出発の前に、セイアは玄関で靴を履き替えた。
棚へ戻した靴よりも、底が厚く、踵が低い。両足を床に置いて立ち、鞄の紐を肩へ掛け直す。
端末には、果樹園の案内が開かれていた。
枝の下に立つ客と、小さな収穫籠。写真の奥では、葉の間に赤い実がいくつも見える。
売店でも同じりんごを買えるらしい。
それでも、予約したのは収穫体験の方だった。
セイアは画面を閉じ、ナギサとミカへ、これから出ることと帰着の目安を送った。
夕方までには戻るつもりだ。
駐車場の白い車には、朝の日差しが斜めに当たっていた。
シートへ座り、ベルトを締める。キーを回すと、長いボンネットの下から低い音が起こった。
鞄は助手席へ。足元を確かめ、ゆっくりと車を出した。
◇
街を離れるにつれ、道路脇の建物が低くなった。
工場の塀が途切れ、畑が続く。道の先では、箱を載せた小さなトラックが、坂へ向かって曲がっていった。
セイアも案内板のある角で曲がる。
登り道の左手に、木の列が現れた。
車窓から見ると、葉の重なりはひと続きの緑だった。隙間に見える赤い点が、車の進みに合わせて次々と後ろへ流れる。
坂の途中に駐車場があり、その奥に木造の売店があった。
車を停めて降りると、土と草の匂いがした。
街ではまだ感じなかった風が、袖を揺らす。
売店の入口には、収穫用の籠が重ねて置かれていた。並んでいるりんごの箱の向こうから、帽子をかぶった犬の住民が顔を上げる。
「予約の方ですか」
「うん。収穫体験をお願いしていたのだが」
名前を伝えると、住民は帳面を確かめ、浅い籠を一つ取り出した。
「今日は、黄色い札のある列です。こちらへどうぞ」
セイアは籠を受け取り、売店の脇を抜けた。
木の下へ入ると、さっきまでひとまとまりに見えていた葉が、それぞれ別の枝についているのが分かった。
幹の間を、人が歩ける道が通っている。地面は平らなところばかりではなく、草の短い場所と、土が覗く場所があった。
セイアは足元を見てから、目の前の木へ視線を上げた。
近い。
葉の下に、手を伸ばせば届きそうな実がある。
「食べ頃の木には札を付けています。高いところは無理をせず、足が地面についたまま採れるものを選んでくださいね」
「この辺りでもよいのかな」
「ええ。実を下から支えて、そっと持ち上げるように。軸のところを軽く回すと外れます。枝ごと引っ張らないようにしてください」
住民は隣の実を掌に受け、ゆっくりと動かして見せた。
枝が大きく揺れる前に、りんごが手の中へ移った。
「籠へは、そっと。量はあとで量ります。園内で召し上がる分も、先に売店へ持ってきてください」
「分かった。ありがとう」
住民は採った実を自分の籠へ収め、列の入口へ戻っていった。
セイアの籠は、まだ空だった。
◇
最初に目へ入ったのは、枝の先にぶら下がる赤いりんごだった。
葉に隠れていない。丸い肩のところまで、よく見える。
籠を平らな地面へ置き、手を伸ばした。
あと少し。
踵が浮きかけたところで、セイアは手を下ろした。
「…見る時と、採る時では違うものだね」
同じ木の横へ回る。
枝が下がっている方には、似た色の実がもう一つあった。こちらは腕を伸ばし切らなくても届く。
掌を下へ差し入れると、皮は張っていて、指にひんやりと触れた。
支えて、持ち上げる。
セイアはりんごを見たまま、軸の辺りを静かに回した。
枝が動いた。
そこで一度止め、指の位置を直す。
もう一度、今度は実を下から持ち上げるようにすると、手首へ重さが乗った。
りんごが外れていた。
支えていた枝は、葉を揺らしながら元の位置へ戻る。
セイアは掌の上の実を見下ろした。
枝についていた時には分からなかった重さが、指の付け根にある。
「……なるほど」
籠へ入れる時も、底につくまで手を添えた。
一つ。
持ち手を握って歩き出すと、籠が先ほどとは違う傾き方をした。
次の木では、二つの実が近くに並んでいた。
