百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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22.鐘崎港・港外の入り江 #私のヨット #舷側の席 #寄港中の休日

 

 桟橋の影が、船の横腹で揺れていた。

 

 百合園セイアは鞄を船へ下ろし、手すりに手を添えて乗り込んだ。

 

 足を移すと、床がかすかに傾く。

 

 岸へ置いたままの袋を取って、座席の下へ収めた。朝、店で買ってきたサンドイッチと、冷やしておいた飲み物。保温容器は鞄の中にある。

 

 端末を取り出す。

 

 風の予報と、今日回るつもりの海岸をもう一度確かめた。

 

 岸沿いに進み、鐘崎港へ立ち寄る。その先で昼食を食べ、午後には戻る。

 

 ナギサとミカには、昨日のうちにそう伝えてある。

 

 セイアは救命胴衣の留め具を確かめ、端末をしまった。

 

 自分のヨットの座席に腰を下ろす。

 

 舵の向こうには、桟橋の端と、隣に並ぶ船の船尾が見えた。

 

 出る支度を済ませ、機関を動かすと、座面から低い振動が伝わってきた。

 

 係留索を外し、船の中へ収める。

 

 桟橋から離れる間、セイアは隣の船との距離へ目を向けていた。

 

 狭い間を抜ける。

 

 やがて、朝までいた場所が後ろに見えた。

 

 袋を提げて桟橋へ来る生徒がいる。係の住民へ片手を上げ、停まっている船へ向かった。

 

 セイアは前へ向き直った。

 

 港の出口まで、まだ速度を上げずに進む。

 

 倉庫の陰を過ぎると、舵を握る手の甲へ日が当たった。

 

     ◇

 

 海岸を回って鐘崎港へ入るころには、上着の袖を一度折っていた。

 

 陸の方には、何台もの車が見える。

 

 先に曲がった一台が建物の向こうへ消え、その後ろから別の車が現れた。

 

 セイアは岸に沿って進み、案内を確かめて、立ち寄り用の桟橋へ艇を寄せた。

 

 ここで水を買い足しておくつもりだった。

 

 船をつなぎ、鞄を持って岸へ上がる。

 

 振り返ると、座席の背が桟橋より低いところに見えた。

 

 今朝は、あそこからこちらを見上げていた。

 

 売店は、通路を上がってすぐのところにあった。

 

 冷えた水を一本選ぶ。

 

 その隣の棚に、小さな箱へ詰めたサンドイッチが並んでいた。朝に買ったものとは、パンの形が違う。

 

 丸いパンに切れ目を入れたものと、薄い食パンで挟んだもの。

 

 セイアは札を見比べ、今日はもう昼食があるのを思い出した。

 

 水だけを買い、店を出る。

 

 桟橋へ降りていく途中で、青い籠を二つ重ねた生徒とすれ違った。

 

 その先では、別の二人が器材を片づけている。

 

 一人は、広げた袋へ潜水用のフィンを収めていた。

 

 もう一人は眼鏡の位置を直し、畳んだ布を箱の上へ置いた。

 

 オデュッセイアのダイビング部。

 

 淵上コトネと、渡海ココロだった。

 

「こんにちは。作業中かな」

 

 セイアが声をかけると、ココロが顔を上げた。

 

「あ、こんにちは。はい。使ったものを戻していて……」

 

 袋の口を閉じかけて、もう一度、中を確かめる。

 

 隣のコトネは、セイアの手にある水のボトルから、桟橋に停まったヨットへ目を移した。

 

「その船で来たの?」

 

「うん。今日は海の上を回ってみようと思ってね」

 

「これから、また出る?」

 

「近くの入り江へ行くつもりだよ。そこでお昼を食べて、こちらへ戻る」

 

 コトネは桟橋の端へ歩き、艇の座席を見下ろした。

 

 手すりを挟んで、海がすぐそばにある。

 

「この船、水が近いね」

 

「走っている間も、そこに座れるよ」

 

 コトネは手すりの向こうへ顔を向けた。

 

 艇の横へ小さな波が寄り、桟橋の下へ抜けていく。

 

「いつもの船とは、聞こえ方も違いそう」

 

「水の音かな」

 

「うん。走ったら、どんな音がするんだろう」

 

 顔を戻してからも、コトネは舷側の席へ目を向けていた。

 

 セイアは水を持ち直す。

 

「時間があるなら、一緒にどうかな。長くは出ないつもりだけれど」

 

