桟橋の影が、船の横腹で揺れていた。
百合園セイアは鞄を船へ下ろし、手すりに手を添えて乗り込んだ。
足を移すと、床がかすかに傾く。
岸へ置いたままの袋を取って、座席の下へ収めた。朝、店で買ってきたサンドイッチと、冷やしておいた飲み物。保温容器は鞄の中にある。
端末を取り出す。
風の予報と、今日回るつもりの海岸をもう一度確かめた。
岸沿いに進み、鐘崎港へ立ち寄る。その先で昼食を食べ、午後には戻る。
ナギサとミカには、昨日のうちにそう伝えてある。
セイアは救命胴衣の留め具を確かめ、端末をしまった。
自分のヨットの座席に腰を下ろす。
舵の向こうには、桟橋の端と、隣に並ぶ船の船尾が見えた。
出る支度を済ませ、機関を動かすと、座面から低い振動が伝わってきた。
係留索を外し、船の中へ収める。
桟橋から離れる間、セイアは隣の船との距離へ目を向けていた。
狭い間を抜ける。
やがて、朝までいた場所が後ろに見えた。
袋を提げて桟橋へ来る生徒がいる。係の住民へ片手を上げ、停まっている船へ向かった。
セイアは前へ向き直った。
港の出口まで、まだ速度を上げずに進む。
倉庫の陰を過ぎると、舵を握る手の甲へ日が当たった。
◇
海岸を回って鐘崎港へ入るころには、上着の袖を一度折っていた。
陸の方には、何台もの車が見える。
先に曲がった一台が建物の向こうへ消え、その後ろから別の車が現れた。
セイアは岸に沿って進み、案内を確かめて、立ち寄り用の桟橋へ艇を寄せた。
ここで水を買い足しておくつもりだった。
船をつなぎ、鞄を持って岸へ上がる。
振り返ると、座席の背が桟橋より低いところに見えた。
今朝は、あそこからこちらを見上げていた。
売店は、通路を上がってすぐのところにあった。
冷えた水を一本選ぶ。
その隣の棚に、小さな箱へ詰めたサンドイッチが並んでいた。朝に買ったものとは、パンの形が違う。
丸いパンに切れ目を入れたものと、薄い食パンで挟んだもの。
セイアは札を見比べ、今日はもう昼食があるのを思い出した。
水だけを買い、店を出る。
桟橋へ降りていく途中で、青い籠を二つ重ねた生徒とすれ違った。
その先では、別の二人が器材を片づけている。
一人は、広げた袋へ潜水用のフィンを収めていた。
もう一人は眼鏡の位置を直し、畳んだ布を箱の上へ置いた。
オデュッセイアのダイビング部。
淵上コトネと、渡海ココロだった。
「こんにちは。作業中かな」
セイアが声をかけると、ココロが顔を上げた。
「あ、こんにちは。はい。使ったものを戻していて……」
袋の口を閉じかけて、もう一度、中を確かめる。
隣のコトネは、セイアの手にある水のボトルから、桟橋に停まったヨットへ目を移した。
「その船で来たの?」
「うん。今日は海の上を回ってみようと思ってね」
「これから、また出る?」
「近くの入り江へ行くつもりだよ。そこでお昼を食べて、こちらへ戻る」
コトネは桟橋の端へ歩き、艇の座席を見下ろした。
手すりを挟んで、海がすぐそばにある。
「この船、水が近いね」
「走っている間も、そこに座れるよ」
コトネは手すりの向こうへ顔を向けた。
艇の横へ小さな波が寄り、桟橋の下へ抜けていく。
「いつもの船とは、聞こえ方も違いそう」
「水の音かな」
「うん。走ったら、どんな音がするんだろう」
顔を戻してからも、コトネは舷側の席へ目を向けていた。
セイアは水を持ち直す。
「時間があるなら、一緒にどうかな。長くは出ないつもりだけれど」
「私も?」
「席は空いているのでね」
