三日目の朝、雨は細くなっていた。
昨日まで湖を隠していた雲の下に、向こう岸の建物がぼんやり現れている。
朝食のあと、三人はテーブルへ地図を広げた。
今度はナギサだけが持っているのではなく、真ん中に置いた。
「午前中は、工房でどうかな」
セイアが言う。
「うん。絵付け、やってみたい」
「では、午後は天候を見て。ボートが利用できるようでしたら、そちらへ」
ナギサが書き込む。
ミカは鉛筆を借りて、昼食の欄に、小さくパンの絵を描いた。
「これ、パンかい?」
「パンだよ」
「……私は雲かと」
「ナギちゃんまで!」
昨日の話を、何度も蒸し返すことはなかった。
けれど、地図を置く位置が変わったことには、三人とも気づいていた。
◇
工房は、商店街から一本奥へ入った坂道にあった。
軒先には、青や白の器が並んでいる。雨粒のついた葉を避けて入口をくぐると、土と木の混じった匂いがした。
受付をしていた学生が、三人へ作業用の前掛けを渡してくれる。
「こちらから、好きなカップを選んでください。描いたあとはこちらで焼いて、後日お送りします」
棚には、まだ模様のないカップが並んでいた。
口の広いもの。
細長いもの。
丸いもの。
持ち手の大きいもの。
ナギサは実際に手に取り、持ちやすさを確かめた。
ミカは一番大きなものを選んだ。
セイアは、少しだけ左右の形が違うカップを取った。
「それでいいの?」
ミカが尋ねる。
「ああ。こちら側から見ると、少し違って見える」
「面白いね」
窓際の作業台に、三人で並ぶ。
最初の十分ほどは、誰も描き始めなかった。
白い表面は思っていたより広く、何を描いてもよいと言われると、逆に手が止まった。
「……難しいね」
セイアが呟く。
「何を描くつもりですか?」
「まだ決めていない」
「セイアちゃん、こういうところでも予定なしなんだ」
「今、少し後悔しているよ」
ナギサが笑い、細い筆を取った。
彼女が描き始めたのは、昨日の山道で見た草だった。
細い茎に、小さな葉。風の流れが分かるような、控えめな曲線。
ミカがそれを覗き込み、感心した声を上げる。
「きれい。ナギちゃん、こういうの上手なんだ」
「簡単な模様にしただけです」
「簡単に見えないけど」
セイアも筆を取った。
薄い青を、カップの周りへ引いてみる。
湖のつもりだった。
けれど、途中で筆に含んだ色が少なくなり、線が途切れた。
「……ふむ」
「どうしたの?」
「湖が、途中で終わってしまった」
担当の学生が覗き込み、柔らかく笑った。
「上から足してもいいですし、そのままでも面白いですよ」
セイアは、途切れた線を見た。
白い部分が残っている。
そこを少し広げ、上に細い線を足した。
湖の上に、低い雲ができた。
「そういう景色だった、ということにしよう」
「昨日のだね」
「ああ」
ミカのカップには、三人の小さな後ろ姿が描かれていた。
湖を見ているらしい。
髪の色も、身長も、それぞれ違う。
ただし、人物のすぐ横には、大きな丸い染みができていた。
「……これ、手が当たっちゃった」
ミカは眉を下げた。
消そうとして、手を止める。
「何に見える?」
セイアが顔を近づけた。
「岩かな」
「岩……」
「湖岸にあっても、不思議ではないね」
ミカはしばらく考え、染みの横に小さな草を描き足した。
「じゃあ、岩」
その岩は、人物三人よりも大きかった。
ナギサは何か言いかけ、結局、笑うだけにした。
◇
描き終えたカップの底へ、名前を書く。
ミカは自分の名前を書いたあと、筆を持ったまま二人を見た。
「ねえ。二人の名前も入れていい?」
「私たちの?」
「うん。せっかく三人で作ったし」
セイアは、自分のカップをそちらへ寄せた。
「それなら、こちらにも頼むよ」
ナギサも、少し遅れて差し出した。
三つのカップが、作業台の上を一巡する。
それぞれの底に、三人の名前と、今日の日付が残った。
工房の学生が預かるために持ち上げると、ミカが名残惜しそうな顔をした。
「今日、持って帰れないんだね」