「私も?」

 

「席は空いているのでね」

 

 コトネが、片づけ終えた箱を一度振り返る。

 

「今日の分は、もう終わった。午後も予定はないから、行ける」

 

 それから、セイアへ顔を戻した。

 

「乗ってみたい」

 

「では、そうしよう」

 

 ココロは袋を持ち上げ、箱の横へ置いた。

 

「私は、この器材を戻してから帰るので……。あの、どのくらいで戻られますか?」

 

 セイアは端末で時刻を確かめた。

 

「二時ごろには、ここへ戻るつもりだよ」

 

「うん。帰ったら、部の方に顔を出す」

 

 コトネがそう答えると、ココロは頷いた。

 

「分かりました。楽しんできてください」

 

「ありがとう」

 

 船へ足を向けかけたコトネが、途中で止まる。

 

「お昼、買ってきてもいい?」

 

「もちろん。私ももう一度、売店へ寄ろうかな」

 

 さっきは、水だけで戻ってきた。

 

 セイアはそのボトルを鞄に収め、コトネと通路を上がった。

 

     ◇

 

 コトネはサンドイッチの棚の前で身を寄せ、札を読んでいた。

 

 眼鏡の奥で、視線が隣へ動く。

 

「魚のと、鶏のがある」

 

「どちらにするんだい」

 

「鶏。今日はもう潜らないから、のんびり食べる」

 

 選んだのは、丸いパンに焼いた鶏肉と葉野菜を挟んだものだった。

 

 セイアは棚の端で、ぶどうの小さなパックを取る。

 

「これは、二人で食べよう」

 

「ありがとう。お茶は?」

 

「持ってきてあるよ」

 

 コトネは手に取った飲み物を棚へ戻し、代わりに水を選んだ。

 

 それぞれ会計を済ませ、桟橋へ戻る。

 

 ココロは器材の袋を抱え、ちょうど通路を上がってくるところだった。

 

 コトネが包みを上げて見せる。

 

「お昼も買えた」

 

「よかったです。袋が飛ばないように、気をつけてくださいね」

 

「うん」

 

 セイアは笑って、自分の袋の口を折った。

 

「食べ終わるまで、ちゃんと船にいてもらおう」

 

 ココロの目が袋からセイアへ移る。

 

「あ……はい」

 

 それから、口元が緩んだ。

 

     ◇

 

 コトネが救命胴衣を着けている間に、セイアは買ったものを座席の下へしまった。

 

 乗り込む場所を示し、手すりのところで待つ。

 

 コトネは桟橋の縁を確かめ、片足ずつ船へ移した。

 

 座席に腰を下ろしてから、膝の上にあった袋を持ち上げる。

 

「これは、どこ?」

 

「こちらへ。走っている間は、中に入れておこう」

 

 セイアは鞄と並べて収め、留め具を閉じた。

 

 コトネが外へ顔を向ける。

 

 桟橋の裏側が、座った目の高さにあった。

 

「近い」

 

「上から見るより、低いだろう」

 

「いつもの船だと、もっと下に見えるから」

 

 手すりへ手を添え、座り直す。

 

 セイアはコトネが落ち着いたのを確かめ、舵の前へ戻った。

 

 機関を動かす。

 

 桟橋を離れ、港の中をゆっくり進むと、コトネが倉庫の並ぶ方へ顔を向けた。

 

 港の外を指して、セイアが言う。

 

「入り江は、あの先だよ。岸沿いに回っていく」

 

「うん」

 

 前を通る作業船が遠ざかるのを待ち、進む向きを変える。

 

 防波堤の端を過ぎたところで、セイアは速度を上げた。

 

 袖に風が入る。

 

 コトネも背もたれから体を起こし、海岸の方を見た。

 

 艇の脇を、水が続けて流れていく。

 

「この席、いいね」

 

「気に入ったかい」

 

「うん。水が通る音が、すぐそばでする」

 

 コトネは手すりへ指を置き、艇の横へ顔を向けた。

 

 セイアは前方を確かめながら、耳を澄ませる。

 

 機関の響きに混じって、細かな水音があった。

 

 波に乗るたびに、近くなったり離れたりする。

 

「今、長く聞こえた」

 

 コトネが言う。

 

 セイアには、その終わりの方だけが聞こえた。

 

「もう一度、来るかな」

 

「うん。次は、違うかも」

 