コトネが、片づけ終えた箱を一度振り返る。
「今日の分は、もう終わった。午後も予定はないから、行ける」
それから、セイアへ顔を戻した。
「乗ってみたい」
「では、そうしよう」
ココロは袋を持ち上げ、箱の横へ置いた。
「私は、この器材を戻してから帰るので……。あの、どのくらいで戻られますか?」
セイアは端末で時刻を確かめた。
「二時ごろには、ここへ戻るつもりだよ」
「うん。帰ったら、部の方に顔を出す」
コトネがそう答えると、ココロは頷いた。
「分かりました。楽しんできてください」
「ありがとう」
船へ足を向けかけたコトネが、途中で止まる。
「お昼、買ってきてもいい?」
「もちろん。私ももう一度、売店へ寄ろうかな」
さっきは、水だけで戻ってきた。
セイアはそのボトルを鞄に収め、コトネと通路を上がった。
◇
コトネはサンドイッチの棚の前で身を寄せ、札を読んでいた。
眼鏡の奥で、視線が隣へ動く。
「魚のと、鶏のがある」
「どちらにするんだい」
「鶏。今日はもう潜らないから、のんびり食べる」
選んだのは、丸いパンに焼いた鶏肉と葉野菜を挟んだものだった。
セイアは棚の端で、ぶどうの小さなパックを取る。
「これは、二人で食べよう」
「ありがとう。お茶は?」
「持ってきてあるよ」
コトネは手に取った飲み物を棚へ戻し、代わりに水を選んだ。
それぞれ会計を済ませ、桟橋へ戻る。
ココロは器材の袋を抱え、ちょうど通路を上がってくるところだった。
コトネが包みを上げて見せる。
「お昼も買えた」
「よかったです。袋が飛ばないように、気をつけてくださいね」
「うん」
セイアは笑って、自分の袋の口を折った。
「食べ終わるまで、ちゃんと船にいてもらおう」
ココロの目が袋からセイアへ移る。
「あ……はい」
それから、口元が緩んだ。
◇
コトネが救命胴衣を着けている間に、セイアは買ったものを座席の下へしまった。
乗り込む場所を示し、手すりのところで待つ。
コトネは桟橋の縁を確かめ、片足ずつ船へ移した。
座席に腰を下ろしてから、膝の上にあった袋を持ち上げる。
「これは、どこ?」
「こちらへ。走っている間は、中に入れておこう」
セイアは鞄と並べて収め、留め具を閉じた。
コトネが外へ顔を向ける。
桟橋の裏側が、座った目の高さにあった。
「近い」
「上から見るより、低いだろう」
「いつもの船だと、もっと下に見えるから」
手すりへ手を添え、座り直す。
セイアはコトネが落ち着いたのを確かめ、舵の前へ戻った。
機関を動かす。
桟橋を離れ、港の中をゆっくり進むと、コトネが倉庫の並ぶ方へ顔を向けた。
港の外を指して、セイアが言う。
「入り江は、あの先だよ。岸沿いに回っていく」
「うん」
前を通る作業船が遠ざかるのを待ち、進む向きを変える。
防波堤の端を過ぎたところで、セイアは速度を上げた。
袖に風が入る。
コトネも背もたれから体を起こし、海岸の方を見た。
艇の脇を、水が続けて流れていく。
「この席、いいね」
「気に入ったかい」
「うん。水が通る音が、すぐそばでする」
コトネは手すりへ指を置き、艇の横へ顔を向けた。
セイアは前方を確かめながら、耳を澄ませる。
機関の響きに混じって、細かな水音があった。
波に乗るたびに、近くなったり離れたりする。
「今、長く聞こえた」
コトネが言う。
セイアには、その終わりの方だけが聞こえた。
「もう一度、来るかな」
「うん。次は、違うかも」
艇が波を越えると、水が舷側を細かく叩いた。
コトネの口元が緩む。
「今度は、短いのが続いた」