「焼き上がりを待つ楽しみがありますよ」
ナギサが言った。
「そうだね」
セイアは、棚へ並べられた三つを見た。
「旅が終わったあとにも、まだ届くものがあるらしい」
◇
昼近く、雨がやんだ。
雲の切れ間から日が差すと、商店街の石畳が、濡れているところだけ明るく光った。
三人は、工房で教えてもらったパン屋へ入った。
奥には小さな食事スペースがあり、窓の前に鉢植えが並んでいる。
野菜のスープと、好きなパンを二つ。
ミカは迷わず大きなチーズパンを選び、そのあとで甘いものの棚を見た。
ナギサはくるみ入りのパンと、薄い生地の林檎の焼き菓子。
セイアは塩気のある丸いパンと、小さなあんパンを選んだ。
「セイアちゃん、クリームパンじゃないんだ」
「前に食べたからね」
「前に食べたものも、また食べていいんだよ?」
「それはそうだが、今日はこれが気になった」
席へ戻ると、白い器にスープが注がれた。
玉葱、人参、豆、じゃがいも。形を少し残して煮込まれた野菜から、甘みが出ている。パンをちぎって浸すと、硬めの皮が柔らかくなり、底にたまったスープまできれいに食べられた。
ミカのチーズパンは、温め直されていた。
割った瞬間、中のチーズが長く伸びる。
「見て、これ」
「切れなくなる前に召し上がった方が」
「写真撮って!」
ナギサが端末を構えた頃には、チーズは細い糸になっていた。
セイアは笑いながら、皿を少し下へ差し出した。
「落ちるよ」
「わ、待って、待って」
慌ただしい写真が一枚増えた。
写っていたのは、パンと、ミカの手と、皿を差し出すセイアの手。
ナギサは、撮り直しを提案しなかった。
◇
午後、湖の貸しボートが営業を再開したと分かった。
ただ、再開時刻までは少し時間がある。
三人は、商店街の時計のある広場で待ち合わせることにした。
「四十分ほど、別々に歩いてみないかい」
セイアが言うと、ミカは少し目を丸くした。
「別々?」
「君たちと一緒では入りにくいという意味ではないよ。ただ、それぞれ気になった店もあるだろう」
ナギサは、通りの先にある小さな専門店を見た。
地元の茶葉や乾燥させた草花を扱う店だった。
「……そうですね」
「私は雑貨屋さん見たい」
「では、決まりだね」
時刻を確かめる。
待ち合わせの場所も、もう一度確認する。
それから、三人は別の方向へ歩き出した。
◇
セイアが入ったのは、古本屋だった。
入口の上に小さな鐘がついていて、扉を開けると、思ったより澄んだ音がした。
店内は狭い。
本棚の間を通るには、鞄を前へ持たなければならなかった。
古い旅行記、土地の植物を紹介する本、誰かが読み終えた小説。背表紙の色は揃っておらず、棚の高さも少しずつ違う。
セイアは一冊を手に取り、最初の数ページを読んだ。
湖のほとりを舞台にした、短い物語の集まりだった。
劇的なことが起こるわけではない。
魚を釣り損ねたり、手紙が遅れて届いたり、道を間違えた先で知人と会ったりする。
どこかへ向かう途中の人の話が、多かった。
セイアは時計を見た。
まだ時間がある。
けれど、読み切ってしまうほどではない。
その本を買うことにした。
続きは、列車の中で読めばいい。
◇
ナギサは茶葉の店で、二種類の香りを確かめていた。
店番のロボットが、乾いた葉の入った小さな器を差し出す。
「こちらは、少し香ばしい仕上がりです」
「……確かに。甘いものにも合いそうですね」
いつもなら、飲む人数や用途を先に考える。
来客に出せるか。
どの菓子と合わせるか。
けれど今日は、その前に、自分が好きかどうかを考えた。
香りをもう一度確かめる。
「こちらを、一つお願いします」
店を出たあと、隣の土産物屋で、鉄道の絵葉書が目に入った。
小さな列車が、湖を見下ろす斜面を登っている。
ナギサは一度通り過ぎた。
それから、戻った。
◇
ミカは雑貨屋で、木製の小さな船を見つけた。
手のひらに乗るほどの大きさで、船体には湖の名前が焼き印されている。
昨日乗るはずだった船に、少し似ていた。