 艇が波を越えると、水が舷側を細かく叩いた。

 

 コトネの口元が緩む。

 

「今度は、短いのが続いた」

 

「なるほど。ずっと同じ音ではないのだね」

 

「いつもは、水の中でも聞くのかな」

 

「うん。録って、あとで聞くこともある」

 

「今日は、ここから聞けるね」

 

 コトネが頷く。

 

 風で髪が動き、片手で押さえた。

 

 セイアは海岸へ目を戻した。

 

 木の生えた斜面の下に、小さな屋根が見えた。

 

 岸から細い突堤が一本延び、その先に誰かが座っている。

 

「釣りをしているのかな」

 

「どのあたり?」

 

「屋根の手前から、突き出しているところだよ」

 

 コトネは眼鏡に指を添え、その方へ顔を向ける。

 

「場所は分かる。人までは、ちょっと」

 

「竿を上げたところみたいだね」

 

「釣れた?」

 

「そこまでは、私にも」

 

 コトネが笑った。

 

「気になる」

 

「帰りにも見てみようか」

 

「うん。まだいたら」

 

 セイアは前方へ視線を戻し、岸からの距離を保ったまま進んだ。

 

     ◇

 

 入り江の手前で、速度を落とした。

 

 先ほどまで一続きに見えていた岸が、奥へ折れている。

 

 斜面の木の間には、白い建物が一つあった。道は見えないが、その上の方を小さな車が通っていく。

 

 セイアは海図で水深を確かめ、風の向きを見て、岸から距離のある場所へ艇を進めた。

 

「今日は、ここにしようかな」

 

 コトネが、木の並ぶ方を見る。

 

「ここで食べる?」

 

「うん。あの斜面を見ながら、お昼にしたくてね」

 

 錨を下ろし、艇が落ち着くのを待った。

 

 周囲を見回して、位置が変わらないことを確かめる。

 

 機関を止めると、座面の振動が消えた。

 

 まだ動いているつもりでいた体が、背もたれへ戻る。

 

 コトネは何も言わず、手すりの向こうへ顔を向けていた。

 

 風が髪を揺らす。

 

「まだ、鳴ってる」

 

「機関は止めたけれど」

 

「うん。船の下。水が当たってる」

 

 セイアは舵から手を離し、耳を澄ませた。

 

 風の音がする。遠くで、鳥が一声鳴いた。

 

 コトネは隣の席を手で示した。

 

「こっちだと、聞こえる」

 

「では、私もそちらへ行こうかな」

 

 隣へ腰を下ろす。

 

 しばらく、二人とも話さなかった。

 

 艇がゆっくりと傾き、戻る。

 

 その下で、水が短く鳴った。

 

「……ああ。今、分かった」

 

「うん。それ」

 

 コトネは手すりに置いた指を動かさず、次の音を待っている。

 

 セイアも、鞄へ伸ばしかけた手を膝へ戻した。

 

 もう一度、船腹へ水が触れる。

 

 さっきより細かな音が続き、やがて途切れた。

 

「走っていた時とは、違うね」

 

「こっちも好き」

 

 コトネが言った。

 

 セイアは手すりの向こうへ目を上げる。

 

 同じ斜面が、そこにあった。白い建物の窓が光る。

 

 コトネが、座席の端を手で示した。

 

「こっちは日陰」

 

「そうだね。少し寄ってもいいかな」

 

「どうぞ」

 

 座る場所を移すと、頬に当たっていた日が外れた。

 

 代わりに、膝の先には明るい四角が残っている。

 

 セイアは鞄から保温容器を取り出し、船に備えてある蓋付きのカップを二つ取った。

 

「温かいのと冷たいの、どちらがいい?」

 

「最初は、冷たい水」

 

「私もそうしよう」

 

 それぞれボトルを開ける。

 

 セイアが水を飲んでいる間、コトネは買ったパンの包みを膝に載せた。

 

 袋の端が、風で持ち上がる。

 

 二人ともそこへ手を伸ばしかけて、コトネの指が先に押さえた。

 

「部長に言われたから」

 

「ちゃんと乗っているね」

 

 セイアはもう一度、袋の口を折った。

 

     ◇

 

 昼食の箱を開くと、卵の黄色が見えた。

 

 薄い食パンの間へ、刻んだ卵が厚く挟まっている。その隣は、ハムときゅうりだった。

 

 セイアは卵の方を一つ取った。

 