「なるほど。ずっと同じ音ではないのだね」
「いつもは、水の中でも聞くのかな」
「うん。録って、あとで聞くこともある」
「今日は、ここから聞けるね」
コトネが頷く。
風で髪が動き、片手で押さえた。
セイアは海岸へ目を戻した。
木の生えた斜面の下に、小さな屋根が見えた。
岸から細い突堤が一本延び、その先に誰かが座っている。
「釣りをしているのかな」
「どのあたり?」
「屋根の手前から、突き出しているところだよ」
コトネは眼鏡に指を添え、その方へ顔を向ける。
「場所は分かる。人までは、ちょっと」
「竿を上げたところみたいだね」
「釣れた?」
「そこまでは、私にも」
コトネが笑った。
「気になる」
「帰りにも見てみようか」
「うん。まだいたら」
セイアは前方へ視線を戻し、岸からの距離を保ったまま進んだ。
◇
入り江の手前で、速度を落とした。
先ほどまで一続きに見えていた岸が、奥へ折れている。
斜面の木の間には、白い建物が一つあった。道は見えないが、その上の方を小さな車が通っていく。
セイアは海図で水深を確かめ、風の向きを見て、岸から距離のある場所へ艇を進めた。
「今日は、ここにしようかな」
コトネが、木の並ぶ方を見る。
「ここで食べる?」
「うん。あの斜面を見ながら、お昼にしたくてね」
錨を下ろし、艇が落ち着くのを待った。
周囲を見回して、位置が変わらないことを確かめる。
機関を止めると、座面の振動が消えた。
まだ動いているつもりでいた体が、背もたれへ戻る。
コトネは何も言わず、手すりの向こうへ顔を向けていた。
風が髪を揺らす。
「まだ、鳴ってる」
「機関は止めたけれど」
「うん。船の下。水が当たってる」
セイアは舵から手を離し、耳を澄ませた。
風の音がする。遠くで、鳥が一声鳴いた。
コトネは隣の席を手で示した。
「こっちだと、聞こえる」
「では、私もそちらへ行こうかな」
隣へ腰を下ろす。
しばらく、二人とも話さなかった。
艇がゆっくりと傾き、戻る。
その下で、水が短く鳴った。
「……ああ。今、分かった」
「うん。それ」
コトネは手すりに置いた指を動かさず、次の音を待っている。
セイアも、鞄へ伸ばしかけた手を膝へ戻した。
もう一度、船腹へ水が触れる。
さっきより細かな音が続き、やがて途切れた。
「走っていた時とは、違うね」
「こっちも好き」
コトネが言った。
セイアは手すりの向こうへ目を上げる。
同じ斜面が、そこにあった。白い建物の窓が光る。
コトネが、座席の端を手で示した。
「こっちは日陰」
「そうだね。少し寄ってもいいかな」
「どうぞ」
座る場所を移すと、頬に当たっていた日が外れた。
代わりに、膝の先には明るい四角が残っている。
セイアは鞄から保温容器を取り出し、船に備えてある蓋付きのカップを二つ取った。
「温かいのと冷たいの、どちらがいい?」
「最初は、冷たい水」
「私もそうしよう」
それぞれボトルを開ける。
セイアが水を飲んでいる間、コトネは買ったパンの包みを膝に載せた。
袋の端が、風で持ち上がる。
二人ともそこへ手を伸ばしかけて、コトネの指が先に押さえた。
「部長に言われたから」
「ちゃんと乗っているね」
セイアはもう一度、袋の口を折った。
◇
昼食の箱を開くと、卵の黄色が見えた。
薄い食パンの間へ、刻んだ卵が厚く挟まっている。その隣は、ハムときゅうりだった。
セイアは卵の方を一つ取った。
指の当たるパンは柔らかい。
一口食べると、ひんやりした具が舌に触れた。卵の甘さのあとに、胡椒が残る。
