百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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23.トリニティ郊外・果樹園の丘 #枝の向こう #手の中の実 #三人でひと皿

 

 出発の前に、セイアは玄関で靴を履き替えた。

 

 棚へ戻した靴よりも、底が厚く、踵が低い。両足を床に置いて立ち、鞄の紐を肩へ掛け直す。

 

 端末には、果樹園の案内が開かれていた。

 

 枝の下に立つ客と、小さな収穫籠。写真の奥では、葉の間に赤い実がいくつも見える。

 

 売店でも同じりんごを買えるらしい。

 

 それでも、予約したのは収穫体験の方だった。

 

 セイアは画面を閉じ、ナギサとミカへ、これから出ることと帰着の目安を送った。

 

 夕方までには戻るつもりだ。

 

 駐車場の白い車には、朝の日差しが斜めに当たっていた。

 

 シートへ座り、ベルトを締める。キーを回すと、長いボンネットの下から低い音が起こった。

 

 鞄は助手席へ。足元を確かめ、ゆっくりと車を出した。

 

     ◇

 

 街を離れるにつれ、道路脇の建物が低くなった。

 

 工場の塀が途切れ、畑が続く。道の先では、箱を載せた小さなトラックが、坂へ向かって曲がっていった。

 

 セイアも案内板のある角で曲がる。

 

 登り道の左手に、木の列が現れた。

 

 車窓から見ると、葉の重なりはひと続きの緑だった。隙間に見える赤い点が、車の進みに合わせて次々と後ろへ流れる。

 

 坂の途中に駐車場があり、その奥に木造の売店があった。

 

 車を停めて降りると、土と草の匂いがした。

 

 街ではまだ感じなかった風が、袖を揺らす。

 

 売店の入口には、収穫用の籠が重ねて置かれていた。並んでいるりんごの箱の向こうから、帽子をかぶった犬の住民が顔を上げる。

 

「予約の方ですか」

 

「うん。収穫体験をお願いしていたのだが」

 

 名前を伝えると、住民は帳面を確かめ、浅い籠を一つ取り出した。

 

「今日は、黄色い札のある列です。こちらへどうぞ」

 

 セイアは籠を受け取り、売店の脇を抜けた。

 

 木の下へ入ると、さっきまでひとまとまりに見えていた葉が、それぞれ別の枝についているのが分かった。

 

 幹の間を、人が歩ける道が通っている。地面は平らなところばかりではなく、草の短い場所と、土が覗く場所があった。

 

 セイアは足元を見てから、目の前の木へ視線を上げた。

 

 近い。

 

 葉の下に、手を伸ばせば届きそうな実がある。

 

「食べ頃の木には札を付けています。高いところは無理をせず、足が地面についたまま採れるものを選んでくださいね」

 

「この辺りでもよいのかな」

 

「ええ。実を下から支えて、そっと持ち上げるように。軸のところを軽く回すと外れます。枝ごと引っ張らないようにしてください」

 

 住民は隣の実を掌に受け、ゆっくりと動かして見せた。

 

 枝が大きく揺れる前に、りんごが手の中へ移った。

 

「籠へは、そっと。量はあとで量ります。園内で召し上がる分も、先に売店へ持ってきてください」

 

「分かった。ありがとう」

 

 住民は採った実を自分の籠へ収め、列の入口へ戻っていった。

 

 セイアの籠は、まだ空だった。

 

     ◇

 

 最初に目へ入ったのは、枝の先にぶら下がる赤いりんごだった。

 

 葉に隠れていない。丸い肩のところまで、よく見える。

 

 籠を平らな地面へ置き、手を伸ばした。

 

 あと少し。

 

 踵が浮きかけたところで、セイアは手を下ろした。

 

「…見る時と、採る時では違うものだね」

 

 同じ木の横へ回る。

 

 枝が下がっている方には、似た色の実がもう一つあった。こちらは腕を伸ばし切らなくても届く。

 

 掌を下へ差し入れると、皮は張っていて、指にひんやりと触れた。

 

 支えて、持ち上げる。

 

 セイアはりんごを見たまま、軸の辺りを静かに回した。

 

 枝が動いた。

 

 そこで一度止め、指の位置を直す。

 

 もう一度、今度は実を下から持ち上げるようにすると、手首へ重さが乗った。

 

 りんごが外れていた。

 

 支えていた枝は、葉を揺らしながら元の位置へ戻る。

 

 セイアは掌の上の実を見下ろした。

 

 枝についていた時には分からなかった重さが、指の付け根にある。

 

「……なるほど」

 

 籠へ入れる時も、底につくまで手を添えた。

 

 一つ。

 

 持ち手を握って歩き出すと、籠が先ほどとは違う傾き方をした。

 