 指の当たるパンは柔らかい。

 

 一口食べると、ひんやりした具が舌に触れた。卵の甘さのあとに、胡椒が残る。

 

 朝に店へ寄った時には、海の上でこれを開くことだけ決めていた。

 

 今は隣で、コトネが丸いパンを両手で持っている。

 

 包みを下から折り上げ、こぼれないように食べていた。

 

「そちらは、どうだい」

 

「おいしい。鶏に、甘い味がついてる」

 

 もう一口食べてから、包みの中を覗く。

 

「野菜も多い」

 

「丸い方も、よかったかもしれないね」

 

「それは?」

 

「卵。こちらは、ハムときゅうりだよ」

 

 セイアが箱を傾けると、コトネが身を寄せた。

 

「きゅうり、厚い」

 

「よければ、一つどうかな」

 

「いいの?」

 

「うん。その代わり、鶏の方は最後まで聞かせてもらおう」

 

「感想?」

 

「そう。次に選ぶ時のためにね」

 

 コトネは笑い、ハムのサンドイッチを一つ取った。

 

 セイアも同じものを取る。

 

 噛むと、きゅうりがぱきりと折れた。

 

 塩気のあるハムに、薄く塗ったからしがよく合う。

 

 コトネは自分のパンを食べ終えてから、指についたソースを紙で拭いた。

 

「最後まで、鶏があった」

 

「それは、いい感想だね」

 

「あと、こぼれなかった」

 

「そちらも大切だ」

 

 空いた包みを畳み、袋へ戻す。

 

 セイアはぶどうの蓋を開け、二人の間へ置いた。

 

 冷えた粒を一つ口に入れる。

 

 皮がはじけ、果汁が広がった。

 

 海岸の上を、さっきとは反対向きに車が走っていく。

 

 セイアはその車を目で追った。

 

「陸へ出る日は、どのあたりへ行くんだい」

 

「お店を見たり、本を探したり。港から歩けるところにも、色々ある」

 

 コトネはぶどうの粒を指先で回した。

 

「無線で話す相手から、陸の話を聞くこともある」

 

「無線もするのかい」

 

「うん。顔は知らなくても、声は覚えてる人がいる」

 

「どんなことを話すんだい」

 

「天気とか、今日のお昼とか。何を食べたか聞くと、向こうも聞いてくる」

 

 セイアは、畳んだパンの包みへ目を向けた。

 

「今日は、船で食べたと答えることになるね」

 

「それだけだと、いつもと同じになっちゃう」

 

「では、小さな船、と」

 

「うん。水の音が近い船」

 

 コトネが一粒、口へ入れた。

 

 セイアも残っているぶどうを取る。

 

「献立も、伝えるのかな」

 

「パンと、ぶどう。それから、サンドイッチももらった」

 

「鶏の方は、中身まで話せそうだね」

 

「聞かれたら、答えられる」

 

 コトネは空になった包みを見てから、セイアへ顔を戻した。

 

「卵のは、どうだった?」

 

「胡椒が利いていて、おいしかったよ。まだ一つあるので、食べてみるかい」

 

「うん」

 

 セイアは箱を寄せた。

 

 コトネが卵のサンドイッチを取り、まず端をひと口食べる。

 

「ほんとだ。あとから来る」

 

「そこが気に入ったんだ」

 

 コトネはもうひと口食べ、最後に残った端も口へ入れた。

 

 セイアは残っているぶどうをコトネの方へ寄せた。

 

 コトネは一粒取り、手すりの向こうへ顔を向ける。

 

「船でこうしてるのも、いい」

 

「今日は、海へ降りないのだね」

 

「うん。ここに座って、お昼を食べる」

 

 膝に当たる日の境目へ、片手を置く。

 

「さっき、行ってみたいと思った席だから」

 

 セイアは同じ座面に手をついた。

 

「食べ終わったら、反対側も見てみようか。そちらだと、岸の見え方が違うよ」

 

「行く」

 

 返事が早かった。

 

     ◇

 

 食べ物をしまい、反対側へ移ると、白い建物が斜めに見えた。

 

 屋根の奥に、煙突が一本ある。

 

 先ほどの席からは、木に隠れていたものだった。

 

 コトネが手すりへ手を添える。

 

 セイアは保温容器からお茶を注いで蓋を閉め、カップを一つ渡した。

 

「熱いので、ゆっくり」

 

「ありがとう」

 