朝に店へ寄った時には、海の上でこれを開くことだけ決めていた。
今は隣で、コトネが丸いパンを両手で持っている。
包みを下から折り上げ、こぼれないように食べていた。
「そちらは、どうだい」
「おいしい。鶏に、甘い味がついてる」
もう一口食べてから、包みの中を覗く。
「野菜も多い」
「丸い方も、よかったかもしれないね」
「それは?」
「卵。こちらは、ハムときゅうりだよ」
セイアが箱を傾けると、コトネが身を寄せた。
「きゅうり、厚い」
「よければ、一つどうかな」
「いいの?」
「うん。その代わり、鶏の方は最後まで聞かせてもらおう」
「感想?」
「そう。次に選ぶ時のためにね」
コトネは笑い、ハムのサンドイッチを一つ取った。
セイアも同じものを取る。
噛むと、きゅうりがぱきりと折れた。
塩気のあるハムに、薄く塗ったからしがよく合う。
コトネは自分のパンを食べ終えてから、指についたソースを紙で拭いた。
「最後まで、鶏があった」
「それは、いい感想だね」
「あと、こぼれなかった」
「そちらも大切だ」
空いた包みを畳み、袋へ戻す。
セイアはぶどうの蓋を開け、二人の間へ置いた。
冷えた粒を一つ口に入れる。
皮がはじけ、果汁が広がった。
海岸の上を、さっきとは反対向きに車が走っていく。
セイアはその車を目で追った。
「陸へ出る日は、どのあたりへ行くんだい」
「お店を見たり、本を探したり。港から歩けるところにも、色々ある」
コトネはぶどうの粒を指先で回した。
「無線で話す相手から、陸の話を聞くこともある」
「無線もするのかい」
「うん。顔は知らなくても、声は覚えてる人がいる」
「どんなことを話すんだい」
「天気とか、今日のお昼とか。何を食べたか聞くと、向こうも聞いてくる」
セイアは、畳んだパンの包みへ目を向けた。
「今日は、船で食べたと答えることになるね」
「それだけだと、いつもと同じになっちゃう」
「では、小さな船、と」
「うん。水の音が近い船」
コトネが一粒、口へ入れた。
セイアも残っているぶどうを取る。
「献立も、伝えるのかな」
「パンと、ぶどう。それから、サンドイッチももらった」
「鶏の方は、中身まで話せそうだね」
「聞かれたら、答えられる」
コトネは空になった包みを見てから、セイアへ顔を戻した。
「卵のは、どうだった?」
「胡椒が利いていて、おいしかったよ。まだ一つあるので、食べてみるかい」
「うん」
セイアは箱を寄せた。
コトネが卵のサンドイッチを取り、まず端をひと口食べる。
「ほんとだ。あとから来る」
「そこが気に入ったんだ」
コトネはもうひと口食べ、最後に残った端も口へ入れた。
セイアは残っているぶどうをコトネの方へ寄せた。
コトネは一粒取り、手すりの向こうへ顔を向ける。
「船でこうしてるのも、いい」
「今日は、海へ降りないのだね」
「うん。ここに座って、お昼を食べる」
膝に当たる日の境目へ、片手を置く。
「さっき、行ってみたいと思った席だから」
セイアは同じ座面に手をついた。
「食べ終わったら、反対側も見てみようか。そちらだと、岸の見え方が違うよ」
「行く」
返事が早かった。
◇
食べ物をしまい、反対側へ移ると、白い建物が斜めに見えた。
屋根の奥に、煙突が一本ある。
先ほどの席からは、木に隠れていたものだった。
コトネが手すりへ手を添える。
セイアは保温容器からお茶を注いで蓋を閉め、カップを一つ渡した。
「熱いので、ゆっくり」
「ありがとう」
蓋の飲み口へ息を吹きかけ、口をつける。
