最後の朝、セイアは二人より早く目を覚ました。
障子の向こうが、薄く明るい。
ミカはまだ眠っていた。ナギサも、いつもより少し深い眠りの中にいるようだった。
セイアは音を立てないように起き上がり、上着を羽織った。
机の上へ、宿の便箋を一枚置く。
『湖岸を少し歩いてくるよ。七時までには戻る。セイア』
それから、部屋を出た。
◇
朝の湖は、昼とも夜とも違っていた。
向こう岸には薄い靄が残り、建物の下半分を隠している。空の明るさが水面に映っているのに、日差しはまだ直接届いていなかった。
遊歩道には、ほとんど人がいない。
遠くで、宿の誰かが落ち葉を掃く音がした。
セイアは、昨日三人で座ったベンチの前を通った。
今は誰もいない。
同じ場所なのに、昨夜の会話が残っているように見えた。
ひとりで歩く。
足を止める。
誰にも断らず、湖を眺める。
それはやはり、心地よかった。
三人で来たからといって、この静けさが不要になるわけではない。
セイアは欄干へ手を置き、ゆっくり息を吸った。
最初の一人旅へ出た時、自分がこうしてまた、別の湖の朝を見ていることは知らなかった。
その部屋で、ナギサとミカが眠っていることも。
ナギサが模型の列車を何度も走らせることも、ミカが雨の日に折り目のついた切り抜きを握っていることも、もちろん知らなかった。
知っているつもりの相手にも、旅先で初めて見る顔がある。
セイアは端末を取り出し、朝の湖を一枚撮った。
今度は、景色だけを。
それから時刻を確かめ、来た道を戻った。
◇
部屋の扉を開けると、湯の沸く音がした。
ナギサがテーブルの前に座り、お茶を淹れている。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「冷えませんでしたか?」
「少しだけね」
ナギサは、セイアの分の湯呑みを置いた。
その横には、置いていった便箋がある。
何も叱られなかった。
行き先も、帰る時刻も、伝えていたからだ。
ミカは布団から顔だけを出した。
「……セイアちゃん、散歩してきたの?」
「ああ」
「起こしてくれてもよかったのに」
「起きられたかい?」
「……たぶん」
ナギサがカップを持つ手を止めた。
「先ほど、二度お声がけしましたが」
「それは……今じゃなかっただけで」
「朝食までは、まだ少しあるよ」
セイアは窓辺へ座った。
「湖の写真なら、撮ってきた」
ミカが布団から出てきた。
「ほんと? 今度こそ湖?」
「今度こそ、湖だよ」
三人で画面を覗き込む。
薄い靄。
明るくなり始めた水。
誰もいない遊歩道。
「きれい」
ミカが言った。
ナギサも頷いた。
「こんなふうに見えるのですね」
セイアは、その二つの声を聞いてから、もう一度写真を見た。
さっきまで自分しか知らなかった朝が、少しだけ三人のものになった。
◇
朝食は、焼き魚ではなく、厚い卵焼きが主役だった。
小さな器に盛られた野菜の和え物と、豆腐の味噌汁。海苔と漬物。炊きたてのご飯。
ミカはまだ少し眠そうだったが、味噌汁を一口飲んだところで目が開いた。
「……美味しい」
「目が覚めたようだね」
「うん」
ナギサは卵焼きを切り分け、口へ運ぶ。
昨日のだし巻きより、少し甘かった。
「こちらも、いいですね」
「ナギちゃん、卵気に入った?」
「もともと好きですよ」
「そっか」
ミカは、自分の卵焼きを見た。
それから何となく嬉しそうに、一口食べた。
ご飯のおかわりを尋ねられ、三人とも一度迷った。
最初に頷いたのは、ナギサだった。
「少なめに、お願いします」
ミカが顔を上げる。
「じゃあ、私も」
セイアは少し考え、空になった茶碗を差し出した。
「……同じく」
「セイアちゃん、帰りも何か食べるんじゃないの?」
「それは、帰りに考えることにしよう」
ナギサが、ついに声を出して笑った。
◇
宿を出る時、主人が三人へ頭を下げた。
「ありがとうございました。また、皆さんでお越しください」
ミカはすぐに、
「また来るね」
と答えた。
ナギサは少し微笑み、セイアは一度、窓の並ぶ建物を振り返った。
昨日まで、自分たちの部屋だった場所。
今夜は、別の誰かが泊まるのかもしれない。
その誰かも、あの窓から湖を見るのだろう。
駅へ向かう道を歩く。
初日、道を確かめながら進んだ角を、今度は迷わず曲がった。
蕎麦屋の前を通り、古い駅舎の屋根が見え、時計のある広場を抜ける。
知らなかった町の中に、知っている場所が増えていた。
ミカが足を止め、何かを撮った。
「何ですか?」
「道」
「道?」
「最初にナギちゃんが確認してたところ」
「……ミカさん」
セイアは笑いながら、二人の少し先を歩いた。
背中へ、いつものやり取りがついてきた。
◇
帰りの列車でも、席は交代制になった。
けれど、一時間ごとという決まりは、ほとんど守られなかった。
ミカが眠くなったので窓側へ移り、ナギサが川を見るために反対側へ座り、セイアは本を開いたあと、二人に呼ばれてまた閉じた。
湖が見える最後の区間で、ミカが顔を上げた。
「あ、もう見えなくなる」
三人で窓を見る。
木々の間に、光った水面が現れた。
一度隠れ、また少し見え、それから山の陰へ消えた。
ミカが、行きと同じように小さく手を振った。
今度はセイアも、迷わず振った。
ナギサは二人を見てから、窓の下で、控えめに手を上げた。
◇
昼を過ぎた頃、ナギサが駅で買っておいた包みを出した。
