二日目の朝は、よく晴れていた。
湖面には細かな光が散り、向こう岸の建物が昨日より近く見えた。
朝食を済ませた三人は、小さな登山鉄道に乗った。木の座席が並ぶ車内で、ミカが窓に顔を寄せる。ナギサは今度こそ旅程表を鞄にしまい、両手を膝に置いていた。
列車は町を抜け、斜面へ取りついた。
湖が少しずつ低くなる。
赤い屋根の宿も、昨日歩いた通りも、やがて木々の間に隠れた。
「昨日、ナギちゃんが動かしてたやつみたい」
「こちらの運転は、私ではありませんよ」
「知ってるって」
「ただ……」
ナギサは前方へ続く線路を見た。
「昨日の模型は、こういう場所を走っていた列車を再現していたのですね」
セイアは彼女の横顔を見て、少し笑った。
知ってから見ると、ただの乗り物ではなくなるらしい。
◇
山上駅から展望台までは、整備された遊歩道が続いていた。
案内所で道と天気を確認し、三人は歩き出す。午後からは雨の可能性があるため、早めに戻るつもりだった。
木陰の道は涼しかった。
落ち葉を踏む音に、鳥の声が混じる。道の端には小さな花が咲いていて、名前を書いた札が立っていた。
ミカは最初、ずいぶん先を歩いていた。
何かを見つけるたびに振り返り、
「こっち、見て!」
と呼ぶ。
三度目に呼ばれた時、セイアは足を止めた。
「ミカ」
「ん?」
「君の『こっち』が、少し遠い」
「あ」
ミカは道を戻ってきた。
それから、セイアの隣に並ぶ。
「ごめん。つい」
「急ぐ理由はないからね」
「うん」
しばらくして、今度はナギサが足を止めた。
道端の木に、細い蔓が巻きついていた。その先に小さな実がいくつもついている。
「これは……」
名札を読む。
ミカがその肩越しに覗き込む。
セイアは近くの木の幹に手を置いた。
乾いて見えた樹皮は、日陰の側だけひんやりとしていた。足元の土には湿り気があり、同じ道の上でも、日なたと木陰で匂いが違う。
一人なら、もっと速く歩いたかもしれない。
あるいは、本を読むためにどこかへ座り込んで、もっと遅くなったかもしれない。
今日はナギサが立ち止まり、ミカが何かを見つけ、セイアが休みたいと言う。
歩く速さが、何度も変わった。
◇
途中の休憩所からは、湖が見えた。
展望台ほど視界は開けていないが、木々の切れ間に水面が広がり、白い船が小さく動いている。
「あれかな。夕方に乗るの」
ミカが指した。
「同じ船かどうかは分かりませんが、乗り場はあの辺りです」
ナギサが地図と見比べる。
ミカは鞄から旅行雑誌の切り抜きを取り出した。
夕日を背にした遊覧船。湖が橙色に染まり、甲板の灯りが点き始めている写真だった。
「こういう色になるんだって」
「晴れれば、だね」
セイアが言うと、ミカは空を見上げた。
「今のところ、大丈夫そう」
けれど、空は朝のままではなかった。
山の向こうから、厚い雲が少しずつ広がっている。
三人が再び歩き出してしばらくすると、風が変わった。
木々の葉が、表ではなく裏を見せて揺れた。さっきまで遠かった空の音が、頭の上へ近づいてくる。
ナギサが足を止める。
「……一度、戻りませんか」
ミカは前方の案内板を見た。
展望台まで、あと少し。
それから空を見た。
「うん。戻ろ」
返事は早かった。
セイアも頷いた。
「今日は、山の方から断られたらしい」
そう言って歩き出したが、ミカは笑わなかった。
雨は、山上駅近くの休憩所へ戻ったところで降り始めた。
初めは屋根を叩く小さな音だった。それが、見る間に重なって、道の向こうを白く曇らせた。
ミカが濡れた前髪を払う。
「間に合ったね」
「ええ」
ナギサはほっと息をついた。
セイアも肩に落ちた水滴を払い、ベンチへ座る。
展望台には、行けなかった。
けれど三人とも、さほど濡れずに済んだ。
それだけで十分だと、その時は思った。
◇
昼食は、宿で用意してもらったおにぎりだった。
休憩所の長いベンチに座り、包みを開ける。