セイアもカップを持って、斜面の上を見た。
「どちらの席がよかったかな」
セイアが尋ねると、コトネは最初に座った方へ顔を向けた。
「走ってる時は、さっきの。風が当たるのも好き」
コトネは手の中のカップへ目を落とした。
「止まってる時は、こっち。お茶を飲みながら、聞いていられる」
「よく使い分けるね」
「両方、座れたから」
コトネはお茶を飲み、今度は背もたれへゆっくり体を預けた。
セイアも隣へ座り直す。
建物の窓が、また日を返す。
しばらく二人とも、そこを見ていた。
端末を確かめると、そろそろ港へ戻り始めるころだった。
まっすぐ戻れば、来た岸をもう一度通る。
少し外へ回れば、入り江の口にある低い岩の並びが、横から見える。
セイアは海図へ目を落とし、戻る時間を考えた。
「帰りは、どちらから回ろうかな」
「選べるの?」
「このあたりを回ってから戻っても、時間はあるよ。君は、どちらを見たい?」
コトネは岩のある方へ顔を向けた。
「岸から、少し離れた方。さっきは、入り口がよく見えなかったから」
「では、そちらを回ろう」
「釣りの人のところも、通る?」
「通るよ。今度は反対側からになるね」
「じゃあ、両方」
セイアは最後のお茶を飲んだ。
「今日は、よく見て帰ることになりそうだ」
◇
カップを船の収納へ戻し、荷物を収める。
錨を上げて出る支度を済ませると、セイアは舵の前へ戻った。
コトネも最初の席へ座り、手すりの向こうを見ている。
入り江を出て、岸から距離を取って回る。
低い岩の間に、細い切れ目が見えた。
奥には緑の斜面と、白い建物の屋根。
「さっきのところだね」
「うん。あの奥に、停まっていた」
「こっちからだと、狭く見える」
セイアも、前を確かめながら目を向けた。
船を停めた場所は見えない。
もう少し進むと白い屋根も隠れ、ただ岩が並んでいるだけになった。
コトネが後ろを振り返る。
「もう、なくなった」
「岸が重なっているからね」
「入ってみてよかった」
セイアは頷き、港の方へ進路を向けた。
やがて、小さな屋根と、その手前の突堤が見えてくる。
セイアは出てきた船へ道を譲り、速度を落とした。
突堤の先には、朝と同じ色の上着がある。
「まだ、いるみたいだよ」
コトネが、教えられた方を見る。
「何か釣れた?」
「バケツを覗いている。さて、どうなのかな」
「帰ったら、お昼にするのかも」
「私たちは、先に済ませたね」
コトネは座席の下へ目を向け、空の包みを入れた場所を見た。
「ちゃんと食べた」
セイアが笑う。
港の防波堤が近くなってきた。
◇
同じ桟橋へ艇を寄せた時には、ココロが別の生徒と箱を運んでいた。
一つを台車へ載せると、こちらへ顔を向ける。
セイアは艇をつなぎ、コトネの袋を取り出した。
「忘れ物は、ないかな」
コトネは座席の下を一度確かめ、袋を受け取った。
「うん。ありがとう」
桟橋へ上がり、救命胴衣を外す。
セイアがそれを受け取る間に、ココロが近づいてきた。
「お帰りなさい。どうでしたか?」
「入り江で、お昼を食べた。帰りは、外側を回った」
コトネが港の外を指す。
「岩の向こうに建物があって、船を停めたところから見えたんだけど。外からだと、隠れた」
「そうなんですね」
「最初に通っただけなら、見つけなかったかも」
コトネは、いま降りた座席へ目を向けた。
「水の音も、近かった。走ってる時と、止まってる時で違う」
「船の音を聞いていたんですか?」
「うん。入り江で、一緒に」
ココロも艇へ目を向け、頷いた。