手に取り、横から眺める。
店員に「贈り物ですか」と尋ねられ、ミカは少し考えた。
「……ううん。私の」
包んでもらった箱を鞄へ入れ、そのあと、写真を印刷できる機械の前へ向かった。
昨日までに撮った写真を順番に見る。
蕎麦。
駅舎。
窓辺のナギサ。
山道で木に触れているセイア。
雨の休憩所で並んだおにぎり。
遊覧船の写真は、ない。
それでも、選ぶのには時間がかかった。
◇
セイアが広場へ戻った時、ナギサはもう来ていた。
時計台の下で、小さな紙袋を持っている。
「早いね」
「セイアさんこそ」
「本が見つかったよ」
「そうですか」
互いの買ったものを、それ以上はすぐに見せなかった。
別々に過ごした時間が、まだそれぞれの手の中にあった。
やがてミカが現れた。
「お待たせ!」
「時間通りだよ」
「ほんと? 写真選んでたら、思ったよりかかっちゃった」
彼女の鞄から、写真店の封筒が少し覗いている。
ナギサが時計を見た。
「では、行きましょうか」
三人で歩き出す。
セイアは、その時初めて、一人で歩いている間にも少しだけ二人を探していたことに気づいた。
面白い本を見つけた時。
路地の向こうに、湖が見えた時。
話しかけようとして、隣に誰もいないことを思い出した。
一人歩きが寂しかったわけではない。
ただ、待ち合わせの場所へ戻る足は、店へ入る時より少し軽かった。
◇
貸しボート乗り場には、色の違う白鳥が並んでいた。
白いもの、淡い青のもの、くちばしだけが妙に鮮やかなもの。
ミカはそれらを見比べ、ナギサへ尋ねた。
「どれにする?」
「選べるのですか?」
「空いてるのならいいって」
ナギサは、白い船体に青い屋根のものを指した。
「あちらが……」
「決まり!」
係員に三人乗りの艇へ案内され、説明を聞く。
前に二人が座り、ペダルを漕ぐ。後ろに一人分の座席がある。
「私は後ろで構わないよ」
セイアが言う。
「では、私とミカさんで」
「任せて」
その返事に、ナギサがすぐ顔を向けた。
「ゆっくり、お願いしますね」
「分かってるってば」
桟橋を離れた時点では、順調だった。
問題は、そのあとだった。
「ナギちゃん、ちょっと右じゃない?」
「こちらでしょうか」
「それ、行きすぎ!」
「では、左へ――」
「戻しすぎ!」
白鳥は、緩やかな曲線を描いた。
それから、もう一つ曲線を描いた。
セイアは後部座席で、岸との位置関係を見た。
「……同じ場所へ戻ってきたようだね」
ナギサがハンドルを持ったまま黙る。
ミカも、振り返って桟橋を見た。
係員が、少し遠くから手を振っていた。
「応援されていますよ」
「笑ってない?」
「笑ってはいないようだが、こちらの努力は伝わっているらしい」
ミカがとうとう吹き出した。
つられて、ナギサも笑った。
ハンドルから手を離しかけ、慌てて持ち直す。
「笑わせないでください」
「ナギちゃんも笑ってるじゃん」
「ミカさんが――」
「二人とも。進路は、前だよ」
セイアの指摘で、ようやく白鳥は湖の方へ向きを揃えた。
◇
少し沖へ出ると、岸の音が小さくなった。
人の声も、自転車のベルも、水の上では遠く聞こえる。
足元から、ペダルの機械的な音がした。
風は穏やかで、湖面に細かな皺を作っている。雲の切れ間から差した日が、場所を変えながら水を照らしていた。
ナギサの漕ぐ速さが落ちた。
「……少し、このままでいてもよろしいですか」
ミカが横を見る。
セイアも顔を上げた。
「漕がずに?」
「ええ」
「いいよ」
ミカは足を止めた。
白鳥は、残った勢いで少し進み、それからゆっくり水に揺られ始めた。
ナギサはハンドルに手を添えたまま、湖の先を見ていた。
誰も、次の予定を確認しなかった。
セイアは屋根の隙間から空を見た。
昨日の雲が、まだいくつか残っている。
完全に晴れてはいない。
湖も、雑誌のような橙色ではなかった。
けれど、光の通るところだけ、薄い銀色になっていた。
「……ナギちゃん」
「はい?」
「これ、乗りたいって言ってくれてよかった」