一方は大きく、もう一方は葉の後ろに半分隠れている。セイアは顔を寄せすぎないように、身体の位置を変えて覗いた。
隠れていた方は、こちら側が淡い緑で、向こう側が赤い。
指を入れる隙間を確かめ、そちらを支える。
葉が手の甲を擦った。
採ってから回して見ると、赤いところと緑のところの間に、細かな色の筋があった。
セイアは、籠の中の一つ目に触れない場所へ置いた。
その先では、別の客が案内の住民と話していた。
「これ、下から見たら小さかったんですけど」
「持つと案外ありますよね」
客が籠を持ち上げる。
セイアも、自分の持ち手を握り直した。
二つでも、確かに重い。
木の列は緩やかな斜面を横切っていた。歩いていくと、売店の屋根が葉の隙間に見え隠れする。
道の端に、小さなりんごがあった。
幹に近い枝の下。赤い皮に細い縞が走っている。
セイアは籠を置き、膝を曲げた。
腕を上げて採るよりも、こちらの方が軸まで見える。
りんごを支え、持ち上げる。今度は枝を大きく動かさずに外れた。
立ち上がって、掌の上で確かめる。
先ほどの二つより小さいが、手の中にはきちんと重さがあった。
三つ目を籠へ収めたところで、セイアは列の奥へ目を向けた。
まだ木は続いている。
籠には、まだ十分な余裕があった。
少し歩いてから戻ろうと、持ち手を腕へ掛けた。
奥へ行くほど、売店の声が遠くなる。
頭上で葉が擦れ、靴底の下では乾いた草が鳴った。枝の間を抜けた風が、そこにある実をかすかに揺らす。
セイアは道の曲がるところで立ち止まった。
木の列の向こうに、下っていく畑が見えた。
畑の端で、小さなトラックが停まっている。荷台から箱を下ろす住民が、ここからでは小さく見えた。
籠を両手で持ってみる。
赤い実、赤と緑の実、小さな縞の実。
帰ったら、皿に並べてもよさそうだ。
セイアは踵を返した。
来た道を戻る途中、低い枝に一つ、横に広いりんごを見つけた。
籠へ目を落とし、もう一度そちらを見る。
ナギサへ見せたら、どの実を手に取るだろう。
ミカはきっと、一番大きいものを持ち上げる。
その先は、帰ってみなければ分からない。
「あと一つ、かな」
籠を置き、りんごの下へ掌を差し入れた。
採った実には、葉が一枚重なっていた。
葉を枝の方へそっと戻すと、籠の中には四つのりんごが並んだ。
◇
売店へ戻る頃には、入口の横へ長机が出ていた。
箱の中のりんごを、住民が一つずつ手に取って並べている。
セイアは自分の籠を、量りの隣へ置いた。
「四つですね。袋へお包みしますか」
「一つは、ここで食べてもよいかな」
「もちろんです。お会計が済んだら、あちらで洗えます。残りは帰る時までお預かりしましょうか」
売店の奥には軽食の窓口があり、その外に木陰の席が見えた。
黒板に、野菜のスープと焼きおにぎりの文字がある。
「それは助かるね。昼食も取っていこうと思っていたからね」
会計を済ませ、セイアは最初に採った赤い実を取り上げた。
住民に教わった流しで手とりんごを洗い、紙で水気を拭く。
皮にあった土の小さな点がなくなり、赤い面が艶を帯びた。
軽食を頼んでから、日陰の席へ腰を下ろす。
りんごを両手で持った。
ひと口。
歯の入る音が、思っていたよりも大きかった。
甘さの後から酸味が来る。噛むたびに、口の中へ果汁が広がった。
セイアは噛み跡を見て、もうひと口、位置をずらして食べた。
さっきは、この重さを枝から受け取ったばかりだ。
まだ残っている軸へ指を添え、食べやすい向きへ回す。
隣の机では、二人連れの客が、袋へ収めてもらった実を確かめていた。
売店の住民は次の予約客を木の列へ案内し、箱を並べていた住民は空いた台車を押して奥へ行く。
セイアは脚を椅子の下へ引き、通り道を広くした。
りんごを食べ終える頃、窓口から声が掛かった。
芯を案内された入れ物へ置き、手を洗ってから、盆を受け取る。