 蓋の飲み口へ息を吹きかけ、口をつける。

 

 セイアもカップを持って、斜面の上を見た。

 

「どちらの席がよかったかな」

 

 セイアが尋ねると、コトネは最初に座った方へ顔を向けた。

 

「走ってる時は、さっきの。風が当たるのも好き」

 

 コトネは手の中のカップへ目を落とした。

 

「止まってる時は、こっち。お茶を飲みながら、聞いていられる」

 

「よく使い分けるね」

 

「両方、座れたから」

 

 コトネはお茶を飲み、今度は背もたれへゆっくり体を預けた。

 

 セイアも隣へ座り直す。

 

 建物の窓が、また日を返す。

 

 しばらく二人とも、そこを見ていた。

 

 端末を確かめると、そろそろ港へ戻り始めるころだった。

 

 まっすぐ戻れば、来た岸をもう一度通る。

 

 少し外へ回れば、入り江の口にある低い岩の並びが、横から見える。

 

 セイアは海図へ目を落とし、戻る時間を考えた。

 

「帰りは、どちらから回ろうかな」

 

「選べるの?」

 

「このあたりを回ってから戻っても、時間はあるよ。君は、どちらを見たい?」

 

 コトネは岩のある方へ顔を向けた。

 

「岸から、少し離れた方。さっきは、入り口がよく見えなかったから」

 

「では、そちらを回ろう」

 

「釣りの人のところも、通る?」

 

「通るよ。今度は反対側からになるね」

 

「じゃあ、両方」

 

 セイアは最後のお茶を飲んだ。

 

「今日は、よく見て帰ることになりそうだ」

 

     ◇

 

 カップを船の収納へ戻し、荷物を収める。

 

 錨を上げて出る支度を済ませると、セイアは舵の前へ戻った。

 

 コトネも最初の席へ座り、手すりの向こうを見ている。

 

 入り江を出て、岸から距離を取って回る。

 

 低い岩の間に、細い切れ目が見えた。

 

 奥には緑の斜面と、白い建物の屋根。

 

「さっきのところだね」

 

「うん。あの奥に、停まっていた」

 

「こっちからだと、狭く見える」

 

 セイアも、前を確かめながら目を向けた。

 

 船を停めた場所は見えない。

 

 もう少し進むと白い屋根も隠れ、ただ岩が並んでいるだけになった。

 

 コトネが後ろを振り返る。

 

「もう、なくなった」

 

「岸が重なっているからね」

 

「入ってみてよかった」

 

 セイアは頷き、港の方へ進路を向けた。

 

 やがて、小さな屋根と、その手前の突堤が見えてくる。

 

 セイアは出てきた船へ道を譲り、速度を落とした。

 

 突堤の先には、朝と同じ色の上着がある。

 

「まだ、いるみたいだよ」

 

 コトネが、教えられた方を見る。

 

「何か釣れた?」

 

「バケツを覗いている。さて、どうなのかな」

 

「帰ったら、お昼にするのかも」

 

「私たちは、先に済ませたね」

 

 コトネは座席の下へ目を向け、空の包みを入れた場所を見た。

 

「ちゃんと食べた」

 

 セイアが笑う。

 

 港の防波堤が近くなってきた。

 

     ◇

 

 同じ桟橋へ艇を寄せた時には、ココロが別の生徒と箱を運んでいた。

 

 一つを台車へ載せると、こちらへ顔を向ける。

 

 セイアは艇をつなぎ、コトネの袋を取り出した。

 

「忘れ物は、ないかな」

 

 コトネは座席の下を一度確かめ、袋を受け取った。

 

「うん。ありがとう」

 

 桟橋へ上がり、救命胴衣を外す。

 

 セイアがそれを受け取る間に、ココロが近づいてきた。

 

「お帰りなさい。どうでしたか?」

 

「入り江で、お昼を食べた。帰りは、外側を回った」

 

 コトネが港の外を指す。

 

「岩の向こうに建物があって、船を停めたところから見えたんだけど。外からだと、隠れた」

 

「そうなんですね」

 

「最初に通っただけなら、見つけなかったかも」

 

 コトネは、いま降りた座席へ目を向けた。

 

「水の音も、近かった。走ってる時と、止まってる時で違う」

 

「船の音を聞いていたんですか?」

 

「うん。入り江で、一緒に」

 

 ココロも艇へ目を向け、頷いた。

 

「ゆっくりできたんですね」

 