ナギサはすぐには返事をしなかった。
それから、少し照れたように言った。
「私も、言ってよかったです」
ミカが笑う。
セイアは、その横顔を見ながら、端末を取り出した。
「二人とも、こちらを向いてもらえるかな」
「写真?」
「ああ」
ナギサとミカが振り返る。
シャッターを押す。
写真の中央には二人がいて、その頭上に白鳥の屋根があり、隅に少しだけ湖が写った。
ミカが画面を覗き込む。
「セイアちゃん、また景色ちょっとしか写ってない」
「……そういう構図が好きなのかもしれないね」
「じゃあ、次は私」
ミカが端末を受け取り、腕を伸ばす。
セイアが後ろから少し身を寄せ、ナギサも中央へ顔を近づける。
三人の顔が入った。
白鳥のくちばしも、無理やり入った。
湖は、ますます少なくなった。
◇
桟橋へ戻る頃には、ナギサの操舵はかなり上達していた。
ミカが感心する。
「ナギちゃん、もう大丈夫だね」
「少し、加減が分かってきました」
「模型も本物も、繰り返しが大切らしい」
「セイアさん、それはまだ覚えていらっしゃるのですね」
「忘れるには、少々よい場面だったのでね」
係員が手を伸ばし、船を岸へ寄せる。
降りようとした時、ナギサが名残惜しそうに湖を見た。
ミカはそれに気づいた。
「……もう一回、来る?」
「いえ。今日は、十分です」
そう答えてから、ナギサは付け加えた。
「次に来た時には、最初から真っすぐ進めると思います」
ミカは、嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、次もナギちゃん運転ね」
◇
最後の夜は、町の洋食屋で夕食を取った。
この日だけは宿の夕食をつけず、歩いて見つけた店に入ることにしていた。
窓に小さな灯りがともる店で、外の黒板には、ハンバーグ、オムライス、野菜のグラタンと書かれている。
ミカはハンバーグ。
セイアはきのこのオムライス。
ナギサはグラタンを選んだ。
「……これ、すごく迷うね」
ミカが注文したあとで言う。
「まだ迷っているのかい?」
「オムライスもよかったなって」
「来ると思ったよ」
セイアは小皿を一枚頼んだ。
ナギサも、同じようにした。
料理が運ばれてきた時、店員の学生は、三枚の小皿がすでに中央へ並んでいるのを見て笑った。
「取り分け用ですね」
「ええ。どうやら、そのようです」
オムライスは、薄い卵で丁寧に包まれていた。
スプーンを入れると、中からきのこの混じったご飯が現れる。かかっているのは赤いケチャップではなく、少し濃い色のソースだった。卵は柔らかいが流れ出すほどではなく、ご飯と一緒にすくうと、きちんと形が残った。
ミカのハンバーグには、丸いじゃがいもと人参が添えられていた。切り分けると肉汁が皿へ広がり、ソースと混ざる。
ナギサのグラタンは、表面にきれいな焼き色がついていた。
「こちらは、少し冷ましてからの方が」
「分かってる」
ミカはそう言いながら一口食べ、すぐに黙った。
ナギサが水を寄せる。
セイアは、笑わないようにするのに少し苦労した。
「……熱かったね」
「うん」
しばらくして、ミカがようやく息をつく。
「でも、美味しい」
店の壁の時計が、ゆっくり針を進めている。
厨房では食器の触れ合う音がし、隣の席では、旅の途中らしい学生たちが地図を広げていた。
この店の料理が町の名物なのか、三人とも知らなかった。
ただ、歩いていて、美味しそうだと思った。
その決め方にも、ナギサはもう、何も言わなかった。
◇
食後、三人は湖岸の遊歩道へ出た。
夕日はすでに山の向こうへ隠れていた。
空の低いところだけが淡く明るく、その上にゆっくり夜の色が重なっていく。
遊覧船の乗り場は、静かだった。
昨日乗るはずだった船は係留され、窓の内側に灯りが一つついている。案内板には次回の運航日が書かれていた。
ミカが足を止めた。
ナギサとセイアも、少し遅れて止まる。
「……大きいね」
ミカが言った。
「ああ」
「乗ったら、上から湖が見えたんだろうな」