 次の木では、二つの実が近くに並んでいた。

 

 一方は大きく、もう一方は葉の後ろに半分隠れている。セイアは顔を寄せすぎないように、身体の位置を変えて覗いた。

 

 隠れていた方は、こちら側が淡い緑で、向こう側が赤い。

 

 指を入れる隙間を確かめ、そちらを支える。

 

 葉が手の甲を擦った。

 

 採ってから回して見ると、赤いところと緑のところの間に、細かな色の筋があった。

 

 セイアは、籠の中の一つ目に触れない場所へ置いた。

 

 その先では、別の客が案内の住民と話していた。

 

「これ、下から見たら小さかったんですけど」

 

「持つと案外ありますよね」

 

 客が籠を持ち上げる。

 

 セイアも、自分の持ち手を握り直した。

 

 二つでも、確かに重い。

 

 木の列は緩やかな斜面を横切っていた。歩いていくと、売店の屋根が葉の隙間に見え隠れする。

 

 道の端に、小さなりんごがあった。

 

 幹に近い枝の下。赤い皮に細い縞が走っている。

 

 セイアは籠を置き、膝を曲げた。

 

 腕を上げて採るよりも、こちらの方が軸まで見える。

 

 りんごを支え、持ち上げる。今度は枝を大きく動かさずに外れた。

 

 立ち上がって、掌の上で確かめる。

 

 先ほどの二つより小さいが、手の中にはきちんと重さがあった。

 

 三つ目を籠へ収めたところで、セイアは列の奥へ目を向けた。

 

 まだ木は続いている。

 

 籠には、まだ十分な余裕があった。

 

 少し歩いてから戻ろうと、持ち手を腕へ掛けた。

 

 奥へ行くほど、売店の声が遠くなる。

 

 頭上で葉が擦れ、靴底の下では乾いた草が鳴った。枝の間を抜けた風が、そこにある実をかすかに揺らす。

 

 セイアは道の曲がるところで立ち止まった。

 

 木の列の向こうに、下っていく畑が見えた。

 

 畑の端で、小さなトラックが停まっている。荷台から箱を下ろす住民が、ここからでは小さく見えた。

 

 籠を両手で持ってみる。

 

 赤い実、赤と緑の実、小さな縞の実。

 

 帰ったら、皿に並べてもよさそうだ。

 

 セイアは踵を返した。

 

 来た道を戻る途中、低い枝に一つ、横に広いりんごを見つけた。

 

 籠へ目を落とし、もう一度そちらを見る。

 

 ナギサへ見せたら、どの実を手に取るだろう。

 

 ミカはきっと、一番大きいものを持ち上げる。

 

 その先は、帰ってみなければ分からない。

 

「あと一つ、かな」

 

 籠を置き、りんごの下へ掌を差し入れた。

 

 採った実には、葉が一枚重なっていた。

 

 葉を枝の方へそっと戻すと、籠の中には四つのりんごが並んだ。

 

     ◇

 

 売店へ戻る頃には、入口の横へ長机が出ていた。

 

 箱の中のりんごを、住民が一つずつ手に取って並べている。

 

 セイアは自分の籠を、量りの隣へ置いた。

 

「四つですね。袋へお包みしますか」

 

「一つは、ここで食べてもよいかな」

 

「もちろんです。お会計が済んだら、あちらで洗えます。残りは帰る時までお預かりしましょうか」

 

 売店の奥には軽食の窓口があり、その外に木陰の席が見えた。

 

 黒板に、野菜のスープと焼きおにぎりの文字がある。

 

「それは助かるね。昼食も取っていこうと思っていたからね」

 

 会計を済ませ、セイアは最初に採った赤い実を取り上げた。

 

 住民に教わった流しで手とりんごを洗い、紙で水気を拭く。

 

 皮にあった土の小さな点がなくなり、赤い面が艶を帯びた。

 

 軽食を頼んでから、日陰の席へ腰を下ろす。

 

 りんごを両手で持った。

 

 ひと口。

 

 歯の入る音が、思っていたよりも大きかった。

 

 甘さの後から酸味が来る。噛むたびに、口の中へ果汁が広がった。

 

 セイアは噛み跡を見て、もうひと口、位置をずらして食べた。

 

 さっきは、この重さを枝から受け取ったばかりだ。

 

 まだ残っている軸へ指を添え、食べやすい向きへ回す。

 

 隣の机では、二人連れの客が、袋へ収めてもらった実を確かめていた。

 

 売店の住民は次の予約客を木の列へ案内し、箱を並べていた住民は空いた台車を押して奥へ行く。

 

 セイアは脚を椅子の下へ引き、通り道を広くした。

 

 りんごを食べ終える頃、窓口から声が掛かった。

 