海苔を別にしてくれていたので、巻くと小さな音がした。梅と、鮭。隅には卵焼きと、胡瓜の漬物が入っている。
「展望台で食べる予定だったんだけどな」
ミカが言った。
「ここも、悪くはないよ」
セイアは答えた。
雨に濡れた木々は色が深く、屋根の端から落ちる水が、幾本もの細い糸になっている。おにぎりは少し冷めていたけれど、歩いたあとには、それがちょうどよかった。
梅の酸味が、口の中をはっきりさせる。
ナギサが水筒から温かいお茶を注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
「ありがと、ナギちゃん」
三つの紙コップから、薄い湯気が上がった。
ミカはおにぎりを半分ほど食べてから、また湖の方を見た。
雲の下にあるはずの水面は、もう見えなかった。
◇
宿へ戻る途中で、遊覧船の欠航を知らせる連絡が入った。
夕方まで風が強まる見込みのため、本日の特別便は運航を取りやめるという。
週に一度の便だった。
次の運航日は、三人が帰ったあとになる。
「……そっか」
ミカは、それだけ言った。
ナギサは予約の取り消しと返金の案内を確認し、宿の玄関で傘を閉じた。
「残念ですが、仕方がありませんね」
「うん。危ないもんね」
ミカはいつもと同じ調子で答えた。
同じ調子に、しようとしていた。
◇
午後の部屋は、昨日より少し暗かった。
窓の向こうの湖には細かい波が立ち、葦が同じ方向へ倒れている。遊歩道を通る人はほとんどいなかった。
濡れた上着を掛け、お茶を淹れる。
ミカが、鞄からトランプを出した。
「持ってきたんだ。こういう時にいいでしょ」
「準備がいいね」
「ナギちゃんだけじゃないんだから」
三人で遊べるルールを相談し、カードを配る。
一回目はミカが勝った。
二回目はナギサが勝ち、三回目はセイアが、ミカの置いた札を見落として負けた。
「セイアちゃんでも、そういうことあるんだ?」
「私を何だと思っているんだい」
「なんか、そういうのは見逃さなそうな人」
「買いかぶりだね」
笑い声はあった。
けれど、次の札を出すまでの間に、ミカの目が窓へ向いた。
そのたびに、ナギサは旅程表を見た。
「明日は、午前中に工房へ行くこともできます。室内ですし、雨でも――」
「うん。何でもいいよ」
「あるいは、駅の近くに別の展示室もありますが」
「それでもいい」
ナギサは、口を閉じた。
ミカは気づかず、カードを揃えている。
「……ミカさん」
「ん?」
「どちらがよろしいですか」
「だから、どっちでも」
そこまで言って、ミカは顔を上げた。
ナギサの表情が、少し硬くなっていた。
「私にも、分かりません」
静かな声だった。
「何を選べば、楽しんでいただけるのか」
ミカの手が止まった。
「別に、つまんないなんて言ってないじゃん」
「そういう意味では――」
「船がだめだったからって、ナギちゃんが全部埋め合わせなくてもいいよ」
「埋め合わせのつもりではありません。ただ、せっかく来たのですから……」
「うん。せっかく、だよね」
ミカは手元へ目を落とした。
セイアは二人の間に置かれたカードを見た。
さっきまで、同じ遊びをしていた。
それが、いつの間にか少しずつ違うことを考える時間になっていた。
「……予定通りにいかないのも、旅のうちだよ」
セイアはそう言った。
言ってから、自分の言葉がずいぶん軽いことに気づいた。
ミカの指先には、折り目のついた切り抜きがあった。
いつの間に取り出したのだろう。
夕日の中の、遊覧船。
「……そうだね」
ミカは笑おうとした。
「セイアちゃん、一人で旅行してた時も、そんなこと言ってたもんね」
セイアはすぐには答えられなかった。
窓へ雨が当たった。
その音だけが、しばらく続いた。
◇
「ミカ」
最初に口を開いたのは、セイアだった。
「その船に、乗りたかったんだね」
ミカは切り抜きを見た。
「……うん」
「どうして、そこまで?」
「写真、きれいだったから」
それから、少し声を小さくする。