スープには、角切りのじゃがいもとにんじん、柔らかく煮えたキャベツが入っていた。
匙を沈めると、底から豆も出てくる。
塩気のある温かい汁が、りんごの後の口に馴染んだ。
焼きおにぎりは、小さなものが二つ。
表面へ焼きついた醤油の香りがする。端を噛むと、固いところの下から熱い米がほどけた。
セイアは盆に置いてあった水を飲み、もう一度スープをすくった。
葉の影が、机の上で揺れている。
椅子へ座っていても、風が通るたびに日が当たる場所が変わった。
食べ終えた盆を返し、端末を開く。
ナギサとミカへ、りんごを採ったこと、昼食を済ませ、予定どおり戻ることを送った。
その後に、一文を足した。
――三つ持ち帰るので、夕方、都合がよければ一緒に食べないかい。
返事を待つ間、売店の品を見た。
箱入りのりんごは、自分が採ったものよりずっと数が多い。同じ赤でも、一列ごとに色の見え方が違った。
端末が短く震える。
ナギサからは、夕方には片づくので皿を用意しておく、という返事。
ミカからは、楽しみにしているという言葉と、採るのは難しかったかという質問が届いていた。
セイアは、最初の実へ手を伸ばした時のことを思い出した。
――届くものを選ぶところから、だったね。
そう返してから、預かってもらっていた三つを受け取った。
実の間には紙が挟まれ、持ち手のある袋へ収まっている。
「車なら、転がらないところへ置いてくださいね」
「うん。今日はありがとう。昼食もおいしかった」
「よかったです。お気をつけて」
籠を返し、セイアは駐車場へ向かった。
片手に袋がある。
来る時には空いていた手へ、りんご三つ分の重さが掛かっていた。
◇
車の中で袋を置く場所を決め、揺れても倒れないように収める。
自分も席へ座ってから、窓の向こうの果樹園を見た。
葉の隙間に、まだ赤い実がある。
受付を済ませた客が、一つずつ籠を持って、売店の脇を曲がっていった。
セイアはベルトを締め、エンジンを掛けた。
下り坂では、見通しのよいところでも急がずに進む。
朝には上を見ながら通った木の列が、今度は車の横から後ろへ続いていく。
道を曲がると、畑の向こうに街の建物が見えた。
交差点で停まり、前の車が動き出すのを待つ。
袋が倒れていないことを横目で確かめてから、セイアも車を進めた。
街へ戻る頃には、建物の影が道路の端まで伸びていた。
◇
「おかえり、セイアちゃん」
袋を持って部屋へ入ると、ミカがソファから身を起こした。
ナギサは机の上の書類を脇へ寄せ、空いたところへ盆を置く。
「おかえりなさい。道は混んでいませんでしたか」
「街へ入ってからは車が多かったが、予定どおりだね」
セイアは袋を机へ載せた。
紙を開くと、三つのりんごが現れる。
ミカが覗き込み、すぐに横へ広い実を持ち上げた。
「わ、これ大きい。全部、自分で採ったの?」
「うん。それは戻る途中で見つけたものだ」
「最後に? じゃあ、ほかのより気になっちゃったんだ」
「一度、籠へ目を落としたのだけれどね」
ミカが笑い、りんごを手の中で回す。
ナギサは、小さな縞の実へ指を添えた。
「こちらは色が綺麗ですね。これも同じ木に?」
「別の木だよ。幹に近い、低い枝についていた」
「下の方にもあるんですね」
「しゃがんで採った。むしろ、その方がよく見えてね」
セイアも、赤と緑の実を取り上げた。
「これは葉の後ろにあったので、横へ回ってから見つけたんだ」
ミカは自分のりんごと並べて見る。
「セイアちゃん、けっこう歩いた?」
「籠を持って、列の奥まで。その前には、手を伸ばしたのに届かない実もあった」
「え、それも採ったの?」
「いや。踵が上がってしまったので、隣へ回った」
ミカが腕を上げ、何かを支える形に掌を開く。
「こんな感じ?」
「そう。けれど、引っ張るのではなくて」
セイアは手の中の実を持ち上げる仕草をした。