「ゆっくりできたんですね」
セイアは救命胴衣を艇へ戻した。
座席の下から空の容器を出し、袋の中をまとめる。
背中の方で、ココロが昼食のことを尋ねていた。
「買っていったパンは、どうでした?」
「鶏が、最後まで入ってた」
セイアの手が止まる。
ココロも、ちょっと止まったらしい。
「……最後まで?」
「うん。次に買っても、いいと思う」
今度は、セイアも振り返った。
「私にも、よい感想を聞かせてもらったよ」
ココロが頷く。
「それなら、今度売店に寄った時に見てみます」
コトネは空の包みが入った袋を持ち直し、セイアへ向き直った。
「お昼も、席も、よかった。ありがとう」
「私も楽しかったよ。付き合ってくれて、ありがとう」
「これから、帰る?」
「うん。ただ、もう少し岸沿いを回ってからにしようかな」
「いいね」
ココロが台車の方へ目を戻す。
そのそばでは、箱を載せた生徒が待っていた。
「私たちは、こちらへ戻ります。それでは、お気をつけて」
「君たちもね」
コトネが手を上げた。
セイアも片手を上げ、二人が台車と一緒に通路へ向かうのを見送った。
◇
隣の席に、誰もいなくなった。
セイアはぶどうの空の容器を袋へ収めた。
端末を取り出す。
寄港中のダイビング部の生徒と、入り江で昼食を食べたこと。これから戻ること。
帰着の目安を添え、ナギサとミカへ送った。
舵の前へ座る。
桟橋を離れると、コトネとココロの姿はもう見えなかった。
通路の上には、昼に寄った売店の屋根がある。
セイアはそこへ一度目を向け、港の出口へ進んだ。
外へ出ると、午後の光が水面に散っていた。
今朝来た岸を、そのまま戻ることもできる。
海図と前方を確かめ、セイアは緩く向きを変えた。
少し外から回ると、岸に並ぶ屋根が一つずつ離れて見える。
赤い屋根の倉庫。
その奥に、もう一つ、小さな屋根。
朝には手前の建物に隠れていたものだった。
隣の席にも、日が当たっている。
セイアは袖を直し、帰る方へ舵を向けた。
◇
朝に出た桟橋へ戻ると、隣の船はなくなっていた。
代わりに、通路の端へ水の入ったバケツが置かれている。
係の住民がホースを持ち、こちらへ手を上げた。
セイアは軽く頷き、ゆっくり艇を寄せる。
速度を落とし、桟橋との間が狭くなるのを確かめた。
係の住民がホースを置き、桟橋の縁へ来た。
セイアは手すりに手を添えて立ち上がり、朝に収めた係留索を取り出す。
差し出すと、住民が受け取って、桟橋へ掛けてくれた。
艇が落ち着いたのを確かめ、機関を止める。
「ありがとう」
セイアが礼を言うと、住民は頷き、ホースを持って通路へ戻った。
朝には日が当たっていた舵の前が、今は影になっていた。
セイアはそこから鞄を取り、二人で座った席へ目を向けた。
艇の下で、水が短く鳴った。
鞄の紐を持ったまま、手すりへもう片方の手を置く。
通路の方では、ホースの水が地面を叩いていた。
それが止むと、近くの水音がまた聞こえた。
セイアは、その次を待った。
艇が一度、ゆっくり揺れる。
船腹に触れた波が、細かな音を残して離れていった。
セイアは鞄を肩へ掛け、桟橋へ足を移した。
係留索のたるみを整える。
結び目をもう一度確かめ、セイアは手を離した。
セイアは、朝と同じ通路へ向かう。
数歩進んで、振り返った。
ヨットは桟橋のそばで、ゆっくりと揺れている。舷側の席には、午後の日が残っていた。
「さて、帰ろうかな」
セイアは岸の方へ向き直った。
水音が背中の方へ遠ざかり、靴底が桟橋を叩く音が続いた。