「三人でこういうの見たら、いいかなって」
切り抜きの端には、小さな書き込みがあった。
『左側の席』
『夕日、反対側? 確認』
『写真、三人で』
セイアは、その文字を見た。
ミカはただ、乗り物に乗りたかったのではない。
そこで過ごす時間を、出発前から何度も想像していたのだ。
「私が、行こうって言ったでしょ」
ミカは続けた。
「だから、二人にも、来てよかったなって思ってほしくて」
ナギサが顔を上げる。
「それは、もう――」
「分かってる。楽しくなかったって言ってるんじゃないの」
ミカは、今度はナギサの言葉を遮ってしまったことに気づき、小さく息をついた。
「……ただ、残念だったの。結構」
セイアは頷いた。
「そうだね」
ほかの景色が見られたから。
無事に戻れたから。
明日もあるから。
どれも本当だった。
けれど、そのどれも、楽しみにしていた船に乗れなかったことを、なかったことにはしなかった。
「私の言い方がよくなかった」
セイアは言った。
「一人の時なら、予定を変えるのも自分だけの話で済む。君たちの楽しみまで、私が勝手に『それも旅だ』と片づけるべきではなかったね」
ミカは少し驚いた顔をした。
「……そんな、大げさに謝らなくても」
「大げさに聞こえたなら、もっと簡単に言おうか」
セイアは切り抜きを見た。
「見たかったよ。君たちと、その夕日を」
ミカは何も言わなかった。
代わりに、折っていた紙をゆっくり広げた。
ナギサも、手元の旅程表をテーブルへ置く。
「私も、残念でした」
ミカがそちらを見る。
「展望台へ行けなかったことも、船に乗れなかったことも。ただ……予定を立てたのが私でしたから、次の案を出さなければと思って」
「お天気までナギちゃんが決めたわけじゃないのに」
「ええ。その通りですね」
ナギサは、少し困ったように笑った。
「それに、皆さんに楽しんでいただくことばかり考えて、自分が何をしたいのか、後回しにしていた気もします」
「ナギちゃん、何したかったの?」
尋ねられて、ナギサはためらった。
セイアは待った。
ミカも、今度は先回りして答えを用意しなかった。
「……湖の貸しボートです」
「ボート?」
「白鳥の形をしたものが、ありましたでしょう」
ミカが瞬きをした。
セイアも、少しだけ驚いた。
ナギサはその反応を見て、すぐに付け加える。
「いえ、必ずというわけではありません。天気次第ですし、三人で乗れるかも確認が――」
「乗ろ」
ミカが言った。
「三人乗り、見たよ。あった」
「……そうですか」
「ナギちゃんがあれ選ぶの、ちょっと意外」
「悪いでしょうか」
「全然。すっごくいい」
ナギサは視線を落とした。
その耳の辺りが、わずかに赤くなっているように見えた。
セイアは、伏せられた旅程表をひっくり返した。
空いているところへ、鉛筆で小さく書く。
『ボート。晴れたら』
「明日のことは、明日の空を見て決めよう」
「うん」
「ええ」
ミカは切り抜きを捨てなかった。
丁寧に折り直し、鞄へ戻した。
◇
夕食の汁物は、きのこと鶏肉の入った、少し太い麺の煮込みだった。
宿の主人が「今日は冷えましたから」と、熱い器を置いていく。
白い湯気が、三人の顔の間を上っていった。
ミカが一口食べて、ふう、と息を吐く。
「熱い」
「ゆっくり召し上がってください」
「分かってるけど、美味しい」
セイアは汁をすくった。
味噌の丸い塩気と、鶏の脂。煮込まれた葱が柔らかく、噛むと甘い。歩いて冷えた身体にも、少し言葉を使いすぎた喉にも、温かさがありがたかった。
ナギサが品書きの小さな札を見ている。
「何か気になるのかい?」
「だし巻き卵が、追加で頼めるようです」
「食べたい?」
ミカが尋ねた。
ナギサは、今度はそれほど長く迷わなかった。
「……はい」
「じゃあ、頼もうよ」
運ばれてきただし巻きは、三つに切り分けるには少し大きかった。
結局、ナギサが一番大きなところを食べた。
そのことを、誰もからかわなかった。