 芯を案内された入れ物へ置き、手を洗ってから、盆を受け取る。

 

 スープには、角切りのじゃがいもとにんじん、柔らかく煮えたキャベツが入っていた。

 

 匙を沈めると、底から豆も出てくる。

 

 塩気のある温かい汁が、りんごの後の口に馴染んだ。

 

 焼きおにぎりは、小さなものが二つ。

 

 表面へ焼きついた醤油の香りがする。端を噛むと、固いところの下から熱い米がほどけた。

 

 セイアは盆に置いてあった水を飲み、もう一度スープをすくった。

 

 葉の影が、机の上で揺れている。

 

 椅子へ座っていても、風が通るたびに日が当たる場所が変わった。

 

 食べ終えた盆を返し、端末を開く。

 

 ナギサとミカへ、りんごを採ったこと、昼食を済ませ、予定どおり戻ることを送った。

 

 その後に、一文を足した。

 

 ――三つ持ち帰るので、夕方、都合がよければ一緒に食べないかい。

 

 返事を待つ間、売店の品を見た。

 

 箱入りのりんごは、自分が採ったものよりずっと数が多い。同じ赤でも、一列ごとに色の見え方が違った。

 

 端末が短く震える。

 

 ナギサからは、夕方には片づくので皿を用意しておく、という返事。

 

 ミカからは、楽しみにしているという言葉と、採るのは難しかったかという質問が届いていた。

 

 セイアは、最初の実へ手を伸ばした時のことを思い出した。

 

 ――届くものを選ぶところから、だったね。

 

 そう返してから、預かってもらっていた三つを受け取った。

 

 実の間には紙が挟まれ、持ち手のある袋へ収まっている。

 

「車なら、転がらないところへ置いてくださいね」

 

「うん。今日はありがとう。昼食もおいしかった」

 

「よかったです。お気をつけて」

 

 籠を返し、セイアは駐車場へ向かった。

 

 片手に袋がある。

 

 来る時には空いていた手へ、りんご三つ分の重さが掛かっていた。

 

     ◇

 

 車の中で袋を置く場所を決め、揺れても倒れないように収める。

 

 自分も席へ座ってから、窓の向こうの果樹園を見た。

 

 葉の隙間に、まだ赤い実がある。

 

 受付を済ませた客が、一つずつ籠を持って、売店の脇を曲がっていった。

 

 セイアはベルトを締め、エンジンを掛けた。

 

 下り坂では、見通しのよいところでも急がずに進む。

 

 朝には上を見ながら通った木の列が、今度は車の横から後ろへ続いていく。

 

 道を曲がると、畑の向こうに街の建物が見えた。

 

 交差点で停まり、前の車が動き出すのを待つ。

 

 袋が倒れていないことを横目で確かめてから、セイアも車を進めた。

 

 街へ戻る頃には、建物の影が道路の端まで伸びていた。

 

     ◇

 

「おかえり、セイアちゃん」

 

 袋を持って部屋へ入ると、ミカがソファから身を起こした。

 

 ナギサは机の上の書類を脇へ寄せ、空いたところへ盆を置く。

 

「おかえりなさい。道は混んでいませんでしたか」

 

「街へ入ってからは車が多かったが、予定どおりだね」

 

 セイアは袋を机へ載せた。

 

 紙を開くと、三つのりんごが現れる。

 

 ミカが覗き込み、すぐに横へ広い実を持ち上げた。

 

「わ、これ大きい。全部、自分で採ったの?」

 

「うん。それは戻る途中で見つけたものだ」

 

「最後に? じゃあ、ほかのより気になっちゃったんだ」

 

「一度、籠へ目を落としたのだけれどね」

 

 ミカが笑い、りんごを手の中で回す。

 

 ナギサは、小さな縞の実へ指を添えた。

 

「こちらは色が綺麗ですね。これも同じ木に?」

 

「別の木だよ。幹に近い、低い枝についていた」

 

「下の方にもあるんですね」

 

「しゃがんで採った。むしろ、その方がよく見えてね」

 

 セイアも、赤と緑の実を取り上げた。

 

「これは葉の後ろにあったので、横へ回ってから見つけたんだ」

 

 ミカは自分のりんごと並べて見る。

 

「セイアちゃん、けっこう歩いた?」

 

「籠を持って、列の奥まで。その前には、手を伸ばしたのに届かない実もあった」

 

「え、それも採ったの?」

 

「いや。踵が上がってしまったので、隣へ回った」

 

 ミカが腕を上げ、何かを支える形に掌を開く。

 

「こんな感じ?」

 

「そう。けれど、引っ張るのではなくて」

 

 セイアは手の中の実を持ち上げる仕草をした。

 