「そうだろうね」
セイアは、別の景色の話へ変えなかった。
白鳥のボートもよかった。
今日も楽しかった。
けれど、今ミカが見ているのは、この船だった。
しばらく三人で眺めてから、ミカは鞄へ手を入れた。
小さな箱を出す。
中には、木製の船が入っていた。
「これ、買っちゃった」
ナギサが目を細める。
「よく似ていますね」
「でしょ」
「部屋に飾るのかい?」
「うん」
ミカは箱へ戻しながら、少し笑った。
「次、これ見て、思い出せるように」
何を、とは言わなかった。
乗れなかったことかもしれない。
乗りたかったことかもしれない。
また来たいと思っていることかもしれなかった。
◇
乗り場から少し離れたところに、ベンチがあった。
三人で座ると、ちょうどいっぱいになった。
湖の向こうで、宿や店の灯りが一つずつ増えていく。
水面が動くたび、その灯りも縦に伸びたり、途中で切れたりした。
セイアは膝の上で手を重ねた。
「……前の旅ではね」
ミカとナギサが、そちらを見る。
「こうして座っている時、何を話そうか考えていた」
「誰に?」
「帰ってから会う人たちに。君たちにも、先生にも」
「食べ物の話?」
「それも含めて、だね」
ミカが笑う。
セイアは湖へ視線を戻した。
「今日は、その相手が隣にいる。だから、何を持ち帰ればいいのか、少し分からなくなる」
「全部覚えておけばいいじゃん」
ミカが言った。
「全部は、難しいでしょう」
ナギサは穏やかに答える。
「そう? じゃあ、三人で分ければいいよ。私が忘れても、ナギちゃんが覚えてるかもしれないし。セイアちゃんが覚えてることもあるでしょ」
セイアは二人を見た。
「……なるほど」
「何ですか、そのお顔は」
「サンドイッチと同じだと思ってね」
「え?」
「何でもないよ」
夜風が少し冷たくなった。
ナギサが上着の前を合わせ、ミカが両手を膝の下へ挟んだ。
立ち上がるには、ちょうどよい頃合いだった。
けれど、誰もすぐには動かなかった。
空に、星が一つ見えた。
ミカが指を上げかける。
その前に、ナギサが言った。
「見えていますよ」
「セイアちゃんも?」
「ああ」
ミカは手を下ろした。
三人で、同じ小さな光を見た。
◇
宿へ戻ると、最後の夜の布団が並んでいた。
ミカは中央に座り、昼間印刷した写真を広げた。
古い駅舎。
山道。
雨の中の休憩所。
窓辺のナギサ。
工房で、白いカップを前に考え込んでいるセイア。
「これ、いつ撮ったんだい?」
「セイアちゃんが湖を途中で終わらせる前」
「……記録が細かいね」
ナギサは、雨の休憩所の写真を手に取った。
三つのおにぎりの包みと、紙コップ。
端には、濡れたミカの袖が写っている。
「この時、お茶をもっと多く持ってくればよかったと思ったんです」
「十分あったよ」
「君が温かいものを持ってきてくれて、助かった」
セイアが言うと、ナギサは写真へ目を落としたまま、軽く頷いた。
ミカは駅舎の写真を持ち上げる。
「これ、私の好きなやつ」
「ナギサの運転記念だね」
「三人の記念写真です」
訂正は、初日より少し弱かった。
写真を分け、明日の荷物をまとめる。
セイアの鞄には、新しく買った本が増えた。
ナギサの鞄には、茶葉と絵葉書。
ミカの鞄には、木の船と、写真の残り。
出発した時より、どれも少し重くなっていた。
「……明日、帰るんだね」
ミカが言った。
「ええ」
「まだ、帰りの列車があるよ」
セイアが答える。
「そうだけど」
ミカは畳の上へ両手をついた。
「もうちょっと、ここにいたいかも」
ナギサが、閉じかけた鞄の手を止めた。
それから、小さく頷く。
「私もです」
その返事に、ミカは少し目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日の朝も、急がないでご飯食べよ」
「列車に間に合う範囲で、お願いしますね」
「はーい」
セイアは本を枕元へ置いた。
今夜も、おそらくそれほど読めない。
それでよかった。