「下から支えて、軸の辺りをそっと回す。外れると、急にこちらの手へ重さが来る」
「ふうん」
ミカは掌を下ろし、今度はりんごを両手で受けた。
「それで、これを持って帰ってきたんだね」
「うん。もう一つは、木陰で食べてきたよ」
「先に食べてる!」
「昼食の前に、確かめておこうと思って」
「どうでしたか」
ナギサに尋ねられ、セイアは噛んだところの果汁を思い出した。
「甘かった。酸味もあってね。それから、思ったより大きな音がした」
「じゃあ、こっちも早く食べてみようよ」
ミカが大きな実を盆へ戻す。
ナギサの用意した盆には、小さな皿が三枚、包丁とまな板が載っていた。
セイアは三つの実を持って流しへ行き、洗ってから水気を拭いた。
戻ると、ミカが椅子を寄せていた。
「皮も、そのままでいい?」
「私はそのままがいいかな」
「私も。ナギちゃんは?」
「では、まずは皮を残して切りましょう」
ナギサは縞のある小さな実をまな板へ置いた。
包丁が入り、赤い皮の内側から淡い色の果肉が覗く。
半分にしてから、片方を四つに分ける。芯を取り、小さな舟の形になった一片を皿へ置く。
ミカが待っていたフォークを差し出し、ナギサは自分の分を取った。セイアも一片を手にする。
噛む音が、机を囲んで重なった。
「ん……おいしい」
ミカが、皮の残った端を見てからもう一度噛む。
「甘いね。私、これ好き」
「香りもしますね」
ナギサは食べ終え、まな板に残った半分へ手を伸ばした。
セイアの口には、昼に食べたものより穏やかな酸味が残っていた。
「これを最初に食べてもよかったね」
「昼のと違う?」
「こちらの方が、今は甘く感じる」
ミカがまな板の上を見る。
「じゃあ、次は赤と緑のも。見た目で違うかな」
「切ってみようか」
ナギサから包丁を受け取り、今度はセイアが切った。
赤い側と緑の側から、三人分を同じ大きさに切り分ける。
それぞれを皿へ載せると、ミカは皮の色を確かめて二つ取った。
一つ目を食べ、次にもう一つ。
「……んー。同じりんごだね」
「そうだね」
「甘さの違いまでは、私には分かりませんね」
ナギサも二つ目を食べて、皿を手元へ戻す。
ミカはセイアの顔を見た。
「笑ってるでしょ」
「私も気になったのでね」
「じゃあ、やってみてよ」
差し出された皿から、セイアも色の違う二片を取った。
どちらにも酸味があり、噛むと果汁が出る。
セイアが首を傾けると、今度はミカが笑った。
最後の、横に広い実を切る。
刃が底まで届くと、分かれた片方がまな板の上で傾いた。セイアは手を添え、ナギサへ向けて置き直す。
「確かに、大きいですね」
「これは厚めにしてほしいな」
ミカが指で幅を示す。
「では、このくらいでよいかな」
「うん、それ」
セイアは片方を三つに切り分け、三人の皿へ、一片ずつ置いた。
自分の分を噛むと、先ほどの実よりも、歯へはっきりした手応えがあった。
ミカはひと口食べてから、残った半分を目の高さへ持ち上げる。
「これ、枝にぶら下がってたら、けっこう重そう」
「採った時も、持ち替えたよ」
「そうなんだ」
ミカは半分をまな板へ戻し、自分の皿へ手を伸ばした。
ナギサも自分の一片を食べ、フォークを皿の縁へ置いた。
「私なら、これを選んでいたかもしれません」
「大きいから?」
「食べてみると、歯応えが好みでしたので」
「あ、それは採る時には分からないね」
ミカがセイアを見る。
セイアはりんごを噛み終え、小さく頷いた。
「うん。帰ってから分かったことだね」
まな板には、まだ大きな半分が残っている。
セイアがそれを手元へ寄せると、ミカはもう一度、指を広げて見せた。
「次も、これくらい」
「私の分も、同じ厚さでお願いします」
ナギサが皿を差し出す。
セイアは二人の指と皿を見てから、包丁の位置を決めた。
切り分けた一片を自分の皿にも置き、三人の真ん中へ、残りのりんごを載せた皿を戻した。