「下から支えて、軸の辺りをそっと回す。外れると、急にこちらの手へ重さが来る」

 

「ふうん」

 

 ミカは掌を下ろし、今度はりんごを両手で受けた。

 

「それで、これを持って帰ってきたんだね」

 

「うん。もう一つは、木陰で食べてきたよ」

 

「先に食べてる!」

 

「昼食の前に、確かめておこうと思って」

 

「どうでしたか」

 

 ナギサに尋ねられ、セイアは噛んだところの果汁を思い出した。

 

「甘かった。酸味もあってね。それから、思ったより大きな音がした」

 

「じゃあ、こっちも早く食べてみようよ」

 

 ミカが大きな実を盆へ戻す。

 

 ナギサの用意した盆には、小さな皿が三枚、包丁とまな板が載っていた。

 

 セイアは三つの実を持って流しへ行き、洗ってから水気を拭いた。

 

 戻ると、ミカが椅子を寄せていた。

 

「皮も、そのままでいい?」

 

「私はそのままがいいかな」

 

「私も。ナギちゃんは?」

 

「では、まずは皮を残して切りましょう」

 

 ナギサは縞のある小さな実をまな板へ置いた。

 

 包丁が入り、赤い皮の内側から淡い色の果肉が覗く。

 

 半分にしてから、片方を四つに分ける。芯を取り、小さな舟の形になった一片を皿へ置く。

 

 ミカが待っていたフォークを差し出し、ナギサは自分の分を取った。セイアも一片を手にする。

 

 噛む音が、机を囲んで重なった。

 

「ん……おいしい」

 

 ミカが、皮の残った端を見てからもう一度噛む。

 

「甘いね。私、これ好き」

 

「香りもしますね」

 

 ナギサは食べ終え、まな板に残った半分へ手を伸ばした。

 

 セイアの口には、昼に食べたものより穏やかな酸味が残っていた。

 

「これを最初に食べてもよかったね」

 

「昼のと違う?」

 

「こちらの方が、今は甘く感じる」

 

 ミカがまな板の上を見る。

 

「じゃあ、次は赤と緑のも。見た目で違うかな」

 

「切ってみようか」

 

 ナギサから包丁を受け取り、今度はセイアが切った。

 

 赤い側と緑の側から、三人分を同じ大きさに切り分ける。

 

 それぞれを皿へ載せると、ミカは皮の色を確かめて二つ取った。

 

 一つ目を食べ、次にもう一つ。

 

「……んー。同じりんごだね」

 

「そうだね」

 

「甘さの違いまでは、私には分かりませんね」

 

 ナギサも二つ目を食べて、皿を手元へ戻す。

 

 ミカはセイアの顔を見た。

 

「笑ってるでしょ」

 

「私も気になったのでね」

 

「じゃあ、やってみてよ」

 

 差し出された皿から、セイアも色の違う二片を取った。

 

 どちらにも酸味があり、噛むと果汁が出る。

 

 セイアが首を傾けると、今度はミカが笑った。

 

 最後の、横に広い実を切る。

 

 刃が底まで届くと、分かれた片方がまな板の上で傾いた。セイアは手を添え、ナギサへ向けて置き直す。

 

「確かに、大きいですね」

 

「これは厚めにしてほしいな」

 

 ミカが指で幅を示す。

 

「では、このくらいでよいかな」

 

「うん、それ」

 

 セイアは片方を三つに切り分け、三人の皿へ、一片ずつ置いた。

 

 自分の分を噛むと、先ほどの実よりも、歯へはっきりした手応えがあった。

 

 ミカはひと口食べてから、残った半分を目の高さへ持ち上げる。

 

「これ、枝にぶら下がってたら、けっこう重そう」

 

「採った時も、持ち替えたよ」

 

「そうなんだ」

 

 ミカは半分をまな板へ戻し、自分の皿へ手を伸ばした。

 

 ナギサも自分の一片を食べ、フォークを皿の縁へ置いた。

 

「私なら、これを選んでいたかもしれません」

 

「大きいから?」

 

「食べてみると、歯応えが好みでしたので」

 

「あ、それは採る時には分からないね」

 

 ミカがセイアを見る。

 

 セイアはりんごを噛み終え、小さく頷いた。

 

「うん。帰ってから分かったことだね」

 

 まな板には、まだ大きな半分が残っている。

 

 セイアがそれを手元へ寄せると、ミカはもう一度、指を広げて見せた。

 

「次も、これくらい」

 

「私の分も、同じ厚さでお願いします」

 

 ナギサが皿を差し出す。

 

 セイアは二人の指と皿を見てから、包丁の位置を決めた。

 

 切り分けた一片を自分の皿にも置き、三人の真ん中へ、残りのりんごを載せた皿を戻した。

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