三人分の小さなお弁当だった。
炊き込みご飯と、焼いた鶏肉、煮物が少し。大きすぎないものを選んだのだという。
「朝、おかわりをしましたので」
「考えられてるね」
ミカが感心する。
セイアは蓋を開け、少し笑った。
「最後まで、食べ物には困らない旅だったね」
「セイアさんがご一緒ですから」
「私のせいということかい?」
「いいえ」
ナギサは、自分の弁当へ箸をつけた。
「食事の時間を楽しみにするのは、よいことだと思いました」
セイアは、少し意外そうに彼女を見た。
ナギサはその視線に気づき、何事もなかったように続ける。
「ただし、食べすぎには気をつけてください」
「最後の一言は、必要だったかな」
「必要です」
ミカが笑った。
そして、煮物の人参を食べながら言った。
「次、どこ行く?」
ナギサが箸を止める。
「まだ帰宅もしていませんよ」
「考えるだけ」
セイアは窓の外を見た。
知らない駅名が、後ろへ流れていく。
「……本屋の多い町も、面白そうだね」
「いいね。ナギちゃんは?」
ナギサは少し考えた。
「湖へ、もう一度でも」
ミカがぱっと顔を上げた。
「船?」
「ええ」
「じゃあ、それも候補ね」
ミカは旅程表の裏を取り出した。
もう用事を終えたはずの紙に、まだ書けるところがある。
鉛筆を持ち、次の旅の候補を一つだけ書いた。
◇
旅から戻ると、日常はきちんと待っていた。
机には書類があり、予定表には用事が並び、談話室にはいつものカップが置かれている。
ナギサは仕事へ戻り、ミカは旅の写真を何度も見せ、セイアは列車で読み終えられなかった本を少しずつ読んだ。
先生へ渡したお土産は、三人で選んだ焼き菓子だった。
添えた写真には、湖よりも大きく、白鳥のくちばしが写っていた。
返ってきた感想は、
『三人とも、いい顔をしてるね』
だった。
ミカはそれを読んで、満足そうに笑った。
ナギサは「少々慌ただしい写真でしたが」と言い、セイアは何も訂正しなかった。
◇
数日後、談話室へ一枚の絵葉書が届いた。
小さな列車が湖を見下ろす斜面を登っている。
宛先は、ティーパーティーの談話室。
裏には整った文字で、
『今度は、船に乗りましょう。』
と書かれていた。
署名を見たミカが、ナギサへ顔を向ける。
「いつ出したの?」
「……別行動の時です」
「自分たちに?」
「旅先から、何かを送ってみたかったので」
ミカはしばらく絵葉書を眺め、それから、談話室のよく見える場所へ立てた。
ナギサは少し恥ずかしそうにしていたが、片づけてほしいとは言わなかった。
◇
さらに何週間かして、工房から荷物が届いた。
三つのカップ。
包みをほどく時、ミカは出発の日と同じくらい楽しそうだった。
「来た!」
「割れ物ですから、慎重にお願いします」
「分かってるってば」
薄紙の下から、青い湖が現れた。
セイアの線は、焼く前よりも少し深い色になっていた。途中に残した白い部分は、思ったよりも雲らしく見えた。
ナギサの草の模様は、細いまま残っている。よく見ると一本だけ、葉の向きがほかと違った。
ミカのカップには、三人の後ろ姿と、大きな岩があった。
「……岩、大きいね」
本人が言った。
「立派な目印になっていますよ」
「待ち合わせに便利そうだ」
「二人とも、絶対ちょっと笑ってるでしょ」
底を返す。
三人の名前と、あの日の日付。
セイアは、筆を持っていた工房の午後を思い出した。雨上がりの坂道も、土の匂いも、何を描こうか分からずにいた時間も。
ナギサがお茶を淹れた。
旅先で、自分のために選んだ茶葉だった。
三つのカップへ注がれると、香ばしい匂いが談話室に広がった。
ミカは木製の小さな船を持ってきて、テーブルの端へ置いた。
セイアは、古本屋で買った本を鞄から出した。
ナギサは、それを見て尋ねる。
「読み終わりましたか?」
「ああ。最後の話が、なかなかよかった」
「どんなお話?」
ミカが身を乗り出す。
セイアは少し考えた。
「旅から帰った人が、次の旅の支度を始める話だよ」
「私たちじゃん」
「少し、似ているね」
ミカが笑う。
ナギサも、カップを持ったまま目を細めた。
テーブルの上には、三人がそれぞれ選んだものが並んでいる。
少し不揃いなカップ。
小さな船。
一冊の本。
遠くから送られてきた、見覚えのある字の絵葉書。
旅先にいた時には、どれも別々の場所にあったものだ。
今は、ここにある。
「ねえ」
ミカが言った。
「次の予定、ちょっとだけ考えない?」
「少しだけですよ」
ナギサが答えた。
「前は、そう言って夕方までかかりましたから」
「今日はお茶もあるし」
「お茶があればよいというものではありません」
セイアは、自分のカップを持ち上げた。
指先に、焼き上がった陶器の滑らかさが触れる。
「まだ、何も決めなくてもいいんじゃないかな」
二人がこちらを見る。
セイアは笑った。
「行きたいところの話をするだけでも、十分楽しいよ」
ミカが頷き、ナギサが地図を一枚持ってきた。
今度も、それはテーブルの真ん中へ置かれた。
まずミカが、湖を指した。
ナギサはその指の隣に、自分の指を置いた。
セイアは少し離れた町を示そうとして、途中で手を止めた。
「……そうだね」
まだ乗っていない船がある。
見ていない夕日がある。
二人と一緒に、もう一度歩いてみたい道もある。
セイアの指も、同じ湖へ下りた。
三つのカップから、ゆっくりと湯気が上がっていた。