 セイアは救命胴衣を艇へ戻した。

 

 座席の下から空の容器を出し、袋の中をまとめる。

 

 背中の方で、ココロが昼食のことを尋ねていた。

 

「買っていったパンは、どうでした?」

 

「鶏が、最後まで入ってた」

 

 セイアの手が止まる。

 

 ココロも、ちょっと止まったらしい。

 

「……最後まで?」

 

「うん。次に買っても、いいと思う」

 

 今度は、セイアも振り返った。

 

「私にも、よい感想を聞かせてもらったよ」

 

 ココロが頷く。

 

「それなら、今度売店に寄った時に見てみます」

 

 コトネは空の包みが入った袋を持ち直し、セイアへ向き直った。

 

「お昼も、席も、よかった。ありがとう」

 

「私も楽しかったよ。付き合ってくれて、ありがとう」

 

「これから、帰る?」

 

「うん。ただ、もう少し岸沿いを回ってからにしようかな」

 

「いいね」

 

 ココロが台車の方へ目を戻す。

 

 そのそばでは、箱を載せた生徒が待っていた。

 

「私たちは、こちらへ戻ります。それでは、お気をつけて」

 

「君たちもね」

 

 コトネが手を上げた。

 

 セイアも片手を上げ、二人が台車と一緒に通路へ向かうのを見送った。

 

     ◇

 

 隣の席に、誰もいなくなった。

 

 セイアはぶどうの空の容器を袋へ収めた。

 

 端末を取り出す。

 

 寄港中のダイビング部の生徒と、入り江で昼食を食べたこと。これから戻ること。

 

 帰着の目安を添え、ナギサとミカへ送った。

 

 舵の前へ座る。

 

 桟橋を離れると、コトネとココロの姿はもう見えなかった。

 

 通路の上には、昼に寄った売店の屋根がある。

 

 セイアはそこへ一度目を向け、港の出口へ進んだ。

 

 外へ出ると、午後の光が水面に散っていた。

 

 今朝来た岸を、そのまま戻ることもできる。

 

 海図と前方を確かめ、セイアは緩く向きを変えた。

 

 少し外から回ると、岸に並ぶ屋根が一つずつ離れて見える。

 

 赤い屋根の倉庫。

 

 その奥に、もう一つ、小さな屋根。

 

 朝には手前の建物に隠れていたものだった。

 

 隣の席にも、日が当たっている。

 

 セイアは袖を直し、帰る方へ舵を向けた。

 

     ◇

 

 朝に出た桟橋へ戻ると、隣の船はなくなっていた。

 

 代わりに、通路の端へ水の入ったバケツが置かれている。

 

 係の住民がホースを持ち、こちらへ手を上げた。

 

 セイアは軽く頷き、ゆっくり艇を寄せる。

 

 速度を落とし、桟橋との間が狭くなるのを確かめた。

 

 係の住民がホースを置き、桟橋の縁へ来た。

 

 セイアは手すりに手を添えて立ち上がり、朝に収めた係留索を取り出す。

 

 差し出すと、住民が受け取って、桟橋へ掛けてくれた。

 

 艇が落ち着いたのを確かめ、機関を止める。

 

「ありがとう」

 

 セイアが礼を言うと、住民は頷き、ホースを持って通路へ戻った。

 

 朝には日が当たっていた舵の前が、今は影になっていた。

 

 セイアはそこから鞄を取り、二人で座った席へ目を向けた。

 

 艇の下で、水が短く鳴った。

 

 鞄の紐を持ったまま、手すりへもう片方の手を置く。

 

 通路の方では、ホースの水が地面を叩いていた。

 

 それが止むと、近くの水音がまた聞こえた。

 

 セイアは、その次を待った。

 

 艇が一度、ゆっくり揺れる。

 

 船腹に触れた波が、細かな音を残して離れていった。

 

 セイアは鞄を肩へ掛け、桟橋へ足を移した。

 

 係留索のたるみを整える。

 

 結び目をもう一度確かめ、セイアは手を離した。

 

 セイアは、朝と同じ通路へ向かう。

 

 数歩進んで、振り返った。

 

 ヨットは桟橋のそばで、ゆっくりと揺れている。舷側の席には、午後の日が残っていた。

 

「さて、帰ろうかな」

 

 セイアは岸の方へ向き直った。

 

 水音が背中の方へ遠ざかり、靴底が桟橋を叩く音が続いた。

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