している。
ウイも、閉じた表紙をまだ見ていた。
「短い話だと、途中で止めたくなくなります」
「君も、そうかい」
「はい。あと少しだから、と。もう一つ読んでしまったり」
「私は、それで駅を降りる準備が遅くなりそうになることがあるよ」
ウイの口元が緩んだ。
「分かります」
◇
作業台から離れたところに、小さな机があった。
紙の見本帳や、工房で刷った案内の冊子が置かれている。
次の体験までは、まだ時間があるらしい。
二人はその机へ移った。
セイアが本を鞄へ収める間、ウイは見本帳の白い頁を開いた。
「古書を直していると、途中で読んでしまうことはあるのかい」
「……あります」
返事のあとに、間ができた。
ウイは見本帳の端を持ったまま、目を落とす。
「読める部分だけ、先に。その子によりますけど」
「続きが気になるね」
「はい。まだ開きにくいところがあったりすると、先に、そこを直さないといけないので」
「頁をめくるところから、待つことになるのだね」
ウイが頷く。
「作業が終わっても、乾くまで待つこともあります。すぐに続きを読めるわけではなくて……」
セイアは、奥の棚を見た。
さっき刷った枝が並んでいる。
「今、あの紙を持って帰りたいのと、少し似ているかな」
「……はい」
ウイも同じ棚を見る。
「触ってしまうと、せっかくのものが……」
「そうだね。今日は、先に昼食にしておこう」
セイアは机の冊子を手に取った。
表紙には工房の建物が描かれ、角のところに、小さな枝の飾りがあった。
頁を開くと、機械の写真と、使う紙の説明が並んでいる。
「この表紙にも、枝があるね」
ウイが、表紙の小さな飾りへ目を向けた。
「古い本でも、小さな飾りが入っていると、つい見てしまいます。話が終わったところに、一つだけあったり……」
「最後まで読んで、そこで見つけるのかい」
「はい。初めは文字を追っているので、二度目に気づくことも」
「それなら、読み返すときの楽しみが増えるね」
セイアは、自分の鞄を見る。
「あの本にも、話の終わりに、小さな絵がある。あとで、もう一度見てみようかな」
「どんな絵ですか」
「窓と、椅子だったと思う。けれど、今聞かれると、向きまでは思い出せないね」
セイアは本を出し直した。
さっきの話の終わりへ、頁をめくる。
下の余白に、窓と、横へ向けた椅子が描かれていた。
「……椅子は、窓の方を向いているのだね」
ウイが、隣から覗いた。
「小さいですけど、背もたれの線までありますね」
「今度は、こちらの線かい」
「……つい」
セイアが笑うと、ウイも、今度は顔を伏せずに笑った。
◇
入口の鐘が鳴った。
紙を包んだ荷物を持つ生徒が入ってきて、受付で言葉を交わしている。
時計を見ると、昼食にちょうどよいころだった。
セイアは本を鞄へ戻した。
「私は、そろそろ食べてくるよ」
「はい……。私は、もう少し、こちらを見てから」
ウイの前には、まだ開いていない見本帳があった。
「今日は、色々聞けてよかった。ありがとう」
「こちらこそ……」
ウイは手帳を取ってから、閉じた鞄を見た。
「そのお話……今度、探してみます」
「うん。もう一人が、いつから気づいていたのかも、面白いよ」
「……そこも、読み返してしまいそうですね」
セイアは頷き、工房の生徒にも声をかけてから外へ出た。
窓の前を通る。
白と生成りの刷り見本が、まだ並んでいた。
その前で足を止め、今度は葉の中の線を見る。
生成りの方に、小さく切れているところがあった。
セイアは顔を離し、枝全体を見直した。
やはり、こちらもよかった。
◇
食堂は、工房から角を一つ曲がったところにあった。
入口の黒板に、豆と挽き肉のスパイスご飯と書かれている。
窓際では、生徒が大きな紙袋を椅子の横へ置き、先に運ばれた皿へスプーンを入れていた。
セイアも一人分を頼んだ。
奥で、鍋をかき混ぜる音がする。
ほどなく、浅い皿が運ばれてきた。
ご飯の上に、挽き肉と豆を煮たものがかかっている。脇には刻んだ野菜が少しと、白いヨーグルト。
湯気から、香ばしい匂いがした。
セイアは、ご飯と一緒にすくう。
豆は柔らかく、挽き肉の細かな粒の間で、皮の感触が残った。
初めに香りが広がり、そのあとで舌の奥が温かくなる。
もう一口食べてから、白いところを混ぜた。
酸味が加わり、さっきとは違う味になる。
「……こちらも、いいね」
端末が、鞄の中で短く震えた。
ナギサから、帰る時刻についての連絡だった。
セイアは予定していた列車を確かめ、夕方には戻ると返した。
その下へ、印刷体験が終わったことも書き添える。
ウイと本の話をした。
そこまで打ち、少し考えて、そのまま送った。
皿へ目を戻す。
温かいうちに、もう一口。
隣の席では、さっきの生徒が紙袋を持ち上げ、椅子を戻していた。
◇
食堂を出てから、通りを少し歩いた。
窓へ貼られた催しの案内が、風で下の端だけ揺れている。
大きな文字の周りに、細い飾りがあった。
セイアは足を緩めて見たが、字も一緒に読んでしまった。
展示は、今日の目的地とは別の建物らしい。
案内を見終え、来た道へ戻る。
工房では、受付の生徒が平たい袋を用意していた。
棚の前にウイの姿はなかった。机の見本帳も閉じている。
「お帰りなさい。こちら、持ち帰れる状態になっています」
生徒がセイアの四枚を、台へ並べた。
白い二枚と、生成りの二枚。
「一番気に入ったものは、上にしますか」
「うん。こちらを」
番号札の付いた生成りを示す。
生徒は札を外し、紙の間に薄い紙を挟んでまとめた。厚紙と一緒に袋へ入れ、口を折る。
「強く曲げないように、お持ちください」
「ありがとう。今日は、楽しかったよ」
セイアは両手で受け取った。
鞄を開き、本の横へ入れる。
紙の端が荷物に押されない位置を確かめ、持ち手を握った。
◇
帰りの列車では、窓際の席が空いていた。
セイアは鞄を膝へ置き、平たい袋が曲がっていないことを確かめる。
工房の窓で見た枝を、今日は四枚持っている。
そのうち一枚は、葉の周りが明るく見える生成りだった。
鞄の中へ目を戻すと、本の背が見えた。
取り出し、栞のところを開く。
朝は、二人が間違えた道を歩いているところまで読んだ。
その先を読み、話の終わりで指が止まる。
窓と、椅子。
今度は、すぐに見つかった。
セイアは絵を眺め、頁を戻した。
前の話の終わりにも、同じ椅子があった。
窓は、なかった。
「……こちらは、椅子だけなのだね」
列車が動き出す。
工房のある通りは、駅からは見えなかった。
セイアは本を片手に持ち直し、鞄を窓と反対側へ寄せた。
平たい袋は、その中でまっすぐ収まっている。
栞を挟んでいた話の、その次へ進んだ。
最初の一行から、また読み始める。